企業労働の現場と労働エートス

1 はじめに
2 「銀行労働の記録」の分析
  2.1 職場の「空気」
  2.2  仕事を覚える
  2.3  電話応対とプレッシャー
  2.4  「ミスが許されない」「迷惑をかけられない」
  2.5  職務分担のあいまいさ
  2.6  上司と部下の関係
3 まとめ


1 はじめに

 最近、企業労働についての貴重な資料となる画期的な論稿が、『労働社会学研究』誌上に発表された。それは、榎本環による「銀行労働の記録―参与観察法調査・ホワイトカラーの勤労意識―」と題する研究ノートである。この記録は榎本自身の体験を自己観察し、「一銀行員が日常的な労働過程の中で経験した具体的な“状況”とそれらに対する彼の主観的表象を生活史的観点に立って記述したものである」。大企業における職場生活および労働者の内面を追体験的に理解するための基礎資料を提示しようとするこの記録に基づいて、榎本のいう「労働エートスの構成要素・条件」に関わるひとつの議論を展開してみよう。
 本稿の記述としては、記録原文の部分的な引用の後にコメント風の論評を加えるというやや非体系的な方法を採った。それは、記録者の内面を追いながらそれに基づいて徐々に理解を深めていくためであり、考察の前提となる何らかの先入観をできるだけ排除しようとする意図にもよる。なお、引用文以外で榎本個人についてふれるときには「記録者」と表記している。
 以下の引用文では、原文の精彩ある表現を損なうことのない範囲で最小限の要約を施した箇所があることを断っておく。括弧内の数字は、『労働社会学研究』 1(日本労働社会学会,1999年,東信堂)からの引用ページである。

2  「銀行労働の記録」の分析

2.1 職場の「空気」

  1989年4月1日。初出勤。 電話でのやりとりの会話、OA機器の音。皆が必死になって机にむかっている。電光掲示板にリアルタイムで点滅するレートの数字。一歩足を踏み入れた途端に張りつめた空気に一瞬圧倒される。雑談などもってのほかだというような厳粛な空気が張りつめている。(28)

 会社勤めの経験がある者ならば、誰しも身に覚えのあるはずの初出勤のときの、あの緊張感。初めての職場に足を踏み入れた時に感じるのは、何よりも肌身に触れる「空気」である。それが、張りつめた厳粛なものであれば、これから始まる労働生活が緊張に満ちた、それでいてやりがいのあるものであることを予感させる。だが、まずは最初の組織労働の体験が、職場の空気を感じ取ることから始まることは、十分に注目しておくべきである。
 この記録で頻繁に使われる語のひとつである「空気」は、それを司っている明確な権力構造といったものからでは、説明しがたいのである。その空気のなかで、「自分もバリバリ働くぞという意気込みが俄然湧いてくるのを感じる」のである。

 次に、配属された部で、部長・副部長との2対1の面接を受ける。とりわけ部長は近寄り難い威厳を放っている。(28)

 空気といい、威厳といい、ある意味でそれらはそれを感じ取る側にのみある主観的なものともいえる。「部長の威厳」は、部長という地位やその人の人格に伴ってあるのだろうか。それとも、部長と新入社員である記録者との関係において、記録者自身の意識に生じている事態なのであろうか。また、威厳や空気は、それを感じ取ることのできる人にしか感じられない、あるいは、人によって感じられ方が違うといういいかたもできよう。
 空気は「張りつめている」のであり、威厳は「放たれている」というのは、その場におかれた人の主観に映じるものでありながら、あたかも全体の状況を包み込むような形で、空気や威厳が感じ取られることを物語っている。しかし注意すべきは、「空気」が、その場に居合わせるすべての人々を包み込んで成り立っていると感じられるのに対して、部長の「威厳」は、部下と上司という人間関係の中でこそ、記録者当人にとっても痛切に感じられるのだということである。

 入社研修で経済新聞の読み方の指南を受ける。取引先の慶弔事のために、死亡広告に必ず目を通すように習慣づけられる。(28)
 新人研修の一環で電算センターへグループ見学に行く。直前の研修スケジュールが延びてしまったので、現地到着が5分程度遅くなってしまった。早速、迎えの副所長に一喝される。「なぜ遅刻した!・・・・君たちの5分と私の5分とでは価値が違うのだ。」言い訳が認められる余地はなく、最終的には私たちの責任になってしまうのだ。この不条理に黙って堪えなければならないのだ。(28−29)

 研修で記録者の印象に残っているのは、一見ささいなそれでいて何かしら腑に落ちない企業の日常である。なぜ、新聞の死亡記事がそれほど重要なのか。なぜ、自分たちの責任でない遅刻にきつく注意されるのか。日本社会の「しがらみ」だ、「自分を無にしなくては」と、いろいろ考えるのだが、憂鬱さと厳しさ辛さは隠しようがない。企業の教育も含めた管理は、このような何げない日常のひとこまひとこまに織り込まれているのであり、とりたてて権力性として意識されないところに特徴がある。その中で、一歩一歩企業人へとつくりあげられていくのだろうか。

 数ヶ月間の支店研修に出る。出社早々、「支店長のところに挨拶に行ったか」と聞かれる。一瞬その言葉の響きに気が滅入るが、よくよく冷静に考えてみるとそれが世間の常識から外れるものではないことに気づく。これからは、集団の中での自分の位置を絶えず自覚しなければならない。そして、組織の一員としての自分の立場を自らに引き受けねばならないのだ。(29)

 慶弔事、遅刻の厳禁、上長への挨拶、「世間の常識」にもとづいて企業生活が律せられていく。「集団の中の自分」「組織の一員としての自分」が自覚されてゆくのは、堅苦しいかに見える企業内でのしつけによる規律を通してである。

2.2 仕事を覚える

 預金・国内為替業務を担当する課の一員としてデビューする。これまで研修を受けてきたとはいえ、具体的に何をどうするという作業レベルでの指示は受けていないし、第一、専門用語がさっぱりわからない。ベテランの女性から注意を受ける。「・・・・覚えるべき仕事はいっぱいあるのよ!」。言葉の使い方にカチンときて、一瞬口応えしたくなる衝動に駆られる。一歩譲って、その言葉を冷静に受けとめてみる。教わる機会を受け身で待っていてはいけないのだ。わからなくても、先輩の仕事を奪ってでも、とにかく自分で手をつけてみることの方が先なのだ。自分から仕事を見つけていかねばならないのだ。(29)

 記録者は常に、注意の言葉に対して「一瞬」否定的感情を伴った反応を心の内に起こす。だが、それを押し殺し我慢したうえで、「冷静に」いわれたことを受けとめてみようとする。すると、いわれることももっともだと納得せざるをえない。いったん引き下がって考え直してみると、それほど理不尽なことをいわれているのではないと感じてしまうこの物分かりのよさは、どこからくるのだろうか。合理的な注意事項であるとしたら、それが否定的感情を引き起こすのはなぜだろうか。入社以来、記録者は、どこか今までに経験された世界とは違う異質な何かを企業生活の中に垣間見てきた。
 また、具体的な作業レベルでの指示がない中で、「自分から仕事を見つける」というのは、周囲の状況を観察しつつとにかく手を出してみること、分からないながらも見ようみまねでやってみること、つまり誰かの命令をじっと待っているのではなく、自分で進んで行動することを意味する。これは果たして、企業管理のもとで働かされているということに等しいのだろうか。自主的行動を強制するという一見矛盾した要請を支える原理は何なのだろうか。

 手始めに、電話応対に挑戦してみる。電話の用件のうち主なものは、指名される各担当者への取り次ぎ、残高照会、振込の照会等である。耳にする言葉の殆どが未知のものだ。用語の意味や、照会事項を調べる方法について、周りの先輩に教えを請わねばならない。手を持て余し気味の先輩など一人もいない。どの先輩に尋ねるかが重大な問題になる。その人の不得手なことを質問して気まずさを与えないようにと気を使う。いつも快く指導に応じてくれる先輩が、人一倍の仕事量を抱えていることに後になって気づくとき、救いと謝意を感じ、頭の上がらない思いがする。(29−30)

 電話照会であっても、未知の言葉ばかりであって、マニュアルにすべてが書かれているわけでもなく、いちいち調べている余裕もない。知っているのは周りの先輩であろうから、その人に聞くしかない。とはいっても、先輩も大量の仕事を抱えており、後輩の指導として特別の時間を割くわけにはいかない。いわば、仕事の合間のボランティア教育だ。だから、「教えを請う」のはその人の好意にすがるようなものであって、気まずくならないように気を使って先輩に相対しなくてはならない。当然、相手の忙しさや虫の居所があるわけで、聞くタイミングや教えてくれる人を選ぶことになる。快く指導してくれる先輩には、多大な感謝の念を抱く。それは、先輩に質問して指導を受けるという行為が、確立されたルールに基づく公式的な仕事の一部だとはみなされず、あくまで先輩個人の好意によるものだと感じられるからである。自分を救ってくれる恩恵に対しては、「頭が上がらない」のである。

 「一回しか説明しないから、それで覚えなさい」とあちこちで耳にする。初めてのことを、一回だけの説明で理解するのは、至難の業に思える。恐らく先輩たち自身も、かつてこの同じ言葉に同じ思いを抱きつつ教育を受けてきて、今また同じ言葉を私たちに対して繰り返しているのだろう。(30)

 企業労働の個々の仕事はすべてが定式化されているはずもなく、その場その場で対応しつつ、自分で覚えていかなくてはならない。もちろん、わからないことは先輩に聞くしかないのだが、何度も繰り返し質問することは煙たがられる。「一回の説明で覚えろ」この指導法は、言葉通りの意味よりも、それだけの真剣さと緊張感をもって聞き取ることを求めているのと、多くの場面での多様な仕事を状況に応じてこなせる応用力を習得することを要請している。膨大な仕事を事細かに指導してもらって覚え込むのではなく、“一を聞いて十を知る”という姿勢で臨機応変に仕事をこなしていく必要があるのだ。

2.3 電話応対とプレッシャー

 残高照会。電話口の顧客を極力待たせてはいけないというプレッシャーが強迫観念のようにのしかかる。曖昧な回答は銀行の信用を損なう問題にもなりかねない。煩雑な照会作業であっても、顧客に対して憂鬱な心情を口調に匂わせるわけにはいかない。横柄な口調や要領の得ない顧客であっても、こちら側の憂鬱を応対の言葉の端々ににじませることのないようにと気を使う。(30)
 どんな顧客であれ、待たせることには気が引けるし、全てに迅速な対応を心掛けることがサービス業の基本だと常に自分の肝に銘じて仕事に臨む。(31)

 銀行の仕事は内部だけでは完結していない。常に顧客という外部者と接している。電話であれ、窓口であれ、顧客に最大のサービスを尽くすのが本来の業務である。彼らに対しては、いかに内部事情が繁忙を極めていようとも、不愉快さを感じさせてはならない。また、極力迅速に対応しなくてはならないという思いは、つねにプレッシャーとしてのしかかり強迫観念のように記録者を責めたてる。ミスのないように、失礼のないように、銀行の信用を落とさないように、細心の注意をもってしかも時間との戦いの中で仕事を処理していかなくてはならない。だが、この観念を生み出したのはどのような要因によるものだろうか。
 記録者は、ささいに思える先輩の注意や仕事そのものの切迫した状況の中で、「自分の肝に銘じて」業務に全力を挙げている。周囲の緊迫感は、自然と新入社員を鍛え上げてゆく。それはもはや、「強迫観念」として彼の内面に定着しつつある。「気を使う」、これは記録者の仕事における意識や勤労態度の根底を貫く重要な言葉である。

 店に外線から電話がかかると、交換機の呼び出し音が各フロア中にけたたましく鳴り響く。サービス業の基本として、3回目の呼び出し音までには電話に出ることを研修を通じて習慣づけられた。誰も取らずに5回目、6回目と鳴り続けるベルの音を耳にすると、条件反射のように、すぐに電話を取らなければという強迫観念に突き動かされる。(31)

 条件反射的に電話を取るように記録者を突き動かす強迫観念は、果たして研修での習慣づけによってのみ、生み出されてきたものであろうか。自分の担当と決まっているわけではない電話に、いや決まっていないからこそ、誰も取らないで鳴り続けるベルの音に反応して、自分を責めたてるような強迫観念に襲われるという心の動きに着目すべきなのである。

 スムーズに完結して受話器を置く瞬間はささやかな達成感を感じる。自分も会社の一員としての仕事をしているという自己満足感を味わう。時には通話の最後に顧客から労いの一言をもらうこともある。その瞬間、無上の歓びを味わう。全ての苦心惨澹がそのたった一言で報われる思いがする。(31)

 電話応対とはいえ直接顧客を相手にするのだから、話が滞りなく収まり、顧客からも「ご苦労様」の一言でももらえれば、会社の一員として仕事を達成した満足感を抱くのは当然である。仕事の満足感をもたらすものとして、お客様に喜んでもらえることを挙げる人は多い。
 顧客の喜びが自分の仕事の満足感につながるというのは、その仕事が顧客という他者との対人的な関係のなかで行われ、決して自分の手許で孤立して収束するのではないことを意味している。だから、仕事の結果が金銭的報酬の多寡や仕事そのものの面白さによって測られる局面をこえて、他者の満足へと志向することがありえる。仕事の苦労が顧客の労いの一言によって報われるように感じるのは、人間関係における他者への配慮ともつながることである。

 上司から直接指示されて電話番をやっているわけではない。私を含め、特定の誰かに割り当てられた任務でもない。いわばボランティアによって遂行されている仕事だ。しかし、電話を取るのが特定の人に偏りがちになって、しかも誰もそれを問題としないのは何故か。そもそも職務分掌についてなんらの指示を受けることもない。結局その秩序は自然発生的なルールに委ねられていることに気づく。(31−32)

 ひっきりなしにかかってくる電話に誰がでるのか。明確な規定などあろうはずもない。とはいえ、どういった用件のどの部署への問い合わせなのかによって、大雑把にでも担当を振り分けることは不可能なのだろうか。あるいは、顧客の問い合わせの専用回線を設けることはできないのか。なぜ、職務区分ができないのか。しかも、ボランティア精神旺盛で周りを配慮しようとする人ほど、電話応対に忙しくなる。他の人は、あの人がやってくれるだろうという安易な期待から自分から電話を受けようとしない。その辺の微妙な雰囲気のような関係から自然と職務分担の秩序ができあがってしまう。

2.4 「ミスが許されない」「迷惑をかけられない」

 預金端末上の伝票入力に挑戦する。顧客の記入済み伝票から、金額と種別を端末のキーを叩いて入力する。1字でも打刻ミスがあると、訂正のための起票と入力を別途に処理しなければならない。ミスの訂正は、支店毎の事務評価の対象項目の一つである。入力作業には些細なミスも許されず、かなりの緊張を強いられる。(32)
 勘定処理には細心の注意を払う。伝票上の取引金額が個人の金銭感覚からは桁外れに大きい。自分の不注意が会社に多大な損失を与えかねない責任を常に負っている。それ以前に、自分のミスを巡って各事務担当者や顧客に連鎖的に多大な手間と迷惑を掛ける結果にもなりかねない。新人だからといってミスが許されるわけではない。(34)
 勘定処理には時間の締め切りがあって、これは絶対のものだ。例えば他行宛の振込が午後3時に数秒でも間に合わなければ取り返しのつかないことになる。銀行の信用問題にもつながる。時限に追われる中で完璧な事務が要求される。ミスの許されないシビアな作業に緊張が絶えない。(34−35)


 ミスが許されないというこの緊張感はどこから来るのだろうか。ミスの訂正が事務評価の対象となるから、つまり管理上の評価にとってミスを犯すことがマイナスの扱いをうけるからだ、という一見明白な理由によるのだろうか。ミスを犯したことへのマイナスの評価が、単に手続きの上で罰則を受けるというだけであれば、個人的な損失を被るというにとどまる。あくまで自分にとっての問題だといえよう。
 しかし、緊張度を高める要因となっているのは、自分のミスが会社に大きな損失を与えるのだという自覚と責任感である。しかも、周りの関係者に多大な手間と迷惑を掛けることへの恐れが、その背景にあると推察される。例えば、振込が時間の締め切りに数秒でも遅れると「取り返しのつかないことになる」というのは、自分のミスが周囲を混乱に巻き込み、銀行の信用にも関わる事態になるからである。
 だが、「迷惑をかけること」「取り返しがつかないこと」は、自分が周りの人々に及ぼす影響を常に配慮せざるを得ない状況の下で起こることである。

 上司たちも、時間に追われながら目先の仕事を切り回しているのがわかってくる。大半の次長たちは、絶えずピリピリしながら他を寄せつけない空気を漂わせている。いきおい、私の方でも極力足手まといにならないようにと細心の注意を払う。次長たちとの間には心理的に「越えがたい一線」が厳然と立ちはだかっているように感じられる。次長たちに呼ばれて連絡や指示を受ける瞬間に、毎回極度の緊張が全身にみなぎる。自分でも不思議なほどだ。(36)

 上司に対する心理的な緊張感は、彼らの漂わせている緊迫した「空気」に敏感に反応しつつ、それによる萎縮ともとれる記録者の側の気遣いによって彩られている。次長たちの放つ緊迫感は、上司あるいは管理者としての地位や職務上の権限からのみ由来するのではない。近寄りがたく越えがたい壁を感じさせる上司の威厳に満ちた権威の源泉こそが、記録者とともに解明しなければならない最大の「不思議」なのである。

 処理の仕方のわからない事務が発生する。館内の各部に質問することになる。どの人が知識豊富かつ後輩の指導に好意的協力的かを記憶に刻んでおく必要がある。担当者はほぼ例外無く先輩たちである。多忙を極める彼らの手を止めさせて教示を請う形になるので恐縮する。できるだけ内線電話で済ませずに直接出向いて質問するなどの気を使う。(36)

 処理の仕方を質問する相手が先輩であり、多忙な彼らに教えを請うことは、記録者にとって「恐縮」すべき、「気を使う」べき事態である。それは、公式的なルートに従った職務上の問い合わせの形式をもっておらず、いわば相手の個人的な好意をあてにして行われる行為なのである。しかも、質問する相手が年齢も地位も上にある先輩であることは、新入の自分が彼らの好意によってお世話になることを意味し、一方的に恩恵を与えられる形になる。公式的な質問ルートが確立しているならば、質問する相手は職務として答えるのであり、記録者にとっての心理的負担も軽減するであろう。
 だが現実には、質問事項を網羅していかなる場合にも対応できるシステムを作り上げることは不可能であって、そもそも体系化された定型作業によってのみ、仕事が成り立っているわけではない。

 終始、粗相の無いように、勘定のミスを出さないようにという緊張と、迅速な対応を求められること、勘定処理の時限が迫ってくることの焦りと、対処方法のわからない案件や事務にどう手をつければいいのかというプレッシャーにさらされる。その緊迫をもたらす源泉は何かと遡っていくと、上司からの有言無言のプレッシャーや周囲の監視の目を超えて、「他人に迷惑をかけまい」とする自分の心証に行き着くように思える。自分の仕事が期限に遅れたり粗相をしたりすることで、顧客に、上司に、部内の他の人に、社内の他の部署の担当者に、迷惑をかけまいとする責任感に駆られて呻吟している自分の姿に気づく。(41)

 勘定のミスを出すとどうなるのか、対応が遅れるとどうなるのか、時限に間に合わないとどうなるのか、その時起こると予想される事態に対して、記録者はかなりの不安感を抱いている。それは、上司や周囲の管理的な圧力ではなく、「他人に迷惑をかけまい」とする自分自身の心理によるものだと、記録者は語る。だが、「他人に迷惑をかけまい」とする心の動きは、どのように醸成されてくるのであろうか。それは、直接的な管理とは無関係なのだろうか。
 ここで、記録者がプレッシャーや監視の目を「超えて」、自分の心のあり方に問題の源泉を看て取っていることに、注意すべきである。その心の動きは、自分の仕事上の行為が影響を及ぼす範囲内にある人々すべてに関わって生み出されてくる。その人が権限をもつ上司であるとか、監視者であるといったことを「超えて」、関わりをもつ人すべてに対する責任感に駆られているのである。

 自分を残業に向かわせるものは、定められた時限に間に合わない事態や準備不足による粗悪な仕事によって取引先や社内の他人に迷惑をかけられない、という倫理的な責任感に因るところが大きい。万一迷惑をかけてしまった場合の事後処理によって余分な負担を負いたくないという計算、および顧客の信用を失うことでその後の取引を不利にしたくないという計算が、それに加わる。問題を発生させることによって上司から注意や叱責を受けることに対する恐怖は二次的なものにすぎない。(43)

 仕事上の関係者に「迷惑をかけられない」という倫理的な責任感が、残業してでも万全を期した仕事を成し遂げようという方向に、記録者を導く。この倫理が、一次的に彼の仕事ぶりを方向づけ、規定するのであって、上司の叱責に対する恐怖は二次的なものにすぎない。また、迷惑をかけてしまった場合の、事後処理に要する負担や顧客との関係悪化というコストも「計算」に入るのだが、それも周囲との関係で起こってくる問題であり、決して自分一人に関わる損失ではない。つまり、倫理的にも打算的にも、自分の周りの仕事関係者としての他者に対する配慮が、問題の基底に横たわっているといえよう。

2.5 職務分担のあいまいさ

 職務分担について具体的な公式説明を受けることはない。時折、単発的に作業指示を受けるのみだ。非定型作業や単発的な作業に関して、自分が引き受けるべき仕事と他の人に頼むべき仕事の区分は殆ど本人の判断に任される。職務分掌は公的に客観的にではなく、自然発生的状況的に構築されていく。(43)

 現場での指導教育は、綿密にプログラム化された能力開発メニューに基づいてなされているわけではないし、直接に指導を受ける場面も極めて限られる。「忙しい。これ以上仕事を増やせない」と、能力の限界を自らに宣言した時点で、仕事の守備範囲は固定される。逆に、「教わる仕事」を越えて周囲の仕事を「盗んで」自らに課していけば、守備範囲はいくらでも拡がっていく。職務分掌は「あてがわれる」ものではなく、自分で「決めていく」という実状に近い。(43)

 職務分担の公式説明やプログラム化された指導はなく、単発的な作業指示があるだけで、職務分掌は自然発生的に構築されていく。それは、周囲の仕事を自らに課していくなかで、仕事の守備範囲を自分の能力に応じて限定し、仕事の区分を自主的に判断するということを意味する。職務分掌の公的・客観的な基準はなく、「自分で」決めていくというのが実状に近い。
 だが、公式的な職務分掌基準がないなかで、自分でやるべき仕事を判断するというのは、その人が個人的に(ある意味で恣意的に)仕事を進めていくことができるというのとは全く違う。むしろ、周囲の状況に応じてその場を巧みに読み取り、そこでの自分の果たすべき役割を自主的に引き受けていくことが肝要なのである。

 分業体制の下では、個々の仕事を片づけていくためには、他人の担う役割任務に多く依存せざるを得ない。職務分掌の明確な定型作業については、相手が上位者であろうが年長者であろうが、担当者に仕事を依頼するのにさほど心理的抵抗を感じることはない。事務的な依頼だけですむ。一方、非定型の仕事の場合、自力で解決すべきなのか、それともそれを当然引き受けるべき担当者が他の部署にいるのか、また、いるとすればどの担当者に依頼すべきなのか、どこまでの範囲を依頼すべきかを、まず判断する必要がある。そして、他人の職務協力を得なければどうしても自力だけでは解決できない取扱、かつ、非定型故にそれを他人に依頼することが制度的にシステム化されていない仕事については、当然のことながら、言葉を介して自ら直接相手に依頼しなければならない。その際、相手が冷たい対応をとったり、イヤミな言葉をこぼしたりしても、個人的な関係の場合のように、それにいちいち反応しているわけにはいかない。グッと堪えねばならない。逆の立場で自分が依頼を受ける場合も事情は同じだ。どんなに多忙な瞬間でも、どんなに手間の掛かる作業でも、相手が横柄な口調で依頼してくるときでも、極力不快感を表情に出さないように努めねばならない。もちろん、依頼を拒否することもできない。(43)

 定型であれ非定型であれ、個々の仕事を遂行していくには、他人との相互依存関係の下での協働が必要である。協働に際しては、言葉を介して(コミュニケーションを通して)相手に仕事を依頼する、また依頼されるという過程が伴う。だが、その依頼という行為において、記録者の感じる「心理的抵抗」とはどういったものなのだろうか。まず、定型作業については、仕事を他人に依頼するのにさほど心理的抵抗を感じないという。それは、相手の地位や年齢に関わりなく、依頼すべき仕事分担がその人の役割として職務分掌の上でも明確になっているという前提があるから、安んじて(事務的に)仕事を依頼できるということである。
 しかし、非定型作業においては、依頼すべき仕事の範囲や担当が制度的にシステム化されていないのだから、相手が依頼を受け入れるにあたって事務的に割り切った態度を示すとはかぎらない。「冷たい対応」「イヤミな言葉」が返ってくる場合もある。逆に依頼を受ける場合、多忙さ、煩雑さ、相手の横柄な口調などに対して、感情的な反応が心中に起こる。いずれの場合においても、個人的な不快感を露わにするわけにはいかない。
 職務分掌があいまいで不明確であることが、記録者に感情的なもつれを引き起こしているといえるが、それは、仕事を依頼する/されるにあたっての自他の役割に関わっていることに注意すべきである。役割分担が明確である時の安心感に比べて、誰がその仕事をどこまで担当すべきなのかという基準がないことが、心理的な抵抗を生み出しているのである。

 例えば、会社取引の用件で訪ねた取引先で、一通りの話が終わった後に突然住宅ローンなどの個人取引の相談を受ける。またある時は、当社の役員異動の詳細について、突然取引先から照会を受ける。それらの用件と突然遭遇する瞬間、自分の個人的な心情としては、「自分にはわからないから、誰か然るべき他の人に相談して欲しい」という嘆きが脳裏をかすめる。しかし、相手の立場を考えてみると、私への相談が、彼らにとってはほとんど唯一のアクセス・ルートであることに気づく。自分にとっては理不尽に思うことであっても、組織の外部から眺めれば、先の役割は明らかに自分が引き受けるべき仕事の一部である。自分自身が当事者意識をもたねばならないのだ。(44)
 またある時は、別グループの取引先から大口定期の引き合いの電話がかかってくる。とりあえず代理で用件を聞くが、担当者が何時頃帰店するかはわからない。担当者が帰ってくるまで放置してしまっては、みすみす当部の収益機会を逃すことにもなりかねない。大口定期の獲得は、短時間内での顧客との駆け引きや他行との競争のうちに成否が決まるのだ。やむなく勘を頼りにレート提示を代行し、約定に至る。後日、同じ先方から、今度は私を指名して電話がかかってきたりする。(44)
 会社内外を問わず、外部の人間には内部事情や組織構造、職務分掌は見えない。自分が外部から受けた相談や電話がたまたま自分の担当外の用件だったとしても、それを冷淡に扱っていては、いわゆる「たらい回し」が始まる。銀行全体の印象やサービスの質を低下させることになる。「自分の担当ではない」と突っぱねるのではなく、最低限、自分の知識の範囲内で協力的な応対を心掛ける態度が求められる。(44)


 自分が属する会社にとっての取引先をはじめとする外部との関係においては、組織の外部から見れば自分自身が「当事者」としての役割を引き受けるべきことになる。その時、記録者は個人的心情として、自分の担当外の用件を突然もちだされたことに対する困惑に近い嘆きの念を抱く。だが、組織の外部にいる「相手の立場を考えてみる」と、自分がその用件に対応しないことは、相手の困惑を引き起こすだけでなく、銀行全体の印象を低下させることにつながる。自分としては不本意で理不尽にさえ思う仕事上の役割であっても、当事者意識をもって対処することが求められる。
 しかも例えば、担当者がいない時に大口定期の引き合いの電話がかかってきた場合、「自分の担当ではない」と突っぱねていては、収益機会を逃すということになる。これも銀行全体の立場に立てば、その電話を受けた当人が対応する必要があり、結果的に新たな担当者になることもある。
 ではそもそも「自分の担当」とは本来何であったのか。外部の人間にとって組織内部の構造や職務分掌が見えないということは、その外部と接した地点において、接した人自身が組織全体を代表して行動すべきだという考えに直結するであろうか。記録者を「当事者意識」へと駆りたてる要因のひとつは、彼が常に相手の立場を考慮しつつ銀行全体を自分の身に引き受けて意識していることである。

 同僚にとっては不慣れであるが、自分にしてみれば熟知している仕事を、その人のカバーで引き受ける内に、いつのまにかそれが自分の仕事の一部になってしまったりすることもある。
 課内の先輩から「テレホン・バンク」の設置作業の仕方について質問・相談を受ける。彼が「手を貸してくれないか」と打診してくる。手伝うこと自体はやぶさかではないが、自分としては、目の前に仕事が山積していて余裕が無い。それに、本来的には、先輩自身も同じ渉外担当者として自分で身につけるべき仕事の一つだ。とはいえ、支店全体の見地に立てば、先輩が重要な緊急案件でかかりきりになっているのは事実だし、支店、ひいては銀行と先方との間の信頼関係を考えれば、これ以上猶予ならない状況でもある。意を決して、依頼を引き受ける。自分の担当先でもない会社に、代理として出向く。
 後日、当の取引先から、操作方法についての問い合わせが私宛てに入るようになる。先輩の、「後は自分で対処するから」の一言を期待する。しかしその言葉をもらうまで、先方の電話から逃げ出すことはできない。先輩に振り返したくともそれができない力関係に、鬱積が溜まっていく。(45)


 先輩から仕事の手伝いを求める依頼を受けた場合、自分の仕事が山積していて余裕がなくても、銀行全体の見地に立ち取引先との「信頼関係」を考えれば、引き受けざるをえない状況になる。その仕事は先輩自身が身につけるべきものであり彼の担当なのだが、代理として出向くうちに次第に自分の仕事の一部になってしまう。記録者は先輩の引き継ぎの一言を「期待」するのだが、こちらから先輩に振り返すことのできない「力関係」のなかで「鬱積」をつのらせていく。
 これも、銀行全体の見地や取引先との信頼関係を配慮する意識が背景にあるが、さらに仕事を依頼してきたのが先輩であるという事情が加わると、本来の担当範囲を明確に主張できない力関係に陥ってしまう。しかし、それがかくも鬱積感を増大させるものでありながら、先輩に対して担当義務をはっきりと訴えることのできない人間関係とは、一体何であるのかに着目すべきである。

 職務分掌が実質的に固定している定型作業や自分では解決できない作業を除いて、先輩に仕事を依頼すること、先輩に仕事を「振る」こと、先輩の手を余計に煩わせることは、私にはどうしてもできないことに思える。同期の人間や後輩に対しても、極力慎むべきことのように思われる。何とかできそうなことであれば、補助事務担当者の身として、全て自分の手許で処理しようと努めている自分に気づく。
 上司に対して、「これ以上は自分の守備範囲を拡げることはできない」とか、「人員を増やして欲しい」などとは、口が裂けても言えない。「Noと言えない榎本君。」某次長の冗談混じりの労いの言葉が核心を突いている。(46)


 記録者は、相手が先輩・同期・後輩であるいずれの場合においても、「仕事を依頼する」ことへの抵抗感を抱いており、極力自分の手許で処理しようと努力している。ただ、職務分掌が明確である作業や自分には解決できない作業、つまり誰が担当すべきか(逆にいうと、自分が担当しなくてもよいのか)が周りにも了解されている仕事であれば、他人に依頼することへの心理的負担はほとんど無いといってよいようである。
 仕事の守備範囲や人員に関して上司に要請して負担を軽減しようとすることなどは、絶対に許されないこととして自ら禁じている。無制限に仕事を許容して周りに対して「Noと言えない」ことは、単なる勤勉性でも強制された自発性でもなく、記録者自身の仕事の核心を形成しているエートスである。解くべき問題点は、このエートスと職場のあり方との関連を探るなかで明らかとなってゆくであろう。

2.6 上司と部下の関係

 職場組織は、公式に定められた命令・指揮系統に正当性の根拠を置く、合理的・合法的な対人関係を前提にしている。自分としても、会社組織の一員として、自分の行動が上司の指示・命令の支配下にあることに、疑念を挟むわけではない。
 しかし、実際の職場における命令・指揮系統は、合理性や合目的性にのみ正当性の根拠を置くものではない。個々人の性格や感情の状態、「その場の雰囲気」といった非合理的な要素によっても職場の対人関係は構築される。それは、職場組織だけには限定されない、伝統的・習慣的な自然な対人関係そのものであるといえる。
 職場での人間関係のストレスを突き詰めてみると、原因のほとんどはこれらの次元でのものであるように思われる。(46−47)


 記録者は、合理性に正当性の根拠を置く公式組織としての会社の命令に疑問をもっているのではない。実際の職場における非合理的な要素によって構築される対人関係に問題を感じているのである。それは、個人の性格・感情や「場の雰囲気」などといった職場組織以外の人間関係にもみられるものであり、これが「ストレス」につながる要因ともなっている。つまり、公式的な指揮命令系統に収まりきらないインフォーマルな人間関係が、負担となっている。
 職務分掌の不明確さに対する心理的抵抗とともに、職場での非合理であいまいな人間関係に対する耐性の弱さが、記録者の職場行動の基本パターンを特徴づけている。特に、「場の雰囲気」という明確に規定しがたい要素は、それを感じ取る側の心の動きだけではなく、この記録に頻出する「空気」という言葉によって表現されるものと関連している。

 同期の友人たちとの情報交換から、支店によって職場の雰囲気や「職場での常識」が異なることが多いという感触を得る。その原因を遡っていくと、支店長の個人的な性格や人柄が大きな要因としてはたらいていることに思い当たる。彼らの個人的な性格や人柄ひとつで、職場の雰囲気や自分自身のストレスの度合い、働き易さの感触までも豹変することを実感する。(47)

 「職場の雰囲気」がリーダー(支店長)の個人的な性格や人柄に規定されていると感じるのは、非合理的でインフォーマルな職場の人間関係を律するひとつの要素が、上司のあり方や彼と部下との関係にあることを示している。最終的に解決されなければならないのは、職場組織における問題が上司と部下の関係に集中的に表現されているように見えるのはなぜかということである。

 担当者としては、個々の案件に関して、会社としての対応策を素案のかたちまでまとめあげた上で、上司に報告しなければならない。「どうしたらいいか」という相談は上司から煙たがられ、たしなめられるので、「こういう対処をしたいと思うが異存はないか」というスタイルで稟議・報告をまとめる必要がある。
 その瞬間に担当者に求められる思考作業は、「上司の眼」で状況を判断する作業である。が、納得のいかないことで、上司に素朴な疑問をぶつけたいとか、上司を説得したいと思うこともある。しかし、稟議書や報告書の修正の手間と負担が煩わしく、できるだけ「雛型」に沿った書類に仕上げようとする発想が固定化してくる。(47)
 上司の側に、部下の主張に耳を傾けようとする意欲、およびそれを部下の目線に降りて理解しようとする意欲があるかどうかは、上司の個人的な性格・人柄といった、全くの偶然の条件にかかっている。他人を理解しようとする意欲は、最終的には個人の性向や意識の問題に辿り着く条件である。(47−48)
 上司の価値感や意識の在り方・感情の状態が、結果的実質的に、部下との関係を一方的に決定する。部下としては、私的判断を中止し、上司の権威に服従せざるを得ない。上司の発想の根源や「ムシの居所」を部下の側から忖度することに努め、上司の発想に自分のそれを合わせることになる。その構造の改変を期待するには、リベラルな上司の登場をひたすら待つしかない。(48)


 仕事上の個々の案件に関する会社としての対応策は、担当者が素案をまとめた上で上司に報告するのだが、その際、「上司の眼」で状況を判断し事を運ぶ必要がある。それは、長年社内で培われてきた仕事の「雛型」を模倣することであって、これに疑問を挟んだり反対意見を述べることは、事務的な煩雑さゆえに困難であるとともに、上司の側に部下の主張を聞こうとする意欲がなければ、受け入れられないのである。そして、上司が他人である部下の主張を理解しようと努めるかどうかは、最終的には上司個人の性格や人柄にかかっている。上司の価値観・感情状態が、部下との関係を一方的に決めてしまうとすれば、部下の私的な意見が入り込む余地はなく、上司の権威に服従する以外はない。
 上司に対する部下からの意見具申が公式的な制度に乗りにくい以上、部下は、常に「上司の眼」から見て過不足のない型にはまった仕事をする方が、制度的にも摩擦を引き起こさないですむ。記録者は、上司の観察眼を模倣することに対しては、仕事のノウハウを身につけることとして一定の妥当性を認めているのだが、やはりそれ以上に仕事を進めていく上での要求をもっているようである。
 だがそれを公式的なルートで表明することの困難性のために、上司の発想を忖度してそれに合わせるか、意見に耳を傾ける度量を持ったリベラルな上司に期待するか、しかなくなってしまう。いずれにせよ、上司の性格や感情というすぐれて個人的な要素に自分の仕事のあり方を委ねざるを得ないということが、問題の所在を示唆しているといえよう。

 全ての上司や先輩が権威主義的であるわけではない。リベラルな発想を持ち、自分自身にも厳しい人格者もいる。後者の放つ権威には、威厳や品格さえ感じられる。同じ雑用をいいつけられるのでも、普段、印象の良くない上司や先輩からの依頼だと苦痛に感じられるのに、尊敬する上司や先輩からの依頼であれば、そういう負担感は湧かない。寧ろ、光栄なことに思えたりもする。上司に対する敬意次第で、同じ上司と部下の関係が「服従」とも「伺候」とも感じられる。(49)

3 まとめ

 ここまでコメント風に述べてきた論点を簡単に整理してまとめておこう。記録者の職場行動の基本パターンを形成している要素は、仕事上の関係者である周囲の人々に対して「迷惑をかけてはならない」という気遣いである。顧客を待たせてはならない、曖昧な返答をしてはいけない、いつも快く応対しなくてはならない。仕事のミスは「取り返しがつかない」場合があるから許されない。先輩に質問したり仕事を依頼するときには、極力邪魔にならぬよう配慮しなければならない。取引先に対しては銀行全体の見地に立って信用を失わぬよう行動しなくてはならない。これらの気遣いを「他者配慮意識」と表現しておこう。
 これは、職場の雰囲気や緊迫した空気によって周囲を意識せざるを得ないことと、常に関係者に対する世間的儀礼を求める企業のしつけ(規律)などによって、日常的に培われているのだともいえよう。また、企業労働を円滑に進めていくには、(企業全体としても個人としても)周囲との関係に配慮せざるを得ないという側面もある。だから、記録者にとっての仕事の満足感は、他者である顧客の喜びによって確証されるのである。仕事そのものが他者を志向して遂行されること、このことはひとつの労働観として十分に検討されなければならない。
 一方、自分から仕事を見つけるように促され、しかも制度化された仕事の指導や指示がないので、与えられた最低限の担当に自ら閉じこもってしまっては、職場生活が成り立たない。逆に、自分の仕事の守備範囲を際限なく広げていくことに対する歯止めもない。このように公式的な職務分担があいまいであることによって、誰が何をすべきか(自分は何をしなくてもよいのか)について、仕事の役割上の不安定感に恒常的にさらされる。この職務分担のあいまいさゆえに、仕事を依頼する/されるという人間関係に、感情や気分などのインフォーマルな要素が増幅されて持ち込まれることになる。記録者にとっても、担当の明確な仕事に関する依頼関係においては、心理的抵抗感はほとんどないのである。
 さらに職場のインフォーマルな面を増大させるのは、場の雰囲気や空気とそれに関わるリーダーシップのあり方である。上司と部下の関係が公式的な指揮命令系統によってのみ律せられるのではなく、そこに性格や人柄といった非合理的な要素がはいってくる。その結果、職場環境への要望は上司への期待という形をとる。
 最後に指摘しておくべきことは、職務分担のあいまいさとインフォーマルで非合理的な要素をもった人間関係によって特徴づけられる職場組織と、「他者配慮意識」との相互関係(作用)についてである。後者は、かなりの個人差があり場合によってはその人の性格とも関連するので、安易な一般化はできないが、ある特徴をもつ組織にとっては密接なつながりをもつものである。しかし、この「他者配慮意識」が何らかの組織特性によって一方的に規定されるとか生み出されると結論づける前に、両者の相互的な関係を明らかにする必要がある。その際、組織における「職務」概念の検討が課題となることを示唆しておく。

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