スクリプス研究所の発展の秘密

──世界最高の研究所はこうして創られた!



化学科創設から,わずか13年でノーベル化学賞受賞者を2 年連続で輩出.世

界で最も多くの論文が引用されている化学者上位15 人のうち3 人が在籍.

 化学の研究において世界で最も影響力のあるスクリプス研究所は,研究業績

だけでなく経営戦略でも先駆者だった!!



 

胆でエゴイスト.時流を読む天才──.人はリチャード・

ラーナー教授をこう評する.彼が最高経営責任者

COE)を務めるThe Scripps Research Institute(以下スクリ

プス研究所)は世界で最も成功を収めた研究所の一つであろ

う.なかでも1989年に設立された化学科は,設立13 年目に

して2 年連続ノーベル化学賞授賞者(2001年 シャープレス教

授,2002年 ビュートリッヒ教授)を輩出し,化学の分野で最

も影響力のある研究所へと急成長を遂げた.スクリプス研究

所の名前は知らなくても,以下のスター教授たちの名前はご

存じだろう.シャープレス教授,ニコラウ教授,ウォン教

授,ボウガー教授,リーベック教授,ジェンダ教授,シュル

ツ教授.

 私は,1998年から現在までスクリプス研究所化学科に在籍

し,そのパワフルな研究の進め方とともにラーナー教授の強

力なリーダーシップとユニークなマネージメントを目の当たりにし

てきた.研究所の業績は当然すばらしいが,それにも増して教授陣

の生活レベルの高さは衝撃的だった.ほとんどの教授がドイツ製高

級車に乗り,プール付きの豪邸に住んでいる. 実にうらやまし

い.研究所の運営システムが,日本の大学とまったく異なる

からである.では,何が違うのか.スクリプス研究所が今の

栄華を得るに至った運営戦略を,その成り立ちから紐解いて

みる.

 スクリプス研究所は,南カリフォルニアのサンディエゴに

位置し,太平洋を見渡す美しい丘の上にある.世界最大の私

立研究所であり,288人の教授,775人のポスドク,230人の

大学院生と1500人の職員が働いている.

 スクリプス研究所の前身,スクリプス病院研究所が設立さ

れたのは1961年.病院付属の研究所として,免疫学,分子生

物学,臨床生化学の3 部門からなる小さな研究所であった.

最初の転機は1987年に訪れた.ラーナー教授の研究所理事長

への就任である.彼はノースウェスタン大学で化学を学んだ

あと,カリフォルニア大学バークレー校メディカルスクール

を卒業しており,医師でありながら分子レベルでの洞察力を

あわせもつ.彼が就任したのは,ちょうど彼のグループが機

能をデザインできる人工酵素,触媒抗体技術を世界ではじめ

て発表し,注目を浴びていた時期でもある.

 


リチャード・ラーナー教授

Photo by The Scripps Research Institute



 

研究所の基本システム

 ラーナー教授は,研究所の発展のために以下の2 点を提言

し,実行した.

 まず,学部の壁を超えた研究グループを組織し,共同研究

を推進した.たとえば,ある疾患の治療法開発のために,分

子生物学者,薬理学者,コンピュータ化学者,構造生物学者

からなるグループをつくった.多様な分野の研究者が協力す

スクリプス研究所の発展の秘密

ることで,多角的に病態プロセスを分子レベルで解明するこ

とを目指したのだ.この思想は今に至るまでスクリプス研究

所の基本理念となっており,数多くの成功を導いてきた.

 次に,各研究者がプロ意識をもって研究に集中できる環境

の整備に力を入れた.現在,各種測定機器やコンピュータの

メンテナンスなどを行う研究支援スタッフの充実度はすばら

しい.もちろん研究以外でも,ネットワーク,安全対策,廃

液処理などの仕事はすべて専属職員が行う.基本的に研究者

は研究だけに全精力を注ぐことができ,日本の大学のように

雑事に忙殺されることがない.

 もちろんプロである以上,リスクも背負う.アメリカの研

究者は外部資金を獲得して研究を行い,そのなかで自分の研

究費も捻出する.研究所はそこから一定の割合を徴収し,研

究支援の費用に充てる.研究室自体がベンチャー企業のよう

な存在で,各教授が個人事業主として研究所の場所を借りて

研究しているに等しい.多額の研究費を獲得した場合は研究

室の規模を拡大できるが,研究費を獲得できなかったとき

は,スタッフを解雇して研究所を去らねばならない.


人材の獲得

 1989年に化学科を設立し,初代学部長としてペンシルバニ

ア州立大学よりニコラウ教授を迎え,さらにウォン教授,

シャープレス教授,ボウガー教授といった才能溢れる人材を

次つぎと迎え入れた.「優秀な人材を獲得することで,その

人の科学に向き合う姿勢や科学のスタイルをみなが学ぶこと

ができる」とラーナー教授は語る.

 では,どうやって優秀な研究者を集めるのか.もちろん,

研究に集中できる環境や潤沢な研究室設立費は魅力的だろ

う.ところが,教授に就任する際は,さらに個人に対して家

や車も支給される.プロスポーツ選手の契約を想像するとわ

かりやすい.現代の知的資本主義社会では,優秀な頭脳に莫

大な投資をしても惜しくないわけだ.

 



スクリプス研究所化学科の建物


 

 スクリプス研究所は独立採算の私立研究所であり,競争的

研究費以外に個人や財団の寄付金が大きな財源となる.とく

に人材獲得の資金は寄付金でまかなわれており,たとえば,

ケック財団(300万ドル,3 3 千万円)とクレマー夫妻(100

ドル,1億1千万円)の寄付金をもとに,シャープレス教授

とボウガー教授を招聘した.またスカッグス財団の1 億ドル

110億円)の寄付金をもとにスカッグス生物有機化学研究所

を設立し,レベック教授やエッシェンモーザー教授を招聘す

るとともに,とくに選抜された教授たちに研究費を重点的に

配分している.アメリカではとんでもない金持ちがとんでも

ない金額の寄付を行う文化があるが,その寄付金を集めてく

るのも理事長の手腕である.


若手の育成

 続いて1991年,大学院が開設された.大学院生は,基礎か

ら最先端まで少人数クラスでみっちりと教育を受ける.プレ

ゼンテーションや研究費申請書の書き方,就職面接に関する

指導など,実践的教育も数多い.学位論文の研究も共同研究

が積極的に推奨されており,学生たちは自分の指導教官以外

の教授たちとも積極的にディスカッションしている.創設ま

もない大学院だが,毎年US News & Reportが発表する全米

大学院ランキングでハーバード大学やカリフォルニア大学

バークレー校とともにトップ争いを演じている.大学院の教

育プログラムや職員の研究業績に関して高く評価されている

のである.1996 年に大学院を卒業したクラバット博士が今

年,スクリプス研究所の正教授に昇進したのをはじめ,着実

に若い研究者が育っている.



 

スクリプス研究所の歴史

1961年スクリプス病院研究所設立

1987年リチャード・ラーナー教授が理事長に就任

1989年化学科設立.初代学部長ニコラウ教授

1991The Scripps Research Instituteと改称

1993年サンド薬品(現ノバルティス)と包括協定締結

1995年スカッグス生物有機化学研究所設立

1996年ベックマンビルディング完成

2001年シャープレス教授ノーベル化学賞受賞

2002年ビュートリッヒ教授ノーベル化学賞受賞

2004年オックスフォード大と連合大学院プログラム設立

2004年フロリダキャンパス設立

スクリプス研究所化学科の建物



 

 2004年には新たにイギリスのオックスフォード大学と連合

大学院が設立された.広い視野をもつ研究者の養成が目的で

あり,選抜された学生はスクリプス研究所とオックスフォー

ド大学で異なる分野の研究を行い,両機関から学位が受けら

れるシステムである.


外部資金の導入

 スクリプス研究所の第二の転機は1993年のサンド薬品(

ノバルティス)と締結した研究開発と商業化に関する包括協

定であろう.この協定に基づき,スクリプス研究所が10年間

で総額3 億ドルを(330億円)受け取る代わりに,サンド薬品

がスクリプス研究所における発明の商業化に関する第一優先

権を手にすることになった.

 スクリプス研究所は,それ以前にも他の製薬企業と協定を

結んでおり,プロジェクトごとに援助を受けていた.しか

し,サンド薬品との協定でユニークなのは,研究プロジェク

トを限定せず,スクリプスの研究者にとって自由に使える研

究費の提供を受ける点である.当時アメリカの医学研究の多

くが国立衛生研究所(NIH)の研究費に依存しており,バイオ

研究の急激な発展と比べて政府の予算規模が伸び悩んでい

た.また,NIHの意向に沿わない研究は行いづらい状況でも

あった.

 このサンド薬品との協定には,科学研究を商業化と混同

しているという批判もあった.とくに,NIHは当時の

スクリプス研究所の年間運営費3 億ドル(330億円)の

約半分を拠出していたため,研究成果をスイスのサンド薬品

に技術移転することに対して猛反発したという.だが,

結果的にラーナー教授が各方面を説得して協定にこぎつけた.

 このような協定締結は,今や全米の大学で当然のように

行われており,アメリカの医科学研究の繁栄は民間資金の

導入の成果だといわれている.その先鞭をつけたのが

スクリプス研究所だったのである.

 現在,ノバルティス(サンド薬品)はスクリプス

研究所内にオフィスを構え,新しいシーズが生まれたときに,

すぐ共同研究を推進できる体制をとっており,共同研究の

パートナー探しを目的とした合同セミナーも定期的に開催

されている.一方,スクリプス研究所は自由に使える

予算を得て,研究施設の拡充や若手人材の獲得に一層力を

入れられるようになった.その結果,サンディエゴ地区の

バイオクラスターのリーダーとしてさらに発展したのである.


サンディエゴ バイオクラスター

 アメリカでは,大学で発明された先端技術の卵をベン

チャー企業が育て,大企業が製品化するしくみができあがっ

ている.これは,政府が助成した研究にも大学に特許の取得

を認める「バイ・ドール法」に基づいた産学協同研究の成果で

ある(ちなみにバイ・ドール法の制定は,当時の日本の製造業

の急速な発展を強く意識したものだといわれる).1990年代

のアメリカのITやバイオ産業の隆盛は,国家戦略としての知

的産業への転換の成功例であろう.

 遺伝子組換え技術の特許を登録したスタンフォード大学の

スタンリー・コーエン教授とカリフォルニア大学サンフラン

シスコ校のハーバート・ボイヤー教授は,大学に2.5億ドル

275億円)の収入をもたらした.現代は知的資本主義の時代

であり,優秀な研究成果は莫大な富を生む可能性を含んでい

る.残念ながら,日本の大学で知的財産や技術移転の概念が

強く意識されるようになったのは最近ではないだろうか.

 「サンディエゴ地区のバイテク企業の発展は,スクリプス

研究所,ソーク研究所,カリフォルニア大学サンディエゴ校

UCSD)の相乗効果によるものだ.技術と優秀な人材が溢れ

るサンディエゴに企業が集まるのは自然なことだし,研究者


スカッグス生物有機化学研究所の教授たち

Photo by The Scripps Research Institute


後列左より
M. J. Fedor, I. A. Wilson, J. W. Kelly, C. F. Barbas III, S. P. Mayfield, P. R.

Schimmel, S. C. Sinha, M. R. Ghadiri, J. R. Williamson, J. A. Tainer, P. Dawson, M. G.

Finn. 中列左よりE. Beutler, P. E. Wright, K. D. Janda, G. M. Edelman, G. F. Joyce, J.

Rebek Jr., K. C. Nicolaou, K. Wuthrich, A. Eschenmoser. 前列左よりE. D. Getzoff,

D. L. Boger, E. Sorensenプリンストン大教授), B. F. Cravatt. 欠席G. Chang, E.

Keinan, R. A. Lerner, P. G. Schultz, K. B. Sharpless, C. H. Wong.



 

スクリプス研究所の発展の秘密

どうしが直接会ってディスカッションできるメリットは非常

に大きい」.スクリプス研究所の分子生物学部長ピーター・ラ

イト教授がこう語るとおり,今やサンディエゴはボストン,

サンフランシスコに次ぐ全米第三のバイテク都市へと変貌を

遂げた.ジョンソンアンドジョンソン,ファイザー,メル

ク,ノバルティスなどの大企業をはじめ,数多くのベン

チャー企業や研究所が集まっている.スクリプス研究所,

ソーク研究所,UCSDからの技術移転を受けて設立されたベ

ンチャー企業も多く,教授が経営に携わることは珍しくな

い.スクリプス研究所からスピンオフしたベンチャー企業は

70を超える.

 われわれがスクリプス研究所の研究成果の学術論文を投稿

する際は,必ず技術移転オフィス(OTD)に連絡する.OTD

は,論文が印刷されるまで,技術移転のパートナー企業探し

や特許取得を手伝ってくれる.

 昨年秋,スクリプス研究所はフロリダ州へのキャンパス拡

張計画を発表した.ラーナー教授と旧知の間柄であるフロリ

ダ州知事ジェフ・ブッシュ氏の招きによるもので,フロリダ州

3.1億ドル(341億円)を援助をする.新キャンパスにおける

雇用と技術移転による産業創出などを合わせ,フロリダ州に

32億ドル(3520億円)の経済効果が見込まれているという.


 

 以上,簡単にスクリプス研究所のユニークな運営戦略につ

いて紹介した.西海岸の小さな研究所が,特色をつくること

で世界のトップへと発展する過程は実に興味深い.スクリプ

ス研究所の発展の秘密は以下の3点に集約されるのではない

だろうか.

1.共同研究の推進

2.優秀な人材の獲得

3.外部研究費の獲得

独立行政法人化により,日本の大学も個性を競う時代となっ

た.日本から第二のスクリプス研究所が生まれる可能性も十

分にある.



 

謝辞:本稿執筆にあたり,ご理解とご支援をいただいたスクリプス研

究所のバイスプレジデント,キース・マッコウエン氏とキム・ジェンダ

教授に感謝します.