博士課程時代



 さて、私はこうして名古屋大学人間情報学研究科に博士課程の学生として入学することになった。ところが、指導教官のY教授がその年から京大に転任になったのである。よって学籍は名古屋大学のまま、京都大学理学部で研究を行うことになった。
 かなり急に転任が決まったために、学生はまだ名古屋にいた。つまり京都には外部から入ってきた私しかいないのである。学校に行くと先生一人が、前の先生の残していった山積みの机やら棚やらの隙間にぽつねんと座っており、古道具屋の主のような有様で事務手続きをこなしておられた。先生からは、今は何もすることがないからしばらくのんびりしていて下さい、とのありがたいお言葉をいただいた。
 学問へのやる気はすでに再充電されていた。初めての京都暮らし、しかもやることが無い。外は桜満開である。毎日桜を求めて自転車で街を走り回った。なぜかわからないが、感動で涙が出てくる。宿を気にせず、のんびりと心ゆくまで観光できるので、旅行で来るのと住むのでは大違いだ。夜は論文や教科書を読んで過ごしていた。今思い出しても人生最高の日々はこの一ヶ月である。


初仕事


 学生の第一弾が京都に引っ越してくると、Y研の初仕事が始まった。研究室作りであった。先に述べたとおり、与えられた部屋は、前の先生の使っていた机や棚が散乱しており、スターリングラード攻防戦のような状態だ。捨てたり移動したりしてスペースを作った。当時のY研はなかなかのDIY精神をもったところで、床に絨毯を張ったり、研究室の壁塗りも自分たちでやった。ペンキ塗りの後、先生に見ていただくと、
「本職みたいやないか。岩瀧君、これで将来何やっても食っていけるな」
と私の未来を暗示させる一言を頂戴した。あとは、いろんな学科のゴミ捨て場をチェックしては、使えそうな物があるとリアカーを借りてきて棚などを拾ってきて活用していた。お金持ちの工学部や医学部のゴミ捨て場には新品同様の宝物がたくさん捨ててあり、事務に行って拾ってもいいかたずねると
「ああ、理学部の方は大変ね」
と哀れんだ表情で応対された。
 このリアカーにはだいぶお世話になった。ロシア人留学生が京都に引っ越してきたときなどは、研究室の荷物と一緒に運ばれてきた彼の荷物を、大学からアパートに運ぶときにこれを使った。街中をみんなで押していったのだが、当の留学生はかなり恥ずかしかったらしく、関係ない人を装ってリアカーの後ろからだいぶ離れてついてきたのを思い出す。
 研究機材も、精密機械以外はレンタカーでトラックを借りて学生が運んだ。研究室が研究室らしくなっていく。なかなか楽しい日々であった。実験らしいことが出来るようになったのは半年ほどたってからだろうか。博士課程の半年間はこんな風にして瞬く間に過ぎていった。


いきなりの学会発表


 入ってすぐのころ、夏に京大で学会があるが出ないかと、ほかの学生から誘われた。実験なんて何もしてないし、しばらく出来ないのはわかっていたので当然断ったが、
「いいの。いいの。ポスター発表だし、そんなに大げさなものじゃないから。いざとなったらおいしいカレーの作り方でも大丈夫だよ」
と言った。周りの人がみんなうなずいていたので、そんなら、と発表することにした。それから数ヶ月経って、学会十日前ぐらいになると学会の予定表が配られた。それによると、ずいぶん気合いの入った学会に感じられる。心配になって、周りの学生に聞くと、
「前は仲間内の集会みたいな感じでしたが、今年はずいぶん本格的にやるんですね。」
と、私の気持ちを逆撫でするようなことを平気で言う。
 幸い、私の修士の時の研究内容で発表してもおかしくない学会だったので、いざとなったら、それでごまかす方法が最適と思われた。
 学会三日前になって先生と話していると
「岩瀧君も発表するんか。どんな内容で出すんや?」
と質問された。
「おいしいカレーの作り方です」
とは言えず、
「修士の研究を発表しようと思います」
と答えたところ、
「何を言ってるんや。うちの研究室に入ったんやから、うちの研究を発表するのが大事なんや。そうだ、○○君の研究があるやないか。あれをビデオにとって、会場で流せばええんや。研究室にビデオがあるから、○○君に聞いて明日実験すれば間に合うやろ。」
どうしていつもこんなことになってしまうのか、私は不思議でならない。
 早速、学生にビデオカメラのありかを聞くと、今壊れていると言う。私に時間はなかった。京都寺町の電気屋に走り、自腹の六ヶ月ローンで8ミリを購入。大学に戻り、学生にわけを話して実験準備。まだ段ボール箱に入ってる薬品等を探し出し、何回も失敗した後、やっとひとつ映像が取れた。そこから、かつて他の学生が撮影した動画を付け足し、寝る間も惜しんでポスターを作った。

 そして当日。確かに真剣な学会と言うほどではなかったが、「おいしいカレーの作り方」を発表できるような雰囲気でもなかった。私の一夜漬け浅漬けの知識で、まともな質問に答えられるわけがない。
「ちょっとわかりません。それは実験したことがないので」
「あれ?でもあなたの研究室で前にやってましたよね」
「いや。私のテーマではないのでちょっとわからないのですが」
「じゃあ何で、あなた発表してるんですか」
と、研究と関係ないところで花が咲いた。スカンポの花が。


夏の学校


 夏になると「夏の学校」というものがある。大学の各分野で大学院生が避暑地などに集まって、その分野の先生を呼んで講演していただき、夜は先生と学生みなでお酒を飲みながら、研究について熱く語ろうというものだ。院生はほとんど出るようなので私も参加してみた。コンセプトは「若手の学生のために先生方がわかりやすく親切に講義してくださいます」ということになっていたが、ほとんどの先生の講義は、まったく今まで私が受けた授業と変わらないことに驚き、怒りすら覚えた。「中学生でもわかる相対性理論」と言う本を大学二年のとき読み、さっぱりだった苦い思い出が頭をよぎる。私は、ある先生のときにとうとう耐えられなくなって、講義の途中でドアをばたんと閉めて出て行った。

 近所の野原で寝っ転がって空を見たり、花を観察していると、クモの巣を見つけた。私は日本版ファーブルへとにわかに転職し、クモがえさを捕まえるところを眺めていた。巣に何かが触れると、クモは巣を揺らす。この振動の様子で、餌かそうでないか判断しているようなのだ。そこら辺の葉っぱを巣に落とすと、クモはちょっと巣をゆさぶり、餌ではないと判断したようで動かなかった。まだファーブルになり立てなので、この推論が正しいかはわからなかったが、とりあえずの回答を得て会場へ戻った。大人でも、たまに地面に伏せてものを見ることをお勧めする。子供の頃の思い出がよみがえって来ることだろう。地雷などを見つけたときは命も助かる。

 会場に戻るとすでに講義は終わっていた。そのとき仲間がやってきて速やかに非難された、
「あれは、大変に失礼だ。先生方は、わざわざここまで来て無報酬で講義してくださっているんですよ!」(交通費は支給されるらしい)
「そんなことは関係ないでしょ。『わかりやすく』っていって誰もわからん講義をするのは失礼じゃないのか。お前は理解できたのか。ほかの学生もほとんど理解できたと思っているのか。」
「そりゃ僕も一部しかわかりませんでしたけど」
私は大人気(おとなげ)まったくありません。それは認めます。

 それ以来私は学会・講義など、出なくてすむものは全く出なくなった。これは研究者として大変にいけない行為である。たまにすばらしい講義はあるが、そのためにその何倍もそうでない講義を聞かねばならん。金の出なくなった金山のようなもので、確かにまだ少しは金は取れる。しかし、採算は取れない。しかも、例えにもなっていない。
 もちろん、今回の夏の学校が大変にためになったという人はいっぱいいるので、そのような優秀な学生のためにはこれからもぜひ続けていただきたいものである。
 さて、夜はみんなで飲み会である。これは楽しかった。研究の話をしているグループには近寄らず、あほな話で盛り上がっている所に行って、笑い転げていた。そのうち先生方のグループに顔を出してみた。先生方と数人の学生が、大学や学生の今昔といったようなことを話していた。私も質問してみた。
「有名な研究者になるような人は、学生のころからほかの人と違っているものですか。どんな人が将来よい研究者になりますか」
と尋ねてみたところ、一人の先生がちょっと考えて
「喧嘩して研究室を飛び出して行ったような学生だね」
とおっしゃった。周りの先生方もうんうんと頷いておられた。
 補足するが、おそらく飛び出していく学生の多くは、消えていく運命にあると思う。その中の一部、安易に妥協したり、おもねったりしない学生の中で、本当に実力のあるものが、ぐんと伸びるということであろう。飛び出すだけなら、私でもできる。
 このほかにも、いろいろと楽しいお話をして下さったが、数式や専門用語が出てこない話なら何年たっても思い出せるものである。


実験開始


 さて、確か本格的に実験を始めたのは博士一年生の年末くらいだったような気がする。私のテーマは、蛍光顕微鏡というものを使って、DNAの性質を調べるといった感じの研究だった。DNAは長い紐のような構造をしているが、直径が2ナノメートルしかない。蛍光顕微鏡をつかうと、この細い紐が水の中でうねうね動いている様子が見えるのだ(長さは50マイクロメートル程度のものを使っていた)。生物の勉強はほとんど習わなかった私でも、DNAくらいは知っている。しかし、知識として知っていても、実際にこの目で見てみるのとは大違い。はじめてみたときは感動ものであった。
 この手法で、条件をいろいろ変えたりして、DNAがああなったこうなったということを今からやるわけである。この実験もなかなか大変であったが、全ての研究が大変であるのは言うまでもないので一気に省くことにする。
 一応結果が出ると、これをまとめて論文にすることになった。


論文執筆


 学士号・修士号は比較的ぼんやりしていても取れるものだが、博士号はなかなか難しい。学術論文を書かなければならないからだ。もちろん英語だ。これを専門雑誌に投稿し、審査をくぐりぬけて、初めて掲載となる。雑誌といっても普通の本屋さんで見ることはできず、大学の図書館や研究室で購入したものをみるしかない。各雑誌の編集者に郵送もしくはインターネットを通じて投稿すると、しかるべき分野の先生数名(一人のときもある)にそれが送られ審査していただく。そうすると彼らから指摘された問題(スペルミスや実験の不足箇所など様々)について修正を求められる。このようなやり取りを何度か行い、編集者の許可がおりると、めでたく掲載となる。もちろん、却下される場合もある。出版されたら世界中の研究者の目に晒されることとなるため、細心の注意を払って書かなければならない。おそらく同じ研究室の後輩ぐらいしか読まない修士論文とはわけが違うのである。
 博士号を取るためには、自分の論文を何報か持ってないといけない場合が多い。学科や分野によって大きく違うが、我々の学科では、原則的に二報必要だった。

 論文は大体こんな章構成で書かれる。
 まず「タイトル」。これは問題なし。
 次に「抄録(アブストラクト)」。内容を簡潔に数行の文章でまとめたもの。研究者は、毎日膨大な数の論文が出版される今日、論文全部を読むわけには行かない。この文章でどんな内容なのか大体を判断する。ネットで検索するときも、この文章からキーワードを探すことができる。
 そして「導入(イントロダクション)」。これまでにその論文にかかれた研究内容の歴史的背景。そしてこの研究のどこが新しいかなどについて説明する。
 続いて「実験(イクスペリメンタルセクション)」。使った装置の会社名や性能、方式など。また、使用試薬の会社名、純度、など。他の研究者がこれを読んだ時に、全く同じ実験ができるように詳細に書かなければならない。
 最後が「結果(リザルツ)」。実験の結果と考察である。さらにコンピュータシミュレーションや理論計算などが加わる場合もある。
 これに「まとめ」や「謝辞」、「参考文献」などが加わって完成となる。大体どんな論文もこのような流れでできている。大変わかりやすい。自分でも書けそうな気がしないだろうか?私も当初そんな気がした。
 しかし、見事にここで「はまった」。全く書けないのである。教授から「さあ書け」と言われても、何を書いていいのかすらわからない。しばらく苦悩の生活が続いた。


執筆風景


 毎日研究室に行くと、まず目覚めのコーヒーを入れながら考える。一文も浮かんでこない。気がつくと昼である。研究室の仲間とご飯を食べに行く。京都の食事には大変に満足していて、生協も選べる品数が多く、野菜中心の食事ができることは大変にうれしかった。近くの食堂なども東京と比べると値段、味ともに一段上であった。昼食時はあまり研究の話はしなかった。研究の話が好きな人は、私以外の人と食事に行っていたのだと思う。
 さて、食後のコーヒーはとくに念入りに淹れなければならない。研究室にはサイフォン、ペーパー、ネルドリップ、水出しとそろっていて、その季節・豆の種類などに応じて最良の味を出せるよう神経を使う。この神経を休めるためには、西田幾多郎先生直伝の散歩などに出かけるのがよい。京大のキャンパス内を歩いていると、馬術部の学生が馬を率いて歩いている光景によく出くわす。馬糞がぼとぼと落ちる様子を見ながら、万有引力は今日も健在であることを確認する。心が落ち着いてくる頃になると、理学部五号館前のイチョウの陰がずいぶん伸びている。

 話は脱線するが、京大の秋の紅葉は、なかなかのものである。どうみても大学研究者とは思えない紳士淑女の方々がギンナンを集めている姿をそこかしこに見ることができる。まるでミレーの「落穂ひろい」である。いいギンナンは料亭で高く売れるそうである。血走った目で、ゴミ袋いっぱいに詰め込んでいる者もいる。だから、ミレーは「落ギンナンひろい」は描かなかったのだろう。第一、ヨーロッパにイチョウはない。

 研究室に戻ると、晩御飯をどこで食べるかについての議論を他の学生としなければならない。やっと食事が済むと再びコーヒーを飲んだ後、コンピュータに向かう。英語の辞書を片手に文章を一行書いては、読み直して意味がわからず消去、こんなことを何度か繰り返すともう深夜近くである。ついに、
「英語圏の研究者は楽でいいな。高校の先生が『理系の人こそ英語が重要』といっていた意味をやっと認識したよ。また明日やろう」
といった一応の結論を得て家に帰るわけである。このようなことを三十回ほど繰り返すと、太陽暦でいうところの一月が経過する。

 教授は、我慢の限界に達したと見え、途中でもいいからもって来るようにおっしゃった。
「君の英語は何を言ってるかわからん。もう、日本語でええ。」
これは渡りに船の提言だったが、私は桟橋で海に転げ落ちた。日本語ですらたいしたことが書けなかったためである。私は日本語の原稿を先生に渡すと、二、三日後、余白にアラビア文字のようなものが一杯に書き込まれた原稿が返ってきた。私の書いた文章の上には大きくバッテンが書かれている。先生の文字の解読には四、五日かかったが、文書をワープロにおこすことができた。ここで私は気づいたことがある。私が何の研究をしていたか初めてわかったのである。実は、これは私だけの意見ではなく、後日論文が出版されてから、試料をくれた共同研究者の先生に送ったところ、
「おめでとう。いやー、私もまさかこんな内容の論文になるとは夢にも思わなかったよ」
とお褒めいただいた。
 さて、ワープロで清書し、先生に見ていただき、また修正するというやり取りを何度も繰り返すと、徐々に論文らしくなっていく。少しは残っていた私の文章もみるみる削り取られ、ほぼ全滅したころで完成となる。図や表は私が描いたが、昔から絵は得意だったので、これだけはいつも褒められた。

 こうして、出来上がった論文はアメリカ化学会誌に投稿された。今は主に電子メールで投稿するが、当時は飛行機便で送った。通常、論文と一緒に編集者への手紙を同封する。「こんな論文を書きました。つきましては○○大学の○○先生に審査していただきたい。××大の××先生には送らないでほしい。」
などという内容で送る。編集者はそれを勘案して、その論文の分野の専門家を選び審査員を決める。送らないでほしい先生を書くのは、ライバル関係の研究室があったときにそこに送られると、まとも読まずに掲載拒否したり、難癖つけて実験のやり直しをさせている間に、自分のところで同じような実験をして違う雑誌に掲載したりすることがあるためである。

 しばらく返事がなく心配したが、二ヵ月程して手紙が来た。審査してくれる先生が見つからず今探しているとのこと。さらに数ヶ月がたって、やっと返事が来た。三人の審査員の手紙が同封されており、一人は文句なしで「不可」、一人は文句なしで「可」、もう一人は、修正を加えれば載せてもよさそうな気がしないでもないといった内容であった。三人の審査員のうち二人からOKが出れば、論文受理となる。ここでのやり取りは長年の勘とテクニックが必要で、無理そうでも掲載になったり、その逆もあったりで、研究者の話題の格好のネタとして、飲み会などでしばしば語られている。
 データが足りないと言われて計算を付け加えたりして攻防は続き、結局掲載されたのは、投稿してから約一年後。普通より時間がかかったが、なんとか初の論文である。博士課程の三年生目前であった。


論文の執筆を終えて


 終わってみると先生は大変に褒めて下さり、研究室の仲間も良い雑誌に掲載されたので大いにねぎらってくれた。私も、自分の論文を見て嬉しい気持ちはもちろんあったのだが、心の中は青函トンネルに入った蒸気機関車のような暗さだった。今後も自分で論文は書けないな、と気付いてしまったのだ。 

 いままで仲間の院生を見ていて、一報目から論文をバリバリ書くことができる人はほとんどいなかった。東大生・京大生でも、最初の論文は先生に真っ赤に添削されて自分の文章が残らないのはざらである。しかし、書ける人はここからが違う。直されて修正していくうちにコツをつかむようになり、掲載まで一通りの手順をこなしていくと、二報目にはもうかなりの部分を一人でできるようになっているのである。つまり、二報目がある程度書けるようだったら、論文執筆能力に関してはクリアできると判断できるというのが私の持論だ。
 以前、初めて論文を書いた学生が「ぜんぜん書けなくて、ほとんど先生に直されました。僕の論文は出たけど自分のって気がしないんです」といって沈んでいた学生がいたので、この話題に触れてみた。大事なのは二報目だよ!次が勝負だよ。ちなみに、その学生は現在も立派に活躍している。
 一方、一報書き終えた後の私は、臆することなく「一歩も変化なし」と答える自信でみなぎっていた。


研究者の業績


 博士号取得には論文が重要である話をしたが、その後の研究者としての業績も、執筆した論文の数と内容でほとんどの評価がなされる。 
 評価の一例を挙げてみよう。現在、大学や研究機関で助手・助教授・教授を募集すると、一人の採用に数十人の応募が来ることはざらである。時には百人を超えることもあるようだ。全員の面接をするわけにはいかないので、書類審査で絞る。そのときにまず見るのが論文数と言うわけである。論文の質ももちろん重要なのだが、違う研究室から来る人の比較なので、内容の優劣の比較は当然難しい。そうして絞った後に面接で人柄を見て判断する。このようなわけで、知らない研究者の中から採用者を選ぶ場合は、論文数が重要なのである。ただし、応募してきた人によく知っている人がいて、「この人なら大丈夫」という場合などは、少し変わってくる。もちろん採用する先生によっては、「論文数より内容と人柄です」というかたもおられるが、一般的には上記のような傾向にあるといってよい。


博士号について


 日本の博士号には、「課程博士」と「論文博士」という二種類が存在する。課程博士は、博士課程の学生となって最短三年(例外もある)、最長でも五年間で博士号をとる場合にそう呼ばれる。企業などで業績をあげた人が大学に申請し、審査を通過して博士号を取得することもある。このような場合は論文博士となる。この場合、学生として在籍する必要がない。通常、論文博士は課程博士よりも多くの業績が必要となることが多い。五年間で博士号を取れなかった博士課程の学生は、論文博士扱いになることが多く、さらに学位の取得が大変になる。
 課程博士の手続きに関して簡単に述べると、規定の業績を上げた後に、これまでの研究結果をまとめた学位論文を執筆しなければならない。これを自分の教官に提出し許可が下りると、教官は教授会でこの学生の研究内容と業績を発表し、他の先生方にこの学生の公聴会を開催する認可をいただく。こうして博士公聴会が開催される。この公聴会で数人の先生に審査していただき、合格すると晴れて新人博士の誕生である。


大忙し


 私の博士課程3年間も終わりに近づいた。21世紀の幕開けは、「男おいどん」のように一人部屋でラーメンをすすりながらの、博士論文の執筆真っ只中で始まった。博士号取得に必要な業績は最低ラインでクリアしていたので、2月の締め切りに間に合わせるべく猪突猛進である。
 そんなある日、どういう経緯で私がやることになったか良く覚えていないが、ある仕事を頼まれた。私の先輩が学位を取るのだが、その手続きを手伝ってほしいとの内容である。一人はロシア人の留学生である。もう一人は日本人だが、今フランスに留学してしまっているので書類の作成ができないとのことだった。論文は英語でもいいが書類は日本語で書かねばならない。当時、学生は京都大学で研究していたが、学籍は全員名古屋大学だった。ここが問題である。前述したように教官は教授会で学生の業績と研究内容を発表してほかの先生の許可を得なければならない。ここで許可が下りないと学位は取れなくなってしまうのだ。通常は学生の研究内容を熟知した自分の教官が発表するので、まあ問題は少ない。我々の場合は、形だけの担当教官が発表しなければならない。頼まれた先生も、つらい立場にある。我々の研究のことは全くわかっていないのだ。よって発表する内容の原稿を学生が作って、さらに名古屋の担当教官に研究内容を理解してもらわねばならなかった。
 予想外の展開である。留学生は英語しか使えない。日本人の先輩はフランスに行ったばかりで大変な忙しさだ。しかも時差の関係上、メールがやり取りできるのは夜しかなく、おまけにそのフランスの研究室にはウィンドウズもマックもないらしく、日本語も使えない。ローマ字でのやり取りである。名古屋の先生もこの時期は自分の学生の世話で多忙の毎日である。余計な手間をかけさせるわけには行かない。「手続きを手伝ってほしい」などという生易しいものではなかった。
 私は、ここに来てなぜか二人の研究を勉強しなければならなかった。しかも、理論とコンピュータシミュレーションに関してである。二人の学生と英語とローマ字でやり取りし、名古屋の先生に説明する。また質問がくる。それを聞きに行くことの繰り返しである。友人から猫の手を借りてきたが何の役にも立たなかった。
 それでも、なんとか名古屋の先生が納得するまで説明し、フランスに行った先輩の論文がメールに添付されてきたので、これを製本することができた。二週間ほどかかったが、自分の支度をする前にもうフラフラであった。
 なんとか一段落したのでY先生に報告すると
 「人のことはええけど、自分の論文はどうなってるんや?ちゃんと提出できるんやろな」
この瞬間、最低血圧が最高血圧を追い抜いたのがわかった。
 私の締め切りまで一月をきっていた。


論文提出と公聴会


 私の作る公文書は短いことを特徴としている。完成した論文は五〇ページ。歴代の学生の中でも、紙資源の節約度はナンバーワンである。公聴会までの手続きは、二人分こなしていたので、もう慣れたものだった。名古屋の先生には
「さすが三回目だけあって完璧です」
とお褒めいただいた。あの努力は無駄ではなかった。さて、それから博士論文を提出に名古屋まで出向いたところ、
「えっ、こんなに薄いの?こんな厚さで教授会通るかなー。どうして両面印刷にしたの?片面印刷なら倍になるのに」
もっともな御意見だったが、その年から、規定で博士論文は両面印刷とすると定められてしまったのだ。しかし、使った紙は市販品で最も厚い紙を使用したことを伝えると、先生も私の努力を認めてくれたようだった。
 公聴会は3月に行われ、無事に終了した。月に学位が授与され、三年と一月かかって、私は博士号を取得することができたのだった。


その後

 というわけで、 結局研究職でやっていくのはあきらめたのだが、とくに後悔もしていないし、どの研究室でも楽しく過ごすことができた。
 続きはまた詳しく書くことにするが、その後は以下のような人生を過ごしてきた。
 京都で二年間フリーターをしながら、実験を続けた。卒業当時やっていた実験でよい結果がでていたので、これだけは論文にしたかったからだ。その間就職活動をしていたが決まらず、ひょんなことから東大で博士研究員として採用されることになった。三年契約で博士研究員を勤めた後に、地元の山梨に戻り、現在に至っている。