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1998年8月
1998年は実り多い年であった。同年秋季中国語研修を受けるため、8月中旬に西安に行くことを目安に、7月下旬に北京に入った 。このときは、北京に2週間ほど滞在し、その後、大同、フフホト、蘭州を経由して、西安に行き、研修中は、韓城、天水、成都、楽山な どを訪ね、研修後に洛陽、開封、揚州を経て、11月に上海から帰国する計画を立てていた。
この旅行記は、その最初の部分、北京滞在中に往復夜行列車、現地一泊で「泰山・曲阜」旅行をしたときのものである。夜行列車の旅は、これが初めてであったので、若干緊張したが、思ったより快適な旅であった。この旅行の経験は、その後の旅におおいに役立った。
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泰山は五岳の長、秦の始皇帝はじめ歴代の皇帝が権力の象徴として崇め、封禅の儀を行った聖山である。世界遺産にも登録(1987年) されている名山でもある。五岳とは、泰山(東岳)、華山(西岳)、嵩山(中岳)、衡山(南岳)、恒山(北岳)をいう。このうち、東岳泰山を天下第一山と呼ぶ。泰山は中国で最初に世界遺産に登録されたグループに属する。( 1987年、 故宫、周口店北京人遺址、泰山、長城、秦始皇陵及兵馬俑坑、莫高窟 )
我登上了泰山(泰山に登りましたよ)と人に言いふらしたくて、標高1545メートルの泰山を目指した。正直いうと、ケーブルで登ってしまったので、あっという間に頂上近くの南天門に着いた。しかし、帰りはこの足で、中天門まで十八盤の急な石段1600段を下りた。膝ががくがくになってしまった。逆に石段を登ってくる人を大勢見たが、これは大変だと思った。しかし、上りも下りもケーブルでは、景色を楽しむことが出来ない。下りる途中で、「我登上了泰山」と胸にプリントしたTシャツを買った。
<曲阜の孔廟と孔府>
曲阜は孔子の街。古くは伝説の黄帝の生誕地、周の時代は魯国の都として栄えた。孔子、孟子、顔子らを排出した街でもある。孔子の死後、2500年にわたって儒教の聖地として栄え、今なお多くの人を集めている。孔廟、孔府、孔林は世界遺産に登録されている。
(2) 泰山にジャンプする。 (3) 曲阜にジャンプする。
1998年8月7日 北京から泰安へ
今日は朝から曇りだった。テレビの予報では、今日は29℃とのこと。いつもそうだが、朝のうちは曇っていて、いかにも雨が降りそうな気配。しかし、北京に来てから雨は一回ぱらっとしただけで、降っていない。午前中はトランクに殆どのものを詰め込んでみた。どうやら辞書などを西安外語大まで郵送しないでもトランクひとつに詰め込めそうなので、郵便局まで行く手間が省けた。
昼食は大学の学生食堂でラー子鶏丁 5.50 ご飯 1.0元 少しラー油が利きすぎていたのか辛かった。今夜は泰安まで夜行列車に乗るので、午後は昼寝をして、身体を休めた。夕方、外に出たら、比較的に涼しかったので、滞在中の北京交通大学の校庭の木の写真を撮って回った。新聞では最高気温が 27℃になっている。テレビの予報より低い。それでも歩き回ると少し汗ばむ。夕食も珍しく学食で取る。久しぶり。白菜肉片 5.50 白菜が美味しい。塩辛かったが、ぴりぴり辛くはないので美味しかった。白菜がさくさくしている。ご飯 1.0元 お腹によくおさまった。ビールは学食入口の売店で買って持ち込んだ。2.30元
18:30 まだまだ時間があるので、中井貴一主演のテレビ番組を見る。「男人三十五」Age 35 田中美佐子、瀬戸朝香、椎名浩平などが共演している。多分、香港で放映されている番組だろう。
20:35 宿舎を出て駅へ。16路のバスと、地下鉄を乗り継いで北京站まで行く。北京站の軟席候車室がどこか分からない。51次に指定された第二待合室で少し待つ。人が一杯だが、かなり広いのでごみごみしてはいない。みんな静かに待っている。51次の改札口が既に指定されているので、その下にもう大勢の人が立って並んでいる。空調が緩いので、蒸し暑い。扇子をしきりにばたばたする。田中角栄になったみたいな感じ。22時を回ったところで改札が始まった。どっと人が押し掛ける。第三站に降りると、指定席の8号車はすぐ目の前に止まっている。寝台4つの個室になっているが、同室になるはずの他の3人はまだ来ていない。
火車は10分遅れで発車。発車してから3人埋まった。室内は冷房ががんがん効いていて寒いくらい。ジャンパーを出して着る。発車して大分たってから、普通の温度に落ち着いてきた。とにかくもう何もしないで、一心に寝た。途中、あまり目を覚まさなかった。
8月7日付 (1998年) の China Daily に、長江氾濫の記事が出ていた。それによると、6月中旬以降、2,000人が死亡。28省都市自治区の2億4千万人(全人口の1/4)が影響を受けた。1954年以来最悪。558万戸が破壊、1205万戸が損傷、地滑り、雷、落石、土砂流などが死亡の主原因。1380万人が避難。1カ月以上にわたって、長江、洞庭湖、ポー陽湖は、警戒水位を超えている。1954年の洪水の時、荊江での長江の水位は44.67m 今回は44.68m をこえ、8月7日は ついに44.95mとなってが、これは史上最悪の事態。長江6300kmで一番危険な個所となっている。
1998年8月8日 泰安到着、すぐ岱廟へ
部屋の外の人声で目が覚めた。部屋の鍵をはずして外に出てみると、もう人が動き出していた。5:50 到着予定なので、5:30に目覚ましをつけておいた。大分遅れているらしい。いつものことだが、トイレに行ったら、大勢待っていた。6時になってからコーヒーを入れて飲んだ。落ち着いた。
結局、泰安駅(現泰山駅)に到着したのは6時半頃。すぐ荷物を駅構内の手荷物預かり所に預けた。2元/日 相変わらず客引きがつきまとってきて離れない。駅前広場の雷峰の銅像前に腰掛けて、少し休んで気を落ちつける。とにかく飲まれてはいけない。自分を取り戻すこと。ガイドブックを開いて読んだり、ビデオ取ったりして、時間をおいた。駅前広場は、かなり広いが、まだ朝早いので、人や車はあまりいなくて、がらんとした感じだった。

余裕の軟臥上鋪 泰安駅前広場
まず、駅前広場から4路のバスで岱廟に行った。7:30 開門ということで、岱廟の前の広場で少し待つ。美味しそうなワンタンの店が出ていたが、衛生上よくなさそうなので、朝食は止めた。
岱廟は歴史の古い寺廟である。中国五岳の首、泰山(東岳)之神に捧げられているところから、東岳廟とも呼ばれる。泰山の泰をとって、泰廟と書かれることもある。もっとも泰山自身、岱山と書かれることもある。泰と岱は、古くは、同じく「大」を意味したと、物知りの書物にあった。
古代帝王が、泰山に封禅の儀に行幸するときは、ここで祭祀を行い、滞在したとある。帝王はそもそも天の命を受けて即位したもので、封禅は帝王が天帝と意思が通じていることを示す儀式である。その儀式を行うには、二つの条件が満たされなければならない。一つは、天下太平、国家興隆であること、二つは、瑞祥(ずいしょう)が天よりあらわされていることである。後者はつまりこれは天が帝王を表彰していることを示すものである。
したがって、実力があり、大きな功績を挙げた皇帝以外、この儀式をすることはできなかった。「史記」によれば、始皇帝以前には、72人の帝王がこの儀式を行ったとある。始皇帝以降は、始皇帝のほか、漢の武帝など、十数人が封禅の儀式を行ったと伝えられている。このうち、漢の武帝は8回、清の乾隆帝はなんと10回も封禅の儀式を執り行っている。清の康煕帝は2回、あとは一生に一度だけの儀式であった。隋代には文帝、唐代には高宗と玄宗皇帝が封禅の儀を行っている。 ( 中国旅游ノート--024 歴代帝王の封禅祭祀一覧表はここをクリック )
封禅は、封と禅に分けられる。封は天にもっとも接近するため、泰山の頂上に丸い壇をつくって天を祭り、禅は泰山の下にある小山に四角の壇をつくって地を祭るものである。

双竜池 遥参坊
7:30 開門時間になった。岱廟の前の道路、通天街から岱廟に入ろうとすると、まず、道路の真ん中に池があり、槐の樹が茂っている。東南と西北の角に石彫りの竜頭像があり、そこから水を噴出しているので、双竜池と呼ばれている。清代の光緒六年(1880年)に造られた。そこから、岱廟よりに石造りの牌坊がある。遥参坊と呼ぶ。これが遥参亭への門である。前の池より古く乾隆三十五年(1770年)に造られている。
遥参亭(あるいは遥参門)は、いわば岱廟の前庭に当たる。境内の中ほどに建つ本殿には、泰山老婆・碧霞元君が祀られている。古代帝王が泰山に臨幸された際には、まず、ここで簡単な儀式をした。古くは草参亭と呼ばれていたが、明代の1534年に現在の遥参亭に改められた。泰山神を遥かに参拝するという意味をこめたのであろうか。ここは見るべきものはほとんどない。入場料1元は、いわば岱廟への通行料みたいなものである。だが、中国人の間では、泰山神を参拝する前に、まず遥参門を拝め、といわれている。これは古代帝王の参拝に習ったものであろう。

遥参亭正殿 泰山老婆・碧霞元君之神
遥参亭と岱廟の間にというか、岱廟の門前には、遥参坊より、はるかに大きく立派な石の牌坊がある。岱廟坊という。高さ12米、幅9.8米、奥行き3米、四柱三門式で、さすが功績大なる帝王を迎えるにふさわしい牌坊である。石柱の浮き彫りもすばらしい。「丹鳳朝陽」、「二龍戯珠」、「群鶴鬧蓮」、「天馬行空」などの文様が刻まれていて、いかにもめでたい。また、石柱の南面には、「峻極于天、賛化体元生万物、帝出乎震,赫声濯霊鎮東方」、北面には「為衆岳之統宗,万国是瞻巍巍乎コ何可尚、摻群霊之総摂,九州待命蕩蕩乎功孰于京」と対聯が刻まれている。建立されたのは清代康煕十一年(1672年)である。清朝石彫芸術の粋といえよう。

奥に見える門を出ると岱廟に入る 岱廟坊。奥に見えるのが正門の正陽門
ここを入ると、岱廟の正門、正陽門に至る。がっしりとした大きな城門である。岱廟は四方を城壁で囲まれており、この門から城内に入る。そのむかしは、帝王しかこの門をくぐれなかったという。この門は、痛みがひどく1985年に宋代の建築に沿って改築された。門の高さは8.6米、その上に建つ城楼は11米ある。屋根が黄瑠璃瓦で覆われているのは、やはり格式の高さを示している。
岱廟の創建は、西漢の史料に「秦即作畴、漢亦起宮」と記載されているというから、秦の時代に遡ることは間違いない。唐代の開遠十三年(725年)および宋代の祥符二年(1009年)に大規模な拡建をしたという記録もある。しかし、現存の建造物は、その後、金、元、明、清代に歴代の皇帝が修復・拡張に力を入れ、現在の広大な建築群となったものである。
岱廟建築群の中心軸には、南から北に(ほぼすべての寺廟建築に見られるように、すべての殿宇は南向きに建てられている。したがって、南から北というのは、入り口から奥に向かって、ということになる)、正陽門、配天門、仁安門、天貺殿、後寝宮、厚載門とつながる。
どっしりとした正陽門のさきは第二の山門、配天門である。宋代の建築で、1005年に建立された。孔子様のことば「徳配天地」から取って名づけたものである。もと青龍、白虎、朱雀、玄武の四方星宿が祀られていた。

配天門 境内を真っ直ぐ南北に走る甬道
第三の門は、仁安門という。これも孔子様のことば「天下帰仁」に由来する。もと天聾、地唖の神が祀られていたというが、これは聾唖をいうので、その由来はよく分からない。創建は元代の1338年である。
この間の参道の東西両側に有名な石碑群が建っているが、あまり関心がなかったので、一通り見て回っただけだった。中には、垂涎の的の石碑もあるらしい。ここには、184 の歴代の碑刻と 48 の漢画像石があり、西安、曲阜の碑林に次ぐといわれているほどなのである。
中でもよく知られたものは、岱廟配天門東側にある宋代の宣和碑は、《宣和重修泰岳廟記碑》つまり宋の宣和六年(1124年)に岱廟を重修したことを記したものである。碑高9.52米,幅 2.1米,厚さ 0.7米の大きなものである。五嶽獨宗の力強い文字を刻んだ碑は、北宋代の1013年に建立された《大宋東岳天斉仁聖帝碑》で、高さ8.2m 岱廟で最古の碑である。

大宋天斉仁聖碑(1013年建立) 宣和重修泰岳廟記碑(1124年建立)
数々の碑刻のほか、古典園林としても秀でた風情をもっていると賞されているが、素人目で見たところでは、漢柏が目立った程度だった。。多くの人がその前で記念写真を撮っていた。紀元前110年、漢の武帝が封禅の際、お手植えになったと伝えられる樹齢2千年超の古木というが、そんなはずはないだろう。しかし、古木で貫禄はあった。漢柏の漢は、この故事にちなんで名づけられたものである。
漢柏の古木 奥に見えるのが岱廟の本殿、天貺殿
仁安門のさき(北)にある天貺(「貝兄」きょう)殿は、岱廟の主殿で、宋の真宗趙恒がいわゆる「天書」を祝うために、宋代の1009年に創建された。それで「宋天貺殿」と書かれた大きな扁額が、入り口の上に掛けられている。天貺の「貺」は、クアン kuang4 と発音し、賜う、を意味する。
本殿の中央に祀られる主神は、東岳大帝、つまり、泰山の神様である。いまの尊像は1984年に重塑されたものである。この彩色塑像の坐像の高さは、なんと4.4米ある。主神の泰山神は、道教で信奉されるところの「百鬼之神」で、生死を主宰する。唐代には「天斉王」、宋代には「天斉仁聖安」、元代には「東岳天斉大生仁皇帝」に封じたが、明代以降「東岳泰山之神」と称されるようになった。
宋天貺殿 東岳泰山之神
主殿の前面は、露台のようになっており、石彫りが施された漢白玉の欄干で囲まれ、雲形の彫りの柱が斉列しているところは見事である。
殿の東西の幅は43.67米,南北の奥行き17.18米,高さ22.3米で、正面九間、奥行き五間の、いわゆる九五様式の宮殿造りは、皇宮にのみ許された建築様式で、故宮の太和殿、曲阜にある孔廟の大成殿と並んで、中国三大宮殿建築と呼ばれている。この「間」というのは、尺貫法でいう「間(けん)」ではなく、柱と柱の{間(あいだ)」をいう。したがって、正面九間というのは、正面の柱が十本あることを意味している。
殿内の壁三面に描かれた高さ3.3米、長さ62米の大きな壁画は、「泰山神啓蹕[足畢]回鑾図」(けいひつかいらんず)といい、泰山の神様が出巡・回鑾(巡幸に出られる・行幸啓から帰られる)する際の盛んなさまを描いたもので、画面には車水竜馬(車馬の盛んな往来)、点在する樹木などに千姿百態の人物691人(672人説もある)を配した大作である。壁画の東面、つまり、向かって右側が出巡、西面、同左側が回鑾の様子を描いている。宋代の遺作と伝えられている。もっとも、修復など、後年何らかの手が入っているという。


天貺殿の後ろは、后寝宮で、泰山神の后(きさき)の寝宮、居所として宋代に創建されたものである。
寝宮を出ると、西に鉄塔、東に銅亭がある。鉄塔は明代の1533年に鋳造されたもので、もとは13層あったが、いまは3層しか残っていない。銅亭は明代の1615年に鋳造され、当初は泰山頂上の碧霞元君に立てられたが、明末清初に山の下の霊応宮に移され、1972年に岱廟の現在所に移された。現在、北京頤和園の銅亭、昆明鳴鳳山銅亭とともに中国に残る三大銅亭のひとつとされている。

銅亭 鉄塔
ここをさらに北に進むと、岱廟の最後の門、厚載門に至る。1984年に重建されたもので、まだ新しい。門の上に望岳閣があり、ここから雄大な泰山を遠望することができる。岱廟のとっては最後の門であるが、ここを出ると泰山に至る道が続く。つまり、ここは天に登る入り口となる。

境内から見た厚載門 城外、紅門路から見た厚載門
裏門から出て、泰山正面参道入り口になる岱宗坊門前にある CITS (中国国際旅行社) まで歩く。ちょっと分かりずらい所だった。看板もしっかりしていないし、建物自体も地味すぎる。どこに入ってしまうのかなといった感じ。入口で聞くとここだ、三層という。二層に上がってみたら、そこが事務所だった。聞くと、王さんは午後に出てくる、いま分からないから、午後4時に電話してみてくれというではないか。日本部もあって、日本語ができる人と話して、天気良くないから山に泊まっても日の出は無理だろう、歩いて登るのは大変だから、ロープウエーで行けとアドバイスしてくれた。どこかいい宿屋がないかと尋ねたら、すぐ隣の泰山賓館に電話してくれ、一泊 280 を 260元にするといってくれたが、決めずに出た。
岱廟の参詣を済まして、泰山に向かった。
続き「泰山・曲阜--(2) 泰山」 を見る。 (2006.10.01)
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