野田天神について

 
野田天神の創始者は、北野田の東倉市太郎である。
 明治14,15年頃彼は牛に突かれ怪我をしてから足が不自由になり、農耕も思わしくなかったところから、転職を考えるようになった。
 転職の最初は仕立職であったが、長くは続かず、その頃東倉家に立ち寄った浄瑠璃語りの六安という旅芸人の奨めで人形作りをするようになった。六安は、以前九州博多で人形作りの手伝いをしていたことがあるというので、市太郎はこれを家へひきとり、二人で始めたのである。
 最初は、「年かえし」といわれる一文デコを作っていたが、肝心の顔の艶出しがうまくできなかった。六安の技量も見真似程度のものであまり期待ができなかったとことから、市太郎は不自由な足で大阪住吉の人形師をたずね、その教えを乞うた。しかし、相当の年期を必要とするところから、職人を傭うことにして自分は先に帰国した。帰ってみると、六安が良質の粘土を発見しており、しばらくすると大阪からの職人も到着したので、人形作りもようやく本格的となり、軌道に乗るようになった。
 市太郎はさらに九州をたずね、博多土人形の型や作風を研究するなど努力を重ね、野田人形の基礎を確立した。
 人形の種類はほとんど雛人形で、「天神」のほかに「金時・清正・神功皇后・武内宿祢・福助・招き猫・夷大黒」等があり、「天神」の創始は大体明治20年頃だったようである。「野田天神」の原型は、京都の衣裳天神がモデルといわれ、伏見天神等も参考にされたようである。

  

(資料:重信町発行「重信町誌」)