第9廻京都哲学道場#レジュメ
ぼく(itikun)が製作し、
第9廻京都哲学道場
に用いたもの。テーマは「分離脳の思考実験」です。
[2006.12.16]京都哲學道場No.9/[2006.11.27]レジュメ製作
分離脳の思考実験
〔TANI Rohei〕
【もくじ】
1.
導入
2.
概念
3.
綜論
4.
諸説
5.
帰結
1.導入
プラナリア〔ナミウズムシ Dugesialatum japonica〕という生物が存在する。この生物は、世にひろく知れわたっている通り、非常な再生能力をもっている。たとえば、あるプラナリアを半分に切ると、切られたプラナリアは二匹のプラナリアとして再生する、というがごとくに、である。初めてこのことを知った時、ぼくは激しい不合理を感じた。というのも、かりにぼくがプラナリアであるとして、じぶんのからだが半分に切られてしまったとすると、じぶんがいったい
どういう事態
を経験し、結果、ぼくが
どちらのプラナリア
になるというのか、まったくイメージできなかったからである。ところで、人間の脳というものは、たとえ半分ぐらいが失われたところで再生可能らしい、という話をぼくは知っていた。そこで、じぶんの脳がとある外科手術によって半分に切り分けられ、それぞれ別の身体に移植された場合、ぼくはいったいどうなってしまうのだろうか、と考えた。ぼくはこの思考実験を、じぶんが初めて考えたものだろうと思っていたのだったが、近頃になって、分離脳の思考実験というふうによばれ、人に知られているものであるらしいことを知った。
2.概念
あなたは脳をふたつに分けられてしまうことになった。頭蓋骨がひらかれ、メスが差し込まれて、今、あなたの脳はだんだん切り分けられてゆくところである。あなたは意識を清明に保てているとする。さて、脳が切り進められるにつれて、あなたはいったいどういう事態を経験し、最終的に脳が切り分けられた時、あなたはいったいどうなってしまうのだろうか。この思考実験の概念は、以上のように簡潔なものである。
3.綜論
この思考実験は、ぼくにとってはたいへんふしぎなもので、哲学に残されたもっとも手強い謎であろうとすら感じていたのだったが、人によっては、なんの不合理も感じないことがあるらしい。この「感じるか感じないか」の差はどこにあるのだろうか。それを明らかにできたとすれば、それだけでもこの思考実験の意義はおおきいことになる。
この思考実験のもつ不合理は、脳を切られている者が「じぶん」である時にしか成立しない。眼のまえに客体としての他者がおり、その他者が脳を切られてふたりになってしまったとしても、それだけではなんのふしぎもない。世界にただひとり存在する「じぶん」という一点からながめおろした時にのみ、この思考実験は実験たりうることになる。永井均(1951-)の言葉を借りるならば、その人間の生が
内側から生きられている
時にのみ、このふしぎを考察することが可能となるのである。だから、このパラドクスは物理-客観世界においてはただしく存立することができない。
ところが、この思考実験は「じぶん」という一点(この場合、永井の<私>概念がもっともそぐうだろう)からながめるだけでは解決がつけられない。この思考実験は、いやおうなく脳と心の繋がりを考えさせる。その意味で、この思考実験は心身問題の極致である。また、この思考実験は、切られるまえと切られたあとをそれぞれ考察するのでは、解決がつけられない。切られたあとの状態とは、要するにふたりの人間がいるだけのことで、そのうちのひとりが「じぶん」であるとするなら、ここにはなんのふしぎもない。切られるまえから切られたあとへの変遷こそが、この思考実験の枢要をなす論点である。だから、この思考実験は時間論でもある。時間的遷移を描出できる理論でなければ、この思考実験に解決を与えることができない。その意味では、永井の<私>概念は不適格だろうか。
4.諸説
この思考実験を検討してみて、ぼくは次の六説を解決として与えることができた。むろん、ここに書いた六説が与えうる解決のすべてではないし、むしろこの六説のなかに真の解決はないのではないかとぼくは思う。
i.唯物論
A.唯物論
唯物論は、この思考実験に解決を与えることこそできないが、この思考実験の成立基盤を認めないことによって、これを解消することが可能である。世界は完全な物理的‐客観的存在であり、世界のひらける一点としての「じぶん」の存在を幻想であるとするのならば、そもそもこの思考実験がなにを言おうとしているのかさっぱり分からないことになるだろう。これは言うなれば信仰の対決であって、信仰の対決に答えを与えることはできない。唯物論は、だから真理であるとすら言えよう。しかし、その真理をぼくは信じないものである。
B.自我現象説
この説は、初めてこの思考実験を思いついた時にぼくが提出した解決であり、今から考えなおしてみると単なる唯物論の派生説であり、現在はなんの魅力も覚えない。自我というのはひとつの現象であり、その現象を表現する枠のようなものが存在する。この枠というのは、テレヴィの受像機みたいなもので、そこに電波が与えられることによって番組という現象が表現されている。脳をふたつにするというのは、つまり自我という現象がふたつに切られるということで、テレヴィの比喩で言うなら映される像がだんだん切り分けられてゆくということである。ところが、このテレヴィはおもしろい性質をもっていて、テレヴィの限界と映される現象の限界とが厳格に一致するのである。そこで、現象が切り分けられるということは、そのまま受像機という枠が切り分けられることを意味する。最終的に映像がふたつに分かれた時、テレヴィの受像機もふたつに分かれてしまうのである。しかし、この解決はいかにも
あきらめムード
である。こういう事態を考えるためには、どうしても視点を超越させてうえからながめおろすこと(超越論)が必要になり、それは自我を客体として扱っているにすぎないのだから、唯物論と違いがない。思考実験そのものを唯物論的に変質させてしまっているのである。あるいは、テレヴィと映像と言う代わりにプールと水と言ってもよい。しかし、この比喩は、切られているものが視点であることを忘れてしまっている。プールの中に視点を泳がせ、その視点が、プールが切られてゆくと片一方のプールに入りこむ、と。このような事態を想像することは可能だが、プールの中に視点が泳いでいるのではない。プールそのものが視点なのである。
ii.観念論
A.重ね合わせ説
自我の同一性はあくまで保たれるというのが、また別のタイプの解決であろう。脳が半分にされようがあるいはみじん切りにされようが、われわれの崇高な魂は半分にされもしなければハンバーグにされもしない、というスタンス。そして、じぶんが1氏と2氏とに切り分けられる時、1氏になる可能性も2氏になる可能性も五分五分なのであるから、1氏と2氏とが重ね合わせられてしまう、というのが重ね合わせ説である。視界は二重映しになり、怒りとよろこびを同時に感じ、ほとんど混線とも言える状況に陥ってしまう。この解決は、じぶんが1氏になる権利も2氏になる権利も同等にもっているということを厳格に解釈したものである。しかし、この解決は、ほんとうに自我同一性を保てていると言えるのだろうか。1氏と2氏とは別の人物になってしまったのであるから、1氏の思考と2氏の思考とにはまったく疎通がないことになる。まったく疎通がないふたりの人物を、どうやって自我はひとりの人物として統合しえるのであろうか。その時、統合とはいったいなんなのであろうか。さっぱり分からない。
B.無作為説
重ね合わせ説のちょうど逆をゆくのが無作為説である。無作為説は、1氏になる権利と2氏になる権利とが同等であることは認めるが、だからといって重ね合わせられるということは承服しない。権利が同等であるなら、あとは偶然が左右すると考えるのである。すなわち、脳を切り分けられたぼくは、無作為に1氏か2氏かのどちらかになるのである。この解決は、たしかに指摘できるような矛盾を見たところ含んでいない。しかし、この解決が真理であるという根拠、保証もまったくない。ちょうど「10030年前の今日、この山の一本の樹にカミナリがおちた」と言うようなもので、たしかにそうであっても矛盾はないが、だからといってそれが真であるとは言えないのである。
iii.不能論
A.イメージ不能説
不能論は、この思考実験は解決不能だとする説である。はじめにイメージ不能説。この説は、じぶんの脳がふたつに切り分けられる場合、なにかとんでもない、言語表現が不可能な、イメージすらできない、とにかくもの凄い、おそるべき、ちょっとたいへんなことが起こるという説である。しかし、われわれが経験可能な事態でありながら、われわれがイメージすることが不能であるような事態があるのだろうか。かりにあるとすれば、どういう根拠によってそんなことが言えるのだろうか。この疑問に、イメージ不能説はなにも答えてくれない。
B.不可知論
不可知論は、じぶんの脳がふたつに切り分けられる場合、なんらかの事態が経験されることは認めるものの、われわれの理性ではその経験がどのような経験なのか知ることができないのだ、という説である。実際に脳を切り分けられてみて、初めてどうなるのかが分かるのである。不可知論はいろいろなパターンがありうるため、分類は省略する。
5.帰結
ぼくが考えた以上六説の解決のうちに、ぼくを心から納得させるような解決は、残念ながら含まれていなかった。結論として言えば、今のところ、ぼくにこの思考実験を解決できるような理論はない。ねちっこい議論と、素晴らしい解決とを、所望させて頂くものである。
――了わり――
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