第9廻京都哲学道場の私的レポート


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 第9廻京都哲学道場につきまして、ご報告申しあげます。実施日時は 2006 年 12 月 16 日(土曜)の午后二時から。発表者は、前とおなじくぼくで、テーマは「分離脳の思考実験」であり、参加者は深草氏、崎山氏、うみねこ氏、hiropon氏、ぼく(itikun)の五人でした。レジュメはこちら

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 分離脳の思考実験というものについて、ぼくにはまったく予備知識というものがありませんでした。つい二か月くらい前までは、この思考実験をはじめに考えたのは自分であろうと誤解していたくらいです。そういったわけで、アプローチも必然的に一般とは違ったものになってしまっていたようです。みなさんは、おそらく「実際に脳梁を切り離したりする実験結果などをふまえ、脳を分離することが人格などにいかなる影響を与えるのか議論する」といったような科学的実証的アプローチを期待していらっしゃったようで、それに対してぼくが試みたのは、ほとんど永井均の<私>概念を前提してしまっているような、徹頭徹尾メタフィジカルなアプローチなのでした。
 分離脳の思考実験というものがどのようなものなのかをご説明するため、とりあえずレジュメから引用してみることにします。

『あなたは脳をふたつに分けられてしまうことになった。頭蓋骨がひらかれ、メスが差し込まれて、今、あなたの脳はだんだん切り分けられてゆくところである。あなたは意識を清明に保てているとする。さて、脳が切り進められるにつれて、あなたはいったいどういう事態を経験し、最終的に脳が切り分けられた時、あなたはいったいどうなってしまうのだろうか。この思考実験の概念は、以上のように簡潔なものである』

 このたびのレジュメは、(まったく急ぐ必要がなかったにもかかわらず)急いで書いたもので、個人的に満足がゆくものではありません。非常に表面的な議論しかしておらず、なにか深い考察や方法論を提出することもできませんでした。さらに、冗長であったりもします。そこで、議論を終えてからふりかえってみると、今廻の哲学道場はほとんど「諸説の精査と分類」に当てられてしまっていて、結局どの説がただしいのかを議論する段にまでは辿りつかなかったようえす。
 議論の終盤においてぼくがやったことは、おおよそ永井均の<私>概念を解説することにつきました。しかも、誰ひとりきっちりと納得させることができなかったので、ちょっと不本意なものがありました。はたから見ていると、まったく「永井信者」同然のことをやっているように感じられたことでしょうが、ぼくの本音は永井説そのままなのでなくて、むしろ「どうしてこのような<私>概念が要請されなくてはならないのか」という基盤を明らかにし、そこから立ちもどって哲学を再構築するというところに、つまり永井説の批判的検討とでも言うべきところにありました。しかし、こういったことを行うためにはその前提として「<私>概念は要請されなくてはならないものだ」という共通理解が必要なわけで、この共通理解をひきだそうと苦心していたのが今廻の哲学道場だと言えます。……不可能でした。すくなくとも、誰にとっても要請さるべきものではないわけです、永井の<私>は。しかし、哲学的自我論が人々の興味をひくことができるのは、その根源に永井いわゆる<私>とまったく同一の概念(あるいは比喩)を見ているからだとぼくは理解しています。そうなると、どうして永井の<私>を感覚させることがこれだけ難しいことなのか、ぼくには理由が分かりません。なんと言いますか、ぼくとしては、永井の<私>はまったく難解な哲学概念などではなく、むしろ自我を議論する時にはほとんどすべての人が永井の<私>を感覚していると思うんですがねえ……。

 議論のはじめごろに、深草氏と崎山氏から、ぼくの想定していなかった説が提出されました。脳というものは、ほんのちょっとの損傷ではその機能を失うことがありませんから、たとえばピンセットでつまみあげられるぐらいのカケラを脳から剥ぎとったとしても、それで自我同一性が失われたりはしないでしょう。こうして考えてゆくと、脳には自我同一性をつかさどる部位が局在しているのではないか、という「仮説」が提出できます。そして、その部位めがけてメスをおろした場合、いったいなにが起こるのかということなのですが、深草氏はこうおっしゃいました。『そこにメスが入ったら意識が失われるんじゃないかな』。言われてみると、そうかも知れない。そうだとすると、この思考実験は意識の清明を前提していますから、まったく無意味だということになります。とりあえず、諸説の「不能論」につけ加えるべき一説だと思いました。しかし、この説が解決になりうるのかどうか、ぼくにははっきりと判断をくだすことができません。思考実験は現実問題ではないのですから、現実的に意識が失われるのだとしても、なお思考実験が成立する余地は充分あるのです。しかし、そもそも「意識の成立」が自我同一性を必要条件にしているのならば、自我同一性が失われると必然的に意識は成立しなくなります。これも解答としては悪くないのかも知れません。
 諸説のはじめは唯物論目唯物論科です。ここでぼくが定義した唯物論は、もちろんぼくの恣意的な定義で、深草氏は唯物論者を自称しておられますが、しかしここで言うような「唯物論」者ではないようです。のちのち永井の<私>のことをぼくは<枠>という言葉で表現しました。<枠>は事実のイレモノであり、それそのものとしては事実ではありません。こういう表現は誤解をまねくようですが、すくなくとも世界に成立している事実ではないのです。ですから逆に、この<枠>をとりはらっても「成立している事実の集合」としての世界はなにひとつ変化をこうむりません。ここで事実と言っている概念には、主観的事実(t-1時点のx-1地点において、××氏が悲しみを感じた、というような事実)も含まれます。そうすると、もうこの場において、ぼくの唯物論科の定義があいまいだったことが明らかになります。唯物論だけでも、さらに二種類に分類されるべきだったのです。

1.事実のイレモノとしての<枠>を認めず、主観的事実の存在は認める唯物論。
2.事実のイレモノとしての<枠>を認めず、主観的事実の存在も認めない唯物論。


 深草氏は、ここで唯物論という言葉を2の意味で用いておられ、おそらくぼくは1の意味で用いていました。しかし、まだこの時点で<枠>(=<私>)と主観的事実(=人格)との対立は自覚化されていなかったので、ぼくは誤解を訂正しなかったのはもちろん、そこに誤解があったということにすら気づけてはおりませんでした。1の意味で唯物論を再定義する場合、深草氏や崎山氏は、ぼくの定義のうえにおいても唯物論者ということになります。
 続いては自我現象説(唯物論目)。この説は、要するに唯物論なのですが、イメージはすこし違います。しかし、最終的には視点を超出させることによって、唯物論とおなじ立場に立つものです。この自我現象説はぼくの独創ですが、ここにも<私>概念の萌芽を見ることができるでしょう。ぼくが用いたテレヴィの比喩。ここにおいてぼくは、現象を表現する枠としてのテレヴィの受像機のようなものを考えました。この「現象」というものが主観的事実のことで、テレヴィの受像機がつまり<私>です。そう考えなおすと、二年半前(自我現象説を考案したのは中学三年生の春でした)のぼくがいったいなにをやってしまったのかということも明らかになります。ぼくはここで、<私>を客体化して死んだ概念にしてしまったのです。永井<私>の基本的な存在様式は<独在性>というものであり、これは「絶対に客体化されえない(それゆえ<私>を数えることができない。つまり<私>は常に独りで在る)」という意味です。これを客体化してしまったのですから、自我現象説はひどい無茶をやったものです。しかし、今から思ってみると、分離脳の思考実験に悩まされ続けたあげく、苦しまぎれに<枠>を客体化して死んだ概念にし、それによってこの思考実験を解決したものと信じた過去のぼくは、なんだかよくやるよなあという感じです。
 先の唯物論の二分類に対応して、観念論もやはり二分類されることになります。それは次の通り。

1.事実のイレモノとしての<枠>を認めて、主観的事実の存在も認める観念論。
2.事実のイレモノとしての<枠>を認めず、主観的事実の存在は認める観念論。


 観念論2は、先の唯物論1とまったく同じですが、この観念論2のことを深草氏や崎山氏は観念論とよんでおられ、ぼくは唯物論とよんでいたのです。ぼくの言う観念論とは、観念論1のことでした。やはりあいまいな定義はするもんじゃない。なにしろぼくが悪いのですが、誤解に誤解がかさなって、自覚的に誤解を発見できるようになるまでにはずいぶんと時間を喰いました。ぼくが眼目をおいていたのは「<枠>を認めるか認めないか」であり、みなさんが眼目をおかれていたのは「主観的事実を認めるか認めないか」だったのです。最初に書いた「アプローチの違い」というのも、要するにこのことを言っているのです。
 さて。観念論目重ね合わせ説科。この説に賛成している人がいなかったため、議論はあまりもりあがりませんでした。この説は、A氏がA1氏とA2氏とに切り分けられた場合、A1氏とA2氏の知覚風景が合成されて、重ね合わせられるという説なのですが、なんというか、いかにも「タマシイッ」って感じの説です。現実感がまったくありません。<枠>の存在を肯定する諸説には、ひとしく「肉体の存在を軽視する」という難点があります。しかしそれでも、<枠>を不在させてしまうよりは妥当な説だと、ぼくは感じています。
 続きまして、無作為説(観念論目)。この説こそ、今廻の京都哲学道場の中心議題になりました。この説を詳細に検討してゆくことにより、<枠>と「人格」との対立が表立ったのです。次の「不能論」諸説はたいして議論になりませんでしたから、このレポートでは省略させて頂くことにしまして、以下、無作為説を軸に<枠>と「人格」との構図を描いてゆきます。
 無作為説とは、A1氏とA2氏とのうちの「どちらか」に、無作為にA氏はなってしまうという説です。ぼくは、ほとんどこの説の擁護ばかりをしてしまいましたが、個人的には「そんな不合理なことがあるわけないだろう」と感じています。すなわち、ぼくは無作為論者ではありません。にもかかわらず、どうしてぼくは無作為説を擁護したのか。それは、消去法によって無作為説しか妥当性をもちえないからです。はじめに、<枠>を認めない唯物論諸説が消されます。次に、不能論は思考放棄であり、ぼくは思考放棄したくないため、不能論も消去。残されたのは<枠>を認める観念論のみ。ところがぼくは、肉体から離脱して単独で存在しうる魂というものを認めません。そうすると、重ね合わせ説は、肉体的繋がりがないにもかかわらず知覚のうえでの繋がりを認めるのですから、これは肉体離脱的魂とでも言うべきものであり、やはりぼくには納得できません。すると、残るのが無作為説しかないのです。無作為説は、たしかに解決として認められるようなものではありませんが、すくなくとも論理的矛盾はない。すると、現在この思考実験の答えを手に入れていないぼくとしては、必然的に無作為説を擁護するしかないのです。
 さて、崎山氏は『無作為説の場合、A1氏もA2氏も「じぶんこそがA氏だったのだ」と述べたとすると、どちらが実際にA氏だったのか判断する指標がないではないか』と、おっしゃいます。ぼくは『たしかにそうですが、それでよいのです。誰にも判断がつかなくとも、事実どちらかがA氏だったのです』と答えます。崎山氏は人格という事実について考えておられ、ぼくは事実のイレモノとしての<枠>について考えています。『おそらく、当人とカミサマにしか判断はつかないでしょうね』とぼくが述べると、『カミサマには分かるの?』と、深草氏。『カミサマにも分からないかも知れないですね』と、ぼく。実際、永井均は「主観的事実も含めて、世界内のあらゆる事実を知っている神様がいるとしても、その神様は<私>が誰なのかということだけは知らないだろう」という議論をしているのです。
 ここではじめて、<枠>と「人格」との違いが明確化されました。ホワイトボードを用いて、ぼくは永井均の<私>を説明しますが、うまく納得してもらうことができません。『あなたとまったく同じ人格をもち、あなたとまったく同じ記憶をもっている人間Pが、海のむこうの遠い国で製作されたとしても、あなたは自分がそのPではなく、日本にいるこの人間なのだということが分かるでしょう。Pと自分とを分かつ指標になるのが<私>なのであり、<私>は人格となんら関係なく独立別箇に存在できるのです』というふうに、ぼくは<私>を定義します。しかし、ご納得は頂けません。『分からないのは説明が悪いのでは』とおっしゃるのに対し、『分からないのは生きかたの違いなのです』と、ぼくは反論します。『その<私>というものが、君から抜け出てまったく知らない人のなかにスッと入り込んだとしても、君にはそのことが絶対に分からないのだろう』と、崎山氏。ぼくが同意すると、『だったら、そういうものは議論にまったく影響を与えないのだから、除外して考えてもよいのではないか(オッカムのカミソリ)』ということをおっしゃい、これに対してぼくは『あらゆる自我論、特にこの分離脳の思考実験において、中核をなしているのは<私>概念なのだから、それ抜きで議論することなどできない』と述べます。『それは信仰なんじゃないの』『信仰ではなく事実です』と、ほとんど議論が通じない状況が続きました。
 崎山氏の理論は、過去=記憶の前提のうえになりたつもので、切られるまえのA氏と切られたあとのA1氏(A2氏)との繋がりと、A1氏とA2氏との繋がりとを同列に論じるものです。あるポイントにA氏を置くと、A氏とA1氏(A2氏)との同一度は、A1氏とA2氏との同一度と等しくなり、A氏→A1氏ラインに特別な同一性を置く理由はないそうです。しかし、A→A1ラインでは知覚の記憶が共有されていますが、A1→A2ラインでは客観的事実の記憶が共有されています。つまり、質的に違うわけで、これを同列に扱うのはおかしいのではないかと、ぼくは述べました。この点については、hiropon氏も同意なさっておられました。
 hiropon氏は、分離脳の実験に対する直接的解答ではありませんが、「ダウンロード説」なるものを提出なさいます。これは、脳の電気的構造をコンピューターに移し変え、それをダウンロードすることによって人格は無数にコピーされうるというものです。この説はぼくも知っており、この説をテーマに異端文學研究『或』でエログロ小説を書いてみたりしたこともあります。さて、このダウンロード説なのですが、なんと人格のみならず<枠>までをもコピーすることが可能になるそうです。ここのところについて、ぼくは永井の<独在性>としての<枠>を考えていますから、まったく理解ができませんでした。
 そんなこんなで、それぞれの立場をはっきりさせようじゃないかという話になって、ありうるパターンを記号化してみることになりました。どういうふうにしたか。[Xx]と書いて、人格Xと<枠>xとをもった人間を表わすことにしたのです。もっとも、<枠>は客体化不可能ですから、こういう記号化をしてしまうのはなんとも無粋なのです。しかし、やらざるをえない。結果、次のようになりました。

◇無作為説
[Aa]→[Ba][C#](#は<枠>の不在を表現し、A,B,Cには同一人格を代入してもよい)

◇ダウンロード説
[Aa]→[Aa][Aa]

◇重ね合わせ説
[Aa]→[(B+C)a]

◇唯物論
[A#]→[B#][C#]

◇自我現象説
[Aa]→[Bb][Cc]


 ぼくは、ダウンロード説の結果である[Aa][Aa]がまったく理解できないと述べました。これが認められるのであるとすると、こういうものも認められなくてはならないと言って、ぼくは[Aa]→[Ba][Ca]と書いたのですが、これには崎山氏がまったく理解できないと述べました。しかし、ぼくとしては、ダウンロード説の帰結である[Aa][Aa]を認めておられる崎山氏が、どうして[Ba][Ca]を理解することができないのか、その理由を理解することができませんでした。自我現象説の帰結たる[Bb][Cc]も、<枠>をふたつ考えていることになるのですから、ぼくには認められません。<枠>は、常にひとつ、あらゆる場合にひとつだけ存在を許されるのです。
 そんなこんなで、結局<枠>の意味すらはっきりさせることもできないまま、このたびの京都哲学道場は散会となりました。<枠>はどうでもよかったみなさんと、「人格」はどうでもよかったぼくとが、その違いに気づけないまま議論を進めてしまっていたのですから、あいまいな討論になってしまっていたのも仕方ないことだったでしょう。しかし、分離脳の実験を類型化するという思考に突き当たっただけ、めっけものだったかも知れません。余談ですが、ぼくは以前、自由―決定論の類型化をやろうとしたことがあり、たとえば「類型ナンバー30:観念論的有神論かつ神の完全相関を否定かつ自由意志肯定であり破れない行為規定的相関法則肯定かつ破れない趣味的相関法則否定ならば物理的非決定論かつ倫理的非決定論」とか、ぐだぐだやっていたことがあったのですが、もちろん疲れて挫折しました。うまくいったら、相性判断機能もつけて、「あなたは類型ナンバー23の物理的非決定論&倫理的決定論者さんです。あなたは神を信じない観念論者さんですから、類型ナンバー18さん、類型ナンバー23さんとは相性がよいでしょう。また、類型ナンバー44さんとはちょっとしたことでいがみあってしまうかも。恋人にするなら類型ナンバー38さんとの相性が抜群です」とかやりたかったのに……。


深草氏による報告はこちらです


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