第8廻京都哲学道場#レジュメ


 ぼく(itikun)が製作し、第8廻京都哲学道場に用いたもの。テーマはルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの前期哲学です。


[2006.11.19]京都哲學道場No.8/[2006.11.6]レジュメ製作
事実から事態へ、そして。

〔TANI Rohei〕

    【もくじ】
1.「論考」の目ざすもの
2.事実と可能性
3.言語は世界の図像である
4.この先の「論考」


……「論理哲学論考」は、ウィトゲンシュタイン(1889-1951)の前期哲学を代表する著作である。このレジュメは、野矢茂樹(1954-)の著作「ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む」の、およそ1章から3章までに準拠する。「論考」本文をひく場合には、中平浩司の訳によった。議論に関連する「論考」本文の命題番号は〔1.12〕のような形で示した。また、初出の基本用語については青色太字で強調し、別の訳語があるものは××(=××)のような形で示した……

          1.「論考」の目ざすもの

    「論考」の序文には、『すなわち私は、諸々の問題を肝要なところでは究極的に解決してしまった、と考えている』と、ある。29才のウィトゲンシュタインは、あらゆる哲学問題を自分が解消してしまったと信じた。では、あらゆる哲学問題はいかにして解消されるのだろうか。ウィトゲンシュタインは、言語の限界を画定した。そのうえで、ほとんどの哲学が実際のところ無意味であることを示し、それら「語りえぬもの」に対しての沈黙を要請したのである。ここでひとつ注意をうながしておくなら、ウィトゲンシュタインは「語りえぬもの」を画定しはしたが、それら「語りえぬもの」を無価値だとしてきりすてたのではない。むしろウィトゲンシュタインは「語りえぬもの」を限界づけたいがために、わざわざ「語りうるもの」を示したのである。それら「語りえぬもの」には倫理、価値、神などが含まれる。
    さて、言語の限界を画定することがあらゆる哲学を解消することであるためには、言語の限界と世界の限界とが厳密に一致していなくてはならない。そんなことが、いったいどうして言えるのだろうか。その理由について説明するのが、このレジュメの役割である。

          2.事実と可能性

    「論考」は、『世界とは出来事たる一切である』という命題において始まる〔1〕。我々が思考可能な事況すべての集合を、論考では事態というふうによぶ。それら事態の中で、現実に生起している事況が事実である。だから、事実と非事実とを合わせた集合、可能的事況の集合が事態であるとも言える。事態の集合のことを論理空間(=論理的空間)とよび、その中で、とりわけて事実の集合のことを世界とよぶ〔1.11,1.13〕。世界は実在しているが、非事実はあくまで思考可能であるというだけの事況であり、実在していない。論理空間をこのように取り決めたのだから、論理空間の限界こそが思考の限界である。世界に属する事況のことを出来事(=成立している事柄事態が存立していること)とよぶ〔1.12,2〕。
世界(事実)と論理空間(可能性)
    さて、ウィトゲンシュタインは、『世界は事実の総体であって、事物の総体でない』と言う〔1.1〕。事物(=諸対象)とは、野矢の解釈によれば(この解釈に対しては批判的立場も存在するが)、個体、性質、関係、すべてを含むものである(つまり、「猫」や「チョコレート」のみならず、「美しい」だの、「殴る」だの、「〜よりも小さい」だのも含んでいる)。しかし、それら事物をすべてかき集めても世界にはならない。これでは「猫が美しい」のか「チョコレートが美しい」のか分からないからである。世界とは事実の集合であり、事実は事物よりも先に与えられている(言ってみるなら、事実は事物に対して存在論的に先行している)。実際に今「猫が美しい」のであって、その事実から「猫」とか「美しい」とかいう事物(対象)が取り出されるのである。つまり、世界は、事実から対象へ解体される。
    世界が解体され、対象が取り出されなければならない理由は、事実から可能性(論理空間)は製作できないからである。今、「チョコレートは猫よりも小さい」という事実があるとする。この事実から可能的事態「猫はチョコレートよりも小さい」を作るためには、いったん事実を、「猫」「チョコレート」「〜よりも小さい」というみっつの対象に解体して、これら対象を別の仕方で結合させなければならない。そのために対象(事物)は要請されるのである〔2.01〕。
    こういった訳で、『結合の可能性の外で当の対象を考えることはできない』のである〔2.0121〕。また、もちろんここで結合というのは、対象の「可能的」結合のことである。

          3.言語は世界の図像である

    言語は世界の図像(=映像)である。ウィトゲンシュタインの前期哲学を理解するうえで、このことはたいへん重要である。また、このことによって、このレジュメの目標である「言語の限界と世界の限界が一致する理由の解明」も果たされる。
    世界の図像とはなにか。世界の図像とは世界を代理するもの(=代表するもの)のことである〔2.13,2.131〕。たとえば、日本地図は日本の図像である。また、ある機械の設計図はその機械そのものの図像である。日本地図は日本を代理するものである。日本地図を切り分けて北海道と京都府をくっつけたら、それは可能的日本の図像ということになる。図像は一般に可能性をひらくものである。言語は世界の図像である。「谷口一平は日本人である」という文は、現実世界の図像であり、そして「谷口一平はイギリス人である」という文は、可能的事態の図像である。言語は事況の可能性をひらく。そこで、言語への考察は可能性の限界を画定することにもなる〔3.001〕。
    言語において、対象ひとつひとつを代理しているのは名辞(=)である。あくまでも野矢における解釈であるが、対象が個体のみならず性質、関係をも意味していたように、名辞もまた名詞のみならず形容詞、動詞などをも意味する。「論考」において言語(=文記号)とは命題、つまり図像として用いられているの集合のことであり、それら文を構成する要素の「すべて」は名辞である。ある名辞はある対象と一対一の対応関係にある。すなわち、ある名辞はある対象を「意味」している。
    世界を図像化することを、世界を写像(=描写)するという。言語が世界をただしく写像しているためには、世界の図像たる言語と世界そのものとは、なんらかの共通なものを有していなければならない。言語と世界とが共有するものとは、写像形式のことである〔2.17〕。では、形式とはいったいなんだろうか。
    ところで、そのことを考える前に。「事実は対象に解体される」ということを我々は理解したが、事実はいかにして対象に解体されるのだろうか。それは、対象の内的性質(=論理形式論理的形式内的形式、写像形式)を捉えることによってである〔2.01231〕。『形式とは構造の可能性のことである』と、ウィトゲンシュタインは言う〔2.033〕。性質には外的性質と内的性質とのふたつがある。ある対象の外的性質とは、その性質がなくなっても対象の同一性が保存されるような性質のことである。すなわち、外的性質については、反事実的想像が可能である。たとえば谷口一平という対象について、「帽子をかぶっている」というような性質は外的であるし、帽子をかぶっていない谷口一平を想像することは可能である。これにくらべて、内的性質とは、その性質がなくなってしまっては対象の同一性が保存されない性質のことで、たとえば「谷口一平はなんらかの時間的空間的位置をもつ」というようなことである。時間的空間的位置をもたない谷口一平は想像不可能であり、そんなことになってしまえば、もはやその対象は谷口一平ではない。ある対象のもつ内的性質(形式)とは、その対象に与えられうる性質の可能性全体のことである。谷口一平は、自宅という空間的位置を占めているかも知れない、あるいはスタディユニオン事務局という空間的位置を占めているかもしれない。それらはどちらも可能な事況であり、それら可能性全体が谷口一平の内的性質(形式)である。つまり、対象の内的性質を明らかにするだけでは、対象が現実にもっている外的性質を明らかにすることができない。谷口一平が空間的位置を占めていると語るだけでは、谷口一平が現実にどこにいるのか明らかにすることができないのである〔2.0233,2.025〕。
    しかし、対象の内的形式を把握することなしには、対象の外的性質を把握することはできない。そもそもどこを捜索すればよいのか分かっていなければ、外的性質の捜索は不可能である。目の前のチョコレートの外的性質を捜索するのに、いちいち「このチョコレートは、いったいファの音にフラットがついているのだろうか?」なんてことをやっていたら、ちっともラチが明かないだろう。チョコレートが事実いかなる外的性質をもっているのかということを知るためには、我々は、少なくともチョコレートがいかなる外的性質をもち「うる」のかということを知っていなくてはならない。我々は、はじめからこのチョコレートの内的形式すべてを把握しているのでなければならないのである。で、チョコレートの内的形式(論理形式)を捉えるためには言語が要請される。ある名辞の論理形式によって、その意味している対象の論理形式を代理させるのである。
    対象の代理者こそが名辞であった。対象と名辞とは写像形式(構造の可能性)を共有している、それゆえ言語は世界の図像たりうる。ある対象の内的性質(形式)は、その対象を代理している名辞の論理形式と等しい。名辞の論理形式とは、言ってしまえばその名辞が取りうる述語の可能性全体のようなものである。「生きている」「帽子をかぶっている」「イギリス人である」などなどが名辞「谷口一平」の論理形式であり、「おいしい」「このあたりのカメラワークが素晴らしい」「からまってほどけない」などなどは名辞「谷口一平」の論理形式ではない。
    ところが、あるひとつの名辞の論理形式を知るためには、言語全体が要請されてしまう。名辞「谷口一平」の論理形式を精確に知りたいのであれば、言語のすみずみまで知りつくしている必要があるだろう。可能性「全体」を把握しようというのであるから、あらかじめ可能性全体をながめおろす言語「全体」が獲得されていなければならないのである。そこで、論理形式は人に説明することができない。論理形式は解明されるのみである。論理形式はもともと獲得されていなければならないものであり、たったひとつの対象を知るためにも言語全体が必要になる。
    このようにして言語は世界の図像となる。世界の可能性は言語のうえで画定される。かくして、世界の限界と言語の限界とは厳密に一致することになるのである。世界の写像形式は、それをふたたび写像化することが不可能なものであり、語りえないものに属する。

          4.この先の「論考」

    このようなみじかい文章では「論考」をことごとく説明することなどできないのだが、いちおう素描を試みることにする。お暇がある時にお読みくださいたい。
    このたび触れなかった論考の重要概念に要素命題の相互独立性というものがあり、これはのちにウィトゲンシュタイン自身が誤りとして撤回することになるドグマである。簡明に言ってしまえば「ある事態が成立していることから、他の事態が成立していることは帰結できない」という理論である。1.21において、すでにこの理論は語られている。また、論理語は名辞でないということも主張される。論理語とは「かつ」「または」「ならば」「でない」などの言葉であり、これらは名辞ではなくて真理領域に対する操作なのだとされる。要素命題を論理語で繋いだものが複合命題であるというが、ウィトゲンシュタインは要素命題の例をひとつとして挙げることができない。さらに、独我論や数学、倫理などにかんする議論があって、しめくくりはこの有名な一言である。
    ――語ることのできないもの、これについては沈黙しなければならぬ。
    ちなみに、野矢茂樹「ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む」のしめくくりは次の通り。
    ――語りきれぬものは、語り続けねばならない。

――了わり――


 ちなみに。この論文の中で、ぼくはルビを使っていません。昔のぼくを知る人なら、ある意味「驚異的」な事実です。いやア、ぼくも進歩したことだなア。


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