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先日、2006 年 11 月 19 日に行われた、第8廻京都哲学道場の私的レポートです。参加者は深草氏、ツカダ氏、ぼく(itikun)の3人。テーマはウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』で、レジュメはひさびさにぼくが切りました。
この日は雨がふっておりまして、あいにくロッテリアは改装中。その前の柱にもたれかけて、深草氏がいらっしゃいます。ツカダ氏もすぐにやってこられました。S代表こと崎山氏は、本日はご用のために不参加ということです。深草氏もこのところはお忙しいらしく、あまり人集めをなさることもできないそうです。まア、3人集まったのですから、充分でしょう。往古より、文殊の智慧とも言われている人数です。
先に肚を充たすことにして、京大前までぶらぶらと歩いてゆきます。ラーメンを待っているあいだ、雑談半分に、ウィトゲンシュタインの人となりをおふたりにご説明しました。この場においても、かんたんに書いておくことにしましょう。
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは、1889 年、オーストリアはウィーンの、全ヨーロッパでも指おりの大富豪の家に生まれます。往時、ウィトゲンシュタイン家の建物は宮殿ともよばれたそうです。1911 年、イギリスのケンブリッジ大学においてバートランド・ラッセルの知己をえたウィトゲンシュタインは、当時作られてまもなかった記号論理学に没入します。ラッセルは、その頃すでに哲学者・著述家として有名でした。そんなウィトゲンシュタインは、第一次世界大戦が始まるやいなや祖国を護るため志願兵になり、華ばなしい戦績をあげることになります。1918 年、29才の時に『論理哲学論考』を脱稿。1922 年、決定版を独英対訳で出版したウィトゲンシュタインは、それからしばらく哲学をはなれました。ここまでのウィトゲンシュタインの哲学を前期哲学とよびならわします。『論理哲学論考』は、小学校教員時代に編集した一冊の辞書を除けば、その生涯でたった一冊のウィトゲンシュタインの著書であり、前期哲学の集大成とも言えるものです。ちなみに、哲学をはなれたウィトゲンシュタインは、小学校教員になったり、修道院の庭師をしたり、家を建築したり、いろいろと物好きなことをやっていたらしいです。1929 年ウィトゲンシュタインは、博士論文として『論考』をひっさげ、ケンブリッジ大学に帰ってきました。ウィトゲンシュタインの到着を、経済学者のケインズは、次のように書いているそうです。「神が到着しました。五時十五分の列車に乗ってきた、かれに会ったのです」と。ちなみに、博士論文の主査だったラッセルとムーアにたいして、ウィトゲンシュタインがはなった言葉も有名――「気になさらぬように。あなたがたにとうてい理解できないのはわかってますから」。ケンブリッジには、おりから論理実証主義派という哲学者達がノサバっておりました。この人達は、ウィトゲンシュタインの『論考』を読んで感激してしまい、そのうえ『論考』の主張をひどく誤解して、なおかつウィトゲンシュタインを神とも崇めていたそうです。この天才、深草氏に言わせると「かなりの馬鹿」であるところのウィトゲンシュタインは、1951 年、前立腺癌によって亡くなります。末期の言葉は「みんなに伝えてください。ぼくは素晴らしい人生を送った、と」というものでした。〔参考文献:『ポパーとウィトゲンシュタインとのあいだで交わされた世上名高い一〇分間の大激論の謎』筑摩書房/『ウィトゲンシュタイン入門』永井均・ちくま新書〕
さて、場所をマクドナルドにうつし、哲学道場をはじめることにしました。レジュメはこちら。『論考』本文で言うなら、ラッセルのパラドクスを解決した辺り〔3.333〕の前まで、準拠した本は野矢茂樹『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』で、この本で言うならおよそ1章から3章までです。
『論考』は、あらゆる哲学を解消してしまうための書物です。『論考』は、すべての哲学を限界づけるために言語の限界を示しました。ここで、哲学の限界とは、思考可能なことがらの限界のことを意味します。すると、『論考』は言語の限界を示したわけですから、思考可能なことがらの限界と言語の限界とが一致していないといけないことになります。どうしてそのような一致がなりたつのか。レジュメでは、一貫してこのテーマを取り扱いました。
はじめに、言葉の意味を明らかにしておかなくてはなりません。われわれが思考可能なあらゆる事態の集合を、ウィトゲンシュタインは「論理空間」とよびました。その中で、実際に生起している事態(つまり事実)の集合のことを「世界」というふうによぶことになっています。『論考』のウィトゲンシュタインは集合論的立場であり、論理空間はあらゆる事態の集合として規定されているのです。

このようなイラストをウィトゲンシュタインが書いているわけではなく、これはぼくが作ったものですが、このように図示することについて、深草氏は『超越論的だ』というふうにおっしゃっていました。ぼくは『ウィトゲンシュタインの哲学は認識の限界を画定しようとするもので、認識論的なものである』と言ったのですが、認識の限界を画定するためには、その認識の限界をうえから見おろすような場に立つこと(つまり超越すること)が必要になるのです。言われてみれば、認識論にまつわるカントの批判哲学も「超越論的」とかいうふうに表現されていましたね。深草氏は『そのように視点を超越させることなしには、認識の限界を叙述することはできない』とおっしゃって、その議論から今研究なさっているヘーゲルの話に繋げておられました。なんにせよ、ぼくは理解しやすいようにとこのイラストを作ってみたのですが、こういうふうに図示してしまうと、「語りえないもの」がひどくポジティヴに語れてしまいますから、情緒がなくなることうけあいです。ウィトゲンシュタイン本人は、頼まれてもこんなイラストは書かなかったに違いありません。
さて、ウィトゲンシュタインによると、世界というものは事実の集合であって、事実を構築しているひとつひとつの対象の集合ではありません。野矢の考えによると、対象というのは「ミカン」とか「谷口一平」とかの個体のみならず、性質や関係をも含みます。「甘い」も「〜よりも小さい」も、みんなもろもろの対象なのです。で、こういった無数の対象をかき集めてくるなら、たしかに世界になりそうな感じがします。しかし、世界は対象の集合ではないのです。世界はあくまでも事実の集合なのです。その理由は、対象の集合を作るだけでは、それら対象から作られている「現実世界」が実際にどんなものなのか分からないからです。ウィトゲンシュタインにおいて世界という言葉は、実際に生起しているもろもろの事実のことを意味していました。「ニホンのシュトはトーキョーである」という事態は世界に存在していますが、「ニホンのシュトはキョートである」という事態は世界に存在しません。世界という集合に{ニホンのシュトは〜である,トーキョー,キョート}というみっつの対象が含まれている時、これら対象をよせ集めるだけでは、偶然的事実である「ニホンのシュトがどこであるか」ということが分からないのです。そんなわけで、事実は対象にむけて解体されます。対象が事実にむけて構築されて、それで世界が成立しているのではありません。詳しくはレジュメを読んで頂きたいのですが、事実を対象に解体することによって、われわれは可能性(論理空間)を考えることができるようになります。
ここで深草氏は『世界が事実の集合であるということと、世界が対象の集合であるということとは、両立するのではないか。実際のところ、世界に存在する事実を解体したら、対象の集合になるのだから』と、おっしゃっていました。これはなかなか難しい論点です。しかし、あらゆる対象の集合を作ってしまうと、それはせいぜい論理空間になるのであって、世界にはならないと思います。ウィトゲンシュタインが集合の要素として要請しているのは事態であって、対象ではありません。世界の対象集合と論理空間の対象集合とは、同じ集合ですが、論理空間はそれでも世界を包摂するのです。
さて、ここからは写像の話にうつります。前期ウィトゲンシュタインにおいて言語、特に「文」とは、なにかの事態を意味しているテーゼのことでしかありません。「谷口一平はニホン人である」というのは文ですが、「おはようございます」は文ではありません。「おはようございます」という言葉が意味している事態は存在しないからです。ウィトゲンシュタインは、徹頭徹尾「記号論理学」的です。こういうことについて、言語学をたしなまれている深草氏は、もちろんのこと『あたまが悪いなア』というご感想でした。ぼくの記憶がただしければ、ウィトゲンシュタインが再びケンブリッジにもどってきたのは、たしかこの辺の事情による筈です。
さて、言語(文)は世界の図像なのです。ここで、図像とはいったいなんなのでしょうか。次のイラストをごらんください。
失礼仕りまして、深草氏を写像させて頂くことにしました。A は、現実にいらっしゃる深草氏の図像です。ロケットの設計図はロケットの図像ですし、ニホンの地図はニホンの図像です。そして、深草氏のイラストは深草氏の図像なのです。ある事態を図像にすることを、写像するというふうによびます。ちっとも難しい点はありません。
さて、もちろん現実の深草氏は二次元ではありませんし、モノクロでもありません。しかし、およそある事態をある図像が写像しているためには、その図像ともともとの事態とのあいだで、なにがしかが共有されていなければなりません。現実の深草氏とイラストの深草氏とが共有しているのは、おおまかな形やイメージです。さて、ある事態の図像を作るということは、一般に言って可能性をひらくことに繋がります。これはどういうことか、ご説明しましょう。現実の深草氏を写像した A のイラストをごらんください。現実の深草氏はヒゲを生やしてはおられませんが、ここで A のイラストにヒゲを書き加えてみることにします。すると、B のイラストになりました。B のイラストは、可能的深草氏、そうであってもよかったような深草氏を写像したものです。このように、図像を操作することによって、われわれは可能性の宇宙をひらくことができるのです。言語は世界の図像です。言語を操作することによって、われわれは可能性の世界を考えることができるようになりました。
言語において、ひとつひとつの対象の代理をするのは「名辞」です。野矢解釈に準じれば、名辞には動詞、形容詞、副詞なども含まれていることになります。それら名辞を構成することによって、文ができあがるのです。文には、真なる文と、偽なる文との違いがあります。真なる文は「世界に属している文」で、偽なる文は「世界には属していないけれども論理空間には属している文」のことです。さらに、ナンセンスな文というものもあり、ナンセンスな文は真理値をもちません。イラストにしてみると、次のようになります。

おおまかなイメージはつかんで頂けましたか。
さて、ここから話は「論理形式」にうつります。事実を解体して対象を取り出してくると言いましたが、いったいどのようにして事実から対象は拾い出されるのでしょうか。ウィトゲンシュタインは、対象の内的性質(論理形式と同義語)を捉えることによって、われわれは対象を取り出すのだと言いました。また、現実世界とその図像である言語とは、なにがしかを共有していなければなりません。いったいなにを共有しているのでしょうか。ウィトゲンシュタインは、論理形式を共有しているのだと言いました。それでは、内的性質=論理形式とは、いったいどういう意味なのでしょうか。
このへんから、議論はようやく白熱してくることになります。
ウィトゲンシュタインいわく、対象のもつ性質には内的性質と外的性質との区別があります。説明は次の通り。
・外的性質(その性質がなくなっても対象の同一性が保たれるような性質)
→「谷口一平は帽子をかぶっている」というのは、谷口一平の外的性質。
・内的性質(その性質がなくなると対象の同一性が保たれないような性質)
→「谷口一平は空間的位置をもつ」というのは、谷口一平の内的性質。
おおまかに言ってしまえば、こんなところです。そして、われわれがひとつの対象を知っていると言えるためには、われわれは、その対象のあらゆる内的性質(論理形式)を捉えていなければならないのです。
深草氏のツッコミ。『そうすると、われわれはそこに置いてあるジュース容器の「あらゆる内的性質」を捉えていることになるわけだけども、だったら、それをすべて挙げてみてよ』とのこと。ぼくは『時間的空間的位置をもつこと、なんらかの色をもっていること、存在しているかいないかというふうな議論をすることが可能であること……』などと挙げてみますが、すぐにつまってしまいます。しかし、これはつまるのが当たり前で、一般のウィトゲンシュタイン解釈においても、内的性質は「説明できない」ものです。内的性質は、実際にわれわれがその名辞を言語の中でいかに使っているかということから「解明」されるのみなのです。いったいに、ウィトゲンシュタインには「実例が挙げられない」概念が多く、たとえばウィトゲンシュタインは「要素命題というものが存在している」と言いますが、その実例をひとつたりとて挙げることができません。それでよいのです。ウィトゲンシュタインは、実際に言語がうまく世界を写像しているためには「こうあってしかるべきなのだ、その筈なのだ」という要請を述べているにすぎないのですから。そしてまた、『論考』という書物は、もともと分かっている人にしか分からないという、説明を拒否した書物なのです。
それでもって、ひとつひとつの名辞にも論理形式というものがそなわっています。たとえば名詞であれば、その名詞の論理形式は「とりうる述語の可能性全体」です。「谷口一平」という名詞を見てみましょう。「谷口一平」がとりうる述語は「文士である」や「インド人である」などです。逆に、とりえない述語は「からまってほどけない」とか「カメラワークが素晴らしい」とか「ファの音にシャープがついている」とかです。「谷口一平」という名詞に、その論理形式から逸脱した述語をくっつける場合、できあがる文章は真理値をもたないナンセンス文になります。「谷口一平はからまってほどけない」という文章は、真でも偽でもないのです。
深草氏はここに納得がゆかれないご様子。『「この花はイギリス人である」という文章はナンセンスだと言うけれども、このテーゼは明らかに偽ではないだろうか』と、おっしゃいます。「この花」の論理形式に「イギリス人である」が含まれているのかどうかは定かではありませんが、すくなくとも「この花」の論理形式に「高音部が美しい」が含まれていないのはたしかです(野矢がそう言っていますから)。深草氏は『「この花は高音部が美しい」という文章だって、これは偽だろう。だって、この花の高音部は美しくなんかないではないか』とおっしゃいます。しかし、この論点は『論考』の枢要をなすところであり、ぼくも譲れません。『「この花」のとりうる述語には、もともと「高音部が美しい」が含まれていないのであって、だから「この花」に「高音部が美しい」をくっつけることは、そもそもできない。そういうことをしてしまった時点で、できあがった文章はナンセンスになるのであり、ナンセンスな文章に真理値は存在しないのだ』ということを、ぼくは言います。ツカダ氏は「イギリス人であるチューリップ」をラクガキしながら『内的性質(論理形式)の意味が、いまひとつよく分からない』とおっしゃいます。『たとえば、その花がゆれる時の音は「ファの音にシャープがついている」かも知れないし、その花をむりやりからめたら「からまってほどけない」かも知れない。名詞に対して述語をつけるという構造が同じであるのなら、名詞を取りかえることも可能な筈だ(「ラーメンがからまってほどけない」と言えるのなら、「谷口一平がからまってほどけない」とも言える筈である)』と、ツカダ氏はおっしゃいます。あらゆる述語が五感で捉えられるものであるからには、ある名詞を聴覚で捉えることも、視覚で捉えることもできる筈で、だとすると、ある名詞にはあらゆる述語をつけることが可能である、と、ツカダ氏はお考えになったようです。ここでも、ウィトゲンシュタインの「説明不能概念」のせいで、ぼくは説明ができずに苦しみます。

まア、この辺の議論はちょっと論理的に説明しがたいもので、しかたがありませんでした。と、言いますか、ツカダ氏のご指摘は、かなり重要なものだと思います。それはそれとしまして、とりあえず『論考』の解説を終わりまですませてしまうことにしました。
こういったわけで、対象と名辞とは論理形式を共有し、そのことによって言語は世界を写像しうるのです。言語を操作することにより、われわれはあらゆる可能的事態を作ることができます。ナンセンスな文章は、論理空間の中に存在するいかなる事態をも意味しません。たとえば、倫理は「語りえぬもの」に含まれますから、それを文章にしてしまうとナンセンスになり、つまり「人のいやがることをしてはならない」とかいうような文章はナンセンス文(真理値をもたない文)なのです。そして、哲学で用いられる殆どの言明はナンセンスです(たとえば「神は存在する」とか「あらゆる存在は一である」とか)。このようにして、言語の限界と思考可能な事態の限界とは厳格に一致します。このレジュメのテーマには、解決がつきました。
ちなみに。ウィトゲンシュタインが『論考』の中で言っていることがらも、その殆どは「ナンセンス」です(!)。ウィトゲンシュタインは、『論考』一冊かけて、ナンセンスな文章ばかり書いていたのです。「語りえぬものについては沈黙せねばならない」とか言いながら、「語りえぬもの」について、ちゃっかり「沈黙せねばならない」というふうに語ってしまっているのです。これはどういうことでしょうか。深草氏やツカダ氏からも、もちろんこの点についてのご指摘がありました。
実は、ウィトゲンシュタインの文章は「ハシゴ」なんです(有名な話ではありますが)。『論考』の〔6.54〕において、このことは言われています。ウィトゲンシュタインの言葉は真実にいたるためのハシゴです。そのハシゴを登りきってからウィトゲンシュタインの言葉をみおろすと、その言葉はみんなナンセンスだったのです。ハシゴを登りきったら、そのハシゴを捨ててしまわなくてはなりません。今まで読んできた『論考』という書物がすみからすみまでナンセンスだったということに気づいてはじめて、『論考』という書物を真に理解できたことになるんです。はたして詭弁でしょうかね。
それから、ウィトゲンシュタインが馬鹿なのかどうかとか、いろいろなことを喋りました。深草氏は『ウィトゲンシュタインがやったことは、たいして独自的でも目あたらしくもないのではないか。認識の限界を画定しようとしたことも、その手法も、ふるくからあるものだ』というふうにおっしゃっていました。さらに、おのおのの思想や、自分史などを語り、この日の哲学道場はオシマイとなりました。ほんとうに、たのしい一日でした。もうすこし人がいれば、さらにもりあがっていたと思います。ではでは、次の哲学道場でお逢いいたしましょう(次は 12 月 2 日、哲学道場高円寺で、その次は 12 月 16 日、京都哲学道場です)。
↑「語りえねェもの。こいつァ凄えや。いっかな俺とて沈黙せんけりゃならんぜッ!」
【深草氏による報告はこちらです】