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【哲学道場オフィシャルサイト】
行ってみると、深草氏と崎山氏とがおられました。他には誰もいらっしゃらず、ぼくを含めても3人です。このところ人の集まりがあまりよくなく、かてて加えて日取りを土曜に変えてしまったものですから、こういう事態も起こるべくして起こったと言えなくもありません。しかし、前廻も前廻とて今廻も今廻。すこし淋しい気がしないでもありませんでした。
で、まア3人しかいないのだからということで、実施場所を変えてみます。車をはしらせ、むかった先は貴船。貴船というのは京都の観光地になっている山深いところです。なにゆえこのような土地に? いや、理由なんてものはまったくないのですが、強いて言うならアンマッチをねらったのです。そんなものをねらう必要なんてないんですけどね。ついでに、哲学道場をちょっとだけビデオで撮影することになりました。臨場感あふれる(?)哲学討論をどうぞ↓
〔京都哲学道場〕
ええと、このビデオにおいて、ぼくはひと言も喋っていませんが、はじめ頃にちょこっと&終わりにちょこっと、出演しております。ちなみに、崎山氏がもっと見たい人はこちらを↓
〔Study Union International ver.〕
……です。なんなんですかって? なんなんでしょうねえ。
そんなことはよいとしまして、本日のテーマ。なんと、神の存在証明です。神の存在証明と言いましたら、哲学をかじっている人は、ふつうデカルトがやったのやらゲーデルがやったのやらを想いうかべるところですが、本日は神の「存在論的」存在証明がテーマ。中世の神学者;アンセルムスさんによる神の存在証明を、まだ生きているらしいプランティンガさんが可能世界論から焼きなおしたものです。マイナーですね。深草氏において、神をめぐるテーマは氏の原点とも言えるそうです。
そもそも神学には、自然神学と啓示神学との区別があるそうです。啓示神学というのは、神からの啓示を探す神学。これに対して自然神学というのは、論理のちからを用いて神の存在に到達しようとする神学だそうです。神の存在証明なんてものをやるくらいですから、アンセルムスさんはもちろん自然神学者でした。
では、アンセルムスさんの証明を見ていきましょう。詳しくはレジュメそのものをご参照のこと。アンセルムスさんの証明の要点をまとめますと、次のようになります。
『神とは、それよりもグレートなものを想像することができない存在のことである。現実に存在する神は、理解においてのみ存在する神よりグレートである。現実において神が存在することを想像することは可能であり、ここで想像されている神は理解においてのみ存在する神よりもグレートな存在である。ところが、神よりグレートなものは想像できないので、理解においてのみ存在する神というものはありえない。神は現実において存在する ― QED』
いかにもアナだらけな証明だなあ、というのが、この時のぼくの感想でした。存在論になやまされている今のぼくにとっては、こう「存在する」という言葉をなんのわだかまりもなく連射されるとイライラするんです。しかも、論理のただしさにかんしてすら、今ぼくは疑念のまっただ中にいます。こういうぼくに、いかにも実感のわかない「神の存在論的存在証明」が無意味無感動に響いたのも仕かたのないことでした。それはそうとして、崎山氏は『「神は現実に存在しない」を仮定しておきながら「もし神が現実に存在したとすれば」と言うのはおかしいのではないか』とおっしゃいます。確かにおかしいような感じもしないではありませんが、ぼくとしては、そういう細かな点はちょっといじればなおるだろうと思いました。深草氏と崎山氏とが議論しておられるとなりで、ぼくはアンセルムスさんの証明を記号化しようと苦心しましたが、残念ながらその場では失敗してしまいました。今ふたたび試みてみたところ、なんとか記号化できましたので、だらだら書いてみます。あまり報告することがないので、文字数かせぎです。論理記号がお読みになれないかたは、飛ばしてくださいませ。命題番号は、レジュメの命題番号に準拠します。
1.Fa∧〜Gb Assump.
〔Fx≡xは理解においてのみ存在する,Gx≡xは現実において存在する,a=理解においてのみ存在する神,b=現実において存在する神〕
『理解においてのみ存在する神は理解においてのみ存在する、かつ、現実において存在する神は現実において存在しない』
2.∀xy{(Fx∧Gy)⊃Hxy} Pr.
〔Hxy≡xよりもyはグレートである〕
『すべてのxyについて(xが理解においてのみ存在し、かつ、yが現実において存在する)ならば、xよりもyはグレートである』
3.Gはbの述語たりえる。 Pr.
〔Gがbの述語たりえないのなら、1のテーゼは意味をなさないから、Gはむろんbの述語たりえる。3のテーゼは、それゆえ不要である〕
4.(Fa∧Gb)⊃Hab ∵2
〔このテーゼをみちびくために1は不要で、2さえあればみちびくことができる〕
『(理解においてのみ存在する神が理解においてのみ存在し、かつ、現実において存在する神が現実において存在する)ならば、理解においてのみ存在する神よりも現実において存在する神はグレートである』
5.Hはaxの述語たりえる。
〔Hがaxの述語たりえないのなら、4のテーゼは意味をなさないから、Hはむろんaxの述語たりえる。3のテーゼと違い、5のテーゼは不要ではない〕
0.Hはaxの述語たりえない。
〔すなわち、理解においてのみ存在する神aと任意のxとについて「aよりもxはグレートである」という形の表現を施すことはできない。このことが隠された0のテーゼ(神のDef.)としてある〕
6.〜(5∧0)
『(5のテーゼ、かつ、0のテーゼ)ではない』
7.〜1 I.P.
『1のテーゼは真ではない』
たいへんお見苦しいようで、まことに申し訳ありません。もはや哲学道場を報告するという趣旨からも逸脱してしまっているようです。しかし、なにも「おもしろいから」という理由だけで論理式にしてみたのではありません。こうすることによって、この証明の論点所在が明らかになってゆくように感じられるのです。哲学道場の報告はすこし置いておきまして、ぼくの考える論点の所在を書いてみることにしましょう。
ひとつ。論理式を読んで頂いた方ならお分かりかと思いますが、ぼくはおかしな表記法を使っています。「神」というひとつの対象について、理解においてのみ存在する神aと、現実において存在する神bという、ふたつの記号を使っています。これは、こうするしかなかったのです。「神」をひとつの記号pで表わしてしまうと、4のテーゼは(Fp∧Gp)⊃Hppとなり、このHppはまったく意味をなしていないのです(pよりもpはグレートである、なんて、おかしいでしょ)。そこで、理解においてのみ存在する神と、現実において存在する神とを、違う記号で表現することにしました。また、述語にも規制を加えて、Fは「理解においてのみ存在する対象についてしか述語たりえない述語」とし、Gは「現実において存在する対象についてしか述語たりえない述語」としました。つまり、対象の内的構造や、述語たりえる領域など、現在の論理学では表現しきれないような広がりが、この証明にはあったのです。でもって、アンセルムスの証明では、a=bであることを前提していました。つまり、この証明では対象の同一性がカナメになるのだとぼくは考えます。「理解においてのみ存在する神」と「現実において存在する神」とは、存在の様式が異なっていますが、この異なり(すなわち存在論)にこそ、照明が当てられるべきでした。存在論的証明であるにもかかわらず、アンセルムスは存在論をないがしろにしているのです。
もうひとつ。この証明は、けっきょくなんなんでしょうか。1のテーゼを真ではないと言いたいのなら、1のテーゼともろもろの前提とから、5∧0がみちびかれることを示さなければいけません。0は前提です。では、5はどうやってみちびかれたのでしょうか。それは、4においてHabが言えているからです。しかし、5があるからこそHabは言える訳で、5がなければそもそも4は無意味です。すなわち「むしろ5は前提されている」と言うべきなのです。とすれば、この証明は前提0と前提5との対立を示すもので、1の仮定なんてなんの関係もありません。よって、この証明はまちがっています。アンセルムスさんにはこう言うべきでしょう。「アンセルムス君、この証明は、君が真とみなした前提0と前提5とが矛盾することを示している。つまり、前提0と前提5との、いずれかは真でない。君は、神の存在を証明したつもりでいて、実は君のまちがいを自分自身で証明してしまったのだ」。
なんか「ウィトゲンシュタイン君、どうにかしてくれ!」とでも叫びたくなるような惨状ですね。
しかも、です。かりにこの証明がただしかったとしましょう。その場合、帰謬法によって1のテーゼは否定されることになります。実際に否定してみましょう。
〜1≡〜(Fa∧〜Gb)≡(〜Fa∨Gb) ∵ド・モルガンの法則
{not(Fa かつ not Gb)}は、ド・モルガンの法則によって(not Fa または Gb)になります。これでは Gb であるということは言えません。もしかしたら Fa ではないのかもしれない、そしてその可能性のほうが高いのではないでしょうか。つまり、われわれは「神は理解において存在する」ということを信じていますが、実際のところ、われわれが理解しているものは神ではないのかもしれない。だって「それよりもグレートな存在者を想像することもできないようなもの」を、われわれがホントに想像できているのかといえば、これはたいへん疑わしいですからね。
さてさて、ぼくがあとから考えたお話はこのくらいにして、哲学道場の報告にもどりましょう。論理式が読めないかた、論理式が読めてもいちいち読もうという気にならないかた、そのようなみなさん(ほぼ全員でしょうが)には、お詫び申しあげます。
プランティンガさんは、このアンセルムスさんの存在証明の焼きなおしにかかります。もういちいち記号化はしませんが、とりあえず論証のすじ道を辿ってゆくことにしましょう。アンセルムスさんは「現実における神の存在は考えられうる」と言いました。このことを、先のテーゼ3でぼくは「<……は現実において存在する>は<現実において存在する神>の述語たりえる」というふうに表現しました。さいきん、ぼくはウィトゲンシュタインにハマっており、ウィトゲンシュタイン流で言うなら「<現実において存在する神>の論理形式」を考えてみた訳です。しかし、プランティンガさんは、ぼくとは別のやりかたで言い換えをおこないました。つまり「現実における神の存在は考えられうる」というところを「現実における神が成立する可能世界が存在する」というふうに表現しなおした訳です。そこで、ここからのお話は「可能世界論」へと舞台を移します。
ガウニロの反論とカントの反論は飛ばしましょう。このたびの哲学道場では、たいした議論もなされませんでしたので。詳しくお知りになりたいかたは、レジュメのほうをご覧ください。
可能世界論を援用して、プランティンガさんは存在論的証明を言い換えました。この言い換えも、詳しくはレジュメのほうをご覧頂くとしまして、さて、崎山氏は可能世界論に納得がゆかれないご様子。氏いわく『世界W1に存在者xが存在しているとして、世界W2にはxが存在していないとする。この時、どうしてW1におけるxのほうがW2におけるxより偉大なのか、じぶんにはよく分からない』と。深草氏はプランティンガの説明に合わせて『W1に存在者xが存在していない時、xはその偉大さを発揮することができないから偉大性0%である。しかし、W2にxが存在しているなら、xは偉大さを発揮することができ、偉大性は0%より高い』と、説明を加えられますが、崎山氏は納得なさいません。崎山氏は『そもそも、ある世界W1と別の世界W2は、まったく違う別の世界であるにもかかわらず、どうして偉大さを比較することができるのか』とおっしゃいます。ぼくは『それら可能世界群すべてを包括するメタ世界を考えているのではないですか』と言います。メタ世界が存在するのなら、可能世界同士の計量は可能です。とりあえず崎山氏は納得なされたご様子。ぼくは「偉大さ」という概念がいかにも好いかげんに思えてしまい、どうもこの証明に深入りする気になれません。ただ『W1におけるxとW2におけるxとの同一性は、どうやって保証することができるんですか?』とだけ、ツッコミました。さっきも言いましたが、ぼくはこの論証のカナメを同一性であるとにらんでいます。深草氏は『それはよく分からない』とのことで、この点にかんしては、あまり議論はなされませんでした。
それから、この存在論的証明の言い換えには問題点があるということが述べられたのち、存在論的証明はプランティンガさんの手によって再編されることになります。ここでまた、ややこしい概念「卓越性」の登場です。ま、カンタンに言ってしまえば、可能世界W1でいちばんすぐれている存在者xが卓越者。で、すべての可能世界Sm{Wr,W1,W2,……,Wn}において、ことごとく卓越している存在者xが偉大者です。
プランティンガさんいわく、偉大者xの存在は可能であり、偉大者xの存在が可能ならばすべての世界で存在者xは卓越していて、それゆえこの現実世界Wr(リアルワールド)においても存在者xは卓越している、と。……ぼくには、もうだめです。これがいったいどんな証明になっているものやら、見当もつきません。ともかく議論を傍観する腹に決めました。
崎山氏は、卓越性と偉大性の違いにこだわります。両義性解釈(詳しくはレジュメを)を認めないために卓越性概念を導入したにもかかわらず、これでは卓越性=偉大性になってしまって(卓越性と偉大性とのベッタリ)、両義性解釈を排除することができなくなる、とおっしゃるのです。このあたりの話については、ちょうど先のビデオで色いろと話していますので、ご覧ください。
で、すったもんだしたあげく、結論。プランティンガさんは、この存在論的論証において、神の存在を完全に証明することはできていないものの、前提を受け入れる人にとっては「神が存在する」という結論を受け入れることができる。つまり、神の存在は証明されてはいないものの、別に神が存在するからといって不合理なことにはならない、ということを言いたいらしいです。崎山氏は『それじゃあ、神が存在しているかいないかのどちらかであると言っているようなもので、けっきょくなんの意味もないじゃないか』とおっしゃいます。そもそもぼくには、この証明が合理的であるとする理由も分かりません。深草氏は『なにしろ、日本の神学はまだこのレヴェルにも達しておらず、これからきちんとやってゆかねばならない、ということだ』とおっしゃいます。しかし、この神ってキリスト教における神ですから、日本人が議論するにはよけいに難しいのではないでしょうか。
それから論理学の種類についてなど、多少雑談して、この日の哲学道場はお終いになりました。やはり、もうすこし人がいたほうが楽しかったですね。あまり時間もとれませんでしたし(今廻は、純粋には1、2時間ぐらいしかやっていません)。まア「論証は厳密にしましょう」という格言が手に入れられただけ、充分有意義だったとは思います。ぼくは。
さて、次の哲学道場では、ふたたびぼくのレジュメがお目もじすることになります。『論理哲学論考』です。ウィトゲンシュタインです。野矢茂樹『ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」を読む』をタネ本として、論考(ぼくは「論哲」と略すことが多いですが)のはじめのあたりをレジュメ化できたらと考えています。お楽しみに。
【深草氏による報告はこちらです】