『イディオッツ』(1998年 デンマーク)
 監督・脚本/ラース・フォントリアー 出演/ボディル・ヨアンセン、イェンス、アルビヌス、アンヌ・ルイーセ・ハシング 配給/スローラナー

 

 「白痴(イディオッツ)」を広辞苑でひくと、「精神障害者」のこととも「知能障害者」のことだとも出てくる。両者はかなり違うものだし、それが一緒くたにされていることにこの言葉の古くささを感じるけれども、この映画の「イディオッツ」がどちらであるかは、結局のところ、関係ないのだ。なぜなら、この映画に出てくるイディオッツたちは、全員、詐病だからだ。彼らはイディオッツを演じる、一種の反社会性集団なのである。

 彼らは親戚をだまくらかして借り上げた大きな館で共同生活し、イディオッツを装ってレストランではわざと嫌われる行為をして無銭飲食、(暴れたり、食べ物を吐き出したり)、金持ちそうな家に入り込んで「おたくの敷石が出っ張っているおかげで、うちの車椅子の者がけがをした。転んだので売り物のクリスマスの飾りがぱあだ、どうしてくれる」と難癖をつける。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』がなければ公開不可能といわれたこの映画。さすがラース・フォントリアー、たしかにそうだろう。人間のイヤな面を描くことに対して、容赦がない。

「たしかに『イディオッツ』は危険な映画だ。でも、その底には“役立たず”たちへの愛情が溢れている。誰もが幸せになることは難しいが、そう願わずにはいられないトリアー監督の“優しさ”が、ここには結晶している」
 フライヤーに書かれたこの宣伝文句を読んだら、ラース・フォン・トリアーは腹抱えて笑って最後に「けっ」とかいいそうだ。そのくせ、「『ダンサー・イン・ザ・ダーク』や『奇跡の海』で、あなたは『愛』と『自己喪失』を取り違えた人を描きましたね」などと正論をいおうものなら、いきなり「う〜」とか唸りだし、自分が「イディオッツ」になって自分の部屋に閉じこもってしまうのだ(カンヌに行く途中、不安障害が起きてしまい、列車のコンパートメントから出られなかったという噂あり)。そういう葛藤丸出しで作られているのが彼の映画であり、どっちと捉えていいのかわからない混乱を見せつけられることが、観客の快感になっている。

 「精神障害者」と「知能障害者」はだいぶ違うと書いたけれど、共通している部分もある。それは、その障害がコミニュケーション能力の低下に結びついているということだ。自分を伝えられない。彼らの人格は全部が「壁」で、「扉」がなくなってしまう。私たちはそこに入っていくことができず、場合によってははね返されたりする。そこに加害の意図がなくても、けっこう私たちは傷つく。彼らに対する偏見が生まれるとしたら、この軋轢によるところではないだろうか。

 イディオッツであってもなくても、私たちは自らその壁の中にこもることがある。それは多くの場合、自分を見失っているときだ。自分が見つからなかったら他人とのコミュニケーションなんかできないから。いや、自分がわからないからそのときは「イディオッツ(=愚か者)」なのだというべきか。
 『イディオッツ』を見て、私は、一部のカルト教団とか自己啓発セミナーを思いだしてしまったのだけれど、映画の中の登場人物たちは、周囲とのコミニュケーションを壊すことで、コミュニケーションできる自分を作ろうとしていたのではないかと思わされた。
 映画の最後で、この映画のなかの唯一の「まとも人」であったカレンが、夫の前で口に入れた食べ物をこぼしてみせるところはその象徴であったと思う。子どもを失った悲しみを抱える彼女は何かを訴えたかった。コミニュケーションしたかった。でももちろん夫はその意味がわからなくて、妻をひっぱたく。

 
 私たちは一応「社会性」というものを身につけて、つまり、周囲とちゃんとコミュニケーションしているように見えて生きている。でも、ほんとうにそうだろうか? ほんとうに私たちは自分のことをわかっているだろうか。ほんとうに自分を他者に伝えることができているだろうか。コミュニケーションをとることで、孤独から解放されているだろうか。
 それができているとしたら、私たちはこの映画にひかれるだろうか。この映画に「教訓」を見いだそうとすると、また、ラース・フォン・トリアーから嘲られてしまいそうだけど、どうしてもそう思ってしまうのだ。
  (8.8鑑賞 8.17記)

 

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「アディクションと家族と映画」2001 ”Tomo Ishizuka”All Copyright