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そのソース、どこですか?


現在、このページでとりあつかっているテーマ
・Sorryとアメリカで言ってはいけないって本当ですか?
・無宗教だと、海外でまともな人じゃないって言われるって本当ですか?
・「雨の中、傘をささずに踊る人間がいてもいい。自由とはそういうことだ」が、「THEビッグオー」のロジャー・スミスじゃなくて、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテが言ったっていうソースはどこですか?
・If you hear a voice within you say 'you cannot paint,' then by all means paint, and that voice will be silenced. というゴッホが言った言葉の出典。
・「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」という誤用と、その言葉の出典
・「朝起きたときは朝の光に感謝しなさい。生命と力に感謝しなさい。その日の糧に感謝しなさい。そして、生きるよろこびに感謝しなさい。もしも感謝する理由がわからない時は、それは自分の何かが間違っているからだと考えなさい。」という言葉の出典


Sorryとアメリカで言ってはいけないって本当ですか?

アメリカでも、言っていいんじゃないかなあ、とネットで調べたかぎりでは思う。
でも、かなり筆者のいる状況によって違う様子。
正直、これは実際にアメリカ人に聞くほうがいいと思います。
ネットで調べただけの感想なので。

言ってはいけないんじゃなくて、言う習慣がないようだが、I'm sorryっていうと、けっこう仕事もさくさく進むよー、という体験。以下、引用。
http://takeiteasyinamerica.com/?p=8844
すべての人がそうとは言えないのですが、アメリカ人(日本人以外)は、自分の非を認めたがらない人が多いように思います。
普通なら謝るべきところを、あれがああだから、こうなってしまった。こうするはずじゃなかったんだが、不幸かな、こういう結果になってしまったから仕方がない。
とにかく謝るのではなくて、言い訳するのが先。
「お前なぁ、そこで一言謝れば、こんなに話がもめることもないだろう」
と言いたくなるような場面がとにかく多い。
(中略)
私の場合は、軽い気持ちで、I’m sorry.と言うことで、仕事を更に円滑に進めることができているんじゃないかって思うことがよくあります。


あやまらないけど、悪いと思ったら、埋め合わせをしてくれる傾向があると思うな、という体験。コメントを見るとわかりますが、けっこう人によって違う体験をしている様子。
http://www.chikawatanabe.com/blog/2009/03/americans.html

いや、ちゃんとあやまってくれるよ?という話。"I am sorry 法"についても書いてあったけど、面白いね。ここは、ジョージア日本人商工会なので、信憑性の低い情報の中でも、信頼性は高めかもしれない…どうだろ。
https://www.jccg.org/culture/148-does-american-say-i-am-sorry.html

でも、けっこういろいろな話が出ているし、一概には言えないようです。
人によっても違うだろうし…。ただ、「あやまってしまうと裁判で不利に」みたいなことは、あるかもしれないんだけど、ぼくが聞いたほどひどい状況ではないのではないかと思ったり。裁判については、最後のリンクでちょっと書いてあります。

逆に、同じ英語を使っていても、本家であるイギリスでは、めちゃくちゃ言うみたいです。ここはけっこう一致している。ぼくも、どこかで、sorryを言うというイギリス人に関するジョークを聞いたことがあります。
イギリスだとけっこう、Sorryというよ、という話は、Googleで、「sorry イギリス」と検索すれば、かなりたくさんでてきます。
以下は、ほんの例。
http://www.faminet.net/uk/vol2.html
http://nara-london.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-8c6c.html
http://www3.famille.ne.jp/~chikashi/emille/polite.html
http://chihiroruby.slmame.com/e1021778.html
ここまで意見が一致しているように見えると、そうなのかな、と思うんだけど、実際に行ってみて確かめるのがよさそうですね。


無宗教だと、海外でまともな人じゃないって言われるって本当ですか?
 どっかで聞いたことある話だ。
 しかし、すくなくともこれは、アジア圏ではそうでもないだろうと思う。
 仏教は、神を信じるってタイプではないし、中国などの旧共産圏では宗教色は薄い場合も多いと思う。中国に関しては、中国人と話していても別に宗教的な何かを感じたことはないので、そう感じる。(儒教を宗教と見るなら、また別かもしれないけど)まあ、どこまでアジアか、も微妙だが。
 正直、この話は、何を宗教と定義するかによって変わってくると思う。
 この海外、というのも、どこを指すかわからないし。
 ちなみに、アメリカ人の人と話したときに、宗教の話を出すのは、けっこうプライベートかもしれない、という話を聞いたから、そもそも、このような話題は仲良くならないとでないかもしれない。
 そして仲良くなったときなら、もっとしっかりといろいろ話すべきだと思う。


「雨の中、傘をささずに踊る人間がいてもいい。自由とはそういうことだ」が、「THEビッグオー」のロジャー・スミスじゃなくて、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテが言ったっていうソースはどこですか?
 上のセリフを、ぼくが初めて聞いたのは、テレビで放送していたビッグオーを見たときでした。
 ロジャー・スミスという、そのアニメの主人公のセリフです。
 しかし、その後、ネットでたまたま、そのセリフは、ゲーテが言った、といっているページを見つけました。
 そのようなページはいくつかあるようです。
 しかし、残念ながら、その出典が見つけられません。
 英語とドイツ語で、グーグル検索をしてみましたが、それにあたるような言葉は見つかりませんでした。
 free, rain, Schirm, Regen, tanzen, freiなどで調べてみましたが、だめです。
 唯一、それにもっとも近いだろうドイツ語は、以下ですが、ゲーテの出典はなく、そして、このドイツ語、順番がちょっとおかしいと思います。
Schöne auch Menschen haben Schirme, im Regen zu tanzen. Es ist, dass es frei ist
 倒置法にしても、なんか変に思えるし、でもあえて訳せば、「晴れたとき、人も傘を持ち、雨でおどる、つまりそれが自由だ」。
 うーん、意味は近いように思いますが、最初のSchöneが、文法的にどこにも属さないように見えるのですが…。
 結論としては、ビッグオーまでは出典はたどれるが、これがゲーテの文章であるという証拠は、(現時点でぼくが調べた限りでは)存在しない、ということになります。
 もし、出典を知っている方がいたら、ぜひ教えていただきたい。


ゴッホの以下の名言、これも出典を探していたのだけど、この出典は次のとおり。1883年10月28日、ドレンテ、ヴィンセントからテオへの手紙。以下リンクが証拠。
If you hear a voice within you say 'you cannot paint,' then by all means paint, and that voice will be silenced.

もし君が自分の中で、「君は絵が描けない」という声を聞いたなら、あらゆる手を講じて描くんだ、そうすればその声は沈黙するだろう。(ぼくの日本語訳)
http://www.webexhibits.org/vangogh/letter/13/336.htm
Letter from Vincent van Gogh to Theo van Gogh
Drenthe, 28 October 1883



健全なる精神は健全なる身体に宿る、は誤用って本当ですか?
 はい、誤用です。
 ウィキペディアに書いてあるレベルで誤用です。
 ユウェナリウスの風刺詩、第十歌が出典で、そこでは、そもそもこのような言葉は使われていません。
 ここでは、岩波文庫のローマ風刺詩集(ペルシウス・ユウェナーリス作 国原吉之助訳)をもとにして、正確な意味を自分なりに説明したいと思います。
 第十歌(副題に人間の願望の空しさとついている)は、以下のように始まります。
「西はガーデースから東はガンゲース川までのあらゆる土地において、誤謬の濛気(もうき)を追い払って、真実に善きものとそれに反する悪しきものとを識別できる人は少ない。というのも、我々は理性に基づいて正しく何かを恐れたり、あるいは願ったりしているだろうか。
 あなたが願いを遂げようと志してから、そしてそれを達成した後でも、決して後悔しないような、それほど幸先よい右足を踏み出すには、まず何から始めればよいのか。」
 このようにはじまって、人間が願うであろう、さまざまなことと、それがもたらす不幸について書かれています。
 ざっとあげると以下のとおり。
・富
・権力
・雄弁・名声・才能(能力とそれによってもたらされる名誉)
・栄誉(主に武勲のことらしい)
・長生き
・美しさ
 これが全部否定されます。
 富は、泥棒におびえることになり、もっていると殺されやすく、毒が粗末な土器にもられたことはなかった、などと言われます。
 権力は、これまた殺される危険が高まることを述べ、血を流さずに冥府に下った僭主は多くない、と言われます。
 雄弁・名声・才能は、その優れた能力のために、権力者からうとまれ殺された人たちの例が出てきます。バカであれば、脅威とならずに殺されなかったであろうに、ということでしょう。
 栄誉、戦争でのすばらしいはたらきなどは、最初は勝っていたとしても、負けて死体となって帰ってきたものの多さと、死体が必要とする土地のあまりの少なさを述べています。こんなに少ない土地があれば埋葬できるのに、なんであんなに栄誉を得ようとするのか、ということでしょう。また、どんな武勲をたてても、たいていは幸福な最期をとげていないことを述べています。
 長生きは、それによってみにくい老人になることは不幸であるし能力も落ちてしまい、子や孫の死を見なくてはならないので、悲惨だといいます。
 美しさは、不貞を働きやすくなるのが厄介ごとや不幸を招くことになるだろうし、もし不貞を働かないような立派な人間にそだっても、顔の美しさによって、悪い人間に狙われやすくなり、不幸に陥りやすくなるだろうと述べます。(ここでは、ヒッポリュトスやベッレロポーンの例が出ます。このような具体的人名は、ほかの例でも出ています。有名どころでは、栄誉のところのハンニバルやアレクサンダー大王。くわしく知りたい人は、この本を読んで、(本の中には長い説明がないので)インターネットで情報を調べるとよいでしょう)
 さて、そしていよいよ、例の箇所が近づいてきました。
 誤解をうまないよう、少々長めに引用します。前後を読めば、健全な精神は健全な身体に宿るというのは、ユウェナリウスの言いたいことに対して、かなり的外れな表現であることがわかるでしょう。
 上の願いことにより不幸になる例を示した後に、
「こうなると、人間が神に祈願するものは何もないのか、もしあなたが、私の忠告をお望みなら、こう言いたい。我々にとって何を祈るのがふさわしいのか、我々の今の境遇にどんな願い事が役に立つのか、その判断は神々の意志にお任せするがいいと。というのも、神々はあなたが喜ぶものではなく、何であれ、あなたに最もふさわしいものを与えてくれるだろう。神々は、人間が自分のことを大切に思っている以上に、人間をいとおしく思っている。我々は精神の盲目的な衝動に駆られて、そして空しい欲望に誘われて、結婚の相手を求め、妻の産む子を願う。しかし神々は、生まれた子がどんな少年になるか、妻がどんな女になるかは、お見通しなのだ。それでもあなたが、神々に何かをお願いしたいのならば、そして小さなお社に、純白に輝く豚の内臓と小さな腸詰をお供えしたいのなら、どうか、健全な身体に健全な精神を与え給えと祈るがいい。死の恐怖を絶つ強靭な精神を祈願し給え。生涯の最期を自然の恩恵とみなすような精神を。いかなる苦しみにも耐えられる精神を。怒りを知らぬ、無欲恬淡(むよくてんたん)な精神を。サルダナパーロス王の情痴淫蕩、酒池肉林、奢侈栄華よりも、ヘーラクレースの艱難辛苦や奮励努力こそ、いっそうの望ましいものと信じるような精神を祈願し給え。私があなたにすすめるものは、あなた自身が自分の力で自分に与えることのできるものである。泰然自若として生きる唯一の道は、疑いもなく徳によって開かれる。運命の女神(フォルトゥーナ)よ、もし我々人間に叡智があるならば、あなたはいかなる神通力も発揮できないのだ。女神よ、我々はあなたを、さよう、我々はあなたを神として祭り、天上に御座を設けているにすぎないのだ。」
 この言葉で、第十歌は終わっている。
 いまや、読者のみなさんはおわかりだろう。
 人はいろいろなことを願うが、たいていの場合、その願いはかなったとしても不幸をひきよせる。
 そうでない願いは、せめて健全な身体に健全な精神を与えてくれと願うことだろう。
 とこの詩は述べていることに。
 そして、後半を読めばわかるとおり、これは、精神を、強靭な精神、無欲な精神、徳のある精神を望むべきだと言っている。
 むしろ、身体については、「どうか、健全な身体に健全な精神を与え給えと祈るがいい」以外には、この段落で述べられていない。
 どんな運命が訪れようと、人間に英知があるなら、堂々としていられるし、そのような叡智を持つ精神を望むべきだと言っているのだ。
 これは、ぼくの理解では、ストア派の哲学(にかなり近いもの)なのではないかと思うが、本の解説を読むと、そういうことには触れていないように思う。
 以上のことから、「健全なる精神は健全なる身体に宿る、は誤用であり、どのような使い方が本当なのか」が明らかになったのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。


「朝起きたときは朝の光に感謝しなさい。生命と力に感謝しなさい。その日の糧に感謝しなさい。そして、生きるよろこびに感謝しなさい。もしも感謝する理由がわからない時は、それは自分の何かが間違っているからだと考えなさい。」という言葉の出典

 朝起きたときは朝の光に感謝しなさい。
 生命と力に感謝しなさい。その日の糧に感謝しなさい。そして、生きるよろこびに感謝しなさい。もしも感謝する理由がわからない時は、それは自分の何かが間違っているからだと考えなさい。
  出典は、インディアンのこころ Ohiyesa(Eastman):The Soul of the Indian

アーネスト・シートン(シートン動物記のシートン)による、「レッドマンのこころ」(The Gospel of the Redman an Indian Bible)より二重引用。
「レッドマンのこころ」は日本語訳が出ていますが、英語の原文は、このサイト(http://www.religionen.at/irgospelredman.htm)で読めます。ちなみに、インディアンのこころも、原文で検索かければ全文読めます。
このことについて調べてわかったことは、アメリカ先住民というよりも、インディアンといったほうが、より正義にかなった用法らしいということで、それはちょっとしたおどろきだった。