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当日の市役所平鹿庁舎前の広場は人で埋め尽くされていたんす。各丁内から出された山車にはお囃子が張り付き、素晴らしい演奏を披露していたんす。
8時過ぎからは花火が打ち上げられ、すぐそばで打ち上げられる光と音に魅了されていたんす。
                    槍に刺され絶命したのである。
 光秀は本能寺の焼き討ちを起こしてから絶命するまで、僅かな間の天下取りに終わったのであった。短命の権力者を三日天下と呼ぶようになったのである。
                                                            
栄町一同
 時は天正十年初夏の頃、明智光秀は本能寺焼き討ちの襲撃を決行。主君である織田信長を本能寺にて裏切りの不意打ち襲撃をかけのであった。
 時、同じころ、羽柴(豊臣)秀吉は備中高松城の毛利軍への水攻めの交戦中であったが、光秀の信長への襲撃を知らされたのである。
 このため、光秀の逃走先である山城の国の境に位置する山崎の地へと軍を中国大返しをしたのである。
 この信長襲撃の報を打てた秀吉軍の援軍、高山右近をはじめとし、同胞も山崎の地へと参戦に向かうのであった。
 光秀は予想を超える秀吉軍の進軍に、自軍の体制を十分に整えられないまま、山崎の地での決戦を余儀なくされたのであった。
 敗戦に追い込まれた光秀は、かろうじて逃げ落ち延び、小栗栖の藪の地に差し掛かったところ、土民の落ち武者狩りに遭い、竹
                 いるため倒れてしまう。助けに現れた揚巻は助六を打掛の下に隠し、大勢に囲まれていたが、啖呵をきって助六を守り廊から逃がしてやるのだった。
                
                                 新町下丁年番
 曽我五郎は、源家の宝刀 友切丸を詮議するため、助六と名乗り人の出入りが多い吉原へ来ては喧嘩を繰り返し、相手に刀を抜かせその刀を調べていた。
 助六と揚巻が話をしていると意休が揚巻を探し来た。揚巻は助六を自分の打掛の裾に隠すが、意急に見つけられてしまう。
 意休は助六を曽我五郎と見破り、仇を討つ心もない腰抜けと扇でさんざんに打つが、助六は我慢していた。さらに意休は刀を抜き香炉台を真っ二つに切る。その刀こそ探し求める友切丸であった。
 意休が三浦屋に入った後、助六は今宵意休の帰りを待ち受け、刀を奪う決意を固める。待ち伏せした助六は意休を切り殺し、友切丸を手に入れるが、追われる身となり大きな天水桶の中に隠れる。
 一度は追っ手をやり過ごし桶から出た助六だが、傷を負って

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 時は安土桃山時代、豊臣秀吉の権力のもと、その家臣は富を独占し、庶民に貧しい人たちが増えていく中で、南禅寺の桜門で「絶景かな、絶景かな」と言い放った天下の大泥棒 石川五右衛門。
 貧しい庶民の為に悪事に手を染める大名たちの金品を盗んでは分け与えていた。秀吉は五右衛門を捕まえようと画策をはじめ、秀吉の命を狙い所有する「千鳥の香炉」を盗もうとした五右衛門を前田玄以に命じて捕縛した。
 文禄三年八月二十三日、五右衛門とその一族たちは京都三条川原にて「釜茹で」の刑に処された。その享年は三十七歳と言われる。
 辞世の句「石川や浜の真砂は尽きるとも 世に盗人の種子は尽くまじ」
                                                       
本町丁内
 誰彼構わず片っ端から喧嘩を売り、相手を怒らせ刀を抜かせ、名刀「友切丸」の詮議をしている花川戸の助六こと曽我五郎は、吉原一の花魁三浦屋揚巻の色男。
 毎夜揚巻に言い寄る髭の老人意休に喧嘩を吹っ掛け、この老人が名刀「友切丸」を持つ仇であることに気づき、見事に意休を倒し刀を手に入れます。
 艶やかな桜満開の江戸吉原を舞台にした歌舞伎十八番「助六由縁江戸桜」一番の見どころである助六出端の場面です。

                                     覚町上丁年番・若連
17年浅舞八幡神社祭典の様子
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丁内をクリックするとその山車を見にえんす
覚町下丁 覚町上丁 田中丁内 蒋沼丁内 新町丁内 栄  町 四ッ関 本町丁内 伊勢堂 宿 館 躍山車
説明文は 各丁内の紹介文書をそのまま掲載させてもらったし、順不同だんす。

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※ これは飾り山車ではねんす。踊り山車になるんし
 仲町・六日町伝統の踊山車を披露申し上げます。
 民謡と手踊りは心のふるさと、人々の心のよりどころとして喜びや悲しみを唄や踊りに託してきたもので、先人から脈々と受け継がれてきた文化遺産であります。
 今年は「渡辺幸子社中一行」の民謡と手踊りを賑やかにご披露し、祭りに格段の興趣を添えたいものと念じ、実りの秋に感謝しつつ地域の皆様方の繁栄と家内安全、ご健康を八幡の神にお祈りし、一同声のかぎり力のかぎり演じますのでよろしくご鑑賞くださいますようお願い申し上げます。
                            
              仲町・六日町年番
 元禄14年、江戸城 松の廊下で赤穂藩主浅野内匠頭が吉良上野介に切り掛かり、浅野内匠頭に即刻切腹と赤穂藩取りつぶしの断が下った。
 一方の吉良上野介には何のおとがめもなく赤穂藩士たちは激怒。無抵抗で城を明け渡すも密かに仇討ちを計画し、赤穂藩家老の大石内蔵助以下47人の赤穂藩士が吉良邸へ討ち入りみごとに吉良上野介を討ち取った。
 赤穂藩士の堀部安兵衛と吉良家家臣の清水一学の一騎打ちは忠臣蔵討ち入りの名場面である。

                                 伊勢堂祭典年番 第四班  
 時は戦国、関ヶ原の戦い 義弘は時を待っていた。
 しかも陣を守る戦いで、兵は三百人足らずに減っていた。義弘の心は決まった。
 めざすは敵陣の中央突破、隊列を整え、一直線に突き進む島津隊。のちに「島津の退き口」と呼ばれる前代未聞の脱出劇ある。
 その決死の戦いで東軍随一の勇猛を誇る福島正則の軍勢もひるんだ。
 義弘は脱出に成功して八十人に減った軍勢で無事帰り着き、のちに領土を守った。
                             
四ッ関年番一同

 天正十年(1582年)六月二日、織田信長は家臣羽柴秀吉の毛利攻めに援助するため、出陣の途次、京都本能寺に滞留中であった。
 一方、明智光秀は中国征伐の友軍として西下の途中、丹波亀山城から引き返して「敵は本能寺にあり」と、信長に謀反を起こし本能寺を襲った。明智軍の先陣をきった安田作兵衛隊の急襲に信長は自ら弓矢を取り、森蘭丸らわずかな手勢で応戦した。
 しかし圧倒的多数の明智軍の前に成す術はなく、信長は本能寺に火を放って自刃した。

                    
蒋沼丁内・蒋和会
 武田信玄  上杉謙信  原虎吉

 
永禄四年、川中島に四たびの戦いを交えた竜虎。

 両軍激戦を繰り広げる中、啄木鳥戦法を見破り優位に進める正虎(謙信)。

 十二騎を従え八幡原本陣に構える信玄に小豆長光の太刀を抜き放ち襲いかかった。
 これを信玄軍扇で防ぐ。これを見た近習の原虎吉、槍で正虎の馬を突き退却させた。
               
             田中丁内

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 平鹿町浅舞の八幡神社のよみや(宵祭り)が9月16日(土)に本祭りが17日(日)に開催されたんす。市役所平鹿地域局前の道路さ、各丁内の渾身の力で作りあげた飾り山車10台と踊り山車の11台が勢ぞろいしたんす。
 
 山車と一緒に各丁内のお囃子が披露され笛と太鼓・鐘の響きで県内屈指の素晴らしい音と音を聞かせてくれたんし。
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 平安末期、寿永三年二月七日。
 一の谷の真っただ中、義経は弁慶と精兵を率いて一の谷の裏手の断崖絶壁の上に立った。
 義経は、戦機を見て坂を掛け下りる決断をする。義経は馬二頭を落として、一頭は足を挫いて倒れるが、もう一頭は無事に駆け下がった。
 義経は
「心して下れば馬を損なうことはない。」 「皆の者、駆け下りよ。」と言うや先陣となり駆け下がった。それを合図にして鵯声の崖から弁慶と源氏軍が一の谷の城郭に迫る。 
                                                   
宿館町内会  
 時は神代のころ、素戔嗚尊(スサノオ)は岩長姫にあざむかれ、十握の宝剣を奪われてしまう。この岩長姫の正体は八岐大蛇であった。
 宝剣を取り戻すべく素戔嗚尊は出雲国へ。出雲国では美しい稲田姫が八岐大蛇への生け贄に選ばれていた。稲田姫が護身の蠅斬り(ハバキリ)の名剣を白装束の袖に隠し時を待つ中、素戔嗚尊は将来を誓い合った稲田姫を助けるため、本性を現した八岐大蛇に闘いを挑む。素戔嗚尊は激しい立ち回りの末についに大蛇を倒す。
 飲み込まれていた稲田姫も袖に隠し持っていた蠅斬り(ハバキリ)の名剣で大蛇の腹を切り裂いて出てくるとともに、奪われていた十握の宝剣も取り返し素戔嗚尊に献上した。
 この名剣を隠した脇明けの袖こそが「振袖の起源」となっている。

         
覚町下丁年番