一心花伝

花を継ぐ者

「花を継ぐ者」は世阿弥を主人公とした創作です。時代考証等はあまりしておりませんので、ご了承ください。
お暇な方はお立ち寄りください。




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佐渡の大田の浦から奥深い山路を登り、世阿弥元清のいう「笠かり」という峠に出て後ろを振り

返ると、もう手の届きそうなところに越後の山並みが浮かんで見える。世阿弥もまた、あの山並み

を同じように眺望したのかと思えば、万感、胸にせまるものがある。


 七十二歳にして配流の身となった世阿弥は、その最後の自著となった「金島書」において淡々と

日常を過ごしていたかにみえるが、中に唯一心情がなまに吐露される一文がある。ただ一文ゆえに、

世阿弥を包む寂寥感が狂おしいほど伝ってくる。


…折りを得たりや時の鳥 都鳥にも聞くなれば

 声もなつかしほととぎす ただ鳴けや鳴けや鳴けや老いの身の

 われも故郷を泣くものを…


 世阿弥という名乗りは生来のものではない。本来、阿弥とつく名は鎌倉末期から流行り出した時

宗の徒の名乗りである。世阿弥の父観阿弥清次にしても、当時流行の兆しのあった田楽、猿楽など

の芸能を生業とする者達は阿弥と名乗ることが多かったようである。理由は明らかではないが、自

らの後援者ともなる月卿雲客と同座するのに宗徒(仮ではあるが)であれば俗を離れ、身分制を越

えて言葉を交わすことが許された、とする説がある。一種の方便だったのであるまいか。

 世阿弥の生年は貞治二年(一三六三年)とされている。観阿弥清次三十歳の時の子である。当時、

観阿弥はまだその名ではなく、自らの猿楽の一座の名とともに、その拠り所でもある大和の国結崎

村の名を取り、結崎清次と名乗っていた。この親子が世に出るのは応安七年(一三七四年
)京都今

熊野において結崎座が猿楽を催した日からである。この舞
台に室町幕府三代将軍足利義満がふいに

足を運んだのである。義満にとっては噂には聞いていたにしても、下々の流行り芸である猿楽を見

物しようとすること自体単なる気まぐれに過ぎなかったのだが、このことが親子と猿楽の未来を大

きく変えることになったのである。



 世阿弥を語るためには、その最大の理解者であり、指導者でもあった観阿弥についても触れなけ

ればならないが、観阿弥の生涯で明らかになっている事は実に少ない。世阿弥は後に「風姿花伝」

という当時としては世界的にみても類まれな芸能論を書き残すのだが、その内容について、父観阿

弥より相伝せられしものとしている。そしてそこからは卓越した舞台芸術家としての観阿弥の姿が

浮かび上がってくるのである。以降、二人の名は清次、元清としよう。

 清次という人は、舞台人としてはまずまずの偉丈夫だったようである。そして何事につけても貪

欲であった。田楽の何某の舞台が面白いと聞けば、駆け付けて自分の目で確かめた。清次はそれま

での、単なる物真似風の猿楽のあり方に厭いていた。しかし、猿楽を何物にすべきなのか明確な答

えを持っていたわけでもなく、ただやみくもに形を壊しては組み立てるといったことを繰り返すば

かりであった。その舞台は人々の評判をとることもあれば、罵声を浴びることもしばしばであった。

しかしそれは少しずつ形を変え、確かな変貌を遂げつつあった。もともと田楽と猿楽はその起こり

に違いはあるが、変遷しつつ室町初期にはほぼ同じ様式の芸能として、系統の違いのみを主張した

ようである。清次自身も猿楽、田楽の別なく吸収し、或いは捨て去り、五里霧中の創作を続けてい

たわけである。この時代、あたりまえのことではあるが、猿楽(現代における能楽)は古典ではな

く、斬新な或いは前衛といってもよい新興演劇だったのである。

 
 清次は或る一日、幼い元清(幼名は鬼夜叉といった)を連れ、田楽の名手として名の知れた喜阿

弥の舞台を見ていた。曲目は「炭焼の能」である。シテ(主役)の老人は薪を背に負い、喜阿弥見

たさに寄せ集まった聴衆のざわめきの中、一声の出の囃子に曳かれるように幕を離れた。清次も初

めてみる曲である。シテは橋掛り半ばで運びをとどめ、低くしわぶくと聴衆のざわめきは消え、そ

の一瞬の静寂に向けて一声の謡いを発した。朗々とした耳に心地よい謡いが見所に響く。

「鬼夜叉どう思うか」
清次は小さく囁いた。

 元清はふと首を傾げ、

「良い謡だと思います」
とだけ答えた。清次はその答えを覗き込むように元清を見た。清次はやや

落胆を覚えたが、ここは元清に悟らせなければならない、また問うた。

「あの間合いの見事さはどうだ。しわぶきひとつで客どもをいっぺんに引き付けてしまった…」

 清次はやや解説気味に云った。しかし元清は芸のことについてはよほど早熟であった。実は元清

は父の問いについて、直感的に自分の中に芽生えつつある何かが、あの「しわぶき」を強く否定す

るのを感じていたのだった。それが、あまり気のない返事となり、ただよほど鍛えぬかれた謡いに

引き付けられた事にだけ言い及んだのであった。元清は無言のまま父を見上げた。清次はすでに舞

台に目を移し、何か思案している様子であった。元清にとって見習うべき猿楽の役者はすでに父清

次ひとりで充分であった。無論、清次自身、喜阿弥に近いところに在る舞台人ではあったが、清次

がそれを打ち破ろうともがいていることは元清にもありありとみえていた。

 この時期、まだ鎌倉期以降の田楽の人気が根強く、結崎座というよりも、猿楽そのものが聴衆の

耳目を捉えるまでには至っていない。猿楽の一座がかける演目は内容的にも脆弱で、喝采を受ける

ことは少なかったのである。また、それまで芸道の花道を歩んできた田楽に比して人気役者が育っ

ていないのも事由のひとつではあったろう。猿楽では清次と日吉座の犬王がやっと世間に名が知ら

れてきてはいたが、喜阿弥をはじめ、一忠、増阿弥と綺羅星のごとくひしめく田楽の役者には到底

及ばない。田楽を凌ぐためには新しい何かを作り出さねばならない、清次は常にその焦燥感に苛ま

されていた。座を引き継ぎ、座のものどもを食わせていかなければならない清次の使命でもあった。

 帰りの道すがら清次にはひとつの物語が浮かんでいた。時折立ち止まり、遠望し、うずくまり、

地面に何やら下絵のようなものを書き、また歩き出す。元清の存在など忘れているかのように思案

している。事実忘れていたのであろう。幼い元清は遅れまいと大人の足に一生懸命ついて行く。元

清は不意に立ち止まった清次にぶつかり、思わず尻餅をついた。清次は我に返って元清をみた。元

清の愛らしい顔が自分を見て笑っている。

『我が子ながら美しい顔立ちをした子だ…』
清次は我が子をそんな風に評してみた。

「舞台に上がってみるか」清次の新しい構想の中に、元清の舞台姿が重なり始めていた。

「うんっ」元清は破顔して強く頷いた。もう稽古を始めてから時は経ているが、いまだ舞台に立っ

たことはない。元清は沸き立つような興奮をおぼえ、飛び上がって立った。清次は元清の頬を撫で、

肩を抱くように連れて家路を急いだ。


 …「自然居士」と題したこの曲に、もう一工夫加えたい。清次は夢の中でさえ思案した。清次は

自作ながらこの能の構想に自信を持っていた。人買いにかどわかされた幼子を救い出す、若き修行

僧の活躍する活劇である。人買いとの押し問答の中に中ノ舞、ササラ、鞨鼓と流行の芸事を無理な

く盛り込み、見る者の目をそらすことなく終末へと引き付けてゆく。それまでの猿楽からは明らか

な飛躍があった。だが、清次の心はいまだ充ちていない。

『もうひとつ…』清次は考えあぐねた。

『あの喜阿弥を凌ぐためにはもうひとつこの曲に花を添えなければならない…』それが何なのか、

清次は枯渇した泉をさらに掘り起こし、雫を求めた。


 清次はその日、いつも世話になっている寺院への挨拶廻りに出た。その寺院の境内に人だかりが

出ている。寺男に聞くと、近頃流行りの「加賀曲舞」の一座だという。例の癖で清次は立ち止まり

耳を傾けた。すると今までに味わったことのない、清次にとっては異様なリズムが清次の耳朶を打

った。心臓の鼓動のような、正確に時を刻み込むような拍子があたりに充満している。聞くごとに

清次の心の臓は高鳴っていった。そしてその調子に合わせて時折り踏み込む足拍子は、力強く、踊

るような軽快さをも併せ持っている。謡いでさえ例外ではなく、その拍子の中で活きづくようなリ

ズムを刻んでいる。だが、その舞台はそれだけのものであった。他に何もない。清次はひとときの

興奮から自分を取り戻し、目前で舞い続ける舞人のために、その空ろを惜しんだ。あれだけ音曲の

面白さを持ちながら、来年また会うことは無いのではあるまいか、ふと清次の脳裏をそんなことが

よぎった。

 この時代、数多ある芸能はそのほとんどが命短い。常に創意工夫を続けたもののみが束の間の生

命を得ることができる。清次自身もその気まぐれで自侭な観衆という波に翻弄される一人であるこ

とに間違いはなかったが、清次はその波を何とか操り、結崎座を保ってきたのである。

 清次は思い描いた。あの音曲を是が非でも自分の物としたい、それができれば自分の目指す猿楽

を一段高みに登らせることができる。清次は血の滾るような興奮を我が身に感じていた。それ程の

音曲であったのである。盗む、とは言わない。これと思えば取り入れ工夫する。誰もそれを咎めだ

てする者などはいない。自由闊達な時代でもあった。

 清次は自室に篭り、考えあぐねた。あれはあれで相当の工夫がある。一朝一夕で自分のものには

ならない。ものにするには、教えを請わねばならない。だが、その伝手も何もない。あの寺院に頼

み込む手もないではないが、頼めばよほどの謝礼を用意しなければならない。それはそれで馬鹿々

々しくもあった。清次は自分なりに工夫もしてみたが、上手くいかない。悶々としつつ、何日かを

過ごした。すると、その伝手が向こうの方からやってきた。

「太夫、南阿弥様がお見えです」
弟子の忠佐が声をかけた。

「南阿弥様がわざわざ…、お通し申せ

 海老名の南阿弥は室町幕府三代将軍足利義満のお側衆でもあり、清次を応援する一人である。清

次は下座に廻り、南阿弥を待った。ほどなく小柄な老人が身体をゆすりながら、清次の前に大様に

座った。

「これは南阿弥様、御用があらば伺いますものを、わざわざのお越し、痛み入りまする。本日はい

かような御用でございましょうか」
清次は深々と頭を下げた。

「相変わらず、ご丁寧なことだ。清次殿、新しい能の準備はお進みか

「いやいや、それがしも不調法にて、なかなか工夫が参りませぬ

 南阿弥は軽く頷きながら言葉を継いだ。

「今日はな、ちょっと変わった御仁を連れて参った」
そう言うと、清次の後ろの柱辺りを差し招い

た。清次が振り返るといつの間に控えてい
たのか、小柄な女が平伏している。清次は女のために座

をずらし、声をかけた。

「さっ、こちらへ」
女は顔を伏せたまま清次の傍らへ控えた。

「まあ、顔を上げなされ

 南阿弥が促すと、女はふと顔を上げた。清次は思わず、あっ、と声を上げた。女は清次を見て、

穏やかに微笑んだ。

「なんだ、二人は顔見知りか」
南阿弥は怪訝そうに二人を見比べた。

「いや、顔見知りというわけではございません。ちらりと舞台を拝見したまでで、お名前も存じま

せん」

 女は曲舞の舞台に立っていた内の一人であった。中でも取り分けそのしっかとした舞姿に感じ入

ったため、清次は女の顔を鮮明に覚えていたのである。

「私はもう何度も舞台で拝見しております」
女はまたにこりと笑った。

「それなら話は早いわ。この人は加賀曲舞の一座の乙鶴さんと申す

「実は、この乙鶴さんはあの一座にもう居られんようになってな。それで清次殿にどうかならんか

と、無心に来たというわけだ」
突然降ってわいた話に清次は多少狼狽を覚えたが、南阿弥の申し出

では否も応もない。

「承知致しました。訳は聴きますまいが…、ひとつお願いがございます

「なんぞ、難しい話か

「いえ、それがしに曲舞をお教え願いたいと思います

「清次さんが曲舞を習うのか

「はい、ぜひに

「これは思いもよらなんだが、猿楽に曲舞を取り入れようとしておるんじゃな

「それはまだ南阿弥様にも申せませぬ」

 
この猿楽の大改革は清次にとっても未知のものであり、まだ他の者に知られるわけにはいかなか

った。

「これは楽しみがまたひとつ増えた。乙鶴さん、よろしくお願いしますよ」

「はい、お役に立つことであれば」


 女は清次の申し出に驚いた様子ではあったが、即座に答えた。


                                 その2                    


 
乙鶴は座の子らと共に寝起きし、一座の世話役の手伝いをしつつ過ごすようになった。曲舞はか

なりの技量と見えたが何ゆえ座を離れることになったのか、廻りの女房衆が口喧しく尋ねても微笑

むばかりで答えることはなかった。乙鶴を一座に迎えるにあたっては、清次がいらぬ詮索をせぬよ

う申し渡しはしていたのだが、世話好きの女房衆にはあまり効き目はなかった。乙鶴はそんな女房

衆をうるさがるでもなく、その生活を楽しんでいるふうでもあった。


  昼、一座の者の稽古を付け、夜は清次と乙鶴の相対の稽古が始まる。低い謡いの声と拍子板を打

つ乾いた音は、毎夜深更にまで及んだ。清次の執念もさる事ながらその稽古に付き合う乙鶴の真摯

さも尋常のものではなかった。元清はその父の稽古にじっと耳を傾け、その響きを子守唄に眠りに

ついた。


「あの鼓の間はどうしたものか、猿楽の謡とは間合いが合わない…、理屈がわからなければ曲に取

り入れる工夫は難しい」夕餉の席で、清次は首を捻った。


「私が至らず申し訳ありません」乙鶴は箸を置いて頭を下げた。

「いや、そういう意味ではない。そなたには良くしてもらっているのだ。判らないのはわしの力不

足よ」あわてて清次が弁解しなければならないほど乙鶴は恐縮して小さくなっていた。幼い頃より

曲舞を仕込まれた乙鶴は、身体では覚えていても、それを説明するだけの知識を持っていなかった

のである。


「父上、あれは多分八拍子でございますね。曲舞のお謡いは十六文字で、猿楽は五七の十二文字が

多いですから文字足らずを節で埋めなければいけませんね」


  ふいに元清が声を上げた。清次は思わず箸をとめて元清をみた。まだまだ幼さの残る元清は父の

形相に驚いて顔を伏せた、我知らず涙が零れた。

「申し訳ございません。余計なことを申しました


声が小さく震えている。清次は我れに返り、元清の頭を優しく撫でた。

「泣くことはない。おまえのおかげで工夫がとけた」

元清が顔を上げるといつもの父の顔がそこにあった。清次は小さな頼もしい後継者に一座の大きな

未来を見た思いがした。同時にそのあまりに早熟で鋭敏な才に一抹の不安を感じたが、それは自分

の導き次第であろう、とも思った。


 元清の言葉は正鵠をついていた。曲舞にしろ、猿楽にしろ節の抑揚が少ないために、同じものと

して聞いてしまっていたが、二つは全く似て非なるものであった。鼓の間の奥付けはおそらく太夫

がもっているのだろうが、その間合いを、稽古を聞くだけで理解してしまった元清には舌を巻く思

いがあった。それは清次が元清に施した英才教育の成果でもあったろう。清次は座の将来を見据え、

元清に連歌、蹴鞠などを習わせていた。連歌は曲を書く上での基礎にもなるが、本来の清次の目的

は貴人階層とのつながりをつけることにあったように思う。それは南阿弥との交際に充分出ている。

またそういう文化人の衆目を集める魅力が、幼いながらも元清には備わっていたのである。


 いずれにせよこの出来事は猿楽にとって革命的な事件であった。このときから猿楽は舞台芸術と

して大きな飛躍を遂げることになる。少し専門的な話になるが、八拍子の間に対して十六文字の謡

であれば節の入る余地はないが、猿楽のように十二文字が基調になる謡ではその間に節を付ける、

つまりひとつの文字を二字分伸ばす、或いは前の音階から高い音、低い音に上げ下げする、といっ

た変化を付けることにより埋める必要が生じたのである。これは清次が猿楽の台本を創作する上で、

その格調を造る工夫として過去の著名な和歌や連歌(つまり五七調ということである)などを取り

入れていたことによるのだが、それが謡に思わぬ変化を付けることになり、音曲として複雑な味わ

いをもたらすことになったのである。これが後に大和音曲と呼ばれる謡曲の創始であった。

 
それからはほとんど職人の手仕事のごとく創作は進み、七日も経たずして「自然居士」は完成し

た。今熊野神社の興行まであとふた月あまりのことであった。そしてその稽古は峻烈を極めた。清

次は一切の妥協を許さなかった。座の者どもに拍子の原理を教えながら、自身もその過程の中で確

かなものにしていくという、泥縄の日が続いた。最初は稽古に不満げな面持ちであった面々も


自然居士」一曲の全てが明らかになるにつれ我知らず前にのめるような姿勢に変わった。皆

自然居士」の魅力の虜となり、その成功を信じて疑わなくなった。折から、南阿弥より重大な情

報が結崎座にもたらされた。将軍足利義満が台覧するというのである。無論、南阿弥の力添えの結

果ではあるが、清次にとっては猿楽が飛躍できるか、一生地方のどさ廻りで終わるか、大きな懸け

物でもあった。



 当日の空は抜けるような紺碧であった。やや遅れて座についた義満を待ち、舞台は開演した。将

軍の来臨が噂となり、見所は空前の賑わいであった。義満に連なり、幕閣、宮中の主だった面々の

顔も多数見える。


 舞台は清次の「翁」から始まった。本来「翁」は座の長老が演じるものという慣わしがある。だ

がこの日に限っては清次が演じるよう南阿弥から忠言があったのである。義満は気難しいところが

あり、初めて観る猿楽が期待するほどでもなければ中座する恐れもあった。南阿弥はそれを心配し

たのである。

 清次は瞑目し、幕離れを待った。元清の眼からも父の緊張が見て取れる。しかしすっと見開かれ

た父の双眸には力が漲り、溢れていた。


 やがて舞台上に清次の謡が朗々と響きわたる。

 「どうどうたらり、たらりら。たらりららりらぁ、らりどう……」

 翁の謡には明確な意味を持たない詩章が多く含まれる。古くから猿楽の座に伝わる祈りの言葉な

のであろう。意味は解らなくとも静寂の中に放たれた清次の謡は、聴衆の心魂に鼓動を伝える力が

あった。義満は盃を口に含みながら半ばぼんやりとした面持ちで舞台を眺めている。元清は幕間か

ら秀麗な顔立ちをした将軍義満を盗み見た。幼いころよりその明晰さを謳われてきた義満は、年若

いながらもすでに将軍としての自信に満ちていた。聴衆はその目新しさもあり、徐々に舞台に引き

込まれつつあったが、義満の周囲だけは極めて冷静な、清澄な空気が保たれていた。それは明らか

に義満を憚ってのことと見て取れた。やがて脇能からさらに進み、この日の眼目ともいえる「自然

居士」となった。元清は子方として装束を着けつつ、気持ちの昂ぶるのを押さえがたかった。鬘を

巻き、唐織を着けると本物の少女と見間違えるほど愛らしい姿となった。幼いながらも父の舞台を

成功させようという意気込みは並外れていた。
幕内で出を待っていると、自然居士の装束に身を包

んだ清次が寄ってきて元清の頬を指で弾いた。元清は頬を弾かれあっけにとられて父を見上げた。

すると清次は、


「それでよい。さっきはまるで鬼退治のようであったぞ」と笑いかけた。元清の頬には赤く紅がさ

し、肩の力がすっと抜けていくのが自覚された。自然居士は予想以上に聴衆を圧倒した。清次の留

め拍子とともに割れるような歓声が上
がった。

 この興行は三日続き、その全てを義満は台覧した。義満はことの他無表情ではあったが、三日間

通いつめた事実が義満の心情を物語っている。やがて興行のすべてが終わり、
義満は清次とともに

元清をも自らの桟敷に招き、盃を取らせた。


「猿楽とはなかなか面白いものだ」

 やや気忙しそうな声が平伏する清次の頭上に降った。

「世間ではその方の猿楽を“かんぜ”の能と呼ぶそうだな。これよりは観世の座とし、その方も観

阿弥と名乗るが良い。屋形にも出入りをさし許す


「ありがたき幸せに存じます」

 清次の肩は喜びに震えた。阿弥号を直接将軍より賜わるとは稀代の幸運であった。“かんぜ”と

は清次の幼名である観世丸に由来するという。幼くして将来を嘱望された清次の舞台を、人々は成

人した後も“かんぜ”の能と呼び、馴れ親しんだのである。


 清次の心持ちは如何であったろうか。喜びはもとより、おそらくは猿楽という自分の生業の進む

べき道筋を見出したという気持ちではなかったろうか。この頃の猿楽の様子を「風姿花伝」は次の

ように語っている。


 …およそ、この道、和州・江州において、風体変われり。江州には、幽玄の境を取り立てて、物

 まねを次にして、かかりを本とす。和州には先ず、物まねを取り立てて、物数を尽くして、しか

 も、幽玄の風体ならんとなり…


大和猿楽は物まね、つまり劇的な物語が先ずあり、清次はその上に舞や音曲を主にした叙情的な、

幽玄と呼ぶ風情を重ね合わせ新しい猿楽の創造を模索したのである。その幽玄を最も得意としたの

が近江猿楽日吉座の犬王であった。清次自身が犬王の元を訪れ、教えを請う事も少なくなかった。

犬王という人は清次とはよほどうまが合ったのか、何くれとなく世話をやいた。清次の新しい猿楽

の道も犬王の芸が大きく寄与していたことは間違いのないことである。ただ犬王自身が清次の作り

あげた新しい猿楽に手を染めることはなかった。その後清次が何度か進めても、それは私の芸の本

分ではないようです、と穏やかに笑うだけであった。犬王は清次の新しい猿楽を否定しているわけ

ではなく、心底から自分にはできない芸と思っているようであった。いずれにせよ
すでに戦乱から

離れ、武家貴族として確固たる地位にある将軍義満の鑑賞眼に耐え得た、という事実に清次はやっ

と客観的な自信を持つことができたのではないだろうか。そしてその事が結崎座に経済的な安定を

もたらす事も無論大きな喜びなのであった。



 その夜、清次は座の者を集め、小さな祝宴を張った。

「皆、よくやってくれた。今宵だけは祝いの盃をすごそうぞ

 清次は座の者どもには大酒、博打を禁じていたのである。遊侠を禁じ、厳格なまでに稽古に精進

した結果がこれであると、清次は思った。その清次の峻烈さについていけず、座を去った者も少な

くはない。舞にしても謡にしても聴衆の手の届かないほどの高みに引き上げること、それが座が生

き残るための唯一の道であると清次は思っていた。後は自分の創作の出来如何である。その作意を

充分に表現する舞や謡があってこそ座の成功がある。清次の信念にもなっていた。ささやかな宴げ

ではあったが、みなの喜びはひとしおであった。


「これで都に安住できるなぁ」

 誰かが笑いながら云った。するとそれを聞いた清次は真顔になって云った。

「それは心得違いだ。確かに御所様の召し出だしは受けたが、田舎の舞台はこれまで通りだ。その

舞台があってこそ今の我らがある。それを忘れてはならぬ。運なく都で一座がもてはやされなくな

ったとしても田舎で受け入れられるならば、必ずまた盛り返す日も来よう。みなもそのつもりでい

てくれ」


 それを聞き、一同身の浅はかさを清次に詫びた。清次という人は座の者を食わせていくという点

においてきわめて細心であり、ひとつの油断もなかった。



 翌日、南阿弥が訪れた。

「今日から観阿弥さんじゃな」

「これも南阿弥様のおかげでございます」

「いやいや、わしは引き合わせをしただけで、すべては観阿弥殿の力だ」

 南阿弥は観世座の引き立てがよほど嬉しかったらしく、終始笑みが絶えなかった。

「実は今日参ったのは、お祝いのこともあるのだが…、」南阿弥はそこまで云うと言葉を濁した。

「何か難しい話でございますか」

「いや難しい事ではない。実は御所様が鬼夜叉殿を御所望なのだ」

「えっ、鬼夜叉を、でございますか」

 清次はやや驚きはしたが、元清なら有り得ない事もない、とも思った。貴賎を問わずば元清の美

しさは父の清次でさえ認めるところなのである。


御所様のお相手でございますれば、当家の誉れでございます。よしなにお願いいたしまする」

 清次はただ頭を下げた。

 清次は南阿弥が帰って後すぐに元清を呼び、御所様のお側に奉公する事の意味を教えた。元清は

その微妙な意味を頭では理解できたようであった。元清は秀麗な義満の顔立ちを思い浮かべた。当

時、衆道は貴族社会ではごく普通の習慣であり、美童を側に置くことは彼らにとって大きな自慢の

ひとつでもあった。元清自身もすでに半ば貴族社会に足を踏み入れており
、(あの御所様が自分を

…)と思うと何やら誇らしくもあった。そう自然に思える余裕が、すでに元清にはあった。


 義満はよほど元清を気に入ったようである。数日戻らぬこともしばしばであった。まだ稽古の仕

掛かりである元清にとってそれはあまり好ましい事ではなかったが、こればかりは否応もないこと

だった。元清自身もその自覚があるらしく、家に戻ったときの稽古は鬼気迫るものがあり、自分の

得心のいくまで清次に教えを請うた。そしてその風貌からは幼なさが少しずつ失せ、匂やかな、お

となの顔が現れ始めた。


 ―元清が将軍義満の側近くに上がってから急に観世座には届け物が増えてきた。幕閣の重臣から

の物もあれば、さる守護大名からの物もある。観世の歓心がかえればそれが将軍の歓心をかう事に

繋がるからである。


(これが人の世だ)清次はそれを眺めながら自分は自分であり続けねばならないと身を戒めた。


「今日は関白殿の屋敷に参る」

 元清は義満に従い二条良基の元を訪れた。良基は五摂家に生まれ、すでに六十に近く人臣を極め

摂政の地位にあった。


「お前と側近く交わりたいそうだ」義満は珍しく笑いながら云った。

 良基は平伏する元清を待ちかねたように顔を上げさせ、覗き込むように見ると、

「ほっ、ほっ、ほっ」と、笑いとも何とも言えぬ奇妙な声を上げた。

「ちと、顔が赤うござるなぁ」義満がくすくすと笑いながら声をかけると、

「いや、これはお恥ずかしい。だがこのような者を見ると途端に気が若返るものだ」

 この席で元清は良基の連歌の相手をしている。良基の相手が勤まるほど元清は連歌に堪能であっ

た。


 良基のある書状にこう記してある。

 
 …わが芸能はなかなか申すに及ばず、鞠、連歌などさえ堪能には、只者にあらず候。なによりも

 又顔立ち、 振風情ほけほけとして、しかもけなわ気に候。かかる名童候べしとも覚えず候。…



 ほとんど手放しで誉めている。よほどの執心であったのだろう。良基は義満にそっと和歌を書き

付けて手渡した。



   松か枝の藤のわか葉に千とせまでかかれとてこそ名づけそめかし


「関白殿はそちを藤若と呼ばせたいそうだ」

 義満は心から愉快そうに笑っていた。

「ありがたき幸せにございます」

「うむ。では向後、藤若と名乗るがよい」

良基もそれを聞き、満足げに何度も頷いていた。

 元清は義満に見出されてからというもの、以前にもまして貴族社会との関わりを深くしていった。

永和四年(一三七八年)には義満に同席を許され、四条東洞院の桟敷に祇園会を見物している。そ

ういう姿に対して、内大臣三条公忠が『後愚昧記』で「猿楽などは乞食の所業だ。将軍がそのよう

な卑賤の者を寵愛して席を同じくし、盃を与えるなどはもってのほかだ」と憤慨しているように、

好意的でない環視も多かった筈である。自分の出自をよく理解している元清は、痛いほどその視線

を感じていたに違いない。


 この頃から清次は元清に対して、舞や謡の稽古だけではなく、観世座をいかに繁栄させていくか

といった内容の事を口伝として伝え始める。いよいよ元清を自分の後継者として本格的に養成しは

じめたのである。元清はその人生の出発点からして清次とは違う。清次は貴族社会へ足掛かりを着

けることにその前半生を費やしたが、それは座の繁栄には必要不可欠の事であったのである。その

結果として元清はすでに貴族社会の空気を自分のものとして成長してきている。それは清次が施し

た教育の成果ではあるにしても、自分とは出発点から異なる元清を今後どう育てるべきか、と思い

悩んでいたのである。清次は自ら行動することでも元清に教えた。清次は地方での興行を以前にも

まして数多くこなした。地方の寺社や村での興行を手掛けることにより、その心の大切さを元清に

伝えようとした。今熊野の興行の後、一座の者の浮かれた気持ちを引き締めたそれである。


 清次の教えは様々な分野に渡った。それは年齢毎の稽古の仕方に始まり、創作の方法、役柄の表

現方法、座をいかに運営すべきか、に至るまで余すことなく元清に伝えたようである。その集大成

が後年元清が著す「風姿花伝」として結実するのである
。「風姿花伝」を読む限りにおいては、元

清は父の教えをよく咀嚼し、自分のものとしていたようである。その書きようは冷徹でありながら

も、父に対する慈愛に充ちたものである。元清自身はその「風姿花伝」を基盤として、猿楽をさら

に高みに昇らせようとするのである。


                                その3

 
  その清次の死は突然訪れるその死に先んじ、観世座のよき理解者でもあり、庇護者であった南

阿弥が彼の十九歳のときに亡くなっている。元清の元服はその直前のことであったらしい。元服の

後は、三郎元清と名乗っている。当時としては相当に遅い元服であったが、無論それは義満がなか

なか元清を離したがらなかったからに他ならない。南阿弥の死も元清にとっては大きな悲しみであ

った。元清は人一倍そういった感情の量が多いようであった。元清の元服を義満と共に愛でてくれ

た慈愛に充ちた笑顔を忘れることはない。そしてその死の床で元清に語った、決して道を誤らぬよ

うに…という言葉が元清の耳朶に残っている。その悲しみがいまだ手にある内に元清は清次を失う

のである。


 常楽記」という当時の死者の記録簿に至徳元年五月十九日、今川了俊の父今川五郎入道の死と

並べて
、「同月同日、大和猿楽観世太夫駿河死去」とある。清次は五十二歳、元清二十二歳であっ

た。その記録にあるようにその死地は駿河の旅先であった。今川了俊の召し出だしであったのか、

五郎入道の召し出だしであったのかは定かではないが、今川領内での興行の中での客死であった事

は間違いないようである。清次の死は謎の部分が多い。観世の家が足利家を長年悩ました楠木正成

の流れを汲んだ家であり、五郎入道はその末裔が足利将軍家に取り入っている事に大きな危惧を覚

え、清次を興行に事寄せて呼びそして葬り、自らは将軍家を憚り自刃した、ともいうが史実は何も

語ってはいない。ただ同月同日に今川五郎入道と共に駿河の地に客死したとあるばかりである。


 父の死を目の前にし、元清は声もなくひとり慟哭した。今の今まであった足裏の地が突然失われ

たような、底の知れぬ虚ろを感じていた。そして自分が父の掌の中で息づいていたに過ぎない事を

あらためて知る思いであった。父の教えもまだ先があったはずである。元清自身が修行途上の身で

ありながら観世座を太夫として背負わなければならなくなった。二十二歳の若き太夫の誕生ではあ

ったが、それは決して条件の整った上での襲名ではなかったのである。ただ幸いなことは変わらぬ

将軍義満の庇護があったことである。義満の力で襲名もつつがなく執り行われた。その後も何くれ

となく引き立てがあり、元清の太夫としての地位は徐々に安定したものになっていったのである。


 しかし清次の死から三年、座が落ち着きを取り戻すに至って、元清は少しずつ人変わりがしたよ

うに寡黙になっていった。もともと口数は多いほうではなかったが、さらに口重く、ひとり物思い

に耽るようになった。舞台からもやや離れたところに自分を置き、地方の興行も弟の四郎元則に任

せるようになっていった。元則はまだ二十二歳をやっとまわったばかりであったが、兄元清の名代

を何とかこなせるだけの技量は持っていた。しかしその兄のやり様には常に憤懣を抱いていた。元

則は元清よりもさらに年若く父清次を亡くしたため、父よりも元清に多く稽古を受け師匠としての

礼を取っていた。出勤する事の無い元清の稽古を受け、興行へ赴くという事の繰り返しで数年を過

ごした。それは元則の舞台の技量を磨く修業としては決して悪い事ではなかったのだが、催しの場

では必ず太夫である元清の不在の非を問われる。それに確かな返答をする事もできず、鬱々として

その言に甘んじざるを得ない。その鬱屈した思いがついに爆発した。伊勢への興行から戻るなり元

清の部屋へ怒鳴り込んだ。


「兄上、兄上は何をお考えだ」

 元清は経机に向かって何か書きものをしている。

「この家では太夫と呼べ」

 元清の冷めた声が振り返りもせずに呟かれた。元則は出鼻を挫かれ、元清の傍らに座り込んだ。

「お許し下さい。しかし、太夫が出勤されないことを皆不審に思っています。私はいったいどう返

答すればよいのですか」


「そうか…」

 元清は元則を返りみつつまた呟くように言った。元清の秀麗な顔立ちにうっすらと無精髭がみえ

ている。これまでの兄にはないことだと元則は思った。しかしその冷え冷えとした眼差しは変わら

ない。元則はその兄の顔を見るとさっきまでの昂ぶった自分の気持ちが青菜のごとく萎えてくるの

が自覚できた。どうにもこの兄には抗うことができない。


「では、これからはわしも出勤しよう」

 元清は元則が拍子抜けするくらいあっさりとした調子で言った。

「まぁ、それはよいとして、茶でもはめ」

 元清が茶を勧めると、元則が見たこともない女が茶を運んできた。元清はその不審な顔が面白い

のか、クスクスと笑っている。


「元則、紹介しよう。わが妻だ」

「えっ、」

 元則は思わず女の顔に見入ってしまった。うなじの細い、穏やかな美しい女ではあった。元清と

はまずまず釣り合いの女性とは見て取れた。


「お待ち下さい。太夫、それはいけない。私が初めて知るということは皆にも披露していないとい

うことではありませんか。なぜそのような大事なことを、それに…」


 …いったいどこの女ですか、と云いかけて元則は口をつぐんだ。その言葉を見透かすように元清

は云った。


「待て、よいのだ。これは名を葵という。先頃まで御所様のお側近くに仕えていたのだ。それゆえ

披露はせぬ」


 元則は返す言葉を失った。いかに猿楽の徒とはいえ、一座の太夫がなぜ側女であったような者を

正妻に迎えなければならないのか、元則は訝った。


「わしはな、葵を好いているのだ。それ以外の理由など何もない」元清はぬけぬけと云った。

「それはおめでとうございます」

 元則はもはやそう云うしかなかった。

「元則様、よろしくお願い申し上げます」

 女の声を初めて聞いた。そのうなじのようにか細い声であった。

こちらこそ、よろしくお願い申し上げます」

 元則は深々と頭を下げた。


「ときに元則、次の舞台はいつだ」

七日後の興福寺です、と元則が答えると、

「翁はわしが舞おう」と元清はゆったりとした調子で云った。元則はその急な言葉に驚きながらも

踊り上がる
ような思いになり、

「それではすぐに稽古にかからねば…」と勢い込んで云った。しかしそれに反して元清はしばし沈

黙し、 


「稽古は…、よかろう」とのみ云った。

 元則は訝った。あれほど稽古に厳格であった元清の言葉とは思えない。

「稽古はお前達で仕上げてくれ」

 元清は瞑目し、また呟くように云った。元則はその真意を測りかね黙して平伏するほかはなかっ

た。


 久々の元清の出勤に一座の者どもは賑やいだ。しかし元清の翁はやはり充分なものではなかった。

父譲りの謡いはさすがに朗々と響いたが、力を感じることはできなかった。そしてついに調子を戻

すことなく幕となった。楽屋に戻った元清はさすがに疲れを感じているのか目をつぶり、元則の舞

う脇能に聞き入っている。


「随分と腕を上げたな…」

「はい、元則様は太夫の名代を必死で勤めてまいりましたから…」

 傍らに控えていた忠佐が元清の独り言に答えて云った。

「忠佐にも苦労をかけているな」

「いやいや、太夫は先代に似ていらっしゃる。先代もあの自然居士を書き上げるときは同じような

様子でありましたな。いずれまたあのような傑作をみせて頂けると私は信じております」


「あまり期待をかけるものではないぞ」ふと目をあけ、にやりとして忠佐を見た。元清は自分の心

底を理解するものが側にいる事に何か大きな安堵を感じた。これも父の残してくれたものの一つだ、

と感謝した。


 やがて脇能が終幕し、元則が楽屋に戻った。

「元則、随分と伸びたな」

 元清が声をかけると、ありがとうございます、と憮然とした面持ちで答えた。

「元則、まぁ怒るな。これからはまた共に精進しようぞ」

 その声を聞くと元則の目には思わず涙が溢れ出た。

「兄上、その言葉をずっと待っておりました」

「兄上ではないぞ」

 はい、申し訳ございませぬ、答える元則は顔を上げることができない。元則にとってそれほど嬉

しい一言で

あった。


「元則、わしの翁を何と見た」

 元清の言葉には一事もゆるがせにしない響きがあった。


「とても太夫の舞台とは思えません」

 こういうときの元清は手心を加えることを許さない。元則は涙をかきなぐりながら顔を上げ、元

清をまっすぐに見て云った。


「そうだ。あたりまえかもしれないが、わしの初心はだいぶ落ちてしまったようだ」

「初心ですか…」

「そうだ、初心だ。これは父の教えだ。いずれ元則にも相伝しようぞ」

「稽古は強かれ…、わしはまたそこから始めなければなるまい…」


 元則は兄の耳慣れぬ言葉に戸惑いながらも、また輝くような舞台が戻ることを信じた。

 

 それから間もなく元清は義満の召し出だされた。

「元清、聞いたぞ。久々に舞台に立ったようだな。そちらしからぬ舞台だった、とも聞いた。長く

離れ過ぎたようだな」


「はい、面目もございません」

「わしも久しく観ていない。どうだ」

「いつもお気に掛けていただき、ありがたき幸せに存じますが、今しばらく時を頂きたく、お願い

申し上げます。必ずや御所様にご満足いただけますものを御目にかけまする」


「そうか、そちがそういうのならば仕方あるまい。しかしときには観世の能も観たいものだ。明々

後日、元則を寄越すがよい」


「ありがとうございます」

「その日は近江の犬王を呼んでおる。楽しみなことだ。そちもわしに同座するがよかろう」

 元清は平伏しながら犬王の舞姿を想い描いた。清次は義満に召し出だしを受けて後、猿楽の仲間

として犬王を義満に推挙したのである。清次にしてみれば観世座だけの隆盛ではなく猿楽そのもの

の向後を考えてのことであるが、無論犬王の舞台が義満の眼がねに適うものであると自信があった

からに他ならない。そして犬王はその期待に充分応えていた。元清が舞台から遠ざかるに及んで義

満は犬王の舞台を好んで観るようになっていた。幽玄を主眼においた犬王の優美な舞台は事のほか

義満の嗜好に合っていたようである。


 その当日、元清は出を待つ元則に云った。

「元則、気負うな。今日の立会いは勝とうなどと思うな。犬王殿は父でさえ一目も二目も置いたほ

どの人だ。

無心であれば勝てぬまでも負けずに済むかもしれぬ」


 元則は小さく頷いた。元則とてそれは充分承知のことであった。

「犬王殿は観世を落としめようとは心にも思ってはいまい。しかしだからこそあの人の能は怖いの

だ」


 当時、それぞれの座が同じ興行の舞台に立てば、それは相手の座を蹴落とすほどの立会いとなっ

た。それが座を保ち、生き抜くための術でもあったのである。


 元清は義満に従って舞台を観た。元則の能は「嵯峨の大念仏の女物狂い」である。父清次の得意

の能でもあった。元清はその演じ方を強いと感じた。やはり戒めても若さがそうさせてしまうのだ

ろう。元清は内心唇を噛んだ。


「若いのぉ…」義満が呟いた。さすがに義満の目は確かであった。

「しかし、充分な力量だ。これからが楽しみだな」元清を返り見ていった。元清は黙して平伏した。

 続く犬王の能は舞をその中心に置いた近江猿楽得意のものである。時を感じさせずに時が過ぎて

いく、冷え冷えとした流麗な舞姿だけが舞台の正中に浮かび上がっている。元清は一事も漏らすま

いと舞台を見つめた。元清が思い描く新しい能の形は犬王の舞台の先にある。清次より二歳年下で

ある犬王は円熟の極みといってよかった。元清が舞っていても立会いにはならなかったかもしれな

い。


「元清、そちの能を楽しみに待っておるぞ」

 それが義満の言葉であった。立会いの結果は明らかであったが、観世の能を決して見捨てること

はない、という意がそこには込められていた。



「太夫、申し訳ございません。私の力が至らず…」

 屋敷に戻るなり元則は力なく頭を下げた。

「元則、わしが舞っても結果は同じであった。気にすることではない」


「今の犬王殿にはとても太刀打ちはできるものではない」

「それよりも元則、お前は犬王殿の能をどう思うか」

「…犬王殿の能は、もしかしたらあの方一代限りではございませんか」

 元則は思うことを正直に云った。あの研ぎ澄まされた舞台はその曲の中身に拠るものではなく、

その犬王自身の昇華された舞の流麗さによって成り立っているとみていた。それは犬王個人の力で

しかなく、あの舞を感得し、継承できる者が今の日吉座にはひとりもいない。


「よくみた」

「だからこそ父も何度となく観世の能を犬王殿に勧めたのだ。しかし犬王殿はそれをよしとはしな

かった。おそらくは観世の領分を侵すことを心配してのことではあろう」


「だがそれはわしの望むところではない。今一度犬王殿に勧めてみるつもりだ。猿楽の座をひとつ

でも失せさせるのは父も心よしとはしないだろう。日吉座であれば尚更のことだ」


「父は犬王殿の能を観世の能に取り込もうとして道半ばで逝かれた。わしはその後を継がねばなら

ない」


 翌日、元清はひとつの新しい本を携え、御所裏の寺院に宿泊する犬王を訪ねた。犬王は清次の死

後、その祥月命日には僧二人をしてその供養としていた。犬王という人はそれほど信義に篤い心を

持っていた。犬王は元清の顔を見ると嬉々として出迎えた。もはや老境といってもよかったが、そ

の双眸は若やぎ、輝いている。

「太夫、舞台に戻られたと聞いた。心配したがこれでやっと安堵できる」

「はい、またこれから稽古のし直しです。それに私のことはどうか元清とお呼びください」

「わしもその方が昔に返ったようで嬉しい事だ。そうさせていただこう」

 ひととき、二人は清次の思い出に花を咲かせた。元清の知らぬ父の話も聞かれ、二人の交流にひ

としお厚い思いを感じずにはいられなかった。

「太夫、実は今日は新しい曲を太夫に見ていただきたく持参いたしました」

「そうか、できたか。おそらくは舞台に上がらぬはそんなことであろうと思っていた」

「観阿弥殿に成り代わり拝見しよう」

 犬王は元清の差し出した冊子を手に取り、一度瞑目してのち、表紙を繰った。「井筒」と題され

たその曲は、それまでの観世の能とはあきらかに趣きを異にしていた。犬王は一字一句を刻むよう

に読んだ。そして大きく息をついた。

「元清殿、よう創られたな。これほどの幽玄の能はこれまでにあるまい」

「舞は《序の舞》を舞うつもりです」

「うむ、だが気をつけねばなるまい。幽玄の能は舞人を選ぶ…が、これならばさほどの心配もいら

ぬかもしれぬな。それほどよく書けている

「これはぜひ太夫に舞っていただきたいと思っています」

 それが元清にとって今日犬王を訪れた最も大事な眼目でもあった。

「元清殿、それはわしの事を心配してのことであろう。だがそれはいらぬ事だ。わしは清次殿の情

誼により、世に出ることができたようなものだ。その情誼は、今度はわしが返す番だ。二代続けて

の恩義にはあずかれぬよ」

 犬王はそう云うとからからと愉快そうに笑った。そして、元清殿、今宵はわが家にてこの能の直

しをいたそう。と元清の肩に手をかけた。元清はそれ以上言葉を継げず、ただ頭を下げるだけだっ

た。

 犬王と共に直しを入れた「井筒」はさらに完成されたものとなった。犬王の元を辞去する元清を

犬王はしばらく見送った。元清の成長ぶりを実感し、犬王は満足したように何度も頷いた。おそら

くは犬王は自分自身の後継者を元清であると任じていたのかもしれない。


 これは余談だが、応永元年(一三九四年)義満は、将軍職を嗣子義持に譲位する。しかしそれは

引退を意味するものではない。義満は当時すでに太政大臣を兼ねており、武家の棟梁でありながら

宮中の実権をもほぼその手中に収めつつあったが、義満はそれ以上の何者かにならんとしていた。

翌年には太政大臣をも辞し、出家法体となり道義と号する。これには天皇を中心とする既存の枠組

みから離れ、自らを自由な立場に置こうとする意図があったようであるが、義満はそれまでの公家

と武家という二元的な国内の統治を、我が手をもってひとつに練り上げ、その上に君臨しようとし

た節がある。すなわち天皇制を簒奪しようと画策したのである。すでに幕閣にも宮中にも義満に対

抗しようとするほどの意気地を持つ者は誰もいなかったが、義満はその計画を決して力ずくではな

く巧妙に進行させいった。

 応永八年には明の二代建文帝に朝貢し、通交を求めている。その建文帝からの返書に有名な「こ

とに汝日本国王源道義、心を王室に存し愛君の誠を懐き、波涛を踰越して遣使来朝す」の一文が入

っている。すでに隣国の明からは日本国王としての承認を取りつけたのである。おりしも当今後小

松天皇の実母の死にあたり、義満は自分の正室康子をして准母の宣下を受けることに成功する。す

なわち義満自身が実質上の准父となったわけである。幽玄能の風雅を愛でる一方で政治家としての

義満は未曾有の野望を成し遂げようとしていたのである。

 義満は将軍職を辞した年、春日社に参詣する。その宿坊となった一乗院で元清は舞台に立った。

父清次の死から十年を経ていた。その日元清が舞った「井筒」を元則は生涯忘れず、語り継いだ


井筒」には物語らしい筋立てはほとんどない。在りし日の在原業平との愛を懐かしむ女の面影と、

業平の残した冠と直衣を身に纏う舞姿がたゆたうような時間の中で緩やかに経過していく。観る者

を忘我の世界に導き入れるような豊かな詩情が謳い上げられている。元清の舞いは充実し、余すと

ころなくその詩情を体現し見所を魅了した。


 …月やあらぬ、春や昔とながめしも、いつのころぞや…


 と昔を想い、女は井筒を覗き込むとそこに映し出された冠、直衣の我が姿を業平の面影になぞら

えて懐かしむ。


 …見ればなつかしや、われながらなつかしや、亡夫魄霊の姿は、萎める花の、色無うて匂い、残

 りて在原の、 寺の鐘もほのぼのと、明くれば古寺の、松風や芭蕉葉の、夢は破れ覚めにけり…


 例えば「幽玄」という言葉が「風姿花伝」には頻繁に登場する。


 …人においては、女御・更衣、または、遊女・好色・美男、草木には花の類ひ、かやうの数々は、

 その形、 幽玄のものなり。また、あるいは武士・荒夷、あるいは鬼・神、草木にも松・杉、か

 やうの数々の類ひは、 強きものと申すべきか。かやうの万物の品々を、よくし似せたらんは、

 幽玄の物まねは幽玄になり、強きは おのづから強かるべし。…


 清次にとっての「幽玄」は物まねの中の一つでしかなかったのであるが、元清は清次の死後、そ

れを猿楽そのものを包み込む一つの思想として育て上げようとしていったのである。そしてその思

想を具現化させたものが「井筒」であった。


 元清はその傑作とともに見事に復活を果たしたのである。その新しい幽玄の能は義満を充分に楽

しませた。そして従来の曲を凌駕する能を作りあげ、舞台に戻ってきた元清に心から満足した様子

であった。ほどなく元清の率いる観世座は義満の斡旋により榎並座にかわりそのゆかりの深い醍醐

寺清滝宮の楽頭職の地位につくことになる。経済的にはさほどの恩恵はないのだが、いうなれば公

職につくということであり、観世座にとっては計り知れぬ大きな意味があった。


 その日から元清は精力的に舞台を勤めた。

 「高砂」「弓八幡」「蟻通」「八島」「忠度」「清経」「采女」「夕顔」「桜川」「融」等、現

も上演される名曲が次々に世に出された。観世座に活気と賑わいが再び戻ってきた。元清の最も

充実した時期でもある。

 元清の上演の記録は少ないが、応永六年(一三九九年)四月十九日、醍醐三法院での台覧能(と

いっても主賓は無論義満である)に続き、五月には三日間にわたり、京都一条竹鼻で元清にとって

は最初の勧進猿楽の興行をしている。三法院の台覧能では犬王と共に召し出だしを受け、元清は観

阿弥清次を継ぐ者として
、「世阿弥」の名を賜わった。これは父に継ぐ栄誉ではあったのだが、同

時に犬王には「道阿弥」の名を下している。道の字は義満の法名である道義から由来したものであ

ることは誰の目にも明らかであった。これは当時の義満の気分を表すものではある。義満は元清を

その幼少から側近くに置き愛してきたのだが、舞台の事については口には出さねども犬王の方にそ

の嗜好が移っていたのであろう。またそれはそれほど犬王の能が充実したものであった事を物語っ

ている。これについて犬王には元清への気遣いがあったが元清自身は何のこだわりも無く、犬王の

肩を抱き素直にその喜びを露わにした。元清は心底から犬王を亡父に代わる自分の道標であると思

っていたのである。


                    その4


 その後の初の勧進猿楽も義満をはじめ青蓮院、聖護院らが参会し、大盛況であった。

もはや京周辺で世阿弥の名を知らぬ者は無いほどの評判となり、まさに猿楽者世阿弥元清の盛りで

あったろう。その勧進猿楽の終演後、日を経ずして元清は元則をひとり部屋に招いた。


「太夫、あらたまっていかがされました」

「元則、わしは今年で三十七になる。お前は三十二だ」

「はい、本当によくここまでこれたと思います」

「わしとお前と力を合わせてきたからこそだ」

「しかし、わしはいまだ子をなさぬ。これは観世座にとってはためにならぬ。よって花若をもって

わしの嗣子とする」


 花若は元則の長子である。このときすでに三歳となっていた。元則ははっとして元清を見たがそ

こには有無を云わさぬ目があった。


「かしこまりました。お引き立てのほど、お願い申し上げます」

 元則にとってはめでたい話なのだが、今ひとつすっきりとしない思いが残った。

 花若を嗣子と決めたその日から元清はまたしばしば自分の部屋に引き篭もるようになった。しか

し以前のように稽古を怠ることは毛ほどもなかった。稽古の厳しさは以前より増
したほどであった。

元則が問うても、いずれ、というばかりではきと
云わない元清はこの頃から、父清次から口伝と

して伝えられた教えを書き留め始めるのである。
世にいう「風姿花伝」である。元清がこの書の執

筆を考えたのは観世座とその生業である
猿楽の前途のためであり、そこには自らの栄誉はおろか、

一片の私心も介在しないという。


 …凡、花傳の中、年来稽古より始めて、この条々を注所、全く自力より出づる才学ならず。幼少

 より以来、亡父の力を得て人となりしより、二拾余年が間、目に触れ耳に
聞き置きしまま、その

 風を受けて、道のため、家のため、是を作するところ、わたく
しあらむものか…


 また「風姿花伝・第五奥義」にいう。


 …そもそも芸能とは、諸人の心を和らげて、上下の感をなさむ事、寿福増長の基、遐令延年の法

 なるべし…


 ここには清次、元清の芸能観が充ちている。猿楽はあらゆる階層の人々に感動を与え、寿福をい

やまし長寿ならしむるものであるという一文である。そして一時の私利私欲のた
めではなく、天下

の御祈祷ために私心なく芸を重んじ稽古に励まねばならない、と説くの
である。猿楽は清次、犬王

らによりようやく世の脚光を受けるものとなったのだが、もう
その経済的安定化の中で芸道の追求

を怠り、観客に媚びるような輩が出てきている。しか
し元清からすれば猿楽はいまだ隆盛途上であ

り、その風潮を猿楽の廃れの兆しであると意
識し、その戒めを後世に伝えようとしたのであろう。


 翌応永七年、観世の家に思わぬ事が起きた。決して悪い事態ではなく、めでたい話の筈なのだが

その行く末を思うと皆の口は一様に重くなった。


 元清に男子が誕生したのである。後の十郎元雅である。あれほど望んでも授からなかったものが

養嗣子を迎えた途端にできるとは皮肉なものだ、と人々は囁いたが当の元清は気
にするでもなく、

花若に接する態度も今までとは変わりない。ただただ赤子が可愛いとい
う風であった。元則も気に

はなりながら口にすることは憚れた。しかし元則自身の気持ち
ははっきりしていた。花若は廃嫡す

べきだ、ということをである。長年元清を支えてきた
元則にはそれが座をつつがなく維持するため

には最善の道であると思っていた。


 元則はその燻りを押さえきれずついに意を決した。しかし元清の部屋を訪れた元則はその膝の上

の赤子を見ると一瞬たじろぐような思いを覚えた。


「どうした元則、顔色がよくないぞ」

「子というのは可愛いものだ。花若も可愛いと思ったが、自分の子とはなお可愛いなぁ。こんな思

いを随分と味わっていたとは、元則、許しがたいな」


元清は我が子をあやしながら笑った。

「兄上、今日は兄上と呼ばせて下さい」

元清は訝しげに元則を見た。

「花若の事でございますが、私の元へお戻しください」元則は頭を下げつつ云った

「元則、最近様子が怪しいと思ってはいたが、そんな事を考えていたのか」

「葵、花若をここに呼んでくれ」

 元清は奥へ声をかけた。

 元清はほどなく現われた花若を傍らに座らせた。花若は実父の顔を見て笑いかけたが、その厳し

い表情を見て俯いてしまった。


「葵もそれへ…」元清はそう声をかけた。

「元則、たといこの子がわしの初子であるにしても、花若が我が家の長子であることに変わりはな

い。よいな。葵も肝に銘じてくれ」


「だが元則、太夫は別の事だ。太夫は真に力のある者が継がねばなるまい。今、たまたまわしはそ

の地位にあるが、わしよりも優れた者あらばそれはその者が太夫になるべきなの
だ。それが座が隆

盛するための要と心得よ。花若に力あらば、花若が太夫たるべし。この
事、元則もしかと胸に刻ん

でくれ」


 元清の言葉には抗う事を許さぬ強い響きがあった。元則は小さなこだわりをもって元清に臨んだ

自らを恥じた。兄である元清は自分と違い、太夫として常に一座の全ての事に目
を配り事にあたっ

ていたのである。その事に少しの気遣いをするでもなく、ただ不満をぶ
つけていただけの自分を恥

じた。傍らに控えた花若は実父、養父のはざ間にあって、まだ
その全ての意味を理解する事はでき

なかったが、元清の言葉を聞きながら身体が熱く火照
るような思いがした。そして我知らず口唇を

噛みしめた。


 やがて花若も六歳を迎え、稽古を始める年頃となった。元清はその稽古を自らつけた。稽古は六

歳といえども容赦なかった。花若は幼いながらその峻烈な稽古によく耐えた。決
して打摘するよう

な事はなかったが、ひとつのことを完全に身に付くまで何度でも繰り返
させた。どこが悪いとも言

わない。元清の思い描くところに行き着くまで稽古は続く。あ
の日聞かされた元清の『花若に力あ

らば、花若が太夫たるべし』という言葉が花若にそれ
を耐えさせたのかもしれない。また、稽古場

の隅でまだ稽古には参加せず、訳も分からず
その風景を見上げている弟のせいであったかもしれな

い。

 稽古を始めて半年ほどして花若も子方として舞台に立つ日が来た。そしてその事がまた観世座の

未来を大きく揺るがしていくことになるのである。


 舞台は元清の三度目の勧進猿楽であった。すでに定評となった観世座の猿楽は大盛会となった。

花若は元清が父清次作の「嵯峨の大念仏の女物狂い」を改作した「百万」の子方
として舞台に立っ

。「百万」は子方の出来が能の成否に大きく影響する。花若は幕内で目をつぶり小さく緊張に震

えている。元清は昔日の自分を重ね合わせる思いがして、鬘を
巻いた花若の頭を撫で、声を掛けた。

「花若、大きく息を吸え、そしてゆっくりと吐け」

花若は小さく頷き、言われるが息を吸い、そして吐いた。蒼ざめていた頬にほのかに赤みがさし、

元清を見上げた。


「大丈夫です」

「うむ、力が入っていては良い能とはならないぞ」

「はい」と頷く花若は元清に笑ってみせた。

 元清の薫陶を受け、その峻烈な稽古にもよく耐えた花若は初舞台としては充分過ぎるほどの出来

であった。後見から花若を窺っていた元則も大きく安堵した。


 勧進猿楽は盛況のうちに幕を降ろしたが、その後、元清は思わぬ召し出だしを受けた。その主は

青蓮院義円であった。義円は義満の子であり、この少し前に義満が偏愛した義嗣
(義円の同年齢の

弟)を三千院から還俗させる替わりとして青蓮院に入室させられていた。
義円もなかなかの猿楽好

きであり、よく義満に相伴して見所にその姿を見かけてはいたが、
それまであまり元清とは繋がる

所のなかった人物である。


 元清は平伏して義円の座するのを待った。

「世阿よ。百万はなかなかの能だな。面白かったぞ」

衣擦れの音とともに神経質そうな癇走った声が降ってきた。

「ありがたきお言葉にございます」元清は平伏したまま云った

「ときに世阿弥。あの子方、花若はそちの子か」

「さようにございます。私の長子でございます」

「そうか、養子と聞いたが…」

「確かに我が弟の子を嗣子と致しました」

 元清はこの人物がそんなことまで聞き知っている事に内心驚く思いがした。

「そうであったか」

「今日その方を呼び出だしたのは他でもない。花若をわしの側に置きたいと思うがどうであろうか」

 元清は思いがけない義円の言葉にしばし絶句した。

「どうなのだ」義円は気忙しそうに言葉を重ねた。

 元清自身は確かに幼少のおり義満の側近くに上がり、その寵愛を受けた事もある。またその事が

今日の座の隆盛に大きく影響を及ぼしてきたのは間違いのない事実である。また
それは隠しようも

ない事でもあった。だが今またそれが繰り返されようとは元清は夢想だ
にしていなかった。少し考

えれば有り得べき事ではあったが、順調な座の隆盛がそれを忘
れさせていたのであった。法院とは

いえ義満の子である。これに抗う事など出来ようもな
かった。

「鹿苑院様のお許しさえあれば…」それが元清の精一杯の抵抗であった。

「そうか、実はすでにお許しは頂戴しておる」

 義円は嬉々とした声を上げた。

「それならば私から否やはございません。お引き立てのほど、よろしくお願い申し上げます」

 元清は何と手回しのよい方か、とは思ったがもはや抗う術はなかった。あの頃は確かにそれが必

要な時代でもあり、元清自身も嫌悪感もなく、それよりも憧憬もあり義満に従っ
たが猿楽に生きる

者としてどれほどの利があったか…、ただ稽古の時を削がれてきたよう
な思いがある。無論、宮中

深く交わる事によりその華やぎを肌身に感じる事は出来た。し
かし今日では観世座の間近にその全

てはあり、いままた貴人の寵愛を必要とはしない、と
元清は思っていた。義円の言葉を受けたとき

には何とか義満より断りを入れる術を思案し
たのであるが、もはやそれもかなわぬ事と断念するよ

りなかった。


 屋敷に戻った元清は花若とともに元則を呼んだ。

「元則、今日は思わぬお召しであった」

「青蓮院様が花若を望んでおられる」

 元則は思わず花若の顔を見た。花若は意味も分からずきょとんとしている。

「それは…」

 元則は言葉を失した。元則にも今更という気がよぎった。その気持ちの内には、兄元清の相手は

時の将軍であり、その子とはいえ法院とはという気分もあった。


「青蓮院様直のお声掛かりでは否やもない、しかも鹿苑院様のお許しも頂いているそうだ」

「元則、済まぬが花若によく申し聞かせてくれ。わしはどうもこの手の話が不得手なのだ」

「元則、笑うな、そういうものだ」

 元則がクスリとしたのを見逃さず元清は云った。

「太夫、いずれにしても座のためにならぬ、ということはありますまい。さほど思い悩まずとも、

わたしからよく申し聞かせましょう」


 花若にとっては元則から要領を聞きながらも、あたりまえのことではあるがその実際は薄霞のよ

うなものであった。青蓮院という名を聞くのも初めてであり、その顔さえ定かに
は思い起こせない。

まぁ、何とかなるだろう、という気軽そうな実父の顔だけが花若の頼
りであった。


  花若はさほどの日を置かず青蓮院に出仕した。最初に屋敷に戻ったおりのほの暗い顔が元則は気

になったが、じきにその鬱とした色も消え、いつしかその生活が身に付いたよう
に見えた。ただ日

を重ねるにつれ多少険の入ったような人変わりを覚えたが、稽古に対す
る熱は変わらず、元則もい

つしか気にする事を止めた。



 その年(応永十五年)の三月八日義満は北山第(従前の室町第は出家した後、将軍職とともに義

持に譲り渡しており、その後新たに自分の政務所として建設したものである)に
当今後小松天皇の

行幸を仰いだ。この行幸は前年義満が当今の准父(上皇にも等しいもの)
となったことを、天皇本

人を始めとして延臣列座のもとで認識させる意味があったと思わ
れる。義満はその日、繧繝縁二帖

の畳に座して後小松天皇を迎えている。繧繝縁の畳は天
皇、上皇以外その使用が許される物ではな

い。それをさせたのは義満のおおいなる自信で
あったろう。

 行幸は二十八日まで至り、その二十日間義満により宴遊が催された。その宴遊の席に元清、犬王

を筆頭に猿楽が天覧の栄誉に浴したのである。義満の力とはいえ“乞食の所業”
とまでいわれた猿

楽の天覧である。そこには無論、将軍義持の姿もあり、青蓮院義円の姿
もある。元清は父清次の面

影を感慨深く思い起こした。元清はその夜屋敷で一座の者とさ
さやかな祝宴を張り、ともにその栄

を喜んだ。あの今熊野の興行からはや三十年が過ぎて
いた。元清はあの時の父と同じ思いを胸に描

いている。自らを戒め、この隆盛を後世にま
で伝えねばならないと心を新たにした。

 
義満はその行幸の後、四月二十五日に義嗣の元服の式を内裏で行うという、武家の身としては前

代未聞の事をやってのけた。加冠は内大臣二条満基、理髪は蔵人頭烏丸豊光であ
る。これは親王元

服の準拠なるべし、と噂された。即日、叙位除目が行われ、義嗣は従三
位参議に補せられる。これ

もまた異例の早さである。義満は誰に明かすこともなかったが、
義嗣を後小松天皇の後嗣として目

論んでいた節がある。しかしついに天は義満に味方しな
かった。義嗣元服の三日後、義満は突然の

病魔に倒れる。咳気とも流布病とも云われる。
元清にもほどなくその病状が伝えられるが元清の立

場ではその病床を見舞うことは許され
るわけもなく、ひとり清滝宮において謡を奉納し、義満の治

癒を祈願した。しかしその願
いも空しく翌月四日には危篤となり、六日に至って身罷った。平生頑

健で病気らしい病気
もなかったのだが、その終焉はあまりにあっけないものであった。


 元則はその死を知らせるため清滝宮を訪れた。薄暗い本殿の間で正座する端然とした元清の姿は

微動だにせず、呼吸のたびに背がわずかに膨らむばかりである。その呼吸は謡と
なり静やかに神殿

を包み込んでいく。その清澄な響きに元則は思わず涙した。あの天覧猿
楽の栄誉からふた月あまり

でこのような日が来ようとは誰も思いもよらぬ事であった。


 元清の謡が止んだ。

「元則か…」呟くような声が聞こえた。

「はい、鹿苑院様が身罷られました…」


 元清の肩が小さく沈んだように見えたが、元清は黙し、しばらくそのままの姿であった。やがて

くぐもったような謡が元則の耳にも届いた。



 …影傾きて、明け方の雲となり雨となる、この光陰に誘われて、月の都に、入り給う装い、あら

 名残りおしの面影や、あら名残りおしの面影…



 義満がその風雅を愛した「融」の一節であった。それを謡いきると元清の身体は横倒しに倒れこ

んだ。元則があわてて抱きかかえると元清はそのやつれた頬をわずかに歪め、


「人の一生とはかほど空しいものだ…」

 そう云うと静かに眼を閉じ、そのまま眠りについてしまった。おそらくこの三日は一睡もしてい

なかったであろう、元清は丸一日床に臥した。


 義満とともにひとつの時代が終わりを告げ、また新たな時代が幕を開ける。しかしその新しい幕

開きは元清にとって必ずしも好意的なものとはならなかった。


 義満はその後継に関して何の遺言をする間もなく没してしまった。幕閣では義嗣が次期将軍と考

える者が多かったようであるが、斯波義将、細川満元ら有力守護大名をして宿老
会議が開かれ、現

将軍義持に忠誠を誓い、万事義持を盛り立てていくことが決められた。


 足利義持という人は父義満から疎外されているという感情を多分に持ち続けていた人である。義

嗣への偏愛に至っては、義満の本音を聞かされていない義持には自分の廃嫡と思
えても止むを得な

いところがある。それは義満への反発となり、憎悪する感情が強まった
のも事実であろう。義持個

人の感情に帰するばかりでもなく、幕閣の衆議も義満時代の政
策を破棄しようとする気運に傾斜し

ていったようである。


 義満の死とともに元清の命運も急速に冷えびえとしたものになっていく。義持は決して芸術に疎

い人物ではなく、むしろその慧眼は義満よりも豊かであったかもしれない。その
義満の目は猿楽を

離れ、田楽に向けられるようになっていく。義満在世中こそ遠慮があっ
たが、晴れてその権威を手

中にした義持はだれ憚ることなく田楽を愛でた。特にその栄に
浴したのは増阿弥である。増阿弥は

田楽わざしかできないような者にはあらず、むしろ元
清ら猿楽者にも劣らぬ演者であった。元清も

その増阿弥については「能も音曲も、閑花風
に入るべきか…」と評している。閑花風とは積雪の白

光清浄な情景に例えられ、しかもそ
の中にそこはかとない柔和な姿がみえ、静かで清らかな興感を

観る者に与える芸風という。
元清は増阿弥のわずかな扇づかいに「感涙も流るるばかり…」と云い、

淡々としたその技
を「冷えに冷えたり」と感嘆している。そうした芸風が義持の趣意に適ったため

贔屓を受
けたのであろう。この事を元清がいかに意識していたかはその言葉にも明らかである。


 …玉を磨き、花を摘める幽曲ならずば、上方様の御意にかなふ事あるべからず…


 義持は特に元清を嫌ったわけではなく、猿楽に興味を示めさなかったに過ぎない。しかし観世座

に限らず、猿楽にとっては忍従の日々が続く事になった。


 そんな時期に観世座では花若とその次弟、元清の実子の元服が同時に執り行われた。花若は三郎

元重、弟は十郎元雅と名乗った。三郎は元清の名乗りでもあり、元重は名実とも
に観世座の後継者

と位置付けられたのである。元重の技量は元清の嗣子として申し分のな
いものであった。また元清

には元雅に続き二子が誕生している。ひとりは後の七郎元能、
ひとりは金春座の太夫、氏信(後の

禅竹)に嫁する一女である。


 元重は元服の後も青蓮院へ足繁く通った。義円もさすがに元服した元重を側に侍らすことはなか

ったが、しばしば座敷能を所望したのである。能を舞うときには必ず元清の稽古
を受けてから行く

のであったが、元清はある時ふと思う事があり元重に問うた。


「元重、この選曲は誰がしているのだ」

「はい、青蓮院様のお好みです」

「そうか…」

 義円の選曲には明らかな偏りがあった。元清が思うところの幽玄の能はひとつも入っておらず、

清次の時代に作られた能が多く選曲されている。物語のはっきりとした物真似風
の能ばかりである。

「青蓮院様は幽玄の掛かった能は好まれぬのか」

「はい、退屈だとはおっしゃいます」

「元重、お前はどうだ」

 そう問われた元重は怯んだように下を向いてしまった。

「よい、叱りはせぬ。正直に申してみよ」


「はい、私もそう思うところがあります」

 元重は下を向いたままそう応えた。元清は元重を義円のもとにやったことに軽い後悔を覚えたが、

もはや手遅れであった。その心の変化に気付かなかった自分に責任はある。


「元重、それはどうであろう。わしは猿楽をするものは得手不得手なく演じられる事が必要である

と思うが、どうだ」


「はい、そう思います」

「そう思うならば以後は自らを戒めなければなるまいぞ」

「はい」

 元清はうなだれる元重を前に、その心をいかに矯めすかを思案した。幼少の頃の憶えというもの

はなまなか直り難いものである。しかし一座を担う者としては曲に好悪があって
はならず、まして

幽玄の能は元清が精魂込め切り拓いた、いわば観世の能そのものでもあ
る。それは元重も肝に銘じ

なければならない事であった。


                                  その5


  ――応永二十年(一四一三年)猿楽のもうひとりの旗頭であった道阿弥犬王は死の床にあった。

犬王は見舞いに訪れた元清の手を取り、
「元清殿、申すまでもなかろうが、今はひたすら待つので

す。観阿殿もよく云っておられ
た。民人は猿楽を捨てたわけではない。いずれまた盛り返す日が必

ず来る。元清殿にはそ
の力がある」もはや絶え絶えとした声でそう云った。

「わかっております」元清は骨ばかりとなった犬王の手を握り返した。

 元清は犬王の延命を祈願し、十番の能を奉納したがそのかいなく犬王は没した。しかとした記録

はないが八十は越えていたと思われる。天寿といえるであろう。若くして父清次
を亡くした元清に

とっては父に替わる師でもあった。その能作においても常に犬王の舞姿
を念頭に置き、筆を取って

いたのである。元清にはもはやその道の先達と呼べる猿楽者は
ひとりもなかった。いや、すでに自

分自身がその立場となったのである。


 そして犬王を失った日吉座はいつの間にか四散してしまう。義満より道阿弥の名を賜わったほど

の名手を生んだ日吉座は跡形もなく消え失せた。元清はそれをなす術もなく見届
けるより他なかっ

た。


 元清は毎年のように催される勧進田楽を横目で見つつ、一座の若者らによく稽古をつけ、夜は執

筆に没頭した。
元重の技量はますます上がったが、いまだにあの幼少時の呪縛の内にあるように見

えた。
義円の要求する能が相も変わらないようではそれも止むを得ない事ではあった。興行の数

著しく減ってきている状況では義円の招きもそれなりにありがたい話であり、拒むよう
な事ではな

かった。それよりも元雅の出来はどうであろうか。もとより素直な性格ではあ
っが、際限なく元清

の教えを吸収し身に付けていく。日増しに技量を上げ成長する我が子
を元清は頼もしくまた嬉しく

もあり、目をほそめた。


 またこの不遇時代には元清の主要な著述が生まれている。興行の数が減った分、時間の余裕もあ

ったのであろうが、その内容は今の不遇を打ち破り、いつの日かまた猿楽が表舞
台に立つ日のため

に書かれたようなものであり、元清は決して絶望しておらず、太夫を継
承した頃の、ひたむきに芸

事に打ち込む姿勢を失ってはいないことがよく解かる。


 そして義満より世阿弥の名を賜わった頃より書き綴ってきた「風姿花伝」がついに成った。元清

は翌日稽古を終えるとひとり元則を自室に呼んだ。元清は元則の前にその墨も乾
かぬ一冊の綴りを

置いた。


「元則、これは前にも話をしたと思うが、父の教えをわしが纏め上げたものだ。元則にはこれを相

伝しよう。今日よりここで書き写してくれ」


 綴りの表には「風姿花伝」と記されている。元則は綴りを手に取り開きみた。読み進むうちに父

清次が思い起こされ、思わず涙した。おぼろげながら父の声が聞こえてきそうな
思いがした。元則

はその日から写しを執りはじめることとなった。



 元清の記した「風姿花伝」は“年来稽古条々”から始まり“物学条々”“問答条々”“神儀に云

ふ”“
奥義に云ふ”“花修に云ふ”“別紙口伝”の七編から成っている。元清は猿楽の真髄を「花」

という言葉に託して説いているのである。特に能作をする上での諸
注意を綴る“花修”においては、


 …こころざしの芸人よりほかは一見も許すべからず…


 
とまで記している。元清の「風姿花伝」への思いが如何なるものであるかは、ここに顕れる。


 ある夜、いつものごとく元則が部屋を訪ねると、元清はしばし元則に気付かぬ風であったが、や

がて口をひらいた。


「元重はそなたからはどう見えるか…」

 元則ははっとして元清を見た。元清は瞑目している。

「青蓮院様の元にやったのは間違いであったかもしれぬ」

「技量はまさしく申し分のないものであるが、元重の心にはもはやわしの芸事はないように思うが

…、元則はどう思うか」


「申し訳ありません。側近くにありながら私も気付かぬうちに彼のお方に惹き込まれてしまったの

でございましょう。私から申し聞かせまする」


いや元則のあやまることではない。このことはわしとて同じ事だ。わしが稽古をつけて
いたのだか

らな。その責を問うのであれば、わしこそ責むべきだ」


「ただわしは何とか元重を矯めしたいと思っている」

「花伝を読めば分かろうが、今の元重にそれを相伝する事はできぬ。よって元則に相伝す
るのだ。

わしもすでに父の身罷りし歳を過ごしている。もはや太夫を譲るべき時がそこま
で来ている」

 元則はその言葉を聞きながら、やはり元重を廃嫡すべきであったと、心の内に呟いた。すでに元

重には自分が太夫たるべき思いが宿っているに違いない。元重は自信に満ちてい
る。自分の芸事の

色合いを善しとしている筈である。若い元重には元清の心中を察する事
は出来ないであろう。それ

がいかに義円の影響であろうとも、一座を司るのは義円ではな
い。元重はそれを忘れている。しか

も実子元雅の技量は元重に比しても遜色がない。元重
のごとく余分な色を持たぬ分、ますます元清

に似てきている。元清の気持ちが揺らいだと
しても当然過ぎることであろう。

「太夫、もしものおりには、その役目は私にお任せください」

 元則は頭を下げた。元清は、いや…と、何か言いかけたが口をつぐんだ。

 ――元重、元雅そして元能の兄弟なかは決して悪くはなかった。幼少からともに稽古に励み、元

重は長兄としての立場をわきまえ弟どもをよく愛した。元雅も元重の技量を認め、
この兄を助けよ

うとする気持ちを持っていた。その兄弟の思いとその親どもとの思惑とは
すでに道を別ち始めてい

た。



  応永二十九年(一四二二年)元清は六十を迎えた。元清はこの歳を自らのひとつの節目と考えて

いた。元清は元則を呼び相談を預けた。


「元則、わしは六十となった。これを汐に太夫を後に譲ろうと思う」

「わしはいろいろ思う事もあるが元重を太夫にと思うがどうであろうか」

 元則はその言を聞きながらこの兄の恩讐を思った。この兄は自分を慮って、元重を後継に立てよ

うとしている。長年側近くにあった元則にはそれがありありと見えた。元重の芸
事が元清の思うと

ころであればそれもよいが、元重を矯めすことができなかった今、自分
の役目を、この兄を助くべ

き自分を全うすることこそが座を保つ大事であると思った。


「わしは元則があればこそ一座も永らえて来れたと思っている。これからわしらが身を引
いた後も

そうあって欲しいと思う」


「そのことにつきまして私にも存念がありますれば、私にお預けください」

 元清はふと元則を見たが、そうか…と云ったきり押し黙り、やがて、それでは任せよう、と云い、

その話はそれきりとなった。その後は元清には珍しく酒を過ごし、ふたりして昔
日の思い出に花を

咲かせた。これもまた元清には珍しいことであった。




 その日、一座の主だった者は全て集まり、元清を囲むように座に着いた。元清の脇には元則が座

し、その向かいに元重、元雅、元能が順に並び、一座の長老連がそれに続く。


 元清はその面々をゆっくりと見回し、口を開いた。

「皆これまでわしによく付いてきてくれた。観世の家がこれほど栄えたのも皆のおかげと思ってい

る。今年、わしも六十となった。よって太夫を後継に譲り、わしはその後見とな
ることに決めた」

 皆はにわかな話にざわめいたが、元則がそれを制し、言葉を継いだ。

「舞台を退くわけではない。舞台の事はこれまで通りと心得よ」

「この後は私から伝えよう」

 元則はそういうと一気に云った。

「本日より太夫は元雅たるべし。元重、元能両人は側にあって太夫を助くべし」

 元清は目を見開き元則を見た。しかし元則の目には有無を言わさぬ力が漲っている。元重、元

雅両人とも思いがけない元則の宣言に呆然としている。座はさらに大きなざわ
めきに包まれた。

「皆、静かに」

「これは私がよくよく考えた末、太夫に薦め、決めた事だ」

「よいな元重」

 元重は平伏した。しかしその肩は小刻みに震えている。

「叔父上、お待ち下さい」

 元雅の声が場の空気を裂くように響いた。声が震えている。しかし元雅が言葉を継ごうとしたと

き、元重がそれを制した。


「よせ、元雅。お前は今日より太夫だ。それでよい」

 元重は元雅の袖口を強く引いた。その有様をみて一同のざわめきはことごとく止んだ。

「皆、よいな」

 元則は重ねて皆を見回した。一同は平伏し、新しい太夫の誕生を寿いだ。



 ――「元重、よう分別したな」

 元則は元重の部屋を訪ない、声を掛けた。

「私の力不足でございますれば…」


 元重はそういうと下を向き、袖で顔を被った。元則はその我が子の肩を久しぶりに抱いた。元

重は幼少の頃のごとくか細く思えた。


「父上、と呼んでよろしうございますか」

 元則が頷くと、

「父上、私は観世の家のためによかれとよく努めたつもりです。私は間違っていたのでしょうか」

 と言った。元則はまた頷き、云った。

「それはよく解かっている。しかし太夫を継ぐという事はあの父を継ぐということだ。そ
れを見誤

ってはならない。いまのお前は道を違えている」


 元重は、しかし…、と云ったきり言葉を継ぐことができなかった。

 それから数日を置かずして、元清は青蓮院義円の召し出だしを受けた。元則は多少不安を覚え、

元清に同行した。


 義円の召し出だしは元則の予想した通りであった。

「世阿、なぜ元重が太夫とならんのだ」

 挨拶もそこそこに義円は切り出した。義円の怒りは心頭に達しているようであった。

「これは我が家のことでござりますれば、青蓮院様のお言葉とはいえお聞き致しかねまする」

 元則は応えようとする元清を抑えて云った。

「その方もその方だ。実の子が可愛くはないのか」

「家の事は別と心得ます」

「よう分かったわ。その方ら二度と我が門をくぐる事許さん」

 よほどの腹立ちであったのだろう。その後は元重のみが青蓮院での催しには出仕することとなっ

た。無論、元雅の出仕も拒絶された。元重はその事に多少の引け目を感じはした
が、一座の誰もど

うすることも出来なかった。




 歴史を後世から振り返るとき、偶然は時にまさかという事態を生み出す事がある。我々は傍観者

としてその事に余裕をもって臨む事が出来るが、当事者にとってはまさに晴天の
霹靂であったろう。

この偶然は元清にとってまさにその後半生を弄ぶがごときものとなっ
た。

  義持は応永三十年(一四二三年)将軍職を義量に譲り、義満と同様将軍後見として威勢を振るっ

た。しかし義量が十九歳の若さで急死してしまうと、義持は次の将軍を決めぬま
まに足の種物が悪

化して死の床に着いてしまう。義持には実子がなく、義量にも子がなか
ったが、義持は病床にあり

ながら後継者を指名しようとはしない。候補者は義持の四人の
兄弟しかないのだが、義持は口を閉

ざした。義持は、遺言してもその方らが用いなければ
意味のないことだ。勝手に決めたがよかろう、

とも云ったというが、業を煮やした義持の
護持僧でもある醍醐寺座主満済が、四人の籤引きにした

らようござろう、と提案すると義
持は、それでよい、と半ば投げやりな言い様であったが了承した。

かくして義持臨終の枕
もとで満済が籤をつくり管領畠山満家が引き、山名時煕がそれを封印した。

それを横目に
しつつ義持は身罷った。そしてその死後六条八幡の神前で開封され、天台座主青蓮院

義円
が還俗し、六代将軍義教となったのである。

世に例のない籤引き将軍の誕生である。この
奇妙な決定は、幕閣間の複雑な対立と足利将軍の権威

がすでに彼らを統御する力を失って
いたことを物語っている。

  そして将軍義教の出現は元清にまさに暗雲を呼ぶものとなってしまうのである。義教は将軍宣下

の日、室町御所において祝賀の猿楽を催した。そこには無論元重のみが
呼ばれ、元雅には声が掛か

らなかった。その出仕に対して義教は五万疋(米に換算すれば
五百石に相当する)という途方もな

い褒賞を与えている。


  興行をするには決して少なくない人数を動かさなければならない。元重は太夫ではなかったが、

元雅に声が掛からない以上、止むを得ず代行としてその全てのことをしなければ
ならない。青蓮院

での催しは私事として扱う事ができたが台覧猿楽とあってはそうはいか
ない。これはもはや元重が

別に座を持つに等しい事態となっていった。


                   その6


  元清にもこればかりはどうすることも出来ない。もはや義円は義円ではなく、大樹である。元清

もさすがに我が身の運を思わずにはおれなかった。ただ元清はその世の流れのあ
ってもに決して自

分の芸道を見失う事はなかった。また新太夫元雅の成長は元清を楽しま
せるものでもあった。元雅

の才能はその能作にも顕われる
。「隅田川」「弱法師」「歌占」等、まさに元清の芸道を継ぐ能ば

かりである。この元雅を評する言葉として、金春氏信の
記した「歌舞髄脳記」にも、遠山に霞める

花の如し、とあり、その評判は高く、元清後半
期の幽玄な芸風をあますことなく身に付けていたと

思われる。


 中央での催しは元重に取って代わられてしまったが、元雅は腐ることなく、頻繁に地方への興行

に出た。この頃、元雅はすでに「風姿花伝」を相伝され、それを実践するような
ものでもあった。

元清は一線を退きつつあったが、また精力的に執筆に取り組んでいた。
特に「花鏡」は自らが四十

を過ぎ、芸道について考えた事を説いたものである。この「花
鏡」に至って元清の眼は、技術の習

得からより精神面の修養に重きを置くようになってい
る。元清は太夫を譲った事により実質的な座

の運営から多少なりとも離れ、飽くことなく、
より精神的な高みを目指したのかもしれない。それ

を許したのは元雅への大きな信頼の証
しであったろう。

 この「花鏡」は草上後、元雅に相伝されるのだが、何故か元雅は元清に黙って自分の妹婿の金春

氏信にまた伝えている。氏信は妹婿とはいえ金春座の太夫であり、元清にもその
才を嘱望されては

いたが、腑に落ちぬ行動と言えなくもない。


 やがて観世座は元重、元雅の思いとはうらはらに二分されてしまう。元重にしてみれば当初は義

教の強引さに止むを得ず応ずる気持ちであったが、時につれそれが観世座を保つ
ために必要ならば、

と思い始めていた。一度は元雅の太夫を諒としたが、事ここに至って
は自らが立つべきか、とも自

問したがそれまでの元清、元則への報恩を思えばそう簡単に
断ずることはできなかった。しかし一

座の者どもにしてみれば日々の生活があり、皆元雅
に同行するより、元重の興行に出仕したいと思

うのは人情であったろう。元重も自分の興
行のたびに元雅に人数を依頼いらいするのだが、皆内々

に元重のもとを訪れ、自分を使っ
てくれるよう頭を下げる者も多かった。それらの者どもは口々に、

やはり元重が太夫にな
るべきだった、と密かに云いそやした。



 三十五年の長きにわたり続いた応永年間はすでに終わり、正長、永享と改元されその永享元年

(一四二九年)五月三日、義教は室町第の笠懸馬場にて盛大な猿楽を催した。この
催しに先立ち、

元重は義教から「音阿弥」の名を賜わっている。義教にしてみれば元雅の
観世座などはすでにどう

でもよいことであった。


 「音阿弥」の名は「観阿弥」「世阿弥」に続く名なのである。観世の家は観世音菩薩を信仰して

いる。それを知り、義満もその信仰に因んだ名を与えたのである
。「音阿弥」の名には、その名乗

りにより「観世音」の信仰が成就するという思いが込められているので
ある。

 本来は元雅の名乗るべき名であったろう。


「元重、これよりは音阿弥と名乗れ」

 義教は強引ではあったが、時の将軍に異を唱える事はできない。元重は平伏し、それを受けた。

しかし義教にはその元重の心底を見透かすように言葉を継いだ。


「これよりは元重が新たに座を立てたがよかろう。いつまでも古き者どもにこだわる事もなかろう

が…」


「ありがたき幸せにございますが、ひとつお願いの儀がございます」

「なんだ」

「このほどの御所の催しにはぜひとも元雅の出仕をお許し頂きたく、お願い申し上げます」

 元重にはやはり自分の生まれ育った場所を無下にする事はできなかった。義教は不承ながらもそ

れを許したが、しかしこれは元清、元雅には返って仇となってしまう。




 この笠懸馬場の猿楽は元重、元雅を一手、宝生太夫、十二権守を一手とする出会猿楽として催さ

れた。


 元重は元雅の楽屋内を訪ね、元清の前に頭を下げた。

「不本意ながらこのような仕儀になりましたこと、お許し下さい」

「元重、この度の出仕はお前の尽力のよし聞いた。座の者どもも元重に世話になる者も多
い。礼を

云わねばなるまいはわしの方であろう。それにお前はお前なりの芸道を切り開く
がよい。わしを思

う事はいらぬことだ」


 元清はもともと世俗的な執着の薄い人間だが、元重の思うほどは元重に対しわだかまりを持って

いないようでもあった。というより元重についてはすでに自分とは道を別つ者と
見ていたのかもし

れない。


  そこへ元雅が楽屋へ戻った。

「兄上、お世話をお掛けします」

「うむ。この舞台で風も変わるかもしれぬ。そのつもりで勤めてくれ」

 元重は仮に観世両座となろうとも、そのまま両座栄えればそれで良い、と考えていた。元雅とい

う人は不思議と元重に対し、怒りも疑念も持たぬ人であった。むしろ自分が太夫
を継承したことに

つき負い目さえ感じている風であった。そういう自ら一歩下がってしま
うような線の細さは、精神

的な脆さとも背中合わせであったかもしれない。だがその一見
内向的とも思える精神のありようが

元雅の産み出した名曲の源と云えなくもない。古来、
芸術は人間のあやうさ、不確かなものの上に

成り立つように思える。


 この催しで元重は鬼の能を、元雅は自作の「隅田川」を演じた。元重の舞台はますます技量も磨

かれ、他を圧倒し、多くの喝采を博した。しかし驚くべ
きは元雅であった。元雅の演じた狂女の持

つ笹は人の心の深淵にまで及び、その見所にあ
る人々で涙せぬ者はひとりもなかった。この日、元

雅は敢えて子方を使わなかったが、皆
舞台を観る者は狂女の手を擦り抜ける亡霊となった子の姿を

確かに見ていた。その技量は
元清をも凌駕していたかもしれない。元清は後見からその舞姿を追い、

その充実した能に
満足した。元雅が幕に入ってからもしばらくは見所には啜り泣きが残り、やがて

それは万
雷の歓声となった。

 元重はその能が自作と聞き、初めて弟の才に嫉妬を覚えた。これまではその技量におい
ては、接

すれど自分が勝っている、という思いが元重の精神的な余裕のありどころでもあ
ったのであるが、

それを打ちのめされたような思いがした。しかし面には出さず、その出
来を称えた。

「元重、今からでも遅くはない、様々な能を試みることだ」

元清は声を掛けた。これは元清の最後の指導であったかもしれない。しかし元重はそれには答えず

楽屋を後にした。


  元重にはその能の出来は別にして、将軍義教の思いがはっきりと見えていた。義教はあの「隅田

川」にさえ間違いなく飽いていた。しかしその見所の喝采の意味は充分理解して
たろう。義教の性

格を思えばこれは元雅にとって極めて不幸を呼ぶであろうことが予想
できたのである。そしてそれ

はすぐに現実となり元雅を襲った。しかし元重にはそれをど
うする事もできなかった。

  この出会猿楽から十日の後、義教は突然元清、元雅親子の仙洞御所への出入りを差し止める。

「音阿弥、あやつらを仙洞御所から締め出してやったわ」

  義教は嬉々として元重に云った。元重は愕然としたがもはや手遅れであった。そしてその後任と

して元重を御所に推挙したのである。義教の行動は全て元重によかれと思っての
ことではあったが、

養父、義弟の事を思えば心苦しくもあった。何よりも自分の根回しと
思われる事は耐え難い思いが

あった。おそらくは青蓮院時代の一件につき、自分をないが
しろにしたやから、という思いをその

根に持っているのは間違いのないことだったが、も
はや義教に何人も逆らう事は適わなかった。義

教はこのとき義満以上の専制を全てにわた
り強いつつあったのである。

 

 この義教の元清、元雅への弾圧はそれだけに留まらなかった。元重が仙洞御所に義教の
命により

出仕した翌月、興福寺の薪能も元重の出仕するところとなる。ついでその四月、
元雅は醍醐寺清滝

宮の楽頭職をも罷免される。その楽頭職も神事猿楽も元重が代わって勤
めることとなった。ここに

至り、元重の新座が観世座として公的な承認を受けた事になる
のである。元雅のもとを去り、元重

に頭を下げる座衆は後を立たない。元重はその者ども
粗略に扱うことなく迎えた。

  醍醐寺清滝宮の楽頭職をも失った元雅はさすがに肩を落とした。元清にはその姿が痛ましく如何

ともしがたい。元雅はその心根の優しさのためか、口には出さずひとり心労に耐
え、よく勤めた。

  元則は自分の不明を詫びた。

「兄上、申し訳ございません。私の差し出口のために座を割ってしまいました」

「元則、お前のせいではない。全ては流れであろう」

「父の申すごとく、いずれまた陽が巡ってくる日も来よう。それまでゆっくり待てばよい」

「あわてずともよい。その日を待てばよい…」

 確かに何もかもが奪われつつあるようにも見えたが、聴衆を奪うことまではできまい、その聴衆

さえあらば舞台は作れる。決して一座が終わることはない。義教の手の届かぬと
ころへ行けばよい

のだ。元清はそう思っていた。しかし次に云った元清の言葉は元則の思
いもよらぬことだった。

「元則、向後お前は元重につき、元重が道を誤らぬよう導いてくれ。花伝は必要とあらばお前から

相伝してやってくれ。それが観世の家の定めかも知れぬ。わしは命尽きるまで元
雅とともにある。

元雅が観世であれば、元重もまた観世だ。まして元則はあれの親だ」


「だがわしは子として元重を分け隔てした覚えはひとつだにないぞ。あれはもはやわしの手を離れ

たひとりの能役者なのだ。それだけのことだ」


「わかっております」

 元則はこの、猿楽をここまで導いてきた元清の心中を思い、涙した。元清が在るがゆえに元雅も

元重も今まさにある。元則でさえそうであったろう。元清は自分自身をというよ
りも、その道理を

元則に託したのかもしれない。


 ――元雅はうち拉がれながらも、自分を思い自分のもとに留まる一座の者どものために立たねば

ならなかった。でき得る限り地方へ出て座の運営をはかった。そこかしこでは昔
の“かんぜ”の能

を慕い、多くの聴衆が集まった。その屈託のない聴衆の歓声に、元雅の
心も少し晴ればれとしたも

のとなった。




 元雅は永享二年(一四三〇年)十一月、地方への興行の途中、吉野山中の天川社に立ち寄り、能

「唐船」を奉納した。その後、元雅はしばらく神前に手を合わせ、能面を寄進し
た。その能面の裏

には、…奉寄進 弁財天女御宝前仁為允之面一面心中本願成就円満也…
と記されている。その後ろ

姿を見守っていた座の者も、いつの間にか我知らず元雅ととも
に手を合わせていた。ここに至って

なお元雅に従う者にはその本願は聞かずとも知るとこ
ろであった。

 元清は、この頃は元雅に同行することも少なくなっていた。年齢のこともあり、また元雅の力量

を充分とみている意味合いもあった。元清は舞台に立つよりも、新しい能を書き、
またその芸事に

対し思うところを書き記すことに専心したいと思っていたのである。元清
が多くの著述を残したの

は、父清次が家名を興し、自分が相続した猿楽の道をあますこと
なく後継であるところの元雅に相

伝するためであった。その事ごとくを為し終えて、初め
て猿楽の命は未来永劫確かなものになる筈

であった。元清は、人の命に果てはあるが、能
に果てはない、と語っている。そこに元清の思いの

全てがあったのである。


 ――その元清を元能が訪ねた。元能はこのたびに限り旅立つ元雅を見送り、屋敷に残っていたの

である。


「父上、これを…」

 元能は元清の前に端座し、一編の綴りを差し出した。綴りには、「世子六十以後申楽談義」とあ

る。元清はその三十一ケ条を手に取り、黙って読んだ。それは元清の折々の談話
を書き綴ったもの

であった。しかしその奥書に記された歌を詠むに及び、元能を憮然とし
て見た。

 

  …立ち返り法のみをやのまもりとも、ひくべき道ぞせきなとどめそ…


 その歌は元能の決意のあらわれであった。

「元能、お前が今去れば元雅は何とする」

「太夫の事を思えばこそ、決めた事です」

「私が仏門に入り、この観世の家を祈念し、守りまする。もはやそれより他なす術はありますまい」

「二日後には元雅も戻ろう、それまで待て」

「いえ、太夫の顔を見れば私の思いも鈍ります。この度の興行を外れましたのもこの故でございま

す。」


 元能は元清の制止にも振り返ることなく観世の家を去った。

 元清は元能を見送りつつさすがに悄然とする思いに肩を落とした。

 興行から戻り、事の次第を聞かされた元雅の落胆ぶりは声を掛けるのを憚れるほどであった。ま

るまる一昼夜自室に篭り、皆と交わることを拒んだ。部屋を出た元雅は一睡もし
ていないのであろ

う、憔悴し、眼も虚ろであった。


 元清と対座した元雅の眼から滂沱と涙が溢れた。

「もはや兄上に太夫はお渡し致しましょう」

「それはならぬ。元重はわしの芸事を継ぐ者にあらず。わしの後嗣はお前より他にはない。この観

世の、父の興した家名は正しく伝えられねばならない。それをお前に伝えることが
わしに残された

仕事なのだ」


  元清は元雅の気持ちを気遣いながらもそう云うよりなかった。

「これほどの思いにも堪え、私は舞台に立たねばならないのでしょうか…」

元清はその問いに答えきることができない自分をもどかしく思った。



  以後、公の催しに本座であるべき元清、元雅親子の名が見えるのは、永享四年(一四三二年)一

月二十四日の室町第での猿楽だけである。この時、観世太夫が一番、観世入道が
一番の能を勤めた

と伝えられる。おそらく元重の口利きであったろうことは想像に難くな
い。ただ記録において、依

然として元雅を観世太夫、元重を観世三郎と記しているのには、
やや不思議な思いもあるが、すで

に新座として世に認められつつあった元重が弟を庇い、
遠慮していたのかもしれない。でなければ

義教がそれを放置するとは到底思えないのであ
る。

  その年の七月の末、元雅は伊勢への興行へ旅立った。もともと身の細い方であったが、その旅立

つ姿は誰の目にも力なく、うらさびれて見えた。元清はそのまま見送ることを一
度はためらったが、

元雅の、お気遣いには及びませぬ、というやや持ち直した言葉に安堵し、
一行を送り出したのだっ

た。


 元雅は道すがら元能の出家以来、初めてその寺院に立ち寄り元能を訪ねた。しかし元能は顔を合

わせることを拒み、山門の内から兄である元雅に対峙した。


「太夫、このこと相談もなく決めましたる段、お許し下さい。顔を見れば私の心願が失われます由、

ここにてお別れ申します。しかし必ず私の心願は成就いたしましょう。太夫も
心強くありますよう

に…」


 山門に隠れる元能の声が涙しているのがありありと解かった。

「元能、達者で暮らせ」

 元雅はわざと気持ち明るく云った。元能の心中を察すれば、それが元雅には精一杯の言葉であっ

た。




 八月も十日を過ぎ、自室にあり経机に向かう元清を呼ぶ声が聞こえた。振り向くと忠市が控えて

いる。忠市は長年清次、元清の側にあった忠佐の子であり、今も元雅とともに伊
勢にある筈であっ

た。何だ、という思いが突然の胸騒ぎに変わった。


「どうした」

 元清が急き込んで訊ねると、忠市は顔を伏せ、嗚咽した。

「どうした。泣いてはわからん」

 聞きつつ元清は高鳴る動悸を抑えられない。

「太夫が、身罷りました」

 そう叫ぶと忠市は突っ伏して号泣した。

 元清はしばらく呆然とその言葉を自分のうちに反芻したが、やがて、

「そうか、元雅は死んだか…」

 と、はじめてつぶやき、顔を被い、恥じらいもなく泣きくずれた。

 元雅の後ろ姿がいまさらのように思い起こされる。何やら夏の陽炎のごとく揺らいでいたように

も思えた。あれが今生の別れであったとは、元清はまた人の儚さに泣いた。


 元雅の死因を伝える記録はないが、殺害されたとする説もある。しかしそれも想像の域を出ない。

  元清はその慟哭を、「夢跡一紙」に追悼して記す。そこでは元雅をして、

 

  …子ながらも類なき達人、祖父(清次)にも越えたる堪能…


 と悲嘆の極みのなかで称えている。


 伊勢から戻った一行を迎え、意外にも元清は穏やかであった。そして一座の主だった者を集め口

を開いた。


「皆、よう太夫に付いてきてくれた。わしからも礼を云わせて欲しい。しかし太夫なき後、もはや

この一座も終いにしようと思う。幸い元重がいる。皆、元重を頼ればよい。あれも
根は情が厚い。

決して粗略にはすまい」


 元清の淡々とした話しぶりに、皆うつむき、偲び泣いた。

 皆の去った屋敷に元清はひとり残った。元雅、元重も元能もともに稽古に励んだ稽古舞台は森閑

として沈んでいる。元清はその稽古舞台に経机を運び、もくもくと執筆に取り組
んだ。もはや誰に

相伝するあても無くなってしまったが、書かずにはおれぬ衝動が元清を
突き動かしていた。元重が

米、金品を内々に送り届けてくるので生活に困る事はなかった
が、あれほどの栄に浴した身にはあ

まりに侘しいひとり住いであった。




 ―元雅を失い、ときを移さずして元清は再び義教の御前に召し出だされた。元清にとって義教と

の対面は常に良き風とはならない。


「世阿よ、元雅の事、残念であったな」

 義教はそう云いながら眼は冷えびえと醒めていた。

「死んでしまったものはしかたがないことだ…、ときに太夫の事だが元雅の子はいまだ幼い。音阿

弥に継がせたらどうか」


 義教は探るように云った。元清は平伏したまま押し黙った。

「どうした。なぜ答えぬ」

 燗の強い義教は次第に苛立ち、声を荒げた。

「御所様の良きように御計らい下さいますよう…」


「そうか、一応は観世の家の事だ。おまえの許しがなければ音阿弥も肩身が狭かろう。されば決ま

った」


 義教は急に声を和らげて目をほそめた。しかし義教の要求はそれだけではなかった。

「さてこれは元則からも聞き及ぶ事だが、元雅にはいろいろと芸事の相伝していたそうだな。それ

を音阿弥にも渡せ」


「…元重は、元重にはもはや私の教えは必要ありますまい」

「その方の話など聞いてはおらぬ。いいから差し出せ」

 義教は再び癇癪を起こし始めた。

「もはや相伝する当てもなく、燃やしましてございます」

 淡々とした元清の返答はさらに義教を激興させた。

「なんと、余を愚弄するか」

 義教は叫ぶなり座を立ち放ち、元清に走り寄ると平伏する元清の肩を蹴上げ、

「下がりおれ」

 と、わめいた。元清は仰向けに倒れ臥し、居合わせた者どもに抱きかかえられ、その場を下がっ

た。それは元清の最後の意地であったかもしれない。


 屋敷に戻った元清は肩の痛みをこらえ、また筆を取った。それもまた意地であったろう。そこへ

人の足音を元清は聞いた。振り返ると金春氏信であった。


「父上、お怪我はございませんでしたか」

 氏信は心配げに元清をのぞき込んだ。三十を越えたばかりの清げな顔立ちが元雅の面影に重なり、

元清には懐かしく思えた。


「もう、話を聞いたか…」

「なに、心配には及ばぬ。老体ゆえ多少こたえたがな…」

 元清はかすかに笑って答えた。

「それならば安堵致しました」

「父上、今日も新作を持って参りましたゆえ、ご教授下さい」

 氏信は近頃能作を始め、しばしば元清に教えを請うていた。元清の教えのままに氏信の才能は開

花しつつあった。


 この日氏信の携えてきた能は「野宮」と題された、源氏物語に登場する六条御息所を主人公とす

る女物の幽玄能であった。読み進むうちに元清はこの青年の並々ならぬ才
能を感じ取っていた。こ

こへきて一段とその力は飛躍している。しかもその作風は元清
を忠実に再現しようとしているかに

見える。元清はその新作に二、三朱を入れ、氏信と
ともに論じた。

「氏信、元雅はおまえに花鏡を相伝したそうだな」

「お聞きおよびでしたか…」

「太夫には口止めされておりましたので…、確かに伝授いただきました」

「そうか…」

「元雅は元能を失いし後、おまえをまことの弟と思っていたのかもしれんな」

 元清自身も氏信とのひとときが、近頃ではまた新たな活力となり始めているのを感じていた。



 …金春太夫、芸風の性位も正しく、道を守るべき人なれ共、いまだ向上の大祖とは見えず。

 功積もり、年来の時節至りなば、定めて異中の異曲の人となるべきや…



 これは元清の氏信への思いである。今はまだ未熟ではあるが、必ずその才は開花し、群を抜く名

手になるだろうと、語っている。氏信は金春座という芸統の違いの中にあり
ながら、その障壁をの

りこえて元清晩年の思想のよき継承者とならんとしていた。



  翌永享五年(一四三三年)元清の悲哀をよそに元重の観世座太夫の襲名披露興行は、華々しく勧

進猿楽として催された。その三日間、京都糺河原はあまたの観衆でごった返
した。しかも元重は義

教の命により、四代ではなく三代目観世太夫となった。三代目として
の元雅の存在は将軍の権威を

もって完全に握り潰されたのである。


 その晴れやかな披露を尻目に元清は「却来花」を綴った。



 …当道の芸跡の条々、亡父の庭訓を承けしより以来、今老後に及んで、息男元雅に至るまで、道

 の奥義残りなく相伝終りて、世阿は一身の一大事のみを待ちつる処に、
思わざる外、元雅早世す

 るによって、当流の道絶えて、一座すでに破滅しぬ。さる
ほどに、嫡孫はいまだ幼少也。やるか

 たなき二跡の芸道、あまりにあまりに老人の
妄執、一大事の障りともなる斗也。たとい他人なり

 とも、其人あらば、此一跡をも
預け置くべけれども、しかるべき芸人もなし…


 観世の家にはすでに自跡を継ぐべき者なしとし、元重に肩入れする義教を痛烈に皮肉っている。

それが義教にまで聞こえたわけではあるまいが、元清の反目の態度がよほど
根深く残っていたので

あろうか、永享六年(一四三四年)五月、義教は突如として元清
に佐渡島配流を云いわたす。とき

に元清は七十二歳であった。



 その没年は定かではない「金島書」以降、元清はまるきり歴史から姿を消し去ってしまう。


 ―元能に「砧」の能について尋ねられたとき、元清はこう答えている。



 …静成りし夜、砧の能の節を聞きしに、かようの能の味わい、末の世に知る人の有るまじければ

 書き置くも物ぐさき由、物語せられしなり…



 物ぐさき、とは説明するのもめんどうという意であろう。元清は、自分が創造し、切り開いた新

たな猿楽が、いつのまにか時代の枠を超えてしまったことにふと気づいたの
であろう。元清は時代

から拒絶され、限りない孤独の中に身をさらした。



 しかし時の権力者に翻弄された世阿弥元清の能は、やがて永遠の命を宿し、生き続けるのである。


         
                         
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