富山県の山(6)

期   間 2010.8.19及び24
登った山 蓑輪城山   大山   神宮山   美し山   与四兵衛山

8.19.木
 晴。猛暑が続く8月は富山県の残りの山とする。猛暑に加え目まいがあり、コンディションは悪いので、日帰りである。

 蓑輪城山(471m 富山県上市町)                     ルート地形図
 「中世松倉城の支城があった」
 地形図に記名はない。滑川市東福寺野自然公園を過ぎると上市町に入り、登山口のある護摩堂に着く。弘法の水があり、たくさんの人が水汲みに来ている(11:00)。
 登山口がどこか水汲みの人や八十八(やとはち)旅館で訊いても分からないので、困っていると、うまい具合に地元の人がやってきて、教えてくれる。この人は元は護摩堂に住んでいたが、今は町に下りて、ときどき畠の見回りにやって来るという方。
 護摩堂には旅館の他に八幡神社があるが住民はいないのだ。 山頂に鉄塔があり、山腹にも数本の鉄塔が建ち、その管理道がある、と教わる。
 物置のような建物の脇から鉄塔管理道を登る。伊折29、30の標識に従って右折し、真っ直ぐ進んだら別の鉄塔に着いた。ここから山頂尾根の鉄塔が見えるので引き返し、伊折30標識で分かれ、尾根の鉄塔に着くことができる。展望はない。(上写真)
 山頂は鉄塔手前20mほどのところから左に尾根に入り、藪こぎして山頂である(11:40)。
 藪の中に三角点がある。展望はない。
 中世、松倉城の支城があり、蓑輪五郎左衛門が城主で、蓑輪城といった。北麓の滑川市蓑輪はこれによる地名である。先の地元の方がこう話された。しかし蓑輪という地名が先にあり、ここに城を構えて蓑輪と名乗ったという説もある。
 城跡の遺構はない。今は登られることのない山である。

 同じ道を下る(12:00)。
 護摩堂という地名はここに護摩堂があったからそのまま地名となっている。
 「弘法さまと護摩堂」の長い説明を要約すれば次のようである。
 ここは1300年前から人が住んでいた。当時山野に猛獣毒蛇が多く住民を苦しめていたが、たまたま通りがかった弘法大師が村人の苦しみを知り、護摩を焚いて祈願した。村人は悦びこの地を護摩堂と称した。さらに大師はこの地は水利が悪いことを知り、杖で穴を掘ると水が湧き、村人を喜ばせた。村人は弘法堂を建て功徳を讃えた。お堂の前に護摩を焚いた石が残っている。

 弘法の水にたくさんの人が訪れる。私もキャンピングカーのタンクに水を補給した。
 東福寺野自然公園から護摩堂にかけて素晴らしい田園風景が残っている。今は猛暑で公園に人影はないが、季節がよければ訪れる人は多いだろう。



 大山(210m 富山県上市町)                          ルート地形図
 「山頂に弘法大師堂がある」
 地形図に記名はない。上市町眼目(さっか)の立山寺に来る。その背後の山である(13:00)。
 寺は眼目山(さっかさん)立山寺(りゅうせんじ)と読む。例によりお寺は後でお詣りすることにして、まず山に登る。
 登山口に観音コース、座禅石コースの案内があるが、観音コースを採る。三十三観音霊場巡りコースが登山路で、1番青岸渡寺の石仏からジグザクに登れば、山頂は33番谷汲寺石仏に着く(13:30)。
 山頂はアカマツの巨木に囲まれた広場となり、お堂が並ぶ。聖観音堂、十三仏堂、一番右に弘法大師堂である。(上写真)
 弘法大師堂があるのは真言宗の寺である。しかし立山寺は曹洞宗であるから、おかしいなと思う。それは下ってから立山寺の縁起を見て、私なりに理解した。

 立山寺の栞によれば、能登総持寺第二祖峨山禅師の高弟大徹宗令禅師が開山である。禅師が立山権現と山中の座禅石で対座し、立山権現はその高話に帰依し、寺院建立に協力したという。
 ここに現れる立山権現は神仏混淆の修験道の神で、山岳信仰から生まれた神である。山岳信仰は天台宗や真言宗が盛んで、禅宗や浄土宗には見られない。
 立山の山岳信仰は常願寺川流域では天台宗の芦峅寺や岩峅寺が中心で、千寿ヶ原、室堂から立山にいたるものであった。
 一方、早月川や上市川流域に日石寺を中心に真言寺院が多かったようだ。上市川ルートは早乙女岳、大日岳、奥大日岳、を経て立山に登るルートがあった。しかし立山信仰は岩峅寺、芦峅寺が中心となると、修験寺から転退するものがあったのだろう。 立山寺の縁起に、立山権現が禅師と対座し、高話を聞いて改宗し帰依し、多くの信徒がこれに従ったとあるのは、これを現している。
 大山山頂に真言宗の開祖弘法大師堂があるということは、元は真言宗寺院があり、改宗して曹洞宗になったということかもしれない。
 もっとも能登総持寺の峨山禅師は山岳信仰に理解があり、総持寺と羽咋永光寺を結ぶ尾根伝いに峨山道を残した。峨山禅師はしばしばこの山道を通い、座禅と同じように行としていたようだ。 三十三観音霊場巡りは八十八ヶ所霊場巡りと同じで、行脚をする行であり、お堂に籠もり座禅する行とは違う。立山寺は行脚と座禅が並立している。禅宗とはいえ立山権現の名残が残っていると言うことかもしれない。

 眼目山立山寺は「さっかさんりゅうせんじ」と読むが、「さっか」は咲花あるいは察花と書いた。寺がある丘は花が咲き乱れていたからと言う。加賀藩第3代藩主前田利常が当寺を訪れ、寺の縁起を聞いて、「眼目」という字を当てたという話もある。真言宗から曹洞宗に替わったところが、此の寺の「眼目」である、ということだろう。ちなみに藩主前田家は曹洞宗であった。
 また寺は上市川の縁にあるということから、古文書は立寺となっており、明治32年になって川を山に改め立寺となった。

 寺に横道から入ったが、正面参道は樹齢300年を超える見事な栂の並木(県天)となっている(14:20)。

 寺の境内から外に出ると猛暑である。暫時車内でクーラーにあたっていたが、今日の山を終わる。



8.24.火
 晴。猛暑が続くが思い切って出かける。富山県の残りの山を引き続いて登る。

 神宮山(220m 富山県立山町)                       ルート地形図
 「ウラジロガシの中に社がある」
 地形図に記名はない。県道8で立山町岩峅寺に来て、林業試験場の方に左折すると、500mほどで登山口がある。駐車場がないので路上駐車する(11:30)。
 尾根道を緩く登る。森は神宮山社叢林(県天)でウラジロガシを主木にアカマツの混じる森である。100mほど歩けば山頂に着く。
 小さく開け熊野神社がある。今登った道と違う表登山道が東から上がっている。社殿は東、立山の方に向いている。

  この神社の由来は、伊豆国の栃津息方が当村に移住し、熊野権現を祀った。地名が栃津になった。神体は木造彩色の菩薩像であるという(日本歴史地名大系)。
 立山信仰と関係なく、栃津集落の氏神さまである。
 下りは正面参道(写真)の急な石段を下る。栃津の氏神さまとして草は刈り払われてよく管理されている(12:00)






 美し山(502m 富山県立山町)                        ルート地形図
 

金比羅神社がある」
 地形図に記名はない。芦峅寺の雄山神社祈願殿の背後の山である。 焔魔堂の一角に車を停めさせてもら(12:30)。
 芦峅寺集落の中を登山口を求めて小路に入ると、お爺さんがいる。山のことを訊くと、よくご存じの山で、かつ話し好きである。作業場の中に招かれ、色々話される。
 「山の東半分は俺が管理している。真っ直ぐな石段があって金比羅神社に上がる。林道の方からも行けるが今は草藪になっている。 金比羅神社の縁起はよく分からないが、昔毎月10日、今は5、10月の2回お祭りする。昔、芦峅寺の衆徒が全国に布教したとき、四国の担当のものが勧請したのかもしれない。
 こんな話の後、「あんたは75才か、俺は85才だ、畑を作っていてまだ元気だ」といわれ、登山口まで案内してもらう。
 民家の前を通り、山裾に鳥居があり登山口である(12:20)。 (上写真)


 杉林の中、自然石の石段は苔むして、崩れたところもあるが、鉄筋を打ち込んで崩れを防いであり、落ち葉も掃除されている。 高度差100mほどで金比羅神社に着く(12:50)。 (中写真)
 小さいがしっかりした社が建っている。
 立山信仰の中心地に金比羅さんがあるのが面白い。立山三山を巡る山中潅頂、そして女性のための布橋潅頂の厳しい行に較べ、金比羅さんは息抜きであったのかもしれない。


 山頂は少し奥に上がるが、何もない。北に少し展望があり、向かいの山が見えるだけである。






 下ってから雄山神社祈願殿にお参りした。(下写真)
 雄山神社は立山山頂に峰本社があり、芦峅寺に中宮、岩峅寺に里宮があった。神仏混淆時は寺がお宮を管理していた。明治の廃仏毀釈で寺は解体し神社のみ残った。芦峅寺には焔魔堂、姥堂、講堂、大宮、若宮、鐘楼、などがあったが、講堂が雄山神社祈願殿となり、大宮、若宮、開山堂などを残すのみとなった。やや離れて焔魔堂が残った。
 岩峅寺は雄山神社前立社壇となり、三社構成を残す。(13:30)。







 与四兵衛山(623m 富山県富山市)                   ルート地形図
 芦峅寺の上流で立山大橋を渡り、常願寺川の左岸に鋭い三角形の山が見えてくる。南北に急で、東西に緩い尾根を伸ばしている。南に極楽坂スキー場、粟巣野スキー場、立山山麓家族旅行村などが並んでいる。スキー場の駐車場に車を置く(14:00)。
 与四兵衛山は人の名前の山だが、本来は吉部山と書いたようだ。芦峅寺から立山の手前に鋭い三角形の山が見えるので、立山神が降臨され奉斎する山として崇められ、この地を本宮と称した。
 立山を開山した慈興は常願寺川の北に社寺を建て、その師薬勢は南に社寺を開いた。薬勢の本拠がこの山であったという。山の南麓に原という字があるが、薬勢の説法ヶ原から来ているという。
 後に立山十所王子が配されると、第七王子吉部文殊菩薩が祀られた。 山中に祭祀跡が残るという。
 しかし芦峅寺が有名になり、今はすっかり忘れられて、登る人もいない山である。従って登山路はないようだ。


 東に延びている緩い尾根を登ることにする。杉林の中は透いていて、丈の低い草を分ける。岩が多いところもある。大抵の山は尾根に道があるものだが、この山は藪である。杉林が薄くなり、日が射し込んで藪が深くなる。
 標高600mほどに登ったが、藪に難渋する頃、空が曇り暗くなる。一雨来るかもしれないと、これを理由に撤退する。
 道路に下りるとぽつぽつ雨滴が落ちてきて、車につくと、私が帰着するのを待っていたかのように雷鳴と共に降り出してくる(15:00)。

 冷気が入ってクーラーが要らないほど涼しくなる。暫時豪雨を避けて30分ばかり休んでいたが止みそうにないので帰途につく。
 富山ICで北陸道に乗る頃には雨は止み、北陸道は乾いており雨の跡がない。山手の方だけ降ったようだ。


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