日本史:鎌倉時代・1



◆富士川の戦、勝利は何がもたらしたか

★富士川の戦は、富士川の河口近くで行われた源平の合戦で、源氏が勝った。平維盛を総大将とする平氏の遠征軍は,1180年10月富士川西岸に布陣した。しかし、もともと兵力、軍粮に不安のあった平氏軍の戦意は萎縮していた。他方、源頼朝は、富士川近くまで兵を進め、夜半、源氏の武田信義軍が平氏軍の背後に進出しようとした。そのとき、ある動物が源氏に大勝利をもたらした。その動物とは何か。

ア)狼     イ)鹿     ウ)鳥     エ)猿

正解はひとつ飛んだ下にあります。

◆後白河天皇が作った歌謡集とは?

★後白河天皇(1127〜1192)は、1155年に即位し、保元の乱で勝利する。58年譲位したのち5天皇34年にわたって院政を行なった。その間、平治の乱から鎌倉幕府の成立という激動に対処。源頼朝が「日本国第一之大天狗」と言うほどに巧みな政略で朝廷権威の存続を図った。また彼は、当時の流行歌だった今様を愛し、ノドをつぶすほど熱中、自ら歌謡集を撰した。では、その歌謡集の名称は何か。次から選べ。

ア)梁塵秘抄(りょうじんひしょう)

イ)金槐和歌集(きんかいわかしゅう)

ウ)新古今和歌集(しんこきんわかしゅう

エ)懐風藻(かいふうそう)

正解は2つ飛んだ下にあります。



◆正解:富士川の戦、勝利は何がもたらしたか

正解:ウ)

武田信義軍が行軍を開始すると、富士沼(浮島ヶ原)に群棲する水鳥がいっせいに舞い上った。その羽音を大軍の来襲と誤認した平氏軍は総崩れとなり,なすところなく敗走した。頼朝は直ちにこれを追撃・上洛しようとしたが,配下の豪族の反対にあって断念,鎌倉に戻り坂東の地固めを急ぐことになった。

◆源義経の人気はいつから始まったか?

★源義経(1159〜1189)は、源義朝の子。幼名牛若丸。平安末〜鎌倉初めに活躍。平治の乱で捕えられ、京都の鞍馬寺に入った。のがれて陸奥の藤原秀衡のもとで成長。1180年兄頼朝の挙兵を聞き、参加。84年源(木曽)義仲を討ち,一ノ谷で平敦盛らを殺し、85年総帥として屋島から壇ノ浦に至り平氏を全滅させた。しかし後白河法皇の信任を得ていたことなどから頼朝にきらわれ鎌倉に入ることを許されなかった。再び秀衡を頼ったが,秀衡の没後頼朝に屈した子の泰衡のため衣川で殺された。

この栄光と悲劇の短い人生のためか、現代に至るまで義経は国民的な人気を保つ。では、この人気はいつから始まったのか。正しいものを選べ。

ア)ヒーローとしての義経への賞賛は、その存命中からすでにあった。

イ)源義経が悲劇的な死を遂げた直後から、じわじわと人気がではじめた。

ウ)源義経とその主従を中心に書いた軍記物語『義経記』(ぎけいき)が、南北朝時代から

正解は2つ飛んだ下にあります。

◆後白河天皇が作った歌謡集とは?

正解:ア)

金槐和歌集は、源実朝の家集。1巻。663首。
新古今和歌集は、鎌倉時代の勅撰和歌集。八代集の最後。20巻。歌数約1,980首。1201年後鳥羽院の院宣による、貴族文学末期最大の作品。
懐風藻は、奈良時代の漢詩集。1巻。751年成立で、現存する日本最古の漢詩集である。

◆義経の容貌は?

★源義経(1159〜1189)は、1180年兄頼朝の挙兵を聞きそのもとに参加。84年源(木曽)義仲を討ち、一ノ谷で平敦盛・知章らを殺し、85年総帥として屋島から壇ノ浦に至り平氏を全滅させた。しかし後白河法皇の信任を得ていたことなどから頼朝にきらわれ鎌倉に入ることを許されなかった。再び秀衡を頼ったが,秀衡の没後頼朝に屈した子の泰衡のため衣川で殺された。

さて、現代でもなお人気の高い義経は、テレビ、マンガなどではとりわけ美男に描かれている。では、実際のところはどうだったのか、正しいと思われるものを選べ。

ア)実際にたいへんな美男で、身長もすらりと高く、しかも運動神経抜群であった。こうした義経の活躍に頼朝が深く嫉妬したことも、頼朝にきらわれた一因がある。

イ)身長は150センチと小柄で、しかも猫背で、そっ歯であったので、けっして美男とはいえなかった。

ウ)大男でがっちりした体つきで、武術には優れてはいたが、美男とは言えなかった。また、政治的な判断力にも欠けていた。

エ)身長は、140センチしかなく、しかも醜悪な顔を持ち、コンプレックスの強い男であった。頼朝は、そういう義経をはげしく嫌悪していた。

正解はふたつ飛んだ下にあります。



◆源義経の人気はいつから始まったか?

正解:ア)

右大臣・九条兼実は、西国へ落ちる義経を「武勇と仁義に於いては後代に佳名をのこすか、嘆美すべし」と書き残し、存命当時から義経がヒーローと見なされていたことが分かる。

◆源頼朝の最後は?

★源頼朝(みなもとのよりとも1147〜1199)は、鎌倉幕府初代の将軍。平治の乱に敗れて捕えられ伊豆に流されたが、20年の流人生活の間に北条時政の娘政子と結婚した。1180年以仁(もちひと)王の令旨をうけて平氏討伐の兵をあげ、84年弟の範頼・義経を送って源義仲を打倒し,さらに85年平氏を長門の壇ノ浦に滅亡させた。この間義経は後白河法皇に接近、これを嫌った頼朝は義経を追い、その追捕を理由に守護・地頭を設置して、幕府開設の基礎を固めた。

では、頼朝の最後は、どのようであったか。

ア)1198年の暮れ、頼朝は相模川の橋供養に出席した帰りに落馬し、翌年1月になくなった。

イ)1199年になくなっているが、病気は結核であったと推測される。

ウ)1199年に、頼朝によって追い詰められて死んだ義経の残党によって殺された。

★ 《入試練習問題》

頼朝は、義経追補を理由に[    ]と[    ]を設置して、幕府開設の基礎をかためた

正解は2つ飛んだ下にありあます。

◆義経の容貌は?

正解:イ)

身長が150センチ足らずであったことは、神社に奉納された義経の鎧の大きさから判断できるという。また、鎌倉幕府が義経をさがすために出した「手配書」には、「そっ歯で顔色は青白い」と書いてあったという。

◆実朝が建造を命じた船はどうなった?

源実朝(みなもとのさねとも1192〜1219)は、1216年に陳和卿(ちんわけい)という宋人に会う。東大寺の再建に際し、大仏の首の修復にあたった人物であった。この人物は「実朝は、前世で宋の医王山の長老であった」と語ってとり入り、彼を信頼した実朝は、そのすすめにしたがって宋に渡る船の建造を命じた。その結果として正しいものはどれか。

ア)船は完成し、実朝は宋に渡る準備を開始したが、北条氏の反対にあって、実現しなかった。

イ)実朝の命令は、北条氏によって阻止され、船の建造は着手さえされなかった。

ウ)唐船は完成したが、人夫数百人で引いても海に浮かべることができず、海岸で朽ち果てることとなった。

正解は2つ飛んだ下にあります。

◆源頼朝の最後は?

正解:ア)

《入試練習問題》  正解: 守護、地頭

鎌倉幕府の正史とも言える『吾妻鏡』によれば、落馬がもとで死んだとある

◆源実朝の歌はどれか?

源実朝は、鎌倉幕府第3代将軍で、源頼朝の次男である。1203年将軍となったが、政治の実権は北条氏に渡っていた。実朝は政治に意欲なく官位の昇進のみを望んだ。右大臣まで進んだが、鶴岡八幡宮で甥の公暁(くぎょう)に暗殺された。

歌人としても著名で、万葉調の和歌を得意とし、家集『金槐和歌集』がある。次のうち、実朝の歌でないものはどれか

ア)見渡せば花ももみぢもなかりけり浦のとまやの秋の夕暮

イ)大海の磯もとどろに寄する浪われて砕けてさけて散るかも

ウ)時により過ぐれば民の嘆きなり八大竜王雨やめさせたまへ

正解はひとつ飛んだ下にあります。




◆実朝が建造を命じた船はどうなった?

正解:ウ)


◆源実朝の歌は?

正解:ア)

ア)は藤原定家(ふじわらのさだいえ、1162〜1241)の歌。鎌倉初期の歌人

 

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