日本史:鎌倉時代・2

◆実朝が建造を命じた船はどうなった?

源実朝(みなもとのさねとも1192〜1219)は、1216年に陳和卿(ちんわけい)という宋人に会う。東大寺の再建に際し、大仏の首の修復にあたった人物であった。この人物は「実朝は、前世で宋の医王山の長老であった」と語ってとり入り、彼を信頼した実朝は、そのすすめにしたがって宋に渡る船の建造を命じた。その結果として正しいものはどれか。

ア)船は完成し、実朝は宋に渡る準備を開始したが、北条氏の反対にあって、実現しなかった。

イ)実朝の命令は、北条氏によって阻止され、船の建造は着手さえされなかった。

ウ)唐船は完成したが、人夫数百人で引いても海に浮かべることができず、海岸で朽ち果てることとなった。

正解は一つ飛んだ下にあります。

◆騎射三物のうち現代でも行われているのはどれか

犬追物(いぬおうもの)・笠懸(かさがけ)・流鏑馬(やぶさめ)は、中世の武士が行った武芸修練の方法で、騎射三物(きしゃみつもの)とよばれた。では、このうち現代でも全国各地で盛んに行われているのはどれか。

ア)犬追物   イ)笠懸   ウ)流鏑馬  

《入試練習問題》
鎌倉時代の武士は、犬追物・[    ]・笠懸(かさがけ)・流鏑馬の騎射三物や巻狩などの武芸の鍛錬にはげんだ。

正解は二つ飛んだ下にあります。



◆実朝が建造を命じた船はどうなった?

正解:ウ)


◆犬追物の犬の扱いは?

犬追物(いぬおうもの)は、笠懸(かさがけ)・流鏑馬(やぶさめ)と並んで、中世の武士が行った武芸修練である騎射三物(きしゃみつもの)とひとつである。馬上から犬を標的として弓を射て、その技能を競った。馬場の中央に縄で円形の囲いをつくり,その中に犬を放ち,3手に分かれた射手が外周からこれを射た。では、そのとき犬たちはどう扱われたのか。

ア)野良犬をかき集め、それらの処分もかねて、実際に矢で殺した。

イ)犬を殺傷しないようにやじりは取り除かれていた。

エ)練習用の竹のやじりを使ったが、傷つく犬もおり、その場合は丁寧に治療した。

正解は二つ飛んだ下にあります。

◆騎射三物のうち現代でも行われているのはどれか

正解:ウ)   《入試練習問題》正解:流鏑馬

流鏑馬(やぶさめ)は、疾走中の馬上から鏑矢(かぶらや)を射て3つの的に命中させる武士の弓技。平安時代に始まり,鎌倉時代武士の間で盛んになったが、室町時代以降衰退した。今日では年占の行事として鎌倉鶴岡八幡宮などで行なわれる。

◆元寇で蒙古軍はどのような戦法をとったか

元寇(げんこう)は、13世紀後半に二度にわたって蒙古(元)軍が日本を来襲した事件。文永11年(1274)10月壱岐・対馬を占領した元・高麗軍は博多付近に上陸したが、暴風によって敗退(文永の役)。幕府は異国警固番役を強化し,守りを固めた。弘安4年(1281)5〜7月再び来襲した十数万の元軍には容易に上陸を許さず,大風雨の助けもあってほとんど全滅させた(弘安の役)。影響は大きく鎌倉幕府の衰亡を早めた。 では、日本軍を悩ませた、蒙古軍の戦法として間違っているのはどれか。

ア)集団戦法     イ)火薬をつかった火器攻撃     

ウ)小舟を操った奇襲作戦     エ)毒矢を使った戦法

《入試練習問題》
幕府は,モンゴル軍の再度の襲来に備えて,[    ]を強化し,博多湾沿岸に[    ]=石築地(いしついじ)を築くよう九州各地の御家人に命令した。

正解は二つ飛んだ下にあります。

◆犬追物の犬の扱いは?

正解:イ)

犬を殺傷しないよう鏃(やじり)をのぞき鏑(かぶら)を大きくした蟇目(ひきめ)の矢で馬上から射った。

◆鎌倉時代の農民の住居は?

鎌倉時代の農村の一般的な住居はどのようなものであったか。

ア)一般に農村では、縄文・弥生時代とほとんど変らない形の竪穴住居に住んでいた。

イ)竪穴住居だったが、縄文時代よりも柱の数は多く、床も円形から正方形に近い形に変化した。

ウ)規模はまだ小さかったが、江戸時代と同じような藁葺き、土壁の住居が作られるようになった。

正解は二つ飛んだ下にあります。

◆元寇で蒙古軍はどのような戦法をとったか

正解:ウ)     《入試練習問題》 正解:異国警固番役 石塁

小舟を操った奇襲作戦は、日本軍の戦法であった。

◆後醍醐天皇と醍醐天皇の共通点は?

後醍醐天(ごだいごてんのう1288〜1339)は、鎌倉時代の1318年に即位した。院政を廃して天皇親政を行ない,正中の変,元弘の変を経て鎌倉幕府を滅ぼし建武の新政を行なった。しかし新政に失敗,足利尊氏にそむかれ吉野に移って南朝を樹立したが、退勢を挽回できず、悲運のうちに没した。

後醍醐天皇の名は、平安初期の897年から930年まで在位した醍醐天皇にちなんでいる。醍醐天皇の時期は「延喜の治」と呼ばれ、政治に落ち着きが取り戻された時期であった。 さて、平安時代の醍醐天皇と 鎌倉時代の後醍醐天皇の共通点として正しくないのはどれか。  

ア)醍醐天皇は、藤原氏の摂政・関白をおかず、天皇親政を行い、後醍醐天皇も、院政を認めず、天皇親政を行った。

イ)醍醐天皇は39人、後醍醐天皇は36人と、天皇の中ではとびぬけて子だくさんだった。

ウ)醍醐も後醍醐も、ともに生前に自分でつけた天皇名だった。

《入試練習問題》
後醍醐天皇は、院政を廃して天皇親政を行ない,正中の変,[    ]の変を経て鎌倉幕府を滅ぼし[    ]の新政を行なった。

正解は二つ飛んだ下にあります。



◆鎌倉時代の農民の住居は?

正解:イ)


◆北条時高は、なぜ犬公方と言われたのか

北条高時(たかとき1303〜1333)は、鎌倉幕府第14代執権(1316年)。幼少のため秋田時顕や執事長崎高資らが実権を握って政治は乱れ,民心を失った。26年入道して執権を退く。33年新田義貞の鎌倉攻めで一族とともに東勝寺で自殺(→元弘の変)。 さて、北条高時は、江戸時代の将軍徳川綱吉と並んで「犬公方」というニックネームを持つが、なぜか。

ア)犬をはじめとするあらゆる生き物を愛し、憐れみ大切にすることを命じたから。

イ)闘犬を愛し、年中闘犬をやって楽しんでいたから。

ウ)犬肉を好んで食べ、犬肉を使った料理が大好きだったから。

《入試練習問題》
元弘の変(1333年)では、新田義貞が、鎌倉を攻めて北条[    ]以下を滅ぼし、鎌倉幕府は滅亡した。

正解は二つ飛んだ下にあります。

◆後醍醐天皇と醍醐天皇の共通点は?

正解:ウ)   《入試練習問題》  正解:元弘、建武

通常、天皇の名は、生前に何をしたかによって、没後に付けられる。死んでから付けられるので、天皇の名を「オクリ名」という。ところが後醍醐天皇は、自分で生きている間に後醍醐と付けた。しかも、その後醍醐の意味は、平安初期の897年から930年まで在位した醍醐天皇にあこがれてであった。

◆高師直の代筆ラブレター

高師直(こうのもろなお、?〜1351)は、南北朝時代の武将。元弘の乱以来足利尊氏に従って室町幕府創立に寄与,その執事として活躍し,足利直義と対立した。やがて1351年、直義党に敗れ,帰順して帰京の途中、殺された。 この高師直が権勢ををふるっていたころ、ある人妻に熱をあげて、その思いをつづろうと思ったが、うまく書けない。そこで『徒然草』で有名な吉田兼好に、ラブレターの代筆を頼んだという。その結果はどうであったか。

ア)説教の好きな僧・吉田兼好は、人妻にラブレターを書くなどもっての他と断り、逆に諄々と説教をした。

イ)粋な吉田兼好は、気軽に代筆を引き受け、その名文によって高師直は、見事に相手の女性の心をつかんだ。

ウ)代筆は引き受けたが、貞淑な人妻は、まったく心を動かさず、高師直はふられた。吉田兼好も代筆業に自信をなくし、その後、土地の斡旋業を始めた。

正解は一つ飛んだ下にあります。



◆北条時高は、なぜ犬公方と言われたのか

正解:イ)    《入試練習問題》  正解:高時


◆高師直の代筆ラブレター

正解:ウ)

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