たかが野球、されど野球

             上野敏明

「たかが野球、されど野球」。池田高校野球部蔦監督が残した有名なこの言葉をつくづく噛みしめる今日この頃である。

先日新聞の書籍紹介コーナーで、「The Meaning of Ichiro(日本語訳「イチロー革命」)という本が紹介されていた。作者は1977年に「菊とバット」を書いたロバート・ホワイティング氏である。同書によれば、「日本は、高度な訓練を積んだ『顔のない組織人間』たちが、堅苦しい歩き方で行進する国、と思われていた。ずば抜けたスターやタレントを輩出できない国」と見られていたそうである。そこに、イチローという「生身のスターが現われた」とのことである。はたと考えた。日本人にはイチロー以外でも、ビジネス、学問、科学技術などの世界で認知され、尊敬された個人はいたはずだし、今現在も活躍しているはずである。にもかかわらず、なぜイチローが「生身のスター」と呼ばれるのか。思うに、スポーツ、それもアメリカの裾野の広い大衆から人気のある野球という、ルールが明確で、成果が一目瞭然である土俵で力を発揮したからこそであろう。攻・守・走の3拍子がそろったイチローのプレーを観衆は目の前で見、野球の原点をその自分たちに思い出させたと賞賛し、感動したからこそ、シアトル、西海岸、はたまた全米の野球ファンをとりこにしたのであろう。
 野球という明快なルールで成り立つ開放的なスポーツが、そのルールのもとでプレーする選手を一躍全米のスターにのし上げ、日本人の「顔」を認知させた次第である。

マリナーズ対エンゼルス戦を当時私が勤務していたカリフォルニア州オレンジカウンティのエジソンインターナショナルフィールド(現エンゼルススタジアムオブアナハイム)で見たことがある。イチローは1回に2度打席に立ち、2回共安打の快挙を披露してくれた。私はエンゼルス側で観戦していたのだが、2打席目のヒットを打った瞬間、ビールの効きも後押ししてか、思わず立ち上がり両手を上げて「やった一!」と叫んでいた。周囲は勿論地元のエンゼルスファン。ブーイングの嵐の返礼を受け我に返り、周囲の顔を見回したが、彼らはブーイングしながらも、眼は、イチローに対する驚きと賞賛を讃えていた。後から考えれば冷や汗ものだが、ふと妻の昔話を思い出した。博多生まれ博多育ちの妻は大の西鉄ファンだった。神様、仏様、稲尾様、の時代である。野球そのものには大した縁のなかった妻が平和台球場で行われた巨人対西鉄の日本シリーズ観戦中、三原軍団の強打者の誰かがクリーンヒットを打った瞬間、思わず立ち上がり歓喜の声を上げてしまったそうだ。あいにくその席は巨人側のスタンドで周りは全員巨人ファンで埋まっている真っ只中であったそうで、その時の周囲からの罵声、怒号は心臓が止まるかと思うほどだったとかで、その後は試合終了後まで静かにし、終了後は急いでその場を立ち去ったらしい。野球の熱狂的ファンは日米共通である。

小倉が、町をあげて小倉中学・小倉高校野球部の活躍に酔いしれた時代がある。終戦の翌年に再開された夏の甲子園大会への出場権を旧制小倉中学野球部が勝ち取り、その後昭和26年まで連続して6回夏の大会に、そして昭和22年、23年、24年と3回春の大会に連続出場を果たした頃である。古希を過ぎた今日まで長い間私の心の故郷に眠っていたものの一部を思いだすまま、記憶のみに頼り話してみましょう(以下敬称略)

尾崎(昭和21年の主将)、左翼手の中村、そして二塁手の中村、名遊撃手小曽根、畑間投手、三塁手宮崎(昭和22年の主将。甲子園球場、神宮球場、そして後楽園球場でそれぞれ優勝された)、好守甲原一塁手、戦後最強と言われ、全国レベルで有名な投手福嶋(甲子園球場、神宮球場、そして後楽園球場でそれぞれ優勝された)と名捕手原(昭和23年の主将、プロ野球でも活躍された)のゴールデンバッテリー、無敵の外野三羽ガラスこと左翼河野、中堅野々村、右翼井生この3選手の守備力は当時小倉の外野には網が張ってあると言われるほどの守備力で、どこへ打っても捕球されると言われていた)、また鉄壁の重戦車内野陣、三塁福田、遊撃手松尾(昭和24年の主将)、二塁西上、一塁は、強打の香野、昭和24年には学制改革により小倉商業との合併で参加された吉村外野手、山口捕手、塚田外野手ら。これら百花繚乱と輩出された選手たちは、22年春の選抜大会で準優勝、夏の甲子園で初めて深紅の優勝旗に関門海峡をくぐらせ、翌23年夏の大会で輝く2連覇を勝ち取るという、偉業を達成した。小倉は町を上げての大応援。これら選手の活躍は、小倉の町から戦後の陰鬱さを一気に吹き飛ばし、若さと栄光、誇りを取り戻させたと言っても過言ではあるまい。

その頃、私がどうしていたかということに話を転じよう。私は旧制小倉中学に終戦の翌年(昭和21)に入学した、中学の39期である。野球との出会いは、中学入学早々であった。出来るだけ運動部に入部して体力向上に励むようにとの学校からの指導があり、偶然にも野球部に入部した。特に何の理由もなかったように記憶している。こうして野球部1年生としての道を歩き始めたのであるが、折しも先輩達は戦後再開された夏の甲子園大会出場の権利を勝ち取り、甲子園に向かった年である。我々は喜々として最下級生部員としての役割をこなした。

2年生になった昭和22年は、学制改革移行措置として、新入生の入学はなし、必然的に野球部にも新入部員はいなかった。よって、我々は引き続き最下級生部員としての役割を果たすことになった。しかし、甲子園出場校部員としての誇りが、我々にそれを苦と感じさせなかった。その年先輩達は春と夏、甲子園に行き、春の大会で準優勝、夏は優勝旗を持って帰ってきた。

併置中学と称された3年生のとき(昭和23)も引き続き新入生、新入部員なし。最下級生部員の役割はすっかり板についていた。この年も先輩達は春と夏、甲子園に行き、夏の大会で優勝。深紅の優勝旗は小倉に戻ってきた。

昭和24年、晴れて新制高校1年となった。当然下級生なし。4年目の最下級生部員生活である。またその年も先輩達は春と夏、甲子園へ出場の快挙を遂げた。

高校2年となった昭和25年、ようやく新入部員が入ってきた。華の高2期卒業の後、3年生となった高3期は山下、重台投手、塚田内野手を中心に編成された。聡明な新主将山下は、また大変な熱血漢でもあり、春の選抜の出場権を八幡高校に譲った悔しさを挽回するぞと率先垂範の猛練習を敢行。折りしも名将加藤喜作を迎え、その指導のもと、ついに5年連続の夏の甲子園大会出場を勝ち取ったのである。

そしてついに昭和26年、我々高4期が高校3年生になった。高4期にはめぼしい選手がいなかったが、加藤喜作監督のもと、我々は野球に没頭する生活を満喫していた。この年に若い長野賢一先生が野球部長に就任され、そのカリスマ性が我々高4期に多大な影響を与えた。我々の学年の語り草になっている話を披露しよう。山下主将時代の昭和25年の夏の大会の福岡県2次予選の準決勝で戦った、当時県下最強と言われていた八幡高校との試合。倉高1点リードで迎えた9回の表、走者なし。八幡高校の打者松永がライト線ヘヒット。岸野がそれを豊楽園球場の砂地のグラウンドに足を取られ処理し損ね、球はライトのフェンスに向かった。しかし、捕手であった私は不思議と驚きも焦りも感じなかった。なぜなら、加藤監督の下、毎日の練習の後、必ず、右翼岸野、二塁畑間、一塁佐藤、捕手の私が残され、打球が岸野の上を越した時の練習を行っていたのである。岸野は「ゴールデンアーム()にガラスのひじ」と言われていたほど、攻・守・走に定評のある選手であったが、痛めたひじでの投球には苦しんでいたためである。二塁手が岸野のすぐそばまで寄り、一塁手が二塁のポジションでカットに入り、捕手まで返球する。毎日毎日積み重ねたその練習は、何百回を超えていた。その練習どおりの動きが、晴れの舞台で、まるでスローモーションを見るかのように正確に、淡々と私の目の前で行われていたのである。松永選手は、この練習の成果を我々に発揮させる場面をつくり、その意図もしない罠にはまったかのようであった。バッターは一塁、二塁、三塁と廻り、本塁まで突進してきた。球は私のミットの中。本塁上では完全にアウトのタイミング。悲痛な松永の顔が忘れられない。その試合が、5年、6年連続夏の大会出場につながる大きな山を超えた試合であった。起こり得べき、また欠点を補う練習を毎日毎日繰り返し行うことの大切さを身をもって経験した。この経験が後の私の人生の教訓となったのは間違いない。たかが野球、されど野球の真髄を見るような体験であった。   

先に述べたとおり、我々高4期にはめぼしい選手はいなかった。優秀な新入部員、池田、山本、浦野、湊などの長足の伸びに助けられた面も多かった。1年には石田、加藤、有町ら、後の名選手も入部し、既に頭角を現し始めていた。しかし、我々高4期も、岸野、佐藤、西村、福村、福西、岡崎、増田、江崎ら、4年間最下級生部員として日々球拾い、水汲み等々補欠の役割を果たしながらも、黄金時代の選手の活躍を目の当たりにし、門前の小僧として先輩たちの技術、精神面の伝統を引き継いでいたのであろう。伝統のたすきを次につなげることができた。

考えてみると、野球部員としては昭和21年から夏の大会は6年運続、春の3大会を含めると9回甲子園に出場したこととなる。中学、高校の多感な6年間の青春を愛宕の丘で野球に全力を傾けたことを私は誇りに思う。忘れてならないことは、その間学校関係者、先生方は勿論のこと、卒業生先輩、全校友、そして中村繁夫氏を中心とした後援会の皆様には大変なご援助をいただいたこと、また特に歴代の監督である長尾、鬼塚、有田、加藤、野球部の先輩諸氏の指導に対し、衷心より感謝の念を表したい。

 あたご(小倉高校野球部OB会「愛宕クラブ」会報誌)Vol.9より転載