幕末乙女伝

幕末という時代に生きた男達の影となり、
励みとなり生きてきた女性達。
彼女たちの生き様を取り上げて見ました。

 


●木戸松子(芸者・幾松)
天保14年〜明治19年
新選組の執用なる尋問にも耐えた女の意地

木咲市兵衛の娘。一家離散で町芸者となり、幾松と名乗った。蛤御門の戦い以後、
情報収集のために京都に残った桂小五郎を匿い、手足となって働く。新選組の取
り調べにも顔色一つ変えずに応じて、近藤勇を感嘆させた。維新後、桂の妻となり
木戸松子となる。夫の死後は剃髪して、京都で暮らした。


●おうの(芸者名:小糸)
天保14年〜明治42年
尼となり高杉晋作の墓を42年間守り続けて・・・

生家は呉服商だったが没落し「こ糸」という名で遊女となった。高杉晋作と出逢
って愛人となり、下関で共にく暮らした。晋作が三味線を弾いて「三千世界の鴉を
殺し、主と朝寝がしてみたい」などと詠った都々逸はおうのの影響であるところが
大きい。晋作が労咳の末没した時、おうのは24歳。その後晋作の遺言通り剃髪
して梅処尼と称し、晋作の墓を守りながら東行庵で余生を送った。晋作にとって
高杉家の嫁である雅子に対し、純粋な恋愛対象がおうのであったと言える。

●高杉 雅子
弘化2年〜大正11年
夫・晋作の最期を看取った妻・雅子

長州藩士・井上平右衛門の次女。万延元年、高杉晋作に嫁ぎ4年後に長男を出生。
国事に奔走する晋作と共に、暮らしたのは7年の結婚生活の内、合計してもわ
ずか1年半。晋作がようやく一カ所に落ち着いたのは皮肉にも病で動けなくなっ
た時である。雅子は最期を看取り、その後、養父・養母を看取って息子もを送り、
77歳の生涯を閉じる。

●近藤 ツネ
天保8年〜明治25年
新選組局長・近藤勇の妻・ツネ

御三卿清水家家臣松井八十五郎の長女に生まれ、万延元年に近藤勇に嫁ぎ、2年後
に長女たまこを出産。翌文久3年、近藤は上洛し新選組局長となった。その後、ツ
ネの元に届くのは近藤の雷名と艶聞ばかりだったが、ツネは近藤の養父・周斎を看
て家を守った。近藤の処刑後はその実家に身を寄せたが、娘は6年早く先立ち、
明治25年忍耐と孤独の55年の生涯を終えた。

●原田 まさ
嘉永元年〜昭和5年5月
新選組副長助勤十番隊組長原田左之助の妻

町人・菅原長兵衛の次女として産まれるが、父親はまさが母親の体内にいる時に死去
している。左之助と祝言を挙げたのは屯所が西本願寺に移った頃と生前語っている。
長男、茂を産んだときには左之助もたいそう喜んで「こいつを立派な武士にしたて
よう!」と意気込んでいたと言う。しかし、三人での生活は新撰組隊士である
夫の立場上時代の流れに於いて2年で終わり、その後は次男を出産するも夫の行方も
安否もしれぬまま暮らすが次男が早世し夫の戦死報告を受け21歳で未亡人となった。
その後は茂をつれ元大坂相撲の力士「関の浦」のもとに嫁ぎ支えとなりながら昭和5年
83歳の生涯を閉じた。

●伊藤 梅子
嘉永元年〜大正13年
日本初のファーストレディ

下関稲荷町の置家「いろは」の養女芸者で、伊藤俊輔(博文)と出逢い、後の妻と
なる。伊藤は『酔うては枕す美人の膝、醒めては握る堂々天下の権』という自作
の詩そのものの人生で好色の総理大臣だったか、梅子は良妻賢母と言われた。
伊藤が横死した時も家の者をよくまとめ、「国のため光をそへてゆきましし、君
とし思へどかなしかりけり」と詠んだ。

●坂本 りょう
天保12年〜明治39年
龍馬の危機を全裸で知らせた気丈な女性

安政の大獄で獄死した勤皇医師樽崎将作の娘。京都で坂本龍馬と出会う。幕使が
寺田屋を急襲した際、風呂場から飛び出して2階の龍馬に知らせた話は有名で
ある。龍馬の死後、土佐の坂本家に赴いたが、義姉・乙女に馴染めず土佐を去
る。東京に出て明治18年頃行商人の西村伊兵衛と結婚をしたが、酔っては坂
本龍馬の妻である事を主張し続けたという。

●西郷 いと
天保14年〜大正11年
島妻・愛加那の子を引き取って育てた妻

薩摩藩小番岩山八郎の次女。慶応元年、西郷隆盛に嫁ぐ。西郷家は大家族で嫁とし
ての苦労は察してあまりあるが、いとは骨身を惜しまず働いた。維新後、西郷
が参議になっても薩摩に留まり、養蚕を行い半農の生活を送る。また、西郷の
島妻・愛加那の産んだ2人の子供を引き取って、我が子と分け隔てなく慈しみ
育てた。西郷の死後も大家族の西郷家を守り通した。

●愛加那(あいかな)
〜明治35年
西郷の島妻(二人目の妻)

安政6年に西郷は命令にて「菊池源吾」と変名し奄美大島に潜伏した。そこで世話に
当たった愛加那と島妻として娶られる。彼女が23歳、西郷は33歳の時である。
その後、菊次郎と菊子の二児を産むが、西郷が藩に戻った後は、子供達だけ夫の元
に送り、自分は島に残った。西郷はその後にいとと結婚をし、3人の子をもうける。

●楠本いね
文政11年〜明治36年
愛する大村益次郎を看取った女性初の西洋医師

シーボルトと遊女の間に生まれ、日本人離れした外見と強い意志は、幼き頃に育った
環境からかオランダ語を見に付け医学を志す様になる。しかし25歳の頃、師の石井
宗謙に犯され女児を出産する。辛い出来事の中でも意志は貫き通し、2年後に大村
益次郎(当時、村田六蔵)と出会う。先に大村は自分の役目を果たす為いねの元を
離れるが、すぐに追う事もなく自分のやるべき事を果たしてから、大村の後を追っ
て上京。だが、新政府の元で思想に向け邁進した大村は、京都で襲われて重傷。いね
の献身的な看護の甲斐なく息を引き取った。いねその時43歳。その後は明治天皇家
の産科医も勤め、女性初の西洋医師として大成した。

●中尾 君尾(祇園の君尾)
弘化元年〜大正7年
女の魂が井上聞多の命を救った

17歳で祇園島村屋の芸妓となり勤皇芸者と呼ばれた。佐幕派の島田左近にも見
染められた。長州の井上聞多と恋仲になり女の魂だと鏡を井上に渡す。この鏡が
後に俗論党の襲撃を受けた井上の命を救ったため、井上は維新後も君尾に頭が上
がらなかった。品川弥二郎とも情を通じ一子をもうけている。「とんやれ節」
は品川の作詞、君尾の作曲とも伝わる。

●井上武子
権高な伯爵夫人の顔だちに、一点下品の気がある

..と芥川龍之介は表したが写真を見る限りけっして下品ではない。新田義貞を
先祖に持つ名家の生まれで、江戸深川の育ちともいわれている。外国判事中
井弘と結婚したが、明治2年に離婚をして井上馨(聞多)と再婚をした。井上
が強引に奪ったという噂もある。その後は養女の末子とともに夫の欧州視察に
同行し、ダンスやミシンなどをマスターして帰国した。

●福沢錦
***

文久元年の冬に17歳で福沢諭吉の元に嫁いだ。(詳細工事中)

●大久保満寿(ます)
薩摩女の内助の功

薩摩藩士早崎七郎右衛門の二女として生まれた。安政4年鹿児島県鍛冶屋町の大
久保家に嫁ぐ。その後五男一女の母となり、子と舅らの面倒を一身に看た。明治7年
夫の利通は満寿を霞ヶ関に呼び寄せ、欧風な生活を謳歌したが、その一方で高輪
におゆうという妾を住まわせていた。明治11年に利通が暗殺されると、後を
追う様に病死をする。現在墓は青山墓地に夫、利通と友に並んで眠っている。

●陸奥亮子
弘化元年〜年
涼しい目と素晴らしい眉と言わしめた美人

明治11年、反政不運動に加担した疑いで禁固五年の刑に処せられた陸奥宗光は
獄中から妻の亮子に何通もの書簡を送っている。この亮子は宗光の後妻。以前は
花柳会に身をおきながら男嫌いの評判をあえて持ち、身持ち堅かったという。
そんな亮子に恋心を抱き結婚した後も大切に想っていた。夫を獄中に送った後、
彼の友人津田家に身を寄せて子育てをしながら、津田夫妻と夫の姑に仕え大変
な苦労をした。明治15年には特赦放免された宗光は翌年から欧米の国々を外遊
したが、亮子に宛てた 書簡は50通を超える。しかし宗光は獄中では洗濯女を
おき、死後遺児も残している。

●榎本多津
年〜年
知性派の美人。武揚 がホレた女性

幕臣林洞海の娘で、オランダ留学から帰国した武揚に強く望まれて結婚をした。
知性派美人でふくやかで高貴女性として誰もが息を飲んだ。幕臣で蝦夷共和国総裁。
そしてその後に投獄。新政府への激しい夫の境遇にも耐えて、家庭を守っ
た。彼女自信勉強家で、漢詩人として『近世女流文人伝』に名を上げられている。

●江良 加代(祇園のお加代)
生没年不詳
生涯二度と逢えぬかも知れぬ美女

「この芸妓のような美女とは生涯二度と逢えぬだろう」と当時の歌舞伎役者に言
わしめた程の美人で、西園寺公望の愛妾だった事もある。木戸孝充(桂小五郎)
が明治になって最後に惚れたのが加代で、さんざん貢ぎ、祇園の練物の衣装代
3000円を出してやると約束したが、約束を果たせず病死。衣装代は、伊藤
博文が支払った。しかし、加代は伊藤を振ってのちの豪商三井源右衛門に落籍さ
れた。

●おまけ(足立タカ)
弘化元年〜年
岡本健三郎と土佐の若者のアイドル的存在タカ

岡本は龍馬のSP的存在。当時岡本は四条河原町にあった亀田屋の離れに下宿し
ていた。京都土佐藩邸から近いせいもあったが、実際は『亀田屋の前を振り返らず
に通る者はいない』と言われるほど周囲の評判が良かった「タカ」がいたから
かもしれない。岡本はよほど気を惹きたかったのか櫛やかんざしなどをマメに
贈っていたと言う。カップル成立とは行かなかった二人だが、岡本が明治18年
44歳で死去するまで、タカは操を守ったという。その後タカは結婚をし
ひっそりと余生を送った。


今後、人物だけでなく幕末に関する資料を展示していきたいと考えております。
その際に、写真・資料等の協力等頂ければ大変に助かります。
姉上自身もコレまでに収集した資料を基に益々の発展に心掛けて行きたいと思います。
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