**清水一家二十八人衆**
清水一家の二十八人衆。皆個性派ぞろいで喧嘩早いが
情には厚い男たちだった。あなたは何人を知っていますか?

森の石松・増川仙右エ門・大瀬の半五郎・法印の大五郎
追分の三五郎・桶屋の吉五郎・大野の鶴吉・問屋場の大熊・
お相撲の常・三保の松五郎・伊達の五郎・小松村の七五郎・
関東の丑五郎・田中の敬次郎・辻の勝五郎・四日市の敬太郎
・舞阪の富五郎・寺津の勘三郎・國定の金五郎・吉良の勘蔵
・伊勢の鳥羽熊・ 清水の岡吉・興津の盛之助・小川の勝五郎
・由比の松五郎・吉良の仁吉・大政・小政......以上二十八名



*次郎長一家(前列中央が清水次郎長)*



●まずは次郎長親分を知っていただきたい
文政3(1820)〜明治26(1893)年。享年73歳。本名・山本長五郎。
実父は雲不見くもみず三右衛門と称した駿河国・清水湊の船持船頭。叔父の山本次郎八(米問屋)の養子となった。
天保10年。すれ違い様旅の僧に人相を見られ「命数25歳を出ず」と言われたのをきっかけに「それでは太く
短い人生を」心に決めて仁侠人となったといわれる。子供の頃の長五郎は評判の悪ガキで、近所の子ども達から
「次郎八の所の長五郎」として恐れられ、いつしか次郎長と呼ばれるようになった。
周囲に乱暴者で恐れられた長五郎だが、16歳の時に亡くなった次郎八の後を継いで18歳の時には妻を迎え、家業の
米屋を切り盛りしていった。天保13年23歳になった長五郎は、博打の諍いが元の喧嘩で無宿人となる決心をし、家業
を姉夫婦に任せて妻とも離縁し、遊び仲間の江尻の大熊、庵原の広吉と一緒に清水港を後にして上方へ旅に出た。
三河の寺津で今天狗と異名をとる治助の元で世話になりながら、元武士であった吉良の武一に剣術を学びながら、博
打の修業も積んでいた。弘化2年清水港に戻った長五郎は庵原川で和田島の太左衛門と津向の文吉との喧嘩を単身仲
裁したことで一役買い「清水の次郎長」の名を広めていった。そして弘化4年。
江尻の大熊の妹(おてふ)と再婚し、小さいながらも一家を構えました。



*妻と仲間の死
おてふと結婚する少し前に次郎長は尾張で相撲取りで侠客の八尾ケ嶽の宗七一行の窮状に出会い、相撲好きだった
次郎長は救いの手を差し伸べた。その八尾ケ嶽の宗七は嘉永3年には子分の相撲取り十数人をつれて次郎長を頼っ
て来ており、久六と名を改めた後、安政2年に次郎長に喧嘩の助っ人を依頼したりもた。
この久六からの依頼で子分達を連れて名古屋に出かけた次郎長一行は帰路関係の無い事件に巻き込まれて安政5年
正月にやっと清水に帰る。だがしかし清水に戻ったのも束の間、以前の喧嘩が元で再び旅に出ることになる。
その喧嘩に江尻の大熊も関与していたことから、念を入れ大熊の妹である妻のおてふも一緒に連れての旅となった。
尾張で瀬戸の岡一の元に身を寄せた次郎長一行だったが、旅先でおてふが病にかかって次郎長らは薬代の工面に走
り回った。その後名古屋の長兵衛の好意で名古屋に移ったがその看病の甲斐なく、おてふは大晦日に帰らぬ人とな
った。




*森の石松の死
万延元年4月に次郎長は仇討ちの大願成就がなったお礼に、金毘羅神社に久六を斬った刀一振りを奉納する事する。
この奉納のために讃岐に向かったのが遠州森の石松。無事代参を済ませた石松は清水に戻る途中、近江で身受山の
鎌太郎の所で亡くなったおてふの香典として大金を預かるのですが、遠州まで来た所で中郡の吉兵衛兄弟(都鳥三
兄弟)に大切な香典をだまし取られた揚げ句、殺害さる。 吉兵衛は江尻の大熊の弟分で次郎長の家でも世話にな
ったこともありましたが、石松を殺された次郎長と子分達から狙われる身になり伊豆の金平に助っ人を頼み逆に次
郎長一家を打ちのめそうと画策をたてる。 翌年の暮れ、フグの毒にあたって次郎長一家が倒れたことを聞いて、
清水に襲撃にやってくるがフグの毒の影響がすっかり癒えていた次郎長たちは吉兵衛らを追分の宿で返り討ちにし
た。なんとも森の石松はあまり知られていないがなんとも皮肉な死に方をした。次郎長も心底悔しかった事だろう。




*黒駒の勝三との抗争
次郎長と同時期に甲州で名前を上げていた侠客に黒駒の勝三がいる。そして次郎長と黒駒の勝三とは様々な場所で
対立を続ける。この博奕場は笠砥山と呼ばれ伊勢の長吉の親分であった追分の勇蔵の縄張りだったが、勇蔵の子分
だった安濃徳との間で勇蔵亡き後その権利について争われていました。 しかし,長吉の助っ人として吉良の仁吉と
次郎長の右腕として知られた大政がつき、安濃徳の助っ人に黒駒の勝三がつきこの抗争は鉄砲や鎖帷子などまでが
持ちだされる大抗争となった。
清水一家はこの抗争で吉良の仁吉、法印の大五郎らを失った。その後黒駒の勝三一家と次郎長一家との抗争は直接、
間接と続いていくがそうした関係に時代の流れによって一つの決着がいた。




*次郎長の変化
慶応4年・明治元年年に次郎長は駿府町差配役の伏谷如水から呼び出しを受け街道警固を命じらる。次郎長の過去
の罪科はすべて免赦され帯刀も許されることになった。一方黒駒の勝三は、京都に渡り名を改めて公家の用心棒を
務めたが、明治4年に甲府で処刑された。明治2年には、留守中に後妻として娶った二代目おてふ(その後娶った
妻にもおてふを名乗らせていました)を凶賊に殺害されるという悲惨な事件なども起きたが咸臨丸事件や山岡鉄舟
との出会いにより次第に侠客の親分から篤志家として生まれ変わっていった。 後に富士山の開墾事業や、波止場
の建設に力を注いだ次郎長は、明治26年6月12日に、自身が開業した船宿「末広」の一室で三代目おてふに見取
られて静かに息を引き取りました。それは25才の寿命を遥かに越える大往生で、葬式には彼を慕って大人数が各
所から集まり、それは圧倒的なものだったという。
また、おてふの後に2人の妻を『おてふ』と名乗らせている事から心のそこにいつまでも最初の妻「おてふ」が彼
の中にいた事が分かるような気がする。




*壮士の墓*
 明治元年、幕艦「咸臨丸」は襲撃され海に漂っている死体を次郎長が手厚く葬ったという。これに山岡鉄舟が墓碑銘をつけて「壮士の墓」となった。しかし、実際に葬られているのが何処の誰なのか確たることを知っているのは、当の次郎長とその周辺の人たちだけという説もある。

交通機関:JR清水駅からバス三保方面行き「港橋」下車徒歩約3分




*船宿「末廣」*
次郎長が晩年に経営した船宿。日本初の英語塾も開かれた場所でもある。次郎長といえば“侠客”として有名だが、晩年は開墾や前述の船宿、英語塾など世のために働いたとのことはあまり知られていない。この「末廣」は平成11年に民家に利用されていたものが発見され、住んでいた方が新居を建築するとのことをうけて市が買い取り当時の様子を復活させた。現在は観光案内所となっている。

交通機関:JR清水駅からバス三保方面行き「港橋」下車




*梅蔭寺*
 次郎長の菩提寺。観光バスツアーのコースにも入っています。年間多数の人々が訪れている。次郎長のお墓は一般のお墓とは別区画にあって入場料が必要になります。墓の側には次郎長の石像もある。(実は2代目らしい。)初代は「博打にご利益がある」という噂がたって削って持っていく人が多く原型を留めなくなってしまったとのことです。 交通機関:JR清水駅からバス山原梅蔭寺線「梅蔭寺」下車



『旅姿三人男』

宮本旅人<作詞> 鈴木哲夫<作曲>

清水港の名物は
お茶の香りと 男伊達
見たか聞いたか あの啖呵
粋な小政の 粋な小政の旅姿

富士の高嶺の 白雪が
溶けて流れる 真清水で
男磨いた 勇み肌
何で大政 何で大政国を売る

腕と度胸じゃ 負けないが
人情からめば ついほろり
見えぬ片眼に 出る涙
森の石松 森の石松よい男



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