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美濃路七次独歩記
みのじななつぎひとりあるき

美濃路ウォーク その5

8月27日(金)
  <その2>

垂井

「神宮常夜灯」
やがて大垣市から垂井町へと入り、国道は左からきた県道31号岐阜垂井線と斜めに交差する。この交差点が綾戸口。ここから斜め右へ県道を行く。この先に美濃路最後の一里塚である綾戸の一里塚跡が有るはず、なのだが、いくら探しても見当たらない。その代わりと言ったら可笑しいが、立派な神宮の常夜灯があった。鉄柵に囲まれ正面の門扉には菊の御紋章がある。

神宮常夜灯

「六社神社」
右手に『村社六社神社』の石柱と1対の常夜灯、石の鳥居があり、奥へと参道が延びている。

「東海道本線踏切」
JR東海道本線が右手から近付いてくる。それを踏み切で斜めに渡る。

東海道本線踏切

「これより美濃路松並木」
踏み切りを渡った右手に東小学校。街道の右側歩道の電柱に『これより美濃路松並木』の標識がつけられている。その標識に小さく『ここは垂井町綾戸、熊坂長範物見の松200m→』とある。熊坂長範とは平安後期の盗賊。京都の豪商橘次が陸奥国に下ろうとしたとき、その財貨を奪おうと手勢を率いて美濃国青墓で待ち構えていたが、同行していた牛若丸のために失敗して討たれたと言う人物。ここからおよそ3q北東の中仙道沿いに青墓町と言う地名が残っている。立ち寄るほどの事も無いと先を急ぐ事にする。

これより美濃路松並木

「綾戸の松並木」
右手にはゴルフのショートコースやユニチカの工場が延々と続く。その間に所々松並木が残っている。右側が多いが、中には左側にもあって、両側が松と言うところもある。

綾戸の松並木

「美濃路の松並木の解説」
途中に松並木の解説板があり『垂井町指定天然記念物・美濃路の松並木・昭和四十五年十一月四日・・・この追分綾戸間には、美濃唯一の松並木が当時の面影を立派に残している。これらの松は江戸中期から明治初期に植えられたものといわれている。その後台風による倒木等で、現在当町で、残っているのはこの一帯のみである。』と記されている。

「垂井追分道標」
ユニチカの工場に続いて広い空き地(工場用地か?)があり、それが切れると住宅地となる。信金やドラッグストアの有る交差点を渡り、右手の垂井郵便局を過ぎると、右から来た中山道との追分になる。角に追分の道標と標柱と解説板が立っており、背後には松が植えられ、足元にはオシロイバナが咲いている。宮の宿から七次を経てきた14里24丁15間の美濃路がこれで終わる。

垂井追分道標

「垂井追分道標についての解説」
手前の標柱の一面には『←ここは追分中山道』、もう一面には『→ここは追分美濃路』とあり、自然石の道標には『右東海道大垣みち 左木曽街道たにくみみち』と刻まれている。解説板には『徳川幕府は成立直後、日本の五街道を造り中山道と東海道を結ぶ街道として美濃路を造った。その大切な追分に宝永6年(1709)この道標が建てられた。木曽路(中山道)は東海道と並ぶ重要な幹線道路であり、大名や姫君・日光例幣使・谷汲・善光寺参り等の通行があった。また美濃路は将軍上洛の道であり、朝鮮通信使、琉球使節、大垣湊への重要な道でもあった』と記されている。

「追分の道路標識」
道路の角に立っている道路標識は横3段に書かれており、上段には『ここは追分』、中段には『→綾戸・大垣(旧美濃路)』、下段には『←平尾・赤坂(旧中山道)』とあり両街道の追分である事が良く分かる。

追分の道路標識

「継父川の追分橋より追分を見る」
相川の支流である継父(ままてて)川に架かる追分橋から追分を見る。この景色、中山道歩きで平成15年1月13日に見た景色と同じである。その日のことや色々なことが思い出として蘇ってくると共に、美濃路完歩の達成感が沸いてきた。

「相川の相川橋」
達成感の余韻を持って、相川の本流に架かる相川橋を渡って垂井の宿に入る。中山道で渡ったときは寒かったが、今日はカンカン照りである。

相川の相川橋



垂井


中山道第五十七宿 垂井宿


所在地 岐阜県不破郡垂井町
最寄駅 JR東海道本線垂井駅
本陣1、脇本陣1、旅籠27、総人口1,179、家数315

「相川の人足渡し跡」
この垂井の宿は『中山道六十七次独歩記』で既に取り上げ済みであるが、折角の機会なので、もう一度訪ねることにする。
相川橋を渡った左手に解説板立っていて、『かつては大井川と同じように人足渡しで、渡し賃は一人、ちち切水四五文、腰切水二四文、ひざ上切水十六文だった』とある。

相川の人足渡し跡

「東の見付」
橋を渡ったところが東の見付、西の見付までが766m。宿役人がここで偉い人を出迎えたり、見送ったりし、非常の時には閉鎖もした。

「中山道垂井宿案内板」
左手に『中山道垂井宿』の標石と、背後に大きな垂井宿観光マップがある。

中山道垂井宿案内板

「漆喰壁と虫籠窓の家」
宿に入って街道は直ぐに右へと曲がる。曲がらずにそのまま直進するとJR東海道線垂井駅へと向かう。宿場らしい町並みの中に古い町家が目に入ってきた。二階が低く塗込の白い漆喰壁で虫籠窓がある。

漆喰壁と虫籠窓の家

「旧旅籠亀丸屋」
東町から中町にかけての曲尺手の右手に有るのが旅籠亀丸屋西村家で、垂井宿の旅籠屋として200年ほど続き、今なお当時の姿を残して営業を続けている。外見では二階の出格子がその名残。でもこの近くに銀行が有るためか、車が出たり入ったり、路上駐車があったりで、ゆっくりとカメラを構えることが出来ない。

旧旅籠亀丸屋

「垂井宿の問屋」
左手に解説板が立っているのが垂井宿の問屋金岩家。代々問屋や庄屋の要職を務め、相川の人足渡しの手配もした。一階の格子や二階の袖壁に当時の建築の名残がある。

垂井宿の問屋

「垂井宿本陣跡」
左手の奥まって建つ家のガレージの脇に『中山道垂井宿本陣跡』の標石と解説板が立っている。『本陣職は栗田家が務め酒造業も営んでいた。建物は明治になって学校の校舎に利用された。』と記されているが、今はこの標石が立っているのみ。

垂井宿本陣跡

「南宮大社大鳥居」
宿の中程の十字路に南宮大社の石の大鳥居がある。南宮大社は旧国幣大社で美濃国の一の宮、金山彦命が主祭神で鉱山の神様。南宮大社へは全国の一宮巡りの一環として平成9年1月4日にお参りしている。

南宮大社大鳥居

「南宮社道標」
鳥居の左脇、常夜灯の前に立つのが道標で『南宮社江八町』と彫られている。

「蔵と黒板塀」
この交差点から右(北)に入ると黒板塀や蔵が続いている。この黒板塀と蔵の白い壁とのコントラストが実に素晴らしい景色である。

蔵と黒板塀

「商家油屋卯吉家跡」
交差点の先には古い町屋が何軒か目に付く。低い二階が土壁の家、格子造りで一階の軒に幕板(霧除け)が下がり二階が黒い漆喰壁虫籠窓の家などがある。中でも左手に有る『商家油屋卯吉家跡』は、その解説に『文化末年(1817頃)に建てられ、土蔵造りに格子をはめた宿場時代の代表的商家の面影を残す貴重な建物』と記されている。

商家油屋卯吉家跡

「本龍寺」
右手にあるお寺が『東光山本龍寺』。元は天台宗で、今は浄土真宗の寺。『ここの山門や元の書院の玄関は脇本陣のものを移築したと言われている。山門の前が高札場で常時9枚の高札が掲げてあった。』と言う。

本龍寺

「垂井の井」
鳥居のところへ戻って南に折れると、その先右手に『垂井の泉』がある。天然記念物の大ケヤキの根元から湧き出し「垂井」の地名の起こりとされている。『天平12年(740)聖武天皇が立ち寄ったと続日本紀に記されており、古くから歌に詠まれてきた。』

垂井の井

「芭蕉句碑」
芭蕉は元禄4年(1691)ここを訪れ本龍寺で冬篭りをしている。その時に詠んだ句が句碑(白根塚)となっている。
     葱白く洗いあげたる寒さかな   芭蕉
この芭蕉の句で『美濃路七次独歩記』を終える。

芭蕉句碑



 今回の美濃路ウォーク<その5>では、大垣からゴールである垂井の追分・垂井宿までの街道歩きを楽しんだ。
美濃路についてはあまり予備知識が無く、ぶっつけ本番に近い形で歩き出したため、行く先々での発見が実の楽しいものだった。身近にこんな良い所があるなんて、思ってもいなかっただけに、儲けたといった感じ。こらなら五街道や奥の細道などの有名なものに囚われず、探せばまだまだ良い所が有るのでは・・・と思えてきた。次はどこを歩こうか、それを考えるのも楽しみである。


 帰りは垂井発15時09分のJR東海道本線で家路につく。

今朝のニュース、ナジャフ停戦合意、シスターニ師が仲介。イラクに平和が戻る日は何時? 
アテネオリンピック、女子ホッケー初挑戦は8位。


     今日歩いた記録
     23,188歩(美濃路正味15,560歩)
     13.88q (美濃路正味9.33q)
     1,013kcal(美濃路正味694kcal)

     今までの累計
     146,952歩(美濃路正味119,280歩)
     88.43q (美濃路正味71.53q)
     6,458kcal(美濃路正味5,263kcal)



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