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ベニーラ・ボーいつもの話


横田英の青春1

  はじまり!はじまり! ベニーラ・ボー  2006.10.17着手

(まえがき)

ローカルな出だしで済みませんが、上毛いろはかるたに「日本で最初の富岡製糸」というのがあります。
その富岡製糸創業時の雰囲気を伝える「富岡日記」を読んだら、この作者で富岡製糸の工女だった横田英*1の生涯に、すごーく興味をそそられました。
凛とした生き方がまぶしい。
いつか一席ぶてるように、その青春時代を、あたし流に解釈して、ここに保管。追い番を付けてるのは、だんだん書き足して、長編にする意気込みです。
ぼちぼちと書いてるうちに、16番目で、ついに完結となりました。(2007.07.26書き足し)
完結したら、長野市松代町のNPOブログ「信州松代夢空間」の関係者から、完結のお祝い書き込みをもらいました。お目にとまって光栄です!!
このブログには、2007年7月23日付けと9月8日付けで、マイページ「横田英の青春」を、取り上げていただいてます。(2007.09.08書き足し)
*1 (よこたえい:近代製糸技術の国内伝習に貢献した女性。のちに結婚し、和田姓に変わる。1857〜1929)

(ここから2007.07.03書き足し)
なお、たまに問い合わせ受けますが、横田英とは、まったくアカの他人で、なんのつながりもありませんよ。
ただ、日本史の教科書で、なじんでいた富岡製糸場が、世界遺産の暫定リストに追加登載されたとかニュースになって、調べてみたところ、誇り高い富岡工女のことを知ったんです。
そこで、(同じく教科書や映画で、なじんできた、ああ野麦峠なんかの)女工哀史の一面だけが、製糸の歴史のなかで、やたら強調されてることに比べると、きちんとした技能者として扱われた富岡工女のことが新鮮な発見だったので、マイ放談ネタとして、作ってるだけです(いままでは女工哀史しか知らなかった。それはそれで歴史の一つとしても・・・)。
このほかに地道な努力で日本の製糸技術向上に貢献した人たちが沢山いたからこそ、日本の輸出産業として大発展したのだと想像します(たぶん)。
(ここまで、2007.07.03書き足し)


(ここから2014.04.27書き足し)
140426驚きのニュース。
富岡製糸場が、世界遺産にほぼ確定。創業時の写真があったのでコピペ。



これで製糸の歴史認識が正常化するだろう(もしか右傾化とサワぎたてる?)。
(ここまで、2014.04.27書き足し)

(目次:本ページ以後の書き足し)

 横田英の青春1

(まずは横田英の生家から、横田家の苦難)

 横田英の青春2

(英の母きよのこと、きよの子育て、富岡製糸場の工女募集)

 横田英の青春3

(いよいよ出発、初出社、初仕事、初イタズラ)

 横田英の青春4

(320事件、工女の出身地、繰糸場の様子)

 横田英の青春5

(糸とりトレーニング、英の父・数馬の工場視察、昭憲皇后・英照皇太后の行啓)

 横田英の青春6

(行啓の当日、盆踊りボイコット事件)

 横田英の青春7

(工女の月給、工女の食事、はじめての郵便)

 横田英の青春8

(超常現象、年の瀬の余興、おおみそかと三が日)

 横田英の青春9

(糸とり競争、お初さんのヤキモチ、故郷に製糸場)

 横田英の青春10

(休日の楽しみ、六工社の創立、製糸場を退職)

 横田英の青春11

(帰郷の旅、故郷に錦を飾る)

 横田英の青春12

(民営製糸場の創業、創業前の病気、職場復帰)

 横田英の青春13

(職場の環境、仕事の張り合い、お祭りで臨時休業)

 横田英の青春14

(歩留まりを上げたい?、はじめての”団体交渉”、”団体交渉”始末)

 横田英の青春15

(薄氷を踏む一年目、”ボーナス”か?、生糸に関する当時の情勢)

 横田英の青春16

(二年目の春、ストライキ成功、その後の六工社とか、繰婦勝兵隊)

1)まずは横田英の生家から

長野市松代町の横田家

横田英(以降、英と称す)の生家は、いまでも千曲川沿いの長野市松代町にあり、国指定重要文化財として公開されてる。かやぶき屋根の旧家だが、まんなか二階のバルコニー風デザインがおしゃれ。近くには佐久間象山記念館もあって観光コースになってる。
横田家の先祖は、奥会津横田の住人、山内大学と伝えられる。江戸時代は信州真田家に仕え、150石の中級藩士。郡奉行なども務めた家柄。明治になって、英の父、数馬は区長(村長?)を務めていた。
英の弟、秀雄は大審院長に、もう一人の弟、謙次郎は鉄道大臣になった。秀雄の子、つまり英の甥っ子、横田正俊は最高裁判所長官になるなど多くの秀才を生んだ、なかなかの名家だ。

2)横田家の苦難

英の祖父(横田機応)は、松代藩の甲州流軍学師範。
日頃から「富国強兵」、すなわち「”国”防の最重要課題は、”国”が豊かになることだ」、と唱えていた(この時分では、松代藩が”国”)。
英の母きよ*2には、一人の兄*3が居て幼名、熊人*4。
  *2(祖父の娘。英の父である数馬は婿養子。そのいきさつは後述)
  *3(もちろん祖父の息子。英の伯父に当る)
  *4(後に九郎左衛門と改名)
この兄が、いたって聡明で、文武両道を究め、一家の期待をになう好青年に成長しました。祖父の軍学も良く理解し、どうしたら貧しい松代藩を富ますことができるかと毎日悩みつづけました。
あるとき祖父のもとに行き、「日本各地を見学して富国のヒントを見つけたい。ついては費用をお願いします。」と無心したところ、祖父は快諾。喜び勇んで、同行する友人を募り、5人ほどで出発。いまの九州地方から東北地方まで見て歩きました。現在と違って、当時の旅はよほどの苦労、モノイリだったと想像されます。

ようやくのことで帰国して祖父に報告、提案したことは「全国をみてみると、およそ湊のあるところが繁栄しています。松代には幸い千曲川(越後では信濃川)があり、ここに湊を作って越後まで水運を通せば、農産物と海産物の交易で、きっと松代藩は繁昌しましょう。その事業を起こしたいと存じます」。
祖父もおおいに納得し、さっそく松代公に願書を出したところ、一発許可。ところが、これからが大変だ。
当時のことで、徳川様の認可が必要。しかし、これが一筋縄ではいきませぬ。まずは松代藩の江戸表留守居役のところまで出かけ、その留守居役を介して徳川の役人に願書を出すのですが、その両方とも、相当のワイロを贈らないとやってくれないのが習慣でした。
いいだしっぺの横田家では、高価な絹の反物(秩父とか黄八丈とか)などを用意して、留守居役の邸宅に行くと、その奥方が「あらまー、こんなことなさらなくてもいいのにー、ほほほ」などと、(たぶん)甲高い声で言いながら、贈り物を脇に受け取って挨拶。これを何度も繰り返して、ようやく徳川の役人に取り次いでもらえます。
江戸表留守居役でさえ、こんな調子ですから、徳川の役人にいたっては、おして知るべし。さんざんワイロを使ったあげく、ようやく認可がおりました。


認可がおりた時分には、意気に感じた竹内八十五郎先生(佐久間象山の初学の師)等、地元の名士とか、利殖の臭いを感じた地元の投資家とか、ピンからキリまで集ってきて応援、開発事業は順調にスタートしました。
最初の難関は、越後の大滝地域。船を通せるように周囲の岩盤をつるはしで削ったり、岩の川底をさらったりの難工事。いまはダイナマイトでドカンとやればいいんだけど、当時は大勢の人夫を雇っての人海戦術しかありません。何年もかかる工事になりました。更に、船を作ったり、湊を整備したり、大きな初期投資を続けて、ようやく開通。このとき、松代公が遠眼鏡で、帆掛船の出入りするさまを見て、ことのほか喜んだとのことです。

こうして、水運が始まってまもなく、徳川から通船差し止めの通告。どうやら松代藩の繁昌をよろこばず、逆に謀叛の疑念を起こした様子。事業関係者一同の驚きと落胆は、とても言葉に表せません。しかし、当時のことですから、まったく抵抗できず、この事業は中断となりました。

ここに到って横田九郎左衛門、 このうえは学問で再起を図りたいと、江戸表は徳川幕府の儒学者、林大学頭(だいがくのかみ)の塾に入り、修業3年。一心不乱に勉学したので、その英才ぶりは林大学頭に注目されるほどになり、御前に招かれての軍学の講義が大好評。
その後2年あまり、九郎左衛門、ますます張り切って猛勉強。あと数ヶ月で卒業というところで、ふと風邪をひいたかもと寝込んだとき、医者にみせたところ「傷寒=チフス」との診断。当時は不治の病ということで早飛脚が祖父のところへ。祖父がすぐ出発し夜に日をついで駆けつけたが、間に合わず。享年二十八歳。こころざし半ばでの、あっけない無念の死去でありました。
祖父は狂気のごとくなって、その場で看病を尽してくれた人達、そして、かつて全国行脚にも同行した友人達を怒鳴り倒し、暴れまわり、その悲しみようは周囲の涙をさそいました。

その後、横田一族は火の消えたようになり、気の毒といってくれる人もいましたが、「だいたい、あんな山師みたいな無茶な事業をやるからだ」と陰口をたたく人も多く、いっとき、松代では「横田の貧乏」というのが通り言葉でした。
その頃、母、きよは既に他家へ嫁ぐ縁組が整っていましたが、母の兄が亡くなったことで血筋が絶えると言って、、祖父が、この縁組を破棄して養子を取ることとなりました。祖父は、良縁の申し込みが多くあるのをどんどん断ってしまい、逆に横田家の石高の3分の一くらいの知行の家に申し込みました。
この家では「家柄が違うし、婿入り道具が揃えられない」と断ってきましたが、祖父にとっては、見所があると思ってたようで、「いやいや、身体ひとつでも来てもらいたい」とまでの望みに先方も承知し、22歳で参りましたるのが、英の父となる数馬。


数馬は世間一般からみれば立派な男子で、その立ち振る舞いは優れていたし、だからこそ申し込んだんだけど、選んだ祖父自身も、無意識のうちに、出来すぎの息子、故九郎左衛門と比較してしまい、むずかしい小言が絶えません。それでも、もともと入り婿として肩身が狭い数馬が辛抱できたのは、英の母、きよがあいだに立って夫の数馬を敬い、慰め、苦心を重ねたからであります。こうして横田家の人々は、九郎左衛門の無念を胸に、苦労の日々を暮らしておりました。
(ここまで、2006.10.17作成)

(続く) Thank you for coming    横田英の青春2
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