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ベニーラ・ボーいつもの話
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宝島の作者   

 はじまり!はじまり! 作ベニーラ・ボー   (2004.9.9記)

 

(まえがき)

「宝島」の作者はロバート・ルイス・スティーブンソン。彼は、この不朽の名作の他にも、「ジギル博士とハイド氏」など、44歳でなくなるまで、 多くの著作を残していますが、そのへんのまじめな講釈は止しにします!!
(ほんとは、この魅力的な作者のこと、いっぱいしゃべりたい。年上の人妻を追って渡米したとか、義理の子供よろこばすために「宝島」書いたんだとか、 サモアの島で酋長達を助けた晩年だとか、・・・・)。
なるべく、ヨタ話の安全地帯にとどまる所存。

ベニーラ・ボーが、まだ青春のまんなかで立ち往生していた頃、たまたま近所の古本屋で見つけた、一冊の岩波文庫が、 こころに安らぎを与えてくれたのでした。「若い人々のために」って、ずいぶんベタ※な題名だけど、当時は、こっそりと、こんなのばっかり読んでたのっ! これは、スティーブンソンの著作のなかではマイナーもいいとこですが、岩波以外でも、けっこう翻訳物(全集の一部とか含めて)があるところを見ると、 それなりに価値が認められているようだ。
(※ベタ:ありきたりであること、そのさま:最近、聞きおぼえた)


なぜ、このページを作る気になったかというと、以前に作った「健康ネタ」ページ、「まず頭のてっぺんから」のところで、「人はなぜ生きるのかの哲学で悩んでいた。この自問自答は、いずれ別稿で」としていたので、この目立たないタイトルを利用して、このような重たいテーマを始末してしまおうというわけです。

(120914まえがき追記)

ロバート・ルイス・スティーブンソンは、なんと吉田松陰の伝記を世界で最初にあらわしてた。 最近NHK番組(120830「スーパーティーチャー・吉田松陰」)で知ったので、そのことを、ここに記録。
ネットで「YOSHIDA-TORAJIRO」(吉田松陰のこと、柴又のトラさんではない)で検索かけると、英語の全文を無料でみつけられました。
甘くみて、たまたま名古屋までの新幹線往復車内がヒマと思い、流し読みしたら、古語と修飾だらけで難解。
正しい姿勢でマジメに読んだら、松陰に対して、たくさんの共感と敬意にあふれた内容でした。
極東の人からの、また聞きの伝聞から、松陰の熱血漢ぶりを、面白おかしくプロファイリングしてるだけなんで(ドンキホーテを思い起こさせる、愛すべき脱世間/変人ぶり)、戦前に神格化された彼の皇国史観などには触れてません。
血湧き肉踊るエピソードが豊富な活劇短編とみました。

なぜスティーブンソンが松陰のことを知ったかというと、 たまたまスティーブンソンの知人である教授のところで、英国留学してた松下村塾(しょうかそんじゅく)出身者・Mr.Taiso Masakiの話を聞いて、 たいそう感動し、気に入り、この伝記にまとめた。 だからホレた勢いの誇張もあると思われる。

ひそかに浦賀停泊中のペリー軍艦に乗船してアメリカ密航を懇願し、捕らえられて投獄されたり、評判の松下村塾で多くの愛国者などを教育したり、その後、 準備中の大老暗殺計画が露見して処刑(31歳)まで波乱万丈の愛国生涯と、当時の、躍進する日本とを結びつけて、教養あふれる英国紳士の好意的な記述になっています。
スティーブンソンは親日家だったようだ。
なお気がついたけど、松陰や、交流あった佐久間象山も、別ページの横田えいの生家も軍師の家柄だ。(諸葛孔明も軍師、)軍師ってのは昔のパワーインテリだったんだな。以上、まえがきが長くなりました。

1)みんな悩んで大きくなった

めっちゃ暗そうな題名「若い人々のために」の作者が、あっけらかんかんの大活劇「宝島」を書いたスティーブンソンと同一人物だとは知らぬまま、この本を手に取ったころ、あたしは深く人生に悩んでました。「人は、なぜ生きるのだろー?」「生きることに、なんの意味があるのだろー?」という類です。悩んでも悩んでも、答えが見つからない。
むかし野坂昭如さんもサントリーのCMで歌ってたけど、♪ソ、ソ、ソクラテスもプラトンも、みんな悩んで大きくなった♪

それまでは、例えば少国民文庫の吉野源三郎著「君たちは、どう生きるか」なんかを浅読みしていて、コペル君に共感し、感動し、なんだか分かったような気分もありました。でも、そんな”きれい事ではなく”て(アテネオリンピックで卓球、愛ちゃんの名せりふ)、思うようではない現実のひとつに直面すると、すぐに、思い迷う自分に気付きます。
ケーススタディA=「ずっと内緒にしてるが、うちはアダムスファミリーなので、友達を呼べない?」言っときますが、これは架空のたとえ話です。
これを判断する最初の物差し(価値判断)は、「怪物家族は世間体が悪いか否か?」なんかで、このような下層の物差し段階では、すぐに判断ができます(世間体が悪い!)。

しかし、頭がやわらかくて元気な青春時代には、このような物差し自体も、つぎのように疑ってしまう。すなわち「世間体って、どのくらい大切か?」→「世間体よりも、自分に自信を持つほうがカッコええんじゃないか?」→・・・・・
こういう、言わば中層の物差し連鎖が、このあと、つぎつぎに現れて、ついに最上層の物差し「生きることに、なんの意味があるのだろー?」が姿を見せます(スターウォーズのダース・ベーダーみたいな演出だな。あの声で)。
でも、幸せな生活おくってる人のところには現れないんだろーな。待てよ、お釈迦様のケース(ケーススタディBとする)では、王子様として幸せな生活おくっていたのに悩み、悟りを求めて出家したそうだから、そうとも言えないか。
(疲れたので、続きは、またこんど。    2004.9.9)

2)トランス状態

当時、わが家が狭かったこともあって、授業の復習・予習するために良く図書館に行きました。同じ動機で来てる貧乏人もいれば、じぶんちの個室では、ついダラけてしまうからという裕福な理由で来てる(来るな!)のもいて、公立図書館は、しばしばチョー満員。穴場を探して東○電力の資料室というところで本拡げたこともあります。そんなとき近くの北区に図書館(1960年頃から、しばらく区役所の4階にあった)を見つけて、そこで一心不乱?に勉強してたら、頭のなかのメモリー使い果たしたらしく、思考がフリーズしてしまいました。しばし、ぼんやりと眼下にひろがる灰色の街並みを眺めたとき、突然トランス状態(変性意識状態→参考:「Bの呪縛考」4)「気」なるものについて)らしき感覚に入ったのです。

トランス状態を言葉で表現するのは、言ったとたんにウソっぽくなる無謀な試みですが、ここまできたら、敢えて言葉にチャレンジ。
「この場所は、果てしなくひろがってる宇宙空間の限りなく小さい一点。今の時間は、過去から未来への果てしない時間軸の、目にもとまらぬ一瞬。日々の苦しみなんて小さい、小さい。自分も誰も、チリアクタみたいなもんだ。でも逆に、いま思い描いている途方もない空間と時間は、すべて自分の頭のなかのイメージだ。なんだか、けし粒みたいな自我が空(からっぽ)になって世界と一体化したような感じがするな。」という思いが理屈でなく感覚として湧き上がってきて、同時に脳内快感ホルモン(ベータ・エンドルフィン?)が(たぶん)分泌され、トランス状態になったのでした。ちなみにドラッグなんか、やってないよ。
(また脱線。音楽ジャンルでトランスとかテクノとかハウスって分類するの、よく分かんねー。教えて)

疲れてただけか?もといっ!あの浮上感は、その後、味わうことができません。

これで、すこーし悩みが減じましたが、この感覚は虚無の芽も含んでいるアブないもので、「周りの小人どもと争って、一喜一憂するなんてちいせい、ちいせい」「身すぎ世すぎなんてちいせい、ちいせい」とか暴走のリスクがありました。ニーチェ、サルトル、カミュ(今日ママンが死んだ・・・)の系譜を浅読みしまくった副作用かも?少なくとも価値判断の物差しとして、あまり実用的ではありません。

といっても宗教系は?グルに折伏されるまえに逃げることにしてます。

3)「若い人々のために   其他」 あらすじ

こんな頃に、この文庫本(それにしても、重たいテーマにしては、ちょっと安あがり)を見つけました。まず訳者の岩田良吉氏に敬意を表したうえ、あらすじを。
題名を正確に言うと「若い人々のために 其他(そのた:ここだけ小さいフォント)」。どっちかと言うと、この「其他」のほうが気に入った。
最初の章が、正真正銘の「若い人々のために」で、「フォルスタッフたった一人を除けば、シェイクスピアの人物は、ことごとく、いわゆる結婚する人達である。」という、とてもハイブローな書き出しが気に入りました。けど、けっきょく恋や結婚の、いろいろ考察であることが分かると、なんだ、やっぱりね、と少し落胆しながら、読み進みました。中味は深いようだけど、つかれます。

ということで(!それだけか)、次の章「頑な(かたくな)な老年と青春」。「世間では臆病で功利的な格言が大変喜ばれる。」からはじまって、(以下、つまみぐい)「私達は(時間という魔物から)額に拳銃をつきつけられて、理論を立てるのである(だから矛盾を生じたり、変化したりしても、おかしくないぞ)。」「時が移るにつれて・・・木登りが明らかに難しくなり、静かに座っていることがそれほど辛くなくなる。」「老年は、最後に来るが故に、考慮されなければならないと常に言われる。しかし、それと同じやうに青春は最初に来るが故に大切であるとも云へる。そして、さらに老年が多くの場合は全然来ない(夭逝してしまう)・・・」「(無鉄砲で、きずだらけの青春だったとしても、むしろ、そうであるほど、)結局私達を迎えに来るのは味方である。日が沈み西の空の色が褪せると、天は輝く星で満たされ始める。それと同じく、私達が年をとるにつれて、一種の平らかな悠々たる感情の歩みが、情熱と憎悪との激しい高低に変わる。」とか、わかりやすい伏線を張ります。

打たれたのは「人々から”ご老体、お起きになったのですか”などと云われるまで愚図愚図していてはダメだ。青春は、肉体的にも精神的にも世界の涯から涯まで雷のように飛び歩き、各国民の異なる習慣を研究し、真夜中の鐘の音を聴き、都会と田舎の日の出を眺め、新しい運動に改宗し、形而上の世界をめぐり、下手な詩をつづり、火事を見に1マイル走り、”エルナニ(どうも大評判の劇だったようで)”に喝采を送るために終日、劇場で暮らす、かうした時期である。(そうしなかった老年は、なんだかなー。めげるぜ、っと言いたいのだ)」(長文の引用)でした。
このアジ演説(すべてぇーのォー学生、労働者、諸君ー・・・・:古い)みたいな部分に触発され、粗っぽく、次の4)項のように、理解しなおして悩みにケリをつけたのでした。

そうそう、この後の章として「怠け者のために」とか、「南欧に転地を命ぜられて」「黄金郷〜エルドラド〜」なんかが続きます。それぞれ面白いよ。以上であらすじおわりっ

(2004.10.22 追記)ちょっと、あっさりしすぎなので反省して、「怠け者のために」の書き出しだけ追加。「誰でも、紳士の体面を冒とくするものと、〜それも欠席裁判で〜判決されるのが怖さに、皆、何か金になる職業について熱心に働いてゐる今の時代に、その反対側の、事足りれば満足し、その間は傍観して楽しもうとする人達からの抗議(この”抗議”は、たぶん、”異議申し立て”、という翻訳のほうがいい)は、いくぶん空威張りの放言のような気味もある。しかしそんなことはない。何もしないと云ふ意味ではなく、非常に多くの事をしてゐながら、ただそれが支配階級の独断的形式の中で認められていないと云ふ意味での、いわゆる怠惰は、勤勉そのものと、全く同等に、その立場を明らかにする権利がある」と、はじまって、どーも、いろいろ生活を楽しむ努力を、おおいに賞賛する議論ですね。19世紀の人ですが、親近感が湧きます。
例えば、市民マラソンで大汗かいて走ってる人達にとって、その時に涼しい葉陰でデッキチェアに寝そべり、ビール片手に見物してる人は、ちょっと頭にくるけど、非難するには当たらない、むしろ生活を味わう能力にまさるかも?という類(たぐい)。あたし
のような緊張型の人間には、ほっとする内容なのです。

4)生きる

同じ題名の、黒澤明監督の映画とは関係ありません(近いかも)。てゆーか(「てゆーか」って言い回し、好きでないが、敢えて使ってみた。あーいやだ、チョーきもい)、生きる意味そのものを簡潔に、ひとことにしてみたかったのでした。むちゃくちゃ大胆すぎて、批評が怖いので、意外と、やってないでしょう。ここで、いてこます

「人間は無数の細胞の集合体で、その細胞それぞれが生きようとして懸命なのだから、その集合体である人間(自分の身体はご先祖様から引き継いだモビルスーツみたいなもの、とする。心身二元論?)が、生きようとしないで、どーするのだ。〜内なる躍動に、耳を傾け、その声の方角に忠実に、自然に生き、自然に死のう。〜」

どっかで聞いたことあるってか?気のせい、気のせい。読んだ本の内容に刺激されて、いちおう自分で考えたんだぜ。気になるんだったら代案出せっての。これって、決して、其の日暮らしの刹那主義ではありません。これは例えてみれば憲法みたいな、もっとも基本的で最上層の物差しで、これを最初の糸口にして考えをめぐらせ、自分を大切にすることは、同じような他人に共感して大切にすることと気付き、だんだん実用的な諸法律、諸条令に相当する、中下層の物差し(だまさない、盗まないっとか、刻苦勉励がグーとかまで)が紡ぎだされます。出来上がれば、うちなる道徳律(カント:♪デカンショー、デカンショーではんとし暮らすー、ヨイヨイ♪)だな。

(ケーススタディC)さいわいに、明るい南斜面に落ちた草花の種は、押し合いへし合い競い合いながら大輪の花を咲かせるし、アンフォーチュネイトリー、北斜面に落ちた種は、それなりに、その場所に最適な形で、葉をひろげ安らかに生命を全うします。動物は自分の意志で動けるから、いい場所を、激しく争うけど、いっぽうで豊潤な平野に住まず、やせた高地に生存場所見つけた雷鳥なんかも、「いきいき」してるように見える。
(脱線:「いきいき」とか「ふれあい」とか地域老人会の集まり名称なんかに、良く使われるな。逃げろー)


別の攻め口。ほととぎすで浪子の「人間はなぜ死ぬんでせう。生きたいわ。千年も万年も生きたいわ」ってセリフ、生きる意味を直感的に無条件で肯定してる。男は、とかく理屈で考えがちなのに比べ、女性の強みを表現したか?

こんな風にして、思いついた考えを反すうしてるうちに、だんだん、各種のケーススタディにも迷いが無くなり、自信と元気を取り戻したのでした。
(といっても相変わらず、滑ったりころんだりだけど。)
いまでは、なんであんなに悩んだのかも忘れつつある。長い時を経て残った文庫本が、青春の迷いを懐かしく思い出す小道具になりました。

5)おまけ

本題から離れるけど、この流れのなかで、おまけ付けたくなった。年を経た今、望んでいる境地を、漱石先生「草枕」のなかでの、陶淵明、王維の詩について評した一文に託します。
「清貧の思想」の中野孝次先生も、どっかで、この陶淵明の詩を取り上げてたね。
「草枕」から、そのまま引用しつつ、このページを終了。

「うれしい事に東洋の詩歌はそこを解脱したものがある。採菊東籬、悠然見南山(きくをとるとうりのもと、ゆうぜんとしてなんざんをみる)。ただそれきりのうちに、暑苦しい世の中をまるで忘れた光景が出てくる。垣のむこうに隣の娘がのぞいているわけでもなければ、南山に親友が奉職している次第でもない。超然と出世間的に(世俗を離れたってニュアンスかな)利害損得の汗を流し去ったこころもちになれる。獨坐幽篁裏、弾琴復長嘯、深林人不知、明月来相照(ひとりゆうこうのうちにざし、きんをだんじてまたちょうしょうす、しんりんひとしらず、めいげつきたりてあいてらす)。」

サッカーサポーター騒ぎとは無縁の、悠久の中国を堪能。

エンドマーク、
だんだんフェードアウト          (2004.9.14)
(完)Thank you for coming
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