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2008年12月八重洲出版発行の「浅間から世界GPへの道」(P-067〜068)より

                     

  

 「世界−」を目指した日本モーターサイクル界のあくなき戦いの超点は、名古屋TTにあったといってよい。そして戦後の復興期から急速な高度成長期へと駆け上る日本経済と軌を一にして日本モーターサイクル産業は、多数のメーカーが生き残りを懸けた技術開発競争の場であるレースに挑み、取捨選択されていった。
 そこでの勝ち組はさらなる高みを目指して世界グランプリの場へと飛び出していく。

 日本におけるモーターサイクルレースは、1913(大正2)年に兵庫県西宮市鳴尾にあった鳴尾競馬場で行われたのが始まりとされ、大正から昭和の時代に全国で開催された。
 だが太平洋戦争中に2輪など金属材料の類が国へ供出され、戦後は物資不足でレースどこではなかったが1949(昭和24)年から1950年にかけて運輸および通産省の後援により東京の多摩川河川敷、千葉県船橋で日米親善レースが開催され、各メーカーが参戦した。
 そして1953年3月21日に実施されたのが社団法人名古屋タイムス主催の名古屋TTレースで、通産大臣を会長にオートレース関係者を業務にあたらせた。だがレースという名称に警察が難色を示し「全日本選抜優良オートバイ旅行賞パレード」と称され開催される。

 コースは現在の名古屋高速3号、国道1号の呼続大橋を、各メーカーあたり3台、2分ごとにスタートして岡崎-挙母(豊田)-瀬戸-多治見-関の市−岐阜−大垣-養老-津島までに各検印場(チェックポイント)を通過し、名古屋市の中村橋公園のゴールまで145.5マイル=232kmの一般道を走った。
 出場資格は国産150cc以下のマシンで、前後ブレーキとホーン装備が義務づけられた。参加台数は157台ながら、途中トラブルなども多く、ゴールはなんと午後6時。トップは昌和で平均55km/hで走破、2位にドリームEのホンダ、3位は北川ライナーだがエンジンは1位と同じヤマリン製OHCだった。

呼続大橋でホンダ・ドリームEがスタート、52は後のホンダスピードクラブ主将鈴木義一。53中村武雄、54徳永康夫が続き、国道1号を岡崎へ向かう。 13は3位になった浜松の北川自動車製のポートリーライナーの村井光男、15石樽申三。チームの14番車は養老駅で失格しており津島神社前での光景。





 一方、日米親善でなく「日本人によるレースを」と東京モーターサイクルレース協会が設立され、1953年7月に実施されたのが「富士登山軽オートバイ競争大会」通称、「富士登山レース」だ。このレースは富士宮市長が大会会長を務め警察側の問題も解決、参加資格も免許所有の個人だった。この第1回は軽2輪対象、当時の法規にならい4サイクル150、2サイクル90cc、浅間神社前を朝7時から1分間隔でスタート、通行止めにした登山道を2合日まで「市販車」で走るのが条件だった。
 参加選手は沼津、三島など地元勢がほとんどだがホンダは東京から遠征し参戦。結果は名古屋のオートビットが1位に。第2回(1954)から参加車が250ccになりモナークとバイクモーターでコレダ(スズキ)が優勝、第3回(1955年)は250がホンダ、125がヤマハ、第4回(1956年)はヤマハが両クラスを制したが、その高性能ぶりに参加メーカー数も減少する一方での開催だった。
 だがこうしたレースが、やがで1955年の浅間開催に結びついていくことになる。

【上左】富士登山レースは、富士宮市の浅間神社前からスタートして1合目までは、土ながら地面が固く先行車も抜けるが、すぐに狭いバラス道に霧が出たりした。


【上】第2回富士登山のゴール、東京・港区にあったモナークモ一夕ーが1−3−4−7位と圧勝。1位は中島信義で4位は後のタスモーターの一族の田中公誠。


【左】第3回富士登山でのホンダチーム、ベンリイにプロレーサー藤井璋美が乗りヤマハ勢に割り込み2位、以来、今日までのホンダレース活動に貢献してゆく。




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