ウイグルスタン

アシル・ワヒディ、「イッチパク−統一」1995年10月第5号(12)

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 今日まで、我が祖国は、「東トルケスタン」、「ウイグリア」、「ムルクル・ウイグリア」、「ウイグルスタン」、「新疆」、並びに「新疆ウイグル自治区」と呼ばれた。これらの名称の内、新疆と新疆ウイグル自治区の2つは、 中国の植民地支配者により付与された、言い換えれば、強制的方法で流通されたため、これらの名称は、不法なものと考え、決して承認しない。

 「東トルケスタン」、「ウイグルスタン」の名称に触れれば、その各々には、独自の歴史的起源と根拠が存在する。この記事において、私は、これらの名称の起源、内容及び拡散に対する自分の見解を 叙述し、これに基づき、その何れが受け入れ難く、いかなる名称が現在最も適しているのかに答えるつもりである。

 最初に、シャルク(東)トルケスタンの名称に触れる。我が歴史において、9世紀から12世紀まで、中央アジアにカラハニド人の強力な国家が存在したことが知られている。カラハニド人がウイグル人王朝だったにも拘らず、国家は、1つの旗の下に中央アジアの広大な空間に住む多数のトルコ語系民族を強制的に統合した。それ故、地理的に、この国家は、トルケスタンと呼ばれた。しかしながら、若干の歴史期間に形成されたこの国体は、そのトルケスタンの名称と同様、それほど長期間存在しなかった、

 1048年、統治者ナスイル・ハーンの死後、この国家の西部は、その構成からの離脱について宣言した。カラハニド人は、この権利を認め、広範囲な権限を有する自治を賦与せざるを得なかった。このようにして、大カラハニド人国家の領土は、政治関係において二分され、地理的に、西トルケスタンと東トルケスタンと呼ばれ始めた。ここに、そのような歴史的事情の下、当南部領域がカラハニド人の領土と、北部及び東部が別のイディクト・ウイグル(トゥルファン)国の領土と考えられたため、テングリ・タグ(天山山脈)の南方に位置する領域を包含し、北方領域(今のジュンガリア)を含まない東トルケスタンの名称が生まれた。このようにして、東トルケスタンの名称は、地理的にトルケスタンの東部のみを意味し、ウイグル人の土地の領域を完全にはカバーしていないことが明らかである。

 欧州とロシアの学者の論文において、東トルケスタンの名称は、1869年後、言い換えれば、帝政ロシアがカザフスタンと中央アジアを奪取した後に現れた。これらの名称の背後には、第1に、この領土の中国所属を否定し、第2に、東トルケスタンの事後のロシア併合の可能性を示唆した帝政ロシアの政策の侵略的方向性が隠されていた。帝政ロシア崩壊後、その帝国システムは、ソビエト社会主義帝国が継承し、西トルケスタンを民族共和国に分割して、この名称に統一トルケスタン西部の名称としての当初の意味を失わせたことだけが違った。このようにして、東トルケスタンの名称も、ウイグル人の分布全土をカバーせず、存在しないトルケスタンの東部となり、存在意義を失った。

 1933年11月、カシュガルにおいて、サビト・ドムラの指導の下、東トルケスタン・イスラム共和国が宣言された。偶然ではなくして、この共和国の存在を危険視して、スターリンは、ソビエト軍の助けで、それを除去した。これは、スターリンの意図的政策だった。同様に、1944年に建国された東トルケスタン共和国は、この政策の犠牲となった。彼の意見によれば、ウイグルスタンの地に、ウイグルスタンか、東トルケスタン共和国か、名称に拘らず、独自国家が生まれれば、このことが中央アジア諸国に影響を及ぼし、それらをソビエト帝国の構成から離脱に駆り立てるだろう。実際、これは結局起こった。カザフスタンと中央アジアの共和国は、ソ連の構成から離脱し、独立国家となり、連邦共和国の確固たる「統一」を 崩壊させた。しかしながら、このことは、社会の当然の発展に従い起こった。総括すれば、次のことが言える。第1に、東トルケスタンの名称は、一定の歴史期間の地理的名称であり、民族でも、国家の名称でも決してなかった。第2に、東トルケスタンの名称は、テングリ・タグ(天山山脈)の南部だけを包括し、ウイグルスタン、言い換えれば、今日の新疆ウイグル自治区領域をカバーしていない(このことは、アメリカ、欧州、アラブ、アジアの学者の論文で確認される。)。

 欧州の学者の中で、B.P.グレヴィッチは、自著「17世紀から19世紀前半の中央アジアにおける国際関係」の3ページにおいて、東トルケスタンが今日の新疆ウイグル自治区の南部、言い換えれば、十月革命まで中国領トルケスタン又は小ブハリアと呼ばれたカシュガリアであると書いている。同書の5ページにおいて、彼は、ジュンガリアが現新疆ウイグル自治区の北部に位置し、クムル、アルタイ、タルバガタイ、イリ及びトゥルファン・ヴィライヤート(州)を包括すると指摘している。東トルケスタンの名称を用いるためには、西トルケスタンもなければならない。現在、西トルケスタンはなく、1936年に5つの独自の共和国に分割され、その各々は、カザフスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、キルギスタン及びトルクメニスタンと、この地に土着の主人たる自民族の名称を帯びている。

 それ故、現代の条件下において、東トルケスタンの名称は、歴史的真実に一致しない。この土地の土着住民がウイグル人である以上、祖国の名称も、ウイグルスタンでなければならない。

 今、ウイグルスタンの名称に短く触れる。歴史資料に目を向ければ、古代から、我が民族がウイグル人と呼ばれ、我が国がウイグルスタン又はムルクル(国)ウイグリアと呼ばれたという言及が見つかる。作品「オグズナメ」において、オグズ・ハーンは、「私自身は、ウイグルの可汗であり、私の民族はウイグル人である」と表明している。彼は、決して、自分をチュルクとも、東トルケスタンの可汗とも呼ばなかった。オグズ・ハーンは、紀元前3世紀に生きていたことが知られている。従って、「ウイグル人」の名称は、少なくとも2250年の歴史を有する。

 「バフラル-アスラル・ムナキプ・アル・アヒヤ」(P.227)第6巻において、有名なペルシャの歴史家ムハマッド・ビン・ワリは、「ウイグル人の祖国は、ウイグルスタンである」と書いている。これについて、彼は、ウイグル人とキルギス人間の戦争(846年)の描写と関連して書いている。言い換えれば、このことから、ウイグルスタンの名称が1200年前に言及されているものと見られる。有名な歴史家かつ古代の学者であるヒヴァ・パシャは、自著「タリヒ・シジャ-ライ・トゥルク」(チュルク人)において、32〜33ページでの我が民族の描写の際、彼らがウイグル人と、彼らの祖国がウイグルスタンと呼ばれていると書いている。

 アラブの歴史家イブン・アル・アスルは、自著「ジャミ・ドゥル」の「トルケスタンのウイグル人のハーン」章において、カラハニド国とは、「ムルクル・ウイグリア」であり、909年にサマニド人の国を撃破し、ブハルを奪取したカラハニド人とは、ウイグル人のシャー達であると書いている。欧州の学者フランクは、トルケスタンではウイグル人のハーンだけが統治したと語り、オーストラリア人のエドワード・ザハルは、カラハニド人の国家とはウイグル人国家であると主張している。ロシアのチュルク学者グリゴリエフ、ラドロフ、ミュラーは、カラハニド人の代表はウイグル人だけだったと同様に主張している。このようにして、ウイグル人は、歴史の各時期において、自分の国家を様々に呼んでいた。

 このことは、他の歴史的事実によっても確認される。つまり、748年から840年まで、オルホンのカラバラサグンを首都とするウイグル可汗、870年から1025年までカンス・ウイグル国、840年から1375年までトゥルファン・ウイグル国、1514年から1675年までヤルケント市を首都とするサイディヤ・ウイグルスタン、1863年から1877年までヤクブ-ベクが率いるカシュガル(エッチシャル)国が存在した。

 これら国体の様々な名称にも拘らず、いたるところでウイグルスタンについて話されているのは疑いない。カザフ人の祖国がカザフスタンと、ウズベク人がウズベキスタン、キルギス人がキルギスタン、アフガン人がアフガニスタン等と呼ばれているのと同様に、ウイグル人の祖国は、ウイグルスタンと呼ばれる全ての根拠を有する。

 そのような定義は、これらの国家の領内に住んでいる他の民族の民族的利益を全く制限せず、逆に、土着国民を明らかに規定すれば、国家の結集要素の一定の義務を彼らに負わせる。我々は、 いかなる国家の事例においてもこれを見ることができる。

 上述からは、次の結論を下すことができる。我々の登場は、「ウイグル人」の民族名で定義され、当然のことながら、我々は、自分の祖国をウイグルスタンと呼ぶべきである。そしてこれは、最も正しく、正当な定義である。この問題における我々の立場は、ここには、ウイグル人の外、他のチュルク語系民族も住んでいる以上、彼らを傷つけないため、祖国を「東トルケスタン」と呼び、この際、その解放闘争において彼らに頼るべきだと主張する反対者の異議を受けている。しかし、第1に、ウイグルスタンの定義がこの国家がウイグル人のためだけのものであることを全く意味しないことを忘れるべきではなく、ウイグル人がこの領土の土着住民であり、この意味において、自決のための闘争に対して少なからず重要な意義を有することを強調しているだけである。

 第2に、「ウイグルスタン」の名称は、多民族の利益を制限せず、逆に、国家が係わる彼らの利益の保証義務をこの地の土着住民の主力に負わせ、カザフ人にはカザフスタンが、ウズベク人にはウズベキスタンがある等 、この問題は既に解決されている。これらの国家の形成において、ここに居住するウイグル人は、かつて、ささやかな寄与を行った。今、彼らは、我々の国家獲得において、我々に援助を提供しなければならない。

 第3に、我々は、特に、中国の植民地支配者側からのウイグル人の完全な同化の脅威が存在し、一般に「ウイグル」という言葉を流通から排除するために、「新疆ウイグル自治区」すら「西域」(西中国)に改称するつもりである今、自分の祖国を「ウイグルスタン」と呼ぶ義務を有する。

 第4に、「ウイグルスタン」の定義が世界共同体に知られていないと考える者には、カザフスタン、ウズベキスタン、タジキスタンも、他の若き国家も、世界に全く知られておらず、今日、全世界が承認していることを想起させるべきである。同様に、我々が自決問題を解決すれば、世界が我々を知るだろう。

 「東トルケスタン」という名称について言えば、これは、国家でも、民族の名称でもなく、純粋に地理的定義であり、この名称は、ウイグル人の分布全土をカバーしない。テングリ・タガ(天山)北方に存在するウイグル人の土地が、その範囲外になってしまう。その外、「東トルケスタン」は、地理的名称として、各国の各言語で、様々に響く。例えば、ウイグル語でこれは、シャルキ・トルケスタン、トルコ語で「ドグ・トルケスタン」であり、アラブ人は、「オウチ・トルケスタン」及び「エル・シェルキヤ」、英国人は「イースタン・トルケスタン」、中国人は「東トルケスタン」、ロシア人は「ヴォストーチヌイ・トルケスタン」、カザフ人は「シグイス・トルケスタン」と呼ぶ。 そのような翻訳の対象となる「シャルキ・トルケスタン」という地名の地理的定義は、我が祖国の名称の定義に混乱だけをもたらす。それ故、我々は、そのような名称を拒否する義務を有する。

 加えて、東トルケスタンが存在するならば、これら2つの名称が相互補完するため、「西トルケスタン」が存在しなければならない。我々は、西トルケスタンが既に以前から存在していないことを知っている。その廃墟には、今、民族的徴候によりその名称を得たいくつかの独自民族国家が現れた。 そのような状況下において、「東トルケスタン」の名称にしがみつくことは、そのような「西トルケスタン」がない以上、無意味である。

 若干の反対者は、現在のところ、一時的に「東トルケスタン」と呼ぶべきで、将来、全チュルク語系国家と統合して、未来のトルケスタン国の構成に入るかことを提案している。

 第1に、そのようなトルケスタン人国家は存在せず、個別の主権民族国家が存在し、これに従い、我々も、その民族国家を「ウイグルスタン」と呼ばなければならず、将来、そのような統一トルケスタン人国家の創設が許されるとすれば、我々も、他の全ての民族国家と同様、自分の民族国家と共にそれに加入するだろう。

 架空の未来の「トルケスタン」の名前に今拘ることは意味がない。我々は、現実主義者であり、現実の問題を解決しなければならない。そのとき初めて、我々は、起こり得る政治的ミスを避けられるだろう。 我々の中に存在する「東トルケスタン」支持者への回答に、かなり十分な論拠と思う。

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最終更新日:2004/05/20