満州族の祖先粛慎人及び靺鞨人と日本の親縁

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■渡海して日本に建国した北方ツングース族−粛慎、靺鞨、狄

 日本海岸の独立国「越国」は、山形県の小国町にあり、古志王神社がある。古志族は、中国東北から黒龍江流域沿海州に住んでいたツングース族である。日本古代、この民族は、遷移南下し、渡海して北海道に至り、日本一帯を統治した。 一説によれば、彼らは、祖先の石像を彫刻して、祖先を祭った。現在、古志王神社が祭る神像は、鎌倉時代の一刀彫(小刀で刻み込む彫法)の古志王像である。古志国は、日本飛鳥時代(7世紀初め)の国名であり、越国又は高志とも写し、大化の改新時に至って、名称を越国に統一した。越国の位置は、今日の新潟県から福井県北部に当たる。この後、山形県、秋田県から青森県の最北端に至るまで、全て越国を称した。7世紀後半の天武、持統天皇時期に至り、越国は、越前、越中、越後に三分され、この呼称は、現在に至るまで用いられている。越後新潟の新発田市にも、古志王神社がある。当地の民間信仰には、このような伝説がある。神社の 戸の隙間又は裂け目に赤土を塗り、身体上にも赤土を塗りさえすれば、冬になっても、皮膚は凍傷にならないという話である。これより、古志王は、元々寒地の神であったと見られる。「日本書紀」神代の国造り神話の中には、越州の地名がある。当時、本州を「大日本豊秋津洲」と称したことから、日本海沿岸の越国は、大和王権の外に独立した独特な地区であったと見られる。

■中国東北から日本に遷移した粛慎

 越国に移住したツングース族の中心分子は、粛慎に当たる。彼らは、元は中央アジアの遊牧民族であり、後に勢力は、中国東北から黒龍江流域及び沿海州に至るまで延伸し、再び北海道又は日本東北地方の日本海岸に遷移した。粛慎の名称は、隋・唐時、先秦時期に東北地方に居住した民族を呼称する総称である。日本の史料も、この呼称を踏襲した。「日本書紀」は、阿倍比羅夫が水軍を率いて北上し、「討蝦夷」、「征粛慎」を3次進行したと記載している。征討時、 第三次渡島において、粛慎の船と遭遇した。粛慎の船は、羽毛を木の先端に挿して、旗印としていた。比羅夫は、粛慎と交易を試み、海岸に絹織物、兵器、鉄器等 を堆積した。結果、粛慎方面から2人の老人が来て、絹の衣服と麻布を持ち去った。660年、比羅夫は又、軍船200艘を率いて粛慎を討伐し、熊2匹、熊皮70張を持ち帰った。この外、東北地方から上京献馬した記録も多い。これらの馬は、白色葦毛、白蹄のユーラシア大陸産の名馬だった。馬匹を除く外、慎粛は、「独犴」と呼ばれる北方野犬、箭筒、砂金等の名産を産した。山形県に遷移した慎粛人は、採鉱、採金技術に精通したことから、逐次内陸に深入りし、一度は茨城県の鹿島まで到達した。今の山形県内及び鹿島附近に至っては、ツングース族 の伝説が流布している。

■高句麗から新潟県佐渡に逃亡した靺鞨人

 8世紀に進入し、粛慎の子孫、靺鞨族が台頭し始めた。靺鞨人は、元々黒龍江流域に在住し、温暖な地を求めて、朝鮮半島の高句麗に進入した。北海道、又は日本東北地方に移住した者は粛慎と称され、高句麗に移住した者は靺鞨と称された。彼らは、ツングース族である。しかし、663年、唐朝と新羅の連合軍が、日本と百済の連合軍を撃破した。この後、新羅は、朝鮮半島を統一した。高句麗に在住した靺鞨人の多くは、中国東北に逃亡し、渤海国を建国した。渤海国は、727年、日本と通商条約を締結し、使者を日本に派遣し、日本と約二百年の正式外交関係を維持した。この二百年間、数多くの靺鞨人 が日本に現れた。わずか746年の1年だけで、1,100人以上が山形県に上陸し、日本人に帰化した。山形県、新潟県一帯は、ツングース族の同胞 であったため、彼らに対して、一定の親近感を非常に覚えたと言う。「続日本紀」記載によれば、越後(新潟県)には、「狄」族又は「虾狄」族が登場する。狄族は、越後で活躍しただけではなく、東北地方にも深く入った。この狄族は、結局、いかなる民族なのか?709年、虾狄が大和朝廷に反乱したため、大和朝廷は、山形県に征狄所を設け、武器 と船を配置した。反乱が絶えないことから、大和朝廷は、一方で持節鎮狄将軍を派遣して討伐し、一方では、靺鞨の根据地に使者を派遣し、中国の東北にも交渉に行った。狄族は、概ね、高句麗が新羅により滅亡させられた時、越後に流れ着いた靺鞨族の支族である。彼らは、不断に勢力を伸張し、半世紀後、亡命国家を建国し、中央政権への服従を拒絶した。

■渤海国、日本東北への版図拡大を思う。

 「日本書紀」記載によれば、高句麗最初の使者は、北方日本海岸に到達した。その後の高句麗使者も、全て北日本海岸に上陸した。渤海使者の上陸地も、全て北日本海岸だった。アイヌ族は、結局、粛慎、靺鞨といかなる関係にあるのか?更 に一歩質問を進めれば、アイヌ族は、結局、大陸のツングース族と何の関係にあるのか?この問題は、今に至るまで回答不能である。ただ体質人類学の観点から見れば、アイヌ族は典型的な長頭形で、ツングース族は典型的な短頭形であるため、アイヌ族は、ツングース族起源ではあり得ない。我々が確定できるのは、ツングース族が大陸から渡海して日本の北海道及び東北地方に至り、大和政権とは異なる「越州」大文化圈を形成したことである。この越州は、7世紀前後に至り、粛慎に改称した。粛慎の後裔靺鞨族は、南下を継続し、アイヌ人と雑居し始めた。当時の蝦夷族は、熟蝦夷、荒蝦夷、津軽蝦夷に分かれた。我々は、これより、彼らは混住したとはいえ、各自の地盤も有していたと推測する。我々は、ツングース族 は雄心万丈で、彼らは大粛慎国の建設を考えたのではないかとも推測できる。日本の粛慎国は、その実、中国東北、沿海州の広大な版図を包括する大粛慎国の一部分でしかない。

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最終更新日:2004/05/20