進化論は「仮説」に過ぎない

 日本の教科書の冒頭には、「人が猿から進化する図」が必ず載っており、「少年期の新鮮な頭の中に何の疑いも無く叩き込まれる」「大半の子供が教科書に書いてあることはすべて正しいと誤解している」と言う背景から、結果として「大半の日本人が進化論を鵜呑みにしている」と言う現状があります。ところが、実はそこに大きな落とし穴があるのです。そもそも進化論は「ダーウィンの仮説」に過ぎなかったため、その発表後には様々な角度から「実証」が試みられました。ところが「進化論の実証」が進めば進むほど、「全く逆方向」つまり「仮説を実証しようとすればする程、矛盾点が増える」と言う状況に陥り、科学の世界ではあり得ないような「論理崩壊」に至っているのです。それは例えば、「ある研究者が1つの実証例を挙げてそれを説明すると、それは別の研究者が導き出した仮説と完全に矛盾している…」と言う具合です。「進化論の実証」では、そのような矛盾連鎖が次々に起きているのですから、それは「元の仮説が間違っている」と結論付けるしかありません。つまりそれは「進化論の信憑性の否定」であり、むしろ最近では「進化論は間違った仮説だった」と言う研究の方が進んでいるのです。このように、今日までに「進化論は間違いだった」と結論付けられているのですから、それでも「進化論が正しいと洗脳されている人達」、あるいは「進化論を前提とした理論展開を続けている人達」は、もはや「進化論信者」と呼んだ方が適切なのかもしれません。



科学的見地からの進化論否定

 大半の日本人が学校で教えられて来た「ジャワ原人」「ペキン原人」「アウストラロピテクス」などは、実はすべて「でっち上げ」であり「ウソ」だと言うことを、まず知らなければなりません。ジェレミー・リフキン著「エントロピーの法則」には、「ダーウィンが種の起源を著してから120年たった今、化石記録に関する研究は大いに進んだ。しかし進化論を支持する実例は何1つ出て来ない。現在、化石記録から分かることは、1世紀に渡って科学者たちがダーウィン説に都合がいいように様々な化石をうまく並べて行ったと言うことでしかない。しかしこういったトリックは全て無駄だった。今日、何百万という化石を見るとき、かつて進化の旗を掲げて行進した理論の貧しさ、いい加減さがありありと証明されているのだから」と記されています。英国の動物学者レオナーズ・マシューズは、1971年版ダーウィンの種の起源の序文で「進化論が偽科学だという批判の声はますます大きくなっている。進化論は生物学の大前提となった結果、何の証明もない理論に基づく科学と言う誠に奇妙な立場に置かれてしまった。しかしこれは科学だろうか、信仰だろうか」とまで述べています。このように、「猿から人へ進化したと日本の教科書に取り上げられている証拠」はすべてウソであることがすでに明白なのですが、ほぼすべての日本人が「一旦正しいと教えられたこと」、しかも「子供時代に無条件に叩き込まれた知識」を否定して覆すには、大変な困難が伴うことになるかもしれません。まずは、その点について詳しく検証してみましょう。

(1) 「進化中の移行タイプ」の痕跡は今だに発見されていない

 もし、「ダーウィンの仮説通りの進化と言う現象」が実在すれば、進化過程中の種と種の間の「移行タイプ」が必ず存在するはずです。よって、「移行タイプ種の化石」があれば、それは進化論の一大証拠になるはずです。しかし、ダーウィン以降これまで約150年の研究の結果でも、確実な証拠は全く存在していないのです。ダーウィン自身は、「20世紀になれば明確な証拠が探し出せるだろう」と予言したらしいのですが、人類が今までに掘り出した膨大な量の化石の中には、このような「移行タイプ種の化石」は1つもないのです。特に「猿から人類までの進化」について、移行種である「類人猿」を探す試みが続けられましたが、それで出てきた「証拠」はすべてでっち上げで、現在に至るまでにそのすべてが否定されているのです。まず、「ジャワ原人」は、その発見者のデュ・ボア自身が「あれはテナガザルの骨だった」と死ぬ間際に告白しているのです。次に「ペキン原人」は、今から1000年ほど前に地震で崩壊した北京の街を再建していた工夫たちが、大好物の猿の脳みそを食べた際の「猿の頭蓋骨の抜け殻」であったことが分かっているのです。その証拠に全てのペキン原人の化石の頭蓋骨には、ストローで脳みそを吸い出した穴が開いているのです。さらには「アウストラロピテクス」の1種で「ジンジャントロプス」の骨が発見されたのは南アフリカですが、1972年にはそれよりもさらに下の地層から「完全な人間の頭蓋骨」が発見され、その事実は1973年のネイチャー誌に発表されました。しかしここで問題なのは、学術界がすでに「猿から人への進化はあり得ない」と否定した後になっても、日本の教育界がこれを「事実」として教科書に掲載していることです。つまり日本の子供たちは、学校で「ウソを教えられている」と言うことになります。

(2) 進化の過程が一元的に説明できない

 進化論によれば、「動物」と同じように「植物」も進化の道を歩んだことになっています。ところが、今日の最新遺伝子学を以ってしても、「野生種の植物がどのように栽培種に進化したか」は分からないのです。特に「野菜類」「穀類」に関しては、ハッキリした原種(野生種)が見つからないものが大半なのです。この点について、進化論学者は「新石器時代の人達が時間をかけて品種改良した」と説明しているようですが、それはつまり「石器時代の遺伝子組み換え技術の方が、今より先進的だった」と言うことになり、余りにも支離滅裂な暴論です。そんな能力が「石器時代」にあり得ようはずがありません。しかし、同様なことは我々人類にも言えるはずです。最新の遺伝子学によると、「DNAを調べると、人類の起源は20万年前のアフリカ大陸の1人の女性に行き着く」と言う結論が出ていますが、もしそこから人類が増えたとすると、全ての種はそのように「1つの個体から増えて行った」と言うことでしょうか? つまり「全ての種には、その起源となる『最初の個体』が存在する」と言うことになりますが、そのような見解について、進化論学者は無視して何も語ろうとしていません。
 
 「進化論」の主張に基づいて作成された「生物進化時代表」=「どの時代に何がどのように進化したかを樹木の枝のように並べた系統図」は、これまでに発見された化石の資料を用いて「進化理論を証明するため」に編成されたものですが、その中身は矛盾だらけであり、すでに「そのような進化過程はあり得ないこと」が実証されています。例えば「鳥類の出現時代」は、偽造の「始祖鳥化石」に基づいて推測されたのですが、その後の「他の化石出土」に伴って「進化論と矛盾する事例」=「進化系統図のどの位置にも配置し得ない種の存在」が多々指摘され、説明がつかなくなってしまっています。しかし、これに対して「進化論学者」は理解・説明しようともせず、「進化論を証明する助けにならない論理はすべて無視する」と言う態度を続けています。

(3) ヒトと霊長類の決定的な違い!

 そもそも、「人類が猿から進化した」と言うには矛盾点が多過ぎます。「人類」は猿から進化したと言う割には、逆に「退化」している面もあるのです。この点について「進化論学者」は、やはり無視し続けています。その「説明できない領域」について、以下にまとめてみます。

 まず、霊長類(猿)の染色体は24対/48本ありますが、人は23対/46本しかありません。多数の遺伝子情報を含む染色体が2本少ない人類の方が、なぜ「高度な文明」を持つことができているのか、進化論研究者は今だに何の説明もできていません。また、人骨は霊長類の骨に比べると遥かに軽く、さらに近代人の骨はネアンデルタールに至るあらゆる先行人類の骨と比べても、はるかに軽いのです。我々の祖先だとされている「先行人類(原人)の骨」は、霊長類の骨により似てはいますが、近代人の骨とはまったく違うのです。また、人間の筋肉は、霊長類と比較すると著しく弱く、我々はどんな霊長類よりも弱いのです。どんな屈強な人でも、ゴリラと喧嘩して勝てるはずがないことは容易に想像できます。なぜ、「霊長類(猿)から進化した結果」が、このように「猿より遥かに劣る結末」になるのでしょうか…? さらには、人の皮膚は地球を照らす太陽光線(紫外線)に対して非常に弱くなっています。よって、人種が地球上で普通に生活するためには、「衣服で体を覆う」か「日陰(建造物)に入る」しかありません。霊長類は太陽光線から身を守るために、頭から足先まで毛で覆われていますが、人類は体全体を毛で覆われていないので、紫外線や寒さに弱いのです。しかも霊長類(猿)とは完全に逆になっており、背中は毛が薄く、胸の方が毛深くなっています。

 さらに「人類」と「霊長類(猿)」の違いを比較すれば、人類は霊長類に比べて皮下脂肪が10倍程度多くなっています。そのため、「肥満の人」は居ますが、「肥満の猿」は見たことがありません…。さらには、「霊長類の毛髪や爪」はある長さまで伸びると自動的に止まってしまいますが、人の髪や爪はどこまでも伸び続けるので、自分で切る必要があります。「進化論」=「適者生存」の法則で考えれば、「不必要な毛髪や爪は排除されるはず」なのであって、人類の脳が発達して「道具を発明して自分で毛髪や爪を切ることができるように進化した」のとは別次元の話です。この点についても、進化論学者は無視して語ろうとしていません。また、人類の頭蓋骨や脳は、霊長類(猿)とは全く違う形をしており、共通する部分はほとんど無く、そもそも異質なものに対して「どちらが高度で進化しているか?」と言う疑問を持つこと自体が非常識なのです。さらには、「霊長類(猿)の喉と比べて、人類の咽頭は完全に別構造」になっており、人間の喉は猿と比べて相当下の方にあるので、「いくら猿が進化しても、構造的に言葉を発することができない」と言うのも事実です。このように「人類と霊長類(猿)は全く別の種」であり、いくら猿が進化したとしても、それが人類になり得ることはないのです。

(4) 確率計算結果でも「生物進化(種の移行)」は完全に不可能

 ダーウィンの時代にはまだ明らかにされていなかった「遺伝子」と言うものが解明されつつある現代では、「進化の研究」についても新たな局面を迎えています。つまり「遺伝子レベルからの進化解明」=「遺伝子が変化していなければ『進化した』とは見なされない」と言うように、「進化に対する明確な定義」が生まれたのです。そして現代の進化論研究者が「遺伝子偶発変異(いわゆる突然変異)」を用いて進化の過程を解明しようとしているのですが、合理的なあらゆる計算結果では「進化(種の移行)そのものが否定されてしまう」と言う結論しか導き出せません。詳細な計算結果はあまりにも膨大ですのでここでは省略しますが、「突然変異が起こり得る確率」「生命個体が生き残る確率」「繁殖と寿命の平均値」などを前提に試算した結果では、「遺伝子的にある種から別の種に変異するために要する時間は、少なくとも宇宙年齢(150〜200億年と言われている)より遥かに長い」と言う結論です。つまり「この宇宙が誕生して以降、いかなる生命種も別の種へ進化・移行することは遺伝子学的にあり得ない」のですから、これ以上の議論の余地はありません。さらに付け加えるならば、現時点で明らかにされている「進化の系統図を実証するための化石群」を見直してみると、約35億年前に「最初の生命」=「バクテリア?」が誕生して以降、「単細胞のバクテリアやアメーバが変化・変異して何十億年もかかって進化している」のに対し、その後は「複雑怪奇な多細胞を持つ哺乳類(人類を含む)が高々数百万年で驚異的な進化を遂げている」と言うことになっているのです。改めて考えてみれば、そのような矛盾した説明が成立するはずがないのですが、それに対してはどの進化論学者でも今だに全く説明できていません。

(5) 「大進化」だけでなく「小進化」も説明不能

 ダーウィンの仮説では、「適者生存」=「あらゆる生物はすべて進化の結果として生じたものである」 と言うのが進化論の基本とされています。ところが、「遺伝子解析」が進んだ昨今では、「大進化」=「ある種から別の種への移行」があり得ないことが実証されました。そこで、現時点でもまだ議論されているのが「小進化」=「同一種での進化(変化)」と言うことですが、その代表例が「キリンの首が長くなった」と言うような説明です。ダーウィンの進化論で唱えられた「自然淘汰」とは、「環境に適する生物が生き残る」=「その個体の特徴が、生きて行く上で有利な個性の生物が生き残る」とされており、キリンの場合、初めは首が短かったために低い位置の木の葉しか食べらなかったものが、そのうちに「首の長い個体」が現れて、それが高い木の葉を食べられるために、結果として「首の長いキリンの子孫だけが生き残った」と言う理屈です。

 ところが、それもすでに科学的に否定されているのですが、日本人の大半はその事実を知らされていません。まず、この説明では「首の短い草食動物(羊や牛など)はなぜ淘汰されなかったのか」=「低い(位置の植物が食べ尽くされれば、首の短い種はすべて淘汰されるはず」と言うことが全く説明できません。なぜキリンだけ長い首が必要だったのか、なぜ他の草食動物は短い首でも淘汰されなかったのか、進化論学者は無視して全く触れようともしていません。また、「キリンの首の長さ」は、その遺伝子情報によって決まっているものですから、普通のキリンから「別種のように首が極端に短いキリンの子供」が生まれることは決してありませんし、実際に「首の短いキリンの化石(移行の痕跡)」はどこにも存在していません。それは「人間の身長」と同じようなものですが、人間の場合で考えれば「親子でも身長が同じ傾向になる訳ではない」=「背の低い親から背の高い子が生まれたり、逆に背の高い親から背の低い子が生まれたりする」ことを考えれば、「首の長いキリンだけが生き残った」と言う説明がいかに「根拠のない暴論」かが分かります。さらに、例えば「鍛えられた筋肉の人」は、その個人として「筋力を増強する」ことはできますが、その人の子孫は「特に鍛えなくても屈強な筋肉が備わって生まれてくる」などと言うことは決してありません。そう考えれば、「高い所にある木の葉を食べるために、キリンの首が長くなって行った」などと言うことはあり得ないと分かります。 「首が長くなるかどうか」は、すべて「キリンが持っている遺伝子情報」に依存しているだけであり、それ以外の要素(キリンの努力によって首が伸びた…?)は全く影響していないのです。

 さらに、「自然淘汰」と言う仮説にも疑問が残ります。例えば、「ネズミの尻尾を短くする研究」も行なわれていますが、「短い尻尾のネズミ同士を交配しても、なぜか長い尻尾のネズミが生まれる」と言う事実があります。ネズミとしては「生きて行く上で尻尾が短い方が機動性が高い」のですが、なぜか邪魔な尻尾が無くなることはありません。これは「キリンの首」とは全く逆の事例ですが、進化論学者は「ネズミの尻尾」については何も語ろうとしていません。それどころか、「猿が人に進化する過程で、邪魔な尻尾が退化して消えた」と言って憚らないのですから、支離滅裂でどうしようもありません。もう1つ、「自然淘汰」と言うことに関して付け加えれば、「乱獲によってパンダやアフリカ象やクロマグロなどが絶滅寸前となっている」と言う現実がありますが、逆に「いくら叩き潰してもハエやゴキブリはどんどん増え続ける」と言う事実もあります。「なぜハエやゴキブリは自然淘汰されないのか」について、進化論(適者生存)では全く説明できません。むしろ「絶滅の危機を回避するために、叩き潰せば潰す程ゴキブリの生命力・繁殖力は強くなって行く」と言う屁理屈もあるのです。それならばなぜ、パンダは「強い生命力・繁殖力」を得られないのでしょうか…。結局「進化論」とは、自然界の生命現象について「人間の都合が良いように屁理屈を付けただけ」でしかなかったのでしょう。実際の「生命の起源・淘汰の仕組み」は、そんなに簡単に説明できるような単純なものではなさそうです…。


教育的見地からの進化論否定

 このように、「猿から人へ進化したとして日本の教科書に取り上げられている説明はすべてウソであることがすでに明白である」にも係わらず、今だに教科書の記述が修正されることはありません。しかも、「教科書を執筆している専門家は、その記述が全くデタラメであることを知っていながら」…です。その原因としては、まず「進化論に代わる科学的な説明ができない」と言うことが考えられます。日本でも戦前の教科書では、歴史教育は「日本神話」=「伊邪那岐(イザナギ)・伊邪那美(イザナミ)の国創り」から始まっており、「我々日本人はすべてその神々の子孫であり、その中心にあるのが天皇だ」と教えられていました。これならば、「祖先や天皇は神に近い存在」と言うことになりますから、子供でも素直に天皇や祖先を尊敬できた訳です。ところが戦後の歴史教科書では、必ず「猿が人に進化する図」から話が始まっており、「我々の祖先は猿に近い」と教えられているのですから、現代の子供達が祖先を崇拝しなくなっても当然のことかもしれません。しかし、「猿からの進化」がウソだと判明した以降になっても、それに代わる説明として再び「日本神話」を持ち出すことはできませんから、相変わらず「虚構の進化論」を記述し続けるしかないのが現状なのでしょう。

 科学界では、前述のように「進化論の完全否定」はすでに明確にされているのですが、ならば「人類や生命の起源は何なのか?」と言う「進化論に代わり得る新学説」は、今のところ全く出されていません。なので、ほとんどの科学者が「進化論否定」を声高に叫ぶことはできないのです。それは、「もし進化論を否定できたとしても、代替説が打ち出せない」のでは学者のプライドが許さないからでしょう。よって現在では、「科学的に進化論を否定する声」は学者の間からは挙がっておらず、一部の宗教家や思想家が「神の権威」を保つために「進化論否定」を叫び、それに対して一部の進化論学者が「宗教界への対抗策」として進化論を肯定し続けているのです。つまり「進化論学者」も、「間違っていることを承知の上で進化論を信じ続けている」=「進化論への宗教的信仰を続けている」と言う状況です。かつてマシューズが言った通り、今となっては「進化論」は科学ではなく「1種の信仰」であり、その信者となった人達が「証明されないダーウィンの仮説を一方的に教科書に押し付けたりしている」のですから、それを無条件で鵜呑みにしている人達は皆「進化論信者に騙されている被害者」と言うことになるのかもしれません。

 では、なぜ日本ではこのような「進化論信者」が横行するようになってしまったのでしょうか? まずここで、20世紀初頭の日本の社会的背景について考察してみましょう。鎖国の影響で「産業革命」から取り残されていた当時の日本は、明治維新以降、西洋文明を取り入れて「近代化の道」を邁進して行きました。西洋からの動力機械の導入が画期的な産業変革をもたらし、「小規模な手工業」から「大規模な機械制工業」へ発展させることなどに成功し、経済力だけでなく同時に軍事力も発展させ、ついに「日清・日露戦争で当時の大国に勝利する力を持つ(日露戦争は、有色人種国が白人国に勝利した歴史上唯一の戦争だった)」までになりました。しかしその半面で、古き良き日本の伝統は捨て去られてしまいました。当時、「脱亜入欧」とスローガンが掲げられたように、「西洋と肩を並べてその仲間入りすること」が当時の日本の大目標であったのです。

 当時のそのような時代背景の下で「日本の近代思想」が発展したことを考えると、当時西洋の最先端思想だった「進化論」の影響を全く排除することは不可能であったと考えられます。しかも、当時の学者が「日本古来の思想体系」だけに固執することは「新時代の学者のプライド」が許さず、当時の西洋最先端の「進化論」「因果律論」を取り込まざるを得なかったとも推察されます。しかし、実は「日本古来の道徳思想の方が、西洋の科学よりもはるかに優れたものだった」ことが今でははっきり証明されています。その後の時代に、アインシュタインの「世界の盟主たる者は武力や金力でなく、あらゆる国の歴史を超えて最も古く尊い家柄でなければならぬ。我々は神に感謝する、我々に日本と言う国を造っておいてくれたことを」という言葉や、コタンスキーの「日本神話に説かれた宇宙論ほど天地を貫く永遠の真理が正しく示されたものは他に存在しない」という言葉を、もし当時の日本人思想学者が直接聴いていたら、「日本近代思想史」の流れは全く変わっていたかもしれません。ちなみに佐久間象山(1811-1864)は、明治維新前に東洋と西洋の良いところを合わせた新国家建設を志しており、「西洋の技術と東洋の道徳を合わせて新しい国を造る」と言う言葉を残しています。鎖国中の江戸時代でさえ、すでに「道徳では西洋よりも東洋の方が優れていること」を見抜いていた学者が日本にもいたのです。

 と言うことで昨今の宗教界・教育界では、別の意味で「ダーウィンの進化論が現代教育崩壊の元凶」と主張している人々もいます。つまり「自分の親・祖先を辿ると猿や獣になる」のでは、それで祖先を尊敬せよと言う方が無理ということになってしまいます。そこで、教育的見地から「古来の日本神話教育」を復活させようと言う動きもありますが、それはトィンビー博士が「12〜13歳までにその国の神話を学ばなかった民族は例外なく滅んでいる」と言っている通りだからでしょう。神話よりも進化論を優先して教えられていては、現代日本人の若者が祖先や天皇を尊敬できなくなっても当然であり、このままでは早晩本当に国が滅びることになるかもしれません。他国に目を向ければ、「ダーウィンの進化論否定」について、近年米国でも「マルクス史観」「共産主義史観」の根底思想であるとされ、公立学校で進化論を教えるべきかどうかの議論が盛り上がっているようです。「聖書にあるように全生物は創造主が個別に創った。ノアの洪水は実際にあり、選ばれた種だけが箱舟に乗ることを許されて残った」と主張する創造科学(科学的創造論)があり、やはり米国でも同様に「進化論による教育」は見直しの時期にあります。当然のことですが、「進化論」=「神の存在の否定」になりますから、世界大半の宗教家が進化論を認めていません。例えばキリスト教の世界では、「人類の起源は創造主によって作られたアダムとイヴ」であり、彼らが暮らしていた「エデンの園」には他の動物達も共生しており、決して「他の動物から進化してアダムとイヴになった訳ではない」のです。


進化論と言う「不思議な信仰」

 このように現状では、「科学としての進化論」も「宗教による種の創造論」も非常に怪しいものでしかないのですが、現時点で言えることは、「大進化の否定」=「種の移行は起きるはずがなく、人は猿から進化したのではない」と言うこと、また「小進化の否定」=「自分自身をどのように鍛えて変化させようとも、それが子孫に遺伝することはない」と言うことだけは確かなようです。この真実を正しく認識しておきませんと、色々なことに騙されることになってしまうでしょう。今日までに、多くの科学者が「進化論と言う仮説を証明できないこと」を既に実証していますが、「進化論に代わる新理論」が出て来ない限り、ある領域においては「仕方なく進化論を維持するしかない」と言う現実もあるのです。実際に、多くの科学者が進化論研究に何十年もの時間を浪費しましたが、結局は「研究を進めれば進める程、進化論の虚構・矛盾ばかりが発見された」と言う結果に終わりました。超一流の科学者であっても、例えばアインシュタインのように最終的に「悟りの境地」に至り、宗教の中から答えを探そうとした科学者も少なくありません。そのような科学者が口を揃えて言っていることは、「ダーウィンの進化論は19世紀最大のウソだ」と言うことです(ちなみに、「20世紀最大のウソは南京大虐殺だ」と言われています)。

 では、遺伝子学分野がここまで発展した今日、それでも真実を隠蔽して「進化論への信仰を維持・継続・発展させようとする人達」が絶えないのは一体なぜでしょうか? 実は「進化論」は、「近代生物学」を完全に間違った方向へ導いただけではなく、心理学・倫理学・哲学など多くの領域にも悪影響を及ぼし、極論すれば「人類の文明そのものを根本的に間違った方向へ導いた」と言えるのです。その「間違った方向へ導かれた人々」は、いつになっても「進化論の呪縛」から脱することはできませんから、そう簡単には進化論を捨てられないようです。そのような「進化論の悪影響」について、例えば下記のようなものが挙げられます。

(1) 人々に宗教観(神の存在)を虚構と見なさせ、「純粋な信仰心」や「道徳的価値観」を破壊してしまった。
(2) 「弱肉強食」「適者生存」のような競争原理を利用して、自己を発展させるために社会秩序を乱した。
(3) 「反伝統的」「反正統的」な変異・革命は、更なる進化・発展により良い結果をもたらすと人々に信じさせた。
(4) 人間は動物の末裔であり、「人間の本性は動物本能に由来する低俗なものだ」と人々に信じさせた。
(5) 文明至上主義・物質至上主義の横行により、「人類の幸福感」を根本的に転換させてしまった。

 誰もが感じている通り、このような価値観は既に日常社会のあらゆる面に満ち溢れています。そして、一旦「進化論信者」となってしまったら、人々はまず「自己を進化・発展させること」に専念し、その結果として「激しい競争と不安が渦巻く社会」が生まれ、その中で生き続けて行くためには「自己防衛のための更なる進化・発展」を必要とし、その結果として「更に利己的な社会」になってしまう愚行が繰り返されて来ました。人々は「私的な欲望」を満足させるために「不道徳」や「犯罪」を重ね、お互いの理解と信頼を失い、昨今では「社会の安定・安心感」が全く無くなってしまいました。大不況の中で犯罪件数は益々増加し、犯罪に至らなくても「必ず上達するHowTo本」「必ず幸福になる生き方」「絶対成功する自己啓発」「必ず痩せるダイエット」「体質を変える健康食品」「絶対儲かる投資話」などに騙され続ける人が後を絶ちません。それらはすべて「人は進化する」と言う虚構・妄想から端を発しているのですが、世の中に「そのような虚構・妄想を巧みに利用して儲けている人」がいる限り、「進化論信仰」は無くならないのかもしれません。

 それにしても、こんな荒廃した社会環境になっても、まだ「人は進化している」と本当に言えるのでしょうか。現代社会の全てに根底から浸透し、潜在的に人類の道徳性・社会性を堕落させた「進化論」と言う発想から、賢明な人類はそろそろ抜け出すべきでしょう。なぜ「進化すればする程、人は不幸になっている」と言う非常に単純な現実を、誰も直視しようとしないのでしょうか…。