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ローデシア紛争

ローデシア紛争(ジンバブエ解放戦争、第二次チムレンガ)は1964年から1979年まで、南ローデシアにおいて、ローデシア軍とアフリカ人解放組織の間で戦われた内戦で、2万人以上の人命が失われた。

ローデシア紛争の概要

ローデシア紛争(Rhodesian Bush War)は、1964年7月から1979年まで、南ローデシアで続いた内戦である。

ローデシア紛争が勃発した原因は、白人少数支配から、アフリカ人による多数支配への移行を、ローデシアの白人政権が拒み、アフリカ人に対する弾圧を強化したため、アフリカ人解放組織が蜂起したからだった。

アフリカ人解放組織はローデシア紛争を、ジンバブエ解放戦争(Zimbabwe War of Liberation)または、第二次チムレンガ(Second Chimurenga)と呼んでいた。

国際連合および、ローデシアの宗主国であったイギリス政府や、アフリカ人解放組織は、ローデシア紛争を、白人による少数支配を守ろうとするスミス政権と、アフリカ人多数支配を目指すアフリカ人解放勢力の戦争と捉えていた。

しかし、スミス政権は、東側諸国から支援を受けた共産主義勢力である、アフリカ人解放組織から、アフリカ人を含む、全ての市民を守るために、ローデシア政府は戦っていると主張していた。また、ローデシア政府は、共産主義勢力と戦う事により、ヨーロッパの価値観、キリスト教、法の支配と民主主義を守っていると主張していた。

ローデシア紛争で交戦した勢力

ローデシア軍募集ポスター

スミス(Ian Douglas Smith)政権の指揮下にあったローデシア軍と、その後、政権を受け継いだ、ムゾレワ(Abel Tendekayi Muzorewa)政権の指揮下にあったジンバブエ・ローデシア軍は、ロバート・ムガベ(Robert Gabriel Mugabe)の「ジンバブエ・アフリカ民族同盟(Zimbabwe African National Union, 以下ZANU)」、そして、ジョシュア・ンコモ(Joshua Mqabuko Nyongolo Nkomo)の「ジンバブエ・アフリカ人民同盟(Zimbabwe African People's Union, 以下ZAPU)」と戦った。

また、南アフリカは、準軍事組織の国家憲兵である、南アフリカ警察軍(South African Police, 以下SAP)を派遣し、ローデシア紛争に軍事介入した。ポルトガル軍もモザンビークでローデシア軍と共同作戦を実施していた。

他にも、ZAPUとZANUそれぞれの統合派により結成された、ジンバブエ解放戦線 (Front for the Liberation of Zimbabwe, 以下FROLIZI)も短期間ながらローデシア軍と戦っている。

ザンビア軍、タンザニア軍、ボツワナ軍、モザンビーク解放戦線(Frente de Libertacao de Mocambique, 以下FRELIMO)は、越境攻撃を仕掛けてきた、ローデシア軍と交戦している。また、南アフリカのアフリカ民族会議(African National Congress, 以下南アANC)は、ZAPUと軍事同盟を結びローデシア軍と交戦した。

ローデシア紛争を支援した勢力

ローデシアを支援していた国には、ローデシアと同様のアパルトヘイト国家であった南アフリカと、モザンビークとアンゴラを植民地とするポルトガルだった。ローデシア軍は南アフリカやポルトガルから供与された物資で戦争を継続していた。

ZAPUはソビエトから支援を受け、ソビエト、キューバ、アルジェリア、ブルガリア、北朝鮮、ザイール(カタンダ州)でゲリラ兵の訓練を実施した。一方、ZANUは中国から支援を受けており、ゲリラ兵の訓練は、中国、キューバ、ガーナ(1966年2月のエンクルマ失脚まで)、エジプトで実施した。中国から支援を受けていたZANUよりも、ソビエトから支援を受けていたZAPUの方が、武器や装備が良かった。

また、フロントライン諸国と呼ばれる、ザンビア、タンザニア、ボツワナ、モザンビーク、アンゴラの各国は、基地の提供、物資の供給、ローデシアへの侵入経路を確保するなどして、アフリカ人解放組織を支援していた。

フロントライン諸国は、武力闘争の支援のみならず、分裂したアフリカ人解放組織の一本化や、ローデシア紛争終結に向けての交渉などに尽力し、ローデシア問題解決のために大きな役割を担った。

ローデシア紛争に関係した勢力

ローデシア紛争に関係した勢力には、イギリス政府、国際連合(United Nations)、イギリス連邦(The Commonwealth of Nations)、アフリカ統一機構(Organisation of African Unity, 以下OAU)、がある。

ローデシアの宗主国であったイギリスは、一方的独立宣言に対して武力を行使せず積極性に欠ける対応を行った。国連による経済制裁は、南アフリカとポルトガルが制裁に従わなかったため、十分な効果を上げることが出来なかった。OAUのイギリスに対する働きかけは「非現実的なもの」あるいは「無意味なもの」としてイギリス政府から一蹴されたため、あまり意味をなさなかった。

国連とOAUは、イギリスの対ローデシア政策に、直接影響を及ぼすことが出来なかったが、英連邦は、一時的にではあったが、イギリス政府の政策に明白な影響力を行使していた。

アメリカは、国連安保理決議による経済制裁に従わず、ローデシア産クローム鉱石を輸入していた。また、日本もローデシア産クローム鉱石を密輸入していた。

ローデシア紛争初期

ローデシア紛争の勃発

反ローデシア・デモ

1964年4月、フィールド(Winston Field)首相に代わって、首相となった前大蔵大臣スミス(Ian Douglas Smith)は、一方的独立宣言(Unilateral Declaration of Independence, 以下UDI)に備えて、与党ローデシア戦線(the Rhodesian Front, 以下RF)による国内支配体制を確固たるものにするべく、アフリカ人民族主義運動に対する弾圧を強化していった。

それに反発したZANUは、1964年7月、RFの官僚を暗殺し、ローデシア紛争が勃発した。

ZANUの攻撃に対応して、スミス政権は、1964年8月、ZANUとZAPUの指導部を拘留した。収監された主なアフリカ人指導者は、シトレ(Ndabaningi Sithole)、タカウィラ(Leopold Takawira)、テケレ(Edgar Zivanai Tekere)、ンカラ(Enos Nkala)、ニャグンボ(Tapfumaneyi Maurice Nyagumbo)だった。

1962年初頭、ZAPUは中国、その他のゲリラ支援国へ訓練のために人員を送っていた。ZANUも1963年にそれに従い、地方での威嚇作戦を開始した。1964年、両者は白人所有資産への侵入、妨害、攻撃の長い計画を立てた。ローデシア当局は、著名な民族主義のリーダー(ンコモ、シトレ、ムガベ)を指名手配することで応じたが、当時、国内の治安は依然として大部分、警察が責任担当とされ、この権威は、1964年の治安維持法によって強化された。

ZAPUは52名のゲリラ兵を、1964年3月から1965年10月にかけて、ソビエト、中国、北朝鮮に送り込み、訓練を受けさせた後、ローデシア国内に侵入させた。また、ZANUの「クロコダイル・グループ(Crocodile Group)」は、1964年7月にヨーロッパ人農園主を殺害するゲリラ活動を行った。

ZANLAの結成

ZANLAゲリラ兵士

ZANUの軍指導者は、法廷弁護士のチテポ(Herbert Wiltshire Chitepo)とトンゴガラ(Josiah Magama Tongogara)だった。ZANUは1960年代中頃、最初はザンビアの基地から、のちにはモザンビークから、ローデシアへの攻撃を開始した。

ZANUは1964年9月から1965年3月にかけて、40名のゲリラ兵をガーナに送り込み訓練をうけさせた後、1965年4月にローデシア国内に送り込んでいる。

1965年にはZANUの軍事部門として、「ジンバブエ・アフリカ民族解放軍(Zimbabwe African National Liberation Army, 以下ZANLA)」がタンザニアにおいて結成された。

ZANUは主として、中国から支援を受けており、ZANUのゲリラ兵の訓練は、中国、キューバ、ガーナ(1966年2月のエンクルマ失脚まで)、エジプトで行われていた。

ローデシアの一方的独立宣言

一方的独立宣言

1965年11月11日、ついにローデシアは、一方的独立宣言(Unilateral Declaration of Independence, 以下UDI)を、宣言し、スミス政権とアフリカ人解放組織の対立は激化する。UDI後、イギリス政府は制裁を履行し、国連加盟国は英国の通商停止を支持した。

通商停止はローデシア軍の軍事活動が物資の不足で妨害される事を意図していたが、南アフリカやポルトガルから物資が供与されたため、ローデシア軍は必要な物資を入手することが可能だった。また、綿密な国際密輸計画、国内生産、侵入してきたゲリラ部隊から鹵獲した武器も使用していた。

また、このUDIにより、アフリカ人解放組織は、ローデシア問題は武力によってしか解決しえない、という確信を強めることとなった。

チムレンガ・デイ

1966年4月22日、カリバを攻撃に向かうZANLAのゲリラ部隊とローデシア軍は、シノイアで最初の大きな交戦を行った。戦闘結果はゲリラ部隊が撃破されることとなったが、この日をアフリカ人解放組織は「チムレンガ・デイ(Chimurenga Day)」と呼んでいる。

1966年5月には、ZAPUのゲリラ部隊の侵入があり、これは、ベイラ・ウムタリ間の石油パイプラインへの妨害と、ZAPU指導者シトレの解放および白人農場の攻撃を目標としていたが、白人カップルを殺害した後、ゲリラ部隊全員が逮捕または殺害された。

ZAPUとUSの軍事同盟

民族の槍のロゴ

また、ZAPUは、南アANCの軍事部門である「民族の槍(Umkhonto we Sizwe, 以下US)」と、1967年半ばから1969年までの時期に軍事同盟を結んでいた。ZAPUとUSの連合部隊とローデシア政府軍の衝突は、確認されているものだけで、3回発生しており、第1回は1967年7月から9月にローデシア西部のワンキー地区、第2回は1967年12月から1968年4月に北部地域で、第3回は1968年7月から8月に北部地域で発生した。

ゲリラ部隊は、ビクトリア・フォールズ地域のザンベジ渓谷経由で北部マタベレランドに侵入していた。これに対して、ローデシア軍は「ニッケル作戦」と「コールドロン作戦」を発動し、数週間にわたって戦闘を実施し、ZAPUゲリラ部隊を撃破した。ゲリラ部隊に甚大な打撃を与えることに成功したが、ローデシア軍兵士8名が戦死した。

南アフリカの軍事介入

ZAPUとUSの合同部隊による攻撃も、ローデシア軍の反撃により、戦術的な目標を達することが出来なかったが、ローデシア政府と南アフリカ政府に危機感を持たせることとなり、1967年8月頃から開始された南アフリカの軍事介入を誘発することとなった。

南アフリカは、準軍事組織の国家憲兵である、SAPを派遣した。SAPはヘリコプターや装甲車など、ローデシア軍よりも優れた武器を装備しており、ローデシア軍にとって大きな戦力となった。

また、一連の敗北はZAPU幹部に、戦術的な再検討をせまることになった。この戦術転換を切っ掛けにして、1970年から1971年にかけて、ZAPUは深刻な内部分裂を起こすことになる。この内部分裂によって、南アANCとの同盟も終わりを告げることになる。また、同時期に話し合われていた、ZANUとZAPUの統合問題も、ZAPUの深刻な内部分裂により、実現することはなかった。

FROLIZIの結成

1971年10月1日、ジンバブエ解放戦線 (Front for the Liberation of Zimbabwe, 以下FROLIZI)が、ZAPUとZANUそれぞれの「統合派」により結成された。FROLIZIは活動としては、1973年2月にゲリラ兵をローデシア国内に送り込んだが、1973年6月には事実上、崩壊し多数のメンバーがZANUに戻ったと言われている。

ZIPRAの結成

ZIPRAゲリラ兵士

ZAPUの内部対立は、不満分子がFROLIZIに分離したこともあり、1971年末までには終了し、この時期にZAPUの軍事部門が再編され、「ジンバブエ人民革命軍(Zimbabwe People's Revolutionary Army, 以下ZIPRA)」と名付けられた。

ZIPRAには最高司令部が設置されたが、戦略に関する決定はZAPUの最高機関である「人民革命評議会(People's Revolutionary Council)」によって行われた。ZAPUは軍事部門再編に当たり、新戦略を採用した。

新戦略は1960年代後半の失敗から学び、ローデシア軍との武力衝突の回避、侵入地域のアフリカ人住民に対する政治教育を重視したもので、サボタージュやヒット・エンド・ラン戦術に即したゲリラ活動を展開した。

ヒット・エンド・ラン戦術とは、具体的には、ゲリラ兵が夜間にザンベジ川を渡り、ローデシア軍がパトロールする道路に地雷を敷設し、すぐにザンビアへ引き返す、というものだった。

ZAPUとZANUは解放組織内での対立を解消すべく、1971年12月16日に、ZAPUかZANUが団結し、「アフリカ民族評議会(African National Council, 以下ANC)」が結成された。ANCの結成により、停滞していたアフリカ人解放運動は、再び活性化することとなった。

ローデシア紛争中期

3年戦争

ローデシア軍はモザンビークでポルトガル軍と共同作戦を実施し、ローデシアSASは1972年3月にマチンベを攻撃し、モザンビークでのZANLAの存在を確認した。

そして、1972年12月、ローデシア北東部で、白人農園(センテナリー農場)が攻撃され農園主と幼女が殺害され、反撃を行ったローデシアSAS兵士が地雷により死亡した。この事件によって、ローデシア北東部におけるZANLAの活動が明らかになった。実際には、ZANLAは1972年半ば頃からローデシア北東部への侵入を開始し、ゲリラ兵の徴募を行い、モザンビークから武器を運び込み、ゲリラ兵は農業労働者を装って準備を整えていた。それ以降、ZANLAのゲリラ兵による白人農場に対して攻撃が頻発するようになる。このようなZANLAの活動は、ローデシア国境に接する、モザンビークのテテ州をFRELIMOが解放し、同地域でZANUが活動する協定が、FRELIMOとZANUの間で結ばれたからだった。

センテナリー農場での事件に端を発して、ローデシア軍は「ハリケーン作戦」を発令した。ハリケーン作戦は、長期間に渡って作戦行動が続いたため、「3年戦争」と呼ばれた。長期間に及んだ、ハリケーン作戦により、268名のローデシア軍兵士が戦死し、79名の白人市民と1394名のアフリカ人市民が犠牲となり、総勢では4000名もの死者を出す結果となった。

ローデシア北東部でZANLAの活動が容易だった理由としては、ローデシア軍がザンビア国境地帯ほどモザンビーク国境に対して防御態勢を敷いていなかったことと、モザンビーク国境にはザンビア国境にあるザンベジ川のような侵入の障害になるような地形がなかったことが挙げられる。

保護村にアフリカ人を強制収容

アフリカ人解放組織の農村部への浸透に対抗するため、1973年1月の非常時権限条例により、ゲリラ兵の目撃情報を通報しなかったり、ゲリラ兵を支援したと目された村落全体に対して、制裁金を課す権限が地方長官に与えられた。

そして、1973年の中頃にはモザンビーク国境に沿って立入禁止地域が設定された。また、アフリカ人市民とゲリラの接触を断つため、「保護村(Protected Village)」と呼ばれる強制収容キャンプが設置された。

保護村には、1973年末までに8000人以上のアフリカ人が、1974年7月になると約6万人のアフリカ人住民が強制的に収容された。そして、最終的に50万人以上のアフリカ人が強制的に保護村へ移住させられ収容されたのだった。

この保護村についての詳細は、保護村(ローデシア軍の戦術)を参照。

ZANLAとZIPRAの戦略転換

また、この時期、ZANLAは武力闘争の戦略転換を行っていた。1973年9月14日から16日にかけてZANLAの最高評議会(Dare ne Chimurenga)においてチテポは、従来は政治闘争を軽視し、軍事攻撃にのみ終始していたが、1969年から1972年のあいだに戦略は変更されたとした。変更された新戦略では、敵に攻撃を仕掛ける前に、アフリカ人民衆を政治的に教育し、動員することを重視していた。すなわち、敵を攻撃する前に、アフリカ人民衆を味方に付ける戦略だった。ローデシア北東部でのZANLAの活動は、この新戦略に基づいて実施されていた。

一方でZIPRAも、100名以上の部隊を編制して攻撃を開始する戦略から、部隊を少人数に分け武器を隠す集積所を作る、ゲリラ戦へと戦略を変更していた。ゲリラ部隊の戦略変更に対抗して、ローデシア軍はゲリラ部隊の武器集積所を探していた。1974年8月から10月にかけてローデシア軍は、「ビックバン作戦」を実行する。

この作戦により、ローデシア軍は、ザンビア国内で、ZIPRAの大規模集積基地を発見し、これを爆破することに成功する。爆破されたZIPRAの大規模集積基地は、 ZIPRAの中央兵站基地で、マタベレランド部族保護地区における、作戦を指揮する拠点だった。この基地が破壊された打撃から、ZIPRAが回復するのには、6ヵ月の時間を要した。

モザンビークの独立と国境封鎖

ZIPRAはザンビアの秘密基地から、ZANLAはモザンビークのFRELIMO支配地域の秘密基地から、定期的にローデシア国内に侵入しゲリラ活動を続けていた。そのような状況の中、1975年6月にモザンビークが、1975年11月にはアンゴラが、それぞれポルトガルから独立を果たした。それは、すなわち、ローデシアが三方を敵対国に包囲される事態を意味していた。

1976年3月、モザンビークは約1287kmに渡る、ローデシアとの国境を封鎖した。しかし、ローデシア軍は越境攻撃と称する、モザンビークへの不法侵入でしばしば国境を越え、アフリカ人解放組織や、その訓練キャンプを攻撃した。ローデシア軍特殊部隊は、1976年5月2日、大規模な越境攻撃を行うために、予備役の兵士を招集した。

1976年初頭、ZANLAはローデシア軍との正面衝突は避け、農場や民間施設、民間車両などのいわゆるソフトな標的に集中して、テテ州、マニカ州、ガザ州の戦線で、戦闘を再開した。増加する襲撃に対抗するため、新作戦地域が設定された。それは、「スラッシャー作戦」(東部ハイランド)、「リパルス作戦」(南アフリカとの鉄道線の防御を主とする)、「タンジェント作戦」(ビクトリア・フォールズ、ワンキーとボツワナ国境をカバー)であった。

ローデシア軍の越境攻撃

Kカーに乗ったローデシア兵

この時期にローデシア軍がモザンビークに対して行った越境攻撃は、「トラベラー作戦」(1976年4月)、「デタッチメント作戦」(1976年5月)、「ロングジョン作戦」(1976年6月)、「エランド作戦」(1976年8月)、「マードン作戦」(1976年10月)があった。

「エランド作戦」では、セルース・スカウツは、ZANLA兵士1000人以上を殺害した。ローデシア軍は攻撃を、軍事目標に対して実施したものであったと主張。アフリカ人解放組織は、そこが難民キャンプだったと主張した。

「マードン作戦」には、ローデシアSAS、ローデシアン・ライト・インファントリー、グレイズ・スカウツが参加した。作戦の目的は、モザンビークから、ZANLAのゲリラ部隊が侵入するのを塞き止めるため、モザンビークのテテ州北部とガザ州南部を2方面から攻撃するものだった。この作戦は、2ヵ月の長期に渡る作戦で、ローデシア軍は、ZANLAのゲリラ部隊だけではなく、FRELIMOやタンザニア軍部隊とも戦闘を行い撃破した。

ローデシア軍の越境攻撃に対抗して、1976年10月7日、ゲリラ部隊は、鉱石を運搬する列車がマテチ川の鉄道橋を通過する際に爆破した。

ローデシア軍は1977年初頭までは、高い殺傷率を維持した(兵士1名の戦死でゲリラ10名の殺傷)が、268名のローデシア軍の犠牲に加えて、約1500人の民間人も死んだ。

RENAMOの結成

モザンビーク民族抵抗運動

ローデシアに敵対するモザンビークのFRELIMO政権を倒すため、ローデシア中央情報局は、1977年に、モザンビーク民族抵抗運動(RENAMOまたはMNR)を組織した。RENAMOは、ローデシアSASによって訓練された、モザンビーク人による反政府ゲリラで、ローデシア領内やモザンビーク国内の基地からローデシアSASと共にモザンビークに攻撃をしかけた。

RENAMOの中核を担ったヌドウ族は、元々ポルトガル軍に雇われていた者が多かったため、モザンビークがポルトガルからFRELIMO政権により独立したことで、迫害を恐れてRENAMOに加わったものが多かったと言われている。

RENAMOは当初、ローデシア中央情報局が行ったモザンビーク政府転覆を狙った、謀略放送のために作られた架空の組織だったが、ヌドウ族などFRELIMO政権を嫌った者がRENAMOへの参加を希望したため、ローデシア中央情報局は、ローデシア国内にRENAMOの訓練キャンプを設置しRENAMOの訓練を開始した。

RENAMOの訓練は、元ローデシアSAS将兵により実施され、1978年にはモザンビークへの越境攻撃を開始する。1979年1月には「バンパー作戦」というコードネームの元で、ローデシアSASが正式にローデシア中央情報局からRENAMOの指揮と訓練を引き継ぎ、RENAMOはローデシアSASと共に作戦行動を実施するようになる。

ローデシアSASとRENAMOは越境攻撃時に、モザンビーク国内で、各地の村を焼き討ちし、公共施設や公共交通などの破壊活動を行った。モザンビークでは、ローデシア軍とRENAMOの越境攻撃により、1338人のモザンビーク人が死亡している。

ローデシア崩壊後は、南アフリカがRENAMOの指揮を引き継ぎ、1982年にはマラウイに秘密基地を設置し、反政府ゲリラ活動を継続した。その後、RENAMOは1992年10月に、モザンビーク包括平和協定が調印されるまで、反政府ゲリラ活動を続けた。

地雷による被害の拡大

地雷によって破壊された車両

この頃、幹線道路で南アフリカ市民4人が、ゲリラの待ち伏せ攻撃で殺されたことにより、ブリティッシュ・サウス・アフリカ・ポリスの護衛する車列隊で主要な地域を移動することになった。また、首都のソールズベリーでは、ゲリラによる、レストランへの手榴弾攻撃が実施され、都市部でのテロリズムまでもが発生するようになっていた。

そして、舗装されていない道路を移動する場合は、地雷探知を実施するのが基本となった。なぜなら、ZANLAは、ソビエト製対戦車地雷を道路に埋める事で、ローデシアの物流と経済を麻痺させようと試みたからだった。

地雷を探す工兵

具体的には、1972年から1980年の間に、対戦車地雷(TM-46)による車輌爆発が2,504回あり、632人が死亡、4,410人が負傷した。戦争が激化するにつれ、道路の地雷も増加の一途を辿り、1978年(地雷894個または一日に2.44個の地雷が爆発または回収された)から1979年(2089個または一日に5.72個)の増加率はまさに233.7%に上った。

幹線道路への地雷の増加や、都市部でのテロリズムの発生は、ゲリラ部隊が、ローデシアのアフリカ人民衆の中にとけ込んでいることを示していた。このような状況を踏まえ、ピーター・ウォールズ中将(George Peter Walls)は、1977年4月3日に、ローデシアのアフリカ人市民に対して、民心掌握(hearts and minds)のためのキャンペーンを開始すると宣言した。

ローデシア軍の戦略変更

1977年、ローデシア統合作戦本部(Rhodesian Combined Operations, 以下COMOPS)が、戦争遂行のための指揮系統を整備するために創設され、ローデシア軍の戦略が変わった。ゲリラ部隊が、ローデシアへ侵入して来る前に、前線基地や訓練キャンプに対して先制攻撃を行ったのだった。

1977年5月、ウォールズ中将はZANLAの軍がモザンビーク、ガザ州の都市マパイに集結しているとの報告を受けた。スミス首相はウォールズに越境攻撃を許可する。ウォールズ中将は報道機関に対し、ローデシア軍は戦略を、牽制と守備から、追跡と破壊へと変更し、「必要ならば越境攻撃も厭わない」と述べた。1977年5月30日、500人の兵士が越境、マパイへ約96kmを進み、ローデシア空軍からの上空支援と、ダコタ機からの空挺降下部隊で、ZANLA軍と交戦した。ローデシア政府は軍がZANLA兵士32人を殺害し、ローデシア空軍のパイロット1人を失ったと発表した。モザンビーク政府は犠牲者の数に意義を唱え、ローデシアの飛行機3機とヘリコプターを撃ち落とし、数人の兵士を捕虜にしたと発表したが、統合作戦担当大臣(Minister of Combined Operations)ロジャー・ホーキンス(Roger Hawkins)はそのすべてを否定した。

1977年6月30日、国連安全保障理事会は411決議案で、「南ローデシアの違法な人種差別的少数派体制」のモザンビークへの侵入を非難した。ウォールズ中将は翌日、ローデシア軍はZANLAを排除するまでマパイを占拠すると発表。国連事務総長のクルト・ワルトハイム(Kurt Josef Waldheim)は、この一件を非難したことで、ローデシア軍は撤退した。アメリカ、イギリス、ソビエトの政府も、ローデシアによる越境攻撃を非難した。

1977年8月11日、ゲリラ部隊は、ソールズベリーのデパートを爆破、11人が死亡、70人が負傷した。1977年8月21日にはローデシア東部で、ゲリラ部隊が16人の黒人市民を殺害し、白人所有の農場内にあった彼らの家を焼き払った。こうした事態に対応するため、1977年8月には、さらにローデシア中央部に「グラップル作戦」地区が設定され、ローデシア中にゲリラが出没していることを示した。

内部解決の始まり

1977年11月には、アフリカ人解放組織の穏健派と、スミス政権による「内部解決」が具体的に動き出した。「内部解決」とは、武力闘争を行わないローデシア国内の解放組織を相手に、ローデシア問題の解決をはかろうとするもので、国内に在住するアフリカ人指導者との提携によって、キッシンジャー提案を一方的に履行して国際的な承認を獲得し、あわせてPFのゲリラ活動を鎮圧するために外部からの支援を仰ぐことを意図したものだった。

この内部解決が、ローデシアの弱体化によって進められたものでは無いことを示すため、ローデシア軍は「ディンゴ作戦」を実施した。この作戦は、モザンビーク国内に存在する、ZANLAの大規模な2つの基地、チモイオとテンブエを攻撃することだった。この作戦の結果、ZANLAは2000名以上の兵員を失い、武器や装備を破壊された。また、ZANLAは作戦行動に関する書類を多数、ローデシア軍に押収された。

民間人犠牲者の増大

1978年5月、アフリカ人解放組織とローデシア軍との戦闘に巻き込まれ、50人の市民が殺害された。これは、交戦中に殺害された市民の数としてはそれまでで最大であった。1978年7月、愛国戦線(Patriotic Front, 以下PF)のメンバーが39人のアフリカ人市民を殺害し、ローデシア政府は106人のゲリラ兵士を殺害した。1978年11月4日、ウォールズは2000人のPFのゲリラ兵士が、PFを離脱してローデシア軍のために戦うよう説得されたと述べた。しかし、実際に離脱したのは50人だけだった。1978年、450人のZANLA兵士がモザンビーク国境を越え、ウムタリの街を攻撃した。

アフリカ人解放組織による圧力は更に強まり、ゲリラ攻撃による犠牲者数が、1日平均で30人へと増加していった。そのため、1978年6月には、ローデシア北西部のザンビア国境付近に「スプリンター作戦」地区が設定された。スプリンター作戦は、ローデシア北西部、カリバ湖周辺から侵入してくるゲリラ部隊が増大したことに対応して実施された作戦で、カリバ湖地区に厳戒令を発令して実施された。

ZIPRAの正規軍化

ソビエト連邦から支援を受けていたZIPRAは、ソビエトの助言により、ゲリラ部隊ではなく正規軍を確立し、ザンビア領内にソビエト製の戦車・装甲車と軽飛行機を備蓄していた。

ZIPRA(すなわちZAPU)の戦略は、ZANLAにローデシア軍を撃破させた後に、ZIPRA正規軍をローデシア領内に侵攻させて、ZANLAを撃破するという漁夫の利を狙ったものだった。

そのため、ZIPRAはローデシア領内では、目立たぬように偵察をし、アフリカ人農民と連絡を取り合い、ZANLAと時々小競り合いをする程度に留めた。

ローデシア航空・バイカウント機撃墜

ZAPU議長のンコモは、ZANU議長のムガベから、ZANLAがローデシアに対する全ての戦闘を負担している、と非難を受けていた。なぜなら、ンコモはキューバ軍の援助により、ZIPRA正規軍を編制し、マタベレランドへ突入する戦略を好んだが、それを実行するには、まだローデシア軍が強力すぎると判断していた。そこで、ZIPRAはゲリラ攻撃へと踏み出した。

ローデシア航空825便
ローデシア航空のバイカウント機撃墜

1978年9月3日午17時30分、ローデシアとザンビアの国境に保養地のカリバから、首都ソールズベリー行きの、ローデシア航空825便(ビッカーズ782Dバイカウント)が、ZIPRAが発射したソビエト製のSAM-7対空ミサイルの攻撃で撃墜され、乗員乗客56名のうち38名が死亡した。

ローデシア航空825便は、17時10分にカリバ空港を離陸後間もなく、右主翼にSAM-7地対空ミサイルを被弾。パイロットは緊急降下を実施し、空き地に不時着を試みるも、灌漑用の溝に衝突し大破、炎上した。事故直後、18名が生存していたが、ZIPRA兵士により10名が殺害された。ZIPRA兵士に捕まらなかった、8名の生存者は翌日、ローデシアSASにより救助された。

1978年10月19日、ローデシア軍は、ローデシア航空825便撃墜の報復攻撃として、ザンビアの首都ルサカ近郊のZAPU司令部を攻撃する。

ローデシア航空827便
撃墜されたバイカウント機

ローデシア軍の報復攻撃に遭うもZIPRAは、ローデシア航空に対して二度目の攻撃を掛ける。1979年2月12日17時6分、カリバ発・ソールズベリー行きローデシア航空827便(ビッカーズ748Dバイカウント)が、離陸数分後にカリバ近郊で撃墜され、乗員乗客59名全員が死亡した。ローデシア航空827便はカリバを出発して間もなくSAM-7地対空ミサイルを左舷内側エンジンのジェット・パイプに被弾し、コントロールを喪失、炎上し峡谷に墜落した。

1979年3月13日(4月12日とする文献もある)、ローデシア軍は、ローデシア航空827便撃墜の報復攻撃として、ザンビア領内のンコモZAPU議長の住宅を襲撃した。

ローデシア空軍と南アフリカ空軍の共同作戦

アフリカ人解放組織への報復に、ローデシア空軍はキャンベラ爆撃機と、ホーカー・ハンター戦闘機を使用して、モザンビーク領内約200kmにあるゲリラ・キャンプを爆撃した。また、この爆撃には、南アフリカ空軍のキャンベラ爆撃機も、極秘で参加していた。1978年、ローデシア空軍と南アフリカ空軍による合同爆撃での、ゲリラ野営地およびモザンビーク、ザンビアの集会域への襲撃は、その数を重ねて行き、本格的なゲリラ野営地の航空調査や監視、兵站増強は、ローデシア空軍にかわり、南アフリカ空軍が行った。

ソールズベリー戦略燃料備蓄タンクの破壊

1978年12月 ZANLAがソールズベリーにあるローデシアの戦略燃料備蓄タンクに対する攻撃を成功させた。

この攻撃は、石油不足に悩むローデシアに大きな打撃を与え、アフリカ人解放組織によるローデシアへの攻撃としては、最大の戦果だった。ローデシア軍は、報復として、モザンビーク国内の経済施設へ攻撃を行った。

カザングラ・フェリー破壊

1979年4月12日に、ローデシア軍は、「ディンキー作戦」によって、カザングラ・フェリーの破壊を行った。このフェリーは、ザンビアのカザングラとボツワナの間を就航しており、鉄道以外で、ザンビアから南方の国々に抜けるための唯一のルートだった。

ローデシア軍情報部は、このフェリーを使って、ZIPRAがゲリラ部隊の兵員と物資を、ザンビアからボツワナに送り込んでおり、ボツワナに送り込まれたゲリラ部隊が、陸路でローデシアのマタベレランドに侵入しているとした。また、1979年の3月から4月にセルース・スカウツが、ボツワナ国内で、「ペタル作戦」を実施し、ボツワナ国内のZANLA上級将校を誘拐した。

ローデシア紛争末期

ムゾレワ政権の誕生

1979年6月1日、「内部解決」による普通選挙の結果、「ジンバブエ・ローデシア」という新たな国名のもとに、ムゾレワを首班とする初のアフリカ人政権が誕生した。1979年9月には「政府軍補助部隊」と呼ばれるムゾレワの私兵の元ゲリラ部隊が、ローデシア軍に編入された。

内部解決の目的は、キッシンジャー提案の一方的に履行と、それによる国際的な承認の獲得だったが、「ジンバブエ・ローデシア」は国際的な承認を得ることが出来なかった。そのため、ローデシア紛争は更に激化した。

1979年10月、「テピッド作戦」が実施された。この作戦はザンビア南東部ルスト地域にある、ZIPRA基地への攻撃が目標だった。しかし、それまでのゲリラ部隊とは違い、この基地にのZIPRA正規軍は練度が高く、装備も十分だったため、ローデシア軍はZIPRA正規軍を撤退に追い込んだが、壊滅させるまでに撃破することは出来なかった。この作戦により、ZIPRA正規軍がローデシアにとって見過ごすことの出来ない脅威になりつつあることが分かった。

ローデシア軍による生物化学兵器の使用

ローデシア軍が使用した生物化学兵器は、炭疽菌、コレラ菌、タリウム、リシンなどだった。ローデシア軍による生物化学兵器の使用はローデシア中央情報局(Central Intelligence Organaization, 以下CIO)によって指揮されており、1975年から生物化学兵器の研究が開始された。

そして、1976年にはコレラ菌が近隣諸国への越境作戦時に使用された。そして、1979年と1980年には、ローデシア国内で炭疽菌が使用されることとなった。ローデシア軍が国内での炭疽菌の使用に踏み切った理由は、炭疽菌でアフリカ人市民の家畜を殺すことで、ローデシアに浸透してくるゲリラが、病気をローデシアに持ち込んだと、アフリカ人市民に思わせてアフリカ人解放組織とアフリカ人市民を離反させるためだった。

ローデシア軍による、生物化学兵器の使用については、生物化学兵器(ローデシア軍の戦術)を参照。

ZIPRA正規軍のローデシア侵攻計画

1979年11月に、ローデシア軍によって「ダイス作戦」がザンビア国内で実施された。その頃、ZIPRAは通常部隊2万5千名を、ルサカ郊外に集結させ、ローデシアに侵攻する作戦を実行しようとしていた。作戦の目的は、ZIPRAの部隊が集結するのを妨害し、ローデシアへの侵攻を妨害することだった。

この作戦で、ローデシア軍は10本の橋梁を破壊し、その被害により、ZIPRAは集結地点に兵力を集中させることが出来ず、ローデシアへの侵攻は実施出来なかった。ダイス作戦での破壊行為により、ザンビアはタンザニアやマラウイに通じる、道路や鉄道も破壊され、モザンビークとの物資輸送も妨害された。そのため、ザンビアは、経済的に大きな打撃を受けた。

最終的に、ZIPRAのジンバブエ占領戦略は失敗に終わった。この失敗には、ローデシア軍による妨害もあったが、最大の要因としては、ローデシアの崩壊が、ZIPRAが考えたような軍事力での政権奪取ではなく、1979年9月10日から12月21日まで開催されたランカスター・ハウス会議によって定められた合意に基づくものだったからだ。

ローデシア紛争の終結

この協定により停戦が実現し、1979年12月12日イギリス政府からソームズ総督が派遣され、ローデシアはイギリスの植民地に復帰した。行政機関、政府軍、独立勢力のゲリラ部隊はソームズ総督の指揮下に入り、1980年2月に総選挙が実施された。

そして、1980年4月18日、南ローデシアはジンバブエとして正式にイギリスから独立し、ロバート・ムガベが新首相に就任。新政権成立にともない、事実上ローデシア軍の傭兵部隊であったRENAMOの管理は南アフリカ軍が握ることになる。また、ほとんどの戦闘部隊隊員は南アフリカ軍へ移籍する。こうして、2万人もの死者を出したローデシア紛争はやっと終結した。