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ローデシア軍の戦術

ローデシア軍は、少ない兵力でアフリカ人解放組織のゲリラ兵と戦うため、ファイヤー・フォース攻撃など新しい戦術を編み出して戦っていた。それでも、ローデシアはアフリカ人解放組織の粘り強い抵抗と、国際的な圧力のため崩壊した。だが、ローデシア軍は個別の戦闘において、不敗であった。

ローデシア軍の対ゲリラ戦

対ゲリラ戦争で治安部隊が勝利するためには、個別の戦闘で勝利するだけではなく、政府および治安部隊が地域住民に信頼されることが必要である。そのために、治安部隊はゲリラでは無い住民に危害を加えてはならないし、ゲリラでは無い住民をゲリラから保護し、住民とゲリラを隔離する必要がある。

治安部隊が住民から信頼されるためには、治安部隊が実施する作戦に正当な理由があるか、または、正当化できる作戦でなければならない。また、作戦行動は、ゲリラ活動を防止する目的で実施されねばならず、決して懲罰や報復を目的としてはならない。そして、作戦を実施する兵力は、最小限の規模でなければならない。

しかし、ローデシア軍が実施した作戦の中には、暗殺や誘拐、アフリカ人住民を巻き込んだ公共交通や公共施設の破壊作戦など、懲罰や報復を目的とした作戦が多く見られた。

そのため、ローデシア軍は、アフリカ人住民とゲリラ部隊の隔離に失敗し、地方部で、特に夜間においての支配力を失っていった。そもそも、ローデシア軍は、当時でさえ国際的に非難された、白人による少数支配を守るための軍隊であるため、多数派である黒人住民の支持を得ることなど、出来るはずもなかった。また、ローデシア軍は、国連が設置した難民キャンプまで、ゲリラが潜伏しているとして、焼き討ちにしたため、国際社会から批難された。

黒人村落をパトロールするローデシア軍

ローデシア紛争初期のゲリラ部隊は、十分な装備を持ってはいなかったが、ローデシア紛争中期から末期にかけては、ソ連邦や中国をはじめ、英国などによる軍事物資の援助を受けたため、ゲリラ部隊も十分な装備を保持していた。また、ゲリラ部隊は、現地住民の協力を受けることも出来たし、兵員の確保も容易だった。

しかし、アフリカ人解放組織のゲリラ部隊は十分な訓練を受けていなかったため、兵員数で劣るローデシア軍に対して個別の戦闘で勝利することは出来なかった。

それでも、1979年12月22日には、ランカスター・ハウス制憲会議が最終合意に達し、ローデシア軍は敗北することとなる。つまり、ローデシア軍はベトナム戦争における米軍と同じく、戦闘では勝利したが、政治的に敗北したのだった。

ファイヤー・フォース攻撃

アルエートV

ローデシア軍が実施した代表的な対ゲリラ戦術をファイヤー・フォース攻撃という。ファイヤー・フォース攻撃は、陸軍と空軍による共同作戦による攻撃方法で、ローデシア軍により開発され、その後、南アフリカ軍が発展させる。

ファイヤー・フォース攻撃では、パトロールやコンバット・トラッキングによってゲリラ部隊を追い散らし、撤退するゲリラ部隊の退路を断つように、特殊部隊隊員を空輸して包囲殲滅する戦術である。

スティック

ファイヤー・フォース攻撃では、まず「スティック」と呼ばれる4名1組の部隊を、アルエートVやヒューイなどのヘリコプターによるヘリボーンで先に展開し、そこへスティックを支援するための、まとまった兵力をDC-3 ダコタ輸送機「パラ・ダック」から、エアボーンによって展開していた。

このように、ヘリコプターと輸送機を併用した理由は、ローデシア空軍がファイヤー・フォース攻撃に参加する全部隊を輸送するだけのヘリコプターを所有していなかったからである。

スティックは、ヘリコプターに搭乗した士官により上空から指揮される。スティックのリーダーは下士官が勤め、地図と無線機を携帯していた。また、スティックは少人数であるため、強力な火力が必要である。そのため、スティックは必ず1挺の機関銃を装備していた。スティック4名の中で、もっとも体格の良い兵士が、FN MAG機関銃を装備した。なぜなら、FN MAG機関銃の射手は、重量の重いFN MAG機関銃を長時間に渡って携行し、肩付けや腰だめでFN MAG機関銃を射撃しなければならない場合もあったからだ。FN MAG機関銃の予備弾薬は、スティックの全員が分けて携行した。そして、スティックの残り2名はFN FALなどの小銃で武装し、救急医療品パックを交代で携行した。

航空支援
ファイヤー・フォースの打ち合わせ

ファイヤー・フォース攻撃には、アルエートVを対地攻撃用に改造した"K-Car"や、ナパーム弾などを装備したセスナ337 リンクスが航空支援として加わっていた。さらに、スティックが危機に陥った場合には、空軍のジェット攻撃機が支援に加わることもあった。

ローデシア空軍の装備はお世辞にも良いものではなかったが、ローデシア紛争初期のゲリラ部隊は航空機や対空兵器を装備していなかったため、制空権はローデシア軍側にあった。そのため、旧式の「パラ・ダック」によるエアボーンで兵力を展開することが出来た。

しかし、ローデシア紛争中期から末期にかけては、ゲリラ部隊も、ソ連邦から武器供与された、ZPU対空重機関銃やZU-23対空機関砲、SA-7(9M32 Strela-2)携帯地対空ミサイル、英国から武器供与された、レイピア地対空ミサイルを装備するようになった。

まず、ゲリラ基地にZPU対空重機関銃やレイピア地対空ミサイルが配備された。だが、ゲリラ部隊は練度が低かったため、レイピア地対空ミサイルを十分に運用することが出来なかった。そして、ローデシア紛争末期には、ゲリラの歩兵部隊もSA-7携帯地対空ミサイルを装備するようになった。また、ローデシア紛争末期には、キューバ人義勇兵パイロットが操縦するミグ戦闘機も、出没するようになった。それでも、ローデシア紛争が終結するまで、ローデシア軍の航空優勢は揺るがなかった。

コンバット・トラッキング

コンバット・トラッキング

ローデシア軍は、ザンビアおよびモザンビークとの国境地帯を、哨戒部隊によってパトロールを行い、ゲリラ部隊の痕跡を見つけた場合、コンバット・トラッキングによって、ゲリラ部隊を追跡していた。また、セルース・スカウツのような特殊部隊は、ゲリラの支配地域にまで侵入して、コンバット・トラッキングを行っていた。

コンバット・トラッキングとは、ゲリラ部隊の移動した痕跡を辿り追跡する戦術で、通常は基準線を定め、基準線の左右に追跡チームを配置して開始する。追跡チームは4名編制を取ることが多い。また、フォーメーションは、Y字隊形を取る。具体的には、Y字の両翼部分に側衛を配置し、追跡担当者を中心に、指揮官がその後に続く。

痕跡を観察する

コンバット・トラッキングでは、ゲリラ部隊の残したあらゆる痕跡を、視覚・嗅覚・聴覚の全感覚を活用して辿らなければならない。ゲリラ部隊が残す痕跡としては、足跡、音と臭い、血痕、落とし物やゴミ、草木の乱れ、昆虫の行動などが考えられる。

そして、痕跡を発見した場合、漫然とそれを眺めるのではなく、痕跡をしっかりと観察し、その痕跡が何を意味するのかを熟慮しなければならない。

また、コンバット・トラッキングでは焦りは禁物である。焦って追跡すると、痕跡を見落とす可能性が高い。また、痕跡を見失った場合でも、忍耐強く痕跡の再発見に努力しなければならない。

索敵方法
コンバット・トラッキング

痕跡を見失った場合には、最後に発見した痕跡まで戻り、予想されるゲリラ部隊の進行方向に向かって、ジグザグに移動して痕跡を探す、クロス・グレイン方式を実施する。それでも、痕跡を見つけることが出来ない場合には、再度、最後に発見した痕跡へ戻り、円を描くように捜索する、360°方式を実施する。最初は小さい円から始めて、痕跡が見つかるまで円を大きくしていく。

常に警戒する

もし、ゲリラ部隊が、後ろ向きに歩く、足跡を消す、岩場や河川を歩くなどの隠蔽行動に出ている場合は、ゲリラ部隊が追跡を察知していることが考えられる。その場合には、ゲリラ部隊が周囲に隠れて追跡から逃れようとしているか、アンブッシュ攻撃を準備している可能性が考えられるため、警戒を怠ってはならない。

また、ローデシア軍部隊が、ゲリラ部隊から追跡される場合もある。ゲリラ部隊からの追跡を避けるため、ローデシア軍部隊では、滑り止めパターンの無い靴底のブーツを履いて痕跡を消していた。しかし、ほどなくゲリラ部隊は、滑り止めパターンの無い靴底の足跡は、ローデシア軍部隊の足跡だと気付いてしまう。そのため、ゲリラ部隊と同じブーツを履くことが、もっとも効果的な偽装だった。

COIN機

リンクスのナパーム攻撃

COINとは"Counter Insurgency"の略で、対ゲリラ任務のことを指し、COIN機とは、練習機や観測機などの軽飛行機に、武装を施し、軽攻撃機とした機体を指す。

ローデシア空軍では、セスナ337(リンクス)やSIAIマルケッティSF260などの、軽飛行機をCOIN機として運用していた。このような、COIN機はレーダーや爆撃照準コンピューターを搭載していないため、目視と地上からの誘導により目標を攻撃したり、地上と連携して空中管制や弾着観測などを行った。

ローデシア空軍のCOIN機は、ロケットランチャーやナパーム弾を装備しており、本格的なCOIN任務を実施していた。ローデシア紛争の初期、ゲリラ部隊は蛸壺壕を掘らなかったため、ローデシア空軍のナパーム弾攻撃や機銃掃射により、ゲリラ部隊は大きな損害を出していた。この出血から学んだゲリラ部隊は、ローデシア紛争後期には蛸壺壕を掘るようになり、恒久的な陣地には防空壕を建設するようになった。

ローデシア空軍以外でも、高価なジェット戦闘機を購入する軍事予算が無く、パイロットに十分な訓練を施すことの出来ない、アフリカ諸国においては、多くのCOIN機が使用されており、国によってはCOIN機が空軍の主力を占める場合もあった。そのため、ローデシア紛争以外でも、コンゴ動乱、ビアフラ戦争、アンゴラ内戦、南部スーダンなどの戦場で、COIN機は活躍した。

COIN機は機体が低価格で、パイロットの練度が低くとも運用出来る利点がある反面、地対空ミサイルや高射砲からの攻撃に対しては脆弱である。そのため、対空火器を装備していないゲリラ部隊に対しては有効だが、十分な対空火器を装備した正規軍との戦闘において、COIN機は全く通用しない。

ローデシア紛争においても、アフリカ人解放組織が対空火器を装備するようになると、ローデシア空軍のCOIN機は大きな損害を出すようになった。

プロパガンダ

ローデシア軍のプロパガンダ宣伝

多くの戦争でプロパガンダが実施されるが、ローデシア紛争も例外ではない。ローデシア軍はローデシア各地でプロパガンダのチラシをバラ撒いた。黒人住民に対しては、ゲリラ側に協力しても何の利益も得られない、と言った内容で、ゲリラ兵士に対しては、投降を促す内容だった。

また、ローデシア中央情報局は、プロパガンダ放送による、モザンビークのFRELIMO政権転覆を狙って、送信出力400kWのラジオ局「アフリカの声」を設立し、モザンビーク国民に対してラジオ放送を行った。ラジオ放送の内容は、FRELIMOの共産主義政権を打倒するため、架空の組織RENAMOへの参加を呼びかけるものだった。

保護村

保護村

ローデシア軍のパトロール部隊は、アフリカ人の村落において住民を尋問するなどして情報収集を行っていたが、その際に、住民がゲリラ部隊に協力している、と判断した場合には、村落に火を放ち焼き討ちにしていた。

そのような戦術では、ゲリラ部隊のアフリカ人村落への浸透を防ぐことは出来るはずもなく、逆にゲリラ部隊へ協力するアフリカ人を増やすこととなった。

そのため、1973年1月の非常時権限条例により、ゲリラ兵の目撃情報を通報しなかったり、ゲリラ兵を支援したと目された村落全体に対して、制裁金を課す権限が地方長官に与えられた。

1973年中頃には、モザンビーク国境に沿って「立入禁止地域」が設定された。また、農村部へのゲリラの浸透に対処するため、「保護村(Protected Village)」と呼ばれる強制収容キャンプが設置された。ローデシア軍は、この保護村計画を「オーバーロード作戦」と名付け、当初15名だった人員を500名まで増員し、保護村計画の策定を行った。最初の保護村はマウント・ダーウィンに建設され、そこから他の地域に広まっていった。

キープ

保護村には基準となる設計は無く、各個に周辺の地形を考慮して設計された。保護村の配置は基本的に長方形で、村の中央に防護フェンスで囲われたキープ(Keep)と呼ばれる防備補強地域を設置し、そこに保護村の管理を行う部隊であるインターナル・アフェアーズ(Internal Affairs, 以下Intaf)の兵員が常駐するというものだった。

この保護村に、1973年末には8000人以上が、1974年7月になると約6万人のアフリカ人住民が、強制的に移住させられた。最終的に50万人以上のアフリカ人が強制的に保護村へ移住させられ収容されていた。

ちなみに、ローデシアの人口は1979年で680万人であり、白人市民は老若男女合わせても約22万人ほどしか居なかった。その中で、50万人以上のアフリカ人が強制収容されるという事態が、いかに異様なものであったかが理解されよう。

キープ

ローデシア軍の主張によれば、保護村を設置した理由は、ゲリラ部隊への協力を拒むアフリカ人市民が、ゲリラから拷問を受けるなどの被害が発生したため、アフリカ人市民を保護するために、保護村を設置したとしている。

実際に、ZAPUとZANUの派閥争いによる殺人や、ゲリラに非協力的なアフリカ人市民への暴行などは発生していたが、ローデシア政府が保護村を設置した理由は、それらの暴力からアフリカ人を守ることよりも、大多数のアフリカ人市民がゲリラ部隊に協力したため、アフリカ人市民とゲリラ部隊の隔離を目的としたものだった。

保護村の警護には、保護村のキープに駐留していたIntafと、保護村の警護を専門とする部隊である、ガード・フォース(Guard Force)が担当した。しかし、このガード・フォースは装備も訓練も不十分な三線級部隊だった。

生物化学兵器

ローデシア軍には、アフリカ人解放組織に対して、炭疽菌、コレラ菌、タリウムといった、生物化学兵器を使用していたという極めて蓋然性の高い疑惑がある。

1979年から1980年の2年間、ローデシア国内では炭疽症が大流行し、10738名の症例が報告され、182名が死亡している。1978年以前にも、ローデシアにおいては、年間に平均13件の患者が発病していたが、年間13件から10738名へと患者数が増加するのは、通常なら考えられない。また、この炭疽症の流行により、家畜である牛が数千頭と死に、流行地域は拡大したが、なぜか炭疽症が流行したのは、アフリカ人解放組織の支配地域のみで、白人農場には被害が及ばなかった。そして、不思議なことにローデシア国内で炭疽菌は、極めて遠距離を移動している。なんと、家畜の炭疽菌感染が報告されていない地域を横断して、炭疽菌が移動しているのだ。

このような事実から、ローデシアにおける炭疽症の流行を調査していた、マサチューセッツ大医学部の医師メリル・ナスは、ローデシア紛争において炭疽菌が生物兵器として使用されたと推測した。また、WHO理事会のメンバーでジンバブエ保険大臣の、ティム・スタンプス博士も患者数などの統計から、炭疽菌およびコレラ菌が、ローデシア紛争において使用されたとしている。こうした話を裏付けるように、匿名の元ローデシア軍情報将校は、炭疽菌を使用を発案したのは、ローデシア軍の心理作戦部で、家畜が病気で死んでいくのは、モザンビークから侵入したゲリラが病気をローデシアに持ち込んだ、と思わせるためだったと証言している。

このような証言の他にも、アメリカ国防情報局(Defense Intelligence Agency, 以下DIA)から、アメリカ国防総省(United States Department of Defense, 以下DoD)に提出された秘密報告書には、セルース・スカウツの隊員が生物化学兵器を使用したことを認めている、との記述や、ローデシア軍がコレラ菌を使用している、などの記述があった。ローデシア軍によるコレラ菌の散布は、主に越境作戦にて実施されており、セルース・スカウツによって、ゲリラ基地の周辺の水場に散布された。

ブリティッシュ・サウスアフリカ・ポリスの元警察官で在職中は課長を務めていたヘンリク・エラートは、ローデシア中央情報局は、ゲリラが食べると思われるコンビーフの缶詰に、タリウムを混入したと証言している。その結果、コンビーフの缶詰は、ゲリラではない民間人の手に渡り、民間人に多数の死者が出た。

ローデシア紛争中に、白人でありながらアフリカ人解放闘争へ参加した、活動家のジェレミー・ブリックヒルは、ローデシアにおいて生物化学兵器を開発するための人体実験は、ローデシア中央情報局(Central Intelligence Organaization, 以下CIO)の指揮により、1975年にローデシア北東部のマウント・ダーウィンにある、セルース・スカウツの基地で実施されたとしている。そして、1976年にはCIO特別局とセルース・スカウツが、南アフリカ軍の要員と協力して、目標地域において生物兵器の散布を実施した。

また、炭疽菌、コレラ菌、タリウム以外では、アフリカ人解放組織のメンバー暗殺に、リシンが使用されている。匿名の元ローデシアSAS隊員で、ザンビアで数度の暗殺作戦を実施した人物の証言によると、CIOは暗殺用にリシン、タリウム、パラチオンを用意しており、彼がロバート・ムガベとジョシュア・ヌコモ暗殺作戦の指令を1979年に受けた際には、リシンを選択して、実際に暗殺の準備を行った。しかし、この暗殺計画はCIOが作戦の中止を指示したため、実施されることはなかった。

こういった、ローデシア軍による生物化学兵器の使用疑惑について、ローデシアの元首相であるイアン・スミスは、馬鹿げた話であると否定していた。ちなみに、ローデシアは生物兵器禁止条約に調印していなかった。