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ローデシアの歴史

ローデシア(ローズの家)とは、イギリス南アフリカ会社のセシル・ローズの名前から、命名された国名である。ローデシアは、暗黒大陸の「白い巨人」と呼ばれ、アパルトヘイト(人種隔離政策)で世界に悪名を轟かせた。この国は公式には「存在しなかった国」とされている。なぜ、「白い巨人」は倒されたのだろうか。ローデシア建設から1962年末の白人右派政権誕生までを簡単に紹介する。

「アフリカのナポレオン」セシル・ローズ

1867年にオレンジ自由国の西グリカランド(現在の南アフリカ共和国キンバリー市)で、ダイヤモンド鉱脈が発見されると、グリカ族の首長ウォーターボーア(Andries Waterboer)はイギリス商人のD・アルノットの口添えで、所有権を主張しイギリス政府に対して保護を求めた。

イギリス政府は直ちに介入に乗り出し、1871年に西グリカランドをイギリス領とし、1880年にケープ植民地に編入、オレンジ自由国に9万ポンドを支払った。

こうして、ケープ植民地でダイヤモンド・ラッシュが始まり、そこに採掘業者が殺到するのだが、その中に後に「アフリカのナポレオン」と呼ばれるイギリス人のセシル・ジョン・ローズ(Cecil John Rhodes)がいたのだった。

ローズは17歳(1853年7月5日生まれ)のときに、病気療養のため兄をたよってナタールにやってきた。その後、ダイヤモンド・ラッシュに乗って「ド=ベールス=トラスト」を作った。ローズは採掘業では成功しなかったが、採掘業者に排水ポンプを貸し出す事業で大成功し、巨万の富を築いた。また、ローズは1886年にトランスヴァールで金鉱業に乗り出し、1887年には資本金125000ポンドで南アフリカ金鉱業会社を設立した。

「アフリカのナポレオン」セシル・ローズ

後に、ド=ベールス=トラスト社は、1888年にはキンバリー=セントラル鉱業会社を、1889年にはグリカランド=ウエスト会社およびバルトフォンテイン=コンソリデイテッド会社を併合し、1890年にはトランスヴァールのほぼ全体のダイヤモンド鉱業の支配権を確立することになる。ちなみに、A Diamond is Forever(ダイヤモンドは永遠の輝き)の宣伝文句で有名な、デビアス社の創業者はセシル・ローズその人である。

イギリス南アフリカ会社の設立

ローズは1881年にケープ植民地の植民地議会に当選し、政界進出を果たし北方進出を画策する。現在のジンバブエ(旧ローデシア)にあたる地域は、1850年代に探検家のデイヴィッド・リヴィングストン(David Livingstone)によって探検が行われてはいたが、当時はまだどこの植民地にもなってはいなかった。

もちろん、当時はまだジンバブエという国名や地域名はどこにも出てこない。便宜上この地域をジンバブエと呼ぶ。そのジンバブエに当たる地域は、北部のマショナランド、南部のマタベレランド、東部のマニカランドの3地域によって構成されていた。

ローズはまず、1888年にマタベレランドのンデベレ族の王ローベングラと「ラッド協定」を結んだ。協定の内容は、マタベレランドの鉱山採掘権と引き替えに、ライフル銃1000挺、弾薬10万発、毎月100ポンドの支払いだった。

イギリス南アフリカ会社

ローズはさらにジンバブエ全土の鉱山開発を進めるべく、イギリス本国に対してジンバブエの開発・統治に関する特許会社(Chartred Company)の特許状(Chartre)を申請、イギリス植民地相のチェンバレン(Joseph Chamberlain)は渋ったものの、ヴィクトリア女王の同意を取り付けることに成功し、1889年10月29日に特許状を与えられ、ジンバブエを植民地化するための「イギリス南アフリカ会社(British South Africa Company)」を設立した。

イギリス南アフリカ会社はこの特許状に基づいて、ベチュアナランドの北とポルトガル領東アフリカの西における諸地域で、条約の締結、法律の公布、治安維持などの行政権の行使、利権(Concession)の獲得といった特権を得たのだった。この特許状の有効期間は25年とされ、後に10年間の延長が認められた。

イギリス南アフリカ会社の活動は生産に関与することではなく、金融資本および投機資本を主導し、資本家ないし商人の活動に介在し、種々の制約条件を課して、その活動を支配することだった。また、イギリス南アフリカ会社の目的は、植民地の行政機構や輸送手段を建設することで、そのための資金は、株式市場での投機活動と、他社の株式保有を通じてもたらされた。

パイオニア・コラムとローデシア建設

パイオニアコラム

1890年3月、ローズは遠征隊「パイオニア・コラム(Pioneer Column)」を組織しマショナランドへ派遣した。遠征隊の隊長はジョンソン少佐(Frank Johnson)が務めた。

パイオニア・コラムの参加者は、年齢30歳以下の入植者189名だった。パイオニア・コラムは装備も充実しており、糧食はワゴン117台分もあった。

パイオニア・コラムには警護のためのイギリス南アフリカ会社警察隊(British South Africa Company Police)の騎兵400名が同行した。この騎兵隊は後にローデシア国家憲兵隊である、ブリティッシュ・サウスアフリカ・ポリスの中核となった。騎兵隊は主にキンバリーで募集され、各自7シリング6ペンスの日当が支払われた。

1890年9月にパイオニア・コラムはマショナランドへ到着、9月12日にフニャニ川を渡り、ハンプデン山から8キロの地点に「ソールズベリー砦」を建設、そこがローデシアの首都であるソールズベリー市(現ハラレ市)の起源となる。こうして、パイオニア・コラムの任務は終了し、9月30日には任務を解かれた。パイオニア・コラムの遠征に参加した者には、3000エーカーの農地と15の金鉱区割当地を要求する権利が保障されていた。

1890年3月、ローズは現在のザンビア西部にあたる、バロツェランドに部下のロシュナーを派遣し、ロヅィ族の王レワニカと鉱山採掘権に関する協定を1890年6月27日に結んだ。これを足がかりに、イギリス南アフリカ会社は1891年までには現在のザンビア地域の大半に勢力を拡大していった。また、ローズの腹心であるジェームソン(Leander Starr Jameson)は、マニカランドに進出し、1890年9月14日にマニカランドの首長ムタサと会見し、鉱山の採掘権と住民の居住権を獲得した。

1890年にケープ植民地の首相に就任したローズは、イギリス南アフリカ会社の管轄区域を「ローデシア(ローズの家)」と命名する。こうして、現在のザンビアにあたる地域は「北ローデシア」に、ジンバブエにあたる地域は「南ローデシア」と呼ばれるようになる。

パイオニア・コラムにより入植した白人達だが、10年後には、55名が死亡、26名が永住、96名は他の土地に移住していった。こうした白人人口の不安定性には、1896年のチムレンガ(Chimurenga)と呼ばれる、ショナ人とンデベレ人の蜂起が与えた影響であった。

こうして、始まったローデシアの移民社会は、主として中流の下層または労働者階級の移民から成り立っており、入植者のほとんどは、南アフリカでの生活経験をもっていた。移民の中には、医師や法律家、教員などイギリスで高い教育を受けた者も存在していたが、人口構成では下層階級出身の移民が支配的だった。

ローデシアの植民地化が進んだ、1920年代には、南ローデシアで生まれた白人の処遇が問題となった。なぜなら、ほとんどの白人の子供達は、満足な教育を受けていなかったからだった。

第一次マタベレ戦争

マショナランドにおける鉱山開発事業は、施設の不足と南アフリカとの交通網の未整備により、著しく制限された。そのうえ、南ローデシアにおける金鉱の貧弱さが鉱業資本家に認識されるにようになると、新規資本の南ローデシアへの流入は絶望的となった。そのため、イギリス南アフリカ会社は、100万ポンドの創業資本では、資金が足りなくなった。

イギリス南アフリカ会社がこうした資金難を打開するために取った政策は、デビアス鉱山会社など南アフリカ巨大鉱業資本の融資を受けるだけでなく、収支両面に渡る施策を講じることだった。支出面では軍事費と行政費を削減するため、移民による義勇軍や治安判事に依存することにした。さらに、移民と資本の流入をはかるために、アフリカ人の土地における鉱物採掘権の獲得に一層積極的に取り組んだ。

こうしたイギリス南アフリカ会社による利権獲得政策は、南ローデシアに対する移民と投機家の関心を集めることに成功したが、アフリカ人の反感を買うことになり、第一次マタベレ戦争が勃発することとなる。

第一次マタベレ戦争は、1893年7月、フォート・ビクトリア近辺で勃発した。だが、ローズとジェームソンは、この戦争に勝利すれば、ンデベレ族の王であるローベングラとの交渉が有利になると期待した。そのため、イギリス南アフリカ会社は、イギリス南アフリカ会社は20の金鉱区、3000モルゲンの農場、家畜を与えるという条件で、ソールズベリーやヴィクトリアから義勇兵を募り移民軍を結成した。

その結果、機関銃などの近代的兵器を装備したイギリス南アフリカ会社の前に、ンデベレ族は大敗を喫した。そして、イギリス南アフリカ会社は、ンデベレ族から28万頭の牛を取り上げて、白人農場に配分した。

この第一次マタベレ戦争に勝利したイギリス南アフリカ会社は、ほぼ2年間に渡り、かつて無いほど有利に南ローデシアの開発を進めることが出来た。ブラワヨ証券取引所では、イギリス南アフリカ会社の株式は、1株8ポンド17シリング6ペンスで取引されたのだった。しかし、この株価は投機的なものであり、実質をともなうものではなかった。

1894年7月18日には、「Matabeleland Order in Council」が発せられ、イギリス南アフリカ会社は特許状の条項とこのオーダーの範囲内で、マタベレランド、マショナランドおよびマニカランドを含む全地域で、統治行政を行うことが出来るようになった。次いで、1894年11月24日には、1891年2月協定の補足協定「Memorandum of Agreement with South Africa Company respecting British Central Africa, supplementary to the Agreement of February 1891」が結ばれた。イギリス政府は、ザンベジ川以北の土地に対するイギリス南アフリカ会社の統治に全く介入することなく、イギリス南アフリカ会社に直接統治の任にあたらせることを認めた。これは、北ローデシアと南ローデシアの統合に道を開く物だった。

1894年8月から9月にかけて、南アフリカ金鉱会社(Consolidated Gold Fields of South Africa)の鉱山技師、J.H.ハモンドが南ローデシアの調査にあたった。その結果、マタベレランドやマショナランドは、いわゆる「第2のランド」ではないという認識を示した。ハモンドは「もし南ローデシアにおける鉱脈の価値を高めようとすれば、今後、一層広範な開発事業が必要である」と述べた。

そのため、イギリス南アフリカ会社は、1895年以降、株式投機によって資金流入をはかる政策から、鉱業における開発と生産を促進する政策へと方針を転換した。この政策転換は、アフリカ人に対する一層の攻撃へと繋がっていく。なぜなら、イギリス南アフリカ会社の南ローデシア支配の目的は、イギリス南アフリカ会社が円滑に事業を実施するための条件を、政治的および経済的手段によって作ることだった。

鉱業利潤の最大の源泉は、低賃金労働である。そのため、イギリス南アフリカ会社は、ショナ人社会への支配を一層強化していくことになった。当時は、まだ、アフリカ人農民が白人移民に食糧を売る傾向がみられ、アフリカ人社会と移民社会の経済交流の完全な遮断は見られなかった。

しかし、マタベレランドにおいて有望な金鉱脈を発見する期待が高まってくると、アフリカ人農民を鉱業労働力の供給源とするため、イギリス南アフリカ会社と移民の両者は、ショナ人やンデベレ人の経済活動を徹底的に攻撃を加え、アフリカ人社会の分断を図ろうとした。

イギリス南アフリカ会社は、数多くの家畜をンデベレ人から略奪したり、1893年5月には「非合法的」に課せられていた小屋税(Hut tax)を1894年の認可後、強引に徴収していくことで、アフリカ人を賃労働者へ転化していこうとした。

ジェームソン事件

ジェームソン

ローズはその著書で「神は世界地図が、より多くイギリス領に塗られる事を望んでおられる。出来る事なら私は、夜空に浮かぶ星さえも併合したい」と語っている通り、さらにイギリス領を増やそうと考えた。そのために、ローズはイギリス植民地相チェンバレンと共謀し、トランスヴァール共和国の征服を試みる。

トランスヴァール共和国には、「アイトランダーズ」(アフリカーンス語で外国人の意)と呼ばれるイギリス人が相当数いたが、トランスヴァール共和国のクリューガー大統領は、アイトランダースに選挙権を与えることを制限していた。クリューガー大統領がアイトランダースの選挙権を制限した理由は、もし選挙権を無制限に許した場合、数においてボーア人にまさるアイトランダースが、トランスヴァール共和国の政治を支配することになると考えたからだった。

この事態を利用したいローズは、アイトランダースの権利を保護するという名目で、マタベレランド総督のジェームソンを使い、トランスヴァール共和国でクーデターを企てる。ローズの命令により、ジェームソンは、マタベレランド騎馬警察400名とケープ植民地で集めた私兵200名を率いて、1895年12月29日にトランスヴァール共和国に侵入した。

イギリス人は、ボーア人よりも人口の多いアイトランダーズを差別するボーア人は公正ではないと感じており、ヨハネスブルグにおけるクーデターは当然成功すると誰もが予想した。また、ジェームソン隊は、マキシム機関銃を8丁装備していた。このマキシム機関銃の威力を、高く評価していたジェームソンは、侵攻の成功を危ぶむ者に、こう語っていた。「きみたちにはマキシム機関銃というものがよくわかっていない。私は、縦隊の両側に、1マイルに至る地帯を掃射することになるだろう。その中では一人のボーア人も生きてはいられない」と。

しかし、ジェームソン隊は、水冷式のマキシム機関銃を冷やすための水を十分に用意していなかった。そのため、ジェームソン隊のマキシム機関銃は、トランスヴァール軍との戦闘開始後、すぐに故障してしまうのだった。

1896年1月1日、ジェームソン隊がヨハネスブルグまで20マイルのクルーガースドルプに達したところ、トランスヴァール軍は塹壕を掘って待ちかまえていた。この銃撃戦で、5名の戦死者を出したジェームソン隊は、夜になるとトランスヴァール軍の側面に回り込むべく機動を開始し、ドームコップに達した。

しかし、そこではトランスヴァール軍のクロージェ将軍のコマンド部隊が布陣しており、戦闘に突入した。この数時間続いた戦闘により、ジェームソン隊は30名が戦死し、1月2日にジェームソンは降伏した。

このジェームソン事件により、ローズはボーア人の怒りを買うとともに、世界中の世論から非難される。そのため、ローズはケープ植民地首相と、南アフリカ会社からの引退を余儀なくさる。

トランスヴァール共和国における、アイトランダーズに対する差別は、イギリス政府の面子に賭けて、容認できるものではなかった。そして、ジェームソン事件により、イギリス人とボーア人の信頼関係は崩れ去り、外交は成立しなくなった。

第一次チムレンガ

イギリス南アフリカ会社と白人移民による収奪に対して、アフリカ人たちの不満が高まっていた中、ジェームソン事件が勃発し、イギリス南アフリカ会社支配地域から警察や軍隊の姿が消えた。これを好機として、1896年の3月と6月に第二次マタベレ戦争と呼ばれるンデベレ族の蜂起と、1897年にはショナ族の蜂起が勃発する。この一連の蜂起は、第一次チムレンガと呼ばれた。

第一次チムレンガは、1897年末まで様々な地域で継続され、ヨーロッパ人側450名、アフリカ人側8000名の死者を出し、イギリス軍の援助を得た白人達によって鎮圧されることになる。

ジェームソン事件と第一次チムレンガは、鉱業資本の流入を阻害し、発生期にあった南ローデシア鉱業に壊滅的な打撃を与えた。このような事態に直面したイギリス南アフリカ会社は、鉱業生産を実質的に高める政策をとる。鉱業家ないし工業家が有利に活動出来る基盤として、社会資本の整備に巨額の資金が投入された。その中でも、鉄道輸送の確立が不可欠の条件となる。

従来、イギリス南アフリカ会社は、当初の目的にもかかわらず、移民の鉄道建設を要求する声に無関心であった。しかし、鉱業発展のため、沿岸との鉄道輸送のすみやかな完成と主要鉱業地帯への支線建設が優先課題となった。

イギリス南アフリカ会社と移民社会の対立

ひとたび鉱業資本家が、株式市場における投機利潤の追求から現実の生産過程における利潤追求に移行し始めると、鉱業利潤は安価な労働力の豊かな供給に依存せざるを得なくなった。鉱業利潤の最大の源泉たる労働力供給源は、当然、アフリカ人社会に求められていった。

それには、直接にアフリカ人労働力を調達する機関が設置される方法と、間接的にアフリカ人農民の賃金労働者化を促進する方法があった。まず、前者については、1895年、各地の労働局がつくられ、また、1899年には南ローデシア労働局が設置されている。この労働局は、1899年後半の6ヶ月間にマタベレランドの鉱山に6000名以上の労働者を供給した。

こうした数多くの労働者は、強制労働とあいまって、鉱山の平均賃金を1897年の1ヵ月40シリングから、1900年には22シリングへ低下させるのに一役かうことになった。また、アフリカ人農民に開かれていた都市の農産物市場が、白人商人や南部から鉄道で食糧を供給する諸会社の参入によって制限されたことは、アフリカ人農民の賃労働者化を促進した。

しかし、このような労働力調達体制の進展を妨げたのがアングロ・ボーア戦争だった。この戦争は鉱業資本にとって必要な労働力供給源に重大な影響を及ぼした。すなわち、南部との交通が遮断されたために南ローデシアへの食糧供給が途絶し、アフリカ人農民は、再び食糧市場において利益をあげられるようになったからである。

その結果、農民層分解の速度がゆるやかになるとともに、劣悪な労働条件の下ではアフリカ人は鉱業労働につかなくなったからである。そのため、鉱業資本は他の労働力供給源を探さざるを得なくなった。

ジェームソン事件の後、イギリスはトランスヴァール共和国とオレンジ自由国を併合するため、第二次ボーア戦争(1899年10月11日から1902年5月31日)を開始する。第二次ボーア戦争の勃発は、南ローデシアにおいて、形成期にあった鉱業に深刻な打撃を与えた。鉱山設備の稼働率は著しく低下した。南部との鉄道交通が遮断され、運送費が上昇したため利潤が侵食され、労働力の調達と維持のために賃金と採掘費も上昇した。このような状況を切り抜けようとする鉱業資本の賃金削減政策は、労働者のストライキに直面することとなった。

南ローデシアにおいて生じた鉱業不況や利潤の減少は、ロンドン貨幣市場のしれるところとなる。鉱業資本は、一方で投機による資金獲得策の喪失、他方で操業費上昇による利潤減少という、経営麻痺に陥った。

こうした鉱業不況の中で、イギリス南アフリカ会社による南ローデシア支配に対する弱小鉱業資本家の不満が高まっていった。弱小鉱業資本家にとって、イギリス南アフリカ会社に支払う採掘権使用料は、鉱業利潤の確保を危うくするものであった。立法議会選挙の候補者は全て、イギリス南アフリカ会社統治の継続に反対した。さらに、「マイニング・ジャーナル」でも、「鉱業の発展が法外なイギリス南アフリカ会社へのロイヤリティによって阻害されているのは明らかであろう」と論じられた。

また、同誌は、南ローデシア植民地経済の発展は、イギリス南アフリカ会社の支配体制の破棄以外の方法では実現出来ないとの論陣を張っている。これを契機にして、イギリス南アフリカ会社支配に対する反対は、南ローデシアにおける移民社会の各方面に飛び火する。

ローズの死去

第二次ボーア戦争が始まると、ローズはキンバリーで4ヵ月もボーア人に包囲された。その間に、健康を悪化させたローズは、1902年3月26日に49歳の若さで死去した。ちなみに、ローズは独身者で、そのローズの遺産によって設立されたのが、オックスフォード大学のローズ奨学金である。

ローズの死は、イギリス南アフリカ会社の体質の変化を迫るものであり、イギリス南アフリカ会社と多くの白人移民をつなぎ止めていた精神的紐帯が切れたという点でも、南ローデシアの政治、社会、経済に重大な影響を及ぼすものであった。

イギリス南アフリカ会社の方針転換

ローズは、イギリスの領土拡大という政治的目標と植民地資源開発による利益追求という経済的目標を、イギリス南アフリカ会社の活動により同時に実現しようとしていた。しかし、ローズの死後、イギリス南アフリカ会社の政策を方向付ける上で指導力を持つようになった、ロンドン取締役会のメンバーは、イギリス南アフリカ会社を活力ある営利企業として再生させようと考えた。それは、イギリスの領土拡大という政治的目標を放棄することだった。

このような方針転換が行われた理由には、イギリス南アフリカ会社は資金不足と、取締役会の内部抗争のために、経営体質が弱体化したことが挙げられる。イギリス南アフリカ会社が資金不足に陥った原因には、1895年から1924年の時期において、行政費負担のために商業利益の大部分を割り当てなければならなかったため、初期には全く利益がなく、南北ローデシアの統治を放棄するまで、配当金さえ支払えない実情があったからだった。

1902年8月に開かれたブラワヨの大集会では、イギリス南アフリカ会社の特許状廃棄の動議が採択された。また、著名な独立派の移民達は、巨大鉱業資本家を優遇するイギリス南アフリカ会社の政策を酷評している。なぜなら、これらの巨大鉱業資本家は、南ローデシアの開発に何らの貢献もなしえないと考えられていたからである。

こうした批判に対して、巨大鉱業資本側も自らの立場の表明を迫られた。彼らの主張は、南ローデシア独自の進歩と繁栄の立場から、将来白人移民の自治を要求するにしても、さしあたりイギリス南アフリカ会社体制の下で鉱業の崩壊を救済出来るというものであった。

しかし、第二次ボーア戦争後の全面的な不況の中で、巨大鉱業資本の実施した合理化政策は、白人の探査人や採掘人の失業を発生させ、イギリス南アフリカ会社体制を掘り崩す新しい政治基盤を作り出すことになった。戦争中には、南部からの食糧輸入の途絶によってややうるおった白人農民も、生活費の窮迫のため生活不安に陥り、イギリス南アフリカ会社体制に不満を持っていた。

こうした事態を重く見たイギリス南アフリカ会社は、取締役を1902年9月に南ローデシアに派遣したが、イギリス南アフリカ会社の取締役には次のような要求が突きつけられた。

  1. 鉱業資本の活動制限の緩和
  2. イギリス南アフリカ会社に保有される株式の割合の軽減
  3. 白人農民の経済生活不安の解消
  4. 南ローデシア立法会議に選出される議員数の是正

この要求に対してイギリス南アフリカ会社は次のように対応した。

  1. 弱小鉱業資本は、会社として設立登記されなくても、操業出来るように制限を緩和する
  2. 巨大鉱業会社株のイギリス南アフリカ会社所有率を、50%から30%に引き下げる
  3. 鉄道運賃の調整ないし引き下げを行う
  4. 選出される立法議会の代表者数を増加する

こうしたイギリス南アフリカ会社の譲歩は、イギリス南アフリカ会社の統治に反対する移民の政治運動を抑制し、一方でイギリス南アフリカ会社統治下での植民地建設に必要な有力白人移民に協力を期待する意図があった。

ローデシアの植民地経済は、イギリスの帝国主義、移民の植民地主義、搾取されるアフリカ人という三者の相互作用という構図によって描かれる。イギリス本国の資本家と移民の資本家は、利益配分をめぐって激しい闘争を展開したが、両者は植民地における資本主義経済が満足に展開しうる条件を攪乱しないという枠内で対立しただけであり、また、南ローデシア経済の中心に位置する鉱業生産と農業生産を支配した鉱業資本と農業資本の経済的要求は、アフリカ人からの安価な労働力の提供を確保するという点では、見事に一致したのだった。

しかも、それを円滑に行うために、イギリス南アフリカ会社ならびに後に成立南ローデシア白人移民国家は、アフリカ人社会に対する種々の差別的政策と土地政策を媒介として、アフリカ人に原住民指定地への永住化を強制し、彼らを出稼ぎ労働者に転落せしめたのである。

南ローデシアでは、イギリス南アフリカ会社は統治機関であった。それは、一方でアフリカ人社会を攻撃して鉱物採掘権の所有者となり、他方で、植民地支配の政治経済機構の建設に深く関与していた。

南ローデシア自治政府の誕生

チャールズ・コクラン

1915年にイギリス南アフリカ会社の特許状期限(25年)が満了し、代わって特許状「補遺」が発せられる。その中には、次の文言が含められていた。「1915年10月29日以降、南ローデシアの立法審議会は、圧倒的多数がえられれば、いつでも、この地域における責任内閣政府の樹立という国王への請願決議を通過させ、それが南ローデシアの財政その他の条件から正当化される限りその決議を支持することになろう」と。

1917年、ソールズベリーの弁護士だったチャールズ・コクラン(Charles Patrick John Coghlan)の主唱により「責任政府樹立の会」が発足し、政党的な性格を持つようになる。イギリス南アフリカ会社としても、行政的な責任を手放すことを拒む理由はなかった。なぜならば、イギリス南アフリカ会社は、白人入植者のための行政費用が増大することで、経営不振に陥っていたのだった。イギリス南アフリカ会社のロンドン本社でも、会社の活動から行政を外し、商工業と金融業に限定するべきだ、という考えが主流になっていった。

このような状況を踏まえ、イギリス枢密院は、南ローデシアにおける土地所有権はイギリス南アフリカ会社にではなく、イギリス国王に帰属するとの決定を下した。これによって、イギリス南アフリカ会社は、行政支配権を事実上失うこととなった。そこで問題となったのは、南ローデシアの統治形態だった。南ローデシアの統治形態としては、二つの案が考えられた。それは、統治権をイギリス本国政府に委譲し、その枠内で南ローデシアの責任政府を樹立させるか、南アフリカ連邦に委譲し、その1州として組み込むか、というものだった。

イギリス南アフリカ会社と南アフリカ連邦は、南アフリカ連邦への併合を望んだが、イギリス政府は難色を示していた。そうした動きの中で、「庇護されて飽食するより、襤褸をまとっても自由を」と叫んだ、コクラン率いる「責任政府樹立党」が1920年の選挙で勝利し、同年の立法審議会でもイギリス政府への委譲が多数決によって確認された。

さらに、1923年10月27日の国民投票において、8774票対5999票をもって、南ローデシア自治政府樹立が決定された。その結果を受けて、イギリス政府はイギリス南アフリカ会社に365万ポンドの補償金を支払い、イギリス南アフリカ会社は既存投資にもとづく資産約500万ポンドを除く、南北ローデシアにおける一切の権利を放棄した。

こうして、南ローデシアの入植者達は、イギリス南アフリカ会社の行政支配を逃れ、南アフリカ連邦からも独立し、正式にイギリスの「自治植民地」となったのだった。一方、北ローデシアは白人入植者が少なかったため、イギリスの「直轄植民地」とされ、ニヤサランドは、引き続きイギリスの「保護領」とされた。

大恐慌とハギンスの登場

1920年代の南ローデシア経済は、全体的に停滞しており、経費ばかりかかって売上の少ない会社のようだった。なぜならば、広大な土地にバラバラに入植している白人入植者に、快適で文明的な生活を保障するため、行政費用がかかり過ぎていたことと、白人労働者に対して、本国の2倍から2倍半の賃金を支払わなければならなかったため、経費がかかり過ぎていたのだった。こうした、経済の停滞を克服するため、白人移民を増やして内需拡大が目論まれた。その頃でも、入植者は年間8%の割合で増えていたが、それでも、内需拡大には効果が上がらなかった。

1930年代の南ローデシア経済は、鉄道業部門を除けば、農業・鉱業などの1次産品の輸出に依存していた。しかし、鉱業では金産出は頭打ちとなっており、また、農業ではマショナランドを中心として、葉タバコの生産が始められたが、1920年代初期の洪水や旱魃で打撃を受け、1926年には作付面積を拡大するも国際市場での競争力がなく、葉タバコ価格の下落も大恐慌によって恒常的になっていった。南ローデシア政府は、1926年にガトゥーマに綿花栽培農場を設け、入植者向け食料である小麦や酪農品の生産を奨励するなどの政策を実施したが、大恐慌による被害を回避することは出来なかった。

また、当時の南ローデシアで、もっとも雇用創出効果が大きかった、鉄道業も十分な利益をあげられなかったため、運賃値上げなどを行い、国内産業上の問題を引き起こすことになった。

1928年の選挙を難なく乗り切った、南ローデシア政府与党「ローデシア党」も、1930年には支持が落ち込み、1931年9月のスターリング=ポンドの平価切り下げ実施以後の世界的経済危機により、苦境に陥った。そのため、ローデシア党は、「トウモロコシ管理法」の制定、イギリス南アフリカ会社からの鉱業権買取、「土地配分法」の発布などの対応に追われることとなった。

ハギンズ

ローデシア党のこれらの施策を批判し、1931年にハギンス(Godfrey Martin Huggins)はローデシア党を離脱し、反与党の議員を結集して「改革党」を結成した。白人農民を支持基盤とする改革党は、アフリカ人地域を完全に隔離し、アフリカ人労働力創出を強く要求する政策を唱えた。そのために、ハギンスはロンドンで南ローデシアの入植者に、原住民問題処理の権限を与える、新憲法導入を請願した。また、帰国したハギンスは、白人農民に未割譲地の一部を配分し、アフリカ人の「原住民指定地」外の土地における所有権・賃貸借権を奪い、アフリカ人を原住民指定地行に押し込むことを公約とした。こうして、1933年9月の総選挙でハギンスは、ローデシア党と労働党を僅差で押さえて勝利することが出来た。

しかし、イギリス南アフリカ会社に、特権を与える新鉄道法をめぐって、世論の批判が起こると、ハギンスは改革党を解体し、配下の議員をローデシア党に戻し、新たに「統一南ローデシア党」を結成した。1934年11月の選挙で、統一南ローデシア党は圧倒的に支持され、立法審議会で過半数を獲得することとなった。

ハギンス政権は大恐慌に対応する経済対策として、最初に「葉タバコ=マーケッティング=ボード」を設立、道路や橋梁の建設など公共事業を進め、自動車輸送を拡大した。また、1935年には「ローデシア航空会社」を設立した。

1935年には南アフリカ連邦との関税協力を廃止し、中央アフリカの経済的な独立性を高める道を歩みだした。ハギンスの経済政策が目指す最終的な目標は、白人移民を増やすことで、第二次産業部門を拡大し、イギリス政府からこれまで以上の独立性を獲得することだった。

しかし、ハギンスの考える経済発展の主体とは、あくまでも白人社会であって、アフリカ人は考慮されていなかった。これは「二つのピラミッド」または「平行的発展」の原則と言われていた。

ハギンスは次のように述べている。「この国は白人地域と黒人地域に分けられるべきである。黒人地域では原住民が能力に応じてどんな地位に就くこともできるし、白人との競争からまもられるべきである。産業および社会のピラミッドのいかなる段階も黒人に開かれていなけれあばならない。ただつねに最高位だけは例外である。白人地域では原住民は歓迎されるべきであるが、それはただ彼らが白人を助けるだけなのであって、白人と競争するのでないということが納得されてのことである。」

ハギンスはこのような考え方に基づき、1931年には「土地配分法」を、1934年には「産業調停法」を制定した。土地配分法はアフリカ人の居住地を地域的に指定・隔離することによって、白人入植者がアフリカ人との競争を避けながら、その労働力のみを利用できるようにするもので、産業調停法はアフリカ人労働者の徒弟年季の資格や労働組合の加入および熟練度区分に制限を設けて、白人労働者をアフリカ人との競争から保護することで、白人移民を増やそうというものであった。

このようにして、大恐慌により窮地に追い詰められた、南ローデシアの白人入植者たちは、土地や労働条件などについて特権的な地位を確保するために、アフリカ人を政治的に犠牲にしていった。その後も、1936年の「原住民登録法」や1937年の「原住民パス法」などにより、白人入植者の生活および地位向上に、アフリカ人を犠牲にする構造が強化されていった。

カーター委員会と土地配分法

1931年の「土地配分法(Land Apportionment Act)」の骨子である居住地指定制度は、大恐慌を契機として、従来の人種的隔離をより徹底した制度的枠組みに再編成したものだった。

1898年の原住民問題委員会の勧告にもとづいて南ローデシアの立法審議会がアフリカ人に対して原住民指定地域の他に、ある程度の資本を持つアフリカ人農民に近代的自由保有を認めた「原住民購入地」を設定した。

この原住民購入地に対する、白人農場主の態度は、鉱業・工業の企業家やイギリス本国の資本家などとは異なっていた。なぜなら、白人農場主は、しばしば、アフリカ人農民と競争関係になったため、アフリカ人農民の競争力を高める、アフリカ人の私的土地所有の拡大に対して否定的だった。

こうした、白人農場主の反応を受けて、現地住民の立場から、原住民購入地問題を再検討するため、1926年にイギリスにおいて、モリス・カーター(Morris Carter)を委員長とする委員会が設置された。

カーター委員会の報告の骨子は、白人入植者をアフリカ人との競争から守るため、人種的隔離を是認し、また、アフリカ人の土地購入権を制限して土地売買における、人種間平等の権利を真っ向から否定することにあった。

内容としては、アフリカ人の白人地域への侵入を排除するとともに、白人の農場や牧場に隣接する土地を白人地域に指定すること、原住民地域に都市居住区(タウンシップ)を設けること、アフリカ人の土地購入権については、特定の隔離地域に限って、原住民購入地の存在を認める以外は原則としてアフリカ人の土地購入権を抑制すること、などであった。

この、カーター委員会の報告を具体的に実現したものが、1931年の土地配分法であり、南ローデシアの土地配分パターンは、これによって確立された。1933年、白人地域は4717万エーカーであるのに対して、アフリカ人地域は2914万エーカーとなった。

この土地配分法は、つまり、アフリカ人が白人地域において、恒久的権利を獲得することを禁じたものであり、その当然の結果として、増大するアフリカ人の人口を養うべき土地が不足することになったが、白人入植の促進および、アフリカ人農業の保護という名目により、土地配分法は正当化され、南ローデシアの恒久的な政策となった。

アフリカ人は、土地配分法のもつ重大な意味に、当初は気付かなかった。そのため、1939年のブレディスロー委員会では、土地配分へのアフリカ人の批判は、まったく取り上げられていなかった。しかし、次第に土地配分の弊害が、アフリカ人に認識されるにしたがい、アフリカ人の不満が爆発し、「ウォッチ・タワー運動」による抗議活動に発展していく。

カッパーベルトの発見と「白いドミニオン」

カッパー・ベルト

北ローデシア(現在のザンビア)と、ニヤサランド(現在のマラウイ)は、南ローデシアとは違う方式によって開発が進められていた。北ローデシアでも、イギリス南アフリカ会社が、鉱業権と土地所有権を独占して、農業・鉱業の移民誘致に勤めていた。しかし、南ローデシアとは違い、北ローデシアでは、当初、有利な企業設立の機会が限られていたため、白人定着者は宣教師と植民地官吏などを除くと、極めて少人数したいなかった。

また、資本投下も活発ではなく、1924年までは北ローデシアの経済開発はほとんど放置されており、鉱業部門でも北ローデシアでの、行政的責任を放棄していた、イギリス南アフリカ会社が、最小限の支出で試掘を行う程度で、開発速度は遅々としたものだった。

しかし、1925年にカタンダ国境付近における、大銅鉱脈の発見は、北ローデシアを中央アフリカで経済的にもっとも重要な地域に変貌させることになる。大埋蔵量と高品位を誇る「産銅地帯」(カッパーベルト)は、欧米自動車工業の発展による銅需要の増大により、にわかに脚光をあびることになった。

1929年には、国際巨大企業グループである、イギリス・南アフリカ資本の「ローデシア=アングロ=アメリカン社(AAC)」と、アメリカ資本の「ローデシア=セレクション=トラスト社(RST)」が開発に乗り出し、AACはンカナ、ブワナ=ムクブワ、ンチャンガの諸鉱山を、RSTはローンアントロオープ、ムフリラの諸鉱山を経営した。

アメリカの同業者組合の圧力により、銅価格は急騰し、これらの銅山で働くアフリカ人の数は、1927年の8000人から1930年には23000人に急増した。開発に直接手を下さなかった、イギリス南アフリカ会社は、鉱業権にもとづく多額の鉱区使用料を手に入れ、北ローデシアの財政も銅収入によってはじめて収支の均衡が実現された。

しかし、1931年11月には、銅価格の暴落が訪れた。大恐慌は中央アフリカ経済に打撃を与え、18ヵ月の間にアフリカ人鉱山労働者が4分の1近く減り、白人労働者も3分の1に減った。また、輸入が落ち込み、鉄道収益も見込めなくなり、白人貧窮層の本国送還費を負担しなければならなかった北ローデシアでは、公務員の給与削減も実施された。さらに、イギリス本国が金本位制を廃しすると、北ローデシア、南ローデシア、ニヤサランドの3地域もそれにならったため、南アフリカとの通商関係はさらに悪化した。

しかし、北ローデシアでは、他の鉱山ほど大不況の打撃を長期に渡ってまともに受けずに済んだ。それは、カッパーベルトの大埋蔵量と高品位と、アフリカ人労働者に低賃金に由来していた。しかも、低コストで高品位の銅を生産した北ローデシアの銅山は、この頃には世界平均を上回る銅消費国になっていたイギリスに、販路を見いだすことが出来た。また、1930年代末には各国の再軍備が再開されたため、銅の需要が加速度的に拡大していったことも、北ローデシア経済を後押しした。

こうして、ニヤサランドが大恐慌の影響下で苦しみ、南ローデシアがやっと大恐慌の影響から抜けだそうとしていた1935年初頭に、北ローデシア経済はすでに上昇気運に乗っていた。1935年には北ローデシアの鉱業産出額は400万ポンド以上に達し、さらに第2次世界大戦が勃発した1939年には、1000万ポンドを超えたのだった。

こうした、北ローデシアの銅鉱業の発展を目にした、南ローデシアの改革党は、その資源の領有を目的として、南北ローデシアから成る「白いドミニオン」の形成を望み、1936年1月ビクトリア・フォールズで開催された党大会で、その決意を表明した。

イギリスが1936年に南ローデシアの白人が要求する、アフリカ人都市流入制限を実現させるための原住民登録法および原住民パス法を容認したのは、この要求をかわすためだった。

この南北ローデシア合併案は、1936年10月にイギリス植民地省によって拒否された。その後、入植者からの熱望に動かされた、イギリス政府は1937年「王室委員会」を任命して、南北ローデシアとニヤサランドを合併する可能性を調査させようとしたが、実際にはこの委員会は活動しなかった。改革党はローデシア党と協力体制をとるようになってからも、南北ローデシア合併を要求し続けたが、「ローデシア・ニヤサランド連邦」が実現するのは、第2次世界大戦後の1953年だった。

ローデシア・ニヤサランド連邦の成立

第2次世界大戦中の南ローデシアは、ハギンス率いる「統一南ローデシア党」政権の安定期だった。白人住民は、大恐慌後の経済的回復と、北ローデシアとの合併に向けて未来への希望を持っており、国内のアフリカ人に対する政策にも満足していた。

ローデシア党は勢力の回復を試みたが効果は無く、1939年には残党も姿を消し、南ローデシアの野党は、事実上、鉄道労働組合のジャック・ケラー(Jack Keller)率いる「労働党」のみになっていた。しかし、労働党は、大恐慌期に得票を集め、1933年に4議席、1939年には7議席と勢力を伸ばしてきたものの、議会で多数を獲得するまでにはいたらなかった。

また、第2次世界大戦中には、前大蔵大臣スミット(J.H. Smit)が「自由党」を結成、アフリカーナーの票を集め、1946年には12議席を獲得し、統一南ローデシア党を脅かす存在になった。しかし、その頃からイギリスからの移民が急激に増え、イギリスからの移民は、南アフリカのマラン政権誕生(1948年)以後のアフリカーナーのナショナリズムの高揚に対して反感を強めたため、自由党はローデシア住民の利益を全面的に代表することが出来なくなった。

それに対して、ハギンスの統一南ローデシア党は、イギリス国王への忠誠、北方地域との連携強化、民間企業の育成、人種間協調、英語公用語化の継続などを綱領として打ち出し、産業界や言論界の支持を得て、1950年代後半まで人気を維持した。

南ローデシアの経済は、第2次世界大戦を境にして、飛躍的に発展することになる。戦後に復員軍人を含む、白人の大量の移民があったことと、イギリスや南アフリカから多額の資本が流れ込んだからだった。移民の増加は、南ローデシア国内の財貨やサービスへの需要を高め、また全白人の約65%が居住するソールズベリーとブラワヨの2都市では、極めて大規模な住宅建設ブームがおこった。

また、こうした移民がもたらした資本は、1946年から1953年までに、年間3140万ポンド(戦前は年間40万ポンド程度)にものぼった。このようにして、南ローデシアの国内蓄積が大幅に増加すると、それにともない外国投資も増加していった。1949年から1953年までに、南ローデシアに投下された資本額は、総計2億3370万ポンドで、そのうち投資額の70%に当たる、約1億6000万ポンドは国外からのものだった。この時期の投資率の高さは、1952年に投資率が純所得の62%に及び、その他の年でも35%を割ることがなかった、という事実からもわかる。

このような戦後のローデシア経済の発展は、すべて白人部門のみに限られており、アフリカ人部門ではほとんど変化がなかった。こうして、白人とアフリカ人の経済的格差はますます広がり、白人企業の拡大にともない、アフリカ人の賃労働化が促進されることになった。具体的には、1920年代に白人部門で働くアフリカ人労働者は20万人弱だったが、この頃には約50万人に増えていた。

第2次世界大戦後に、大量に移民として流入してきた、製造業者を含む白人入植者は、北ローデシアの銅鉱業を域内に引き入れることによって、国内市場の規模を拡大し、製品の販路を確保することを得策だと考えるようになった。

すなわち、南ローデシアの農業と製造工業、北ローデシアの銅鉱業、ニヤサランドのアフリカ人労働力が、経済的に相互依存、相互補完を持つとの理由から、この3地域を政治的にも統合し、連邦を結成しようと考えたのである。これは、アフリカーナーのナショナリズムと、アフリカ人ナショナリズムに対する、防波堤を築こうと考える、イギリス本国政府の思惑と一致した。

こうして、1951年から1953年にかけて、連邦結成の是非を検討する会議が開かれ、その結果、連邦憲法の起草が決定し、1953年4月、正式に「ローデシア・ニヤサランド連邦」(中央アフリカ連邦)が誕生し、ハギンスが初代連邦首相となった。ちなみに、ハギンスの後任として南ローデシアの首相となったトッド(Reginald Stephen Garfield Todd)は、人種問題について、リベラルで進歩的な立場を表明したが、政治的権勢に弱かったため、党内での支持を失った。

ともかく、この連邦結成は、白人経済部門に限れば、多くの利点を持っていた。連邦結成による「中央アフリカ共同市場」の成立は、3地域に市場単位拡大にともなう規模の経済の利益を享受させ、国内製造工業の育成に成功したのである。

連邦成立後の数年間、葉タバコ価格の高騰に恵まれ、白人経済部門は拡大に向かい、同時に経済構造もかわった。葉タバコ生産は、1958年に5年前の3倍にのぼり、生産額では4倍になった。また、トウモロコシ生産もその間に2倍となり、畜産も急速に拡大した。こうして、白人農業生産は、年間12%という高い成長率を示した。

また、製造工業では、カリバ水力発電ダムの建設とともに、その拡大は急速で、成長率は年に17%で、農業の成長率を遙かに上回った。食品加工・タバコ製造などの軽工業を主体とする、製造工業は国内総生産における比重で、1958年以降ついに農業を凌駕するようになった。

ウェレンスキー

このように、連邦は第2次世界大戦後15年の間に、ドラスティックな工業発展をとげ、世界の低開発国のうちでもっとも低開発性の少ない国の1つに変わっていった。1956年にハギンスを継いで連邦首相になったウェレンスキー(Roy Welensky)は「連邦経済のポテンシャルは石油・木材の不足を除けば、アメリカのそれに匹敵するほど大きい」と発言している。

しかし、この著しい経済成長は、白人部門においてのみ達成されただけで、アフリカ人部門の成長は遅々たるものであった。連邦経済の発展は、めざましいものがあったにもかかわらず、その内側では、白人部門とアフリカ人部門の、格差と乖離が進んでいったのである。

このように、ローデシア・ニヤサランド連邦は、白人入植者のために作られた、人工国家であったため、アフリカ人民族主義者達の連邦離脱運動が強くなることは、避けられなかった。連邦は成立の際に、人種間協調という原則を打ち出し、アフリカ人にも若干の政治的発言権を認め、従来の人種的差別立法を「土地配分法」を除いて、ほとんど全て廃止することにより、ある程度の歩み寄りを見せたが、アフリカ人民族主義者を納得させられるようなものではなかった。

連邦政府は、主導部門であった農業と鉱業の開発をなおざりにしており、また、白人入植者の多い、南ローデシアばかりを優先する政策を立て、経済の地域的統合のもっとも重要な目標たる、公平な所得再分配を適正に行わなかったために、連邦政府は自らの存在理由を否定し、アフリカ人民族主義者に恰好の攻撃材料を与えることになった。

ローデシア・ニヤサランド連邦の崩壊

マクミラン(Harold Macmillan)英首相は1960年、ケープタウンの会議で「変革の風が、アフリカ大陸に吹き荒れている」という有名な演説を行った。事実、1960年は「アフリカの年」と呼ばれ、アフリカで17ヵ国が独立した。こうしたアフリカ大陸全体の独立への動きは、中央アフリカのアフリカ人住民たちに連邦離脱への動きを促した。さらに「モンクトン委員会」報告が連邦加盟各地域の脱退を認めたこともあり、北ローデシアとニアサランドは、いまこそ連邦脱退の好機とばかり独立への道をみいだそうと努力した。

一方、連邦体制を維持しようとしていた、白人入植者たちは、ベルギー領コンゴでの混乱を見て勇気付けられた。また、南ローデシアの白人少数支配体制を維持しようとしていた、ウェレンスキー連邦首相(Roy Welensky)や、ウェレンスキーを支持しつづけてきたイギリス保守党の右翼的政治家たちは、アフリカ人民族主義の高揚に対して公然と敵意をむき出しにした。

バンダ博士

しかし、アフリカ人民族主義者の連邦離脱運動は激しくなり、1959年、ニヤサランドで反乱が発生する。この反乱はすぐに鎮圧されたが、ローデシア・ニアサランド連邦政府は、南ローデシアを中心とする白人政権の擁護をはかって、すすんで連邦憲法の再検討を討議するため、1960年12月にランカスター・ハウス(ロンドン)に赴いた。

1960年4月に獄中より解放されていたバンダ博士(Hastings Kamuzu Banda)は、「マラウイ会議党(MCP)」を率いて、1961年8月の新憲法下での総選挙に圧勝した。バンダ博士は急進派の政敵チプムベレ(Masauko Henry Chipembere)と対立したが、1962年2月に自治権を獲得し、1963年12月には、ニヤサランドの連邦離脱権の承認にまでこぎつけた。1964年5月に新しい立法審議会での最初の選挙が行われ、MCPが圧勝し、1964年7月6日、ニヤサランドはイギリス連邦(The Commonwealth of Nations)内の独立国マラウイとなり、MCP党首のバンダ博士が首相となった。

ウェレンスキー連邦首相は、「統一連邦党(the United Federal Party)」の巻き返しをはかりつつ、連邦存続が可能であるとイギリスのマクミラン(Harold Macmillan)政権に確信させるようと努力する一方で、北ローデシアの立法審議会において、アフリカ人が多数派を占めないよう画策した。

カウンダ

しかし、カウンダ(Kenneth David Kaunda)と「統一民族独立党(UNIP)」は、ニヤサランドの場合に劣らぬ条件を要求して譲らず、イギリス植民地相マクロード(Iain Norman McLeod)の妥協案にも反対し、流血事件にまで発展した。しかし、マクロードの後任者のモードリン(Reginald Maudling)の肝煎りによって、1962年2月にランカスター・ハウスであらためて会議がもたれ、両者共に不満を残しながらも、最終的には妥協点を見いだした。

こうして、北ローデシアの選挙は、1962年9月に行われた、憲法問題は北ローデシアを連邦内に押しとどめようとする勢力の妨害によって進展しなかった。そのなか、カウンダ率いる「統一民族独立党」と、ンクムブラ(Harry Mwaanga Nkumbula)率いる「アフリカ人民族会議(ANC)」の2派の対立が顕在化してくる。ンクムブラはUNIPのテロも辞さない急進的なやり方を非難したが、カウンダはANCのカタンダ問題でチョムベ支持にまわったことを非難した。

1962年末、UNIPとANCが連合して連邦離脱運動を開始し、1963年3月、連邦離脱が認められると新憲法起草に着手し、ついに北ローデシアは1964年10月24日にイギリス連邦内共和国ザンビアとして独立した。

こうして、ローデシア・ニヤサランド連邦は崩壊した。イギリスがニヤサランドとザンビアの独立を許した背景は、アフリカ人を政治的に支配するより、アフリカ人たちに独立を与えた上で経済面を支配した方が、より効率よく利益を上げられることに気付いたからだった。

イギリス南アフリカ会社の消滅

ローデシア・ニヤサランド連邦の崩壊と共に、イギリス南アフリカ会社も消滅することになる。イギリス南アフリカ会社は1964年10月26日付の「ファイナンシャル・タイムズ」の中で、「南アフリカ社会の建設した北ローデシアが、今やザンビアとなる」という全面広告を出し、そこで次のように語っている。

「1890年から1924年にいたるまで、同社は、ビクトリア女王から与えられた特許状の下でその地方を統治してきた。34年間にわたって配当金が株主に全く支払われなかったのは、同社の資金が近代国家の基盤―法と秩序、鉄道、道路、公共施設、電話、公衆衛生、教育―をつくるために限界にまで無理をして使われたからであった。同社の統治時代初期には、困難は大きかった。奴隷貿易に対する闘いは、当時存在した状況の典型である。同社が統治権を植民地省に手渡すまでにこうした問題が克服され、今日の独立国は、完全に準備された基礎の上に自然に成長してきたものである。開発の全時代において、特許会社こそが、統治、コパーベルトの探索と開発および経済の前進に完全な役割を演じてきたのである。」

こうして、経済事業だけではなく、イギリスの領土拡大のため、帝国の尖兵として活動した、イギリス南アフリカ会社は消滅したのだった。

南ローデシアの農業立法「土地耕作法」

南ローデシアでは、総人口の94%を占めるアフリカ人に、国土の総面積の49%に当たる土地しか与えなかったため、土地渇望現象がみられ、土地を求めて白人地域に無断で侵入・定着したアフリカ人農民が、不法占拠者(スクウォッター)として社会問題化していた。

南ローデシアにおける不法占拠者問題は、旱魃の激しかった1913年前後にあらわれ、その後アフリカ人の人口増加が著しかった1941年から1948年に極限に達した。

南ローデシアにおけるアフリカ人農業が、伝統的な村落社会の価値観に従った、前近代的な農法によってのみではなく、土地不足問題によっても発展を阻害され、それがアフリカ人農民に政治的不満をもたらしたことは明らかであった。そのため、植民地政府は、人種別土地配分制度の枠内で、アフリカ人農業改善のため、さまざまな試みを実施したのだった。

南ローデシアにおける、アフリカ人農業改革のための初の試みは、1929年にはじめられた。これは、土地保有制度を変えず、アフリカ人地域内における若干の土地の交換分合を目指すもので、これにより1939年までに約200万エーカーの土地が集中され、1955年までに原住民指定地の約40%が統合・整備された。しかし、この土地改良事業は、アフリカ人地域の土壌保全には多少役だったものの、土地生産性を増進させるまでにはいたらなかった。

この試みに続いて、1948年に更に大きな農地改革が計画された。それは、前記の土壌保全事業にとどまらず、アフリカ人の伝統的な土地の集団的所有制を、根本から覆そうとするものだった。それが、1951年に制定された「土地耕作法」である。

白人政府は、伝統的な土地の集団所有制のもとにあったアフリカ人地域の農業生産者に、適正規模の土地を個人所有させて、彼らが出稼ぎをしなくても、ある程度の農業所得を入手できるようにするために土地耕作法を制定した、としているが、土地耕作法の真の狙いは、土地の集団的所有制を止めさせ、アフリカ人地域に農業専従者をつくり、白人都市産業地域におけるアフリカ人賃労働者を常用化すること、つまりは出稼ぎ労働の廃止にあったと言われている。

こうした白人政府の動きは、第2次世界大戦後に南ローデシアへ流入した製造工業資本が、南ローデシアの経済政策決定に強い影響を及ぼしたことを示している。それは、初期植民地時代に主流だった、鉱業やプランテーション農業は、未熟練アフリカ人労働力の循環的な供給、つまりは出稼ぎ労働に依存していたのに対して、戦後の製造工業は、それとは逆に熟練度の高い安定的労働力の確保を希求したのだった。

このような製造工業の要望に応えるため、白人政府は、敢えて、アフリカ人地域の部族社会における生活保障体系が内蔵された、伝統的土地保有形態を崩したのだった。

土地耕作法は、次のような内容になる。まず、アフリカ人農業生産者のなかに自作農を育成すべきと規定していた。このことはアフリカ人成人男子耕作者の農村定着を前提とするため、従来の季節労働の停止と、農業専従者と賃労働者との分極を促している。そして、耕作権と放牧権についてアフリカ人農民に私的権利を賦与することを規定しており、耕作権については登記を前提とした土地の商品化を許し、土地細分化を禁止した。また、アフリカ人の都市居留地を設置して、都市産業地域に出たアフリカ人の社会問題を調整しようとした。最後に共同体的な利用地として残された放牧地について、その改良のため相互扶助労働を組織することを定めた。

この土地耕作法の施行は、予定では制定して5年後となっていたが、実際には準備不足のため施行が遅れて、ローデシア・ニヤサランド連邦時代に持ち越された。そして、この農業立法は多くの問題を含んでいた。

まず、当時の人種別土地配分制度のもとでは、アフリカ人地域には、全家族の70%を扶養できる土地しかなかったので、アフリカ人の農村と都市間の労働循環を効果的に廃止することが出来なかったこと。また、土地耕作法がアフリカ人小農の育成と生産物の商品化を最終目的としながら、とくに新しい商品作物を導入したわけでもなく、補助金や農業信用を配慮したり、肥料・種子配分などの公的給付を並行的に行わなかったため、所期の目標を達成出来なかったこと。そして、この土地耕作法によって、アフリカ人農民の実質所得をほとんど増加させえなかったこと、があげられる。

そして、白人地域では、投機のために保有された土地が浪費されたりもしていた。都市に流入したアフリカ人のためになんの社会保障措置も講ぜられなかった。また、土地耕作法は、アフリカ人にとって地位と富の象徴である、家畜の所有頭数をも制限していたため、アフリカ人の怨嗟の的になった。

こうして、「土地耕作法」によって、伝統的農村を追い出されたアフリカ人が、他方で「土地配分法」により都市産業地域における土地保有権も認められない(賃借権も占有権もない)のでは、アフリカ人の白人政権に対する不信が募るのは当然であった。

ローデシア戦線の登場

ホワイトヘッド

土地耕作法に反対するアフリカ人農民を結集し、1957年9月に南ローデシアで「アフリカ人民族会議(the African National Congress, 以下ANC)」が結成された。ANCの活動は白人政権に対して、問題解決を要求するだけの、比較的穏健な組織だったが、南ローデシアの首相ホワイトヘッド(Edgar Cuthbert Feemantle Whitehead)は、1959年2月にANCを非合法化した。

ANCの継承組織だった「民族民主党(the National Democratic Party, 以下NDP)」も1961年12月に非合法化され、NDPの継承組織である「ジンバブエ・アフリカ人同盟(Zimbabwe African People's Union, 以下ZAPU)」も1962年9月に非合法化された。

この時期に、ホワイトヘッド政権は、矢継ぎ早に弾圧法を制定した。1959年には、原住民関係修正法(Native Affairs Amendment Act)、非合法組織法(Unlawful Oranization Act)、予防拘禁法(Preventive Detention Act)を、1960年には治安維持法(law and Order Maintenance Act)、非常事態権限法(Emergency Powers Act)を制定した。

このような弾圧の中、NDPの請願活動により、1961年1月から2月にかけてソールズベリーにおいて制憲会議が実現した。しかし、制憲会議において討議の対象になった憲法草案(後の1961年憲法)は白人政権の思惑が強く働いたものだった。

1961年7月の国民投票で、南ローデシア住民の人種差別に反対する多数意見が表明されるにおよび、ホワイトヘッドは社会的アパルトヘイト立法である、パス法や人種間通婚禁止法などを次々に廃し(土地配分法は修正を加え残存)、1961年5月の「ソールズベリー会談」では、新憲法草案について譲歩案をンコモやシトレに示した。それでも、アフリカ人の土地耕作法への不満は抑えきれず、各地で暴動が発生した。

統一連邦党は、南ローデシアの農業入植者より、商工業移民の利益を優先し、イギリス政府の意向に引きずられがちであった。そういった政策に不満を持ち、入植者の主体性を強調し、アフリカ人民族主義者に対抗しようとする右翼的な政党があらわれた。

1962年3月、白人入植者右派連合政党として誕生した「ローデシア戦線(the Rhodesian Front, 以下RF)」は、人種差別主義に立脚した白人入植者による白人入植者のための政党であり、政策上の優先順位は、あくまでも白人入植者の既得権益保護におかれていた。RFの綱領には「ローデシア政府が永久に責任ある人々の手(白人を指す)に委ねられること」、そして「ローデシアにおけるヨーロッパ人の恒久的な既成支配権」を保証し「強制的な(人種的)統合に反対する」というように、明確は表現をもって、みずからの人種主義的性格を規定し、さらに白人支配を保証するような憲法下における独立を主張していたのである。

1962年12月14日、新憲法(1961年憲法)のもとで行われた初の総選挙は、白人入植者に対して、人種協調主義か人種差別主義かの選択をせまるものであった。この選挙は、ローデシア・ニヤサラン連邦当時のスローガンである「人種協調主義」を主唱する、統一連邦党(UFP)と、「人種差別主義」を標榜する白人入植者右派連合政党「ローデシア戦線(RF)」とのあいだで争われた。

選挙期間中、RF党首フィールド(Winston Field)は、ケニア独立で起こったような白人入植者が特権的地位を奪われるような事態を、ローデシアでは起こさせないことを、白人入植者たちに対して公約し、他のRF候補者も露骨な人種的偏見に訴えるなど、RFは選挙活動において人種差別主義を前面に押し出した。それに対して、UFPは、選挙公約として、ローデシアにおける人種差別の礎石と言われる、土地配分法を含む、すべての人種差別法の撤廃を提唱した。また、UFP党首のホワイトヘッド(当時ローデシア首相)は、国連信託統治委員会において、15年以内の多数支配への移行を公言するなど、白人入植者たちの心理を逆なでするような選挙活動を展開していた。

このように、人種協調主義と人種差別主義が争点として争われた、総選挙だったが、その結果は、RFが65議席中、35議席(すべてA議席)を獲得して圧勝し政権の座についた。この選挙結果で、白人入植者が、自らの将来をRFに託したことは、「ローデシア白人は、自発的にはその絶対的な政治的支配権を放棄しないであろう」という当時のアフリカ人民族主義者の危惧を裏書きするものだった。

ローデシアの白人入植者たちが、アフリカの非植民地化という歴史的潮流の中にあって、人種差別主義的なローデシア戦線を支持した理由としては、ローデシア白人支配体制の外堀ともいえる、ローデシア・ニヤサランド連邦の解体に、直面したからだと考えられる。なぜなら、もし白人入植者たちが、アフリカの非植民地化という歴史的潮流に身を任せたまま時間の経過を待つならば、白人入植者たちは、1923年の植民地自治権を獲得して以来、さまざまな人種差別法により享受してきた特権的地位を、アフリカ人多数支配によって直ちに失うことになるからだった。

また、多数派支配という歴史的潮流の中にあって、白人入植者たちが、明らかに逆行的な、白人支配体制による独立をためらうことなく主張しえたのは、白人入植者自身の経済的業績およびローデシアという国家の迅速な発展に対する誇り、つまりは「建国意識」があったため、みずからの要求を主観的には正当化することができたからであった。

フィールド政権の対英独立交渉

フィールド

南ローデシアの首相となったRFの党首フィールドは、国内的には連邦解体と独立を要求する、アフリカ人民族主義者を弾圧しつつ、イギリス政府とのあいだでは、連邦解体を条件に南ローデシアの独立問題を、交渉によって勝ち取ろうとしていた。

新たに政権の座に就いた、RFの最大かつ最優先の課題は、ローデシアの独立問題であった。もちろん、RFの主張する独立とは白人支配体制によるものだったが、それは白人支配体制の堅持というRFの基本政策から生まれたものであった。RFは植民地という宗主国に従属する地位から脱却することにより、ローデシアの国内政治に対するイギリスからの干渉を遮断することで、白人支配体制を維持しようとしたのであった。フィールドは議会において「独立を達成することによってのみ、われわれは不安定な状態を終焉させ、発展を継続し、さらには投下資本のために安全な下地を提供することができるであろう」と述べたり、「独立が達成されると同時に、わが国内問題に対してイギリスが干渉するように求めるアピールは、もはやなされないであろう」として独立の意義を強調していることからも、RFの政策を端的に表現している。

つまり、RF政権の対英独立要求は、永続的にローデシアの支配権を掌握しようとする白人入植者達の欲望を主張したものにほかならなかった。そうした中で、1963年5月23日に、マタボ選挙区で行われた補欠選挙において、RFがローデシア国民党(Rhodesia National Party, 旧UFP、以下RNP)に圧勝したことは、白人入植者達が、RFに対して独立問題に関する信任状を与えたことを意味した。

こうして、フィールド首相は対英独立交渉に乗り出すのだった。フィールド首相はイギリスに対して、ローデシア・ニヤサランド連邦解体と同時に、ローデシア独立をイギリス政府が承認すること、仮にイギリス政府がローデシア独立を承認しない場合には、ローデシア政府はローデシア・ニヤサランド連邦解体のための会議に出席しないこと、連邦解体会議の開催前に独立問題に関する会談が行われるべきこと、をイギリス政府に通告したのだった。これに対し、イギリス政府は、連邦解体問題と独立問題を切り離して処理したいと考えたが、連邦解体を支障なく行うこおとを優先し、独立問題に関する会談を行うことになった。

独立問題に関するローデシアとイギリス政府代表による会談は、1963年5月27日から6月4日にかけてロンドンで、1963年6月26日と27日の二日間、ビクトリア・フォールズにて行われた。しかし、イギリス政府が、ローデシアの政治体制を多数支配に近づけるた、議会におけるアフリカ人議席数の増大と選挙資格の緩和を骨子とした独立条件を示したため、RF政権はこれを拒否して、会議は決裂したのだった。

その後、ローデシア・ニヤサランド連邦の解体に関する会議が、1963年6月28日から7月3日にかけてビクトリア・フォールズにおいて開かれた。RF政権はイギリス政府が連邦解体と共にローデシアの独立を承認しない限り、同会議には参加しないとしていたが、RF政権は従来の方針を変更して、同会議に出席した。この連邦解体に関する会議において、その後のローデシアの運命に関する重大な決定がなされた。それは、ローデシア・ニヤサランド連邦軍のローデシアへの移籍が決定されたことであり、これによって、ローデシアの白人政権は支配体制を軍事力から支えることが可能となったのであった。

その後、1963年10月27日から11月7日にかけて、フィールド政権の大蔵大臣のスミス(Ian Douglas Smith)が、ローデシア独立問題に関するイギリス政府の方針を探るため訪英する。イギリス政府は、ローデシアの独立問題を早期解決すべく、イギリス連邦諸国の諮問を受けるべきだとRF政権に提案した。この提案は、ローデシアへのローデシア・ニヤサランド連邦軍の移譲問題を契機に、ローデシアに対する国際的な批判が一層強くなったことを考慮してのことだった。しかし、RF政権は独立問題は、両政府のあいだでのみ討議されるべきものとして真っ向から反対した。そのため、1964年1月24日から2月2日まで、ロンドンにおいて首脳会談が行われることになった。しかし、同会談においても、両政府の歩み寄りがみられぬまま、交渉は決裂したのだった。

この独立交渉が暗礁に乗り上げたことは、フィールド首相の政治生命を奪うことになった。ロンドン会談の決裂以後、RF党内およびRF支持者のあいだに、交渉による独立達成というフィールド首相の穏健な路線に対する不満や、独立交渉を打ち切り、一方的独立宣言(Unilateral Declaration of Independence, 以下UDI)を求める声が強まり、その結果、フィールド首相は辞任に追い込まれることになった。こうして、RF政権の対英協調主義路線は終焉を迎え、ローデシアはUDIに向けて、本格的に動き出したのだった。

ローデシア問題に続く>