備中国浅口郡代官の娘ナカの自伝


◆備中国浅口郡浜中村の代官の娘として生まれたナカの自伝◆
◆仁科仲 : 天保十一年(1840)一月八日 生まれ : 佐藤ナカ ◆





◆第一章 浜中村代官屋敷の巻  連載第一回  

【天保十一庚子年正月八日、雪】
 天保十一年(1840)一月八日、元日が過ぎ、まだ松が残るその日は寒く、障子の外は、雪がしんしんと降っていたと申します。千代という名の私の母にとって、五度目のお産でございました。既に男児四人を産んでいた母は、火鉢が置かれた暖かい座敷の枕元に寝ている私を見て、とても嬉しかったと何度も聞かされました。母は享和三年(1803)生まれの37才。ぜひ一人、女児が欲しいと思っていた矢先で、可愛いい女の子が生まれたと申します。今年は庚子の年で、易占いでは天中殺の正財と出たそうで、母と同じように喜んだ父は、私にナカ(於仲)という名を付けました。私は長女でございますが、末っ子で、四人の兄から可愛いがられたのでございます。父の名は仁科小兵衛存本(通称、匡平在本、コヘイアリモト)と申し、寛政六年(1794)生まれの46才、代官職を務める武士でございました。私が生まれて、当家は8人家族になりました。
  父 仁科存本     _寛政十六年 (1794)生、46才
  母 仁科(佐藤)千代 享和十三年 (1803)生、37才
 ここは、備中国浅口郡浜中村と申し、摂津国豊嶋郡麻田の御殿様の飛び地領でございます。御殿様の御先祖は、戦国の世に美濃の斎藤家にお仕えした青木刑部卿重直様と申し上げました。重直様は、豊太閤亡き後、嫡男の一重様と共に、豊臣秀頼公の重臣として、大阪夏の陣では七手組の御頭を勤められました。  大阪落城後、一重様は剃髪出家されましたが、東照神君様から召し出され、摂津国に陣屋を頂き、大名に取り立てられました。現在の御当主は青木家十一代目に当たり、美作守重龍様と申し上げ、摂津国麻田で一万石、さらに備中国浅口郡の浜中村・上新庄村・下新庄村・小田郡関戸村の4カ村で計二千石、併せて一万二千石を領しておられます。

  青木重直 - 一重 - 重兼 - 重成 - 重矩 - 一典 - 一都 - 見典 - 一新 - 一貫 - 一貞 - 重龍

 御殿様は、摂津国からはるか離れた浅口郡支配には、青木家御家来衆は派遣されず、領内の大百姓の中から上新庄村の阿部官兵衛を選ばれ、代官に任じられました。これは、諸国の飛び地領ではありふれたことのようでございます。例えば、備後国の神石郡・甲奴郡・安那郡の三郡は、豊前国中津藩奥平大膳太夫様の飛び地領でございます。しかし、奥平の御殿様は、御家来は派遣されず、神石郡父木野村大庄屋の村田知賢を三十六カ村、二万石の代官に任じられました。
 元禄の頃、平井祐仙と申す当領の藩医によって、新庄村に浜中新田が開墾されました。その後、浜中新田は新庄村から分かれ、浜中村となり、代々平井家が当村の庄屋を務めておりました。享保年間の末頃(〜1735)になりまして、父の祖父である仁科小次郎秀高の兄の和平太秀勝が、平井家に代わって庄屋職に任じられました。和平太秀勝には子がなく、跡は弟の小次郎秀高が継ぎ、さらに寛政十年(1798)、その嫡男の小兵衛光春が庄屋職を継いだのでございます。父の在本も代官に任じられる40才過ぎまで、当村の庄屋をして居りました。祖父の小兵衛光春は、今を去る二十五年前の文化十二年(1815)、享年50で他界し、父の在本が21才で家督を継ぎました。当時まで、仁科家は浜中村の庄屋職を務める百姓でございましたが、天保の大飢饉の最中、代々当領の代官を務めていた上新庄村の阿部家に代わって、父の在本が武士に取り立てられ、代官になったのでございます。
 浜中の近隣には、倉敷(五万三千石)、笠岡(八千石)などの天領がございます。そちらには直参の旗本の御歴々が、江戸から代官として交代で着任して居られます。近くの備中鴨方には備前池田家御分家の池田信濃守様(二万五千石)、備中庭瀬には備中松山の板倉周防守様御分家の板倉越中守様(二万石)、備中浅尾には旗本蒔田様(八千石)の御陣屋がございます。元百姓の仁科家は、今は小禄ながら武士になりましたが、直参の御旗本と違い、陪臣にすぎないことは確かでございます。しかし、御領内には他に偉い御方はおられず、両刀を腰に、梅鉢の定紋付きの陣笠を被り、槍持ちの家来を従え、毎日忙しく領内を巡視する父こそが御殿様でありました。
 寛政の年号は12年続き、文化は14年、文政は12年、天保も今日まで11年続きましたが、飢饉や一揆、流行り病や物価騰貴で、大変な時代でございました。しかし、これまでに比べ、天保の次ぎに10年続いた年号はなく、弘化は4年、嘉永は6年、安政は6年、万延はわずか1年、文久は3年、元治もわずか1年、慶応は3年にして、幕府は急速に瓦解致しました。何とまあ、めまぐるしく年号が変わった事でございましょう。
 天保・文化年間には、流行り病で多くの人々が亡くなったと申します。実は、私の母の千代は、父匡平存本の後妻でございます。先妻は、備後国深津郡市村の庄屋、佐藤定治の娘の於久仁と申し、千代の実の姉でございます。寛政十年(1798)生れで、妹の千代と5才違いでございしたが、文化十三年(1816)九月十六日、嫁入りから間もない19才の若さで病没致しました。釈妙現大姉と申す法名を頂き、浜中の仁科家旧墓所に葬られてございます。嫁入りしたばかりの於久仁が病没した前年の文化十二年(1815)には、浜中村の庄屋を務めていた祖父の仁科小兵衛光春が50才で病没致しました。於久仁の他界から3年後の文政二年(1819)、家督を継いだ父在本(25)の許に、母の千代が16才で同じ市村から嫁いで参ったのでございます。

【天保の大飢饉】
   私の生まれる七年前、天保四年(1833)に始まった大飢饉は、それはひどいものであった由にございます。その年は、春から長雨が降り続き、年中寒く、雲霞も涌いたと申します。翌年、それが一転して日照り続きで、水争いが始まり、飢饉は、天保十年(1939)の昨年まで、もう足かけ七年も続き、餓死する者も出て居りました。御囲い米もすでに尽き、食べる物にも事欠く御領内の百姓にはもはや納める年貢米は無く、代官所の手代衆や各村庄屋衆の厳しい督促には一揆・打ち壊しが待っているだけでございました。年貢を納められぬ百姓はハザに掛けてある他人の稲束を盗み、米蔵に忍び込むなど、盗人や人殺しが方々に出没致しました。このため、代官所の御牢屋だけでなく、村役人の牢も無頼者があふれ、御白州での裁きは途切れることが無かったのでございます。私の乳母に来ているおタケは女児ばかり産みましたが、おタケの枕元で、女は要らぬ、お返し申そう、と義母と産婆のヒソヒソ話が聞こえ、直ちに産湯に沈められたそうでございます。他の村と同様、浜中村では、女の村人は100人そこそこで、男の150人よりも少ないのでございます。後に聞けば、全国60余州2500万の百姓のうち、女は1000万人、男は1500万人と申します。一体どれだけの女児が、間引かれたことでございましょうか。哀れなことでございます。産後憔悴したタケの母を呼びつけ、鬼の姑は三下り半と唐草紋の風呂敷を差し出したそうでございます。
 今を去る三年前の天保八年(1837)、大阪の天満と申す所で、こともあろうに、町奉行所の寄騎を務めた大塩平八郎と申す者が、奉行所や町家筋に大砲を打ち込む大乱を起こし、世間を驚愕させました。それもこれも飢饉のなせる業とは申せ、世の中は正気の沙汰ではなくなってきたようでございます。
天保十二年(1841)、大御所様(11代将軍徳川家斉、68)は永患いの末、薨去されました。それを待っていたのでしょうか。大飢饉(1831-1839)や大塩一味の乱(1837)に呆然自失であった公儀もやっと重い腰を上げられ、水野和泉守様御嫡子で、唐津から浜松の城主になられた御老中水野越前守忠邦様(47)に、享保・寛政の改革に倣って、天保の改革を仰せ付けられたのでございます。浜中村のような田舎の村にも、厳しい倹約令、芝居や読み本の禁止の御触れが、次々に参ったと漏れ聞きました。また、人返しと称して江戸に移住した町人に、郷里へ帰るよう御達しが出て、当村にも帰ってきた者も居る由にございます。とりわけ、混乱を生じさせたのは棄捐令と申し、御直参の方々の借銀を帳消しにする御命令で、倉敷でも貸し倒れで困窮する商人も出たと噂されました。倉敷では、最近急に勢力が大きくなった中島屋大橋や児島屋植田と申す新禄衆と、旧家の井筒家や紀国屋などの古禄衆との間で、庄屋選任争いが一段と激しくなったと申します。聞けば、「女子は葬式場江罷出間敷候」という奢侈禁止の御触れさえあったとか申し、越前守様の御政道はあまりに厳しかった故か、二年ほどで御役御免になられました。妖怪と呼ばれた町奉行の鳥居甲斐守様は、怨嗟の的になったと伺いました。公方様(12代将軍徳川家慶、50)は、天保十四年(1843)、改革の後始末を、母の里である備後福山の御殿様、阿部伊勢守正弘様に御命じになられました。老中首座になられた伊勢守様は、まだ24才だそうでございます。




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2003年04月17日 22時32分22秒






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