「会報 第16号」 内容紹介

パール判事「異議判決」の虚構 ・・・ 内藤 雅雄 (専修大教授、64H)

21世紀COE 「史資料ハブ地域文化研究拠点」の活動報告 ・・・ 藤井 毅 (東外大教授、81H)

随想 「想った時が旬」 ・・・ 坪井 孝夫 (66H)


特集: 「蒲生 禮一 ・ 土井 久彌 ・ 鈴木 斌 の諸先生を偲ぶ」

1 蒲生 禮一 先生を語る
蒲生先生の思い出 ・・・ 黒柳 恒男 (東外大名誉教授、47)
先生からいただいた「サイラス・マーナー」  ・・・ 鈴木 俊夫 (47)


2 土井 久彌 先生を語る
忸怩たる思い出の記 ・・・ 竹内 可能 (60H)
ガンジス河へ先生の遺骨を運ぶ ・・・ 町田 和彦 (東外大 AA研教授、76H)


3 鈴木 斌 先生を語る
バーバー・エ・ウルドゥー(ウルドゥー語の父) ・・・ 萩田 博 (東外大助教授、79U)
わが人生と鈴木先生の言葉 ・・・ 佐藤 浩史 (65U)



パール判事「異議判決」の虚構

東京裁判におけるパール判事の態度は、戦争責任について 「日本は無罪である」という立場を擁護する論拠として、しばしば、日本の保守、革新両陣営から引用されてきた事実は あまりにも有名である。だが、その論拠の根底を揺るがす事実が 本誌で明らかになった。筆者は、パールが 独立インドを正式に代表していなかった事実や、初代首相ネルーも、パール判事の判決に批判的だった事実を はじめて明らかにした。小泉総理の靖国神社参拝をめぐる論議が 内外に波紋を広げる中で、本稿が示した事実の重みは大きい。東京外国語大学教授(アジア・アフリカ研)から専修大学に移った内藤雅雄氏の最新の研究成果をご紹介する。(編集部)

内藤 雅雄   1964年(昭和39)H卒
(専修大学文学部教授)


2005(平成17)年 6月、靖国神社境内にある展示館(遊就館)の前に、ラーダー・ビノード・パール博士(Dr. Radha Binod Pal 1886〜1967)を讃える碑が建てられた。大きな半身写真と 彼自身の文章の一部、それに 南部利昭・靖国神社宮司の「頌」がはめ込まれている。

パールとは、太平洋戦争後の極東国際軍事裁判(「東京裁判」)に 判事の一人としてインドから参加し、多数派判決に対して 日本人被告25名の無罪を表明する異議判決(Dissentient Judgement、通称「パール判決書」)を提出した人物である。

宮司の「頌」(平成17年 6月25日の日付)によれば、「大多数連合国の復讐熱と史的偏見が漸く収まりつつある現在、博士の裁定は 今や 文明世界の国際法学界に於ける定説と認められたのです。私どもは 茲に法の正義と歴史の道理とを守り抜いたパール博士の、勇気と情熱を顕彰し、その言葉を 日本国民に向けられた貴重な偉勲として明記するために この碑を建立(原文、旧仮名・旧漢字)」したという。

なぜ今ごろ、しかも 靖国神社が「パール顕彰」を行うのか、この「頌」の文章を読む限りは 全く伝わってこない。しかし これが、同神社内の「戦争博物館」とも言うべき遊就館に飾られた時代錯誤的展示、または 「新しい歴史教科書をつくる会」の歴史教科書に共通して見られる「大東亜戦争」を正当化する「歴史観」に繋がるものであることは明白であろう。

筆者自身が 東京裁判におけるパール判決書というものに関心をもったのは、「15年戦争とパール判決書」(『みすず』 1967年11月)と「極東裁判についての試論」(『みすず』 1968年 8月)という家永三郎の二論文を通じてであった。パールの議論は、戦勝国が敗戦国を裁く際に 「事後法」を適用したことの不当性、アメリカによる日本への原子爆弾使用決定の違法性を指摘するなど、極めて重要な内容を含んでいる。とくに インド版原著(1953年 4月)の「付録」に収められた24枚の広島・長崎被爆の写真(The Asahi Picture News, August 6, 1952からとられたもの )は、強烈なメッセージを世界に伝えた。

しかし、柳条湖事件に始まる日本の中国への侵略は 周到な計画に基づくものであり、「共同謀議」の不在というパールの推測の主要な論拠は意味をなさない点は、家永三郎が上記の論文ですでに明らかにしている。

全体としてパールの議論は 事実認識において誤りが多く、例えば 「満州事変」が日本の「自衛権」の範囲内のことであるという議論などは、国際法に通じた人物の発言とは思われない。また 彼の論述には、当時の日本社会に関して、「世論は 大いに活気にあふれていた。社会は その意志を有効たらしめるためのいかなる手段をも全く奪われてはいなかった」など 憶測とでも言うべき不正確な記述が目立つ。また、「日本の憲法(「大日本帝国憲法」)は 完全に機能していた」ということをもって、「いま われわれの眼前にいる被告たちのケースは、いかなる形であれ ナポレオンやヒトラーのケースと同日に語り得ない」とするパールの言葉は極めて形式的な法律論議の感がある。

家永が具体的な実例に言及しつつ説明したように、当時の日本社会では、「権力の欲する方向と異なる方向に国家の進路を誘導させるに足りる、下からの自由な国民意志の表現と それに基づく有効な政治運動の発展が抑圧されていた」(家永『太平洋戦争』)のが実態であった。

それに加えて、日本の侵略の対象であった中国に関するパールの誤解ないし無理解は 異常なほどのものである。

家永の指摘にもあるように、彼の文章には 強烈な反共意識が見られるが、例えば「その[中国における共産主義の― 引用者]発展は、事実上 外国の侵入と同等であり…、中国に権益を持つ他の諸国が、その権益を守るため中国に入りこみ、この[共産主義の― 引用者]発展と戦う資格をもつかどうかは たしかに適切な問題」であり、「端的に言えば、共産主義とは 国家の枯渇を意味し、かつ それを試みるものである」と書くとき、彼の思考には 中国および中国人への配慮は全く入っていないようである。

この「パール判決」は、彼が 当時の新興国としてアジアの第三勢力を代表したインドの法律家であったことから、「あたかも公正無私の見解であるかのような先入主」(家永「15年戦争とパール判決書」)を多くの日本人に与え、さらに「日本無罪論」としてねじ曲げられて 保守勢力に最大限に利用され続けてきた。しかし 実際に果たしてパール自身、また 彼の議論は 全体としてインド人とその見解を「代表」していたのであろうか。

筆者には、いま 東京裁判やパール判決そのものを新たな角度から検討する準備はないので、この小論では、同判決をめぐる論議の中で しばしば人々が誤解していると思われる点だけに関する私見を述べようと思う。

パールに関するさまざまな叙述で目立つのは、多くの人が 彼を「インド代表判事」と称していることである。しかも そこでの「インド」は、あたかも1947年 8月15日に独立した新興国インドであるかのように見なされている。

しかし その時、パールは何を「代表」していたのだろうか。その答えの一つは、第二次世界大戦後の数年間の日本 および インドをめぐる年表を見れば 明らかになろう。

まず 裁判関係で言えば、連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーの名で「極東軍事裁判所の設定」が宣言されたのは 1946年 1月19日であり、それと同時に 「極東軍事裁判所条例」が公布された。条例第一章「裁判所の構成」の第二条は 裁判官に関して、「本裁判所は 降伏文書の署名国 ならびに「インド」「フィリピン」国により申し出られたる人名中より連合国最高司令官の任命する 6名以上11名以内の裁判官をもって構成す」(東京裁判研究会編 『パル判決書』下の「資料」より)と規定している。

2月 5日には マッカーサーが、アメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、フランス、オランダ、中国、ソ連各国から通知された計9名の判事を任命した。このあと インドとフィリピンにも判事の派遣が要請された。こうして インドから名前が出されたパールが、マッカーサーによって判事に任命され、裁判が開始された 1946年 5月 3日の二週間後、 5月17日に東京に着任した。彼は 裁判終了の翌48年11月12日まで、ほぼ二年半を この裁判のため東京で過ごす。

この時期のインドは 独立を間に挟む政治的激動期であった。大戦終了後の1945年12月の中央立法議会選挙、翌46年 2月の州議会選挙は インド国民会議派と全インド・ムスリム連盟がインドを代表する二大政党であることを改めて明示した。45年11月から46年 2月までの間、インド国民軍(INA)将校裁判に反対する大衆的抗議行動、ボンベイ(ムンバイー)から始まったインド海軍(RIN)ストライキの波及など、全インドが大きく揺れていた。

46年 3月には イギリス労働党政府は 内閣使節団を派遣し、会議派・連盟はじめ各政党との折衝後、5月にインド独立の内容に関する提案を行った。これを受けて インド側には 様々な対応が見られたが、 7月の制憲議会選挙、 8月の連盟による「直接行動日」の実行と その後に頻発するヒンドゥー・ムスリム衝突を経て、ネルーを事実上の首相とする中間政府(臨時政府)が樹立されるのが 46年 9月 2日であった。その約一年後の 47年 8月14日〜15日に 植民地インドは二分され、パキスタンとインドが独立する。

言うまでもなく、パールが東京裁判の判事に任命された時期のインドは 未だイギリスの植民地であった。この時に 連合国最高司令官からの要請に応じて 国際裁判への「インド代表判事」の名を提示できたのは イギリス人の上級行政官、例えば イギリス政府のインド担当大臣(ペシック・ロレンス)か インド政庁のインド総督(ウェーヴェル)ぐらいであったかと思われる。裁判が結審した 1948年11月には インドはすでに独立していたが、選出のされ方からして パールは その時点では 実質的にはインドを代表する判事とは言えなかったであろう。上に見た歴史的状況からすれば、「東京裁判の開始時点では 英国の属国であったが、臨時政府の首班ネールの要請を受けて パル判事が(裁判に―引用者)参加した」(寺島実郎 「インドが見つめている―英雄チャンドラ・ボースとパル判事」、Foresight 2001年 〓月、58ぺージ)という記述が事実に反しているのは明らかである。

また 田中正明 『パール判事の日本無罪論』(このタイトル自体、パールの意図からも外れた 極めて問題の多いものであるが)が、パールの紹介として次のように書くのも間違っている。すなわち、「(パールは)46年 3月には(カルカッタ大学)総長を辞任した。なぜなら、ネール首相は 彼を、日本のA級戦犯をさばくための極東軍事裁判のインド代表判事に任命したからである」(214ページ)と。上記の邦訳 『パル判決書』に関わった一又正雄が 同書末尾の「パル博士の人となりと業績」で、パールが「カルカッタ大学副総長在職中、インド政府の懇請で、東京裁判の判事就任…」(下、750ページ)と書いている文章も同様である。

ところで、上記の田中正明の著書その他でしばしば用いられてきた「日本無罪論」ということばが、同書のような確信犯的論者のものとしてだけでなく、東京裁判を否定しようとする論調に反対する人々によっても しばしば用いられてしまうことにも留意する必要があろう。たとえば、『朝日新聞』の 2005年 5月28日付社説 「東京裁判否定―世界に向けて言えるのか」には、「日本無罪論を主張したインドのパール判事もいた。だが、日本は 東京裁判の結果を受諾することで 国際的に戦争責任の問題を決着させる道を選んだ」という文章があり、また 同紙 2005年 6月 9日付の 「私の視点」欄で、森茂子・日本大学教授は 第二次世界大戦後の日本の友好国としてのインドにふれつつ、「戦後の極東国際軍事裁判で、少数意見を代表して「日本無罪論」を主張したのは インドのパール判事だった」と書いている。これらの論者が、前出 『パール判事の日本無罪論』の著者らの「東京裁判史観否定論者」と立場を同じくするとは いささかも思えないが、こうした不注意な語句の使用が全国紙上で見られるのは 決して好ましいことではない。

これまでのことから、東京裁判において パールがどういう意味でインドを「代表」していたかは明らかであろうと思われる。しかし 何よりも説得的にそれを証明するのは、上述の何人かの人物によってパールの「任命者」とされたネルー自身のことばである。すなわち 1947年 8月以降 インド首相となるネルーが、裁判終了後に公文書で述べている見解がそれである。A級戦犯の25被告に判決が下されたあとの 1948年11月29日、西ベンガル州知事からのマッカーサー連合国最高司令官に電報を送るべきかどうかとの問い合わせに対して、彼は電報で 以下のような回答を送った。

『貴官の11月28日付電報。146‐S。同僚閣僚と協議。マッカーサー将軍にいかなる電報も送る要なし との見解で一致。本件とは別に、わが方のそうした動向は 東京裁判でのパール判事の異議判決とわれわれを結びつけてしまうだろう。同判決においては、その多くについて われわれが全く同意しない的外れの大雑把な陳述がなされている。インド政府がパールの判決を唆したとする疑惑に対し、関係各政府に 公式に われわれがそれに関して何らの責任も負わないことを通達せばならなかった』。

また 12月 6日付の各州首相宛書簡では、日本人戦犯への死刑判決に対するインド内での不満の声に言及しつつも、次のように明確に述べている。

『あの判決は、インド政府が同意し得ない 多くの見解や理論を表明した。もちろん パール判事は、インド政府の代表として使命を果たしていたのではなく、著名な判事として 個人の能力でそうしていた。』

ここでネルーが言う 「インド政府が同意し得ない見解・理論」 「大雑把な陳述」の中には、おそらく 自らの反共産主義思想を主張するに当たって ネルーの社会主義・ソ連評価を批判した部分(邦訳 『パル判決書』、505ページ)も含まれているかと思われるが、おそらく それにとどまるものではないだろう。

この点については 今後明らかにしたいところであるが、ここに引用したネルーの文書は、少なくとも パールが1947年に独立したインドの政府が公式に選出した人物ではなかったことを確実に証明しているであろう。それは、パール判決書の内容を正当づける根拠の一つに、彼が 新興国インドの「代表判事」であったとする主張を援用してきた人々にとって厳しい事実であろう。

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21世紀COE「史資料ハブ地域文化研究拠点」の活動報告

藤井 毅   1981年(昭和56)H卒
(東京外国語大学教授)

はじめに

本誌第15号に 21世紀COE 「史資料ハブ地域文化研究拠点」の活動の概要を ご報告いたしました。その際 述べましたように、本拠点は 幸いなことに 2004年度に実施された中間評価において、地域研究系拠点のなかでは、唯一、最高評価の「1」を獲得することが出来ました( http://www.jsps.go.jp/j-21coe/05_chukan/index.html )。

公表されている評価委員会の総括評価は、 「当初計画は順調に実施に移され、現行の努力を継続することによって 目的達成が可能と判断される」というものでした。その後、一年余が経過しましたが、拠点メンバーと学内外の研究協力者の尽力もあり、当初計画以上の活動を続けて 今日に至っています。それのみならず、日本における地域研究の在り方を、それを支える史資料基盤の形成より見直すとともに、アジア・アフリカ研究に関わる史資料を 非収奪型方法により収集し、デジタル化とマイクロフォーム化により共有化を図るという理念と目標は、関係機関や学界より広範な支持を受け、共有されるようになっております。

私たちの拠点事業は、21世紀COE事業の第一期分採択でしたので、2002年度後半より2006年度一杯まで 継続されます。すなわち 2006年度は、拠点事業の最終年度であり、事業の取り纏めを行わねばなりません。刊行中の研究叢書は、最終的には 20数冊に達し、年二回刊の拠点ジャーナル 『史資料ハブ地域文化研究』は 9号まで刊行されることになっています。収集資料は、図書・雑誌に関しては すでに 2万点を越えており、マイクロフォームも 3万点に達しました。史資料共有の基盤となるデジタルライブラリー/アーカイヴズの充実も 継続的に図られており、特に 2005年度は 新たに著作権の消滅した貴重図書 50数種を登載するに至っています。拠点事業の概況は、拠点公式HP( http://www.tufs.ac.jp/21coe/area/ )において 随時更新し公開しておりますので、是非一度 アクセスして頂きたいと思います。

南アジアに関わる拠点事業

印パ会の会報という性格上、今回は、拠点事業のなかより 南アジアに関係のある取り組みについて ご報告させて頂きたいと思います。

1、「インドワラ会」(アジア太平洋戦争下、南方地域における日本国籍民間人の強制収容)関連資料の保存共有

アジア太平洋戦争開戦とともに、宣戦布告した国家とその海外領土に僑住していた日本国籍の民間人は、敵性国人として強制収容されるにいたりました。そのなかで、在米日系人が辿った命運については、比較的 よく知られているのではないかと思います。ところが、マレイ半島とシンガポール、当時の英領インドと蘭領インド各地に居住していた人々が、同じように 私有財産を没収されたうえで強制収容され、その初期においては シンガポールに、後に インド・ラージプーターナー地方(現ラージャスターン州)のデーオリーに 1946年 5月まで収容されていたという事実は、本邦においては 広く共有されるに至っておりません。私たちの拠点では、拠点アドヴァイザーの松本脩作氏(前アジア経済研究所専門司書)の御尽力と 被抑留者団体である「東京インドワラ会」の全面的な御協力の下で、同会会報・抑留中のスケッチ原画などの貴重な史資料をマイクロフォーム化することで、同会と共有するにいたりました。この活動の一端は、2005年 8月 5日付け 日経新聞東京版社会面で大きく報道されましたので、ご覧になった方もおいでかと思います。この事業は、同会関係者より幅広い支持とご協力をいただき、現在なお 新出の資料が到来しており、それらも順次、マイクロフォーム化されることになっています(詳細は、松本脩作さんにより 拠点ジャーナル 『史資料ハブ地域文化研究』第4号において報告されていますので、ご一読下さい)。

2、「日印協会」関連資料の保存共有事業

日印協会が発行していた戦前の定期刊行物 二種(協会会報、甲陀谷日本商品館館報)を 同協会と成田山図書館の協力のもと、完全にマイクロフォーム化いたしました。これで、散逸が著しかった貴重な資料の保存と共有が図られたことになります。これは、同協会成立100周年事業と期を同じくしており、大きな成果となりました。その詳細は、この保存共有事業を担当した本拠点アドヴァイザーの松本脩作氏により、同協会会報(『月刊インド』 財団法人日印協会創立100周年特集号: 2003年11月)において 紹介されているほか、拠点ジャーナル 『史資料ハブ地域文化研究』第2号、第3号においても 紹介されています。また、2005年度には、同協会非常勤理事を務めておいでの同窓 森三喜さんのご尽力もあり、協会本部に残されている戦前期の内部文書をマイクロフォーム化することが出来ました。

3、南アジア諸語文献の収集事業

文献収集のなかで特筆すべきことは、2002年より2004年にかけて、19世紀末より20世紀初頭にかけて刊行されたマラーティー語・ヒンディー語図書 約2000点を 古書市場より調達し、収蔵できたことです。その多くは、本邦未架蔵のもので、文学史に名を残す作家の初版本が 数多く含まれています。2006年度には、さらに 第二次世界大戦前に刊行された図書 千数百点が収蔵される予定です。また、2005年度には、故 土井久弥先生の個人蔵書で本学に寄贈されたものの未整理のままに放置されていた図書、さらには、2005年 1月に逝去された 鈴木斌先生の旧蔵書を収蔵することが出来ました。特に 鈴木先生の旧蔵書には、ナワルキショール本のみならず、戦時中に本邦で刊行された貴重書が数多く含まれており、本学附属図書館にとっても 貴重な集書事業になり得ました(なお、両先生の旧蔵書については、その整理にあたられた ウルドゥー語研究室の萩田博さんが 拠点ジャーナル 『史資料ハブ地域文化研究』 第6号に 一文を寄稿されていますので、ご一読下さい)。

4、ナワルキショール・コレクションのデジタル化による公開

1971年と 73年に 本学のヒンディー語・ウルドゥー語研究室と東京大学東洋文化研究所が合同で実施した 「インド・パキスタンにおけるヒンドゥー・ムスリム両教徒の宗教生活に関わる実態調査」により、多くの文献資料が招来されました。西ヶ原時代、それらは、研究室に別置きされていましたが、2000年夏のキャンパス移転に併せて、本学附属図書館に収蔵されることになりました。そのなかには、世界に誇れるナワルキショール・コレクションが含まれています(コレクションの概要については、http://www.tufs.ac.jp/common/library/guide/list/navalkishor.html 及び http://www.tufs.ac.jp/common/library/guide/shokai-j.html を参照してください)。

2001年度には、私が研究代表となり、附属図書館と協働して そのデジタル化のための科学研究費研究成果公開経費を取得しました。その結果、本学初のデジタル・アーカイヴズ SARDAが構築され公開されました。残念なことに サーバのセキュリティ上の問題より 2005年 7月に公開が一時停止されましたが、COE事業で別途構築したデジタルライブラリー/アーカイヴズ Dilinsに連結することで、その解決を図り、再度 世界に向けた発信を開始いたしました(http://www.tufs.ac.jp/common/library/etc/dilins.html)。

ナワルキショール・コレクションの収集と整理に御尽力された鈴木斌先生にご覧に入れることが出来なかったのが 心残りではあります。

5、進行中の保存共有事業

@ 2005年度には、戦時下、日本軍に占領され民政府(海軍軍政)が樹立され、スバーシュ・チャンドラ・ボースの自由インド政府に移管される運びとなっていたアンダマーン・ニコバール諸島に関わる史資料の収集に着手いたしました。公刊・非公刊の戦史や回顧録、日英双方の政府・軍公文書、占領期の日本語刊行物などが、集積されつつあります。

A あわせて、戦前・戦中に刊行された「外邦図」と総称されるアジア諸地域の地図のうち、インド・タイ・ビルマに関わるものを 収集整理いたしました。そのなかには、南方軍測量部隊作成のインパール近郊図やニコバール諸島地図も含まれています。

B 本邦には全く架蔵されていないアッサム州で刊行されている新聞四種(英語 ― Assam Tribune, Assam Express.、 アッサム語 ― Dainika Asama, Asama Bani)をマイクロフォーム化いたしました。今回対象となったのは、もっぱら 1967年 〜 89年に発行されたものですが、今後、それを拡大していく予定です。

このように、近現代の日印関係史に関わる貴重な原資料が本学に招来されるに至っております。今後は、この蓄積に基づき、本学のみならず 国内外の研究者や大学院生により、多くの研究が展開されることを願っております。

6、南アジア関係の成果報告書

研究成果公表の一環として、本拠点事業に献身的にご尽力頂いている 松本氏は、2006年度初頭に 『インド書誌: 邦文単行書 明治期 〜 2000年刊行』(仮題)という、当該分野では初めて刊行される浩瀚な目録を出版されます。さらに 拙著 Caste consciousness: a bibliography of caste histories, genealogies, and family histories published in India の刊行が続く予定です。

また、前出の 日印協会刊行の定期刊行物 二種、戦前に 外務省よりの資金援助を受けて刊行された 『綜合インド月報』(綜合インド研究室刊)、さらに、大川周明が中心となり編集刊行した 『新亜細亜』(満鉄東亜経済調査局刊)の記事総目録・索引が、編纂刊行される予定です。

まとめにかえて

参考資料(拠点への配分予算額)にありますように、21世紀COE事業は、人文社会科学系では、破格の予算規模を誇っております。当然、それに見合う以上の成果を上げることが求められているのは 言うまでもありません。そのため、私たちは、配分予算を 単に研究にだけ費やすのではなく、アジア・アフリカにおいて消滅の危機に瀕する貴重な史資料を 人類史上の遺産として保存共有して行こうとしているのです。これは、大学が行える国際協力のモデルとなり得ていると確信しております。ことによると、こうした事業は 国が行うべきものなのかも知れません。しかしながら、それが実現していない現在において、私たちの努力は 大きな意味を持っているに違いありません。

今後、私たちの事業がきっかけとなって、巨額なODA経費の内、その幾ばくかでも 現地貨幣による史資料の保存共有事業に投下されるようになることを願っております(この点については、「関連文献」所載の拙稿をご参照下さい)。

(参考資料) 拠点への配分予算
2002(平成14)年度 ― 1億2500万円
2003(平成15)年度 ― 1億2900万円
2004(平成16)年度 ― 1億2300万円
2005(平成17)年度 ― 1億6060万円
(内 直接経費 1億4600万円 間接経費 1460万円)
2006(平成18)年度 ― 1億7800万円(申請額)

(関連文献)
藤井 毅 「地域研究を廻る史資料状況―現状と課題」
『地域研究』 第7巻1号(2005年 6月)、157 〜 169頁。

(附記)
朝日新聞社より発行されている月刊誌 『論座』 2006年 6月号では、「21世紀COE道場」と題する連載記事のなかで、私たちの拠点が取り上げられています。ご一覧頂ければ幸いです。

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随想 「想った時が旬」

坪井 孝夫   1966年(昭和41)H卒

「キラキラ星変奏曲」は 鈴木鎮一チェロ教本第一巻の第一曲目です。還暦記念に 妻と二人の娘からプレゼントされたチェロを抱えて飛び込んだ音楽教室の先生の最初の言葉が 「想った時が旬」でした。この時から突然 私の音楽人生が始まったのです。幼稚園児から高齢者まで、その歳の差が60年に及ぶ者が数十人もいます。バイオリンやチェロで一緒に演奏する 「キラキラ星変奏曲」は圧巻です。昔 音楽を学んだお爺のドレミは、絶対音感で育っている子供たちのドレミには適いません。更に 問題は暗譜です。わずか12小節、それも リフレーンの多い小曲なのに 頭の中でおたまじゃくしが勝手に踊り始めるのです。同じ時期に鈴木メソードでバイオリンを始めた当時 4歳の孫娘は 次々に曲をクリアーし、お爺ちゃんに水をあけてしまいました。それも暗譜で!

自称「ヨイヨイマー」は 今、何時か あのヨハン・セバスチャン・バッハの名曲 「無伴奏チェロ組曲」を、かの有名なパブロ・カザルスの如く弾けるようになることを夢見て、毎日 「親不孝」で「近所迷惑な音」を出しています。

ここで止めておけばよかったのですが、何を血迷ったか 毛染めクリームを販売するお店の人に誘われて 男性合唱団に入ってしまったのが、私の音楽裏街道 第二楽章の始まりでした。総勢約20人。平均年齢 70歳と少し。半数の人達が 大正と昭和一桁生まれで、最年長は 大正 6年生まれの89歳です。さすがにここでは 還暦ものの私でも若造です。

大正 6年と言えば 1917年。この年大正デモクラシーの中、寺内内閣のもとで 米国との間に石井ランシング協定が結ばれ、ロシアでは 二回の革命の後 ソヴィエット政権が出来た年です。翌年は 米騒動・シベリア出兵です。大日本帝国憲法が公布されたのが 明治22年の1889年。そして 第二次大戦後 日本国憲法が公布されたのが 昭和21年の1946年。この 約60年間の丁度中間が 1917年です。そして 戦後60年目の現在と 丁度60年毎に区切れます。この事は 河合塾の石川先生も言っていません。

私は セカンド・テナーとして、日本の近現代史を生きてきた歴史の生き証人達と一緒に 現在 合唱曲集 「ふるさとの四季」に取り組んでいます。その中の一曲 「茶摘み」は 尋常小学唱歌 第三学年用で 明治45年ものです。歌詞に曰く。「摘めよ 摘め摘め、摘まねば ならぬ。摘まにゃ 日本の茶に ならぬ」とあります。

ちなみに 明治の始め、開国貿易の輸出品トップは 生糸、そして 第二位がなんと お茶だったのです。生糸とお茶と農民の汗で 日本は 近代国家の基礎を確立したのですね。それを想うと 仇や疎かに「茶摘み」は歌えません。さて、新年には 同じ市内の女声コーラスとの混声合唱計画もあり、おばさん達とのコラボレーションが今から楽しみです。(うきうき)

私の生まれ故郷は 遠州です。この辺り 何故か 音の出るものが盛んな地方です。江戸時代後期に遡る遠州地方の繊維産業は 戦後の朝鮮特需期に 「ガチャ万」と呼ばれた程 隆盛を極めました。機械がガチャと鳴ると お金が万と儲かったとか。

しかし 近年は バイクに車 そして 楽器。いずれも 音の出るものばかりです。当然の様に 私も バイクの道に入って行ったのです。それも 還暦を過ぎてから。今の愛車は ヤマハのDS4(ドラッグスター400)。ミルウォーキーの Harley Davidson 本社工場には 出張の休日を利用して足を延ばしたりしましたが、やはり 出身中学校のすぐ横にある ヤマハ発動機 磐田工場の造ったバイクを忘れることは出来ませんでした。で、暇があると 遠州製アメリカンに跨って 近隣の観光地を巡っています。

先日も 金剛・葛城山の麓、河内長野市の観心寺金堂(国宝・南北朝期折衷様)を見学に行ってきました。弘法大師縁の寺で、南朝の英雄 楠正成の墓や 第97代 後村上天皇陵もある 真にやんごとないお寺です。ここには 片膝を立てた如意輪観音(国宝・弘仁貞観)が居られますが、ご本尊は 秘仏故に ご開扉は春一回( 4月17日 と 18日)のみで、本物には会えず 隣接の博物館で 当時の試作品を観て来ました。文部科学省検定済み日本史教科書に写真が掲載されている国宝が二つもある社寺は、メジャーである東大寺(正倉院)とか法隆寺とか興福寺以外では 大変まれです。

ところで バイクの良いところは 風と太陽を感じながら 自然の中を走れることです。夢は Historic Route 66 の4000キロを走破することです。Flagstaff や Santa Fe 辺りの鄙びた居酒屋などは 情緒たっぷりでしょうね。陸王とかメグロなどの大型バイクが走っていた頃成長した 昔少年には 何時になっても 風の中を疾走する夢が忘れられないのです。

「想う時が旬」。チェロを背負って バイクに乗って 青春を歌い続けるか。何時までも、何処までも。

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蒲生先生の思い出

黒柳 恒男   1947年(昭和22)卒
(東京外国語大学名誉教授)

印パ会会報」(第16号)の特集記事として 「蒲生、土井、鈴木先生を偲ぶ」を企画した編集委員から、蒲生先生の思い出を書くように との要請があった。そこで 蒲生先生について記す前に、まず 三先生との出会いと別れについて略述することにし、その後 本題に入ることとしたい。

蒲生先生には、私が昭和19年に外語に入学してから、先生が亡くなられた昭和52年までの33年間の長きにわたり、公私ともに 並み並みならぬお世話になった。特に 昭和26年に私が外語に奉職してから 昭和39年の先生の定年退官までの13年間は、上司として 先生にお仕えした。先生の思い出については 後に 詳しく述べることにする。

土井先生とは 終戦直後、私が二年生だった 昭和20年 9月、先生が外語に奉職されたのが出会いの始めで、亡くなられた昭和58年まで 38年間にわたり 大変お世話になり、昭和54年 先生の定年退官まで 28年間 上司として お仕えした。外語の外でも 東大文学部、NHK国際局、AA語学院(アジア・アフリカ語学院)、外務省研修所などで 長年御一緒した。先生との最後の別れは AA語学院においてであった。ある日、一週間ばかり入院手術するとおっしゃったので お見舞を と申し上げたら、すぐに戻ってくるから必要ない と言われ、「アッチャー・ジー」と言って右手を挙げたのが最後の別れになろうとは 神のみぞ知るであった。かねてから 先生はたびたび、インドの易者に見てもらったら80歳以上は大丈夫 と言われた、と述べられていただけに 急逝は痛恨の窮みであった。

鈴木先生(私は 学生諸君の前ではこう呼び、個人的には 鈴木君 と呼んでいた)との出会いは 彼が外大に入学した昭和27年に始まり、亡くなる平成17年まで 半世紀以上 53年間にわたって交流が続いた。この間、昭和38年から昭和63年私の定年退官まで 優れた部下、よき協力者であった。昭和55年 ペルシア語学科設立に伴い、私の移籍に際しても 最もよき相談者、理解者でもあった。特に 昭和43年 大学紛争時の彼の絶大な協力は 決して忘れ得ないものがある。退官後は 手紙、電話連絡やパーティーなど以外、あまり会う機会がなかった。平成13年 5月、私のある原稿の下書きを 拙宅で半日もかけて精読し、貴重な意見を述べてくれた。今思えば 彼とゆっくり話し合う機会は これが最後になった。平成15年 5月の印パ会の総会で、彼が春以降、体調を崩し、入院手術したと初めて聞いて 非常に驚き、翌日 早速 電話で容態を尋ねた。その後、度々電話で連絡し合い、お見舞に伺いたい と言ったが、見舞に来られると体調が崩れるから決して来てくれるな との返事だったので、亡くなるまで会う機会がなかった。電話をするたびに 小康状態を保っている とのことだったので 少しは安心していたが、奥さんから実状を聞いていたので、私は 一日も早い回復 などとお座成りなことは言わず、彼が最期まで心掛け、努めていたウルドゥー語辞典の出版までは なんとしても頑張れ と激励してきた。平成17年 自筆の年賀状を受取ってわずか二週間後に訃報に接するとは 夢想だにしなかった。痛恨にたえず 世の無常を痛感した。土井、鈴木両先生の思い出については 機会があればさらに詳しく述べたいが、今回は この程度に留めて、本題に入ることにしよう。

長年にわたり 蒲生先生のお側近くにいた者の一人として 私には 先生にまつわる公私にわたるさまざまな思い出は書きつくせないほどあるが、ここでは 思い出すままに紙数の許すかぎり述べることにする。私が外語に在学したのは 終戦直前・直後で国が混乱の極に達した時代であったから、教室における正規の授業は極めて限られ、生きるのが精一杯の時代でもあった。終戦直前、首都は二度にわたる大空襲で大半が焦土と化し、西ヶ原にあった外語校舎も 5月の空襲で完全に焼失した。更なる危険が迫りつつあった時、先生は御家族を心配して 昭和20年 6月から約4ヶ月 富岡市に疎開させ、その間 先生は 中野にあった外語の日新寮に 副舎監として単身住まわれた。

当時寮生だった二年生の私は ある日 先生からお茶でも飲みに来ないか と言われ、教室での厳格な先生を思い浮かべながら恐る恐る部屋に伺ったら、教室とは一変した温和な先生が いろいろとお話して下さった。御宅から移された若干の蔵書の中に 英文のペルシア語文法書があったので お借りして 寮に戻って早速ノートに筆写した。これが 先生との私的な最初の交流であった。当時使用していたウルドゥー・英語辞典の単語の語源に AとかPが頻出していたので、ウルドゥーをより深く学び究めるためには A(アラビア語)、P(ペルシア語)の知識が不可欠だと痛感していた私は 先生からお借りした文法書で 第一歩を踏み出すことができた。だが 当時 Pが自分の生涯の専門分野になろうとは夢にも思わなかった。

終戦後、下高井戸の御宅に戻られ 御家族と一緒になられた後も 私は 在学中や卒業後 3 〜 4年にわたり 月に 2 〜 3回 御宅に伺って御指導をうけた。当時、先生は サアディーの『薔薇園』(ゴレスターン)の翻訳に没頭しておられた。文法をやっと独習したばかりの私に この古典を教材にしよう と言われ、必死になって予習したことが懐かしく思い出される。この他に 戦後まもなく刊行された 小川訳 『ルバイヤート』(四行詩集)を採り上げ、原典のヘダーヤト版がなかったので 他の版を参照しながら、この邦訳はこのルバーイー(四行詩) などと 互いに探し出したりした。ペルシア語ばかりでなく イスラームの宗教・文化などについても 御指導を頂いた。二階の縁側で 時代物の藤椅子に座りながら 二人の会話は 午後二時頃から夕方まで続いた。すると 先生は なにもないが食べていきなさい とおっしゃり、お言葉に甘えたが、戦後 食糧事情が最悪の時期に 奥様に多大の御迷惑をお掛けしたことを思うと 未だに 慚愧の念にたえず、感謝の気持ちでいっぱいである。

昭和26年 外大に奉職してまもなく 私は結婚することになり、先生御夫妻に仲人をお願いしたら 「僕も仲人をする歳になったか」 と感慨深げに奥様におっしゃり、快諾して下さったことが 昨日のことのように思い出される。上司として仕えるようになると、当然ながら 公私にわたり 先生との交流が深まっていった。在任中は 殆ど毎水曜日の朝、土井先生と先生の研究室に伺い 話合ったり打ち合わせをしたものだった。インド研究室の三人は いつも和気あいあいで 常に行動を共にしていたので、先生同期の某教授から 「君たちは金魚の糞みたいだな」と言われたこともあった。反目、対立する研究室もあったが、先生のお人柄のお蔭で あのように楽しく過ごすことができたと思う。

先生は在任中、土井先生と私に対して 「外語にばかり籠っていては駄目だから、極力 学外の諸先生と接触して 教えを受けるように」との信念から、まず 土井先生を東大文学部の印哲・印文学科に、数年後 私を東洋史学科に それぞれ約二年間 内地留学させた。これは 弟子の将来を思う先生の温かい思い遣りであった。

昭和20年代後半に 先生は 卒業生の会「インド会」の設立を思い立ち 奔走され 実現された。私も 諸先輩との打ち合せによくお伴したので かなりよく覚えている。第 2回卒業生(大正 5年卒) 青木保次郎氏を会長にして、先生の最初の教え子だった 小林則夫氏(昭和 4年卒)などの協力で インド会は発足した。当時、新潟県選出の代議士で、インド関係の著書もある 先生と同期の高岡大輔氏(大正12年卒)の厚意で,衆議院議員食堂で会合を催したり、昭和28年 土井先生のインド留学に際して 有楽町の某レストランで送別会をインド会として行った。この会を通じて 多くの先輩卒業生の皆さんと知り合いになれたことは 大きな喜び、楽しみであったが、会報などは発行しなかったため、正確な会の発足・解散の年月日など 一切の記録も残っていないのは残念である。現在の「印パ会」の前身として 蒲生先生の努力により「インド会」が存在したことを 現在の会員の皆さんにも知っていただきたい。

先生は ある時 ぽつんと私に 「教師として 卒業生はすべて善良である と思うのは当然だが、現実は 残念ながらそうとばかり限らないから、保証人になったり、金銭の貸借などは決してしないように」と言われた。一般論として述べられたと思うが、私は 在任中 この教えを守ってきた。先生は 教室でもよく「男を迷わす物が三つある。それは 頭文字がゼールで始まる三つのペルシア語単語、すなわち ザル(お金)、ザン(女)、ザミーン(土地)だから 将来 この三つにはよく注意するように」と言っておられたが、覚えている卒業生も多いであろう。また 冬の寒いある日、学生がオーバーを着たまま研究室に入ってきた。先生は 厳しく注意してオーバーを脱がせ、不作法を詰られた。注意された学生は なぜ強く叱られたかも分からず ポカンとしていた。社会人になってからよく分かったであろう。たまたま研究室にいた教務課のある職員が この光景を見てビックリし、尾ひれをつけて他の職員に伝えたので、先生が極めて厳格な方だと 一時 評判になった。現場にいた私は 当然の注意をなさっただけなのに と思った。

蒲生先生は 「私の持つ学問の真髄を、力ずくででも盗みとって自分の物とするのが 本当の弟子だ」という言葉を残されたことを、『回想集』(ウルドゥー大好き)の中で 鈴木先生が紹介している。授業・学問には極めて厳しく、その反面、人間的には 人情味・温情あふれる質実剛健な先生だった というのが 一般的な評価であると思う。長年にわたり御指導を受けた私は 到底 「本当の弟子」になれたとは思わないが、先生の学恩に少しでも報いることができたかな と思うことを 二、三 述べてみよう。『蒲生文庫目録』(昭和五六年)に土井先生が「蒲生文庫雑感」として述べている中に「ペルシア語学科開設こそ 先生の夢であったが、昭和11年に蒔いた種子は 今ようやく 発芽を見た」とある。昭和11年は 先生が文部省在外研究員として 初めてイランを訪れた年である。それから約半世紀を経て、先生が亡くなられて 3年後、昭和55年に ペルシア語学科は設立された。先生の存命中に実現できなかったのは残念であったが、わずかながらの恩返しになったのではないか と自己満足している。

先生の持つ「学問の真髄を力ずくででも盗みとる」などと 大それた考えを抱いたことはないが、先生の未開拓の分野を少しは開拓してみたい とは考えていた。それには あるきっかけがあった。ウルドゥーでは ペルシア語系の khwa を kha と読む以外、全ての文字を発音していたのに、ある時 balkul と書いてあって bilkul(全く)と発音された。なぜですか とお尋ねしたら このように覚えておけばよい とだけ言われた。アラビア語のハムザトル・ワスルで説明できることであった。『薔薇園』を読んでいた時も アラビア語の短文や詩がでると アラビア語だから といってとばされた。そこで 私は それまで殆ど独力でウルドゥー語とペルシア語を開拓・研究されてきた先生にアラビア語まで開拓する余裕はなかったのかな と感じた。私が20代のある日、先生が 一緒にアラビア語をやろう とサッチャーの文法書を教材にしたが、動詞の複雑な変化までくると、「僕はもう年だから、若い君が独りで続け給え」と言って 中断された。20代に学んだアラビア語が 後にどれだけ大きく役に立ったか分からない。学習のきっかけは 先生のお陰であった。

ペルシア語の古典に精通し、戦前 イランを訪れた先生であるが、留学の経験がなかったので、現代ペルシア語、特に アーミヤーネ(口語・俗語)は あまりご存知なかったようである。これは 私がテヘラン大学に留学して当初に痛感した。それまで先生から全く聞くことがないアーミヤーネに かなり当惑したからである。そこで 新設したペルシア語学科の学生には アーミヤーネの教育にもかなり重点を置くように努めた。これも ある意味では 先生のお陰だった といえよう。

ここまで 公人、学者としての先生について 思い出すままに書いてきたが、結びとして 私人としての先生の思い出を少し述べてみよう。趣味は実に豊かで 人生をエンジョイしておられた。とくに 釣りには目がなく、毎年 6月 アユ解禁の 二・三週間位前から 釣り道具の手入れを実に丹念に楽しそうにしていた姿が 未だに目に浮かぶ。当時の学生、岩崎君の厚意で 品川沖に 二・三回 蒲生先生、土井先生と三人で ハゼ釣りに出掛けた。釣り人姿の似合う先生に 背広を着て行った土井先生と私は 大名の釣りだ とひやかされたのを思い出す。釣果は 二人合わせても 先生にはとてもかなわなかった。絵画もお好きで 自らも筆を執り 静物などを描かれ、鑑賞力にもすぐれていた。授業中、突然授業に関連したことを黒板いっぱいにチョークで一気に描かれた絵は 実に美事だった。覚えている卒業生も多いと思う。また 外国語を学ぶ者は歌もうまくなければならい というのが先生の持論で、学生諸君とのコンパなどで 北海道直伝の江差追分で自慢の喉を鳴らしたものだった。

趣味はさておき、嗜好品について語ろう。50代半ばに病気になられるまでは、先生の言葉で 「尻から煙から出るほど」 の愛煙家であったが、病気を機に きっぱりと禁煙された。酒については 全くといってよいほど、下戸だった。この点では 土井先生や鈴木君と正反対であった。お元気な頃は 毎年正月 2日に 土井先生、プラさんなど年始に伺い、奥様手作りのおいしい御節料理をご馳走になったものだが、ある時 私が盃三杯を飲んだら、「出藍の誉れ」 とひやかされたのを思い出す。そこで 先生と居酒屋に行ったことは一度もない。その反面、甘い物は大好きで アンミツをお代わりするほどだった。大塚駅前にあった薄皮マンジュー屋や新宿のオシルコ屋になんどもお伴した。カレーも大好きで 教室でもよく 学生にカレーについて楽しそうに話したものだった。新宿、中村屋のインドカレーは 特にお気に入りだった。魚料理は大好きだった先生だが、寿司は苦手だった。毎年春、入試採点時に 教務課員が昼食の注文を聞きにきた時、先生は 寿司とは決して言われなかった。お尋ねしたら、「寿司御飯に酢が入っているので、腐っているようでいやだ」とおっしゃった。

以上、長年公私にわたり先生と接触し、ご恩を受けた者の一人として 硬軟さまざまな思い出を述べてきた。外語在任中 あれほどお元気だった先生は 定年退官の翌年 昭和40年から東海大学文学部教授に就任され、41年には イランで開催された国際イラン学者会議に出席して研究発表なされたが、42年 病気静養のため東海大を退いた。執筆の意欲は充分おありであった先生だが 病魔には勝てず 長期にわたり 病床で奥様、お嬢様の献身的な手厚い介護を受けて 静かに晩年を過ごされた。先生と奥様のご冥福を 心からお祈りします。

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先生からいただいた「サイラス・マーナー」

鈴木 俊夫   1947年(昭和22)卒

昭和19年、私は 入試の二次面接で右耳の難聴で引っ掛かった。蒲生先生が何とか救おうと、
「何か楽器をやりませんか」
私は 察しが悪くて、
「いえ 何にも出来ません」
「そうですか、音楽はお好きですか」
「好きです、あっ、そうです、私 レコード鑑賞が好きです」
「そうですか、そうですか」 
先生が ようやく安堵の顔を見せた。遠い北海道から遥々連絡船でやって来た受験生を落とすに忍びなかったのだろう。

入学後 暫くして 西ヶ原グランドで何か野外行事の時だった。当時 既に希少だった厚手のフラノのズボンを履き、首にコンタックスを掛けて先生が現れる。皆 一瞬 緊張する。因に 教授とは 其れ位の威厳を備えていたものだ。
「やー 諸君 どうかね」が口癖である。田舎出の私の目には 「矢張り 洋行帰りは違う」とみえた。こう言う時の先生は 努めて生徒に溶け込もうとされる。授業中は もちろん あの厳しい雰囲気だ。緊張の連続で、深呼吸もできない。
しかし、今思うと、あれも 先生一流の演出で 甘やかさずに、不出来の生徒を拾いあげる、独特の教育法だったかもしれない。だから 不出来な生徒が偶に正解すると、とても喜んで、「そうですよ 君」とほめてくれる。序でに 少し当時の時代背景を伝えておくと、幕末の頃でもあるまいに、「俺は会津だ、俺は信州の長野だ、君は北海道か 訛りがないんだねー」とか、今思えば 懐かしい時代でもあった。

暫くした頃、勉強嫌いな連中が同人雑誌めいた文集を作った事がある。表紙のタージ・マハルの写真は 私が用意した。裏に 野口米次郎の詩を載せて、処がこれが先生の目にとまった。「勉強をさぼってばかりで、こんなことに」と怒られるかと思いきや、先生は これを読まれて、M君の短編とN君の短歌を激賞された。謹厳だが 非常に頭の柔らかい方だったのだ。

印度語の勉強も 最初のころは 皆 熱心について行った。竹の端を削ってクァラムを作り、墨をつけて ペルシア文字の練習もした。
蒲生先生のペルシア文字は 文字通り 見事としか言い様がない美麗さで、アラビア人がいわゆるカリグラフィーを愛して芸術の域に高めたのも 納得が行った。

思えば、入学直後の気のゆるみと、学生になり大人になった気分で浮き浮きした年頃だった。二年上の先輩連に連れられて 現在の高尾(浅川と言った)にコンパに出掛け、そのとき 美声で「上海リル」を歌ったS君の事も思い出される。

蒲生先生が 常日頃 インド語の授業以外に 何度も言われたのは 「諸君の英語の水準は立派なものですから そちらの勉強も怠らないように」。これは 蒲生先生の心からの思い遣りだった。
考えれば、卒業後 インド語で飯が食えずとも、英語で十分行ける様にしておけ との意味合いだったと思う。蒲生先生ご自身が 大変な英語の実力者だった様で、英語学の泰斗の岩崎民平教授が 「蒲生先生は 英語がお出来になるからねー」と言ったと聞いた事がある。

空襲が激しくなり 先生の下高井戸のお家が 線路の沿線から少し奥の方に疎開された。お手伝いに上がった私は 記念に 小さな英文書を戴いて帰った。ジョージ・エリオットの『サイラス・マーナー』、英女流作家の1800年代の小説である。テキストでもあったのか、開いてビックリ、傍線と書き込みで 全ページ真っ黒である。大変な勉強家なんだ と心底から脱帽した。

我がクラスは 何故か地方からの生徒が多く、そのためか 特に英会話が弱かった。あの キングス・イングリッシュのクラーク先生の評は散々だったらしい。後年 アメリカの石油会社に勤務して 英語力の不足で大いに苦しんだ。正に 蒲生先生の忠告通りだったのだ。

蒲生先生は 授業中 ときどき独特のポーズ、左手で両の頬を軽く挟む。長年の発音訓練のせいか お口の回りにしわが出来てるが、それをなでなでしながら 何か難しいことでも言うのか とおもいきや
「諸君、甘いものが食べたいねー、あの 虎屋の羊羹、こう厚切りのやつをねー、フフフ」と 何とも言えぬあの笑顔を思い出す。
毎日 空き腹を抱えていたこの時代、昭和19年 戦争末期、喫茶店で出されるは 無糖紅茶と海草のラーメン。甘党の先生らしい無邪気なお言葉だった。

戦争が激しくなり、わがクラスから 年長だったS君が真っ先に入隊することになった。蒲生先生は 声を大にして、
「死んで来ます、なんて言っちゃいけませんよ」
「生きて生きて、生き抜いてらっしゃい」
恐らく これは 日本の知識人の軍事体制に対する 精一杯の反抗メッセージだったのだ。

そういえば 普段から 教壇で 「諸君 この戦争 危ないネー」と よくおっしゃていた。我々若者は 子供の時から完全に洗脳されているから、先生の言葉を理解出来なかった(現在の北朝鮮みたい)。先生にしてみれば 自分が手塩に掛けた我々の上級生が 次から次へと出陣した訳だから、如何に淋しい思いをされたかと思う。何時も 一人ぽっちの軍事教官の室は 先生方の室の反対側の隅っこで 誰かが話しかけるのを見たことが無い。
教授連は 皆 外国留学経験者で、日本の軍人に敬意を払う筈もない訳だ。教練の時間は 我がインド語部の出席者はほんの数人で、E軍事教官に大変睨まれていたから、おそらく 蒲生先生の耳にも苦情が届いていたかも知れないが、ただの一言もおっしゃらなかった。

年に一度 教練の査閲と言うのがある。少しいい加減なお話だが、東京外語は 全国で尻から二番目、どん尻は 美術学校とか。何でこんな事を書いて と思うだろうが、何時の世でも 批判精神は大事だ。私もお蔭で 戦後の左翼の嵐の中で どうやら中庸を保てた。

教育とは こう言ったものを含む。今思うと 外語時代に チョッピリ戦争批判が芽生えて居たのかも知れない。私は 入隊直前 郷里の北海道に居た。東京のN君から来信あり。「水戸方面の空襲で 軍事教官のE大佐が焼け出され、裸で逃げ出したらしく、ご自慢の日本刀も革の長靴も失い、牛蒡剣にゲートル(二等兵の服装)で出勤して来た。見るもの呵呵大笑」とあったから 軍人の威信も 既に地に落ちて居たのだ。

しかし 蒲生先生が アメリカに好感を持っていたとは思われない。
「諸君、アメリカには たかりが多くてね、食堂で食事をしていると 側に無頼漢が来て 飯を食わせろ と言うんですよ。睨みつけてやりましたよ。」
恐らく 1930年代 左翼の蔓延した不況時代と思うが、私自身 暫くニューヨークに滞在しての経験から、地下鉄の汚さと下町の雰囲気の悪さ、蒲生先生の言ったアメリカの大都会の歪は 今でも現存する。英国やその植民地で英国風に当たると、なんとなく アメリカ風が好きになれない。多分 先生も そんな気持ちだったかもしれない。戦時中 食べ物のみか、服装まで戦時色。先生も フラノのズボンどころか カーキー色の国民服にゲートルを巻いて出校された。我々は 工場にフルタイム徴用されて 先生の授業の思い出は 此処で途切れる。

私は その後 空襲で焼け出され、軍隊に招集されて 間もなく敗戦を迎えた。直後の無力感は 北朝鮮の若者が今から数年後に味わうものと 多分 似ているだろう。すべてが無と化し、茫然自失、今後の見当も付かず、インド行きの青春の夢も 完全に失せていた。敗戦の年の10月頃だったか、蒲生先生から 一枚の葉書を頂戴した。
「皆 戦地から ぼつぼつ帰って来ました。貴君も出ていらっしゃいませんか。」
途端に あの怖い先生の顔が 急に懐かしく思い出された。結局 この一枚の葉書が その後の私の人生を決定した訳だ。焼け野原の東京で 下宿もない。父の友人宅の千葉から通った。敗戦直後の授業では 真面目に勉強してるのは黒柳君ぐらい、字引も焼失してるし、今までのブランクが大きすぎて、秀才の土井先生の授業には 到底 ついて行けなかった。ただ空腹をかかえて 闇商売用に 進駐軍の煙草や手袋を仕入れにあちこち歩き回った。元気だったのが 英語のお得意だった 山岸大人、進駐軍に出入りして、アメリカ軍の純毛のカーキー色のパンツなんかはいていた。食物のないころで、アメリカ軍のレーションズ(携帯口糧)を有り難く貰ったりした。私は 勉強に関しては 全く不肖の生徒。「ハノーズ・デリー・デゥール・アスト(日暮れて道遠し)」田舎の中学出身で 英語も不得意だったが、結局 軍隊帰りは 無条件で卒業させてもらった。

この頃、戦後の一種の政治ブームで 新橋の社会党本部や代々木の共産党本部を覗いたり、篤学の蒲生先生の最も嫌う事ばかり。先生は 大言壮語や、人前でポーズを飾るのを最も嫌う方だった。
私は 従って 先生の意に添うタイプの弟子とは程遠かった。処が その数年後 全く思いがけずに蒲生先生のお世話になることになる。パリのユネスコ本部のグラントを貰って、インドに行く事にはなったが、肝心の 渡航のパスポートが日本政府から下りない。どうやら、左翼の地下潜行と疑われたらしい。日程の関係で 北海道に戻る時間もなく、結局思い余って、蒲生先生の処に相談に上がった。
今にして思うが、この不肖の生徒に よくも先生が力を貸してくれたと思う。誠に有難い事だった。こう言う時の先生の印象は 教室とは全く違う。実に暖かく心配してくれた。先生のお人柄と信用で 事務局長から沢田校長(元ブラジル大使)の名で、鈴木九万 日本ユネスコ事務総長に面談して 漸くパスポートを貰った。これは 蒲生先生の篤実なお人柄が 如何に絶大な信用を得ていたかを 如実に物語るものであろう。

蒲生先生ご夫妻には、私の結婚式の際 ご出席を賜ったが、先生は 可成 お年を召された感じで 杖をついておられ、あの 怖くて滋味のあるお顔が老境に入られて 柔らかく 真の篤学者の面影を湛えて居られた。

そして、後年 先生の没後 何十年も経って、先生の論文集の編集会議に 私も 一、二度 出席した。其の際 確か 三冊ほどの先生の学習ノートが残されていた。それこそ びっしりと書き連ねた勉学ノートを拝見した途端、わたしの脳裏に浮かんだのは、空襲で焼失した 先生の「サイラス・マーナー」だった。

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忸怩たる思い出の記

竹内 可能   1960年(昭和35)H卒

印・パOB会会報誌の編集者、渡辺光一君(昭和41年 H卒)から 二度、三度、土井久彌先生の思い出を綴って欲しい と依頼を受けてはいた。しかし 私は その都度、既に 「回想集」にも思い出の一端はご披露に及んでいたし、私自身 会報の編集にお手伝いもさせてもらった手前、この際は 是非 どなたか適任の方に、と 辞退申し上げてきた。それに 何よりも 定年退職後この方、一個の自由人となってから わが身の過去を思い起こすたび、とりわけ 土井先生に対する忸怩たる思いを禁じ得ないできたことが、私を逡巡させた理由であった。
ところが 編集作業の土壇場にきても、適当な執筆者が間に合わない、ということで 私にお鉢が回ってきてしまった。以下 私が綴る一文を読んでいただいた諸兄姉には、私の執筆の逡巡が奈辺にあったものか、お察しいただけるかと思う。

私は 昭和40年 8月15日に 現在の妻と結婚式を挙げたが、夏の暑いさかりの、しかも 終戦記念日を敢えて結婚式の日と決めたのには 訳があった。その年の春を過ぎた頃だったかと思うが、私は 年内の海外駐在の打診を会社から受けていた。私は 自分の齢が28歳であったことから計算すると、海外赴任前に結婚しておかなければ、他日 帰国したときには 適齢期を過ぎてしまう ということを 真面目に恐れていた。

私は 就職の時もそうだったが、この田舎者にとって 最も頼り甲斐のある先輩は、この東京砂漠の中にあって 土井先生をおいて他に無い と、固く信じていたので、ためらうことなく 先生のお宅を訪問した。そして また 厚かましくも 誰か適当な女性を紹介して欲しい と頼みこんだのだった。
ほどなくして お見合いという仕儀とは相成った。今思っても この段取りは 電光石火のようにすばやいものであった。しかし 明日にも海外派遣を命じられるやも知れぬ私にとっては、有難い迅速な運びであった。

見合いの場所は もちろん あの渋谷にあった先生のお宅だった。相手の女性は 土井先生の陸上競技部時代の同輩であった、浜田克己(英米科 昭和12年卒)の長女である。今回 本会報のために わざわざ土井先生の思い出を投稿して下さった陸上競技部OBの鈴木悠児さん(スペイン科 昭和34年卒)の回想記によっても、当時 土井先生のまわりには、学長だった小川芳男先生(英米科 昭和 6年卒)とか、岡本正巳さん(露語科 昭和14年卒)をはじめとして、錚々たる競技部OB連中が犇き合っていた様子が伺えるのである。

話を戻さねばならない。お見合いの後は、三ヶ月もたつやたたずで 真夏の日の結婚式と相成る。仲人は 名実ともになる土井ご夫妻だったことは 云うを俟たない。司会は 学友の、中紀男君(昭和35年 H卒)にお願いした。場所は 明治記念館であった。結婚式を済ませると、その年11月には 新婚の妻を実家に残したまま、南国インドネシアのジャカルタに向けて、あたふたと 一人赴任したのである。

当時、若輩の商社マンにとっての海外駐在は、大概 妻帯は認められず、単身赴任が通り相場というものだった。当節なら それだけでも人権問題であろうが、あの当時は 海外渡航させてもらうだけでも有難い時代だったから、不自然に思うほどのこともなかった。
大勢の見送りに囲まれながら、万歳三唱の中に羽田空港を飛びたったときから、私の精神は 未知なる世界に向けて高揚していた。その後 三年間のジャカルタ駐在時代も、私は 青春の迸るようなエネルギーを昇華させるかのように、仕事に遊びに充実した一時代を享受した・・・。ただ一つ、若気のいたりと云うには余りにいまわしい、あの わが一生の不覚を除いては。

私がジャカルタに着任するちょうど二ヶ月ほど前には、不運なことに スカルノ政権転覆を狙って 世界史的にも有名な軍部によるクーデター、世に云う 九・三〇事件が勃発していた。着任してみると ジャカルタ市街は、こうしたクーデターの帰趨も定かでない渦中で、市中は騒然としていて 軍隊と戦車が道路という道路を制していた。ここかしこに 銃撃の音が絶え間なくこだました。どさくさ紛れに おなじみの華商排撃の暴動が加わり、毎日のように どこかで死者がでていた。

そうした中にあっても われわれ商社マンは 少しも怯むことなく、ただ 中国人と見間違えられることのないよう、自動車には必ず 日の丸のステッカーを貼りながら、昼夜をわかたず 市中を走り回り、円借款ベースになる商いのすさまじい争奪戦にしのぎを削っていた。われながらに 死の商人同然と思ったことであった。
私達は 「夜討ち・朝駆け」と称して、インドネシアの要路にある役人の自宅を訪問しては、日・イ両国間にわたる円借款情報をさぐるなどしながら、ひたすら 自社の大量契約をめざして奔走した。ほんとうにゆっくり寝る間もないような日々は続き、いよいよ 各商社間の成約争奪戦が激しさを帯びてくると、神経はいやが上にも高ぶり、眠れないような夜もある。それでもまた少しでも暇ができようものなら、合宿所さながらの社宅の一角では、高額の賭けが身上の麻雀の面子が待っているのだ。それはもう、疲れ切った神経の痛みを癒すことのできるモルヒネにも似ていた。

こうして 殺伐とした飯場にも似た駐在員生活を 一年以上に亘って過ごすうち、私は 日本に残してきた妻のことを忘れかけてきたようだった。本当は 忘れたというわけではなく、云ってみれば 仕事以外の全てのことがただ疎ましく、そして わずらわしく思うようになっていた。
或る日 私は 意を決して 長文の離縁状を認めて これを内地の妻に郵送したのである。昔の三下り半というやつだ。私小説風にでも云うなら、この間の事情や心情は それ相応に詳しく書き込むことになろうが、ここでは曲げてご勘弁願うとしたい。私が今もはっきりと云うことができるのは、このときの私が妻に送った手紙こそ、わが一生の不覚であったということだけである。

さて それから 二、三週間ほども経った頃だろうか、或る朝会社に出勤すると 支店長から 「竹内君、ちょっと・・・」と呼び出しがかかった。支店長の部屋に入るなり、「君、これは一体どういうことなのか 説明してくれんか」と云いながら、一通の開封されたままの国際電報を 私の前に差出した。見ると 発信人は東京の「HAMADA」とあり、受信人は私であった。
私は この電報を読むなり 動?した。そこには 書き出しに「MRS TAKEUCHI BEING STARVED TO DEATH・・・」とあった。その後にどんな文言が続いていたのか 記憶にないが、この前文六語から成る内容の深刻さに 私は 戦くほかなかった。次の瞬間、私は 土井先生の苦りきった顔を思い出していた。そして この電報の発信人は 本当は 岳父、浜田克己ではなく、もしかして 土井先生ではないか と恐懼した。傍らの支店長の困惑しきった形相を 私は 今でもときどき 苦々しく思い出すことがある。
運の悪いことは重なるものだ。そのときのジャカルタ支店長の名前がまた 妻の実家の姓と同じく 「浜田」さんだった。彼は この電報の発信人がハマダとあることから、或は 自分の里から舞い込んだものと勘違いし、開封してしまった と言い訳をした。

その当時のこととて 手紙の他は 交信の手段としては、公私ともに 国際電報に限られていた。国際電報とは名ばかりで めったに通じたためしもなかったし、無論 テレックスとかファックスもなかった。その電報すら 集配に危険が伴うので、日系企業では 毎日 朝夕のこと 自社の係員を直接 ジャカルタ中央郵便局に向かわせて、送受信の安全を期していた。

とまれ、支店長は 私宛の私信を間違って開封してしまったことを しきりに詫びながらも、私と妻との間のただならぬ関係が、会社の上司としての責任問題に転化せぬか と危惧していた。考えあぐねた末、私は 支店長に申し出て ともかく 日本に私的な一時帰国ができるように 許可を求めた。
こうした緊急時の対応に 電報や手紙の交信をもってするなど 間尺に合わぬことおびただしい。離婚はともかく こんなことで彼女に死なれようものなら、それこそ 男子一生の不覚どころの話ではない。私は じりじりしてあせる気持を押えるようにして、本社から一時帰国の許可がくるのを待った。が、何日かして 支店長から受け取った回答は 「不許可」ということであった。そういう時代だったのだ。

或る日、私は 単身赴任ばかりの若者の合宿所のような社宅の中の、自分の部屋で 土井先生から送られてきた一通の手紙の封を切り、一人これを読んでいたときのことを忘れることはできない。今は その文面にどんなことが書かれていたのか、忘却の彼方であるが。しかし 私は その文面の優しい先生の筆致を見たとたん、落涙を禁じ得なかったことが 今はなつかしい。

そんなことがあってから、私が任期を終えて帰国に至るまで、どれほど月日が経ったものか さだかではない。しかし この間 私は 自分の心に傷ついたトラウマと戦い、これを養うことに迫られていた。それらの傷跡が 一つには土井先生に対する慙愧の念であり、一つが妻への悔悟と憐憫の情であることは 確かであった。私は 先生にも妻にもあらためて、相応に事態の修復を計らなければならないことを 痛いほど思い知らされていた。

ようやく帰国が決まると その途次、私は 香港に立寄って 妻の土産に 金縁のロレックスの時計一個を買い求めた。あとにもさきにも 妻への高価な贈り物は これっきりであったが、私は これを 彼女への悔悟のあかしとして与えてやりたかった。
帰国便が羽田の飛行場におりたち、出迎えのラウンジの人混みの中に彼女を見た瞬間、私は そのとき 私の妻にはじめて出逢ったような新鮮な錯覚を感じた。正直なところ 三年以上も逢わないでいると、目前の妻の実存すら疑わしい、といった風情でもあった。

そうだ、そう云えばもう一つ、大切な私の宝物についても記さねばならぬ。私は わが贖罪のことを思いついたそのときから、私にはもう一つ 妻に差出すことのできる貴重な品があることを意識してきた。その貴重な宝物こそ、昭和35年 3月卒業式の日、土井先生に連れられるままに学長室に赴き、そこで 岩崎民平学長から直々に拝受した「ベスト・ヒンディー・スチューデント賞」であった。それは 小さな桐の箱に収められた、外語大の徽章であったが、形ばかりとはいえ 金メッキが施されているのがうれしかった。
その後、一介のビジネスマンとして草莽に半生を終えた私にとっては、恩師から賜ったこの顕彰は、それだけでも私の肩に重く、忸怩たる思いにかられぬことはなかった。しかし 私はいま、不遜にもこの賜物を、恩師から授った形見とも、忘恩の戒めとも思いを定めて、他日逝くときには、わが贖罪の品として 妻に遺してやるつもりである。

帰国後のことだ。私は 早速 妻を引き連れて 渋谷のかの先生のお宅に挨拶に出かけた。今思うに その頃までには、とにかく私達夫婦の関係も 落着くところには落着いていたのだろうか。
私は 先生夫妻に、つとめて何事もなかったように、「その節は ご心配をおかけして・・・」とだけ切り出すと、先生は 「まったく心配かけさせられたもんだネ」と云ったあと、「ところで もう大丈夫なんだナ?」と 二人に向かって質問を発した先生の眼もとには、普段の優しさが満ちていた。傍らのご夫人の「本当にもう心配しちゃったんだから・・・」という破顔の言葉が耳底に残る。
私は このとき、私が あのジャカルタ駐在員事務所の支店長室で見せられた電報の「MRS TAKEUCHI BEING STARVED TO DEATH」なる電文は、土井先生による私宛の発信であることを確信した。

ジャカルタから帰国して以来 30有余年。この間 私達夫婦の間には、一度たりとも このいまわしい、ジャカルタ発の三下り半のことを、お互いの言の葉にのせたことはない。死んで灰になっても口にはしない、ということが夫婦の間に一つや二つあったとしても、お互い幸せならそれでよいではないか、と思う 今日この頃である。

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ガンジス河へ先生の遺骨を運ぶ

町田 和彦   1976年(昭和51)H卒
(東京外国語大学 アジア・アフリカ言語文化研究所教授)

東京外国語大学インド・パーキスターン語学科卒業生の会が編んだ 『回想集』の巻末に載っている略年表を見ると、昭和58年(1983年)の事項の一つとして 「 7月19日 土井久彌死去、勲三等旭日中綬賞」と記されている。葬儀の日はひどく蒸し暑く、拭いても拭いても汗が止まらなかった記憶がある。もう四半世紀近く時が経過したことになる。いままで 多くの方々が土井先生のお仕事について、また思い出について書かれている。重複することもあるかもしれないが、教えを受けた一人として 私個人の記憶の断片を付け加え、先生を偲びたい。

私が インド・パーキスターン語学科(ヒンディー語専攻)に入学したのは、昭和46年 4月である。昭和45年に高校を卒業して 一浪して入学した。今から思えば 当時は いわゆる大学紛争の断末魔ともいうべき最後の嵐が吹き荒れた時期だった。高校卒業の年は 東京大学の入学試験が行なわれなかった。大学紛争のあおりが高校にも及び、私の高校の卒業式はなかった。入学した年の東京外国語大学の入学式もなかった。浪人中の秋には、三島由紀夫の割腹自殺があった。そんな時代だった。

入学式はなかったが、昭和46年入学の私たちには、大学はいたって静かだった という印象がある。授業は正常におこなわれた。後で聞かされた、大学封鎖時代は 各語学科の先生の自宅での寺子屋式授業もあった という話は、遠い昔話のように思われた。

ヒンディー語を選んだ理由は、今でもよくわからない。入学後すぐに 土井先生が顧問をしているという陸上部に入部した。入部の動機の一つに、大学では そういう関係が単位修得のギリギリのところで功を奏することもあるのだ、という もっともらしいうわさ話を耳にしたことも否定できない。軽薄な男である。中長距離走者としての自分の資質に見切りをつけて 一年の夏休み頃には退部した。体を動かすクラブ活動は嫌いではなかったので 陸上部を退部した翌日には サッカー部員として 西ヶ原の同じグラウンドを走っていた。そのサッカー部も、レギュラーポジションは到底無理だ ということがわかってやめてしまった。長続きしない男である。陸上部に入部したときも、退部したときも、土井先生は 特に何も言われなかった。

一年生のヒンディー語の授業はよくサボった。当時の土井先生は、私たち新入生には おだやかでやさしい印象を与えた。後に 田中敏雄先生などからうかがった お若いときの厳しい姿の片鱗もみせなかった。ただ、予習はおろか 復習もまともにしなかった私は、たまに出席した教室で 土井先生の簡単な質問にもときどき立ち往生し 冷汗をかいた。今でも この状況が再現される悪夢にうなされることがある。

大塚駅で偶然先生と一緒になった時のこと。切符を買われたので、「先生は 定期券はお使いではないのですか」とたずねると、「君、定期券というのは そんなに簡単に買えるものなのかね」と 真顔で聞き返された。いつかこの「冗談」の真相を確かめようと思っていたが、ついに伺う機会を失ってしまった。

四年生になったある日 土井先生に呼ばれた。唐突に 「君、アラハバード大学に一年行く気はないか」とたずねられた。背景にいろいろな事情があり、たまたま 先方の大学の入学許可と日本の文部省の奨学金がセットで宙に浮いた状況下だった と後で知った。アラハバードでは、行く先々で 「これはドイの弟子だ」と紹介された。誇らしくはあったが、正直 重荷にも感じた。学部卒業後、縁あって アラハバード大学に修士課程を修めるために 再度 留学し、アラハバードには 合計三年間ほど滞在することになった。留学時代は 我ながらよく勉強したが、その原動力の多くは 「ドイの弟子」という緊張感だった。

はっきり言って、土井先生は悪筆だった。教室で聞く 「流れるようなヒンディー語」と黒板に書かれるデーヴァナーガリー文字とが同一人物のものとは なかなか納得できなかった。語学教師の経験がある人間は知っていることだが、外国語を書く文字の巧拙は、不思議なことに、母語を書く文字の巧拙にまったく比例する。さらに 文字の巧拙は、言語能力と何の関係もないことも不思議である。後年 教鞭を執るようになって、答案に書かれた巧みなデーヴァナーガリー文字に 私は幾度となく欺かれた。

文字といえば、田中敏雄先生の文字も独特であった。ご自身の言い訳では、若い頃のペルシャ文字の書き過ぎ とのこと。土井、田中両恩師の文字をさんざんに言ったのは、私自身が さらに輪をかけたような悪筆で 大学に入るまでひどく気にしていたからである。ヒンディー語の先生たちの文字に比べて、ウルドゥー語の鈴木斌先生、先輩の麻田豊氏たちの文字は 美しかった。悪筆な自分はヒンディー語に向いているのだ と一人合点して、劣等感から開放されたばかりでなく ひどくうれしくなった記憶がある。独りよがりな男である。はるか後年、土井先生の原稿を清書する仕事をしたことがあるが、悪筆を悪筆で書き直してどうなるのだろうと思った。まだパソコンやワープロが普及する前の話である。

確か 一年生か二年生のときだった。都内であった 何かインド関係の催しものに参加した帰りに 土井先生とたまたま一緒になった。場所は、銀座だったと記憶する。歩きながら 「何か飲むか」と声をかけてくださり、恐縮しつつも 期待しながら先生の後を追った。先生は とあるパーラーに入っていかれた。ビールくらいはあっても まともなおつまみなどないのに、と思いながらついて入った。席に腰をおろすと、先生は 迷わず チョコレートパフェを注文なさった。その店のチョコレートパフェの薀蓄も聞かされたかもしれない。私も似たものを注文した。そのチョコレートパフェを食べるときの なんとも幸せそうな先生の顔は忘れられない。

土井先生の話すヒンディー語をどう形容したらいいのだろう。流暢の枠を越え、私たち学生には 神技に近く思えた。しかし 今考えると、日本語を話すときの先生は もっと口数が少なかった気がする。片方の眉をややつりあげて、ときに 「饒舌」ともとられかねないほどよどみなくヒンディー語を話す先生と、短い日本語のフレーズで問いかけてこちらの答えを待つ先生がいる。趣味が晩年、愛玩動物から盆栽など植物へ、植物から無機質な岩石へと移っていかれたことも考え合わせ、先生のニヒリスティックな一面を見たような気がする。

『回想集』の 「ヒンディー語学科ヒストリー」に、田中敏雄先生が 土井先生の分骨について簡潔に記述されている。

「葬儀の後、遺族より 故人の遺志として分骨、骨をガンジス河に流すように 田中は依頼された。当時、散骨は法律で禁じられていたため、三回に分け、一回は町田、二回目は帰国する客員教授、三回目は清に依頼した。町田は 儀規に従って、アラハバードのガンジスとヤムナーの合流点で流した。」

土井先生の葬儀の約一週間後、私は あらかじめ予定されていた出張で アラハバードに向かった。アラハバード大学の全ヒンディー語関係者は、先生の分骨を前に 追悼式を厳かに執り行った。追悼式に引き続き、散骨儀式(ヴィサルジャン)の段取りが整えられたガンジス河のほとりに 一同は移動した。岸辺に立つ多くの人々に見送られ、喪主の代理として私が乗り込んだ小船は 合流点(サンガム)に漕ぎ出した。

サンガムに着くと、ヒンドゥー教徒の正統儀礼にのっとり、バラモン僧の唱えるサンスクリットを私は復唱した。最後に 先生の分骨をゆっくりと河に投じた。先生の白い骨片が ゆらゆらとガンジス河に沈んでいくのが見えた。

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バーバー・エ・ウルドゥー(ウルドゥー語の父)

萩田 博   1979年(昭和54)U卒
(東京外国語大学助教授)

「バーバー・エ・ウルドゥー」(ウルドゥー語の父)というのは ウルドゥー語研究に生涯を捧げたモウルヴィー・アブドゥル・ハックに与えられた称号ですが、その意味で 鈴木斌先生はまさに 日本のバーバー・エ・ウルドゥーでした。1932年、東京に生まれた先生は、大学入学以降 生涯にわたって ウルドゥー語と関わっていかれることになります。

私がウルドゥー語科に入学したのは 昭和50年でした。鈴木先生はまだ独身で(翌年 結婚されました)、初めて教室で先生方の紹介があったときには、少し怖い先生ではないか と言う印象を抱きました。ところが それに反して、授業はとても懇切丁寧で面白かったのを覚えています。

一年生の後期には サット・プラカーシュ・ガーンディー先生がボンベイによく行かれた関係だろうと思いますが、マハーラーシュトラから出ていた 『バール・バールティー』という名前のウルドゥー語の教科書を使って 音読の訓練を何回もやりました。おかげで今も カリフ・ウマルの徳を述べた文章が時々頭に浮かんできます。私も 一年生には音読をしてもらっていますが、先生のように楽しく学んでもらえているかは、はなはだ疑問です。

二年生になると 時事作文をやりましたが、今思えば ずいぶんと高度な授業でした。当時は 二年生になるとペルシア語が必修科目で、ペルシア語の語彙の影響を受けた作文をしてしまい、ずいぶん訂正されたものでした。

私が入学した当時、教材としては 蒲生先生の手書きの文法書と鈴木先生が自らタイプを打って作られた語彙集しかないような状態でしたが、その後 先生は 長年にわたって ウルドゥー語の教材の執筆に意を注がれました。『基礎ウルドゥー語』は 独習者にも配慮して書かれており、この本を使ってウルドゥー語の学習を始められる方も多いと思います。『基礎ウルドゥー語読本』は 平易な読み物が収められており 読解力の向上に役立ちます。『ウルドゥー語文法の要点』は 基礎の段階を終えた方が 中級文法を学ぶためのものであり、ウルドゥー語を本格的に読みこなす力がつきます。『ウルドゥー語常用6000語』と『日本語ウルドゥー語小辞典』(いずれも麻田豊氏との共編)の発刊は、英語の辞書しかなかったころに比べて、ウルドゥー語学習をずっと容易なものにしました。

今から七年ほど前、グローバル・オフィスという ウィンドウズ上で動くウルドゥー語ワープロソフトの存在を知りました。先生にお電話し、このソフトを使って辞書を作れることをお話ししたのが 現在編纂中の 『現代ウルドゥー語辞典』(ウルドゥー語・日本語)の始まりでした。最初は 『ウルドゥー語常用6000語』のコピーに、新たに付け加える語彙などを先生が書き加えたものを打ち込む作業から始めました。その後は 追加する語彙を大学書林の辞書用原稿用紙に書いたものを送っていただくようになりました。今年出版された 加賀谷寛先生(昭和26年卒)の 『ウルドゥー語辞典』が当時編纂中でしたので、なるべく競合しないようにしたい との思いから、『現代ウルドゥー語辞典』は 初心者でも簡単に使えることを念頭におくことになりました。

そのため、ウルドゥー語の接辞に関する知識がなくても、文字が読めさえすれば、簡単に引けることや カタカナの発音を入れて発音表記に慣れていないひとでも使えるようにする という工夫がしてあります。また 辞書というよりも事典的な感じになりますが、料理・服装などの説明も 詳しく述べてあります。例えば、インドやパキスタンの人がよく食べる シャーミー・カバーブは 「ひき肉に みじん切りの玉ねぎ、卵、ダヒー(ヨーグルト)、香辛料、塩、水などを加えてこね、直径 6 〜 7センチのハンバーグ型に丸め、両面を油で焼いた カバーブ → kabaab 参照」といった記述になっています。

現在は 先生の赤が入った初稿を参考にしながら 原稿をチェックする毎日が続いております。今、その時々の病状を示すかのような 先生本来の力強い筆跡とそうでない筆跡の入り混じった原稿を見ておりますと、先生に叱咤激励されているような気がしてなりません。今年には完成させ、先生に安心していただきたいと思っております。

『実用ウルドゥー語会話』(元東京外国語大学客員教授 ムハンマド・ライース氏との共編)は 様々な場面を設定して ウルドゥー語会話を学べる工夫がなされています。これらの本は すべて 大学書林より出版されており、文法、読本、辞書、会話というウルドゥー語の基本的学習教材が整備されました。

先生は ご自分のウルドゥー文学の研究成果を 『東京外国語大学論集』や 『印度学仏教学研究』などの学術雑誌に 数多く発表されています。研究対象は 小説、戯曲、詩、詩人論、作家論 と多方面に及びます。中でも 「ウルドゥー・ガザルの発展と傾向」と題して 11回にわったって 『東京外国語大学論集』に発表された論文は、ウルドゥー文学でもっとも人気のある恋愛抒情詩ガザル 及び ガザル詩人の詳細な論考であるにとどまらず、詩の訳も収められており、日本語で読める ウルドゥー・ガザルの概説書としても 重要な意味を持っています。これからウルドゥー文学を学ぼうとする人のための便を考えて、先生の奥様の許可を得て、そのデジタル化を進めているところです。

先生は 現代ウルドゥー文学を日本で紹介することにも とても熱心でした。小説の翻訳を通じて 一般の読者にインドやパキスタンの社会を知ってもらいたい、というのが その動機でした。現代ウルドゥー小説の分野で 先生がまず精力的に翻訳したのは インド・パキスタン分離独立の混乱期を背景にして書かれた 「動乱文学」と呼ばれるものです。分離独立にともなう移住、宗派間の対立、暴動、殺戮は 「人間とは何か」、「宗教とは何か」という問題を文学者に突きつけましたが、戦中派の一人である先生にとっても 大きな問題として映ったのではないかと思われます。クリシャン・チャンダル(1914 〜 1977)は この時代に最も旺盛な作家活動をした人物であり、先生の訳も収録されている謝秀麗編 『ペシャーワル急行』(めこん)で その苦難の時代を追体験することができます。

先生は 『サルボダヤ』、1968年に創刊され 20号まで続いた 『インド文学』(東京外国語大学インド・パーキスターン語研究室発行)、そして 1990年 創刊され、現在 15号まで発行されている 『ウルドゥー文学』(東京外国語大学ウルドゥー語研究室発行)などに 現代ウルドゥー短編小説の翻訳を 数多く発表されてきました。そうした翻訳活動の集大成とも呼べる短編集が 大同生命国際文化基金より 五冊出版されていますので、紹介いたします。アフマド・ナディーム・カースミー(1916 〜 )は パンジャーブの農村に生まれた作家・詩人であり 農村を内側から体験し、それを小説化することのできた作家でした。1936年前後に 左翼的文学理論を主軸にした進歩主義文学運動が インドで起こりました。この運動に影響を受けたカースミーは 農村に生きる人々を生き生きと描き上げ、そこに内在する 様々な葛藤や矛盾を浮かび上がらせています。そうした短編が収められているのが 『パルメーシャル・スィング』と 『静寂』です。

サアーダット・ハサン・マントー(1912 〜 1955)は 現在に至るまで ウルドゥー文学で最も人気のある作家の一人であり、市井に生きる人々の心理を見事に捉えた短編小説を数多く執筆しました。性的心理の描写に巧みであったマントーは 猥褻作家とされ、鈴木先生がパキスタンに留学された 1960年ごろには 学生の間でこっそりと回し読みされていたそうです。先生自身も マントーを高く評価し、多くの訳を残されました。娼婦を主人公にした短編をマントーは多く執筆しましたが、その中でも 「黒いシャルワール」の心理描写は傑出しています。また、先に述べた「動乱文学」の範疇に入る 「冷たい肉」や 「開け」などは、クリシャン・チャンダルの動乱の描き方とは好対照のものとなっています。この二作は 猥褻だ として裁判沙汰にもなりましたが、パキスタンにおいて「猥褻作品」とは何かを知ることができる意味でも 興味深い作品です。こうした作品が収められている 『黒いシャルワール』、『グルムク・スィングの遺言』(いずれも片岡弘次氏との共訳)で マントーの世界をたっぷり味わうことができます。

私がウルドゥー文学をやりたいと思ったのも、先生が訳された 「黒いシャルワール」を大学三年のときに読んだのがきっかけでした。ウルドゥー小説にもこんな面白いものがあったのか という新鮮な驚きを感じ、もっと読んでみよう という気になりました。その後 大学院へ行きたいと思うようになり、昭和53年の正月に 先輩の秋月俊朗さん(昭和54年卒)と先生のお宅に伺ったときに 進学したい旨 申し上げました。現在もあまり状況は変わっていませんが、大学院卒業後のことを先生は心配され、「やめた方がよいのではないか」というご意見をいただいたと記憶しています。このときから 毎年正月に先生のお宅に伺うことになりましたが、毎回 帰るときになると、先生は大通りまで一緒に来てくださり、私たちが見えなくなるまで 寒い中をずっと見送っていただいたことが忘れられません。結局 私は 進学することになりましたが、マントーとの出会いがなかったら、そして 鈴木先生との出会いがなかったら、私の運命も変わっていたかもしれません。

ハディージャ・マストゥール(1928 〜 1982)は パキスタンの女流作家であり、カースミーの影響を受けて、インドやパキスタンの社会が抱える重い現実を生き抜く人々を活写した作品を残した作家です。短編集の表題ともなった 「ダーダーと呼ばれた女」では 家庭での鬱屈によって精神に変調をきたしてゆく女性が描かれていますが、こうした作品は 男性作家では 到底 描き切れなかったものだと思います。

鈴木先生は 詩人でもあるムハンマド・ライース氏と一緒に 『百葉花』と題して、万葉集のウルドゥー語への翻訳もされました。これは 日本のことをインド・パキスタンの人々に知ってもらいたい、という 先生の願いがあったからだと思います。『百葉花』は 全部で三巻、大同生命国際文化基金より出版されていますが、私たちは この本で 万葉の美しい調べがウルドゥー語に移されるときにどのような詩的変容を遂げるのかをじっくりと味わうことができます。

一昨年 八月、鈴木先生と最後にお会いしたとき、先生が読売新聞紙上で紹介されたことのある ショウカット・スィッディーキーの長編小説 『神の街』のことが 話にあがりました。ずっと以前に 先生から 翻訳してみないか、と言われながら、中途半端になっていたのを心配されているようでした。遅きに失しますが、今年 二月頃に 大同生命国際文化基金から刊行されることになり、先生との約束の一つを果たすことができて、ほっとしています。

平成11年11月に ライース先生が10年ぶりに日本に来られました。芭蕉にまつわる名所・旧跡を旅行した後、かつての教え子が集まり、ライース先生を囲む会が開かれました。その会で ライース先生が自作の俳句をウルドゥー語で朗誦され、その日本語訳を鈴木先生が披露されました。鈴木先生の詩心を知るのにもよい資料になるかと思いますので、ここに その五首を記します。

 aaj kii ye mahfil
  yaad rahe gii umr bhar
 jaaRaa garmii dil

 忘れめや
  熱き心に
 触れし冬

 aaNkhoN meN aaNsuu
  das barsoN ke baad
 tum ko dekhaa to

 十歳(ととせ)経て
 俄に会えば
  目に涙

 ek zamaane baad

  dekhaa aaj xizaaN meN
 aap raheN aabaad

 無事祈る
  久方振りの
 友と秋

 koyo xatam hai ab
  aaii ghaRii milne kii
  yaa ghar calne kii

 時や今
  一期一会に
  散る紅葉(もみじ)

phir mileN ge ham
 kabhii bahaar to aae gii
  mat kiijiye kuch Gam

 幾春(いくはる)を
  重ね重ねて
 君を待つ

ここまで簡単に述べてきました 先生の業績の詳細をお知りになりたい方は ファイルがありますので 次のメールアドレスへご一報ください。
hagita@tufs.ac.jp

かつて 鈴木先生が教育実習で英語を教えられた時、生徒達が 「先生は 教師になるより 落語家になったほうがいい」と言ったそうです。アラビア語の表現をもじった 「アルバイト儲かるん」、意味は まったく違うウルドゥー語の動詞の副詞的用法を使って、日本語の怒りの表現であるかのような 「イカッテー・フエー」、考えるという意味の動詞の語幹ソーチに英語の接辞をつけた 「アンソーチャブル(考えられない)」、韻を踏んでいる 「ふざけんな、アビケンナ」などの先生の造語を 授業やコンパで聞かれたひとも多いと思われます。ときどき 先生のこうした言葉がひょいと頭に浮かんできます。

今でも楽しい記憶として残っているのは 昭和57年夏に 最初のパキスタン留学の際、インドから入り、途中デリーに行ったときの事です。鈴木先生、田中先生も ちょうどデリーにおられ、小林玄一先輩(52年卒)と四人で コンノート・プレイスの中級ホテルを渡り歩きました。毎夕 6時に集合して、毎日 違う種類のお酒をボトル一本あけ、留学の心構えを教えていただいたこの宴は忘れられません。

先生にご指導を受け、時には褒めていただき(あまりありませんでしたが)、時には お叱りを受けたこの三十年間は 私にとって実に貴重なものでした。先生との様々な思い出をしっかりと胸に抱き、これからの人生を送っていこうと思っております。鈴木先生、本当にありがとうございました。

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わが人生と鈴木先生の言葉

佐藤 浩史   1965年(昭和40)U卒

私如き者が、故 鈴木斌教授とより深い絆で結ばれていた同学の多くの皆さんを差し置いて想い出を書かせて頂くのは、僭越の謗りを免れぬかもしれません。若き日の教授が カラチ大学から戻っていらっしゃって、教壇にお立ちになった時、後期の学生で教室に居たのが、我々の世代でした。我々のクラスには、極めて もしくは 非常に優秀な学生が複数名おり、名作小説について講ずる鈴木講師の瑞々しい授業にしっかりついてゆきました。私は 講師の日本語表現に感銘を受け、それを通して 原作のエステティックをうっすら垣間見た という程度であり、したがって、この様な紙面を頂くのは 大変申し訳なく面映いのであります。

しかし 就職して与えられた仕事が、なんと 国際放送のウルドゥー語番組制作 ということで、折々に、私にとって大事なポイントで、教授の助言、支援、協力 そして 励ましを頂いてまいりました。そうしたご縁ですので、初めて教授にお目にかかってから今日までの、私の スズキ・クロノロジーを少し申し上げるのを 皆様 どうかお許し下さい。デビューの時から颯爽として頼もしいアニさんのように思えた教授ですので、私たちは、ご本人に対しては兎も角、自分たちの間では 「先生」ではなく 「スズキさん」、「ブンタケさん」などとお呼びしていました。今でもそうです。

ウルドゥー語放送

さて、1965年、昭和40年にNHKに入って配属されたのが 国際放送の番組制作部門で、主たる担当言語は ウルドゥーでした。ヒンディー語やベンガル語の番組も 一部 担当させられました。新入職員の研修を終えて 当時 千代田区内幸町の放送会館にあった職場に行くと、まず ヒンディー語卒でカリキュラム上 ウルドゥーも充分学んだ極めて優秀な先輩 稲原明さん(昭和36卒)が 「鈴木さんから聞いているが、かなり出来が悪いそうだな。努力しろよ」と宣わったので、「こりゃ まずいぞ」と思いました。なにしろ、番組制作は希望してはいたものの、ウルドゥーのではなく、できれば 音楽番組が作りたかったので、かなりがっくり来たのを憶えています。この先輩の他に、出演者 兼 制作補助者として ヒンディー語やベンガル語がすごくできる先輩、後輩が働いていらしたので、そのことでもかなり焦りました。それでも、当時は 黒柳先生が 私たちの業務をアドヴァイザーとして見ていて下さり、本当にありがたい思いをしました。どんなにホッとした事か分かりません。先生とは 日本語習得番組も 長くやらせて頂きました。

そのずっと後、私が管理職になり 国際放送のいくつかの職場を移り歩いている間に、鈴木さんが この番組の講師役になられて、楽しく有益なシリーズをお作りになりました。例によって 若干ぶっきらぼうでシャイな感じでしたが、その底から あの温かさと真摯な姿勢が滲み出てくるのを感じさせる番組でした。アシスタント役の渡瀬順香さんの発音も素晴らしく、レベルの高い番組でした。現在は 井上あえかさんとグル・ラハマーンさんのシリーズが放送中です。

ウルドゥーで頑張る

では また昔にもどって、パキスタンやインドの出演者たちと共に 毎日 ウルドゥーのニュースと番組の制作に携わっていると、やはり 段々 英語からの翻訳や 番組用の用語の選択や 気の利いた表現などが出来るようになってくるものです。そうなると 今度は面白くなり、毎日 自らニュースをタイプで仕上げるようになりました。そうしたある日、鈴木さんと話す機会があり、「先生の講評が先輩に届いていたので、かなりしごかれました。でも お蔭様で、あれで、ここではウルドゥーをやるしかない と覚悟を決めてがんばったので、多少は ネイティヴの出演者とやりあえるようになりました。」と申し上げたら、「うん、ちょっとは聞いてる。なんとかなるもんだよ 毎日やってれば。良かったね。」とあっさりと、でも すごく温かーい仰しゃり方で励まして下さいました。既に、様々な人間関係や理不尽な仕事のありようにダメージを受け、また 怒りを覚えていた頃だった事もあって、すごくジーンとしたのを憶えています。

カラチ

そうこうするうちに、ウルドゥーのブラッシュアップを主要な使命とする研修で海外派遣される事になり、たまたま来日した 当時のカラチ大学のクレシー学長に直訴して 大学院に在籍させて頂ける事になりました。当然 鈴木さんの事は聞いていらして、大変 賞賛なさっていらっしゃいました。パキスタンの最高の碩学である同学長が、極めて品が良く古典的な表現で 「あなたは やはり カラチにおいでになるのが 一等良いのではないかな」とおっしゃったので、また鈴木さんのご配慮で 何らかの口添えをして頂いたのかな と 一瞬 思いました。

しかし これは クレシー博士のそれなりのユーモアだったらしく、「日本の方は 海の魚が手に入らないと困るでしょうから」というような事をおっしゃり、ドギツイ駄洒落ばかり言って暮らしてきたヤクザな放送屋は、どうやって このイマイチの洒落をウケて見せようか と苦慮した事を憶えています。

こうして 1969年 晩秋、ついに 鈴木さんが留学の日々を過ごされたカラチで 研修生活が始まりました。同じクラスに 大阪外語をその年に卒業なさった 若き日の現カラチ総領事の中野さんも在籍されていました。カラチ大学のウルドゥー文学部の他に、ラジオ局やテレビ局などに通いました。ありていに申せば、大学で詩や文学の講義を受けて教養は高めても それにのめりこむということにはならず、やはり 自分の業務に直結する分野や様々なジャーナリズムにアプローチしていったわけです。

しかし 鈴木さんの恩師であるカシュフィー先生には 良くして頂きました。そのカシュフィーさんは 私がカラチ大に通い始めてすぐ、大阪外語に赴任なさり、私が帰国してから、私たちの番組の翻訳をずっとお願いする事になりました。またここでも 鈴木さんのコネがきいたのでした。現在 カラチの学校教育を束ねていらっしゃる ライース・アルヴィー教授についても このコネは効いています。カシュフィー先生の愛弟子である教授は 東京外語に招聘されたわけですが、既に私がカラチで 青年学究ライースさんにお目にかかっていた事もあり、鈴木さんのお口添えで、こころよく番組の翻訳を引き受けて頂きました。

鈴木さんと共同で使いやすい実用会話の著作もなさったライースさんを、先般 外語の萩田先生が中心となって 日本にお招きし、鈴木先生にも もう一度お会い頂いたのは、大変 素晴らしく、本当にご苦労様なことでありました。

鈴木・田中両先生の来訪

そして 1970年のある日のカラチ。鈴木さんが ヒンディーの田中先生とご一緒に 彼の地にいらっしゃったのです。先生方のミッションについては、残念ながら 何も憶えていません。しかし 私にとっては、まさに 地獄に仏でした。実はその頃 私は、当時 大阪で開催中の万博と日本について、カラチのロータリークラブの総会で何か喋ってくれ と頼まれていて、ヒーヒー言いながら見てもいない万博について原稿をまとめあげたところでした。

しかし ウルドゥーでもっともらしいスピーチなどした事がないので、プロトコールも含めて ワーディングに全然自信がありませんでした。そこへなんと 我が守護神が光臨なさったわけで、こんなに有難い事はありませんでした。早速 原稿を見て頂き、「大体 こんなもんでいいんじゃないか」という段階までおつきあい頂き、本番で登壇し、会場からの質問もまあこなし、主催者側や同席した日本の商工会議所の駐在代表が 「良かった。ご苦労様でした。」と言ってくれた時は、文字通り ヘナヘナとなりました。その後のパーティーの席で、ひとりの財界人に 「カラチでは当たり前の 不必要な英語がまざったウルドゥーではなく、オーセンティックなヴォキャブラリーでしたね。」と言って貰った時は、また鈴木さんに感謝しました。

母校の非常勤講師

研修を終えて東京に戻り、千代田区内幸町から渋谷区神南の放送センターに移ってしばらくすると、黒柳先生と鈴木さんの方から、後期の学生のために 時事用語・表現の授業を週一回やってほしい というご依頼がありました。私の研修生活をご覧になった鈴木さんがおっしゃっていると思うと 誠に畏れ多い事ではありましたが、私としては 自信もないし、第一 出勤する前にそんな時間がとれるか、上司が許すか、どうしたら良いか途方にくれました。すると、上から 「行くように」という指示が来て、否応なく 朝の授業に通うようになりました。両先生の根回しが行き届いていたようです。授業の前後、私は 鈴木さんの研究室に座らせて頂き、毎週一回 いろいろお話を伺い、助言を受け、入れ替わり立ち替わり 自分の家のように入って来る若者達と鈴木さんの会話を聞くのを楽しみに 何年も過ごさせて頂きました。

教室や語劇で

この非常勤の教室では、これまた畏れ多い事に、現在の外語のウルドゥーのリーダーでいらっしゃる 麻田、萩田両先生の学生時代にもつきあわせて頂きました。既に NHKに入っていた 初野雅彦君は 優秀な同僚として同じ職場に勤務していましたが、のちに もう一人の若い同僚になった 道正剛久君には この教室で会いました。私が非常勤をやめた後は、鈴木教授によって育てられた 二人の極めて優秀な学生が、次々 国際放送に新人として入ってきました。ひとりは 現在イスラマバードで特派員として大活躍している 太勇次郎君、そして 二人目は 現在 東京の報道局でディレクターとして頑張っている 橋本敬太君です。

さて、現在 南アジア向け放送のデスクをしている 上記 道正君の世代が生徒だったころ、語劇祭で 二回目の「アナールカリー」が上演されました。一回目は、私が新米ディレクターの頃 上演され、一部 収録するため外語に行ったところ、鈴木さんに 「どう? 台詞の意味分かる?」と言われて「まあ なんとか」と誤魔化した覚えがありますが、この二回目では 「前回にヒケをとらないレベルだ」とおっしゃり、たしかに面白そうなので 取材に行き、あげくは 主な役どころにスタジオに来てもらって ドラマの一部を収録して放送しました。テーマやバックの音楽もちゃんと入れ込みましたので、鈴木さんは 大変喜んで下さいました。今度は 「どう? 台詞わかった?」との仰せはさすがになかったので、なんとか面目を保てました。

管理職になり 授業を辞させて頂いてから、間もなく ウルドゥー語放送そのものに直接かかわる事は終わり、一度 英語ニュース業務から 短い間 ウルドゥーを含む南アジア向け放送に戻った以外は、英語ほか複数の言語放送の現場、特別プロジェクト、郵政省等への対応を主とする編成業務、特殊な補佐業務、広報など、国際放送の中でいろいろな場所を転々としました。最後は 関連企業のひとつに転籍し、多くの言語の通訳・翻訳業務の手配をするセクションの統括をやった後、退職して その会社の専門委員 兼 登録通訳になりました。ながい放送業生活の中で知り合った 「スズキ・チルドレン」は、かつての若い同僚も含めて 少なくありません。その方達は、鈴木さんの指導で 多くの文学作品を翻訳し、あるいは 優秀な教師、研究職、調査研究官に育ち、そして 企業の一員になっていました。そして、何かあれば 鈴木さんのもとへ集まるようでした。

最後の「まさか」

退職して専門委員となり、ホッとして、アメリカ、ヨーロッパ、パキスタンなどに、仕事と遊び半々で旅行したり、サッカーのワールドカップ関連の手配で 後任者を助けたり、放送現場で 翻訳者としてニュースや番組にかかわったりする毎日が続きました。そのうち、青天の霹靂というやつで、他に適任がなさそうなので というマイナーな理由で、また 黒柳先生と鈴木さんにも言われて、警察官にウルドゥーを教えるポストに就きました。「主任は フリーで かつ 教歴が十年以上ないと」という警察大学側からのシバリが 候補者を狭めたのでしょう。生徒は 各県警や警視庁から派遣された若手警察官。一部を除き、なんらかの語学を専攻した経験があるという人たちではありません。まず 誰を同僚講師に頼むべきかで、鈴木さんや渡瀬順香さんにしつこく相談しました。

お二人の助言でご協力をお願いした方々の中で、萩田博先生をはじめ 井上あえか先生、萬宮健策先生が 最初の一年ほどの授業を助けて下さいました。また、カリキュラムについては、長い間 ペルシア語でこの仕事に奉仕された黒柳先生に かつてのウルドゥー語課程について詳しく伺い、教材もお借りして参考にしました。いま 二回目の二年コースの途中です。

この稿が活字になる少し前に、私は イスラマバードから帰ってきているはずです。でもその時は 「先生、カラチでは ライースさんとこんな話をしましたよ、こんな所に行きましたよ」と報告するお方は もういらっしゃいません。この「不在」は 本当にこたえます。非常にこたえます。

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