クルーグマンについて
小川 紀
 
 
 
 アジア経済論
 
 
 左翼(の一部。元マルクス主義者や現マルクス主義者)がインフレターゲット論に飛びつき、へえー何でやろうという興味から、その元祖ボール・クルーグマンの、かつて読んだ『良い経済学・悪い経済学』を再読しました。
 
 
 ポール・クルーグマンというアメリカの若手経済学者が脚光を浴びることになったのは、アジア諸国の経済成長に世界が瞠目していたとき、彼がその成長の中身のあやうさを指摘し、するとちょうどしばらくしてアジアが通貨危機に襲われ、で、「わっ、クルーグマンの言うとおりやった」となったからです。
 これが左翼に受けた理由は分かるような気がします。
 というのは、それは従来からの左翼の心情にマッチしたものだったでしょう。
 すなわち、周知のように左翼は「アジアは発展しない」「貧しいままに置かれる」というドグマを繰り返してきました。
 それは洞察というより心情だったでしょう。つまり、「資本主義、帝国主義のもとで発展するはすがない」。いや、「してもらっては困る」。しないがゆえに「資本主義を打倒する以外にない」「社会主義革命を」となるのだから。
 しかしともあれ、やがてNIES(台湾、韓国、香港、シンガポール)が発展を開始しました。
 すると左翼は言った──言うしかなかった。「例外だ」「他のアジア諸国は発展しない」。
 ところがやがて他のアジア諸国も経済成長を開始した。
 左翼は苦々しい目でこれを眺める、あるいはこれから目をそらすしかなかった。
 だからクルーグマンがアジアの経済成長に冷水を浴びせかけたとき、しかもその直後、「予言」が当たったかのようにアジアが通貨危機に襲われたとき、左翼がクルーグマン見解にひきつけられたのは十分、理由のあることだったと思います。
 
 
 だがどうか。
 クルーグマンの当該論文(「アジアの奇跡という幻想」、94年。『良い経済学・悪い経済学』所収)を議み返してみたのですが、一面的と思いました。
 つまり、アジア経済の成長について、それがまだ十分、地に足がついたものではないという指摘はその通りですが、しかしクルーグマンはその実態を旧ソ連と同じだとしています。これは明確な理論的誤りだと思います。
 僕が提起した概念を用いれば(小川『後発国と国家資本主義──20世紀「社会主義」とは何だったか』、イング・ネットワーク、98年)、「国家資本主義一般」と「国家資本主義の独特の変種」との混同、同一視です。
 後者(旧杜会主義)は本質的に発展の契機を欠く体制でしたが、前者(19世紀のドイツ、日本や第二次大戦後の開発独裁etc)はそれを持ち、急激ゆえいびつだったが、いびつだが急激に発展を成し遂げた。
 第1に、実態としても、量だけ拡大した旧ソ連と違って、アジアには日本など先進国の技術が入り先端設備を建設し、絶えず更新しています。
 第2に、理論的にも、競争のない社会(旧ソ連)では技術革新の動機が存在しないが(消費者はそれを買うしかない、生産者はつくりさえすれば売れるのだから)、アジア(市場経済、競争のある社会)では火を噴くテレビ、故障ばかりする自動車など見向きもされない、絶えず技術革新を強制される。本質的に違います。
 こうして97年のアジア通貨危機にしても、それは根本的に旧杜会主義経済の行き詰まりとは異なっていたと思います。後者は内的な行き詰まりだったが、前者は「通貨」危機といういわば外在的な危機だった。だから現に──左翼は「すわ、崩壊だ」「世界恐慌だ」と言ったが、そうはならず、当時われわれが言ったように──やがてすぐ立ち直り、アジアは依然、成長を続けています。もちろん依然、いびつですが。
 などと考えたのですが、どうでしょう。
(ingの会員通信、04・10・4付より)
 
 
 インフレターゲット論
 
 
 客観的背景
 われわれは常に、ある思想、政治的見解を検討するとき、それが正しいか間違っているかだけでなく、そうした思想、政治的見解というのは誰のどういう利害から生みだされてきたかということを問うてきました。
 インフレターゲツト論というのは、どうなのか。
 それを思ったのは、きのう、唐津一『デフレ繁栄論』(PHP研究所、95年)を再読していて、です。
 推理ドラマで、事件が起こったととき、その事件で得をするのは誰か、としてナゾ解きが進んでいく。
 唐津氏の本を読んでいて、それを思いました。
 というのは氏は、デフレ(前から確認しているように、デフレ、イコール「不況」ではない。「価格の下落」です)で困り、インフレを期待しているのは「金融資本」だ(「製造資本」はそんなことない)としています。
 「土地のデフレ現象が起きると、資産が目減りするという言い方をする。金融機関の持っている資産が目減りしていくのだから、大損をしたことになる。しかし持っている土地の面積が、デフレによって狭くなっていくわけではない。そこをよく考えていただきたい。実際に土地の値段が下がって困っているのはバブル景気に浮かれて土地の売買で儲けようと思っていた不動産業者や、これを当てにして、資産を計上していた企業である」
 「土地資産が目減り才るからといって、われわれの貯金まで減ってしまうわけではない。逆に金の使いでが増えるということだ。国民の大多数には、土地の値下がりは嬉しいことなのである。地価がどんどん下がっていくことによって、同じ金額でもっと広い土地を買えるようになる。土地の値下がり分だけ、日本人はもっと豊かな生活ができるわけである」
 「インフレを喜んでいたのは、もともとお金を動かすことで利益を得ていた人たちだけである。例えば土地の値段にしても株の値段にしても、上がっていくのが当たり前という前提条件で、これまでの金融は動いていた。ところがこの円高不況で株価が大暴落して、また土地の値段が下がっている。常にインフレを期待して、お金を動かす商売をやっていた人たちが大騒ぎするのは当然のことだろう」
 「しかし、物をつくっているメーカーの場合はひとつも心配することはない。デフレになればなるほど、製品の原価が安くなり、さらにコストを下げることができる。そうすれば、海外との競争もラクになってくる」
 云々。
 唐津氏の、「金融資本はこう」「製造資本はこう」という分け方は的を射ているかどうか。
 が、そうでないという場合でも、われわれとして、ではどういう分け方ができるか──インフレターゲット政策は誰の利益になるか、客観的に見てインフレターゲツト論を生み出しているのは誰のどういう利益なのか、これは検討に値すると思うのですが。
 どうでしょう。
(7・3)
 
 
 2つの路線の対立
 きのうの会議では、小川から、インフレターゲット論の現実的意味について、この間分かってきた気がする、見えてきた気がする、としてこんな提起がありました。
 すなわち、バブル崩壊後の日本経済の停滞の元凶が膨大な不良債権にあったことは日本の政治家、エコノミスト共通の認識になっている。
 そして、ではこの不良債権処理をどうするかで2つの路線がある。
 一方は構造改革派。製造業と違って、銀行を筆頭に日本のサービス業は規制でまもられ保護されてきた。このぬるま湯体質の中で、経営者も、製造業と違って怠惰でモラルも低く、かくして銀行等は生産性が低く競争カを持っていなかった。これを構造的に変える必要がある、として、競争原理を導入し、淘汰し、不良債権を抱えこんだ経営者の責任を追及し、辞めさせ、潰れるところは潰し、体力のあるところだけを残し再生していこうという路線。
 これに対し、この痛みを恐れ、値下がりした資産を政策で再び値上がりさせることによって不良債権を「不良」でなくしていく、そういうかたちで不良債権問題を乗り切っていきたいとする勢力が存在する。これがインフレターゲツト論ではないか。
 そう考えると、「反・痛み派」の左翼がこれに惹かれたというのも納得が行きます。
 そういえば、かつて日本で規制緩和の動きが本格化しはじめたとき、これに反対し、抵抗したのも、それまで規制で護られてきた業界と、左翼、でした。あれを想起します。
(10・30)