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私の好きなインドネシアインドネシア歴史教科書「日本占領時代」

第五章 日本占領時代

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A.政治指導B.社会・経済の動員C.独立宣言への歩み更新記録

2008年7月6日追加↓

B. 社会・経済の動員

1. 労働力の動員

日本占領時代は、比較的短期間であったとはいえ、様々な方法を通して効果的・効率的にインドネシア民族の労働力を搾り取った。当時最も必要とされていた労働力は、飛行場、道路、武器庫、防御陣地、地下兵器倉庫を構築するための労働者だった。村落部では労働者を動員する委員会がただちに設立された。その労働者たちは労働者の英雄として宣伝された。この委員会はロームキョウカイ*1と呼ばれた。この組織は各地域毎に設立され、所轄の当局機関も関与していた。それら労働者たちはロームシャ*2と呼ばれた。労働者たちの大部分は村落部から採られて行った。当初、ロームシャの動員は自発的なものだったが、日本がその戦線を拡大するにつれて、ロームシャの動員は強制的に実施された。動員実施に当たって、各村落は一定人数の労働者を差し出すよう責任を負わされていた。彼らが送り込まれた地域は極めて広範囲に及んでおり、つまりそれは日本が支配している全ての地域へ向けられていた。それはジャワ内やジャワ外の両方であり、マレーシア、サラワク、ビルマ、タイ、ベトナムへも向けられていた。ロームシャの数は、30万人に達していたと見積もられている。彼らの生活状況は悲惨であり、一部はその作業場所で死亡した。彼らの死因は、栄養不良や、病気のため、そして機密保持のため殺害された可能性が高かった。

全ロームシャのうち、出身村落へ帰還できたのはたった7万5千人であったと見積もられている。彼らの経験は、もともと閉鎖的だった村落を開かせることになった。

ジョグジャカルタに特殊の出来事として、スルタン ハメンクブォノ9世が、マタラムの水路を建設するため、労働力をロームシャとして動員しないよう日本を説得することに成功した。その水路はプラガ川からスレマン県の農業地域へ水を引くためのものだった。

1944年1月、緊急事態下にある日本にとって、現地住民たちは警戒すべきものとなっていた。彼等は日本からの監視を逃れることは出来なかった。その監視機関は、10~20世帯から構成されるDasawisma*3と同種のもので、トナリグミ*4活動と名付けられた。彼等は、空襲警報や火災防止の訓練、そして敵のスパイやデマ・虚言の排除を任務としていた。その活動には、村落部の多くの青年たちが動員された。このことにより、当初ロームシャのせいで打ち砕かれてしまった青年たちの抱くイメージは、再び日本への援助を熱望するようになった。なぜならば、その任務はロームシャに比べより高いものだったからである。

[訳注]

*1: ロームキョウカイ。原文「romukyokai」。労務協会だと思います。

*2: ロームシャ。原文「romusha」。労務者です。romusa、romusyaとも綴られる。既にインドネシア語の単語となってます。労務者については、高等学校3年生向け教科書「日本軍占領時代」の注もご覧ください。

*3: Dasawisma。残念ながら詳細不明。次の報告書によると、10世帯程度から構成される婦人会のようなものらしい。
ジャワ農村における住民組織のインポリューション
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/56764/1/KJ00000132217.pdf外部サイトへのリンク

*4: トナリグミ。原文「tonarigumi」。隣組です。

2008年7月13日追加↓

2.食糧の搾取

日本のインドネシア支配が確立すると、日本は食糧需要の充足が困難である可能性に気がついた。そのために、次のような様々な事業が実施された。

a. 水田の拡張

東スマトラでは、タバコ及びお茶の農園であった場所が水田となり、それは約10,000ヘクタールが拡張された。カロ地域では特別に作地を新たに開墾するため、合衆国(連合国)捕虜を労働力として利用した。カリマンタンでは、稲の栽培が義務とされ、スラヴェシでも同様だった。水田面積の拡張は、森林保全にとって脅威となった。なぜなら、水田拡張の一部は、当然のことながら森林に負荷をかけて行われたからだ。残っている記録によれば、水田の拡張は500,000ハクタールに及ぶ森林面積に被害を引き起こす原因となった。

b. 農業啓蒙活動

日本[占領]政府は、村落部の農民を対象として、指導・啓蒙活動を大規模且つ集中的に実施した。啓蒙活動に先立ち、通常はシドーカン*1と呼ばれる指導者候補のために特別訓練が行われた。残念なことに、次の3つの理由から、このシステムは成功しなかった。

表:食糧生産の低下 1941-1944
(単位:百キログラム)
Tahun Padi Palawija
1941 89.934.807 121.525.781
1942 83.081.989 118.054.367
1943 81.125.225 107.109.669
1944 68.115.550 90.055.664

情報源:Majalah Makmoer, hlm. 1、1954年12月25日

c. 残余物資の運用と流通に対する管理

物価の値上がりに対処する上で価格管理法令が施行され、その違反者には重い罰則が設けられた。このような状況であっても、依然として違反者は絶えなかった。なぜなら、食糧、特に米の市場価格は政府の決めた価格よりもはるかに高かったからである。農民の生産量のうち40%だけが自分の所有として許され、30%は市場価格よりもずっと低い価格で政府へ引き渡されることが明らかとなった。そして残りの30%は村落の穀倉へ種として納めなければならなかった。この強制システムのため、農民の稲作への熱意は失われた。極めて重要な社会基盤、例えばオランダが残した電力、鉱業、コミュニケーション、運輸といった事業は日本が支配した。

d. お茶、コーヒー、砂糖黍、ゴム、タバコ、キニーネを栽培する農園に対する管理と、日本占領政府によるそれらの独占販売

様々な種類の農業作物の中から、特に2種類、つまりゴムとキニーネだけが特別に注意を払われ、栽培が再開された。確かに、この2種類の作物は戦争必要物資と直接関連していたのである。さらに、タバコ、お茶、コーヒーは嗜好品植物と判断され、その栽培は停止となり、さらに日本[占領]政府によって破棄されるものもあった。

e. 生産設備の制限法令

戦時経済の特徴の一つは、各地域での政府による生産設備の管理であった。各支配地域、つまりカレシデナン*2は、自給自足を満たすよう要求され、さらに戦時需要を支えるよう要求された。具体的には、ジャワ島は17の地域、スマトラは3地域に分割され、海軍が支配していた3地域はミンセイフ*3地域と名付けられた。新たな作付地の開墾でさえも多くの障害があり、米作の義務付けを被った民衆は、それに対し消極的であった。

<写真5.7 日本のための稲の供出作業>*4

[訳注]

※[ ]内は、訳者が追加。他方、( )内は原文に元からある注。

*1: シドーカン。原文「shidokan」。おそらく「指導官」のことでしょう。

*2: カレシデナン。原文「karesidenan」。オランダ植民地時代の行政区分・単位。

*3: ミンセイフ。原文「Minseifu」。「民政府」のこと。海軍占領地域の軍政機関は「民政府」と称していた。

*4: 同じ写真が高等学校3年向け教科書に掲載されています。→日本占領政府への収穫物供出

*5: 「f. 物資の動員運動と食糧増産」については、具体的な説明文なし。

2008年7月17日追加↓

3.日本に対する抵抗

多くの事件は、インドネシア民族の植民地主義に反対する断固たる態度を示すものだった。脅威に立ち向かうインドネシア民族の勇敢さを示す重要な出来事として次の5つがあげられる。

a. Cot Plieng[チョッ・プリエン]事件

この事件は、アチェのチョッ・プリエンという名前の地域で起きた。これはTengku Abdul Jalilを指導者として、1942年11月10日に発生した。日本は最初自分たちの意向をアチェに根付くルールへ配慮することなく押し付けた。さらに、日本は約束を故意に反故にしたと見なされたため、その地域の住民たちは勇敢にも武器を取って抵抗したのだ。日本側はそれに対し和解を申し出た。

Tengku Abdulとその仲間は、[日本側の和解]をペテンであると理解していた。そして、その和解方法は受け入れられなかった。それゆえ、1942年11月10日の[和解]協議失敗を受け、ちょうど民衆がCot Pliengモスクで夜明けの祈りをささげているとき、ロク・スマウェ軍司令部の日本軍が奇襲攻撃を加えたのだ。これは、日本軍の狡猾な手法であった。民衆は手元にある刀、短剣、剣、槍といった伝統的な武器を使って日本軍に反撃することが出来た。しかし、日本軍の攻撃は3回にわたり、その残虐かつ卑劣な3回目の攻撃で、日本軍は反乱を壊滅・鎮圧した。Tengku Abdul Jalilは敵の手から逃れることが出来たが、アラーへの祈りをささげているとき、日本軍に見つかり、射殺されてしまった。Cot Pliengの戦いでは、多くの日本兵が死んだ。そのような理由から、抵抗を押さえつけるため卑劣な方法がとられた。つまり、この事件が発生した場所の近隣男性全てを殺害するという方法だった。

b. Singaparna[シンガパルナ]、Sukamanah[スクマナ]の民衆反乱

K.H. Zainal Mustafaを指導者とする民衆の反乱が、SingaparnaのSukamanah村で勃発した。この勇敢で断固たる見識を持つイスラム寄宿塾の指導者*1は、インドネシア民族を搾取する日本政府の暴政に失望していた。さらに、日本はインドネシア民族に対して非論理的な行為を強要し始めた、つまりそれはテンノー*2(皇帝)へ敬意を表わす日本社会では一般的に行われていた行為である。その行為は北東の方角、つまり日本国の位置へ向けて体を折り曲げること(サイケイレイ*3)だった。その行為は毎日行わなければならなかった。このやり方は、不信心(多神教)であり、イスラム教の教えを破るものと見なされた。H. Zainal Mustafaが試みた方法は、あらゆる可能性を顧慮して、寄宿塾修行者や近隣住民に対し護身術を教えることだった。しかし、このSukamanahのイスラム寄宿塾指導者の行いは、日本政府の知るところとなった。やがて、日本側はH. Zainal Mustafaを拘束する目的で使節を寄宿塾へ派遣した。しかし、送り込まれたのは日本の軍人であり、Sukamanah住民多数の攻撃を受け、重傷を負ってからくもタシクマラヤへ逃げ去った。その結果、1944年2月25日、日本政府は完全装備の軍隊を派遣した。そして、イスラム寄宿塾修行者やSukamanah住民たちによる抵抗が発生した。この抵抗では、少なからぬ民衆と寄宿塾修行者が倒れていった。他方、H. Zainal Mustafaは逮捕され、タシクマラヤへ連行された。その後、ジャカルタへ移され最終的に死刑判決を受け、遺体はアンチョールに埋葬された。

c. インドラマユ地域の民衆反乱

同じ年の4月、インドラマユ地域で民衆による反乱が発生した。この抵抗は、日本が行った圧政のため、インドラマユ住民の間に発生した不満が原因だった。日を追うにしたがって民衆の押さえつけられた感情は耐え難くなり、反乱となった;しかし、それは日本によって容易に鎮圧されてしまった。

d. アチェの反乱

1944年11月、アチェで反乱が発生した。それはギユウグン*4(PETA*5)部隊の軍人が起こし、Teuku Hamidという名前の将校が指揮していた。彼は1小隊の部下たちと共に日本に対する反乱を起こしたのだ。その反乱を鎮圧するため、日本は卑劣な脅しを使った。つまり、反乱に参加した者たちの全家族を殺すと。その結果、Teuku Hamidは家族を愛するがゆえに抵抗を続けることが出来なくなった。彼は降伏したが、反乱は終らなかった。なぜなら、同地域の別の村、つまりBerenaih県のPandreh村でも続けられたからである。それらの反乱は村長によって指導され、ギユウグンの軍人が援助していた。反乱が起きた地域の村では、残虐な方法で、日本は住民を捕虜とし殺害した。

e. ブリタルPETAの反乱

それまで発生していた上の4つの事件は、日本にその態度、特にその残虐さを改めさせることはなかった。1945年2月14日に発生した新たな反乱は日本を大いに驚愕させた。なぜなら、それは日本による訓練を受けた部隊、つまりブリタルのPETA兵士たちよって起こされたからである。その反乱はSupriyadi、Muradi、Suparyono、Sunanto、Sudarmo、Halirらによって指揮され、チュウダンチョー*6ドクターIsmangilが顧問もしくは指導者として祭り上げられていた。彼等は、インドネシア民族に対する日本の圧制を見るに堪えず、反乱を起こしたのだった。しかし、その反乱は容易に鎮圧されてしまった。なぜなら、PETAの他の部隊がそれに続かなかったからである。反乱指導者のうち、Ismangil、Muradi、Suparyono、Halir、Sunanto、Sudarmoらには死刑判決が下された。他の指導者たちは、ジャカルタのチピナン刑務所へ入れられた;しかし、ショウダンチョー*7Supriyadi*8の行方は不明であった。

<写真5.8 日本の軍法会議で裁かれるブリタルPETAの軍人たち>

[訳注]

※[ ]内は、訳者が追加。他方、( )内は原文に元からある注。

*1: イスラム寄宿塾の指導者。原文「pimpinan pondok」。pondokはおそらくpondok pesantren(イスラム寄宿塾)のことと思います。

*2: テンノー。原文「Tenno」。天皇です。

*3: サイケイレイ。原文「Saikeirei」。最敬礼。つまり宮城遥拝のことです。これはイスラム教徒にとって教義に反する行為でした。参考:ハッタの批判を参照のこと。(高等学校3年生向け歴史教科書内)

*4: ギユウグン。原文「Giyugun」。義勇軍のこと。

*5: PETA。Pembela Tanah Air(祖国防衛義勇軍)の略。

*6: チュウダンチョー。原文「Cudanco」。中団長のこと。

*7: ショウダンチョー。原文「Shodanco」。小団長のこと。

*8: Supriyadi。スプリアディ小団長は生死不明のまま、インドネシア共和国初代の国防大臣となった。

練習問題

以下の質問に答えなさい!

グループ(3~5人)で、日本占領時代の国民生活に関する学習資料~食料・衣類需要、強制労働、村落部でインドネシア独立を迎えるため日本によって創造された様々な機会*1~から解説を集めなさい。そして集めた解説をクラスで発表し、議論しなさい。

[訳注]

*1: 村落部でインドネシア独立を迎えるため日本によって創造された様々な機会。この文章、意味がもう一つよく分かりません。原文は「peluang-peluang untuk menyongsong Indonesia merdeka yang diciptakan Jepang di desa-desa atau kampung-kampung」。具体的には、どんな機会(チャンス)について指摘しているのか? この章の記述内容からすると、「全ロームシャのうち、出身村落へ帰還できたのはたった7万5千人であったと見積もられている。彼らの経験は、もともと閉鎖的だった村落を開かせることになった。」と「トナリグミ」を組織したことのようですが。。。。

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