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私の好きなインドネシアインドネシア歴史教科書「日本軍占領時代」日本語訳(要旨・目次)

第一章 日本占領時代におけるインドネシアの社会生活

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要旨A.序B.経済活動と...C.社会動員及び...練習問題校正記録←2014年07月25日更新

C. 社会動員及び政治参加への機会に対する、日本占領政府方針の関係

大戦争という環境の中、日本は特にジャワとスマトラで大規模な大衆動員を実施した。この日本の方針は、インドネシアを支配する際にオランダが行った方針とは異なるものだった。

1. 社会の流動化

比較的短い期間しか続かなかったとはいえ、3年半の日本占領期間は蘭領東インドが残した行政機関の節々を揺るがせ、インドネシア社会の構造自体を揺さぶった。大きな変化が都市部や農村部でも発生した。階層を上昇していく集団(垂直に上る流動性、または出世)があれば、階層を下落していく集団(垂直に下る流動性、または没落)もあった。また新しく登場してくる集団も存在した。それは例えば社会生活において重要な役割を担った若い階層だった。

これらの変化は日本占領政府の方針としっかり関連していた。その方針は日本の権益に一致し、広い範囲を包含していた。例えば、日本を支持するような影響を民衆に与えるプロパガンダの必要性、人的資源が欠乏していた日本にとって行政上の労働力需要[*1]を満たすこと、そして日本の戦争遂行を支持させることであった。

上述の変化は、日本占領政府の利害に基づき発生した。その利害は、行政機関を動かすためや戦争継続のための人員補充事業に関連する事柄も含んでいた。これらマン・パワーの需要は、世俗的民族主義者、イスラム民族主義者、そして青年層集団との共同作業を通じて満たされた。それゆえ、この3つの集団は、社会階層を上昇することになったのである。

上記の社会変動はインドネシア全地域で平均して発生したわけではなく、もっとも多くの変化に遭遇したのはジャワであった。スマトラでも同様に変動が発生したが、ジャワほどではなかった。ほかの地域では、ジャワやスマトラほどの変動を経験することはなかった。この差は、当時各地域を占領していた軍が異なるため発生したのだった。ジャワは(陸軍[*2])第18軍が支配し、スマトラは(陸軍[*2])第25軍が支配していたが、インドネシアの他の地域は(海軍[*2])第二南遣艦隊の支配下にあった。ジャワはもっとも進歩している地域と判断された結果、日本を危うくしない範囲内で、ジャワの軍政府はより多くの機会をインドネシア人に対して与えた。

ダイナミクス

オランダの植民地時代、社会構造で上から下へ階層については次のように認識されていた;最上位に君臨するのはオランダ人及び他の白人階層、それに続くのは中国人などの東洋系外国人たち、この第二の階層とならんで同じアラブ・インド系階層、そして最下層が原住民だった。日本占領時代では、社会階層が変わってしまった。日本人が最上位であり、東洋人・西欧人がその下となった。

[訳注]

*1:"kebutuhan tenaga pemerintahan"(行政上の労働力需要)。抽象的な訳しかできませんが、この教科書の続く部分に記述されているPuteraや奉公会などの様々な組織へインドネシア人を動員し、占領行政を助ける人的資源を確保しようとしたことと思います。

*2:( )は訳注。ジャワとスマトラの占領は陸軍が担当し、その他の地域は海軍が管轄していた。

大衆と青年層の動員


図1.4
竹やりを使った青年団の訓練

日本占領政府は、特に青年層に対し注目していた。彼ら青年層は、出身地域や家柄そして教育水準においてバラバラだった。しかし、彼らは活動的・熱心で精神力に満ち、まだ理想主義的ではあっても西欧の影響を多くは受けていない社会集団であると、日本側は見ていた。彼らは日本のプロパガンダ理論を容易に受け入れた。例をあげると、3A運動「日本のおかげで西欧民族の植民地支配が終わる。なぜなら、日本はアジア(Asia)の光、アジア(Asia)の指導者、アジア(Asia)の保護者だから」というプロパガンダがある。この他のプロパガンダとしては;日本とインドネシアは同志、日本が兄、イギリス撲滅、アメリカ撲滅[*1]、等等。これらのプロパガンダに青年層全体が魅了された。原住民階級が日本と協調するということは、新しい変革と思われた。なぜなら、原住民階級を最下層に置く差別的なオランダ植民地時代では起きなかったことだからだ。反オランダの感情はますます強くなった。青年層全体を戦争・国防の義務へと動員する必要があった。彼らの多くが青年団、警防団、兵補、祖国防衛義勇軍、婦人会[*2]等へ補充されていった。

新しい価値観が青年層へ植え付けられた。その中でもっとも重要なものはseisyin(精神)であった[*3]。精神とは、第一に武士道精神であった。つまり、主君と指導者、そして親への忠節であった。規律意識もまた植え付けられた。そして劣等感や隷属感は一掃された。やがてその後、これらの価値観は、日本にとってもブーメランのように跳ね返ることになり、独立達成の戦いの中で重要な資質となったのだ。

[訳注]

*1:原文「Inggris kita linggis, Amerika kita setrika」(イギリス撲滅、アメリカ撲滅)。語呂合わせのような感じ。意味は良くわかりません。しかし、次のビデオに登場するスカルノの演説でこの一説を唱える箇所があり、日本語字幕が「イギリス撲滅、アメリカ撲滅」となってました。
http://www.youtube.com/watch?v=0W4OflJ1pto外部サイトへのリンク
(戦争中に製作された日本のニュース映像)

*2:青年団(Seinendan)、警防団(Keibodan)、兵補(Heiho)、婦人会(Fujinkai)。いずれも日本語をそのままローマ字表記にしたものです。次の段落で"seisyin"が登場するのには参ります。。。。

*3:YouTubeに投稿されているビデオで、「日本精神」について語るインドネシア退役軍人の動画がありましたので、リンクをはっておきます。
http://www.youtube.com/watch?v=HPWS4h3WmI4外部サイトへのリンク
ソースが不明ですが、おそらくNHKのドキュメンタリー番組ではないかと思います。

上のYouTubeのビデオで「ニホンセイシン・イチバン」と語っている退役軍人はKemal Idris元中将。評伝が出版されているようなので、そのうち機会があれば目を通しておきたい。
書名:Kemal Idris - Bertarung dalam Revolusi
著者:Ramadhan K.H., Ray Rizal, Din Madjid
出版:Pustaka Sinar Harapan (1996)
Web上で情報を漁ったかぎりでは、1965年の9/30事件から翌年3月のSupersemar(スカルノからスハルトへの権限委譲を記した指令書)までの期間、スハルト側で重要な役割を担った軍人のようです。

青年層を日本支持者とするために採られた方策は教育であった。それには一般的なものと特殊なものがあった。一般的な教育とは、つまり日本がやってくる前から存在していた教育機関によるものであり、特殊な教育とは日本が運営する集中講座式の教育であった。この教育講座としては、次のようなものがあった。

日本が実施した青年層の動員は、日本の戦場での状況に大きく影響されていた。戦況が日本にとって困難な状態となると、青年層の動員は次第に強化されていった。いくつかの青年組織が設立され、そこでは全ての構成員に対して様々な訓練と教化が行われた。軍事・国防の必要性から日本はこのような組織を必要としていた。上述の組織としては、次のようなものがあった。

ダイナミクス

ミナン[*9]の地でも敬虔な乙女たちが日本の軍人に狙われた。しかしその時、スカルノはブキッティンギ[*10]の軍指揮官フジヤマ大佐に警告を発した。彼の部下がミナンの地の少女たちを狙うのを放置してはならない。もしこの警告が守られないなら、西スマトラの人々は反乱を起こすだろう、と。とはいえ、日本の軍人たちが性的なサービスを必要としていることを、スカルノは理解していた。この地の少女たちの名誉を守るため、スカルノはジャワの娼婦たちにこの地で日本軍人のために働くよう懇願したのだ。ジャワの娼婦たちのために特別な施設が作られた。日本の軍人たちは一週間に一度だけ専用のカードを使ってそこへ入ることが出来た。一度そこへ入るとカードには穴があけられた。一つ穴が穿たれると、それは一回その地区へ入ったことを意味し、以後同様に処置されたのだった。

[訳注]

*1:原文「Seinen Kunrensyo」。日本語をそのままローマ字書きしたもの。

*2:4月29日は昭和天皇誕生日。当時は"天長節"。

*3:原文「berkelakuan baik」。善良な、性格の良いといった意味。うまい訳できず。

*4:原文「Konan Hokokudan」。Konanはどういった日本語なのか分からず。

*5:原文「Jugun Ianfu」。日本語をそのままローマ字書きしたもの。

*6:原文「Gakutotai」。日本語をそのままローマ字書きしたもの。

*7:原文「kinrohosyi」。日本語をそのままローマ字書きしたもの。

*8:ウラマー、キアイともにイスラム学者。

*9:Minang。西スマトラにある地名。女系家族で有名なミナン・カバウ族の住む地域。

*10:Bukittinggi。これも西スマトラにある地名。女系家族で有名なミナン・カバウ族の住む地域。

※所感:このダイナミス欄、内容の信憑性はともかくとして、教科書に書くことなのでしょうか。感覚的についていけません。。。

上記「ダイナミクス」の内容は、スカルノの自叙伝に基づく記述のようです。
SUKARNO An Autobiography As to told CINDY ADAMS(THE BOBBS-MERRILL COMPANY, INC. 1965)のp.163-164にほぼ同じ内容のストーリーが記載されています。

原文:
Another crisis was the sex life of the soldier. Seems they hadn't had any for some while. That would be strictly their problem, except for the fact they were in my coutry. The women they were eager to ravage were my Indonesian women. Now the Minangkabau tribes are very religious. Their women are reared scrupulously. I cautioned Fujiyama, "If your boys attempt anything with my girls, the people will revolt. You'll have a full-scale uprising in Sumatra"

和訳:
また別の危機は兵士の性生活だった。彼らはしばらくの間全くない状態のように見えた。彼らが私の国にいるという事実を別にすれば、それは厳密には彼らの問題であったろう。しかし、彼らが踏み躙ろうと欲している女性は、我がインドネシアの女性たちだった。そして、ミナンカバウ族は非常に宗教的である。彼らの女性は細かい点まで注意され育てられている。私はフジヤマに警告した。“もしあなたの兵士が我が乙女たちに何かをしようとしたら、反乱が起きるだろう。スマトラで全面的な暴動を起こすことになる”

このあと、「120人の娼婦を用意した」「各兵士は一週間に一回」云々という話が続きます。

*11:翻訳の訂正 2014年05月17日更新
これまで「さらに悲劇的なことにインドネシア女性を従軍慰安婦(日本軍人への性的奉仕者)とする組織も設立された。」と和訳していましたが、今回「そしてさらに悲劇的なことはインドネシアの女性たちが従軍慰安婦(日本軍人への性奉仕者)とされたことだった。」へ訂正しています。対応するインドネシア語原文は「dan yang lebih tragis adalah dijadikannya perempuan-perempuan Indonesia sebagai Jugun Ianfu (pelayan seks prajurit Jepang).」です。
なお、この誤訳については、次のTwitterでご指摘いただきました。
https://twitter.com/honnesia/status/465847596896882688外部サイトへのリンク

他方、日本は軍事訓練を施す方法でインドネシア人を国防へ参加させようと試みた。これは占領初期から実際には考慮されていた。このために1943年4月全青年層を対象として兵補(軍人補助隊)となる機会が与えられた。彼らは日本の陸海軍組織の下に直接配置された。構成員となるためには、健康かつ性質良好で年齢は18-25歳のあいだ、そして小学校卒業以上の資格が必要だった。軍人の補助ではあったが、彼らには標準的な軍事訓練が施された。兵補の構成員の大半が対空砲[*1]操作の訓練を受けた。兵補設置の他、日本はタンゲランの青年道場[*2]と呼ばれる訓練所でも青年たちの訓練を行った。タンゲランの柳川青年道場卒業生は情報部隊へ配属された。

1943年9月7日、中央参議院メンバーの一人 R. Gatot Mangkuprojo[*3]は軍政監宛の書状で祖国防衛軍設立の必要を提案した。この提案を受けて、1943年10月13日、PETAと呼ばれる祖国防衛義勇軍発足についての治政令No.44が公布された。(スマトラでは義勇軍と呼ばれた) この10月と同じくして、祖国防衛義勇軍のインドネシア人士官候補生の訓練がボゴールで開始された。スマトラでは、1943年11月22日に義勇軍が発足した。その士官候補生はプラパットで訓練を受けた。

PETAは、インドネシア人将校の存在から明らかなようにインドネシア的な特色を持っていた。このPETAから軍事知識を身につけた集団が出現し、インドネシアの新しい社会集団となったのだ。インドネシア社会において、PETAのメンバーとなることは高い地位を得たと見なされた。

訓練が終了すると、彼らは大団長(大隊の指揮官)、中団長(中隊の指揮官)そして小団長(小隊指揮官)となっていった。[*4] チマヒとマゲランに分団長(隊長)のための訓練所が建てられた。大団長は一般的に政治家、イスラム学者、郡長、検事といった社会の著名人から構成されていた。中団長は教師やより地位の低い職員から採用された。小団長には学生が充てられた。

PETAに対する青年層の注目~特に学生や青年団メンバーからの~は極めて大きいものだった。他の従業員・職員に比べて収入が多いというのもPETAの魅力であり、日本軍将校の大きな象徴であった日本刀[*5]を含む完全な制服というのもその魅力だった[*6]。この制服に青年層は強く引かれていた。その結果、多くの青年層がPETAのメンバーとなることを望んだ。

[訳注]

*1:原文「meriam-meriam penangkis serangan udara」直訳すると「空からの攻撃を防ぐ大砲」?でしょうか。

*2:Seinen-Dojo。日本語をそのままローマ字表記したもの。

*3:Gatot Mangkuprajaと綴られる方が多いようです。1898-1968。スカルノやハッタと同様、オランダ植民地時代からの独立運動家。

*4:原文はdaidancho、cudancho、shodancho。いずれも日本語をそのままローマ字表記したもの。次の文章に登場するbundancho(分団長)も同じ。

*5:原文「pedang samurai」。直訳すると「サムライのカタナ」。ここでは日本刀としました。

*6:PETA(祖国防衛義勇軍)の制服は日本軍の制服に極めて似ていたらしい。そのため、「独立宣言を読み上げるスカルノ」や「独立宣言日の国旗掲揚」を撮影した写真に写っている兵士を「日本兵である」とする風説を見かけることがありますが、スカルノの自伝によれば、いずれもPETAの兵士であったAbdul Latief Hendraningratであると解説されています。


独立宣言文を読み上げるスカルノ。写真左端の兵士はAbdul Latief Hendraningrat。
拡大写真(写真キャプションの和訳は筆者が追加)


独立宣言日の国旗掲揚。左側から、スカルノ、ハッタ、Abdul Latief Hendraningrat。
拡大写真(写真キャプションの和訳は筆者が追加)

※上記写真2点の出展は"SUKARNO An Autobiography As to told CINDY ADAMS"(THE BOBBS-MERRILL COMPANY, INC. 1965)

また、インドネシア語版WikipediaにあるAbdul Latief Hendraningratの項目外部サイトへのリンクには、「独立宣言日に国旗を掲揚した」という解説あり。

別ページ「独立宣言日の国旗掲揚は日本兵が行った?」も是非ご覧ください。

労務者の監督任務がPETAの兵士に与えられる場合もあった。ブリタルのPETAが南ブリタルの労務者を監督した際、労務者たちが受けている酷い処遇や苦しみを、彼らは見るに耐えられなかった。1945年2月14日、Supriyadiの指揮でブリタルのPETA大団は日本への反乱を起こしたが、他の大団との連携がなかったため失敗に終わった。首謀者たち(Ismangil, Muradi, Spuparyono, Halir, Sunanto, Sudarmo など)は全て死刑などの重い刑罰を受けた。ブリタルPETAの反乱は日本にとってもっとも危険な反乱であった。なぜならそれは軍人たちが起こしたからだった。

人物

Supriyadi小団長;ブリタルPETA大隊が起こした反乱の首謀者。しかし他のPETA大隊と連携していなかったため、反乱は短期間で鎮圧された。反乱首謀者たちは、軍事法廷へ送られ重い刑罰を受けた。しかし不思議なことにSupriyadiはその姿をくらませてしまった。

ブリタル以外でも、Gumilir、CilacapでPETA兵士による日本への反乱が発生した。その指導者はKhusaeri[*1]だった。

1944年9月、ジャワ奉公会の下部組織として前衛隊(推進隊[*2])が結成された。前衛隊とは、スカルノが代表を務めるインドネシア民族主義階層の指導・監督による初めての青年組織だった。この前衛隊を通じて、民族主義インテリ層は民族統一の精神と兄弟愛を植え付けていったのだ。

1944年に入ると、各地の戦線で日本軍の状況は危機的となった。その結果、民衆に対する動員努力はますます強化された。その結果、Puteraの後身団体としてジャワ奉公会(ジャワ民衆の献身団体)が結成された。そして前衛隊はインドネシア民族主義階層によって指導・監督される初めての青年組織だった。その代表はスカルノが務め、副代表にはR.P.Suroso, Oto Iskandardinata, Buntaran Martoatmojoが名を連ねた。この組織はジャワ奉公会の下に存在し、主に次のような活動を実施した。

前衛隊を通じて、インテリ青年層はさまざまな社会活動へ飛び込んでいった。また逆に、非学識青年層もインテリ層と共に民族主義精神や同胞感情を鼓舞することで、後者と馴染んでいった。日本によって動員され、状況の変化を経験した他の社会層は教師であった。オランダ時代、プリヤイ[*3]の子供の教育は、全ての教師に許されていたわけではなかったが、日本時代ではプリヤイ・非プリヤイの差別はなくなっていた。最初は小学校でのみ教えていた教師たちが、中学・高校でも教えることを許可された。[*4] これによって、教師たちには社会で尊敬される地位を得るための気迫が発生した。PETAの軍人登録が開始されると、多くの教師たちが登録に参加してきた。例えば、その後インドネシア国軍の司令官となるSudirmanは歴史の教師だった。

大東亜戦争に勝利しようとする試みの中で、日本は大規模な大衆動員を実施した。同じようなことはオランダ時代には起きたことはなかった。

[訳注]

*1:Khusaeri。Webで情報を漁ってみましたが、どんな人物だったか見つからず。

*2:原文「Suisyintai」。日本語をそのままローマ字書きしたもの。

*3:priayi(プリヤイ)。ぴったりとした日本語訳が思い浮かばず。ジャワ社会での貴族層を指す言葉。

*4:この段落は意味がもう一つよくわからない。小学校の先生がいきなり中学・高校の授業を受け持つなどということは、今の日本だと想像できないが。。。オランダ植民地時代の原住民教育システムを調べる必要あり。当時、プリヤイやブパティなどの社会的地位の高い階層しか原住民は子供に高等教育を与える機会がなかったはずではあるが。

次のページの情報によれば、20世紀前半オランダ統治下のインドネシアでは、一般民衆を対象とした3年制の「村落学校」があったらしい。教育内容は「地方語の読み書きと簡単な計算」。しかし、この村落学校はプリヤイなどの子息が通う学校とは内容に差がありすぎ、村落学校から後者の学校へ進むなどということは全く不可能だったとのこと。
インドネシアの教育について
http://kobe.cool.ne.jp/lumba_lumba/report_education.htm外部サイトへのリンク
このあたりのことは、さらに調査の必要あり。上のページには参考文献があげられているので、そのうち閲覧してみましょう。

2. 政治参加の機会

当初、日本占領政府は政治活動を凍結していた。しかし、戦争に勝利するためインドネシア民衆からの支持が必要となると、すぐに方針を変更した。次の2つの目的のため、日本は世俗的民族主義層からの助力を必要としていた。

民族主義者たちは蘭領東インド政府による抑留状態から解放された。インドネシアの民族主義者層は次の目的のため日本と協力する用意があった。

a. 闘争戦略

ジャワの民衆を動員するためには、まず様々な階層の民族主義運動家たちと協力し、その援助が必要であると日本は理解していた。世俗的民族主義者のグループは、日本の戦争継続を支持するため民衆に影響を与え、それを動員するために必要とされた。イスラム指導者のグループは、村落部の住民~その多くがイスラム教信者~と日常的に直接関係・接触を持つ指導者層であるがゆえに、日本にとって必要とされた。イスラム指導者たちは反西欧プロパガンダを行うよう要求された。

インドネシア民族主義者層を常に疑っていた蘭領東インド政府とは異なり、日本占領政府は彼らと協力しようとしていた。活動家たちとの協力を結ぼうという試みは、オランダに拘束されていた人々~スカルノ、ハッタ、シャフリル 他~の釈放となった。この方針は、インドネシア民族主義者層が社会に影響力のある集団を形成しているという考えによるものだった。ハッタとシャフリルは共に反ファシズムの立場だったが、日本に対する態度は異なっていた。ハッタは日本との協力を望んだが、シュフリルはそれを拒絶した。彼らは互いに状況に合わせた戦略を行使した。[*1]


図1.5
(向かって左側から)ハッタ、スカルノ、シャフリル。この3人の国家的人物には思想上の相違がしばしば存在したが、その目的は同じだった。つまりインドネシアの独立である。

日本との協力については、民族主義活動家たちの間に二つの姿勢が存在していた。拒絶と受け入れである。日本への協力を拒絶したのは、Cipto Mangunkusumo, シャフリル, Amir Syarifuddin らであった。日本との協力を受け入れたのは、スカルノ, ハッタ, Ki Hajar Dewantara, K.H. Agus Salim, Muh. Yamin らであった。協力を受け入れるとした指導者たちの考えは、反対・抵抗するよりもそのほうが独立闘争にとってより有利である、というものだった。日本のインドネシア統治は戦争という環境の中での軍政であり、いつか抑圧的な処置を実施する可能性があった。しかし日本はそのプロパガンダでインドネシア独立の理想に反対はしていなかった。協力に関するスカルノの意欲を引き出したのは、独立闘争を妨げないと日本が表明したからだった。スカルノとハッタは民族主義活動の期間を通じて闘争戦略についての考え方に違いがあったが、この日本占領時代においては互いに協力することが可能となった。

第16軍司令官(原田熊吉中将[*2])との会談で、ハッタは協力する意向であることを表明した。ハッタのこの意向は、日本の到来は占領のためではなくアジア民族を西欧民族の植民地支配から開放するためであるという原田の表明に基づくものだった。そして協力を可能とした要因の一つは、日本がオランダや他の連合国軍を打ち負かすことに成功したということだった。協力する上で、ハッタは日本軍政府の暴力行為を減らすべく努力し、発展・進歩からインドネシア民族の利益となることを採るよう努力していった。

シャフリルはファシスト国家である日本との協力を拒絶していた。日本が信奉するファシズムは西欧諸国の自由民主主義に比べてより危険であると主張していた。他方、スカルノはファシズムと民主主義との理論的差異に拘泥することは好まなかった。彼は、現在の激動する戦争を、二つの帝国主義の戦争であると見なしていた。彼は、ハッタのあとに続き、より崇高な目的~つまり独立達成~のため協力をした。日本側は独立闘争を妨げないと表明した。スカルノは日本がインドネシア民族に(独立の[*3])許可(見返り)を与えるだろうと期待していた。最初は、ハッタとスカルノが加わり、その後Muh. Yamin, Sartono, Ratulangie, Buntaran Martoatomojo, Oto Iskandardinata らが続いた。

シャフリル, Cipto Mangunkusumo, Amir Syarifuddin らは、一貫してオランダ時代と同じ信念・原則~つまり、占領国との協力を拒否する(非協力)~を貫いた。シャフリルは地下組織をつくり、連合国側と関係を結ぶべく常に努力していた。さらに、Amir Syarifuddin は反日レジスタンス運動を起こした。しかし、1943年1月彼と追従者たちは日本の治安部隊に捕らえられた。Amir Syarifuddin には死刑という重い判決が下されたが、スカルノとハッタが手をさしのべたおかげで終身刑へと変更された。

[訳注]

*1:オランダ留学経験のあるハッタやシャフリルは、ヨーロッパの社会民主主義運動・思想に触れており、反ファシズムの立場をとっていました。

ハッタの反日本ファシズム

1941年になると、インドネシアが太平洋戦争に巻き込まれるであろうことが感知されるようになった。日本は長いこと、インドネシアの資源を獲得しようと狙っていた。やがては、日本はインドネシアを奪取しようとしていた。1941年末、日本は蘭印に宣戦を布告した。それに関連して、私は「インドネシア人民と太平洋戦争」と題した論文を『プマンダンガン』紙に書いた。その論文の中で私は、インドネシア人民とりわけ人民運動は親西欧民主主義、あるいは反日本ファシズムの態度をとるべきだ、しかしインドネシアの理想、つまり自民族の運命を自分で決める権利の達成という理想をあくまでも守らなければならないと主張した

シャフリルとの過ぎ去り日の思い出 モハマッド・ハッタ(「シャフリル追想」ロシハン・アンワル編/後藤 乾一 他 訳 井村文化事業社 (1990) p.87)

シャフリルとハッタの立場の差

1942年三月に、シャフリルとハッタが日本軍の手で釈放されたあと、シャフリルは、日本とは決して協力せず日本ファシズムに対抗するために人民運動の組織化に着手することに決めた。シャフリルは釈放されたあと、チパナスにある姉のジュハナ婦人の家に腰を落ち着けた。シャフリルは、ハッタに対して「あなたは民族主義指導者としてすでに日本によく知られているので、日本軍に公的に協力せざるを得ないでしょう」と述べた。逆に、自分は日本にあまり知られていないので、、日本と協力しなくても済むために、このまま知られないように計らい、日本との協力を避けなければならない、と言った。こうすることよってお互いが補完し合えるというのであった。

シャフリル スバディオ・サストロサスモ(「シャフリル追想」ロシハン・アンワル編/後藤 乾一 他 訳 井村文化事業社 (1990) p.21-22)

スカルノ、ハッタ、シャフリルの闘争戦略

スカルノ及びハッタが日本軍政に協力し、シャフリルは非協力の立場から地下活動を行う」という役割分担は、予め決められていた方針らしい。以下、少々長くなりますが、スカルノの自伝から引用します。1942年7月、スカルノがスマトラからジャカルタへ戻った際に、ハッタ邸でシャフリルを交え打ち合わせた戦略です。

Along with Sjahrir, the only other person present, plans for future operations were laid swiftly. It was agreed we'd function on two levels. On the surface openly and underground secretly. Each level to accomplish tasks the other could not.

"To gain political concessions in terms of military training and administrative jobs for our people, we must make an apperarance of collaboration," I said.

"Obviously your power is with the masses," outlined Hatta, "so you will have to work on the surface."

"Correct. You will assist me since you are too well-known a nationalist to work underground."

"That leaves me," suggested Sjahrir, "to work underground and organize radio monitoring and other secret operations."

Our short one-hour discussion evolved sucha s simple formula that, when re-examinde two decades later, it almost seems profound. In reality our strategy was the only possible one. We had no alternatives. "This is the chance we have waited for," I exulted. "Of this I am certain. The occupation will prove a magnificent opportunity to educate and ready our people. With all Dutch personnel imprisoned and without enough Japanese to administer the entire archipelago, they'll need us desperately....

・"SUKARNO An Autobiography As to told CINDY ADAMS"(THE BOBBS-MERRILL COMPANY, INC. 1965) p.173

和訳:

シャフリルを交え、今後の作戦計画が素早く構築された。我々は2つのレベルで役割を果たすことが合意された。それは、表の公的なものとアンダーグラウンドで秘密裏なものだった。一方のレベルが他方の果たせない機能を果たすということだ。

「国民のための軍事訓練や行政職務の獲得について、政治的な譲歩を引き出すため、我々は協力しているよう見せかける必要がある。」と私が話した。

「明らかに、君の力は大衆と共にある。だから君は表で活動すべきだ」とハッタが要点を纏めた。

「その通り。君(ハッタ)は地下活動を行うにはナショナリストとして有名すぎるから私(スカルノ)の補佐へ。」

「そして私に残るのは、地下活動であり、ラジオ放送傍受や他の秘密活動だ」とシャフリル。

一時間という我々の手短な議論は、このように簡潔な公式を導き出した。それは20年後に再検討してみると、実に先を見越したものだった。これ以外に選択肢はなかった。「これこそが我々の待っていたチャンスである。」私は歓喜した。「私は確信する。この占領は、国民への教育と準備の大いなる機会となるだろう。オランダ人職員たちは全て投獄された。全群島を管理するには日本人の数は十分でないから、彼らは我々を必ず必要とするだろう。~」

この打ち合わせは、スカルノが今村将軍と初めて会談する前夜に行われたと自伝にあります。自伝は1965年出版のものであり、『戦時中の対日協力者』というレッテルに対する弁解のようにも取れますが。。。。。

*2:原田熊吉中将。原文「Letnan Jenderal Kumakici Harada」。1888-1947。戦後、戦犯としてシンガポールで処刑された。

*3:( )内は訳者が追加。

b. 3A運動

インドネシア民衆の支持を得るため、日本は3A運動~日本はアジアの光、日本はアジアの保護者、日本はアジアの指導者~によってプロパガンダ活動を加速した。1942年3月末に設立されたこの組織は、日本が作り上げた最初の政治組織だった。その指導者は、大インドネシア党[*1]の西ジャワ元代表Syamsuddinだった。K. Sutan PamuncakとMohammad Salehが彼を支えた。3A運動は政府によって正式に設立されたものであり、各地域にも同種の委員会が設置された。それは国家委員会だったり、国民委員会だったり、また他の地域的な名称の場合もあった。

3A運動の指導者としてSyamsuddinは、その運動が全アジアを含む活動であり共存共栄組織であることを示して、その組織を社会へ浸透させようとした。しかし、この組織の発展は歓迎されなかった。西ジャワ及び中部ジャワにおいて、3A運動を広げようとする努力は、委員会の設立レベルまでにとどまった。

c. プートラ

3A運動の寿命はわずか数ヶ月で終わった。それは失敗と判断され、そして解散となった。日本は、民衆からの支持を得るためには、既に有名な国民的活動家、社会的に影響力のある人物を利用する必要があると判断した。そして、日本は3A運動の代わりにPusat Tenaga Rakyat-民衆総力結集(略してPutera:プートラ)を設立した。日本の目的は、日本への援助を動員するため、世俗的民族主義者層と知識層を説得することだった。

プートラは集団指導体制であり、それはスカルノ, ハッタ, Ki Hajar Dewantara, K.H. Mas Mansyurの4人であった。(この4人は後に"四人組"として知られることになる) この4人は国民運動の流れにおいてそのシンボル、またはそれを代表する者とされた。プートラに課せられた任務とは次のようなものであった:

民族主義層は徐々に日本占領政府内で高い地位を獲得していった。各省の相談役として重用されるインドネシア人たちの存在がそれを証明していた。インドネシア国籍の指導者の他に、プートラには日本人の相談役も存在した。それは、三好(ジャカルタの元日本領事)、G.タニグチ(Toindo Nippon新聞の指導者[*2])、イチロウ・ヤマザキ(商業団体指導者)そしてアキヤマ(横浜銀行出身)といった人々だった。かれは戦争が始まる前、インドネシアに住んだことがある人々だった。

当初からプートラは既存の大衆組織から熱い期待を持たれていた。プートラへと合併した組織は、インドネシア教員統一団体、ラジオ・電信電話・郵便職員団体、大インドネシア夫人管理団体、バリサン・バンテン、インドネシア・スポーツ協会[*3]などであった。

[訳注]

*1:Parindra (Partai Indonesia Raya)

*2:Toindo Nippon。おそらく「東印度日報」のことと思われます。日本占領期インドネシア新聞史料アーカイブ外部サイトへのリンクによれば、「東印度日報」(1937~1941年)は、日本占領期直前までバタヴィア(ジャカルタ)で発行されていた邦字紙とのこと。

*3:Persatuan Guru Indonesia(インドネシア教員統一団体)、Perkumpulan Pegawai Pos, Telegraf, Telepon, dan Radio(ラジオ・電信電話・郵便職員団体)、Pengurus Besar Istri Indonesia(大インドネシア夫人管理団体)、Barisan Banteng(バリサン・バンテン)、Ikatan Sport Indonesia(インドネシア・スポーツ協会)。残念ながら対応する日本語訳の正式名称があるのか不明。多分ないと思います。

d. ジャワ奉公会

1944年に入ると、日本にとって戦況はますます危機的となった。ついに日本は、プートラがインドネシア民族の利益になっているものの、日本の戦争継続にとっては十分な支持を提供していないと理解した。そのため、1944年3月にプートラは解散となり、ジャワ奉公会(ジャワ民衆の献身団体)と名付けられた後身組織が結成された。管理組織として、ジャワ奉公会は様々な種類の職業集団から構成されていた。それは、医師奉公会(医師の献身団体)や教育奉公会(全教員の献身団体)などであった。またジャワ奉公会は、婦人会(婦人組織)、啓民文化指導所(文化本部)、防衛援護会(PETA及び兵補軍人の補助機関)そして様々な企業の奉公会といった特別奉公会も包含していた。[*1]

奉公会設立の根拠は、奉公精神[*2](献身の精神)によって支えられ、そこで生み出される精神的な力を集中させるべく民衆に義務付けるためであった。[*3] 日本の伝統では、この献身は3つの基礎からなっていた。つまり、自己犠牲、信義を重んじること、誓いを立てて物事を実行することであった。[*4] 献身的活動において、日本はこの3つの事柄を民衆に対して要求した。

ジャワ奉公会においては、政治・経済・社会文化の力が社会の下から上まで動員され纏められた。ジャワ奉公会はその構造が政府諸機関へ統合され、政府の正式組織であることが明らかにされた。最高指導者は軍政監(軍政府の長)であり、地域レベルでは知事が指導した。民族主義層はそこから退けられ、政府内で新しい役職を与えられた。彼らの活動は監視され、民衆とのコミュニケーションは制限された。

ジャワ奉公会のメンバーとなる資格は次のとおり;

ジャワ奉公会の活動は法律により次のように定められていた:

この組織は日本の利益のために設立されたものではあったが、民族主義者層は独立闘争のためにこの組織を利用した。例えば、民衆と接する際には、国民精神を植え付けるべく指導者たちは務めていた。民衆に対しては、最後の勝利まで奮闘するよう求めた。日本にとって、最終勝利は大東亜戦争での日本の勝利だったが、インドネシアにとって最終勝利とは独立達成だった。

[訳注]

*1:Izi Hokokai (医師奉公会)、Kyoiku Hokokai (教育奉公会)、Tokubetsu Hokokai (特別奉公会)、Fujinkai (婦人会)、Keimin Bunka Syidosyo (啓民文化指導所)、Boei Engokai (防衛援護会)。日本語をローマ字表記した組織です。最初の医師奉公会(Izi Hokokai)のIziは教科書の綴り間違いかもしれませんが、インドネシア語の"Isi"(中身、コンテンツの意味)と区別するためにIziと綴っているのかも。もしくは、当時isiとiziの発音区別ができなかった???

*2:原文「hoko seisyin」

*3:この段落、読んでいてあまりに神がかり的・精神的なんで理解困難です。インドネシア語の分かる方は是非原文を参照ください。

*4:原文「mengorbankan diri, mempertebal persaudaraan, dan melakukan sesuatu dengan bukti」。最初の「自己を犠牲にする」は分かりますが、その次の2つはよく分かりません。

3. ジャワ以外の状況

ジャワ以外の地域では、政府機関内で民族主義グループが占めることのできる場所は僅かであることが明らかだった。これは、ジャワと異なり地域毎で支配者側の方針が異なっていたため引き起こされたのである。例えば、スマトラでは民族主義グループの入れ物となるような組織が形成されなかった。スマトラの行政管理者たちは、ジャワのような同質的なものとは異なり、スマトラを異質・異種が特徴的な状態であると考えた。スマトラでは、多くのエスニック・グループ、多くの言語、多くの風俗習慣が存在していた。そのため、地域的な組織のみが設立を許可されていた。ジャワでプートラが設立されたとき、スマトラでも同種の組織を設立したいと考えた。1943年7月、Moh. Syafe'i と Chatib Sulaiman が日本占領政府に嘆願書を提出したが、却下されていた。1945年3月になって初めて中央参議院設置を許可するという政治的譲歩がスマトラにも与えられた。もちろん、日本は当初よりスマトラの民族主義者層の活動を妨げるべく努めていた。海軍が支配する地域(カリマンタン、スラヴェシ、マルク、西イリアン、ヌサ・トゥンガラ)では、ジャワで起きたような進歩・発展は僅かしか知らされなかった。軍人支配層は、さまざまな配慮から、意図的にそのようなニュース報道に蓋をした。プートラの設立についても、これらの地域では一般的に知られていなかった。マカッサルでは、ジャワのプートラ設立についてのニュースは報道されなかった。

1945年に入って、日本の状況はますます危うくなった。日本はBPUPKI(インドネシア独立準備調査会)及びPPKI(インドネシア独立準備委員会)を設置した。[*1] 彼らは、インドネシア民族に独立を与える約束を果たすばかりだった。

結び

日本占領時代に、インドネシア民族はオランダ植民地時代をうわまわる非常に重い圧政を経験した。天然資源及び人的資源は大東亜戦争遂行のために搾取・利用された。また他には、日本軍政府による厳しい対応が、いくつかの地域で反抗・反乱を引き起こした。しかし、それらレジスタンスは短時間のうちに鎮圧されてしまった。[*2]

しかしそれでもなお、インドネシア民族は独立達成のための基礎となりうる幾つかの利点を手に入れていた。インドネシア青年・青年婦人に対し広範囲に実施された軍事訓練は、インドネシア国軍及び戦闘組織の萌芽となった。また、重要な役職についた国民的指導者たちは、インドネシア民族自身に対する自信を、つまり独立の際には自らが国家を運営することが出来るという気持ちを芽生えさせた。[*3]

[訳注]

*1:BPUPKI(Badan Penyelidik Usaha Persiapan Kemerdekaan Indonesia)、PPKI(Panitia Persiapan Kemerdekaan Indonesia)

*2:各地で発生した日本に対する抵抗・波乱については、本サイト内の「高等学校2年生向け歴史教科書」訳に記載あり。
日本に対する抵抗

*3:インドネシア人ネットユーザーによる「インドネシア独立への日本の寄与」を論じるページが和訳されています。2014年07月25日追加
【激論】インドネシアの独立は日本に与えられたものなのか?外部サイトへのリンク(ブログ「インドネシア人の本音外部サイトへのリンク」から)
ネットユーザーの議論ということは勘案するとしても、インドネシア人の興味深い意見が多数寄せられています。

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