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私の好きなインドネシアインドネシア歴史教科書「日本軍占領時代」日本語訳(要旨・目次)

第一章 日本占領時代におけるインドネシアの社会生活

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要旨A.序B.経済活動と...C.社会動員及び...練習問題校正記録←2014年05月19日更新

B. 経済資源と労働力に対して日本占領政府が行った動員と管理のシステム、そしてそれが社会生活に与えた影響

日本は戦時下にインドネシアを占領した。経済諸資源は、戦争が必要とするものを支援するために動員された。そして、その行政管理の担い手は軍人たちだった。それゆえ、日本による占領期間は短かったとはいえ、長期にわたったオランダ時代に受けたよりも遥かに重い苦しみをインドネシア国民は体験することとなった。

東南アジア(日本は南方地域と呼んだ)に対する支配計画の中で、日本はインドネシアを戦争及び産業で必要となる諸資源の重要な供給地域と見なしていた。その計画を実現するために、極めて異常な搾取と動員が用いられた。日本の占領政府は経済活動の全ての面とその管理を引き継ごうと企てた。その管理を規定する法令が施行された。

経済面での日本の主要な目的は次のようなものだった。

ダイナミクス

蘭領東インド政府は、なぜ行政・防衛の中心をジャカルタからバンドゥンへ移動させてしまったのか? その判断理由は、バンドゥンの位置が内陸であり山岳地域であるということだった。理論的には、バンドゥンはジャカルタに比べて防衛し易かった。ジャカルタは、陸上・海上・空からの攻撃を受け易かった。他方、バンドゥンは、内陸の町であり、海に接していなかった。しかし、現代の戦争では、軍用機が内陸地域への攻撃を容易に行ってしまう。

1. インフラの復旧

日本がインドネシアを占領したとき、様々な生産設備や重要施設の多くが壊滅状態だった。これは、日本の侵攻を防ぐことが出来ないと感じたオランダが実施した焦土作戦のためだった。経済活動は麻痺していた。この状態を克服するために、食料・農業・衣類・商業・工業・金融といった社会生産基盤の様々な部門で、対応策がとられた。

日本占領政府が最初に取った処置は、橋・運送機関・電信電話など[*1]のインフラ復旧だった。

[訳注]

*1:文中に「bersifat fisik」という文言があるのだが、上手く訳せず。橋・運送機関・電信電話などを「bersifat fisik」なインフラと形容している。
seperti jembatan, alat-alat transportasi, telekomunikasi, dan prasarana lain yang bersifat fisik

上記和文は、原文4ページ目に対応。

2. 経済諸資源に対する動員と管理

a. 物資の流通に対する管理

実施された法令は管理的な性質のものだった。戦時という条件に一致する様々な新法令を日本占領政府は打ち出した。鉱業、電力、電信電話、運輸といった重要企業のいくつかは直ちに占領政府が管理するところとなった。在庫されている物資の流通及び利用は厳重に管理された。物価の上昇を防ぐため、価格管理法令が施行された。法令違反に対しては重い罰則が適用された。

重要なものを含め物資に対しては、政府による管理が行われた。つまり、次の2種類の物資を含めて、その使用と分配は監督下におかれたのだ。

上記2種類の物品に対しては、居住地域(syu[*1])外への持ち出しが禁止された。

ダイナミクス

帝国主義という背景のなか、インドネシアに対する日本の占領とオランダの植民地支配はいずれも同じ目的を持っていた。つまり、インドネシアを彼ら自身の目的のためだけに支配した。彼らはいずれもインドネシア民族を軽視していた。しかし、彼らが直面していた状況は異なっていた。オランダは平時にインドネシアを支配していたが、日本は戦時下にインドネシアを支配した。その結果、インドネシアに対する彼らの方針もまた異なったのである。

[訳注]

*1:日本占領下の行政区分。多分「州」でしょうね。

上記和文は、原文5ページ目上部に対応。

b. 農業とプランテーション

連合国側が所有していた農園などの企業とその財産は接収された。紅茶、コーヒー、キニーネ、ゴムを栽培する農園は管理下におかれ、それらは専売となった。荒廃していた農園全てが復旧されたわけではなく、戦争遂行のため特に関連している特定の農園だけが復旧されたのだった。紅茶、コーヒー、タバコの農園については、嗜好品に分類されたため制限が設けられた。また、食料を生産する農地へ改造される場合もあった。他方、ゴムとキニーネを栽培する農園は、戦争遂行を支える物資と評価されたため注意を払われていた。このような状況ではあったが、生産は恒常的に下落していった。西カリマンタンでのゴム生産は、停止さえした。

破壊されていた砂糖工場のいくつかが修理された。1943年には、オランダ植民地時代の遺産であった精糖会社のいくつかが日本の支配下に置かれ、その経営者たちは逮捕・拘束された。1944年の第31オサム・セイレイ[*1]により、国民は砂糖黍の栽培と砂糖の製造を禁止された。この政令は、製糖工場を兵器工場へ改造するため、もしくは解体して戦争遂行のため他の場所へ移設するために施行された。精糖会社のうちのいくつかは、日本の私企業によって運営された。例えば、メイジ・セイトウ・カイシャ、オキナワ・セイトウ・カイシャ、タイワン・セイトウ・カイシャ、ダイニッポン・セイトウ・カイシャ[*2]である。砂糖の配給・販売はジャワ・ハンバイ・レンゴウ・クミアイ(ジャワ砂糖販売本部組合)によって行われた。この結果、日本と台湾(当時は日本に支配されていた)は、大東亜における主要な砂糖供給者となったのだ。

特に重要な資源である油田の管理はミツイ・カブシキ・カイシャによって行われた。原油は戦争遂行のための戦略的資源であった。

[訳注]

*1:「治政令」

*2:文中のカタカナ表記社名は、原文のアルファベット表記をそのままカタカナ読みにしたもの。容易に正式名称(漢字表記)は推測が付くと思いますので、このままとさせていただきます。手抜きですみません。
参考情報:沖縄精糖社員でジャワへ派遣された方の体験談が次のページに掲載されています。
ジャワ島で製糖業務に当たる沖縄県読谷村史外部サイトへのリンク

上記和文は、原文5ページ目下部~6ページ目上部に対応。

事実、インドネシア経済は戦争経済の型に変更・適合されたのだった。地域毎に自給自足を実現せねばならなかった。つまり、自らの需要を満たせる(自給する)ようにすべきとされた。日本は行政地区、つまり自給自足地区を設定した。それは、ジャワで17地域、スマトラで3地域、その他は3地域となった。自給自足地域の主要な任務は;

インドネシアの主要産物を管理・規制する新しい方針、そして従来からの輸出市場が途絶えたことは、混乱と苦痛を引き起こした。日本国だけではインドネシアの輸出生産品を引き受けることが出来ず、また、日本の植民地を封鎖する連合国側の艦船は、インドネシアの産物を運ぶ日本の船にとって脅威となった。

食料需要を満たすため、日本は様々な方法で生産を高めるべく努力した。例えば、森林を新しい農地として開拓した。ゴム・コーヒー・タバコ農園を米作地等へ変えていった。しかしながら、よく見てみれば、日本の方針は反生産的(つまり、目的と結果でお互いに矛盾している)であるように見える。つまり、食料増産のための努力は、次のような原因のため失敗した;

[訳注]

*1:原文は次の通り。Pohon jarakは観葉植物のようだが、和訳が不明。roselaについても不明。
"pohon jarak, kapas, randu, rosela"

次のページに"jarak"についての説明がありました。
http://sanggar.exblog.jp/6777523/外部サイトへのリンク
ヒマ(アブラギリ)という和名らしい。

上記和文は、原文6ページ目に対応。


図1.3
日本占領政府への収穫物供出

戦争が激しさを増すにつれて、必需品や食料に対する収奪はエスカレートしていった。1944年には、いたるところで日本の状態は危機的なものだった。日本は、ジャワ奉公会・農業組合(農業の協力組織)・その他政府諸機関を通じて、物資と食料の動員キャンペーンを大規模に促進させた。食料の動員・収集は、稲もしくは他の産物を政府へ代償とすることで行われた。その結果、生産物の利用は、40%が農民に、30%が精米組合[*1]を通じて予め決められた価格で政府へ引き渡され、残りの30%は稲の準備在庫として生産地の村へ納められた。漁民に対してもまた同様の支払い義務が定められた。彼らも漁業組合を通じて政府へその漁獲量の一部を渡さねばならなかった。

こういった食料の供出義務は完全に行われたわけではなかったが、この方針はジャワでの食糧不足の状態をますます悪化させた。多くの地域で飢饉が発生した。人々はありあわせの食料で生き延びた。例えば、バナナの木のこぶ[*2]、カタツムリ、栄養価の低い芋類を食べた。国民の体力は急激に低下し、その結果、脚気やペストなどの伝染病にかかりやすくなった。国民の苦しみはますます酷くなり、死亡率は急上昇した。プルウォルジョでは死亡率が24.7%に達し、ウォノソボでは53.7%にも達した。人口の増加数もまた減少したのだ。この結果、日本占領時におけるジャワの食料生産が減少したことを、次の表で示す。

副作物 解説/説明
1941 89,934,807 121,525,781 単位:100kg
1942 83,081,989 118,054,367
1943 81,125,225 107,109,669
1944 68,115,550 90,055,664

[訳注]

*1:原文は「kumiai penggilingan padi」

*2:原文は「bonggol pohon pisang」。バナナの木のどんな部分なのか不明。

上記和文は、原文7ページ目上部に対応。

c. 衣料問題

民衆の生活にかかわる別の大きな問題は衣料であった。戦争前は、オランダからの輸入によって衣料在庫があったが、日本の占領下では、欧州諸国との交易は途絶してしまい、衣類の輸入は停止してしまった。

この問題を克服するため、様々な方策が採られた。例えば;

[訳注]

*1:イスラム教徒は火葬を行わない。土葬される。

d. 財政と金融業

農業生産物の販売や税の徴収が困難であったため、財政面での政府の収入は制限を受けた。しかしながら、戦費や破壊されたインフラ復旧のため、政府の支出は大きかった。占領政府はグルデン(蘭領インドの通貨)の価値を維持すべく努めた。その目的は、物価の水準を戦前の状態に維持すること、そして資本・信用の流通・流れを監視することだった。

財政面では、この蘭領インドの通貨は、以前と同様に合法的な支払い手段として通用した。インドネシア国籍職員の給与は当初の給与の5%から20%まで引き下げられた。そしてインドネシア人の高級職員の場合は、その給与が月額500フローリン[*1]を越えないようにされた。

De Javasche Bank, Nederlandsche Handels-Maatschappij, Nederland-Indische Escompto Bank, Batavia Bankといったオランダの銀行は清算された。他方、イギリスや他の国々の銀行については、1942年11月20日までに事業清算を行う猶予が与えられていた。それは、The Chartered Bank of India, The Hongkong and Shanghai Corporation Ltd., Overseas Chinese Banking Corporation Ltd.といった銀行である。これら清算された銀行の業務とその地位は、ヨコハマ・ギンコウ、ミツイ・ギンコウ、タイワン・ギンコウ、カナ・ギンコウ[*2][*8]といった日本の銀行によって引き継がれ、ナンポウ・ケイハツ・ケンソウ(南方地域発展金庫[*3][*8])の監督下に置かれた。

税務関係では、様々な方面から税を徴収すべく試みられた。外国人に対しては高い税金が課せられた。課税の対象となったのは、ドイツとイタリアを除く欧米人であり、年収3,000フローリン以上ある者が課税された。オランダ時代と同じ財産を所有している中国人[*4]に対しては、オランダ時代の35倍の税金が課せられることとなった。

1943年以降、日本占領政府が発行する通貨の価値は下落した。なぜなら通貨の保証もない上に流通総額があまりに多く、また物資の在庫を増やすこともなかったからである。その結果インフレとなり、通貨の価値は名目上のものから約2.5%下落した。[*5]

赤字を補填するため新たな通貨発行が行われた。そして流通している通貨はますます巨額となり、それは15億に達した。また銀行に蓄えられた準備額は25億になった。[*6] 流通している通貨額を支弁するため、日本は貯蓄キャンペーンを実施した。1944年2月終わりには127,000万ギルダーもの貯蓄が集められた。[*7]

[訳注]

*1:原文「f.500」。500フローリン(グルデン)と思われる。

*2:文中のカタカナ表記社名は、原文のアルファベット表記をそのままカタカナ読みにしたもの。最後の「Kana Ginko」てのは何処の銀行なんでしょうね?(下記訳注*8を参照ください。)

*3:原文「Nanpo Keihatsu Kenso」。どんな機関なのか不明。(下記訳注*8を参照ください。)

*4:原文「Orang cina」。中国系住民でしょうね。

*5:原文「Inflasi meningkat sehingga nilai mata uang merosot menjadi sekitar 2,5% dari nominalnya.」。2.5%のインフレでは大したことないように思うのですが、どうなっているのだろう。

*6:原文には通貨単位が書かれていない。多分フローリン(グルデン)なのだろうが、そのうち金額が正しいものなのか確認したい。

*7:この政策については、どんなことをやったのか教科書の文面からでは今ひとつ分からない。

*8:このページを読まれた方(匿名希望)から『「Kana Ginko」は「Kanan Ginko」(華南銀行)の誤表記、「Nanpo Keihatsu Kenso」は「Kanpo Kaihatsu Kinko」(南方開発金庫)の誤表記ではないか』とのご指摘をいただきました。
恐らく、ご指摘の通りと推察いたします。情報感謝いたします。2014年05月19日更新

e. 商業及び工業

物価を管理しようという試みは失敗に終わった。これは、闇市の存在によって証明されている。そこでは物の価格は遥かに高かった。戦争経済システムに合わせて、経済のあらゆる面が政府もしくはその指導下にある機関によって管理された。商業面では、ミツイ・カブシキ・カイシャ、オオサカ・リマ・カブシキ[*1]といった日系企業に対し政府は独占権を付与した。組合を通して供給される物資の売買・配給に対しても独占は行われた。原住民の商業従事者は厳重に監督され、その販売品目は登録され、販売結果は報告される必要があった。

ダイナミクス

椰子の葉やゴムといった材料の衣類を着用するということは、たとえ衣類の品薄であっても極めて深刻な問題となることを示している。大東亜共栄圏というプロパガンダは、その事実に一致していないことが明らかとなったのだ。

つまり、日本によって占領された他の地域と同様に、インドネシアはその国民が極めて苦しめられた国であったと言えよう。日本民族による残虐行為は西欧民族が犯した残虐行為を超えていた。[*2]

[訳注]

*1:文中のカタカナ表記社名は、原文のアルファベット表記をそのままカタカナ読みにしたもの。最後の「Osaka Rima Kabusyki」てのはなんでしょうね?

*2:原文「Kekejaman oleh bangsa Jepang melebihi kekejaman yang dilakukan oleh bangsa Barat.」オランダが300年かけてやったことより、日本の3年半の方が酷いんでしょうか。確かに、戦時中だから相当過激だったとは推測しますけど。

3. 労働者の動員

インドネシアでの日本による搾取は天然資源に対してだけではなく、人的資源に対しても行われた。飛行場、港、仮設道路、兵器庫、地下避難通路、防御陣地などの国防施設や社会基盤を建設するための労力が必要とされた。そのような作業を行うために動員された労働者達は労務者[*1]と呼ばれた。

労働者たちは人口密集地域であるジャワの村々から調達された。最初のうち、その採用は自発的に行われたが、労務者の運命について恐ろしい噂が広まると、強制的なものに変わった。各村々に対して一定数の労務者を供給するよう義務付けられた。各地域にはロームキョウカイ[*2](動員委員会)が設置された。若者を引きつけるため、労務者は経済戦士または労働者の英雄とされた。そして通常は農民達が労務者にされた結果、村々の経済に対し大きな影響を与え、食糧生産が低下することとなった。

労務者の動員はしばしば非人間的なものだった。労働環境は劣悪だった。重労働であり、食料は十分に与えられず、衛生状態も不適切だった。そして厳重な監視下の元、休息時間は短く、ミスは重く罰せられた。多くの労務者たちが、ビルマ、マラヤ、サラワク、ベトナム、ソロモン諸島などの海外へ送られていった。その多くが、送られた先で死亡した。また、武器庫など軍設備といった機密設備の建設任務についた場合、機密保持のため完成後殺される危険に曝された。推定では、300,000の労務者がジャワ島外へ送られ、70,000が悲惨な状態にあった。

1944年1月、日本はトナリグミ(rukun tetangga:隣組[*3])システムを導入した。隣組とは10~20の家庭で構成されるグループである。そしていくつかの隣組からク(村、もしくは町の一部[*4])が構成された。隣組の目的は、住民活動の監視であり、住民に対する指導管理であり、住民に課せられた義務遂行を円滑化することだった。戦況が日本にとってますます不利になると、隣組は防空訓練、火災予防訓練の実施、地域内での敵国スパイの監視・予防任務を与えられた。

[訳注]

*1:原文「romusha」。romusa、romusyaとも綴られる。既にインドネシア語の単語となってます。手元の辞書では「program of involuntary labor during Japanese occupation. (日本占領期間の強制労働事業)」(Kamus Indonesia-Inggris. PT Gramedia)とある。しかし、「para pekerja paksa di jaman kolonial Belanda. (オランダ植民地時代の強制労働者)」(Kamus Lengkap BAHASA INDONESIA. DIFA Publisher)などという、とんでもない誤訳もある。

日本軍に動員された労務者たちの証言をいつか参考までに書籍・新聞記事から一部引用しておきます。

西ジャワSaktiで鉄道工事に従事した労務者

「私は中部ジャワの小作農の末っ子でね。食うや食わずの毎日だったんで、日本軍にくっついてここに来た。もちろん行き先も仕事も知らされなかった。仕事は楽だし、腹一杯食べられて、給料もずっといいと聞いていたんだけど、全然ちがったな。日本人はよく働いたけれど、われわれにも厳しかったよ。朝四時に体操、それから夕方陽が落ちるまで働きづめだった。食事はいい時は一日二食くれたけれど、全然足りなかった。いつも腹が減ってフラフラしていたよ。
おまけに、このあたりはマラリア蚊の巣窟なんだ。夕方、さされたのがいちばん危ない。仲間の中にはある朝、突然高熱にうなされて夕方には死んでしまう者もいた。薬なんかないさ。死人はすぐに埋めた。たくさん死ぬと穴が足りないから三、四人まとめて放り込んだよ。私は丈夫だったから助かったけどね。戦争が終わっても、金がないので故郷には帰れないし、ここにずっと住んでいるんだ」(サン・ミァルジョ 七五歳:*引用者注。年齢は取材時~1992年~のものと思われる)

日米開戦勝算なし NHK取材班編 角川文庫(1995)。p.147-148

西ジャワ バヤ(Baya)の炭坑開発工事に従事した労務者

「われわれは日本人によく殴られました。日本人が怒るときの日本語は今でも覚えていますよ。『バカヤロー』『こらこら』でしょ。殴られるときは『気をつけ』の姿勢をして、力を入れていないと倒れてしまうんです」(サルミジョ 七四歳:*引用者注。年齢は取材時~1992年~のものと思われる)

日米開戦勝算なし NHK取材班編 角川文庫(1995)。p.154

タイ・ビルマ国境の泰緬鉄道工事に従事した労務者

 「ジャカルタとはどこのこと? バタビアなら知っているが・・・・。ところで、あなたはオランダ人ですか」
 豪紙ウエスト・オーストラリアン記者のバネッサ・ゴールドさん(ニ六)は、インドネシア・ジャワ島中部ジョグジャカルタの空港で会った、顔中シワだらけの小柄なインドネシア人古老の発する言葉に面食らった。
 ブンターム・ワンディー(インドネシア名、カラ・ヤブリジャ)さん(七五)。旧日本軍が第二次大戦中、タイ・ビルマ(現ミャンマー)国境に建設した泰緬鉄道の工事で、ジャワ島中部の村から強制連行され、戦後もタイ西部カンチャナブリ県のジャングルに残留した元「ロームシャ」(労務者)だ。
 ブンタームさんが先月、五十三年ぶりに帰郷し、その旅に、経由地のジョグジャカルタから同行したのが、バネッサさんだった。
 ~中略~
 バネッサさんはしかし、二度びっくりしてしまう。
 ブンタームさんが、「旧日本軍からは給料ももらったし、医療も受けられた。ひどい扱いをされたとは思わない」と、恬淡と語ったからだ。
 「同工事でのオーストラリア人捕虜虐待は、国の歴史上の大事件だ。欧米人とは、人権や待遇に関するスタンダード(基準)が違うのか」。バネッサさんは考え込んでしまった。

読売新聞1995年8月8日付け記事「終戦50年・・・対岸からの報告1」から。

引用者注:バタビアの名称がジャカルタに変更されたのは治政令第16号(1942年12月)による。上の記事によれば、この方は1942年にジャワを出でているので、ジャカルタを知らないのも肯ける。

*2:原文「Romukyoukai」。労務協会でしょうね。

*3:原文「tonarigumi」。隣組です。この仕組みは、rukun tetangga(RT:「隣組」と和訳される)として戦後も残っている。

*4:原文「ku」。区だと思います。

4. 日本の方針が住民生活に与えた影響

経済諸資源及び労働力に対して日本が行った管理・動員システムは、社会生活の広い範囲に渡って影響を与えた。その一つとして、食糧を戦争の為に徴用したことから食糧不足が発生した。青年や農民を労務者として動員したため、それら村落地域では農業労働力が減少し、その結果、農産物生産が下落した。稲栽培のため新たに農地を拡張する試みは森林に損害を与え洪水を引き起こした。多くの農園、特にタバコとコーヒーを生産する農園が放置された。これらの要因からついに飢餓が住民を襲う事態となった。

ダイナミクス

当時ジョグジャカルタでは、スルタン ハメンクブォノ9世が民衆を労務者となることから守ろうと努力していた。その方法は、オパック川とプロゴ川を結ぶマタラム[*1]の溝を掘る計画を実施することだった。民衆は今マタラムの溝を掘っているという理由で、日本のために労務者となることは出来ないとされたのだ。

[訳注]

*1: マタラム(Mataram)。一般的にはジョグジャカルタ周辺に栄えていた古代インドネシア王朝をさす言葉です。ここでは、ジョグジャカルタの宮殿を指しているのか、同地域全般を指しているのかよくわからない。

日本占領時代には、住民に行うことを強制した事柄がいくつかあった。例えば、最敬礼を義務付けている儀式。つまり、神であるとされた日本の天皇へ敬意を表すること。それは東京の方向へ向けて身体を深く屈めて行われた。このことはイスラムの教義と著しく矛盾することだった。なぜなら、多神教徒のように感じられるからだった。確かにそのとおりであって、この強制はインドネシアのイスラム教徒の気分を害した。K.H. Zaenal 他、何人かの有力なイスラム学者たちがこれに反対を唱えた。(*1)

[訳注]

*1: 天皇への最敬礼についてのハッタの意見。プートラの日本人相談役三好氏に述べたもの。

教義と私の知識によれば、イスラム教徒は自分の面前にいる人に対しては、頭を下げて敬意を表しても構いません。しかし、遠く東京にいてここにはいない天皇に対する最敬礼は、イスラムにおいては許されません。アッラーよりも天皇をより高きに置くことを意味するからです

モハマッド・ハッタ 回想録 大谷正彦 訳 めこん。p.435 から

また別の側面もあった。労務者や兵士として村落部の若者を動員したことにより、彼らの視野・世界観が広がることとなった。任務を果たし地元へ戻った彼らは、新たな経験を携えていたのだ。これにより村落部は変化を経験し、より開かれた状態となった。

明らかに、約3年半続いた日本の占領は社会生活に大きな変化を引き起こしていた。その変化はオランダ植民地時代に発生した変化に比べはるかに大きなものだった。その変化には肯定的な面と否定的な面があった。

肯定的な影響としては次のようなものである;

他方、否定的な影響としては次のようなものがあった;

[訳注]

*1: pelecehan seksual。性的な嫌がらせ、侮辱といった意味。ここでは具体的に何かは記載されていないが、次の章で「従軍慰安婦」についての記述があるので、それが該当すると思われます。

*2: 残虐行為については、「ビンタ」「鉄拳」を容赦なく「制裁」として繰り出していた当時の日本人は「残虐」だったでしょうけど。汚職はどうなんでしょうね。

汚職・腐敗について

オランダ時代、役人の給与はそれほど悪くなく、原住民エリートの生活を維持するのに十分であった。しかし、日本軍時代、悪性インフレのため役人の月給では一週間も生活できなくなった。ではどうするか。汚職、腐敗をやるしかない。米の強制供出を担当する原住民官吏が、日本人、華僑精米業者と組んで米の一部を闇市に流す、~~

スカルノとスハルト 白石隆 著、岩波書店。p.47から。

トランスペアレンシー・インターナショナルという組織が全世界を対象に調査している「汚職度」ランキングで、インドネシアは毎年悪い状態です。(要は、汚職が目に付く国ということ)

2006年調査結果トランスペアレンシー・インターナショナル外部サイトへのリンク インドネシアは163カ国中、130位です。日本は17位。

インドネシアが汚職大国なのは日本軍政の負の遺産なんでしょうか?

粗暴な日本兵について

大勢の人が私の事務所に来て、いとも簡単に人をひっぱたく日本軍の態度について、苦情を述べたてた。殴られた者がかっとなって、短剣を抜いて殴った日本人の腹を突き刺すこともありうるという者もいた。この苦情に関連して、私は日本の軍事政府に、日本軍の将兵が日本人とインドネシア人の習慣の違いに留意するべきだと強調した文章を作成した。日本人の習慣では殴ることは日常茶飯事である。しかしインドネシア人にとっては、頭は人間の体で神聖な場所とみなされている。神聖とみなされている所を殴られると、かっとなって刀を抜いて刺すことも起こりうる。そして、日本軍に対する憎しみが生まれる。したがって、インドネシアにいる日本軍に人間の頭部に対する一般の人たちの考え方をよく教えることが極めて重要である。

モハマッド・ハッタ 回想録 大谷正彦 訳 めこん。p.436 から

インドネシア人の残虐行為について

1965年9月30日の「9/30事件」から翌1966年にかけて、ジャワを中心として多くの虐殺が起きています。一説によれば50万人が犠牲になったとも言われている。この教科書では、p.98で簡単に紹介されています。以下、引用します。

1965-1966にかけて、主にジャワ、バリ、北スマトラで共産主義者民衆と非共産主義者民衆との間に衝突があり、数十万人が殺害されたと推定されている。このことはインドネシアにおける極めて悲惨な人道上の悲劇であった。

この教科書では、「共産主義者と非共産主義者の衝突」となってますが、実態は共産党員(もしくはその支持者)やそうと見なされた人々が一方的に虐殺されたもの。まだ、この時期の詳細な記述を教科書に載せるのは無理なんでしょうね。この虐殺事件については次のページを参考にご覧ください。

50万人殺戮インドネシア専科外部サイトへのリンク
さとうきび畑の槌と鎌 忘れられた大量虐殺の歴史外部サイトへのリンク

この虐殺事件も日本軍政の負の遺産が原因????

*3: 公用語となったインドネシア語:とは言え、日本が行った学校教育で最も時間を割り当てられたのは「日本語」でした。

占領者の言語である日本語は、全学校で必修科目となり、初中等教育機関においては、全科目のうちで最大時間数を占める科目となった。たとえば、国民学校六年次における週あたり語学学習時間は、日本語六コマ、マライ語[*引用者注:インドネシア語のこと]五コマ、地方語(ジャワ地区ではジャワ語、スンダ語、マドゥーラ語のいずれか)二コマであり(一コマ=四〇分)、語学科目が全授業時間(三六コマ)の三六パーセントを占めた。

知っておきたい戦争の歴史 -日本占領下インドネシアの教育- 百瀬侑子 著 つくばね舎(2003)。p.49から

この他に、日本占領時代は独立闘争を成功させるために極めて重要な倫理的価値観を発生させ強化させた。この倫理的価値観は次のようなものである。

日本占領時代に発展した倫理的価値観とはこういったものであった。これら倫理的価値観は新しいもの(日本占領時代に成長・発展したもの)であり、それ以前から存在はしていたが、日本占領時代に急速な発展を経験したのだ。

[訳注]

*1: 青年訓練所・郷土防衛義勇軍(“祖国防衛義勇軍”とも言う)の訓練で叩き込まれた規律について語ったインドネシア人の証言がありましたので、参考までに引用いたします。相当なスパルタ式教育だった模様。いや、これを「スパルタ」と形容したら、当の「スパルタ人」から抗議がくるかも。

青年訓練所での訓練

青年訓練所は、以下に何人かの人が話しているように、高度な規律を伴った教育水準を備えていた。

訓練所を設立したのは日本の青年たちです。彼らは、そのころ、日本の大学生になったのですが、その後、軍隊に加わって、理想主義などといったものを胸いっぱいに抱いてインドネシアにやって来たのです。~中略~ ある日、私たち四、五人は、訓練所の日本人にクマヨラン地区のアンボン人街に誘われました。道端では、たくさんのアンボン人の少年たちがおしゃべりをしていました。私たちは、何の理由もないのに、そのアンボン人たちとけんかをするように命じられました。私たちは、全員で一〇人以上いた彼らとけんかをしました。闘争心が起こるなんの理由もないのにけんかを仕掛けたために、ほとんど気絶するころになって、やっと日本人が助けに来るような始末でした。~中略~ セイネン・クンレンショでは、罰として気絶するまで運動場を走り続けさせられたことがありました。また、ほかの軍事訓練も厳しかったです。要するに、私たちは毎日、五回殴られずに一日を過ごせば、それだけでもう大よろこびだったのです。それは、並たいていのことではありませんでした。

(ルクミント・ヘンドゥラニングラット 一九八五年一一月三〇日)

二つの紅白旗 インドネシア人が語る日本占領時代
インドネシア国立文書館 編著 倉沢愛子:北野正徳 訳 木犀社(1996年)。p.141-143から。

Webで情報を漁ったところ、ルクミント・ヘンドゥラニングラット(Roekmito Hendraningrat)はインドネシア国軍の陸軍中将。在シンガポールや在日本のインドネシア大使館に大使として赴任したこともある模様。生没年についてはわからず。(まだご存命かもしれませんが)

郷土防衛義勇軍の訓練

防衛義勇軍の訓練の形態、方法、そして雰囲気がどのようなものだったかについては、次のような説明がある。

見たところ、この防衛義勇軍の教育を経由して辿らなければならない人生の道は、独立に備えることと切り離すことができない人生を支えるもののひとつに数えられているようでした。なぜなら、その訓練は、想像もつかないほど困難ものでした。~中略~ 私たちは当時、闘争心や敵を倒すための勇気をたたき込まれました。私たちは郷土防衛軍であると、言い聞かされました。郷土防衛軍は、力のかぎり郷土を守る部隊なのです。つまり、彼ら日本人の言う意味では、私たちは死ぬまで戦って敵から郷土を守り通さなくてはならないのです。~中略~訓練を終えたときには、私たちは、まるで生まれ変わったような気がしました。危険に直面しても、怖くなくなりました。

 ただ、ここで説明しておきたいことは、日本は、私たちに闘争心や敵に立ち向かう勇気を育てるのに成功したいっぽうで、いつか恨みをはらしたいといった復讐の念も芽生えさせたということです。当時私たちが受けた扱いは、訓練中の教育方法ということで説明のつくようなものではまるでなく、ときには私たちを怒らせるようなものでもありました。インドネシアでは、権力を持たない私たちと、権力を振るおうとする日本人といった関係になっていました。

(スティアディ・カルトハディクスモ 一九八六年八月一二日)

二つの紅白旗 インドネシア人が語る日本占領時代
インドネシア国立文書館 編著 倉沢愛子:北野正徳 訳 木犀社(1996年)。p.141-143から。

スティアディ・カルトハディクスモ(Setiadi Kartohadikusumo)については、Webで情報を漁ってみましたが今ひとつ不明。この方にとって、「闘争心」「勇気」を教育した日本軍は自らへの「恨み」「復讐の念」も引き起こしてしまった。

同じ書籍から、もう一人の証言を引用しておきます。

別の人は、次のように言っている。

~中略~
先ほども言いましたが、私は当時、日本の訓練を受けました。とても厳格な規律が、闘争に参加していた私たちすべてのインドネシアの青年を形づくり、軍事知識は完全とはいえないまでも、私たちにオランダに立ち向かっていく力を十分に与えたのです。~中略~
わが民族に対する日本人の態度は、礼儀を欠いたものでしたが、実は私たちアジア民族は白人よりも優れているという感情を植え付けたことに対しては、私たちは日本に感謝しなければなりません。日本は、私たちに希望を与えたのです。

(ケマル・イドゥリス 一九八六年一〇月一二日)

二つの紅白旗 インドネシア人が語る日本占領時代
インドネシア国立文書館 編著 倉沢愛子:北野正徳 訳 木犀社(1996年)。p.165-166から。

ケマル・イドゥリス(Kemal Idris)は、インドネシア退役陸軍中将。日本のTV番組(次のurlにビデオあり)の取材に答え、『軍事訓練を与えてくれた日本への感謝』を語っています。
http://www.youtube.com/watch?v=HPWS4h3WmI4外部サイトへのリンク
ソースが不明ですが、おそらくNHKのドキュメンタリー番組ではないかと思います。

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