大村市の歴史

■大村にはいつ頃から人が住み始めたのでしょうか?

現在の野岳湖の湖底になってしまったところで細石器が発見れています。これは、1万3000年前の旧石器時代のものとされてます。旧石器時代は土器の使用がなく 狩猟、採集生活で 木の実や獲物を追って転々として暮らしていたと言われています。こういう生活ですから、現在の大村市の山間部 一定の高度を持ったところの山中が生活の場だったのです。大多武(おおたぶ)から琴平、野岳に広がるイチイガシ原生林が旧石器時代から縄文人の生活の場だったのです。戦後、植林事業で杉や檜の山に変わっていますが、琴平のスカイパーク公園の近くには今でもイチイガシ原生林が見られます。結構見晴しはいいですから、大村湾の静かな輝きを見ながら、大昔の人は生活していたのでしょうね。4〜5人の家族が生活するための木の実や狩猟の対象の動物を確保するための広さが15〜20H四方とどこかで読んだことがありましたので、今の大村の広さでは旧石器時代はほんとに数えるほどしか人は住んでなかったのでしょうね。

■稲作のはじまり

エジプトはナイルの賜物という言葉は聞いたことがありますが、大村も農耕生活の発祥の地とされているのは、郡川流域です。郡川は、多良岳の土砂を押し流して扇状地をつくりました。空港から大村の市街地を見るとその形状がよくわかります。これが今私たちの住んでいる大村平野です。大上戸川(大村の中心を流れる川)から佐世保側は、土を50センチも掘ると丸い石が出てきます。最近は少なくなりましたが、以前は諏訪や池田町、竹松までの地区で丸石を積み上げた塀が多く見られました。今でも、乾馬場近辺で、ごくわずかですが見かけます。畑を作ると丸石が出てきますのでそれを積み上げて造ってあったというわけですね。

さて 郡川は、古代人には大きな役目を担った川でした。弥生時代(紀元前三,二〜三世紀)になると大陸から稲作の技術が伝わり新しい生活が始まりました。有名なのが魏志倭人伝に出てくる卑弥呼でしょう。その時代の遺跡は富の原遺跡有名です。現在は経済連ジュース工場、ニチレイ食品工業一帯に広がっています。

■古墳時代

歴史の教科書通り、稲作が始まると力を持つ人間が出てきて三〜四世紀には土を高く盛り上げて埋葬する古墳時代が始まります。大村地方を代表する古墳は竹松駅裏にある鬼の穴古墳だそうです。この地域には相当力のあった豪族が住んでいたのでしょう。

五世紀後半のものとしては福重の黄金山古墳(こがねやま)があります。他にも野田古墳、弥勒寺古墳、八龍大権現古墳などいずれも郡川の右岸の丘陵地に位置している。偉い人のお墓でしょうから、その村を眺めることのできるところだったのでしょうね。

このように郡川の流域は肥沃な平野部に多数の集落が形成され水稲栽培が盛んに行われていたのです。

■律令時代(奈良時代)

大化改新(六四六年)以降 日本は中央集権国家を形成し始める。その詔が班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)小学校を思い出しますね。国が六歳以上になった男女に一定の土地を貸し与えるという制度です。大村には 二つの条里の跡があるそうです。一つは郡地区に広がる沖田条里、もう一つが大上戸川両岸にある水田条里。向陽高校の裏手から水田二区へ伸びていたそうです。この沖田・水田地区が奈良時代の人口の集中していたところでしょう。以降大村の二地域が大村の文化圏の核になっていきます。

水田の地域は戦前工員宿舎になったため条里の跡はわからなくなってますが、沖田はその面影を残してます。今でいう黒丸の地域です。郡地区は当時 大村地方最大の穀倉地帯であり、数多くの古寺院群があったそうです。町名にも残ってますよね。

■平安時代

六世紀半ばに伝わった仏教は次第に盛んになり、全国に国分寺と国分尼寺ができました。大村でもこの郡地区には郡七山十坊とよばれる多くの寺院が造られたといわれています。


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