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井真成市民研究会
会報
=井真成の生誕地及び日本名についての市民研究会の考え方=
井真成の生誕地及び日本名については、現在古代史の専門家の間でいくつかの説があります。その主なものは葛井真成説、井上忌寸真成説などです。しかし、いずれも確たる証拠はありません。
この様な中で市民研究会は葛井真成・藤井寺出身説をとっています。
その理由は、多くの藤井寺市民が、彼を心情的に自分達の祖先と受けとめたこと、それから、その魂の帰郷を心から願っているという事実に基づいています。
彼を自分達の先達と受けとめ、彼の生涯を想い、彼の望郷の念を心で受けとめ、その帰郷を待ちのぞんでいること。私達は、それ以外の説明の方法をもちません。
古代ロマン 井真成物語
INDEX
中国の記録 日本の記録 井という姓 19歳の遣唐留学生 遣唐使の旅 長安の都
2004年10月11日(祝)、私たち藤井寺市民にとって、大変なニュースが飛び込んできました。
中国の記録
最近、中国・西安市の工事現場から、一人の日本人留学生の墓誌が発見されました。
その墓誌は、今から約1300年前の奈良時代に、わが街藤井寺から、当時の唐国・長安の都に遣唐留学生として渡った井真成さん(いのまなり)のものです。
墓誌というのは、当時の中国では人が亡くなったとき、その人の簡単な経歴や功績などを石に刻んで、一緒にお墓に埋めるものですが、この時代の日本人の墓誌が中国で発見されたのは初めてのことです。

また、「日本」の国号が記された中国最古のものです。

謎に包まれた遣唐使の実像に迫る貴重な資料として注目されます。
今回見つかった墓誌は上下2つの部分からなります。
  上部 (蓋石) 「贈尚衣奉御井公墓志文并序」
     1行3字・4行の計12文字縦書きの篆書(てんしょ)
  下部 (本体)
     1辺約39.5pの正方形に近い部分 厚み 10p
         12行・171字が刻まれています。
特別顧問の葛 継勇さんのお話によりますと、墓穴での墓誌の配置は、
 yajirusi 墓誌の配置想像図
上の想像図のように、本体の墓誌を守るように同じサイズの蓋が重ねられております。
また、中国の墓誌のサイズは80cmと40cmのものがあり、今回見つかった井真成の墓誌は
40cmのものと思われます。上位部が壊れているため、39.5cmとなっています。
その大まかな内容は、次のようなものでした。

井真成(いのまなり)という遣唐留学生が日本からやってきました。

彼は生まれつき優秀で、礼儀正しく、一生懸命勉学に励みました。朝廷の役人(官吏)にも選ばれて活躍もしました。

しかし、734年(開元22年)正月、36歳の時役人の宿舎で急病に陥り、志し半ばでこの世をさりました。

皇帝は、彼の死をたいへん残念に思い、
尚衣奉御という高い官職を贈り、開元22年(734年)2月4日、サン川の畔に埋葬しました。白い馬車と旗を掲げた葬列により、盛大な葬儀が行われましたが、参列者は遠くに落ちる夕日をみて、ため息をつき、嘆きながら進みました。

死は)自然の摂理ではあるが、故郷の人も悲しんでいるでしょう。
亡骸(
なきがら)は、異国の土となるが、魂はきっと故郷に帰ることを請い願う。

この墓誌は、中国・西安(元の長安)の西北大学の博物館に保存されています。
中国の「西安晩報」が上部・下部2枚の写真とともに発表しました。
ちょうどこの時、弘法大師空海(774-835)が804年に留学僧として唐の都・長安(現・西安)に渡って1200年になるのを記念式典が西安で行われていました。
式典には、日中友好協会の平山郁夫会長ら日本人約200人と中国側から400人が参加していました。

 尚衣奉御・・・・・・・・・・・・ 唐の朝廷で皇帝の衣服などを管理する部署で、その長官は従五品位以上という官位にあり、皇帝にもあうことができる殿上人です。

日本の記録
残念ながら、当時の玄宗皇帝や人々にも惜しまれました、この井真成さんの記録は日本には何も残っていません。
当時の日本では、遣唐使一行を派遣するときには、五位以上の官位を持っている人しか記録しなかったので、いわばその他大勢の一人であった彼の記録は残っていないのです。
他の当時の様子を知ることができる、和歌集「万葉集」や漢詩集「懐風藻」、漢文集「経国集」の内容や著者を見ても彼の名前は出てきません。
しかし、この墓誌に書かれていることから、いろいろ推測してみると、次のようになります。
井という姓
井真成という名前は、唐風の中国名です。中国の渡った人々は、自分の名前を中国風に3文字に変えました。
例えば、阿倍仲麻呂は「仲満」と名乗っていたし(のち朝衡《ちょうこう》と改名)、仲麻呂やこの井真成が唐に渡った際(第9回、717年)の遣唐副使である藤原宇合(うまかい)などはそれまで「馬養」と名乗っていたのを中国で改字したものであります。
その頃の多くの人は、中国姓の一文字にするために、自分の日本名、特に姓(かばね)から取る事が多かったようです。
その井という姓から推測すると、日本での名前は、葛井真成さんになります。
葛井という名前は、6世紀の後半に活躍した朝鮮半島からの渡来人、王 辰(おう しんじ)の子孫達が多く、現在の大阪府藤井寺市にある葛井寺(ふじいでら)を創建し、その近くに住んでいました。  
19歳の遣唐留学生
井真成は19歳で、養老元年(717年)に日本を出発した9回目の遣唐使の一員として遣唐留学生として、中国に渡りました。
この遣唐使の一行の押使(大使)は、多治比県守(たじひのあがたもり)で、河内の丹比郡を本拠にしていた人です。
彼の一行には、吉備真備(きびのまびき)や玄ム(げんぼう)、一歳上の阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)などがいました。
yajirusi  古代の河内平野と大和盆地の復元
大和盆地を流れる河川は、どれも規模が小さくかなり屈曲していたが、その多くは改修され、現在のような景観を示すようになりました。天満砂洲を切るところで、三国川・長柄川・難波堀江(堀江川)に分かれて海に注いでいました。
sankou参考:週刊朝日百科49
遣唐使の旅
遣唐使船yajirusi  中国に着いた遣唐使船

永仁6年(1298)製作
「鑑真和上東征絵伝」に描かれた船。
遣唐使船についての正確な資料はなく、後代の絵などから推測する他はない。
絵は鎌倉の絵師・六郎兵衛蓮行の筆である。
(唐招提寺蔵)


sankou参考:週刊朝日百科49
井真成さんは、他の人々とともに遣唐使船で出発します。
その頃の遣唐使船は、今の大阪城近くの港から出発して瀬戸内海にぬけ、筑紫(現在の福岡県)から東シナ海の荒海をわたり中国の揚子江の近くに上陸しました。
他にも道もありましたが、これが一番近い道です。
そして揚子江を船や馬、あるいは徒歩でのぼり、長安に向かいました。
長安の都
こうしてたどり着いた唐の都・長安は、当時 世界一の大都会で人口も100万人を数えていました。
皇帝のすむ宮殿はもとより多くの邸宅が建ち並び、道路はきれいに縦・横に伸びて、たくさんの人々が行き交いました。
日本の奈良の都を作るときの手本となりました。
特に当時の長安には、シルクロードを通じて中央アジアの人々や、朝鮮系の人々も多く住み、国際都市としてにぎわっていました。
この文章は、以下の記事を参考に構成しています。
・2004年10月11日 朝日新聞朝刊
「遣唐使の墓誌発見」   
著名なし
・2004年10月20日 朝日新聞夕刊
「残された空白の箇所の謎」
気賀澤 保規 明治大学教授
・2004年10月11日 毎日新聞夕刊
「井真成とはだれか」
鈴木 靖民 國院大學教授
・2004年10月29日 朝日新聞夕刊
「井真成ってどんな人」
・2003年 5月11日 週刊朝日百科
「日本の歴史」


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