≪報告概要≫




第115回例会 2013年11月9日 於:武蔵大学 1号館 1301教室

研究報告:「藤島武二『造花』に関する試論〜学部演習の実践報告として」
   発表者:山崎明子(奈良女子大学教員)+ 北ヶ嵜知聡、小宮山由利、高原葵(奈良女子大学生活環境学部生活文化学科3回生)
   コメンテーター:池田忍(千葉大学教員)

概要
 本発表は、奈良女子大学の視覚文化論演習(半期)において、一枚の視覚表象を読むことを経験し、学部学生(三回生)が初めて主体的に表象分析に取り組む実践と、学生による研究成果として藤島武二作『造花』に関する試論を提出するものである。前半の実践報告は山崎が行い、後半の研究報告は北ヶ嵜・小宮山・盡兇行うものとする。
 『造花』は、1901(明治34)年に発表された藤島の初期作品として知られる。室内で造花制作をする横向きの和服女性が描かれるが、これまで背景に見える造花の象徴分析のほかに、積極的な解釈は提示されてこなかった。本発表では、「造花」制作の社会的意味をジェンダーの視点から再考するとともに、同時代における複数の女性画家と藤島の接点を探り、本作の図像源の可能性を提示する。

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研究報告2:「『桂ゆき−−ある寓話―』展を振り返って」
   発表者:関 直子(東京都現代美術館 主任学芸員)
   コメンテーター:小勝禮子(栃木県立美術館学芸課長)

概要
 この春、東京都現代美術館では生誕百年となる美術家、桂ゆき(1913年-1991年)の個展を開催した。
 本展は、代表作そして新出の作品や資料によってその活動を包括的に紹介し、欧米とは別の文脈で展開した創作の意味を再考する試みであった。桂は1930年代から、異なる表現方法の対比や並存、表現対象とその表現方法の関係、そのことによって生じる意味や価値の反転といったことを考えていたが、個々の作品によってその制作意図は多様であったと思われる。本発表ではこうした点を含め、今回の展覧会をめぐるいくつかの課題について採り上げることにしたい。

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第114回例会 2012年12月22日 於:武蔵大学 1号館 1403教室

研究報告:「美術教育におけるジェンダー概念の理解とその可能性―母子画の鑑賞をめぐって」
   発表者:永澤 桂 (女子美術大学 非常勤講師、横浜国立大学大学院博士後期課程)
   コメンテーター:山崎明子(奈良女子大学)

概要
 本発表は,中学校の鑑賞教育の授業内容に,ジェンダーの視点を導入するための一つの試みに関するものである。
 美術作品に表されているジェンダー・イデオロギーに関する研究は,これまで自明のことと考えられてきた規範に対する問い直しという立場から有効な議論を行ってきた。
 本発表では,これまでのジェンダー美術史を踏まえた上で,ジェンダーの視点が人格形成における基盤をなすものと捉えるための方法を提示したい。
 そのための切り口として,母子像の鑑賞を選択する。母子像を主題とした作品は、広範な文化圏及び時代に見られ、人間にとって普遍的と言っても良いテーマである一方で,母子関係は多義的であり,多様である。母子像は,政治的権力構造の枠組みから逃れ得る限定的な事象を表したものであると捉えられがちであるが,母子関係は社会的なシステムと連動しながら,権力構造によって変化するものであり,決して一枚岩ではない。
 美術教育が,特にジェンダー理解に有効性を持ち得るのは,視覚イメージと思考の結びつきにおいてである。鑑賞教育に関する先行研究において,「考えること」の重要性についてはすでに指摘されているとおりである。
 本発表では,鑑賞において,美術史学的知識を参照しながら,作品に表象されているジェンダー観に関する様々な経緯やその作品が社会に与えた影響について,生徒が「考える」ことが重要だと位置づけている。
 家族関係は,社会的変化との相関関係にある。母子のつながりもまた,権力とは別社会の特権的な存在ではない。
 可変的であり,政治的な概念である「ジェンダー」への接近法として,美術作品の鑑賞は,視覚,知覚,思考の様々なレヴェルからの働きかけとして有効性を持つ。
 母子像に対してもまた,同時代の文化的社会的文脈と相関するジェンダー観と密接な関係にあると認識した上で,鑑賞者が歴史や美術作品に接することは,自身をも含めたジェンダーに関わる問題系に接近することである。

 なお,本発表は,2012年3月に新潟大学で開催された美術科教育学会第34回における口頭発表の内容を修正したものである。

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第113回例会 2011年7月3日 於:男女共同参画センター“らぷらす”研修室4

トークイベント:「女と映画と戦争と――『三池』から『坂根プロジェクト』へ」
   ゲスト:熊谷博子(映像ジャーナリスト)
   聞き手:池川玲子(日本近現代女性史。
『「帝国」の映画監督 坂根田鶴子 『開拓の花嫁』・一九四三年・満映』著者)

概要
 戦争、原爆、麻薬、炭鉱といったいわゆる「社会派」テーマから、人々の細やかな日常まで、幅広い視点で現在と過去を記録してきた映像ジャーナリストの熊谷博子氏をゲストに迎え、話題作「三池 終わらない炭鉱の物語」(2005年)、またその完成後に判明したという「炭鉱から原発に移行した労働者の被爆問題」、そして現在構想中という、日本最初の女性映画監督・坂根田鶴子と彼女が生きた「満洲」についての思いなどを、映像を交えながら語っていただく(なお、「三池 終わらない炭鉱の物語」が、6月15日に渋谷で上映予定)

熊谷博子氏プロフィール
 早稲田大学出身。1975年日本映像記録センターに入社。TVドキュメンタリーのディレクターとして出発する。1985年に独立しフリーの映像ジャーナリストとなる。主要作品に、戦時下のアフガニスタンに生きる人々を描いた『よみがえれカレーズ』(89年、土本典昭と共同監督)、自らの育児経験をもとにした「ふれあうまち向島・オッテンゼン物語」(95年)、日本の女性監督たちの格闘を描いた『映画をつくる女性たち』(04年)など。

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第112回例会 2011年2月13日 於:武蔵大学 3号館 3103教室(正門を入ってすぐ正面)

研究報告1:「戦時下の長谷川春子――<Harouko HANOI, 1939>の絵を中心に」
   報告者:北原 恵

発表概要
 本発表では、昨年、京都の古書店で見つけた長谷川春子の1枚の絵<Harouko HANOI, 1939>を中心 として、戦時下の長谷川春子(1895-1967)の製作 活動と女性美術家の果たした役割について考察する。戦時下の女性美術家については、すでに吉良智子や小勝禮子らの先行研究があり、長谷川春子についても最近、《少婦國を防ぐ》(1943年)など 新たな絵画が発見され注目されるようになってきたが、今回は、1939年のハノイ風景を描いた油彩画を中心に、1937年から1945年までの長谷川春子の足跡に焦点を合わせる。
 1895年、東京 日本橋で7人兄弟の末っ子として生まれた長谷川春子は、高等女学校卒業後、絵を習い始め(日本画を鏑木清方に、その後洋画を梅原隆三郎に師事)、実姉・ 長谷川時雨の主宰する文芸雑誌『女人芸術』の美術部門担当の経験や、フランスでの絵の修業を経て、次第に日本のジャーナリズムでも認 められるようになった。国画会や朱葉会に出品する傍ら、女性画家だけのグループ「七彩会」(1936年)を結成、アジア太平洋戦争末期には「女流美術家奉 公隊」を結成し自ら委員長となり、植民地や戦地での従軍記など単著を次々と出版した(『満洲国』1935年:『北支蒙彊戦線』1939年:『南の処女地』1940年:『東亜あちらこちら』1943年)。
 日中戦争が始まると、長谷川春子は1937年10月から翌年1月まで大阪毎 日新聞と『改造』の特別通信員として蒙古や満洲に派遣され、1939年には、陸軍省の派遣で中国南部と仏印に滞在。ハノイに滞在したのもこの時である。1939年のハノイ(河内)は、蒋介石政権に対する米英の援助ルートを断つ目的で、翌1940年9月から始まる日本軍のフランス領インドシナ(仏印)の軍事占領を直前にして、緊張した状況下にあった。日本人画家の仏印での活躍がメディアで華やかに報道されるのは、日本軍の仏印進駐後、1941年以降である。和田三造、辻永、伊原宇三郎、藤田嗣治らが現地を訪問して制作し、日本美術と仏印との交流がメディアで伝えられるようになるが、1939年当時、日本人画家が仏印を訪れることはあまりなかったと思われる。
 昨年発見 した春子の絵画(36×32cm)には、異国風のオレンジ色の門と、その向こうに生い茂る木立が描かれ ている。柵越しに見える街路にはバス停も見え、敷地内から描かれた絵であることがわかる。春子はこの仏印訪問について、「女ひとり仏印に行く」(『南の処女地』1940年12月)で、まだ現地に残っている日本人女性や仏印女性の風俗などを挿絵と ともに書いているが、同書には、<Harouko HANOI, 1939>とそっくりな構図のスケッチと、そのスケッチを描いた時の文章も残っている。それらは<Harouko HANOI, 1939>を解読する大きな手掛かりである。自由奔放とも見える春子の戦時中の行動の意味を考えるためにも、まず当時の足跡を追うことから始めたい。

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研究報告2:「戦争美術展における「銃後」の図像」
   報告者:吉良智子

発表概要
 本発表は博士論文「近代日本の戦時美術と女性―女性美術家のネットワーク構築と表現活動をめぐって」(2010年度に千葉大学提出)のうち、論の核となるアジア・太平洋戦争期の「銃後」図像の分析を中心に報告を行なう。
 本論文は、近代日本における女性美術家とその造形表現を、国民国家のジェンダー秩序の構築・再編過程に位置づけ、とりわけ戦時の国家システムが、女性を動員し、美術/表象文化によって 駆動する様相をとらえることを目的とする。アジア・太平洋戦争期に開催された戦争に関連した展覧会のうち、主に「聖戦美術展」(1939、1941年)、「大東亜戦争美術展」(1942年、1943年)に展示された作品群のなかから、「銃後」が描かれた出品作を取り上げ、描き手のジェンダーに注意を払いながら、戦争の表象における「銃 後」図像の位置づけを検討した。
 その結果、「銃後」を表現した戦時美術のなかで、最も重要視されていたモティーフは、兵士のために「祈る女性像」であり、この図像は、観者の代理として戦争美術展の中核をなす「戦闘図」に描かれた男性兵士らの行為を、銃後の側から支え、崇高化する役割を担っていたこと、女性画家らは「戦闘図」から排除され、「銃後図」を担っていたことが判明した。一方で、当時の代表的な女性洋画家が参加した女流美術家奉公隊(1943年結成)による共同制作品《大東亜戦皇国婦女皆働之図》(1944年陸軍美術展出品)は、男性の代替労働者としての女性を主題とし、「祈る女性像」や再生産活動を具現化した「母子像」は描かれず、一般的な「銃後図」の枠内には納まりきらない。銃後に関連したモティーフ への女性画家の囲い込みを逆手に取る形で描かれた、女性が協働し自立する「男性不在」の世界観は、「祈る女性像」や「母子像」の対極に位置し、近代国家の基盤をなす家父長制の建前からは否定されなければならない。しかし戦時下におけるジェンダー規範は状況に合わせて解釈された。そのため戦時国家は、現実には多くの女性を生産現場に動員した。奉公隊の女性美術家たちはこの戦時期のジェンダー秩序のゆらぎを鋭敏に感じ取り表象化したといえる。男性画家によって手掛けられた戦闘図の多くが国家秩序を遵守強化する方向で納まっているのに対し、《皆働之図》はもはや近代国家の意図するジェンダー秩序を越えてしまうところに存在している。
 本作品を 戦時文化に関与した女性美術家の視点から戦時文化、美術史、ジェンダー史の交差する場に置くならば、彼女らは戦時国家に協力するつもりが、女性美術家としての自分自身を含む近代日本の女性を規制してきたジェンダー秩序に納まりきらなくなった文化創造のエネルギーを 《皆働之図》に注ぎ、図らずも近代国家への大きな異議申し立てとして表明したととらえられるだろう。

研究報告3:「戦時下の日本の女性画家は何を描いたか−長谷川春子、赤松俊子(丸木俊)を中心として」
   報告者:小勝禮子

発表概要
 報告者は、かつて「奔る女たち 女性画家の戦前・戦後 1930−1950年代」(栃木県立美術館、2001年)と題 した展覧会で、戦後、歴史の忘却の中に埋もれてしまった、戦前から戦中期に活動した日本の女性画家(主に洋画家)の作品を集成してみた。その調査の中で問題点として浮かび上がったのは、戦前の女性画家をめぐる社会的制度であり、家父長制社会を背景にした教育制度で ある美術学校や画塾、発表システムである官展や美術団体における、著しいジェンダー不均衡の実態であった。
 そうした男性優位社会の中でも、当時の女性画家たちは、女性画家のみの美術団体を結成したり、女性だけのグループ展を開催したりなどして、団結して発表の場を確保し、自分たちの美術の研鑽を求める意欲的な活動をしていたこともまた、明らかになった。
 それでは、彼女たちが画家として活動を始めた1930年代末〜40年代の戦時下において、日本の女性画家はいかなる絵を描いていたのだろうか。本報告では、長く知られていなかった長谷川春子(1895−1967)による戦時中に描かれた絵画が発見されたのを機に、特に長谷川春子を中心に、三岸節子(1905−1999)、仲田 菊代(好江)(1902−1995)や赤松俊子(丸木俊)(1912−2000)など数人の女性画家をめぐって、彼女たちの戦中期の活動と、その作品を紹介してみたい。
 戦時下の日本の女性画家たちは、銃後の女性労働を描き、少年兵の訓練を描くことで、戦争を遂行する「大日本帝国」の国策協力をしていた。その意味では彼女たちの戦時下の活動は、どの程度の影響力を持ち えたかは疑問の余地があるが、戦争の一端を担ったとみなされるものだろう。男性画家に劣る存在として低い社会的評価に甘んじていた女性画家は、戦時下に何もしなかったのではなく、彼女たちが出来うる範囲で戦争協力に従事したのであった。なぜ女性たちがそうした戦争 協力にすすんで参加して行ったか、あるいは参加せざるを得なかったかを解明し、彼女たちの描いた絵画・挿絵が当時果たした役割や伝えた意味を読み解く必要があるだろう。戦時下の日本の女性画家の活動については、吉良智子氏による女流美術家奉公隊を中心とした綿密な先行研究があるが、それにいくばくか追記するものがあれば幸いである。
 なお本報告は、2010年10月韓国近代美術史学会主催の国際シンポジウム「韓国と日本の美術史における戦争とジェンダー」(於:ソウル大学)で報告したものに、赤松俊子(丸木俊)(1912−2000)の戦中 から戦後の絵画と、特に長谷川春子と比較した戦後の活動への継続と断絶について補筆したものであることをお断りしておきたい。

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第111回例会 2010年8月7日 於:港区男女平等参画センター・リーブラ 4階集会室3

研究報告1:「植民地朝鮮の文学・映画における「和服」の表象」
   報告者:森 理恵 (京都府立大学教員)

発表概要
 本報告は、日本植民地期の朝鮮における「和服」の表現を、当時の文学や映画などから収集し、その意味を明らかにしようとするものである。
 現在、「きもの」と呼ばれ、表記されることの多い「和服」は、儀礼服化の進行と歩調をあわせるように、「日本の心をあらわすきもの」「日本人だからきものを着たい」などの国粋主義的な言説が目立つようになってきている。本報告は、その淵源が日本植民地期の朝鮮にあると考え、それを検証しようとするものである。
 日本植民地期の文学や映画に描かれた「和服」のイメージは、今回、調査することのできた範囲では、1940年ごろを境として、変化していることが明らかになった。
 1940年ごろまでは、「和服」は、着用する人物の日本とのかかわりを示したり、ソウルなどの大都会のにぎやかさを演出するものとしてあつかわれている。ここでは「和服」は、日本や日本人の風俗のひとつとしてとらえられ、必ずしも国家としての日本と結びつくものではない。中国の風俗である中国服やロシアなどの風俗である洋服と同列のあつかいも見られる。
 これに対し、日中戦争の激化にともない「内鮮一体」が唱えられるようになる1940年以後、すなわち植民地期末期の「和服」は、単なる風俗を越え、日本国家と結びつき、日本精神をあらわす特別な衣服とみなされるようになる。とくに女性の「きもの」は、女性の韓服とともに、千人針や出征兵士見送りの場面などに使われ、「内鮮一体」の象徴となる。このように、1940年ごろを境として、日本植民地期の朝鮮における「和服」のイメージは変化したと考えられる。
 敗戦後の日本では、連合国の占領下において洋装・洋裁が進展するなかで、「きもの」はしだいに日常着として用いられることが少なくなり、儀礼服化していく。同時に、「きもの」の女性化もより顕著になり、占領軍に対しては、お土産品などの形で、過剰な日本性の象徴として「きもの」が使われることになる。植民地においてすでに先取りされていた「きもの」のイメージが、敗戦後の日本において、強化され、定着したと考えられるのではないだろうか。

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研究報告2:「明治浮世絵は海外出兵をどう描いたか―ジェンダーとエスニシティーの視点から考える」
   報告者:鈴木桂子

発表概要
 江戸から明治にかけての代表的視覚メディアである浮世絵は、明治になり、ポピュラー・アートからマス・アートへとその性質を大きく変容させていき、その中で、武者絵の伝統を継承しつつ、海外への出兵や近代戦というこれまでない題材を取り扱うようになった。本報告は、明治の浮世絵が、台湾出兵(1874)、壬午事変(1882)、日清戦争(1894)、日露戦争(1904)といった海外出兵をどう描いたかをジェンダーとエスニシティーの視点から具体的に読み解く試みである。その際、以下のような歴史的コンテクストに留意し、検討する。
 第一に留意したいコンテクストは、他者・異文化の情報を受け取った浮世絵を描く側の世界観、集団的自者・他者の考え方の時代的変遷についてである。外国人・異文化を描くということは、それを描く側の世界観・集団的自者としての立ち位置を無意識にせよ確認する行為でもある。江戸から明治にかけて浮世絵というジャンル(長崎絵、横浜絵、開化絵、新聞錦絵といったサブ・ジャンルを含む)に描かれた他者を、「大清人」、「紅毛人」、「唐人」、「異人」、「土人」、「人種」といったキーワードに注目し読み解き、それによってあらわれる世界秩序、即ち、カテゴリーと権力について言及する。これにより、日本人なりの解釈を加えたものであるが、西洋を中心とした世界秩序へ組み込まれていく過程が読み取れる。
 第二に留意したいコンテクストは、外国人・異文化との交流のあり方、それに関連した情報の様相の歴史的変化についてである。上述したような世界秩序の変化の中、海外出兵を題材にした浮世絵が、今までとは異なる立場でアジア各国やロシアの人々を敵として描き分ける必要に迫られたことに注目したい。古来、日本美術は、様々な異民族・来日した外国人を、多様な様式で描いてきている。そういった中で確立してきた外敵の伝統的表現法が、幕末の開国、文明開化を経て、どのように変化したかを検証する。また、渡来した外国人の圧倒的多数が男性であったこと、つまり、外国人女性についての第1次情報の量が圧倒的に少ない情況が長く続いた状態が、開国以降、外国人女性を描くということにどういう影響を与えたのかを論ずる。これにより、ジェンダーとエスニシティーに関する情報の質と量が、それらのイメージの形成に与えた影響について言及する。

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第110回例会 2010年6月13日 於:港区男女平等参画センター・リーブラ 4階集会室3

研究報告1:「明治期視覚文化から読み解く「横浜写真」の女性表象: 金幣写真を中心に」
   報告者:脇田美央(ハイデルベルク大学大学院・東洋美術史研究所)

発表概要
 本発表では、明治期土産写真(通称:横浜写真)の最盛期を担った日下部金幣(1841-1934)の写真にみられる女性の表象を、イメージの間テクスト性を念頭におきつつ、記号論的アプローチから分析することを試みる。横浜写真についての先行研究全般に特徴的である「外国人のまなざし」に依拠した論考とは一線を画し、具体的には写真のインデックス性の明治視覚文化にもたらした意義、女性の可視性をめぐる問題、可視化された特定の女性のイメージの日本近代視覚文化における位置づけなどの側面を取り上げ、金幣によりコード化された女性イメージを解読する。金幣の女性イメージを明治期視覚文化の文脈から再検討することで、先行研究にみられる横浜写真の「オリエンタリズム・自己オリエンタリズム」に代表される二分法的な解釈の枠組みから脱却し、より複層的な議論の可能性を提示したい。

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研究報告2:「明治期の広告と諷刺漫画にみる性の表象」
   報告者:林葉子

発表概要
 本研究では、明治期の新聞広告と諷刺漫画にみられる性のイメージを分析し、日清・日露戦争がジェンダー秩序の変容に及ぼした影響の一端を明らかにしたい。特に性病の表象に着目し、売薬広告、病院広告、化粧品広告の内容と、そうした広告との関連で描かれた諷刺漫画を中心に分析する。
 明治期の新聞広告において、性病に言及したものの割合は高いが、この時期には、性病薬や病院の広告だけでなく、化粧石鹸や化粧水の広告においても性病への言及が頻繁にみられた。開国の頃の日本の都市では、三十歳の男の約三分の一が黴毒に罹患していたという記録があるが、現在と比較すると、明治期の日本では、性病はきわめて身近な病であり、未だ梅毒の特効薬も登場しておらず、それらの性病に悩む人々をターゲットとする広告が、新聞に多数掲載されていたのである。また、そのような性病に関わる広告は、諷刺漫画の格好の題材となった。本研究では、その新聞広告と諷刺漫画にみられる性のイメージについて、ヴィジュアル・イメージと言説の双方を対象とし、とくにジェンダーに着目して、分析したい。
 その分析にあたっての着眼点の一つは、性病罹患者としてイメージされているのは、女か、男か、その双方か、という問題である。性病は誰の病であり、誰から伝染する病として表現されているのかを分析して、その変容の過程を追う。第二の着眼点は、性病のイメージと当時の道徳観との関わりである。そして第三の着眼点は、「薬」の広告と「化粧品」広告の分化の時期についてである。日露戦争前には、いまだ「薬」と「化粧品」の境界は曖昧で、「化粧水」が性病を治療しうるかのような広告表現がみられたり、化粧石鹸に黴毒や鉛毒の「消毒」効果があるかのような表現もみられた。またその同時期には、「化粧水」販売のターゲットは「男女」双方であった。しかし、日露戦争後になると、しだいに化粧品は「薬」とは異なるものとして、主に女性が用いるものとして表現されるようになる。
 このような新聞や漫画にみられるイメージの変化は、当時の一般民衆が抱いていたイメージの変化と近いものであったと考えられる。そして、当時の一般の人々が抱いていた性のイメージについて分析することによって、性病対策の「衛生」論に依拠していた当時の 公娼制度のあり方や、同じく「衛生」論と強く結びついていた「廃娼」の言説の、社会的な背景についても、部分的ではあるものの明らかにすることができる。

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第109回例会 2010年4月4日 於:世田谷男女共同参画センターらぷらす 研修室4

研究報告:「ジェンダーとクラスの視点から考える『当麻曼荼羅縁起絵巻』の意味と制作事情」
   報告者:成原有貴(ナリハラ・ユキ 学習院大学ほか非常勤講師) 

発表概要
 「当麻曼荼羅縁起絵巻」(光明寺蔵)は、阿弥陀の浄土世界を表す曼荼羅の縁起を描き表した、上下巻全六段からなる作品である。八世紀淳仁天皇の世、横佩大臣の娘という篤信の女性が出家し、阿弥陀や観音の化身と共に蓮糸製の曼荼羅を完成させ、やがて往生するさまが描かれる。本作品の制作について記す同時代史料は現段階では確認されておらず、制作事情・享受者の具体相は明らかでない。先行研究においては、絵の様式や詞書の書風から十三世紀頃の制作と推定され、同時期の当麻寺における曼荼羅信仰の興隆と関わり制作されたと推測されている。また、尼削ぎ姿の主人公のもとに阿弥陀が来迎する下巻最終段の場面が、女性往生のさまを絵画化した稀少な例として注目され、この場面の存在から、享受者を女性とする説が導かれた。だが、往生の場面に関心が集中するあまり、主人公が往生を遂げるまでの場面に関する分析が充分になされておらず、課題が残る。
 そこで、本発表では特に、曼荼羅の材である蓮糸の製糸および染糸の作業が描かれた上巻第二段・第三段をとりあげ、ジェンダーとクラスに注目する視点から、絵が何を見せているか分析し、絵を求めた享受者の立場を検討する。結論を述べるならば、絵には、女性達の製糸・染糸の作業が信心に基づく行為であること、また、阿弥陀が化現するのはほかならぬ主人公の女性のもとであることが、詞書の内容を超え、男性達との差異によって表現される。絵では、男女を問わず衆生を救済する阿弥陀の威光というよりも、むしろ、阿弥陀が主人公の女性のもとに現れ、彼女に寄り添い共に作業するさまを見せることに重点がおかれる。かような、主人公の貴族女性の信心や彼女と阿弥陀との結びつきを特化する絵の性質は、享受者が阿弥陀に深い信仰を寄せた高貴な女性である可能性を窺わせる。享受者の出自を推測させる、もうひとつの注目すべき点として、阿弥陀と主人公に協力する男性達のなかで、公卿のみが、阿弥陀や主人公と接点を有して描かれることを挙げたい。製糸作業の直前に位置する、阿弥陀と主人公の対面の場面には、明障子を挟んで公卿が一人おり、阿弥陀の言葉を聴き外部に伝達する役割を担う。だが、彼以外の上級貴族と異なる男性達は、協力者ながら、阿弥陀や主人公と隔てられ、阿弥陀の存在に気づいていない。つまり、公卿だけが間接的ながら阿弥陀の化現を知り得る者として描かれるのである。以上から、享受者を含む制作環境の中心が貴族社会にあるとの推測が可能ではないかと考える。

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第108回例会 2010年2月14日 於:武蔵大学8号館8504教室

研究報告1:「日本の「ファン/扇」: アメリカ人女性のジャポニズムとクレージーキルト1876-1910年」
   報告者:メガン・ジョーンズ[Meghen Jones](ボストン大学美術史学部博士課程)

発表概要
The American fascination with Japan had particular socio-cultural meanings for American women at the time of burgeoning emancipation. This paper considers the role of crazy quilts within the socio-cultural context of a gender-specific craze for Japan. Specifically, the compositional strategies and use of the fan as ubiquitous icon in crazy quilts will be analyzed in terms of the synecdochal relationship between “fan” and a feminine/ized “Japan.” To be “very daring” and “go boldly on,” as the author of an 1882 Harper’s Bazar article suggested was the zeitgeist of the crazy quilt trend, was also an essential part of women’s Japonisme of the era. By examining select examples of crazy quilts and contemporaneous visual and literary evidence from a large swathe of cultural sources, this paper positions crazy quilts as important signifiers of American women’s particular gendered engagement with Japan in the late nineteenth century.

 アメリカの日本に対する憧れは、19世紀から20世紀初頭に解放が進んだアメリカ人女性と深い関係がある。この発表では、日本への熱狂がジェンダー・スペシフィックである社会的・文化的なコンテクストの中で、クレージーキルトが果した役割を考察する。具体的には、クレイジーキルトによく見られる図柄である扇が構図上どのように用いられ、「扇」と女性的な/女性化された「日本」との間にいかなる代喩関係が見られるのかを分析する。1882年のハーパズ・バーザールの記事が、「斬新さ」と「大胆さ」はクレージーキルトの流行の時代精神であると紹介していたが、同時に、それは当時の女性によるジャポニスムの一翼をなすものでもあった。現存するクレージーキルトや、当時の視覚資料および文献資料を詳細に分析することで、クレージーキルトが、19世紀末のアメリカ人女性の日本への関与がジェンダー化されていたことを示す、重要なシニフィエであったことを提示する。

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研究報告2:「今、近代日本美術がどうアジアを描いてきたかを問うということ──豊田市美『近代の東アジアイメージ』展に寄せて」
   報告者:千葉慶(千葉大学ほか非常勤講師)

発表概要
 この展覧会は、副題にもあるとおり、日本近代美術がどうアジアを描いてきたかを統一テーマとする大規模な回顧展である。このテーマからも見て取れるとおり、本展は、サイードの『オリエンタリズム』以後、美術史に限らず人文社会諸科学の分野で盛んに行われてきた、ポストコロニアル研究を念頭に置いたものであり、同傾向の展覧会が本展以前に全くなかったわけではない。例えば、『東アジア/絵画の近代──油画の誕生とその展開』展(1999年、静岡県立美術館ほか)、『アジアのキュビズム──境界なき対話』展(2005年、東京国立近代美術館ほか)など何例か存在している。これらは、いずれも「アジア」という場における近現代美術の受容と展開を追ったものである。本展の最大の画期性は、これらがトランスナショナルな枠組みで展示がなされていたのに対し、あえてドメスティックな視座にこだわった点にある。これは一見奇妙な評価に思われるかもしれない。しかし、先行する展覧会では、日本以外のアジア諸国・諸地域のセクションでは、帝国主義侵略と不可分だった植民地近代化との葛藤が批判的に捉えられていたのに対し、日本を扱ったセクションでは西洋美術の受容が主で「帝国の美術」という政治性への考察が最小限となっていた。トランスナショナルな視点が仇となって、オリエンタリズム批判の切っ先が鈍っていたのである。
 本展があえて日本に対象を絞ったことは、わたしたちに改めてオリエンタリズムを帝国の側から検討するいい機会を提供した。また、個人作家規模ではなく、107作家・259作品に及ぶ規模でこれを展開した点で、これまでに類例のない画期的な試みとなった。
 本発表は、この展覧会を契機とした思索であり、改めて「オリエンタリズム批判」の意味を原理的に再考するものである。今、なぜ「東アジア」イメージを「オリエンタリズム批判」の視点から再考するのか。それを、単なる「知的流行」や「昔話」で終わらせることなく、現在の「東アジア」を再考し、オルタナティヴな「東アジア」を再想像するアクチュアルな契機とするために、どうすべきなのか。近代日本美術(史)における「朝鮮」表象の諸相を具体例としてあげながら、ここで今一度考えてみたい。

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第107回例会 2009年12月6日 於:世田谷男女共同参画センターらぷらす 研修室4

研究報告1:「作品の中でどのようにフェミニズムが再現されているか。−発表者の作品を中心として−」
   報告者:朴令順(パク・ヨンスン)(武蔵野美術大学博士課程)

報告者プロフィール
・武蔵野美術大学博士課程 作品制作領域3年(2009年現在)
・京畿大学校一般大学院 彫刻専攻卒業(韓国)
・京畿大学校美術学部 彫刻専攻卒業(韓国)

コンペ及び団体展
1999年 ナムヤンジュ彫刻公園内の作品設置(彫刻公園/チャンフン/京畿)

2001年 華城文化祭野外彫刻展(市立美術館/水原/京畿)
     第1回京畿大学校環境彫刻専攻野外展(京畿大学校野外展示場/水原/京畿)
     開川美術祭(文化会館/珍洲/京南)

2002年 新気流展(ソソン美術館/京畿大学校)

2003年 青少年のための彫刻展(青少年文化センター/水原/京畿)
     ソサボル美術大展優秀賞受賞(平沢湖美術館/京畿)
     2003 優秀青年作家展(ギャラリーガイア/ソウル)
     京畿造形会展(ソソン美術館/京畿大学校)
     優秀大学院生招待展(タンウォン美術館/京畿)
     新気流展(ソソン美術館/京畿大学校)

2004年 2004韓国美術展(セゾン文化会館本館/ソウル/5月19日〜25日)
     第6回韓国青年作家招待展(タンウォン美術館/京畿/5月28日〜6月2日)
     2004 大韓民国青年ビエンナーレ(テク文化芸術会館/京南/9月1日〜12日)
     ‘通りー芸術と会う’設置展(社団法人水原芸総/水原/京畿/9月10日〜12日)

2005年 京畿造形会展(ソソン美術館/京畿大学校/1月18日〜24日)
     第7回韓国青年作家招待展(タンウォン美術館/京畿/5月27日〜31日)
     京畿大学校彫刻専攻教授招待展(ソソン美術館/京畿大学校/6月8日〜14日)

2008年 武蔵野美術大学大学院博士後期課程 研究紀要 2008 no.02

個展
2004年 第1回 ギャラリーオル/ソウル
2005年 第2回 ハンガラム美術館·芸術の殿堂/ソウル
2005年 第3回 代案空間·目/水原
2008年 第4回 ASK? Art space kimura /京橋/日本
2009年 第5回 SPACE/ANNEX /日本橋·人形町/日本

経歴
新気流会員、京畿造形会員、専業美術作家会員、京畿大学校講師、イメージ&ジェンダー研究会会員

発表概要
 何年か前に、「フェミニズムというものはあるのだろうか。」という疑問を抱いたことがある。現在私は、フェミニズムとはこの世の中で自分を表現している芸術家達にとっての幸せな人生を実現するための道具だと考えている。社会的に女性、芸術家、そして主婦としての役割を全うしなければならない私にとっては、それぞれの役割から生じる葛藤があった。これまでにフェミニズム運動を展開してきた人々の葛藤も、同じものであったろうと思う。女性に対する差別が存在し、芸術活動における消極的表現(家父長制度の下で教育を受けてきた私に対して、積極的な表現が制限されること)があり、主婦としての不満があった。私の生まれ育った母国韓国では、個人的には性的抑圧だとか平等ではない待遇を受けたと感じたことはなかった。しかし、恐らく私自身が気付くことができないほどに私の中には家父長制度が深く侵透していたと思われる。幸いにも、こういったことを私は芸術作品を通して発散することができたが、私の作品における表現は一般に考えられているフェミニズムの流れをくむものと言えるであろう。知らず知らずの内に身に付いていた家父長制度的体験の名残りと女性性とが、どのように作品の中に反映されているのかを探究したいと思う。

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研究報告2:「映画における京劇の異性装について」
   報告者:張小青(チョウ・ショウセイ)(名古屋大学博士課程)

報告者プロフィール
 所属:名古屋大学国際言語文化研究科後期課程
 専門:映画&演劇研究、表象研究、ジェンダーとセクシュアリティ研究

現在までの活動
  岷撚茵Φ劇・異性装表現」、『多元文化』第9号、2009年3月、p141−p155
 第二回アジアクィア映画祭(2009年)での字幕監修
 1覗作品:「LGBT運動における『アライ』についての考察――2009年アイダホ in 名古屋を中心に」

発表概要
 中国の京劇が海外に広く知られる上で、有名な女形、梅蘭芳の存在は特に重要である。彼の外国公演をめぐって交わされる、中国文化への視線やナショナリティに関する議論は今にいたるまで続いている。梅蘭芳の引き起こした文化現象とは異なり、今日の映画における京劇の女形像は  そのプロットや文化観、美の観念などと関連し、様々な意味を付加されるなかで、消費文化の一つとなっている。
 異性装を扱う映画は現代において数多く作り出されている。今日の映画に登場する異性装は、かつて演劇に見られていたような異性装と同様の効果をもたらすものとなっている。その効果とは、複数のジェンダーを解釈する可能性によって、観客の多様なエロティシズムを喚起することである。 また、男女を二項対立的なものと見なすジェンダーのシステムそのものを多様化し、ジェンダーの境界を侵犯する働きも見られる。
 本発表は京劇の女形を主人公とする二つの映画『さらば、わが愛――覇王別姫』と『エム・バタフライ』に見られる異性装の表象についての考察に基づき、近年の映画作品において異性装表象がどのように見られるかという文化的コンテクストを踏まえながら、京劇における異性装の伝統が同性愛文化と密接に関わっているという点と、その表象が映画の物語を通して新たな意味や可能性をもつという点を明らかにする。そのことにより、異性装によって表象されるジェンダー、セクシュアリティと社会文化との関わりを追求していきたい。

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臨時例会 2009年10月4日 於:明治学院大学 3号館3202教室

研究報告:「エラ・ベルクマン=ミヒェル――写真、映像、そして〈新しいフランクフルト〉」
   報告者:マルタ・カスパース(フランクフルト歴史博物館 写真部門学芸員)

 本報告では女性アーティスト、Ella Bergmann-Michel(1895-1971)の写真および映像作品をとりあげ、〈新しいフランクフルト NEUE FRANKFURT〉グループの文化や建築との関わりを紹介する。彼女のダダ的で構成主義的な作品は、バウハウスをはじめ、クルト・シュヴィッタースやハンナ・ヘーヒ、ラーズロ・モホイ=ナジ、ヴィリー・バウマイスター、ヤン・チホルトら前衛たちの土壌から生まれたものである。
 フランクフルトは、1920年代半ば、新興の機運にみちた都市だった。バウハウスの理念に同調しつつ、〈新しいフランクフルト〉の建築家や芸術家集団は大規模な集合住宅(ジードルンク)での実験的で新しい住居形態を実現したばかりでなく、基本的な都市文化の芸術的かつ社会福祉的な改造を計画したのである。この時期に制作した写真や映像のなかでエラ・ベルクマン=ミヒェルは、女性アーティストとして、フランクフルトにおける公共とプライバシーの関係、社会状況、労働や住宅事情などを実験的な手段をもちいて調査している。都市生活の空間的、時間的な構造を探っているのである。彼女が行なった都市と自然との分析において重要なのは、知覚・認識のプロセスを可視化することであり、造形上の実験と社会状況の表現とを結び付けることである。前衛の映像作家として彼女は、とくにロシアの映画監督ジガ・ヴェルトフ(《Entuziazm》)やジョリス・アイヴンス(《雨》)と共同制作しており、それらの作品をフランクフルトで上映していた。しかし彼女は、ナチスによって迫害を受け、制作することも作品公開することも禁じられてしまったのである。

報告者プロフィール
 フランクフルトで中世・近代史、社会学、ドイツ文学を学ぶ。1989年よりフランクフルト歴史博物館の写真部門主任、および写真史・文化史・女性史部門の展覧会キュレーターをつとめ、写真史・写真保存・写真の版権に関する研究会、講演会、セミナーなどを企画。
 写真専門誌『Rundbrief Fotografie』の共同編集人。フランクフルト大学講師。1999年より日本での研究プロジェクト「戦時下の日独の女性雑誌におけるプロパガンダ写真と女性像」に携わる。

展覧会プロジェクト:産業時代の労働と生活(1985)、第二の皮膚――下着の歴史(1988)、ワルター・コルプ 1902-1956 (1992)、フランクフルトがモードをつくる(1999)、マインの大都市(2004)、エリーザベット・ハーゼ――フランクフルトの女性写真家(2005)、エラ・ベルクマン=ミヒェル:写真−映画−女友達(2006)、時間/空間/イメージ――ヴュステンロート基金の記録写真10年(2007)、68年世代(2008)、フランクフルト乗り換え――中央駅の顔(2008)、リーゼロッテ・シュトレロー(2009)

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特別研究会 2009年9月13日 於:神戸市立小磯記念美術館

研究報告1:「絵を描く『娘たち』を育てる:赤艸社と近代美術教育」
   報告者:山崎明子

 本発表は、この夏開催されている「亀高文子とその周辺」展に併せて、亀高文子が主宰してきた赤艸社女子絵画研究所という洋画教育機関を取り上げながら、近代日本において女性が美術を学ぶことがいかなる意味を持ち得たのかを明らかにしようとするものである。
 日本の美術教育の歴史において、長い間打ち捨てられてきた事柄がある。それは、女性が「美術教育」と如何に関わり、如何に「美術」を享受してきたかという歴史である。女性たちは確かに近代学校教育の中で「美術」「図画」「工作」を学んできた。しかし、その歴史は男性たちの美術教育とは明らかに異なり、女性には女性に「ふさわしい」美術教育が与えられてきたことは、これまでの歴史研究の中で不可視化されてきた。このジェンダー化された美術教育の在り方こそが、女性と美術をめぐる問題系のベースにあり、そのことなしに女性と美術の問題系は解けないとも言えるだろう。
 こうした女性と美術をめぐる問題を背景としなければ、実は亀高文子が設立した赤艸社女子絵画研究所の歴史的意義と社会的役割を理解することは困難である。赤艸社は神戸という都市において、経済的な豊かさと西洋文化を柔軟に受け入れていく階層の中で、まさに女性が美術(特に油彩画を中心とする洋画)を学ぶために設立され、若き女性たちの美術活動の場を創造してきたことで知られる。近代美術教育のジェンダー枠組みが決して女性に対して親和的でない中で、また娘に高い教育を与えるということが普遍的な価値を持ち得ない戦前の日本社会において、一定の社会階層に限定されていたということを留保した上でも、その意義は極めて大きい。
 本発表では、近代日本の美術教育が持つジェンダー構造を美術教育の歴史から明らかにし、その上で赤艸社の活動が持つ意義に言及する。「絵を描く『娘たち』を育てる」ということが、近代社会における文化的、経済的、教育的背景と如何に関わり、いかなる価値を生み、そして如何に「美術の歴史」において周縁化されてきたのかを論じる予定である。

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研究報告2:「女性日本画家と美術教育:近代大阪画壇の場合」
   報告者:小川知子(大阪市立近代美術館建設準備室学芸員)

 明治末から昭和初期にかけて、亀高文子をはじめとする洋画家は、女性画家の中では少数派で、伝統的な絵画形式である日本画を描くほうが女性には一般的だった。日本画は生花や茶道と同様、子女の教養や花嫁修業の一つの選択肢で、とりわけ商都大阪では裕福な商家の娘や妻が地元の画塾で稽古した。
 東京では女子美術学校が明治33年(1900)に開校して現在の女子美術大学に発展するが、大阪の関西女子美術学校(昭和9年[1934]設立)は求心力を発揮しないまま戦時下に閉校した。大正13年(1924)に開かれた共学の大阪美術学校などを除くと、洋画も日本画も、個々の画家が運営する画塾が主たる勉強の場だった。日本画を学ぶ女性に人気が高いのは、男性画家では北野恒富や庭山耕園の塾で、女性では島成園や木谷千種の画塾が有力だった。文展や帝展で脚光を浴びた女性画家の塾が賑わい、昭和期には生田花朝や融紅鸞の塾も人気を博した。
 なかでも木谷千種が大正9年(1920)に組織した「八千草会」は、女性による女性美術教育の本格的な実施例として注目に値する。千種は菊池契月門下で研鑽を積みながら、結婚と同時期に画塾を設立し、女性同士の連帯を意図し、花嫁修業を超えた美術教育の提供を試みた。千種自身も文展、帝展入選の常連作家だが、塾生の中からも入選者を輩出する。八千草会は後に塾制度を研究所に改め、大阪だけでなく名古屋などでも塾展を開催した。
 一方、島成園は大阪の女性画家の中では先駆的だが、結婚を契機に自身の画業が行き詰まり、画塾生の業績も振るわない。後進の女性達にとって、成園は男性社会への進出を果たして世間的な注目を浴びた女性画家の象徴的存在であり続ける。
 本発表では、木谷千種の画塾を例にとりながら、女性画家による女性向けの日本画教育を考察し、女性画家による画塾の限界や問題点や、男性中心であった当時の画壇における女性画家の位置づけを改めて探りたい。

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テンプル大学ジャパンキャンパス共催特別例会 2009年7月19日(日) 於:テンプル大学ジャパンキャンパス麻布校舎2階 212/213号教室

研究報告“Mentally Digested Bits of Universality in the Shape of Woman”: Alfred Stieglitz and the Female Nude(「普遍性の熟考された断片としての女性のかたち」:アルフレッド・スティーグリッツと女性ヌード)
  発表者:エリザベス・アン・マッコーリー(プリンストン大学)
  コメンテーター:脇田 美央(ハイデルベルク大学)

 19世紀写真史(特にフランス写真史)研究の第一人者の米国プリンストン大学のアン・マッコーリーさんをお迎えし、特別例会として7月19日(日)に講演会を開催いたします。スティーグリッツや写真におけるジェンダーに対する関心をおもちの会員の方も含め、皆様ぜひふるってご参加下さい。

※エリザベス・アン・マッコーリー(Elizabeth Anne McCauley)
 米国プリンストン大学教授。専攻は西洋近代美術、写真史。主要著書に『Industrial Madness: Commercial Photography in Paris, 1848-71』(Yale University Press, 1994)、『A.A.E. Disdéri and the Carte de Visite Portrait Photograph』(Yale University Press, 1985)などがある。

<英文要旨> Among the most celebrated photographs that Alfred Stieglitz ever took were the series of nudes of Georgia O'Keeffe that he began in 1918. However, these radically fragmented compositions represented the culmination of thirty years of thinking about women, sexuality, and photography. This talk will trace Stieglitz's confrontations with the undressed female body between 1887 and 1918 and show how his photographic experiments reflected his assimilation of psychoanalysis, cinematic styles, and contemporary avant-garde art, as well as his willful rejection of American puritanism and materialism.

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第103回例会 2009年7月5日 於:港区立男女平等参画センター「リーブラ」4階 集会室2.3

共同研究発表「乳房の表象」
  発表者:新保淳乃、池川玲子、山崎明子

 今回の例会では、発表者3人が問題を共有してきたテーマである「乳房の表象」について考えたい。本発表の意図は、乳房の表象を網羅的に見ることではなく、社会の中で乳房を表象する/しないことが、いかなる意味を持つのかを問う一つの足がかりを作ろうとすることにある。このイメージ&ジェンダー研究会の中で、多くの会員の皆さんに議論の場を開き、問題を共有したいと考えている。
 さて、木村朗子氏による『乳房は誰のものか?』という問いと、その日本中世文学からの回答は、乳房が生殖とセクシュアリティの表象として時代・文化によって異なってきたことを明らかにするとともに、女性が乳房について語ること・議論すること自体が、ジェンダーの政治学として今なお意味を持つことを示した。
 乳房は女性であることの表徴とされ、母なるものの象徴とされ、性的なイメージとして消費され、ウィメンズ・リブのコンテクストでは女が語るものとされてきた。誰が何のために乳房を描き、誰が何のために視覚化された乳房を見るのか、乳房のイメージはかつてどのように受容され、今どのように受容され続けているのか、そしてどのように乳房の表象が生産され続けているのか。表象としての乳房は、現在の私たちがジェンダー、セクシュアリティ、母性を考える上で不可欠であろう。

 今回は、池川玲子、新保淳乃、山崎明子の三人が、異なる時代と文化の中で表象されてきた乳房の表象について論じる。異なるコンテクストの中ではあるが、乳房という共通項を設定することによりジェンダーの政治性が浮かび上がらせたいと考えている。
 新保は近世イタリアのペスト流行に際して創出された絵画表象を取り上げ、聖母マリアとペスト犠牲者の乳房/授乳のイメージを危機の段階に応じて使い分ける政治学を考察する。救済祈願と秩序回復という異なる文脈に応じて、誰の乳房がどのように表象され、いかなる社会的意味を担ったかを考えたい。
 池川は、15年戦争下の日本製映画を素材とする。この時期、銀幕にはさまざまな民族のさまざまな「授乳する/しない」母親像が描き出された。これらのイメージの展開を通じて、他国支配を正当化するためのメッセージが、庶民の娯楽であった物語映画に巧妙に練り込まれていく経緯を検討し、戦争におけるイメージ利用の一面を明らかにする。
 山崎は近年流行しているピンクリボンキャンペーンの広告図像を取り上げる。乳ガン撲滅を目指したこの運動の中で繰り返し表象される乳房イメージは、巨大資本と人を動かし、現代メディアの中に乳房の表象を蓄積している。今、乳房のイメージを視覚化することの意味を考える材料にしたいと考える。

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第102回例会 2009年4月5日 於:らぷらす(世田谷区男女共同参画センター)

ビデオ・アート作品上映
   報告者:中村明子(映像作家)
   コメンテーター:木方幹人

 2008年4月26日から5月5日にかけてパフォーマンス・フェスティバル「小東亜共栄軒*1」が開催された。報告者はこの撮影を担当し、そのなかからヴィーナス像をテーマとした段英梅(中国出身ドイツ在住)、民主化が難航するビルマの現状を訴えたチョーイーティン(ビルマ)、ドラム缶に入って転がされるという行為をした田上真知子(日本)と、3人の女性アーティストによるパフォーマンスを映像化した。本報告ではこの3作品の上映を中心とし、各パフォーマンスと映像との関係性を振り返ると共に、これらのアーティストを撮影することで感じた「放射体*2としての被写体」(=撮影行為の受信的側面)について、ジェンダーの視点をふまえて考えてみたい。

*1 パフォーマンス・アーティスト荒井真一、田上真知子らが企画。韓国、シンガポール、タイ、中国、日本、ビルマからアジア出身アーティスト16人が参加し、東京、愛知、富山にて開催された。上記アーティストのプロフィールおよびフェスティバルの記録は、
こちらでご覧いただけます。

*2 この言葉については、パフォーマンス・アーティスト達との会話のほか、例えば『アンチ・スペクタクル-沸騰する映像文化の考古学』(東京大学出版会 2003年)第5章「幽霊のイメージと近代的顕現現象」におけるトム・ガニングの、「あらゆる物体・場所・人間は絶えず自らのイメージを放射し続けているということである。(中略)それらのイメージは、ものの原-形相、つまりプラトン的イデアリズムにおける唯一真なる現実を表象しているというよりは、むしろ一種の排泄物のように、常に投げ捨てられているものなのである」(p.183)といった記述からも示唆を得ている。

※中村明子氏の過去作品の一部はYouTubeでご覧いただけます。ご参照ください。

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第101回例会 2009年2月1日 於:らぷらす(世田谷区男女共同参画センター)

研究報告1:「1950〜60年代の日本で活躍した女性アーティスト」
   報告者:Maren Godzik(マーレン・ゴツィック)(ドイツ日本研究所)
   コメンテーター:小勝禮子

 戦後の民主化、男女平等教育化の流れで、戦前女性にとっては殆どアクセス不能であった美術界が開かれ始めた。しかしながら、戦後に活躍し、名の知られた女性アーティストは数少ない。女性アーティストはどのような壁にぶつかっていたのだろうか。
 本発表では、戦後美術界における女性アーティストにとっての障害の中でも、特に多大な影響力を持った美術批評のあり方を検討する。1950〜60年代に日本で活躍した女性アーティスト達は美術批評においてしばしば、作品そのものよりも"女性"であることを強調され、"女流画家"としてカテゴライズされていった。女性アーティストは美術界の本流から疎外されていたと言える。
 次いで、その障害を乗り越え広く知られるようになった女性アーティストを見ていく。本発表で対象となるアーティストは、いわゆる前衛美術グループのメンバーであった田中敦子、山崎つる子、田部光子らである。前衛的なアーティストグ ループには男性アーティストにとっても、女性アーティストにとっても特別なダイナミクスがあったので、それについても言及したい。数少ないケースゆえに、 理論化、一般化は難しいが、彼女たちのアート活動から女性アーティストの成功のヒントを得ることが出来ると考える。

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研究報告2:「中国現代美術における“女性芸術”とは−第7回上海ビエンナーレをめぐって−」
   報告者:石田留美子(東京都写真美術館)

 市場経済の盛り上がりと共に全盛期を迎えた「中国現代美術」において“女性芸術” とは何であったのか。
 そもそも、中国現代美術を語るなかで、1985年に全国的に起こった美術運動「‘85美 術新潮」や1989年にポンピドゥー・センターで開催された「大地の魔術師たち」展に 出品した黄永●(※●は石+氷)(ホワン・ヨン・ビン)、1999年にヴェネツィア・ ビエンナーレで国際金獅子賞を受賞した蔡国強(ツァイ・グゥオチャン)や国際的に 活躍する美術評論家、キュレーターなど、中国現代美術を牽引してきたのは男性たち であった。対して、林天苗(リン・ティエンミィアオ)、尹秀珍(イー・シゥチェン) 、崔岫聞(ツィ・シュウウェン)といった女性アーティストたちは「女性芸術」とい う枠組みの中で紹介されることが多かった。だがしかし、昨今の中国現代美術状況に おいては、沈遠(シェン・ユェン)のように数多くのビエンナーレに出品する“ビエ ンナーレ・アーティスト”という新しい枠組みのなかで、性別や国籍、年代を超え国 際的な活躍をとげるアーティストの出現が目立ってきている。
 以上の状況を、昨年9月に開催された第7回上海ビエンナーレ「快城快客 (トラン ス・ローカル・モーション)」時に独自に行った調査および画像を中心に、現代中国 の文化的特性および曖昧で未知な要素が強い「中国現代美術」を読み解き、その現状 や現代中国における女性芸術の姿を明らかにしていきたいと思う。

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第100回例会 2008年12月7日 於:リーブラ(港区男女平等参画センター)

研究報告1:「明治から大正中期における〈少女画〉のあり方をめぐって」
   報告者:今西彩子

 本発表は、明治から大正中期にかけて、雑誌の表紙絵と挿絵に表われた〈少女画〉のあり方を検討しようとするものである。
 そこでまず、1880年代から1890年代までの少年雑誌、『少年園』『小国民』 『少年世界』に「挿絵」として描かれた少年・少女画を分析し、1880年代末から1890年代半ばまでの〈少女画〉のあり方を考察する。
 さらに、1901年に創刊された最初の女学生向け雑誌であった『女学世界』、また1908年に創刊された『少女の友』を大正中期までにおいて解析し、その中で描かれた少女像のあり方をみていく。
〈少女画〉とはその語義とおり、少女を描いた挿絵の図像のことを指す。
〈少女画〉は、明治30年代において「少年」から分離独立した「少女」が前景化されたと共に、少女向け雑誌の表紙絵や挿絵を媒介にさらなる広がりをみせた。特に、大正後期から昭和前期においては爛熟期を迎えた。
 本発表における主眼は、〈少女画〉の嚆矢ととらえられる明治中期頃におい て、挿絵として描かれた〈少女画〉が、西洋風を意識した写実性・現実性において特徴的であったということである。
 また、1903年以降のアール・ヌーヴォーの積極的な受容は、そこに描かれた少女たちを快活的に描きせしめ、花の図像と少女像に統一的な意味を持たせるようになったところに、その影響をみていく。さらに、アール・ヌーヴォーの日本的解釈に、竹久夢二による抒情的な趣向を加味し成立した「夢二式」の〈少女画〉が、爆発的な勢いでもって1910年代の〈少女画〉に、いかに影響を与え、拡散していったのかを検討する。

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研究報告2:「蝶々夫人の政治学――イメージの交渉と循環」
   報告者:嶋田直哉(フェリス女学院中学校・高等学校教諭)

 プッチーニ『蝶々夫人』(1904)といえば「ある晴れた日に」ピンカートンが帰ってくるのをひたむきに待ち続ける蝶々さんの一途な姿が作品の主眼となっている。確かにここから支配する西洋(男性)と従順な日本(女性)といった構造を読み取ることは容易なことだが、むしろ問題はそのオリエンタリズム的構造を前提としながら様々な領域で受容、変形されてきた事実だろう。
 本発表ではこのような視座から『蝶々夫人』の特にピンカートンの帰港を知った蝶々さんが夜通し待ち続ける第2幕第1場〜第2場の台本を確認することから始めたい。そしてこの場面がオペラ上演に際してどのように演出されるのかを映像を通して検証する。また同時にこのような「蝶々夫人」のイメージがオペラ以外の他=多領域にどのような形で交渉/循環していくのかを検証してみたい。
 プッチーニの甘美な旋律に身をゆだねることは確かに快楽にちがいない。しかし問題はその快楽ゆえに隠蔽されてしまう〈物語〉だ。様々な権力の交差に位置するこの作品を9・11後の現在においてどのように向き合うべきかを考える。
 なお、本発表は論の構成上、昭和文学会第38回研究集会(2006・5・13)及び2007年度日本演劇学会全国大会(2007・6・24)の内容と一部重複する点があることをあらかじめお断り申し上げます。

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第99回例会 2008年10月5日 於:男女共同参画センターらぷらす(北沢タウンホール9階〜11階)研修室4

研究報告1:「現代中国における広告メディアとジェンダー表象分析:日本のジェンダー・イデオロギーの流通過程をめぐって」
   報告者:上村陽子

 本発表は、修士論文「現代中国におけるメディアとジェンダー表象分析:改革・開放以降のジェンダー規範の再編成をめぐる一考察」をもととし、特に「日本→中国」という構造をもつジェンダー・イデオロギーの流通過程を再考しようとするものである。さらに、それが「グローバル化」、「近代化」という名の下で、中国でどのように受容され再生産されていくのか、そうした文化実践の様相を検証していく。主な分析対象は1980年代の中国における新聞広告で、中でも家電広告に着眼しており、そこでの日本と中国それぞれの「主婦像」や性役割イデオロギーの表象を分析する。

 1980年代以降の日本におけるメディアとジェンダー研究では、欧米による「文化的帝国主義」と呼ぶべき現象に対しての批判がある。女性の笑顔や身体が広告に用いられることで、それらは道具化し品評の対象と化す。これは欧米諸国の文化を背景としており、「欧米(とりわけアメリカ)を基盤とする多国籍企業によって提示された、画一的な価値基準が、世界の各地に伝播され(井上:p10)」ていることなどが指摘されている[i]。また、近年のグローバリゼーションとの関連による広告研究では、日本の化粧品広告での白人モデルの多さは「一方においては多額の広告費をかけた欧米資本の企業広告が西欧美の普遍主義を浸透させ、他方においては日本の女性がそれらの価値・情報・商品を消費することで逆に資本主義システムを維持・正当化しているという関係にあることを映し出している(北九州市立男女共同参画センター"ムーブ":pp304-305)」ということが指摘されている[ii]。このような批判は主に美容関係の広告に対してなされたものだが、ここで指摘される西洋中心主義的な価値観は他の商品広告(例えば家電広告)にも表れている。本稿の分析対象である1980年代の中国の広告を見ていくと、そうした西洋基盤の価値がいかにも日本「独自」のものとして内面化され中国の広告へと流通していく過程が浮かび上がってくる。さらに、その過程では、日本の家電そのものが「近代化」の一つの指標としてブランド化されることで、同時にその広告に描かれる「主婦像」や「家族像」もまた品評の対象とみなされている。

 このようにテクスト内での多様な相互性によって広告イメージは効力を発揮し、ここにはジェンダー・イデオロギーの「普遍化」とも呼べる現象が見出せる。本発表では、この「普遍化」のメカニズムにも着眼しつつ、それに対抗するものとしての中国独自に再構成されていく表象にも触れていきたい。

[i] 井上輝子・女性雑誌研究会、1989、『女性雑誌を解読する COMPAREPOLITAN:日・米・メキシコ比較研究』、垣内出版。

[ii] 力部由美、2005、「広告は男女共同参画推進の媒体となりうるか:ジェンダーとグローバリゼーションの視座に立って」、in北九州市立男女共同参画センター"ムーブ"、2005、『ジェンダー白書3:女性とメディア』、ムーブ叢書、明石書店:pp300-319。

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研究報告2:「ロシア絵画における女性の「針仕事」と「読書」について」
   報告者:川島 静

 ロシア近代絵画における「針仕事」と「読書」のモチーフの起源を、中世のイコンの受胎告知図で聖母マリアが手にする持ち物にたどり、女性史上でのその意味を考察する。

 キリスト教において「受胎告知」は「キリストの復活」と並ぶ二大神秘であり、初期キリスト教美術においても受胎告知図が描かれたが、そこでマリアが手にしているのは、多くの場合糸紡ぎのための紡錘〔つむ〕であった。しかし西欧では8世紀ごろから、紡錘は次第に姿を消し本が主流になっていく。これは神学上のマリアの位置づけが、労働をしている女性から聖書研究に没入する「学識ある女性」へ変化したことを示唆している。一方東方教会圏では、その後も紡錘の伝統が長く守られ、本が描かれるようになるのは16世紀になってからであった。

 近代ロシアの絵画においては、トロピーニンやヴェネチアノフが一般の女性の日常から画題を選択し、糸紡ぎや針仕事のモチーフを採用した。これは、東方的マリア像の伝統に接続しつつ、ロシア民衆の理想像を創出するのに寄与したと考えられる。さらに19世紀後半以降にはコロヴィンらが針仕事を描いている。その段階では、このモチーフは上記の伝統の延長線上で、近代的な家族制度のもとで女性の活動を家庭領域に限定するイデオロギーとして機能することになる。

 一方、近代の西欧では印刷技術の普及、識字層の拡大、さらには小説の爆発的流行もあって、女性が読書するという習慣が新たに生まれた。「読書する女性」は、女性解放の象徴として社会の中で危険視されつつも、受胎告知図における本を手にしたマリアのイメージを取り込みながら、「新しい女性」の肯定的な像を創出するのに寄与していた。ロシアでも19世紀後半には移動展派のクラムスコイやゲーが、20世紀にはマリャービンやヤブロンスカヤが女性の読書図を描いている。このことは、当時のロシア社会において女性が知的領域へ進出する要求を高めていたことの、ひとつの指標である。

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第98回例会 2008年8月3日 於:男女共同参画センターらぷらす(北沢タウンホール9階〜11階)研修室4

研究報告1:「<キャンプ>とはなにか −ドラァグ・クィーンのインタビューから−」
   報告者:竹田 恵子(お茶の水女子大学 博士後期課程)

 <キャンプ(camp)>とは、『セクシュアリティ基本用語辞典』によると「華やかな美的過剰と皮肉味のきいたユーモアという側面を併せ持った感性を指す言葉」(Evans 2006:55)であるとされ、同性愛の文化と密接な関わりがあるとされてきた。その後スーザン・ソンタグが「<キャンプ>についてのノート」において取り上げて以来(Sontag 1964)、<キャンプ>には、さらに広く大衆文化の領域も含まれるとされた。そして1990年代以降からは規範の攪乱という側面から注目されたものの、<キャンプ>の定義に関する議論はいまだ続いている。

 <キャンプ>に関する研究は、海外では文化研究やクィア批評などの立場から、論文集が出版されているほどである。しかし、<キャンプ>という言葉をよく使用する当事者からの視点を重視したものは、ニュートンのドラァグ・クィーンについての調査研究以外見当たらず(Newton 1972)、議論は十分行われていないといえる。

 そこで筆者は、当初から<キャンプ>概念の外延部を設定せず、フィールドワークおよび聞き取り調査から日本の京阪神圏において<キャンプ>という言葉を認知しよく使用する当事者たちが、どのように<キャンプ>を捉え使用しているのかに焦点を当てた。
 当事者における<キャンプ>の捉え方はさまざまであったが、本報告では、とくにジェンダーやセクシュアリティの規範に疑問を呈するという側面についてを取り上げる。

参考文献
EVANS,Alex エヴァンス,アレックス
2006 日本語訳「キャンプ」イーディー,ジョー(編著)『セクシュアリティ基本用語辞典』金城,克也(訳)東京:明石書店:55-56.

NEWTON,Esther ニュートン,エスター
1972 Mother Camp Female Impersonators in America with a New Preface,Chicago and London:The University of Chicago Press.

SONTAG,Suzan ソンタグ,スーザン 
1964 “Notes on camp”Partisan Review,s.l..
1971 日本語訳「<キャンプ>についてのノート」高橋,康也(訳)『反解釈』東京:竹内書店新社. 

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研究報告2:「ブロンズィーノ作《フィレンツェ公妃エレオノーラ・ディ・トレドと次男ジョヴァンニの肖像画》の図像解釈」
   報告者:太田智子(千葉大学人文社会科学研究科 博士前期課程2年)
   コメンテーター:新保淳乃

 本発表は、16世紀フィレンツェ公国の公爵コジモ一世(1519-1575)の妃エレオノーラ・ディ・トレド(1522-1562)の表象とその意味について考察しようとするもので、その対象として、アーニョロ・ブロンズィーノ作《公妃エレオノーラ・ディ・トレドと次男ジョヴァンニの肖像画》(1545)を分析する。この肖像画は、公妃の身につけている衣服の豪華さと、その表情の「冷たさ」によって、他のいかなる肖像画よりも目を惹き付けるものがある。
 肖像画とは、この絵が描かれた16世紀には、モデルの衣服や持物、姿勢、表情などによってモデルの身分を示し、権力者にとっては、権力を表す手段であったため、公妃の表象を研究するには、肖像画を分析することが最善の方法である。フィレンツェ公国は、一代目フィレンツェ公アレッサンドロが1530年に樹立したもので、それ以前のフィレンツェは共和制であった。そのため、二代目フィレンツェ公となったコジモ一世の時代(1538-64)は、まだ共和制から君主国家への体制の移行期にあったと云え、そうした状況下で、君主が権力を示すのに用いた文化政策の一つである肖像画に課した機能は大きかったと考える。
 本発表では、この肖像画が制作された社会的状況および文化的環境を踏まえた上で、西欧における織物や文様の歴史からエレオノーラが身につけている衣服の意味・価値を探り、それがどのように生産され、それを肖像画で着る事にどのような政治的意味があったのかを明らかにする。

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第97回例会 2008年6月8日 於:港区男女平等参画センター リーブラ

研究報告:「十代女子文化を再考する----意味がないのが意味がある? 趣味の追求と生き残り戦術」
   上映とおはなし:根来祐[ねごろゆう](映像作家)
   ゲスト:水島希[みずしまのぞみ](東大情報学環交流研究員)

※今回は映像作家の根来祐さんを中心に上映とトークの会を行います。
 会場との活発な論議を予定していますのでお気軽にご参加ください。

・趣旨
 映像を通して女子コミュニティーを撮り続けている映像作家根来祐と、「今月のフェミ的」(インパクト出版会)などで活動している水島希が自己の体験を通して大切にしてきた『十代女子文化』を振り返りつつ、日本で自然に発生してきた天然フェミニズムを再考します。当日は根来祐の作品のダイジェストを上映します。
 女とエロと"やおい"の関係や10代女子の創作活動全般についてトークします。幅広い方のご参加をお待ちしています。

(参考)根来さんのホームページ

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第96回例会 2008年4月6日 於:男女共同参画センターらぷらす(北沢タウンホール9階〜11階)研修室4

研究報告:「戦後日本映画に「父=治者」への欲望を追う──『そよかぜ』(1945)から『バブルへGO』(2007)まで──」
   報告者:千葉 慶

 「父性」をどうとらえるのかは、今日のジェンダー・ポリティクスにおける重要な争点のひとつである(海妻径子「父性」『ジェンダー史学』3号、2007)。試みに、国会図書館のウェブサイトで「父性」というキーワードで論文検索を行なうと、2005年から2008年(2008年3月6日現在)では、44件、1996年から2004年では、154件の論考がヒットする。対して、1970年から95年では、65件、1946年から69年では、12件に過ぎない。特に、1996年以降の増加は、林道義『父性の復権』の登場に多くを負っていると思われる。この結果は、「母性」という言葉に対して、「父性」という言葉があまり使用されてこなかったことが起因しているが、この増加は単純に「父性」という言葉の使用度の増加というほど、単純なものではない。特に近年の「父性」待望論には、現代社会における規範や秩序の崩壊の解決策として「父=治者」(あるいはその代替)を要求する主張が保守系論壇を中心に増加の一途を辿っている。典型的な表現としては、「《親殺し》を生む家庭は父性不在である」(片田珠美『諸君』2007.10)といったものである。これに対して、マスキュリニティ研究の文脈で論じられる「父性」論では、「父=治者」への欲望が分析されることはほとんどない。管見の限り、研究の中心は、「父」の弱さに関する検討や「父=治者」というステレオタイプを相対化させる歴史的事例の発掘である。もちろん、その理由は明らかである。家父長制批判の文脈で行なわれてきた「父=治者」への批判的検討は、戦後まもなくから多くの研究が重ねられてきた。その結果明らかになったことは、「父=治者」のイメージが、戦前の家父長制を支えるどころか、実態から程遠いものだったということである。先行研究は、戦前の「家」の思想が「父性」の確立に失敗し、「母性」の信仰を基軸とする方向に転回したことを明らかにしている(鹿野政直『戦前・「家」の思想』筑摩書房、1983)。それでは、「父=治者」のイメージを分析することに意味はないのだろうか。
 実態から乖離していようと、いや、乖離しているからこそ、「父=治者」は欲望されてきたし、今もなお欲望されている。この状況に、家父長制社会の「父」の実態を探ろうとする研究はアプローチできないが、表象研究ならばアプローチできる。表象は、事物のリアルな再現物ではない。私たちが事物に意味を賦与しようとする欲望の媒体なのである。従って、実態と異なっていてもかまわない。それどころか、実態と違うところに、表象に託された欲望の強さ/重さを見出さざるを得ない。
 果して、現実のモデルとしてもあまりに非現実的であるにもかかわらず、いや、あるからこそ「父=治者」が欲望されるという状況は一体何を意味しているのか。そして、こうした欲望は今に始まったことなのか。そうではないとすれば、いつどのように生じて、現在に至っているのか。もちろん、浅学非才の私がこうした問いのすべてに説得的かつ明確な解答を与えることができるわけではない。しかし、手元にある素材を用いて仮説を立てることならば出来そうだ。ここでは、戦後の日本映画を素材に、「父=治者」への欲望を追うことを通して、「父」のイメージに「治者」としての属性を賦与しようとする欲望の発生様態および条件、思想史的意味を考察してみたい。なお、先に述べておくが、一部の例外を除いて、直截的に「父=治者」が描かれることはほとんどない。「父=治者」の直截的表現は、あまりにシンボリックすぎて、しばしば超自然的(金子修介『デスノート』)になるか、戯画的(木下惠介『破れ太鼓』、大島渚『儀式』、鈴木則文『聖獣学園』)になってしまうからである。従って、「父=治者」は、肯定的に表象される際には特に、不可視のイメージとして空白化され、あるいは「父の不在」が嘆かれることでむしろ「父=治者」への欲望(待望論・羨望)が影となって表象されてきたように思われる。つまり、今回の検討は、「父=治者」のイメージそのものというよりも、そこへの欲望に焦点が合わせられる。「父=治者」への欲望とは、まさに男性(性)が女性(性)に優越することへの欲望である。この欲望の持続あるいは間歇的噴出こそが、男性(性)がヘゲモニーを握る家父長制をまがりなりにも生き延びさせている誘惑であり、呪縛ではないのか。

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研究報告:「アニメにおける「おかま」表象と期待される「おかま」役割――映画版『クレヨンしんちゃん』と当事者からの聞き取り調査から」
   報告者:加藤 慶

○概要
同性愛、性同一性障害などの性的マイノリティの若者は、時として社会に広く流 布する「オカマ」イメージで悩まされる。
本報告は、この「おかま」のイメージを、アニメ「クレヨンしんちゃん」を題材 に、検討するものである。
アニメ「クレヨンしんちゃん」は、10年以上の長きにわたって、毎年映画が作成 され続けている人気作品であり、同様のものは「ドラえもん」しかない。
また、「クレヨンしんちゃん」の主人公である野原しんのすけ、野原家は、現代 の日本を代表する家族(核家族)として、「ちびまるこちゃん」のサクラ家と対比 して今日の中学校社会科教科書などに広く取り扱われるようにもなっており、子 どもたちの間での認知度は高いものがある。
この「クレヨンしんちゃん」の映画には、毎年のように「オカマ」が多く登場す るという特徴があり、その表象、位置付けられ方には一定の特徴がある。
では、この「オカマ」イメージの特徴はどのようなものであり、そのイメージが 有する問題はどのようなものなのか。
本報告では、その問題を、日本に住む性的マイノリティの若者当事者のライフ ストーリーから考察を試みるものである。そのうえで、社会的支援の必要性を 強く主張する。

○若者層における「オカマ」役割という問題
例えば、とある地方で生活する20歳代前半のAくんは、中学校時代にクラスで 「オカマ」と呼ばれるようになった。
Aくんは、学校生活をどのように生き抜こうかと悩んだ結果、周囲が期待する面 白おかしい「オカマ」役割を演ずることで、クラスの中を切り抜けようとした。 当初、その戦略は成功したかに見えた。しかし、「オカマ」のイメージは、Aく んから独り歩きを始め、Aくんが知らない他のクラスの人たちから蔑まれるよう なまなざしで見られるようになる。
「オカマ」のイメージは、性的マイノリティ当事者のパーソナリティとは直接的 には無関係に、ある機能をもってひとりでに歩き回り始める。「オカマ」のもつ 機能とは、どのようなものなのだろうか。本報告では、この点についても考察す る。

<引用・参考文献>
・加藤 慶(2008) 「"クイアな幼年期から高校時代"-関東地方に住む20代前半Aくんのライフストー リー」『目白大学総合科学研究』4号
・加藤 慶(2008)近刊「ゲイが学校に居場所を求めて良いことに驚いた!-関東地 方に住む20代前半Bくんのライフストーリー」『同性愛の若者に対する社会的支 援(仮)』開成出版(加藤慶・渡辺大輔編著・石川大我・尾辻かな子・かじよしみ・金城理恵・前川直哉・小宮明彦ほか)
・加藤 慶(2008)「家族・地域から排除された同性愛の若者に忍び寄る格差社会」 『季刊セクシュアリティ』エイデル研究所
・加藤慶(2008)「性的マイノリティの若者に対する教育支援」 『日本教育学会関東地区研究活動報告書 -教育学meets クイア・スタディーズ』 日本教育学会
・加藤 慶(2007)「情報活用と教育支援情報システム」『情報メディア社会への アクセス』八月書館,(加藤慶・松下慶太編著)
・加藤 慶(2007)「子ども向けアニメーションにおける「おかま」表象」『目白 大学短期大学部研究紀要』
・加藤 慶(2006)「新聞メディアにおける性同一性障害表象」『技術マネジメン ト研究』

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第95回例会 2008年2月10日 於:港区男女平等参画センター リーブラ 5階ホール

研究報告:「近現代日本におけるグリム童話「白雪姫」の翻訳からみる“お姫様”像─その歴史的変遷を中心に」
   報告者:山田晃子(大阪大学大学院)
   コメンテータ:藤木直実

 グリム童話やディズニー映画でよく知られる「白雪姫」が初めて日本人の目に触れたのは、明治時代にまで遡る。それから現在までの約120年のうちに、日本で刊行された書籍におけるそのストーリーは、大きな変化を遂げた。その変遷を、女性像としての白雪姫に注目して追ってみようというのが本研究での試みである。分析対象として、実際に手に取ることのできた約200作品を用い、読者対象や発表メディアの別、また翻訳者の性別による翻訳意識の差など、「白雪姫」という物語の性質から考えると不可欠であり、また単にストーリーの変化にのみ注目した先行研究では、不十分であったと思われる視点を盛り込みつつ、分析する。
 現在、フェミニズム的観点からは、ジェンダーステレオタイプな女性像として批判を受けることの多い白雪姫であるが、「お姫様」というものが大好きな少女・元少女達からは絶大な支持を集めていることもまた事実である。この白雪姫像を受容当初から詳しく見ていくと、少女小説分野での翻案化とディズニー映画版の登場という、二度の大きな転換点を経て、アイデンティティーや主体性を獲得していき、ジェンダーステレオタイプ以前とも言える非常に消極的な初期の表象からは、大きく変化していることがわかる。その変化は、テクストの分析からのみでなく、児童を読者対象にしているものが多いこともあり、豊富に存在する挿絵の分析からもまた、明らかにすることができる。そしてこの変化はいつも女性達を意識して、後には女性達自身の手によって、なされてきたと言える。この変化を追う中で、現在に至るまで「お姫様」というものが一部の女性達をとりこにしてきた歴史についても考えたい。

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研究報告:「日本女子大にとってエプロンモンペとは何だったのか ―同窓生の語りを中心に―」
   報告者:小山有子(大阪大学大学院)

 本発表は、日本女子大学(1901年創立、当該期は日本女子大学校、以下女子大と 略)で着用されていたという「エプロンモンペ」について、同窓生の語りから、それ の持った意味、また、その着用の意味を考察するものである。
 女子大は、創立者成瀬仁蔵の意に従い制服が定められていなかったが、戦時下にお ける勤労作業では、割烹着のような上衣とモンペの下衣をつなぎ合わせたエプロンモ ンペを全学生が着用したという。このことは『戦いのなかの青春』(1975 日本女子 大43回生文集編集委員会 勁草書房)のなかでわずかながら「女子大での戦時体験」 の象徴として語られているものの(エプモンと略し、毛糸で編んだターバンで髪をく るんだスタイルで援農作業などにいそしんだという)、その他の文献(女子大年史や 女子大同窓会桜楓会資料)などで言及されることは少ない。その理由としては、エプ ロンモンペの実質的な着用年数が短かったために“あだ花”的存在だったことが推測 できるのではないだろうか。“本格的”な戦時下においてモンペそのものが着用され たことは、先行研究でも明らかになっている。ただし、当該期の女子大の“日常生 活”においては、ジャケットにブラウス、ひざ下丈のスカートというスタイルであっ たことを考えると、エプロンモンペの着用についてはそれがスムーズに移行したの か、着用に際し問題はなかったのか、いささか疑問を持たざるを得ない。
 エプロンモンペとは何であったのか。このことを探るため、女子大同窓生の方の聞 き取り調査を中心に、同窓会会報『家庭週報』などを用いて、服装と学生たちの生活 までをも含め考察する。なぜなら服装とは、単なる衣服の着用行為にとどまらず、そ の時代のジェンダー規範を色濃く反映するものであり、またその服装によってジェン ダー規範が再構築されうる重要な要素でもあるからだ。戦時下における女性のありよ うを、より多角的に明らかにすることとともに、服装がもたらす意味と相互作用につ いてエプロンモンペを手掛かりに探りたい。

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第94回例会 2007年12月2日 於:港区男女平等参画センター リーブラ 4階集会室3

研究報告:「ロシア象徴主義美術と「女性性」−ロシアにおけるジャポニスム受容と「東」−」
   報告者:福間加容

 本研究の目的は、20世紀初頭、ロシア帝政末期における象徴主義美術を、その 「女性性」について思想史的に考察し、象徴主義美術をロシア美術史上に新たに位置 づけることにある。
 主たる分析の対象として、帝政末期、20世紀初頭ロシアの新世代の象徴主義美 術のグループ〈青薔薇〉のリーダー、P.クズネツォフの《日本の版画のある静物》(1912)に注目し考察をすすめる。その理由は三つある。第一に、本作品は、20世紀初 頭のロシア美術において、日本美術から借用したモチーフを描いた唯一の作品である。 第二に、作品が描かれた1910年代初めは、アクメイズム、未来派などの新しい芸術 流派が興隆した時期であり、クズネツォフも〈青薔薇〉時代の様式を捨て、新しい様 式を確立し、ネオ・プリミティヴィスムにている。この作品はその初期の代表的作品 のなかの一枚である。第三に、ゴーガンに同名の作品があり、クズネツォフは、1906 年ディアギレフに連れられて初めてパリに行ったときにそれを見ている。20世紀初 頭のロシアでは、ゴーガン、マチス、ゴッホへの高い関心が見られ、S.モロゾフなど のモスクワの有力な大商人たちが競ってそれらの収集を行っていた。これらの大商人 は革命運動と関わりがあった。この作品のテーマはいまだ特定されておらず、個々の モチーフの解釈も確立されていない。先行研究によるこの作品の解釈は、日本に対す るヨーロッパの一般的な印象や異国趣味に基づいており、根拠を欠いている。図像学 的分析によるだけでは、個々のモチーフの解釈、色彩のスキームに関する解釈などの 問題が未解決のままである。問題解決のためには、1)20世紀初頭のロシアにおける 日本美術の受容について、2)新世代のロシア象徴主義運動とアヴァンギャルド運動 の思想についての再考察が必要である。
 本発表では、1)日本美術の受容に関する言説と、2)支配的芸術流派が象徴 主義からアヴァンギャルドへ変わるときの言説を分析し、その再構成を行う。目下の 仮説として、帝政末期のロシアの芸術に携わる知識人たちの間には、象徴主義に由来 する「女性性」、「東」に関する独自の思想が共有されており、ロシア文化を新し い文化の担い手たらしめる思想的根拠になったと思われる。

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研究報告:「〈移動展派〉の画家ヤロシェンコの女性像−『至るところに生活あり』『ストレペトヴァの肖像』『クルシストカ』を中心に−」
   報告者:川島静

 19世紀末ロシアの〈移動展派〉の画家の多くは、ナロードニキ運動の盛衰を背景に、社会批判的な関心を抱き、芸術を通じて旧来の社会を改革することに寄与しようと試みていた。しかし、彼らが描く女性像は、伝統的なジェンダー秩序を維持し、強化するようなものであるのが通例であると、従来の研究では見なされていた。しかし実際には、レーピンやマコフスキーは「女性革命家」の像を描いており、ヤロシェンコもまた、その創作の初期から、伝統的な「家庭」における「母親」というジェンダー・イメージの枠には収まらない女性の姿を描いた。この発表では彼の三枚の絵を通して、ヤロシェンコの女性像の特徴を探る。
〇厦△譴僚性流刑囚を描いた『至るところに生あり』(1888)においては、同時代人の間で重要なトピックであったシベリア流刑の問題が「エジプトへの逃避」における聖母子像のイメージと重ね合わされている。そこでは、女性・子どもに対する権力の抑圧と、過酷な条件下での子どもの養育とがテーマ化されている。
◆悒好肇譽撻肇凜〜』(1884)においては、二児の母でありながら「家庭」の枠組みから飛び出し、当時例外的に女性に開かれた創造的職業であった女優業に就いたストレペトヴァの姿が捉えられた。レーピンによる同じ女優の肖像画と比較しても、ヤロシェ ンコが彼女の演技の本質をよりよく捉えていることが分かる。
『クルシストカ(女学生)』(1883)のモデルは、長い闘争の末1878年にペテルブルグに開設されたロシア初の国立女子大学〈ベストゥジェフ課程〉の学生である。この絵は当時社会に生まれつつあった新しい女性たちを具現していると評判になる一方で、女性に学問は不要であるという保守的な立場の人々からは厳しく非難された。
 ヤロシェンコの女性像は、時代の最先端のテーマに果敢に取り組んだものではあったが、レーピンらの描いた「女性革命家」像と比較すると、明らかに直接的なメッセージ性には欠け、描かれた人物が自己自身への「没入」を示しているのが特徴である。逆に言えば、そこに単一のイデオロギーに還元しがたい性格が生じ、反動の時代においても発表可能なものとなっていたと考えられる。

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研究報告:「新アメリカ帝国主義とその影響」
   報告者:木下夕実

 新アメリカ帝国主義と資本のグローバル化は,よく考えてみないと気がつかな いほど私達の毎日の生活に浸透、そして組織化されている。
 新帝国主義下で造られる社会的あるいは文化的組織は、経済的利益を上げるた めにデザインされたものであり,世界的な資本とその利益の蓄積はグローバル化と新帝 国主義化を促進させている。それは歴史的には単なるイデオロギーのひとつであるが、 現在のところアメリカにより最も支配的な影響力を発揮している。
 私のアーティストとしての研究課題の焦点は現代美術を新帝国主義化の組織の 一部として考えながら、そのイデオロギーがどのようにして映像・イメージとして表現 され、その結果、国家的・文化的、そして政治的なアイデンティーが変化しているかを 記録・表現することである。新帝国主義とグローバル化のもとではあらゆる定義・学問の境界線があいまいとなり、とても複雑な理論・分析を必要とする。例えば,経済を政治から,または文化からイデオロギーを引き離すことは不可能である。そのため,現代のイデオロギー葛藤(例えば日本的フェミニズム)においては学際的な研究・アプローチと、様々な角度から考えることが重要となり,そしてそれがどのように芸術創作に関係し、それはどのような象徴価値を生みだすのだろうかということについて議論を立ち上げる必要がある。

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第93回例会 2007年8月11日 於:港区男女平等参画センター リーブラ 4階集会室3

研究報告:「明治時代の建築論における美とジェンダー」
   報告者:サラ・ティズリー(ノースウエスタン大学 美術史学科 助教授)

 明治末期の女性向け住宅建築入門書において、家庭のために優美な住宅室内空間を 設置することは、女性が主婦として家庭の思想の高尚および国家の発展のために貢献 すべきなことだということが唱えられた。一方で、ユーザーの主観的な印象を重視す るこのイデオロギーに対して、中上流階層の男性の世界だった当時の建築学におい て、「美」という概念はむしる「客観的な」構成原理に従って設計された建築物の平 面のことを意味した。この対立的な状況をふまえて、本発表は、明治時代にパラレル に成立した女性向け建築言説(家政学、室内装飾論、住居論など)と男性向け建築言 説(建築学)における「美」の相違の原因を探求し、これを通して近代日本の建築と の関わりを規制した女性あるいは男性の建築との関係のあるべき姿を考察する。結論 としては、当時の建築思想において「美」は特に男性的あるいは女性的なものとして 定義されていなかったが、男性向けの建築言説と女性向けの建築言説において発展し た「美」の概念およびその利用法は当時の社会的ジェンダー役割を反影したと議論す る。

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研究報告:「迎賓館赤坂離宮にみる東宮・東宮妃の内部空間と想定生活像 ー対称の平面・非対称の意匠ー」
   報告者:小沢朝江
   コメンテーター:若桑みどり

 迎賓館赤坂離宮は、明治42年(1909)、当時の皇太子・嘉仁親王と節子妃の住居とし て完成した。実際には一度も住居として用いられなかったが、建設に当たり、次代の 天皇・皇后の住まいにふさわしい平面・様式・意匠が10年以上をかけて模索された。 では、この建物に想定された東宮・東宮妃の「生活」とはどのようなものだったの か。その姿を、建設当時の図面、および竣工写真に写る家具配置から考えることが本 発表の目的である。迎賓館赤坂離宮は、「日本における西洋建築学習の集大成」とも 評される通り、本格的なネオ・バロック様式と、完璧な左右対称の平面を持つ。1階 に充てられた東宮・東宮妃の私的空間は、東側が東宮、西側が東宮妃に半分ずつ割り 当てられ、東西に同じ室名が対称に並ぶ。東宮・東宮妃に同形同大の空間を用意する この構成は、一見西洋の規範そのままとも、東宮・東宮妃を対等に扱う姿勢ともみえ るが、実際には、近世以前の天皇御所の伝統的な使い方を基本とし、部屋の内装や家 具の選択・配置には、東宮・東宮妃で明らかな区別が付けられた。その相違には、東 宮・東宮妃が担うべきそれぞれの理想像の差が反映する。東宮御所という「住居」 は、次代の天皇・皇后に国家が求めた「生活」すなわち「生き方」を、目に見える形 で規定する役割を担ったといえる。迎賓館赤坂離宮に託された近代皇室の「家族」像 について、幅広い視点から意見を求めたい。

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第92回例会 2007年6月3日 於:世田谷男女共同参画センターらぷらす 北沢タウンホール11階・研修室4

研究報告:「「八紘一宇」とは何だったのか ジェンダーの視点から」
   報告者:千葉慶

 本発表は、「八紘一宇」思想をジェンダー的視点から再考するものである。『広辞苑』によれば、八紘一宇は、「太平洋戦争期におけるわが国の海外進出を正当化するために用いた標語で、世界を一つの家にするの意」である。これが戦後における八紘一宇の一般的理解と解釈してよいだろう。つまり、八紘一宇とは、もともと「世界一家」の意味しかないものだが、戦時期に対外侵略を正当化するために用いられたという理解がなされている。さらには、ここから敷衍して、「美名」の下に侵略が正当化されたという理解がなされているだろう。ただ、これだけの理解で止まることは、次のような問題を引き起こしてしまう。つまり、八紘一宇という「美名」を操った存在(軍部)が問題なのであり、八紘一宇という「美名」そのものは、決して間違いではないと。このような理解では、戦後から現在まで残る「八紘一宇は平和思想」という再評価論に抗すことはできないだろう。
 八紘一宇を、「侵略」か「平和」か(政治的機能で評価するか、額面通りの文字で評価するか)の二者択一で理解することは、あまりに表層的である。つまり、八紘一宇を批判的に理解していくためには、それが用いられた文脈、それを用いた主体のみではなく、思想の内実を構造的に把握することが不可欠となる。したがって、わたしたちは抽象的な理解を超えて、八紘一宇思想の実践例を具体的に見て行く必要がある。
 そこで、本発表では、1940年に建設された八紘一宇の象徴塔《八紘之基柱》を取り上げ、それを八紘一宇思想の実践、立体的図解として、ジェンダー論の視点から読解していきたいと思う。
 また、家族主義を根幹とする八紘一宇思想は、『ALWAYS三丁目の夕日』『東京タワー』のヒットに代表される昨今の家族回帰・母胎回帰思潮と決して無縁ではない。こうした現代的問題に関しても、議論をつなげていきたい。

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研究報告:「アメリカにおけるフェミニズムとアートの現状」
   報告者:由本みどり

 2006年から、フェミニズムと女性芸術家の現代美術への影響についての知識を一般に普及することを目的として、アメリカ全国規模で展開されてきたイニシアティヴ、フェミニスト・アート・プロジェクトは、今春3月、二つの重要な展覧会のオープンと共に一つのクライマックスを迎えた。現在開催中のロサンジェルス現代美術館での「WACK!美術とフェミニスト革命」展が、1960年代後半から70年代にかけて、欧米を中心に広がったフェミニスト・アートの核に焦点を置いているのに対して、ブルックリン美術館における「グローバル・フェミニズムズ」展は、1990年以降の、若手の女性芸術家約80名の作品に絞っている点で、興味深い対照を成している。今回の発表では、主にこの二つの展覧会の内容と構成、並びに、賛否両論に分かれる多様な批評を紹介しながら、世代間の亀裂、民族間の亀裂などの根深い問題を抱える、アメリカにおけるフェミニズムとアートの現状を検討したい。質疑応答では、日本との差異や、日本人女性芸術家の世界における評価なども含めて、幅広い自由な意見交換を望んでいる。

(以下参考URL)
http://feministartproject.rutgers.edu/
http://www.moca.org/wack/
http://www.brooklynmuseum.org/exhibitions/global_feminisms/

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第91回例会 2007年4月8日 於:世田谷男女共同参画センターらぷらす 北沢タウンホール11階・研修室4

研究報告:「こうの史代から中沢啓治へ―記憶と政治の葬送に抗して―」
   報告者:木村智哉(千葉大学大学院 社会文化科学研究科)

 2004年に出版された漫画『夕凪の街 桜の国』(双葉社)は、1968年に広島に生まれた女性漫画家・こうの史代が、1955年、1987年、2004年の3つの時代を舞台に、原爆にまつわる記憶を描いた連作短編である。本作品は程なくして第9回手塚治虫文化賞・新生賞と平成16年度(第8回)文化庁メディア芸術祭大賞を受賞。一躍有名作品となり、2007年には実写映画の公開が予定されている。
 手塚賞においては、その表現の「清新な表現」が、メディア芸術祭では「力強いメッセージ性」を持ちながら「押し付けがましく」ない「独特の表現方法」が評価された。また、漫画評論を手がける編集者の竹熊健太郎は、「怒りではなく、静かな悲しみが漂う」と本作を評している。ここで高く評価されているのは、原爆がもたらした悲劇を表現する時の「新しい」語り口である。それは「怒り」や「押し付けがましさ」を伴わず、むしろ「静か」で「清らか」なものである。
 米山リサは近著『広島 記憶のポリティクス』において、原爆投下を含む十五年戦争の記憶は、女性化されることによって「無罪、平和、被害性」に関連付けられたと述べる。 ここに報告者は今、現代におけるもう一つの「記憶の女性化」を付け加えたい。「静か」で「清らか」で、そしてあくまで「私的な語り」としての原爆の記憶。それは公的空間、すなわち現代の政治状況を何ら揺るがすことの無い、影響力を殺がれた語りである。女性、わけても母性のイメージをもって、無垢な被害者としての自己像を獲得してきた戦後日本における一般的な「平和主義」の語りに対しては、その根本的な理解に疑義が呈され始めてから既に四半世紀以上が経っている。しかし今、明確な軍事化路線を進む政治改革と並行して、そうした「女性=平和=被害者」という、現在ではあまりにナイーヴに過ぎる語りさえもが私的空間へと押し込められているのである。
 こうの史代の意図が、被爆者の存在を、そして戦争における加害も含んだ「不幸」を知らせようとするところにあることは、彼女の種々のコメントを見れば明らかである。しかしながら彼女の作品はその意図とは異なる文脈によって称揚されているのである。
 ここで今ひとつ想起したいのが、こうの史代も意識したと言う中沢啓治(1939〜)の漫画、『はだしのゲン』(1973〜1987)である。広島における原爆の被害を描いた漫画として現在でも著名な本作品は、しかし決して幸福な環境におかれてきたわけではない。数度にわたって掲載誌を移動した執筆状況もさることながら、中沢の展開する物語を社会的な文脈と関連付けながら批評した事例さえ見ることが出来ない。作中で被爆者や広島が直面している現実、戦争責任の問題などが幾度となく焦点化されているにも関わらずである。さらにそればかりか、呉智英による中央公論社版への解説のように、政治と個人の情念とを二項対立化させた上で、本作の意義を後者に位置づける、意図的な非政治化さえなされてきている。また、近年ではその書誌的、メディア史的研究の成果も発表されているが、それは発表当時に『はだしのゲン』という作品がおかれた環境や漫画表現の文脈、中沢啓治以外の関係者の意図、そして受容者たちの動向を探ったものであり、作品自体の分析は巧妙に避けられているかに見える。『はだしのゲン』もまた、作者の意図を巧妙にズラすことで受容されてきた可能性が見て取れるのである。
 本報告ではこうした状況に対し、「静か」でなく「清らか」でもなく、そして「押し付けがましく」、「私的」でない、つまり極めて荒々しく政治的な『はだしのゲン』という作品自体の意義を問いたい。『夕凪の街 桜の国』が読まれた文脈から振り返るならばそれは、まさに今「知りたくない」もの、葬り去られようとするものとしての原爆の物語、そして「女性化」されざる反戦の語りであろうからである。

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研究報告:「《原爆の図》―ジェンダーの視点から」
   小沢節子(日本近現代史研究)

 水墨画家丸木位里(1901〜1995)と油彩画家であり絵本作家でもある丸木(赤松)俊(1912〜2000)は、1950年から四半世紀にわたって「原爆の図」15部の連作を描いた。同作品は美術史的にも稀に見る夫婦の共同制作であり、また、戦後日本人の原爆認識の変容とも深く関わっている。
 報告ではこの「原爆の図」を改めてジェンダーの視点から考察する。その際、三つの視点を挙げておきたい。第一は、「原爆の図」シリーズの中で、どのような女性イメージが描かれ、そしてそれらがどのような社会的なはたらきを担っていったのかという視点である。第二は作者の一人である丸木(赤松)俊が、「原爆の図」さらにはその後の南京虐殺、水俣病、沖縄戦などをテーマとする半世紀にわたる夫位里との共同制作のなかで、どのように女性として表現者としての自らの主体を構築していったのかという視点である。第一点と第二点は互いに深く結びついており、以下に記した拙著のなかでも第一点を中心に、しかし、第二点についても、俊の戦前の自己形成史、位里との関係にも光を当てつつ論じている。
 「原爆の図」に描かれた美しい少女像や、傷ついた母子像は、被爆の実態に即したものでありながら(あるいはそれ故に)、大衆の感情移入の通路となり、 同作品の社会的な流通そして政治的な言説化に大きく作用した。そしてそれらのイメージは、主に俊の手によって生み出され、語られていったものだった。こうしたイメージのはたらきは、社会的なジェンダー役割に沿ったものであると同時に、俊にとってはきわめて個人的なセクシュアリティの問題を社会化する契機でもあったように思われる。戦前においてすでに「女流画家」としての自立を果たしていた俊は、やがて、「原爆の図」を描くことによって、彼女なりのフェミニズムを手にするー言い換えれば、「女であること」をめぐる様々な歴史的問題の存在に突き当たり、それを(ときには位里との葛藤を招きながらも)芸術的に表現しようとするようになるのである。そこではまた、日本の女性のみならず、日本の戦争・植民地支配の犠牲となった中国の女性、朝鮮の女性たちへの、彼女なりの理解が獲得される。
 さらに第三の視点として、今回の報告では「原爆(体験)とジェンダー」という広がりのなかに、同作品を位置づけてみたい。原爆体験の表象について考えるときに、ひときわ目をひくのは、原爆文学といわれる領域を中心とした、女性たちの手になる継続的な、そして豊かな表現である。大田洋子から林京子、あるいは最近のこうの史代にいたるまで、何故、彼女たちは原爆(体験)を表現しつづけてきたのか。多くの場合こうした女たちの語りは、男たちの語りとは異なる社会的な文脈で、すなわち結婚・遺伝差別、不妊・妊娠出産の不安といったいわゆる「私事」の領域で/領域から表現されてきた。同時にそれは被爆体験の日常的・肉体的・全身体的な思想化の契機へとつらなるものでもあり、そこに、先に述べた「原爆の図」をめぐる第一、第二の視点とも、ジャンルを越えて、論じ得る可能性を見る。

参考:
小沢節子『「「原爆の図」描かれた<記憶>、語られた<絵画>』岩波書店2002年。
同「原爆をどのように語り得るか ー原爆を描くこと、受容することをめぐってー」『原爆文学研究 増刊号』2006年3月、原爆文学研究会。

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第90回例会 2007年2月18日 於:世田谷男女共同参画センターらぷらす 北沢タウンホール11階・研修室4

研究報告:「ジーパン論争再考〜現在のわたしたちが思うこと〜」
   報告者:小山有子(大阪大学大学院博士後期課程)

 1977年大阪大学文学部で、ジーンズを着用した女子学生が授業出席を拒否された。当 時すでにジーンズは若者世代に広く受け入れられていたにもかかわらず、滞日12年の アメリカ人講師は「ジーンズはレディのはくべきものではない」と主張し、学生はそ れにたいし異議を唱えた。学内での論争は平行線のままであったが、これを報道した 新聞紙上で大きな反響があり、「投書ブーム」とまで言われる事態となった。
 今回は、このジーパン論争をめぐる新聞、雑誌の記事を概観し、一女性の服装をめぐ って議論されたものは何であるのかを考察する。当論争では、女性がジーンズを着用 することの是非が、さまざまな分野の問題と関連しあっている(ように見える)側面 があった。しかも、論争の発端となる女子学生の存在は論争直後に縮小・後退し、ジ ーンズ着用を拒否する講師の意見が"教育"や"文化"の問題にたいする主張として一気 に前景化した。また、新聞投書欄には、講師の意見に賛同するものが多く寄せられ、 そこでもまたジーンズ着用の是非とともに"教育"や"文化"の問題として意見が述べら れたのだった。
 この論争の発端は、一女性の服装の是非をめぐるというものであったはずなのだが、 服装にまつわることがらよりも、別問題にたいして多くが語られたという感を禁じえ ない。しかし何よりも服装の問題として語られていたことは確かであった。 男女に異なる服装規範が存在することの是非であるはずの問題が、"教育""文化"の問 題として語られるということは、どのようなことなのか。メディアでの議論を検討す る。ここでは、論争を男女の性差と服装、それにともなう規範(思想)から考察した い。
 そして、あまりにも当然過ぎるため不可視状態と言える「男女差を持つ服装規範」に ついて、現代においてなおいっそう重要な問題であると言える。ジーパン論争を過去 のものとせず、現代のわたしたちの周囲にも目を向けて、ファッションとそれにまつ わる規範や理想像などをジェンダー論的視点から考えてみたい。

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研究報告:「語られるものとしてのファッション ―コムデギャルソンの衣服をめぐる意味づけの変容とその背景にあるもの―」
   報告者:安城寿子(お茶の水女子大学大学院)

 コムデギャルソンは,1980年代前半のパリ・コレクションに穴や裂け目と言った破壊 的意匠の見られる衣服を発表したことで知られるファッション・ブランドである。こ のブランドのデザイナーである川久保玲は,とりわけ90年代末以降,身体や衣服の既 成概念に絶えざる挑戦を試みたとして高く評価され,三宅一生・山本耀司とともに「 アート」への越境を果たす存在という位置づけを与えられてきた。この種の言説には ,「独創的」で「思索的」なものが「アート」であるという前提を暗黙裡に共有しつ つコムデギャルソンの衣服の「侵犯性」,またそれがモード界に与えた衝撃の大きさ を強調したものが多い。そこではモードの「前衛(アヴァンギャルド)」としての川久 保玲あるいはコムデギャルソンのイメージが繰り返し描き出されてきた。しかしなが ら,それではその衝撃の客体とは誰であり,彼らはそれをどのような言葉で語ったの か,衝撃を取り巻いていた同時代状況はどのようなものであったのか,と言えば,そ れらについては多くが明らかにされないまま現在に至っている。また一方で,コムデ ギャルソンが日本国内でのいかなる活動を経て立ち現れたものであるのかも省みられ ないまま,その不完全な造形を「日本的美意識」の活用形と見る語りも依然,強い影 響力を持ち続けている。
 コムデギャルソンが最初の商業的成功を手にしたのは,「フェミニズム的」な雰囲気 を持つものが一つのトレンドであった70年代後半の日本においてである。その衣服は 当時,ビギやマダムニコルといったDCブランドの衣服同様「自己表現する女性のため の媚びない服」という意味を与えられ,若い女性の間で人気を博していた。この時点 では,コムデギャルソンの衣服の「思想」を読み解こうとする語りそのものが存在せ ず,それは「侵犯性」とも「日本的美意識」とも未だ結びついてはいなかった。言い 換えるなら,コムデギャルソンの「侵犯性」や「日本的」側面というものは後に見出 され,普及したものなのである。
 本発表は,ファッションを語る側の動向を踏まえつつ,70年代から現在に至るまでの 間コムデギャルソンの衣服に見出される意味づけがどのような変遷をたどってきたの かを明らかにすると同時に,その変容の背景にどのような力が働いていたのかについ て,若干の考察を加えようとするものである。そこには従来普及を見せていたところ の「モードの前衛」という単一的なイメージとは異なる複数個の表象として立ち現れ るコムデギャルソンの姿を見出すことが出来るだろう。
※なお,本発表の一部は既に以下の拙稿において発表したものである。 「コムデギャルソン,初期のコレクションをめぐる言説の周辺-―同時代言説に見るそ の位置付け・イメージと昨今の言説と距離―」『デザイン理論』第47号,意匠学会編 ,2004年11月,pp.3-17. 「複数個の表象としてのコムデギャルソン--初期コレクションの『衝撃』神話を脱し て」『人間文化論叢』第8号,お茶の水女子大学人間文化研究科編,2005年4月,pp.1 -12.

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第89回例会 2006年12月3日 於:世田谷男女共同参画センターらぷらす 北沢タウンホール11階・研修室4

研究報告:「陳進《サンティモン社の女》──表現の特色と制作意図──」
   報告者:ラワンチャイクン寿子(福岡アジア美術館)

【報告概要】
 陳進は、1907年に日本統治下の台湾に生まれた。親日派の裕福な家庭に育ち、学校でも日本語と日本の礼儀作法や教養を身につけ、1925年には女子美術学校日本画師範科に入学している。卒業後も鏑木清方の門下生となり、山川秀峰や伊東深水に師事。在学中から台湾美術展覧会(台展)に入選し、台湾画壇において活躍するとともに、《合奏》が第15回帝展(1934年)に入選した後は日本画壇にも進出した、台湾近代美術のパイオニアの一人である(1998年に没)。今回の報告では、陳進を台湾独自の画壇の形成に尽くした画家とみる立場から、代表作《サンティモン社の女》を紹介する。
 本作は、昭和11(1936)年秋の文展鑑査展を目指して作られ、入選した作品である。その後、目黒雅叙園に収蔵され、2001年に当館で購入した。高雄州立屏東高女で教師をしていた陳進が、先住民パイワン族の集落サンティモン社に取材して描いており、その風俗をよく伝える“台湾らしい”作品である。この年の陳進は、春季帝展に《化粧》を、10月の台展に《楽譜》を用意する忙しさで、本作の制作は、陳進も心配するほど余裕がなかったようである。とはいえ、先住民女性の主題も画面構成も、陳進にとっては新しい試みとなり、その完成度は陳進作品中ひときわ高い。報告では、今年日本で開かれた『陳進展』で初公開されたスケッチ類をもとに、その制作過程をたどり、女性たちが神聖化されていること、とりわけ中心となる女性は実際のモデルよりも成熟した女性として表現されていることに着目したい。そして、その特色から次のような制作意図を考えていきたい。
 当時、台湾先住民は二重に「他者」化されていた。つまり、台湾は、日本にとって統治されるべき「他者」であり、さらに台湾先住民は、漢民族がほとんどの台湾の中で未開の「他者」であった。陳進も、中国服を着た女性とは区別して先住民女性を描いている。そこに、「日本人」である陳進が、内地の日本人と同じ立場から先住民を「他者」として見た姿、あるいは台湾社会が先住民を差別的に見る眼差しが投影されたことを、認めないわけにはいかない。それでもなお、先住民女性を神聖化し成熟化したのは何故だったのか。日本画壇のマイノリティである自らの立場を、台湾のマイノリティである先住民のそれに重ねる陳進、あるいは、先住民という「他者」を奇異なる「異者」として扱うのではなく、むしろ「自己」と一体化させていった陳進を、一方で認めることはできないか──と考えている。

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研究報告:「 「原始芸術」言説と植民地主義−1930年代の台湾原住民をめぐる「文化」の政治性−」
   報告者:松田京子(南山大学)

【報告概要】
 1920年代末から30年代にかけて、植民地統治下の台湾では、台湾原住民の生活の中の様々な要素を、「原始芸術」として位置づける語りが行われ始めた。それは例えば、原住民の家屋に刻まれた模様であったり、手工芸品であったり、さらには歌や踊りといったものも主要な対象であった。また、そのような語りの担い手も、研究者から教育者、画家、好事家、そして台湾原住民統治の前線に位置した植民地官僚までも含んだ多岐にわたる人々であり、それらの人々は、「内地人」が圧倒的多数だったものの、少数の漢民族系住民も含まれていた。
 このように、台湾原住民の生活の中のある部分を「文化」として抽出し、それに「原始芸術」という価値を与え、「保護」を呼びかける語りは、どのような状況の中で展開されたものなのだろうか。
 この時、問われるべき状況とは、台湾原住民をモチーフとした絵画作品の登場など植民地台湾における全般的な「文化」状況であり、「原始芸術」という語りを構成していく「文化」をめぐる言説空間のあり方だろう。さらに、分析の中で決して欠落させてはならない状況とは、まさに植民地統治という問題であり、1930年代の台湾原住民を取り巻いた政治的・経済的・文化的支配の状況であると思われる。
 以上のような観点から、本報告では、1930年代に台湾で顕在化する「原始芸術」という言説のあり方を、植民地支配下での直接的・間接的暴力の行使という問題との緊張関係の中で、論じて行きたい。

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第88回例会 2006年10月1日 於:世田谷男女共同参画センターらぷらす 北沢タウンホール11階・研修室4

研究報告:「バラエティ番組におけるジェンダー」
   報告者:三反崎佑子(川村学園女子大学卒、現在、サービス業勤務)

【報告概要】
 日々、お茶の間を楽しませているテレビのバラエティ番組。だがその中に凄まじい差別があることをみなさん、ご存じだろうか。
 テレビドラマやCMのジェンダー的分析は数多くなされているにもかかわらず、バラエテイ番組についての分析はまったくなされていない。その理由として、第一に、バラエテイ番組の内容は一見ぶっつけ本番でいい加減に流されているようにみえるので、聞き流しされ、記録されることがない。第二に多くの視聴者がその場だけのお笑いだと思っているので、真剣に内容を議論しようとしない。
 しかし多くのテレビ局のゴールデン番組がバラエテイで占拠され、しかも平均20%以上の高い視聴率をもっていることから、視聴者に与える影響は 非常に大きく、しかもその他のまじめな番組のように批判にさらされることがないため、驚くほどのジェンダー的問題がそこにはある。この実態はこのまま「野放し」にしておいてははらない現実である。この報告は人々に身の回りにあるジェンダーに気づいてもらうため、またバラエテイの実態について知ってもらうためのものである。

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研究報告:「テレビコマーシャルとジェンダー 〜コマーシャルは変わったか〜」
   報告者:小川真知子(コマーシャルの中の男女役割を問い直す会世話人)

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第87回例会 2006年8月6日 於:世田谷男女共同参画センターらぷらす 北沢タウンホール11階・研修室4

研究報告:「日本美術史研究の現在 〜何のための日本美術史か〜」
 1、現在の研究状況
   通史と個別研究の政治性 (池田忍)
   日本美術史の概説書、全集における縄文の語られ方 (亀井若菜)
   雑誌『国華』と国立博物館 〜「日本美術」の形成とその維持〜 (森理恵)

 2、個別研究の例示─日本美術史研究の中で/それに抗して 「粉河寺縁起絵巻」について (亀井若菜)

【報告概要】
「通史と個別研究の政治性」 (池田忍)
 昨年暮れ、辻惟雄氏による書き下ろしの通史『日本美術の歴史』(東京大学出版会)が刊行された。縄文土器から現代のマンガやアニメまでを論じるこの本は、横尾忠則氏による人目を惹く装丁のほかにも注目すべき特色を有し、影響力が推し量られる。もっとも時代区分やジャンルの枠組みは従来通りで、注や索引、文献案内などを備える点では、学術的概説書の定石を踏んだ通史とも言える。恐らくもっともユニークな点は、かねてより辻氏が日本美術の特徴として指摘してきた「かざり」「遊び」「アニミズム」の三つのキーワードによって通史が構築されていることであろう。しかしながら、「日本美術の新しい全体像を模索する」という課題設定、あるいは「(不変の)日本美術の特質」を見つけ出そうという欲望は、近代日本において脈々と受け継がれてきたものではなかったか。ところで、昨年は『講座日本美術史』(全6巻、論文総数66編、東京大学出版会)が刊行され、学としての日本美術史の最新の動向と成果がまとまった形で提示された。そこで本報告では、近年の通史と個別研究とをあわせて視野に入れ、両者の乖離と呼応関係を検証する。メインストリームの日本美術史研究にも確実に変化の波は押し寄せ、新たな視点や方法の導入、考察対象の拡大は確実に進展している。にもかかわらず、そこには死角、語られざる領域が存在し、ことに造形/表象によって駆動する権力関係への問いが忌避され続けているように思われる。日本美術史研究の現状を、作品の権威づけへの欲望、「日本」という枠組みの偏向と強固さと言った観点から考察し、ジェンダーの視点からの通史、時代史の可能性を提案して現状打破の方向を探りたい。

「雑誌『国華』と国立博物館 〜「日本美術」の形成とその維持〜」 (森理恵)
「日本美術史」という研究領域は明治はじめ、近代天皇制確立のために発足した。「日本の美術」は「歴代」天皇を中心に編成され、以後、研究は順調に発展した。1945年からの占領期に、主権者は天皇から国民となり歴史学界では皇国史観が変更を迫られた。ところがこの時期、天皇は、軍隊の統率者から「文化の守護者」に変貌したために、「日本美術史」領域では大日本帝国時代の史観が変更を迫られることなく維持され続けたのである。加えて日本美術史の主要研究機関として機能している、いわゆる「国立三館」では、近年、天皇制称揚の傾向が顕著である(宮内晶「強化する<文化の守護者としての皇室像>」)。「四番目の国立博物館」として昨年開館した「九州地方悲願の」九州国立博物館では、「アジアとの交流」を標榜しながら日本国中心のアジアを表象し、日本が「アジアの盟主」であると言いたいのではないか、との疑問さえ抱かせる。本報告では、以上のような日本美術史研究と博物館界の動向をあわせて考察し、問題点を指摘する予定である。

「個別研究の例示─日本美術史研究の中で/それに抗して 「粉河寺縁起絵巻」について」 (亀井若菜)
 私は一昨年春の美術史学会で「粉河寺縁起絵巻」に関する研究発表を行い、昨年暮れにその内容を『ジェンダー史学』1号に投稿した。その内容に対する反応として支持、批判双方をいただいた。研究内容と反応の内容を紹介し、ジェンダー的視点からの研究が日本美術史研究の中でいかに受け止められるのか、そしてそれがいかに必要であるかを考えたい。 「粉河寺縁起絵巻」は、猟師が粉河の観音堂を建てる話と、病に苦しむ娘が粉河観音によって救われるという二つの話を収めた、和歌山県粉河寺に所蔵される絵巻である。この絵巻は従来、12世紀後半頃の作とされてきたが、確たる根拠はなかった。そこで、詞書で語られる物語の内容を超えて絵巻の「絵」が見せようとしているものに注目し、それがどのような場で意味を持つ表象であったのかを考えた。この絵巻の絵で注目されるのは、猟師の狩猟や肉食の場面が肯定的に描かれ、殺生を批判的に扱っていない点、大寺院などでは伽藍内に入ることさえ禁じられていた女性が、粉河観音のすぐ前で剃髪されている点などである。これらの表現は、高野山のイデオロギーを想定すると、意味をもつ表象となることが浮かび上がる。粉河寺は13世紀前半に領地の境をめぐって高野山と激しい争いをしており、その高野山は厳しく殺生禁断、女人禁制をしいていたからである。この絵巻は、粉河寺が、敵対していた高野山に対抗すべく、高野山が忌避した女性や殺生の表象を逆に使って、自己の寺の優位や主張を表わした絵巻であると考えられる。  この研究に対し、制作時期が下ってしまうことへの不賛成や、絵巻の内容を個別のコンテクストに落とし込んで解釈し過ぎるという批判、ジェンダー的分析は基礎的原理的作品分析のあとにするべきだという批判をいただいた。これらの批判は、この絵巻をあくまでも従来の「美術史」的領域の内部に閉じ込め、社会的視野からその政治的意味や意図を見ることを避けようとするものであると言えよう。  私はこの解釈を提示することで、この作品の読みや制作時期を変更し確定することを目指したのではない。構築主義的考えによって、歴史の語りとは、唯一絶対の「事実」を「客観的」に叙述することではなく、それを語る者が自らの視点や立場を自覚しながら過去を語り直していくことであるとされるようになった。私は本研究を通し、力関係において弱いとされる者(女性、猟師)の表象がいかなる状況で出現しうるのか、その歴史的状況を探り、表象と現実の対応・非対応関係を考え、表象をジェンダー的政治的な視点から捉える解釈を提示したかったのである。このような解釈は、現在の日本美術史研究の権威的保守的なあり方を逆に照射することにもつながる。  池田氏が報告概要に書かれているように、日本美術史研究においては、造形/表象によって駆動する権力関係への問いが忌避され続けている。また「日本」という枠組みを強固とすべく作品を権威づけ語ろうとする欲望も大きい。そのような大きな枠組みの中にあって、それに抗する美術史研究のあり方を探ってみたい。


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第86回例会 2006年6月4日 於:世田谷男女共同参画センターらぷらす 北沢タウンホール11階・研修室4

研究報告:「ジェンダーの視点から読む『茶の本』  −20世紀初頭アメリカにおける自己表象としてのジャパニズム−」
   報告者:村井則子
   コメンテーター:馬渕明子

【報告概要】
 今回の発表では、『茶の本』を通して、近代西洋という「他者」の眼差しを意識しながら理想化された自己像としての日本文化表象とジェンダーの関係を考察したい。1906年に出版された『茶の本(原題The Book of Tea)』は、 明治期の美術官僚であり理論家であった岡倉覚三(天心)による日本文化論として今日まで広く読まれている。この本は、1904年以降活動の拠点をボストンに移した天心の主要な後援者となる北米東海岸都市部の富裕層の女性を念頭に書かれたことが知られている。しかしながら、この事実の歴史的意義はこれまでの研究において殆ど分析されてこなかった。何故、それまで茶道にさほど関心を寄せてこなかった天心が、20世紀初頭ボストンにおいて『茶の本』を書くに到ったのか。そしてこの本は当時どのような文脈において考案され、受容されたのであろうか。

 ジャパニズム〔ジャポニスム〕や唯美主義の余波が強く残る20世紀初頭の英米において「日本」=「女性(的)」=「美の国」という等式は日本にまつわるイメージの一つとして浸透しており、このジェンダー化された異文化幻想において欠かせない存在に「茶」があった。また「ティー・パーティー」などといった「茶を飲む」という行為は、英米においては最も「女性的」な社交儀礼とされていた。この文化史的文脈において『茶の本』は、「茶」が表す「日本」の「美」という極めて「女性的」と見なされていた言説を主題とし、さらに女性をその主な読者として想定しながらも、その時空を「西洋」の「女性」により「消費」される「日常社交」から、「東洋」の「男性」により「生産」された「歴史的芸術」へと転換するテキストと解釈することが出来るのではないか。

 『茶の本』におけるこの「文化的性転換」とでも呼べる試みは、天心という一人のエリート日本人男性が、日露戦争後さらに帝国化を進める「東洋の盟主」の「日本」の代表として英語という最も近代帝国的な言語媒体を通して、それまで白人男性により「他者」として客体化されていた「Japan」あるいは「the East」を「主体」として取り戻そうとする試みでもあっ た。そこで理想化された「簡素かつ精神的な美の啓蒙者」という東洋人男性像は、英米の女性読者に対して魅力的であるが危険ではない性的他者を提示した。このイメージはボストンにおける天心自身の美化された自己表象にもつながっていく。

 しかしながら、この書き手と読み手の両者にとり一見有益であると見える『茶の本』における東洋男性イメージの効用は、必ずしも天心の期待したものではなかった。というのも「平和的」で「美的」な「東洋」というイメージこそ、移民排斥運動や黄禍論が高まるアメリカ社会にとり都合が良く、その白人中心的な共同幻想においてアジア人男性のアイデンティティーをデビット・エング氏が云う所の「人種的去勢」状態に維持出来る言説であったからだ。


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第85回例会 2006年4月2日 於:世田谷男女共同参画センターらぷらす 北沢タウンホール11階・研修室4

研究報告:「幾何学の周辺──韓国現代美術の女性アーティスト三人の作業 (At the Margins of Geometry: Works by Three Women Artists)」
   報告者:ユン・ナンジ(尹蘭芝)

【報告者プロフィール】
梨花(イファ)女子大学美術史学科教授、専門は、西欧と韓国の現代美術、美術理論

著書(韓国語): 『現代美術の風景』(2005)など。
論文(韓国語):「ポスト資本主義時代のミュージアム:大聖堂とデパートの間」(2002)、「1947年から1950年までのジャクソン・ポロックの絵画を読む」(1998)
日本語訳論文:「視覚的身体記号のジェンダ−構造−ウィレム・デクニングとソ・セオクの絵画」『イメ−ジ&ジェンダ−』1号、1999)、「ピカソの原始主義」(『イメ−ジ&ジェンダ−』2号、2001)
展覧会企画 : 「もうひとつの美術史:女性性の再現」(2002)、「美術の中の漫画、漫画の中の美術」(2003)、「家の息づかい」(2004)、「時空を超える響き:伝統と現代」(2005年、美術関係者の選ぶ2005年度の最優秀展示)(いずれも梨花女子大学博物館)

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第84回例会 2006年2月5日 於:世田谷男女共同参画センターらぷらす 北沢タウンホール11階・研修室4

研究報告:「第51回ヴェネチア・ビエンナーレ日本館コミッショナーとしての報告と問題提起」
   報告者:笠原美智子(東京都現代美術館学芸員)

【報告概要】
 第51回ヴェネチア・ビエンナーレの日本館コミッショナーとして「石内都 マザーズ 2000-2005 未来の刻印」展を企画・構成した。コミッショナーとして参加して、様々な局面で浮かび上がってきた問題を、ビエンナーレの報告として提起する。項目は以下のとおり

 (1)出品作家選択 (2)予算 (3)主催者 (4)会場 (5)ベネチア・ビエンナーレの歴史と現在 (6)日本館の歴史と現在 (7)その他

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研究報告:「「前衛の女性1950−1975」展の総括と反響―美術館でジェンダー展をやることの意味について」
   報告者:小勝禮子(栃木県立美術館学芸員)

【報告概要】
 報告者は、2005年7−9月に「前衛の女性1950−1975」展(栃木県立美術館)を企画・開催した。この展覧会は、「奔る女たち―女性画家の戦前・戦後」展の続編として、日本近現代美術史に記述されて来なかった女性アーティストの作品を、1950−1975年という年代を区切って集成し、彼女らの作品の多くが受容されなかった社会的背景を探ったものである。会期中、出光真子の映画上映会、イトー・ターリのワークショップとパフォーマンス、展覧会のテーマに即してアメリカと韓国に視野を広げたシンポジウムを開催した。本報告ではこの展覧会の構成を会場写真によって紹介し、開催目的の達成度や今後の課題について、展覧会の反響に即して総括する。それと同時に、地方公立(財団)美術館が「指定管理者制度」、旧国立・現独立行政法人の美術館・博物館が「市場化テスト」による民間開放の波に晒されている現状を含めて、美術館でジェンダー展を開催することができる意義を探る。本展を見た会員による率直な批判や意見交換の場となることを期待する。

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第83回例会 2005年12月4日 於:世田谷男女共同参画センターらぷらす 北沢タウンホール11階・研修室4

研究報告:「GHQ民間情報教育局CIE 映画の戦後日本に与えた影響とその限界」
   報告者:身崎とめこ(川村学園女子大学大学院)

【報告概要】
 1.本発表の目的
  戦争終結後、GHQ連合国総司令部が、敗戦国日本にもたらした改革の根本理念のうち最も重要なものは、国民生活に関わるものとして以下の2つの提案に集約される。
   (1)民主主義の普及と啓蒙
   (2)男女平等概念の導入

 2.CIE民間情報教育局の活動
  これらの実践活動の一環として民間情報教育局の活動がある。その活動の目的は大きく分けて、国民生活全般への民主主義の教育と浸透、日常生活の民主化を目論むものであった。その活動には主に以下の2つが挙げられる。
   (1)農村の生活改善運動
   (2)CIE教育映画の全国的展開
   これらの活動は相互に関連しあって国民生活を底辺から民主化し、生活改善する試みであった。

 3.CIE民間情報教育局の活動の背景

 上述のCIEの2つの事業のうち
  (1)農村改善計画は、農地改革を基礎に農業事業の改善と農村の生活改善運動とが表裏一体をなすものであった。それらは協同農業事業者計画として昭和23年度より発足し今日に至っている。生活改善は、カマドの改善をまず第一の出発点として、農村女性の農作業と家事労働の2重の重労働の軽減を図り、同時に男女平等の概念を封建的農村社会に啓蒙するものであった。CIE情報 教育局の家政教育担当指導官のモード・ウイリアムソン等の調査・視察やSCAP文書の記述によれば、「旧弊な戦前の家制度の中から無償労働者としての女性を解放し、その地位を高めることにあった。」とされている。
  (2)CIE教育映画は、通称ナトコ映画とよばれ、CIEの厳格な管理統括下に民主主義啓蒙を目的に芸術・科学・社会等のあらゆる分野における世界の知識や情報を多くの人々に伝達することにその役割があった。それによって軍国主義的風潮を社会の底辺から払拭し、大戦後の平和国家建設の基盤として、民主的な国民生活とはどうあるべきか、教育・社会・政治のみならず住宅・家庭・家族のあり方にいたるまでの多くの映像を提供したのである。これらの映画は視聴覚教育の分野のみならず、戦後間も無い時代の貴重な娯楽として子供から大人まで膨大な人々を動員し、消費されていった。

 4.CIE映画初期の代表的2作品からの分析
  A 「明るい家庭生活」英語版題 「For a Bright Home Life」 CIE 211 国内製作 21分 1950年10月20日公開
   制作背景――CIE民間情報教育局 による台所中心とした生活改善と民主的家庭科教育の実践
   設定主題――「農村の台所の改善」を通して提案される本質的テーマ
    (1)家庭内の男女平等
    (2)教育現場における民主主義
  B 「将来の設計」 英映画題名 Design For Furture CIE編集版 CIE 67 21分 1948年10月8日公開 製作年度不明
   制作背景――被災都市カヴェントリの住宅復興計画−プレハブ住宅の普及推進
   設定主題
    (1)イギリス都市計画の全体像と住宅供給計画の基本
    (2)公的領域での労働における男女の機会均等と平等
    (3)イギリス社会の階級問題の提示

 5.「明るい家庭生活」に示された台所の改善とその展開
  ○実現された家事労働の軽減/電化された台所
   1950年代――日本住宅公団51C型住宅の誕生とステンレス製ダイニングキッチン
   1960年代――3種の神器に始まる家電製品のダイニングキッチンへの大量流入と高度成長社会

 6.CIE教育映画の観覧者状況
  (1)CIE教育映画全体の全国展開
  (2)「明るい家庭生活」の映写状況

 終わりに  新憲法に掲げられた民主主義理念と男女平等とは戦後女性にとって何であったか。

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研究報告:「マイホーム幻想としてのパッチワーク」
   報告者:乾淑子(北海道東海大学)

【報告概要】
 最近は大変な編み物ブームらしい。編み物にせよ、パッチワークにせよ、これらは伝統的な生活の中では当然行わねばならぬ家事であった。明治時代に西欧由来の布にまつわる手仕事を裕福な婦人たちが嗜み、「手芸」と呼ぶようになった時から、生活必需の家事としての針仕事と趣味的な手芸とが分離したようだ。
 その中で、手芸としてのパッチワークは家事としての継ぎ接ぎとは無関係なものとして発達した。これが一般家庭の少女や婦人に浸透するのに力のあった絵本、少女小説などをまず考えたい。
 また1980年代に駒場の民芸館での朝鮮工芸の展示に際して持って来られた継ぎ接ぎが予想外の評判を呼び、以降ポジャギ(褓子器)という名で親しまれる。実際にはポジャギという言葉は風呂敷および袱紗全般を指し、絹に色とりどりの刺繍を施した貴族階級の官褓までを含有する広い概念である。この時の展示には袱紗的な豪華なポジャギも含まれていたが、人々が感動したのは薄い麻の生成り色の小裂れを継ぎ合わせた本来はチョガッポという民褓であった。
 柳宗悦はチョガッポを知らなかった。節約の結果であるチョガッポは旅行者である柳の目に触れたことがなかったが、もし柳が知っていたら当然愛でたであろうものである。柳の目を自らの目と内在化していた民芸館の観客たちは豪華なポジャギに目もくれず、貧しいポジャギに感動し、それ以降日本ではこのチョガッポだけをポジャギと称するようになる。更に韓国にもそれが影響し、現在ではチョガッポがポジャギを代表するものとなった。植民地支配のなしえなかった美意識の改変をなしえたとも言えよう。
 その頃、日本の伝統的な継ぎ接ぎも手芸的な意味で評価されるようになっていた。その一端となったのがアメリカのキルト大会での日本の古布によるパッチワークキルトの受賞である。その名は「福田衣」継ぎ接ぎによる袈裟である。小裂れを寄せるということの祈りは朝鮮にも日本にもある仏教的な観念であったが、その失われて久しい90年代に手芸としても愛好されるに至り、継ぎ接ぎ、寄せ裂れ等の古い名を廃し、和のパッチワークという名で世に出た。ここに三様の継ぎ接ぎが、家庭婦人の美意識と豊かな時間を消費する趣味的な手芸として、豊かな消費社会、平和なマイホームを表象するものとなった。これはまたアメリカ→日本→韓国という文化的植民のベクトルをも含有する。

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第82回例会 2005年10月23日 於:世田谷男女共同参画センターらぷらす 北沢タウンホール11階・研修室4

研究報告:「“残酷と慈悲の母の母”:やなぎ みわの最新作「寓話シリーズ:FAIRY TALE」を考える」
   報告者:リヴィア・モネ

【報告概要】
 やなぎ みわの最新作「寓話シリーズ」(原美術館、「無垢な老女と無慈悲な少女の信じられない物語」展、2005年8月13日ー2005年11月6日)は、グリム、アンデルセンの古典的な童話やガブリエル ガルシア=マルケスの短編小説などからインスピレーションをうけているように見えながらも作者独自の神話的・幻想的な世界を作り上げているに違いない。その世界の背景に日本の神話、昔話、仏教思想、伝統芸能(能楽など)の要素が響いていると思われる。同時にやなぎのビジョンが日本のコンテンポラリー・アートやアニメ・漫画に代表されるサブカルチャー、いわるポストモダン・アート、1970年代以降現れたフェミニズム写真美術、フェミニズム ビデオ・アートなどと批評的な対話を行っているようにも見える。本発表ではフェミニズム童話研究(feminist fairy tale studies)、G.アガンベン、A.ワルブルグ、W.ベンヤミン、G.デリューズの哲学や美術批評の言説を踏まえながら「寓話シリーズ」のエロスや倒錯、そしてその不気味な魅力を読み解いてみたい。

*リヴィア・モネ略歴
カナダ・モントリオール大学比較文学科教授。2004年7月ー2005年10月まで国際際交流基金、日本学術振興会の招聘研究者として日本滞在。1980年代以降の女性映像作家のインディペンデント映画やビデオ・アート、そして女性作家のアニメーションやメディア・アートを研究。河瀬直美、出光真子、束芋など、現代女性監督・映像作家や女性美術家についての研究論文、そしてフェミニズム文学、押井守のアニメ、SF映画などについて英語、フランス語、ドイツ語、日本語の論文や著書多数。著書に「石牟礼道子の文学の世界」(ミシガン大学出版会、2004年発行)、「近代日本思想史再考」(モントリオール大学出版会、2002年発行)など。2006年にやなぎ みわ、T.DOVE,Nalini Malaniなど、現代女性美術家におけるエロス、時間概念や新しいユートピアなどを論じる研究書がイギリスで発行される予定。ドイツ・アジア研究協会賞、キャノン財団学術賞、カナダ・人文社会系会議学術奨励賞など受賞。


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映画上映:「30年のシスターフッド〜70年代ウーマンリブの女たち」(2004年)
   製作者:山上千恵子・瀬山紀子
   企画:女たちの歴史プロジェクト
   音楽:MASA、Ahn Hye Kyoung

【作品紹介】

 この作品は、1970年代の日本のウーマンリブを生きた12人のおんなたちの語りから、ウーマンリブのエッセンスを伝え、彼女たちが開いてくれた道とその現在の位置を知ろうと、30歳ほど歳の離れた二人の女が編み上げたドキュメンタリーです。
 作品は、ウーマンリブを生き続けているおんなたちのインタビューをもとに、ウーマンリブという多層で多様な広がりをもつおんなたちの運動を、今に伝え、おんなたちの歴史をつなげていこうと作りました。(女たちの歴史プロジェクト)

制作者から、イメージ&ジェンダー研究会上映会へのメッセージ

ジェンダーや男女平等を掲げる運動に対するさまざまなバックラッシュがおきている現在、私たちは、ともすれば過去に葬り去られてしまいかねないさまざまな女性たちの辿った歴史を伝えていく必要性に駆られている。

そのとき、私たちは、どんな声を、誰に、どのように伝えていくことができるのか、伝えてゆきたいのか、ということを考え、それをさまざまな方法で実践に移していく必要があると感じている。

この映像作品は、現在という時代状況のなかで、女性というところにある人たちが、どのように過去とつながるのか、女性たちはどんなことに憤り、声を上げてきたのか、現在の状況のなかで、それらの声はどのような位置にあるのか、ということを考え、伝えていく作業の一つとして取り組みました。

みなさんと時間を共にしながら、さらに掘り下げて話ができるのを楽しみにしています。

せやまのりこ


私は人の評価ばかり気にする自分が大嫌いだった。70年代のウーマンリブといわれる女性達に出会ってはじめて自己肯定できるようになり楽になった。
それ以来ウーマンリブのドキュメンタリーを作りたいと思い続けていた。

私がウーマンリブの話をするとほとんどの人は「暗くて重い運動をした人たち」「恐い、ヒステリーの女たち」「ダサイ」と言った。
それはマスコミによって作られたイメージ。私はそんなイメージを払拭して、ありのままのウーマンリブを伝え残さなければと思った。
私は歴史家でもフェミニズム研究者でもないからウーマンリブの歴史的意味や位置づけなど出来ない。
映像として出来るのは、70年代、ウーマンリブに出会って以来じぶんらしく生きる道を探しつづけてきた女たちの存在そのものを描くこと。
存在するリブたちが放つものを感じてほしいと思う。
そして誰にもなににも媚びず、ありのままの自分を生きることの大切さを共に考えたい。
女たちに逆風の吹く今だからこそ。

山上 千恵子

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第81回例会 2005年10月2日 於:千駄ヶ谷駅前 津田ホール 101・102会議室

シンポジウム「表象の可視/不可視とジェンダー」(ジェンダー史学会との共催)

研究報告1:「近代天皇制国家におけるアマテラスの政治的機能」
   報告者:千葉慶
   コメンテーター:原武史(日本政治思想史)

【報告概要】
 周知のように、明治政府は新しい為政者の支配権を正統化するためにアマテラスというシンボルを利用した。人民告諭の類において、天皇は「アマテラスの子孫」であると宣伝され、神道国教化政策では、天皇即神のイメージが強調されるようになる。また、興味深いのは、政府によるアマテラスの正典化が、アマテラスの女性化を意味したことである。明治初期の神仏分離は、男神アマテラスの禁止につながった。その結果、男性中心主義的な国家の至高存在であり、天皇権の正統化原理であるアマテラスが女神であるという矛盾をいかに解消するのかという問題が生じたのである。加えて、天皇と女神アマテラスのイメージの近接は、天皇を女性化するものであり、天皇を欧米なみの近代的君主として男性化する動きと齟齬を来す。さらに、女権運動の中には女神アマテラスの存在を根拠に男女同権を唱える議論もあり、ますますアマテラスを国家の根幹におくことは困難になった。
 以上の矛盾の解消は、どのように行なわれたか。天皇の女性化の問題は、アマテラスを天皇よりも高次の存在として伊勢に祀り、天皇を神武天皇に擬えて元帥として男性化するかたちで解消された。天皇の男性化は、国家制度における男性中心主義を加速させるものであったが、男性支配と女神崇拝という矛盾は、天皇=家長によるアマテラス祭祀の独占とアマテラスの脱ジェンダー化によって解消された。合わせて、国定国史教科書ではアマテラスのジェンダーを明記せず、挿絵は載せない方針が採用された。この措置によって、女神アマテラスが女権運動に援用されることを二重に防止したのである。
 このアマテラスの飼い馴らしの過程で完全に欠落した要素は、異性装である。通俗的規範の逸脱である異性装は、呪術的な行為であると同時に、自らの身体の聖別化にも繋がる重要な要素だったと思われる。しかしこの要素は、天皇の男性化とともに公的政治文化からは脱落し、新宗教のアマテラスのなかにのみ生き続けた。大本教の出口なおが、自らをアマテラスあるいはアマテラスの妹の化身であり、「変性男子」であると位置づけたことは象徴的である。
 近代天皇制の歴史は、権力の正統化原理としてのアマテラスをいかに馴化するかの歴史でもあったが、完全に馴化することは最終的に叶わなかったと見るべきだろう。戦中期の天皇は、アマテラスにはなれなかった。彼はアマテラスの神威を恐れ敬う祭祀者の立場に留まった。一方、アマテラスを憑依させた異端の宗教者の一人(北村さよ)は、敗戦をもって「岩戸開き」を宣言するに至るのである。

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研究報告2:「公共彫刻による都市空間のジェンダー化とその変容」
   報告者:西山千恵子
   コメンテーター:森理恵(日本服装史/美術史)

【報告概要】

 日本の公共空間、例えば、駅前広場や公園、街路や遊歩道、市役所、公民館といった公共施設の屋内外には、しばしば、具象、抽象さまざまの彫刻作品が設置されている。これらはたいてい、国、自治体等の公的機関によって設置、管理されているものである。これらの彫刻作品(公共彫刻と呼ぶ)は、一定の規制、統制、選択を受けつつ、なんらかの明示的、暗示的な政策的意図あるいは効果をもって設置されており、モニュメントとして人々へ心理的な同調を促すシンボル操作の役割を果たしてきた。
 今日見られるような形で、公共の場に彫像が設置されるようになったのは、西洋美術が導入された明治以降である。その時期から第二次世界大戦までは、国家主義にもとづいて、神話、歴史、軍事、文化、政治上での偉人を記念し、賛美、顕彰する彫刻、いわゆる銅像が多く作られてきた。日本武尊、神武天皇から、戦国武将、幕末の志士、政治家、日清、日露戦争の功労者、学者、芸術家、産業振興の寄与者など多岐に渡る。軍国主義国家への功労者という性格からいって、軍人、軍服に身を包んだ男性像が多く、その典型は、騎馬像にまたがり、あるいは胸をはった、威厳に満ちた姿勢で、高い台座に君臨し、その下位の空間を威圧、支配する効果を与えるというものである。近代都市は、このような権威と力に満ちた男性像により装飾されていった。
 しかし、太平洋戦争半ばからは、これらの銅像の多くが銅鉄供出により失われた。また、戦後の急激な民主化により、軍国主義的色彩の強い銅像は撤去、破壊されていった。
 大戦後は、経済の回復が進むにつれ、戦前タイプの銅像が再建されたり、継続されたりするとともに、新たなタイプの公共彫刻が設置され始めた。それらは戦後日本の国是とされた「平和」「発展」等の諸価値をヌードの人体像で表すものである。中でも特筆すべきは、母子像の多さであろう。母子像は、平和の象徴として、また母性愛そのものの賛美として、全国の都市に設置され続けた。さらに、高度経済成長を経て、1970年代後半から自治体行政は、「地方の時代」「文化の時代」を打ち出し始め、その中で、公共彫刻は、イデオロギー、スローガン重視の傾向から、芸術的価値重視の傾向へと移行しつつ、都市の景観形成、文化的まちづくり事業、地域の個性の表現の一要素として、その数を増やしていった。そして、それらの公共彫刻は、抽象彫刻を除いては、多くが若い女性のヌード彫刻である。その中には、エロチックなポーズ、文脈を伴って、セクシャルな意味を帯びた女性像も少なくない。文化行政が進展し、街づくりに「癒し」、アメニティ(快適環境)が求められてくるのに応じて、今度は、母子像とともに、大量の無名の女性ヌード彫刻が公共空間に露出されるのである。

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第80回例会 2005年7月30日 於:港区立男女平等参画センター「リーブラ」5階ホール

シンポジウム「イメージという戦場──戦争をめぐる表象の政治学」

研究報告1:「ナンシー・スペロ《戦争シリーズ》」
   報告者:中嶋泉(一橋大学大学院)

【報告概要】
 1926年生まれの米国人美術家ナンシー・スペロは、1966年から1970年にかけ、《戦争シリーズ:爆弾とヘリコプター》を作成した。本報告ではこの水彩画のシリーズ を、当時女性解放運動とベトナム反戦活動ともに精力的に従事していたスペロによる、フェミニスト反戦画として取り上げ、高度にメディア化された現代の戦争を絵画で描くこと、またフェミニスト・アーティストという立場から(反)戦争画を描くことに関わる問題を考察する。

研究報告2:「戦争と悲母観音」
   報告者:千葉慶(千葉大学)

【報告概要】
 本発表のタイトルは、一見奇異なように見える。なぜならば、一般的に「戦争」は破壊や死を、「悲母観音」は理想的な母や生命の誕生を連想させるイメージとして捉えられているからである。しかし、果たして両者は決して結びつくことのない関係にあるだろうか。本発表では、一見「戦争」とは対極であるかのような「悲母観音」が、「戦争機械」としての国家を駆動させる根源的イメージの一つであったことを明らかにする。また、このイメージを今わたしたちはどのように乗り越えていくべきかを模索したい。

研究報告3:「15年戦争期の天皇と皇后の肖像」
   報告者:北原恵(甲南大学)

【報告概要】
 本発表では、15年戦争末期に全国を巡回した「第二回大東亜戦争美術展」(1943年〜)に出品された3枚の天皇・皇后図――藤田嗣治《天皇陛下伊勢の神宮に御親拝》、宮本三郎《大本営御親臨の大元帥陛下》、小磯良平《皇后陛下陸軍病院行啓》――を取り上げる。そして、これらのゝГ覘統率するLす図像を扱った三作品の同展覧会における位置づけや機能を明らかにし、戦後の「戦争画」というジャンルと言説化の政治性も考察する。

研究報告4:「着物文様としての大日本帝国地図」
   報告者:乾淑子(北海道東海大学)

【報告概要】
 戦争柄着物の文様としての地図柄の最初は明治38年の例であるが、これは実物ではなくデザインのみである。現存する地図柄を大きく分けると、日本全図 とその周辺の国々とを同色に染めて日本の領土であることを示す物、戦地の交通網や地形を写した物、地球儀を描いてその中に日本の位置を示す物の3つである。領土拡大の運動である戦争の文様としての地図は、戦捷を記録することであり、あらゆることを意匠化する着物というメディアの面目躍如たる意匠力の発露でもある。

研究報告5:「アジア・太平洋戦争期のアニメーションに見る自己と他者のイメージ――『くもとちゅうりっぷ』を例に――」
   報告者:木村智哉(千葉大学大学院)

【報告概要】
 アジア・太平洋戦争期の日本では、政治宣伝を目的としたアニメーションも数多く製作された。本研究ではそれらの作品の中から、むしろ現在でも「叙情的な作品」とみなされ、プロパガンダ作品とは異なる扱いを受ける傾向の強い、政岡憲三の『くもとちゅうりっぷ』(1943)を取り上げる。当時の政治的文脈の上に、そのストーリーや登場するキャラクターのイメージを置きなおすことで、作品自体が持ち得た意味を再度考察することがその目的である。

研究報告6:「ファンタズムとしての戦後──カルメンというメタファーが意味するもの」
   報告者:斉藤綾子(明治学院大学)

【報告概要】
 日本の戦後映画において、女性の身体がいかにさまざまなメタファーとなってスクリーンに登場したか、とりわけ戦後の解放がいかに肉体の解放として表象されたかについて、木下惠介監督の『カルメン故郷に帰る』と『カルメン純情す』を中心に見ていく。本発表は、戦時中のジェンダー表象がどのようなものであったかという視点ではなく、敗戦という歴史的トラウマを負った日本の文化表象の中で、占領期というもう一つの新たなトラウマと解放の相克の中で、戦時中の記憶がどのように書き換えられたか、また敗戦という表面的な歴史的断絶が、スペクタクルとしての女性の身体が持つ現前性によって隠蔽されているかに注目するものである。従って、女性の身体は何よりもまず「戦争」の亡霊を追い払う機能を持った一方で、戦争というトラウマを否認し、歴史的連続性を取り返そうとする欲望の徴候としての機能を持っていた。そのなかで、木下が作り上げたカルメンというキャラクターは、占領期の日本が抱えていたさまざまな矛盾をまさに体現している。『カルメン』を通じて、敗戦と占領がどのようなねじれを見せているかを分析したい。

研究報告7:「戦争の記憶を越えて―─長澤伸穂の試み」
   報告者:由本みどり(New Jersey City University)

【報告概要】
 東京出身で、幼少期をオランダで過ごし、高等教育はドイツとアメリカで受けた長澤伸穂は、1980年代後半より、世界を舞台に活躍する国際的アーティストとなった。近年では、アラブ首長国連邦、バングラデシュ、日本の越後妻有などにおける国際展で、それぞれの地元の住民を巻き込む、パブリック・アート的な、参加型のインスタレーションを手がけたことで知られる。本考では、数多い長澤の作品の中でも、戦争または紛争の記憶を呼び起こしながらも、且つそれを乗り越える目的で制作された、いくつかのプロジェクトを取り上げ、アートがいかにパブリック・メモリーに訴えることで、それを各々の観者自身の力で変容することができるかを論じる。

研究報告8:「肉弾三勇士をめぐる表象の政治学──戦時の民衆文化」
   報告者:若桑みどり(川村学園女子大学)

【報告概要】
 本発表は、戦争へと民衆を動員するにあたって、「軍神」すなわち戦場において生命をなげうって国家に献身した英雄の表象は絶大な効果をあげた。それらがどのように、まただれによって作り出され、それが民衆にいかに宣伝、普及され、いかなる効果をもたらしたかを実証する。そのなかでももっとも大規模で広範な影響をもったのが1932(昭和7)年2月23日に中国の廟行鎮で起った三人の工兵による自爆テロである。本発表では、第一に「軍神」の偶像化とその手段、第二に戦後における『軍神』捏造説と家族の被害、第三に靖国問題と「軍神」を中心に論じる。

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第79回例会 2005年6月4日 於:港区立男女平等参画センター「リーブラ」4階 集会室3

研究報告1:「仏映画『8人の女たち』に見る家父長制社会の崩壊とステレオタイプ化された女性像からの解放」
   報告者:平手香澄(川村学園女子大学博士前期課程)
   コメンテーター:若桑みどり(川村学園女子大学)

【報告概要】

  本発表は、フランスの前衛監督、フランソワ・オゾン(1967〜)の『8人の女たち』についてジェンダー的視点からの考察を行うものである。
 『8人の女たち』は、登場人物中唯一の男性である主人のマルセルと、その家族、妻・娘・メイドなど女たちの住む館で起こる、密室殺人の犯人探しの一日を描いたものであり、被害者は主人のマルセルである。容疑者である女たちは、互いを疑い激しく罵り合って、それぞれが、マルセル殺害の動機となりそうな彼との金銭と性の関係を次々と暴露していく。しかしながらマルセルは生きていて、それらを見届けた後に自殺する。
 一見するとこの映画のストーリーは、ひとりの男性をめぐる身勝手な女たちの、醜い心の有り様を、まざまざと風刺したようにも捉えられる。しかしながらこの物語の真の主人公は、ただの一度も画面に登場しない主人マルセルである。
 フィルムのストーリー分析を通じて、一人の男を巡る多数の女たちの、金銭欲と性欲とが複雑に絡み合った異様な関係を解明し、一人の男を巡る一夫多妻的構図が、いかにグロテスクなものであるかを、明らかにする。そしてさらに、一人の主人を巡り、その金銭と性を争奪するべく女たちを競わせるその構図が、男性にのみ経済的活動を可能にし、女性を私的世界に閉じ込め、男性の扶養と愛情だけがその生活を保証するという家父長制社会の基本的な構造であり、そのシステムが男性の優位性を強め、女同士の結束を拒ませるものであることを指摘する。実際に、物語は終始、人里離れ、社会から孤立した別荘「鹿の園」で起る。一回も登場しない男性主人をめぐって起る女だけの争いというこの構成は、実は隠れた支配者、稼ぎ手であり、性の分配者である「家長」こそすべての中心であることを示す。すなわち、このドラマの舞台は家父長制社会そのものであり、ドラマは家父長制社会で生み出された男女両性の関係性を表象している。
 8人の女たちは、それぞれがハリウッドがその黄金時代において生み出した、女性のステレオタイプ(男から金銭と愛情を巻き上げるファム・ファタルであるセックスシンボル、尽す女、愛に飢えたオールドミス、清純派、小悪魔など)を演じた大女優たち(ラナ・ターナー、エヴァ・ガードナー、オードリーなど)をパロディ化している。これによって作者は、ハリウッドが生産した「女性のステレオタイプ」は、実は、家父長制システムのなかで生み出された典型的な女性像の表象であることを暗示したのだと考えられる。これと同時に、これらの類型は、この社会の男性たちにとって、もっとも好もしい女性像であるがゆえに継続的に大量生産された女性像でもあった。つまり、このパロディ化は、これらの女性像がハリウッドの生み出した「虚像」であり、現実の存在ではないことをあらかじめ示しているといえる。
 女たちを、このようなグロテスクな状態に追いやった一家の主人であるマルセルと、彼が支配するこの家庭が、実際上の一夫多妻制度である家父長制社会の表象であることはすでに述べた。しかし、同時に、あらゆるタイプ、年令の女をあやつるマルセルは、家父長制的なハリウッド・スタジオシステムを象徴する。また主人マルセルの死は、家父長制社会の崩壊を表象すると同時に、ハリウッドの家父長制社会的価値観によって生産されてきた女性表象が支配する映画の一時代の終焉を象徴している。 このフィルムの特徴の一つであるミュージカル的な要素が及ぼす異化作用と、女たちが横一列に並び、手を握り合うラストシーンの分析から、女優たちは、この映画のなかで、与えられた役割を演じていたに過ぎず、彼女らは「実は」手をつなぐ仲間であり、醜い争いを繰り広げるライバルではないことを作者は示そうとしたと解釈できる。つまりこのフィルムは、家父長制的な性観念に基づいてスター女優を生産してきたハリウッド批判であると解釈できるのである。
 作者はその作品の前歴とくに出世作となった「ホームドラマ」が示すように、性的多様性を主張する意図をもっていると考えられる。作者はとくにセクシユアリテイーの自由という立場から、家父長制社会の性の原理である強制的異性愛の牙城であるハリウッドの批判を行ったと論者は解釈する。

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研究報告2:「東京のクイア・パフォーマンス」
   報告者:中村節郎(放送大学大学院修士課程)
   コメンテーター:戸谷陽子(お茶の水女子大学)

【報告概要】

 1.「クイア」とは何か
 (1)もともと同性愛者に対する蔑称。米国では1980年代の終わりから1990年代の初めくらいにかけて肯定的に使われ始めるが、その場合も意味は多様。個々の文脈で、どのように使われているのか、注意する必要がある。
   e.g. ゲイ/ゲイ・レズビアン/ゲイ・レズビアンその他のセクシュアリティを含む/政治的/非政治的・・・。
 (2)今回の発表で用いる「クイア」の意味・・・「さまざまなセクシュアティの人々が、お互いの違いを認め合いながら、差別と闘うために連帯するための合言葉」
   ※この意味では、ゲイ、レズビアン、バイセクシュアル、TS(トランスセクシュアル)に対する差別に対し、一緒に抵抗したい人は異性愛者でも「クイア」であり、逆に、ゲイ以外のセクシュアル・マイノリティの問題には関心のないゲイの人や、自分のことを「ノーマル」といってしまうような異性愛の人は、クイアではないと考える。
  (3)日本に見られるクイア的な考えかたの例
   i)90年代初頭、伏見憲明氏が、上記の意味での「クイア」と同様の意味で「ヘンタイ」ということばを使用。(現在、伏見氏は主に「クイア」ということばを使用)
    ・・・だから、ぼくはゲイと呼ばれるマイノリティだけど、ぼくだって[ふつう]なんだ!」と叫ぼうとは思わない。それよりは、「あなたもあなたであろうとすれば、[ヘンタイ]なんだ」とメッセージしたい。・・・そのヘンタイとヘンタイがどうやって折り合いをつけながらいっしょに生きていくのかが、関係ということ。・・・
   ii)2003年に札幌で開催されたセクシュアル・マイノリティのパレード「第7回レインボー・マーチ」の後で行われた集会での、上田文雄札幌市長のスピーチ。
    そして、これはレインボー、七色、このレインボーの意味に託されたその意味、私は人々の多様性、それを表したものだという風に理解をいたしております。どうか自分たちの問題だけではなくて、他にも思い悩み、一人でしょんぼりしている人を見つけたら、声を掛けてあげようではありませんか。みんな仲間なんだ、この札幌で、この日本で、そしてこの自然、この自然の中で私たちの日本が豊かに、人間性を本当に開花できる、ひとりひとりが鮮やかな、彩り豊かな人生を送ることが出来る、そんな日々が来るように、私たちはみんなに声を掛けていこうではありませんか。

 2.今回の発表でとりあげる「クイア・パフォーマンス」
 ・「クイアな人々による、パフォーマンスによるアート・アクティビズム(アートを手段とする社会運動)」あるいは ・「クイアな人たちの文化的パフォーマンス*」
   *「文化的パフォーマンス」:「文化や社会全体が、自分たちについて省察し、自分たちを適し、自分たちの集合的な神話と歴史を演じる場所である。文化的パフォーマンスは自分たちの存在の様態を維持するために用いられるが、選択的なビジョンの呈示によって、将来の変革の可能性を与えることもできる。」(高橋雄一郎、「パフォーマンス研究」)

 3.日本のクイア・パフォーマンス(ビデオによる紹介)
  ・劇団「フライング・ステージ」・・・心を動かす「巧妙なリブ」。
  ・脚本家、永井愛「萩家の三姉妹」・・・“考えるエンターテインメント”。
  ・G.O. Revolution・・・ドラアグ・クイーンからヘンタイ・ゲイ・パフォーマーへ。
  ・イトー・ターリ・・・カムアウトしたからできるパフォーマンス。
  ・劇団「ピンク・トライアングル」・・・レズビアン・アイデンティティをポップに問う。
  ・「SEX」・・・新宿2丁目でのクラブ・パーティーを通じたHIV予防啓蒙活動。

 4. 無視される日本のクイア(パフォーマンス)
  (1)アート・アクティビズムに対する一般的批判
  (2)研究者・批評家による日本のクイア(パフォーマンス)の無視
  (3)セクシュアル・マイノリティの無視の合理化に利用される「クイア・セオリ」

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第78回例会 2005年4月3日 於:世田谷男女共同参画センターらぷらす 研修室4

研究報告1:「ジェンダーのために美術館でなにができるか─東京都現代美術館での試み─」
   報告者:若桑みどり(川村学園女子大学)
   コメンテーター:笠原美智子(東京都現代美術館)

【報告概要】

 美術館「冬の時代」にあって、諸美術館は採算性ばかりでなく、政治的なジェンダーバッシングを背景にして、ジェンダーまたはフェミニズムを冠する展覧会の開催がきわめて困難になっている。そのような中で、現代美術館で開催された「愛と孤独そして笑い」展(キユレーター 笠原美智子)は大胆で画期的なものであり、非常に意味深いものであった。
 この機会に、イメージ&ジェンダー研究会という専門家の集まりにおいて、この展覧会の意味と意義を総括することは重要である。
 発表の要点は (1)展示作品のジェンダー的視点からみた解釈を示す。(2)いかにして作品の提起するジェンダー的問題を一般観衆に理解させ、これをもってアートの理解とジェンダーの理解にむすびつけるかを考えるという2点にある。

 かつてアートは男性の経験と心情告白の専有空間だった。その意味で、女性の経験と心情が独占的に展示される空間に対しては当然異議または違和感がある。この違和感をなくし、男女双方の表現が均衡を得ることが絶対に必要だ。それでこそ、はじめて「人類のアート」といえる。
 しかし、これをアートにリテラシーのない一般観衆に訴えることは非常にむずかしい。造型手法や、創作理論についてやさしく解説し、大衆の興味を引出すことのできる学芸員の教育や展示の方法、解説の仕方の開発が必要である。民衆がおもしろがらなくてどうしてアートの存在意義があるか?ジェンダーをアートを通して民衆に浸透させるためになにをしなければならないかを本発表では問う。

  さらに本発表では次の三点を提案する。
  (1) 男女共同参画センターの企画を社会/政治問題に特化せず、文化的なテーマで組み立てること。
  (2) イメージ&ジェンダー研究会主催のアート展またはアートの講演会を企画すること。
  (3) アート解釈のリテラシーを普及するために、なんらかの出版を行うこと。

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研究報告2:「Reclaiming the Southeast Asian Goddess: Examples from Contemporary Art by Women(Philippines, Thailand and Indonesia)」
   報告者:Flaudette May V. Datuin (Associate Professor University of the Philippines)
   コメンテーター:北原恵(甲南大学)

【報告概要】 東南アジアの女神を召還する:女性による現代美術の実例(フィリッピン、タイ、インドネシア)

 今回の発表では、女性の産む・育てる・癒す力をテーマとして、そしてメタファー、シニフィアンとして、東南アジアの女神像を浮き彫りにしたいと思います。東南アジアの女神伝説を見直すことにより、東南アジアのフェミニズムの枠組の概要を紹介します。それは、具現化された精神性の周辺を廻るものであり、ヒエラルキーと二元論の代わりに、流動性と全体性に基づいた、解剖学的・精神的・社会的・心理的空間として、身体が解釈されるという概念です。その過程において問題とすべきことは、東南アジアの女性アーティストの多くが、意識的にそして公然的に「フェミニスト」ではないにもかかわらず、東南アジアで、そしておそらくアジア全体で台頭しつつあるフェミニズムの輪郭のほうに向いているということです。このような「複数形のフェミニズム」は、セクシュアルで身体中心の解放(ラディカル・フェミニズムにあるような)、あるいは未だに変化しない社会構造における「平等の権利」(リベラル・フェミニズムにあるような)につながった、単なる個人の自主性に根ざしたものと決めつけることはできません。
 私の進行中の研究、そして東南アジアの視覚芸術の女性アーティスト達から抜粋して、フィリピンとインドネシアとタイのこれらの女性アーティストたちが、東南アジアの女神像をいかに具体的な形にし、明瞭化しているかを、彼女たちの生と作品を通して例をあげ、紹介したいと思います。

 ABSTRACT

  In this talk, I will invoke the figure of the Southeast Asian goddess as theme, metaphor and signifier for women’s life-giving, nurturing and healing powers. By reclaiming the legacy of the Southeast Asian goddess, I will present the emerging outlines of a Southeast Asian feminist framework revolving around embodied spirituality - a concept where the body is construed as an anatomical, spiritual, social and psychic space grounded on fluidity and wholeness, instead of hierarchy and dualities. In the process,I will argue that while most women artists in Southeast Asia are not consciously and overtly “feminist,” they nonetheless point to the contours of emerging feminisms in Southeast Asia, and perhaps, in Asia. These“feminisms” cannot be defined solely on the basis of individual autonomy,hinged on sexual and body-centered liberation (as in radical feminism); or on “equal rights” in an untransformed social structure (as in liberal feminism).Drawing from my ongoing study and engagement with women artists in the visual arts of Southeast Asia, I will present examples of how selected Philippine, Indonesian and Thai women artists articulate and embody the Southeast Asian goddess figure through their lives and their works.

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第77回例会 2005年2月6日 於:世田谷男女共同参画センターらぷらす 研修室4

研究報告1:「戦時下に求められた女性のイメージ――『主婦之友』・『婦人倶楽部』の口絵を中心として」
   報告者:寺田不二子(放送大学)
   コメンテーター:吉良智子(千葉大学大学院)

【報告概要】

 本発表は昭和11年から昭和20年までの10年間の『主婦之友』および『婦人倶楽部』の口絵の検証である。昭和10年代になると婦人雑誌は生活に役立つ実用書という基本的な構成は残しつつも、国策への協力、戦意高揚の編集方針をとるようになった。昭和15年には80誌ほどあった婦人雑誌は戦局が深刻化するにつれて統合、改廃され昭和19年には『主婦之友』、『婦人倶楽部』、『新女苑』の3誌のみとなった。『主婦之友』と『婦人倶楽部』の2誌は、内容はもちろんのこと、形態、価格、発売日も酷似していた。その中には銃後の女性たちを対象とした総力戦に向けて動員するための宣伝の口絵が毎号に掲載されていた。
 分析対象である口絵は、巻頭にほぼ2頁大(一部除く)で折り込まれ、カラーで印刷されており、読者の目を引いたと思われる。口絵は各号に1枚または2枚掲載されている。また、多くの口絵が当時の一流の画家によって描かれている(一部写真の口絵あり)。本研究にあたり2誌の口絵のほぼ全種200点余りのコピーを入手した。
 これらの口絵を分類すると、第一に72点の皇族が登場する。第二に62点の母子像、続いて勤労女性(農婦、従軍看護婦、女子挺身隊)、美人画、戦争画等となる(一部複数の要素を含む)。本発表では農村(内地、大陸)、従軍看護婦、傷痍兵、女子挺身隊、神社参拝、植民地支配等に分類してこれらの口絵を紹介する。
 また、10年間の口絵の変遷には、日本が敗戦に向かって窮地に陥っていく様子と戦況悪化に伴う女性に求められた役割の変化がはっきりと浮かび上がってくる。当初は皇族、美人画、ファッション性に富んだ華やかな口絵が多いが、日中戦争勃発を境に戦争画や母子像が増えてくる。日米開戦後は登場人物からしだいに笑みが消えていき、母子像に登場する母子の年齢は上昇する。末期には女子挺身隊が登場する。それは同時に雑誌の頁数の減少、紙質の低下、印刷状態の悪化としても顕著にあらわれてくる。

 口絵の検証にあたっては特に以下の6点に着目する。
 1)口絵の主題(母子像、従軍看護婦、農婦等)の意味および宣伝目的
 2)戦況と口絵の連動性
 3)報道写真をもとに描かれた口絵の存在とそのもととなった写真の検索(調査対象は『写真週報』、『朝日新聞』、『読売新聞』等)
 4)他の印刷メディアにも掲載されていた口絵(『靖国之絵巻』等)
 5)各戦争美術展覧会に出品された戦争画と口絵の関係(口絵を描いた画家と戦争記録画を描いた画家の複数重複)
 6)『主婦之友』と『婦人倶楽部』の口絵の共通点と相違点

 以上の点を踏まえた上で、口絵には読者に向けてどのようなメッセージが込められていたのかを解明していく。
 さらには口絵の制作過程や口絵として掲載する作品の決定に際しての軍部の関与など、出版社と軍部の密接な関係も論じる。

  *本研究は2003年12月学習院女子大学国際文化交流学部日本文化学科に提出した卒業論文に加筆、修正したものである。

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研究報告2:「鳩イメージの変遷――平和と戦の着物文様」
   報告者:乾淑子(北海道東海大学教員)  
   コメンテーター:若桑みどり(川村学園女子大学教員)

【報告概要】

 衣服に文様を施す手法にはさまざまなものがあるが、現在では簡単だと思われている染めの技法は、近世までにおいては困難で特殊な技法であった。糸の 段階で色を染め分ける織や刺繍の方が数段容易で、化学変化に関する知識と技術を伴う染めの作品は大変高価なものであり、江戸時代中期に友禅染めの技法 が確立したが、大衆性はないものだった。明治時代に西陣の業界がフランスを初めとする諸国に留学生を送って求めたのは大衆的な量産が可能な織と染めの 技術である。ヨーロッパの技術を取り入れて、明治の中頃から徐々に一般にも染の着物が着られるようになったが、やや大衆的になったのが明治末から大正 にかけてで、本当に大衆的になったのは昭和30年くらいであろう。
 江戸時代から、裕福な男性の襦袢や羽裏(羽織の裏)には面白柄という一風変わった図柄が付けられることがあった。その内容には時事的なものもあり、 日清戦争の後に大阪で錦絵風の戦争柄が付けられたのが近代戦争柄の嚆矢であったらしい。日露戦争の頃には関東でもこの種の文様が出回るが、その価格は 当時の二等兵の月給の40倍もするものすらあり、非常に特殊なものであったことが窺われる。その後、羊毛、綿などの素材で中流の男児向けの戦争絵の着 物が量産されるようになった。
 ただし、これらがプロパガンダであったという証拠は皆無であり、むしろ数寄な意識に商業的な動機が加わったものであると考えられる。

 戦争絵の着物の中には鳩柄を含むものがある。日本では鳩は八幡大菩薩の印であり、戦神の使いと見なされていたことによる。しかし、いわゆる着物の古 典柄には鳩は含まれず、鶴や鷹のような一般的なものではない。鳩が着物に登場するのは西洋的な文様が流行した後であり、その時、西洋風の聖性や平和と いうイメージが加わったものと考えられる。特に若い女性の着物に付けられた鳩文様のほとんどは洋風の優しい鳩イメージに基ずくものであり、その洋風な 雰囲気と日本の御所風な御簾、薬玉などが組み合わされている作例が多い。また、成人女性向けおよび女児向けの着物の鳩はそれぞれがほぼ同じくらいの体 長のもので、意匠も似ており、その流行の期間は限られたものであったと思われる。
 それは昭和7、8年が最盛期であったと言われ、ちょうど国威発揚目的に伝説集の刊行のピークと重なる。
 一方男児の着物に付けられた鳩は、伝統的な武具、玩具、お伽噺、絵馬などとともに表されている。明治の末年から用いられるようになったらしい男児の 日常着への模様付けは、成長と幸福を祈る吉祥柄であったことから、鳩もその一群の中にあり、新しい吉祥であったのだろう。富国強兵が国是であった時代 における男児の将来の幸福のイメージが戦争に関連する武具や鳩を含むことは当時にあっては異様なことではなかったに違いない。その後、その種の子供着 の文様には、中国の風景、軍歌の歌詞、楽譜、飛行機、軍艦、戦車、爆弾三勇士、東条英機、鉄兜、大砲、銃などの完全に軍事色のみで彩られたものが登場 するようになり、鳩もその中に描かれる。
 軍部が女子供の着物などに関心を示した様子はなく、むしろ商機に便乗した意匠を需要するほどに大衆的な機運が高まっていたのだろう。
 15年戦争期の戦争画着物に描かれる動物は鳩、犬、馬であるが、これは靖国神社に祀られた3種の動物と完全に一致する。鳩は通信に用いられたからで あろうと思われる。
 戦後、戦争画の着物の存在が無視されるようになると、近代兵器の図と共に鳩の文様も着物の世界から消滅する。しかし、伝統的な武具は現在でも吉祥柄 の一種として健在である。それは端午の節句という年中行事の中で、男児の理想型としての武将というイメージがまだ健在であることを示しているのかもしれない。
 安易なプロパガンダより、この種の深く潜航する意識にこそ目を向けたい。

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第76回例会 2004年12月5日 於:世田谷男女共同参画センターらぷらす 研修室4

研究報告1:「ポスト・ジェンダーの地平におけるThe Feminine:ブラカ・リキテンブルク・エッティンゲーのこころみ」
   報告者:ガーデナ香子(日本学術振興会特別研究員、一橋大学、グラスゴー大学)
   コメンテーター:斉藤綾子(明治学院大学教員)

【報告概要】

 ジェンダー研究の起点としては、社会的経験や社会そのものの構築、あるいは身体にまつわる経験を弁証法的にジェンダーの経験と結びつけて理解しようとしまた分析しようとする姿勢がある。ここでいう弁証法的とは、ジェンダーあるいはその差異を文化的また社会的な制度に密接に結びつけられた、個人間の関係性から出現するものだととらえ、また身体的自我と精神的構造が違いを構成しあうものであるととらえる議論である。この議論はもちろん性差という前提的に生物的あるいは個体的な二分法であったものを社会的また文化的な地平に照らしあわせたという点において進歩的であったが、同時に、ジェンダーそのものをまた二分法(the Masculine / the Feminine)に固定し、二分法のあいだに設定されるスラッシュをまたいで、ときに残忍なほどの言語をもちいて攻撃また反撃が繰りかえされるという状況も生んでいる。この現象は思想の土壌、流派、分野によらず一般的なものとなりつつあり、また一定の危険を持ちあわせている。たとえば精神分析理論においても、1970年代から80年代にかけて、フランスの新フロイトによるファルス一元論批判が繰りひろげられたし、またイリガライらのフェミニスト理論も同義のフロイト批判を提議した。これらのファルス一元論批判は、女性の身体に特有の機能あるいはその経験をとりあげ、精神分析理論をこの身体的経験を語る言語として採用するものであった。ここにおいて、the Feminineは女性的身体に深く結びついたものだとされ、その強調によってファルスの優位を覆そうとするものであったが、ここにもやはりスラッシュをまたいだ攻防に象徴される危険を認識することができる。この危険は、近年、カルチュラル・スタディーズやポスト・フェミニズム、さらにはクィアー理論などとの学際的議論を経て、精神分析理論においてもいくつかの問いの設定とともに挑戦されつつあるものである。たとえば、欲望や喪失に関する不安はすべて「去勢」に結びついたものなのか、また「去勢」理論はかならず人類を、象徴界へのエントリーがファルスあるいはその欠如をとおしてのみ認められる、またその状況がthe Masculineと排他的に結びつけられるようなファルス至上主義のシステムへと閉じこめるものなのか、といった問いである。つまるところ、精神的経験を、どのようなものであれ身体的機能との関係性において理解しようとする試みはどうしても危険性を含むものとなる。これはthe Feminineを本質的なものとして論じようとする場合にも同じことで、生物学的二分法を具体化しまた単純化した概念を再導入することにもなりかねない。それでは、ファルス主義を女性の身体などといったほかのものと取りかえるのではなくて、ファルス主義やそれへの批判をも含んだジェンダーの差異に関する二分法を押しのけ、乗りこえ、その外側へと抜けだす言語は存在しないのだろうか。
 本発表はこの、ジェンダーからの抜けだしの手がかりを探るものである。実際、こうした試みは「ポスト・ジェンダー」の(あまりに安易であるが、同時に的を射た)かけ声とともにとくに英語圏の精神分析理論の土壌で活発になりつつあるもので、またそこから、おもにthe Feminineを表象の言語において取りあつかおうとしているフェミニスト視覚芸術論や文学批評の方法論にも大きな影響を与えている。この発表においては臨床の精神科医で分析理論家であるとともに美術作家としても活動するブラカ・リキテンベルク・エッティンゲーの理論を紹介しながら、「ポスト・ジェンダー」の視点からthe Feminineを語る意義を考える。

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研究報告2:「草間彌生の《ネット・ペインティング》」
   報告者:中嶋泉(一橋大学大学院言語社会研究科博士課程)
   コメンテーター:関直子(東京都現代美術館学芸員)

【報告概要】

 50年余りの創作活動を経て草間彌生は、近年の相次ぐ国内外での個展、テレビ、雑誌など各種メディアへの露出により、現代美術作家の重要な一人として評価されるようになったように思われる。しかしそれと同時に、草間本人と彼女の作品は一定のイメージ下に鑑賞/理解されるようにもなった。例えば、昨年森美術館で開催された「クサマトリックス」に見られたように、草間の創作の「マトリックス(母体、基盤、発生)」 を、精神疾患など、「個人的」で「超越的」な域に位置付けるというような見解がそれである。
 本報告では、草間の初期の代表的シリーズであり、その後の多彩な作品の始点でもある《ネット・ペインティング》を、こうした解釈から批判的に引き離し、異なる読解を試みる。《ネット・ペインティング》は、画面全体を細かい網の目のようなパターンで覆い尽くした絵画で、1950/60年代彼女がニューヨークでの活動の端緒を切り開いたとともに現在でも制作され続けているという点で草間の活動の中でも重要なものである。今回はその特殊性をいまいちど現代及び現代美術の歴史的・政治的文脈の中で考察するために、以下の二点に特に着目する。

1)  批評の変容と言説形成
 50年代の《ネット・ペインティング》は、当時アメリカで主流であった抽象表現主義の批評言語に則って評価されており、その形式主義的な理論的枠組みによって、草間の国籍、性別は積極的に無視される傾向にあった。一方で、90年代以降の批評言説では逆に彼女の女性性(とそれに結び付けられる狂気/個人性といったテーマ)は過度に強調されている。このギャップは、言説の変化にもかかわらず現代美術の批評が女性作家の作品を「過不足なく」解釈する言語をもたないことを示していると考えられる。
2)  抽象表現主義の潜在的意味―ナショナリティとジェンダー
 草間が「国際的アヴァンギャルドアーティスト」を目指して渡米した1950年代、日本の美術家や批評家は、戦後急速に鑑賞の機会が増加した欧米の近代美術との同時代性を求めた。なかでも、米国の抽象表現主義絵画は、「具体」などの美術グループをはじめとする日本の芸術家に国際性を約束するものに見えた。しかし、近年の研究で明らかにされているとおり、米国の抽象表現主義は冷戦期の文化的覇権を確立することを志向するナショナリスティックな潜在的意味を負っており、また多分に男性的な絵画言語として言説化されていた。そのような状況下で、日本の女性作家がニューヨークに赴き、そこで絵画を制作することには政治的及び象徴的意味があったはずである。
 以上の2点を踏まえた上で、精神分析家でアーティストでもある、ブラカ・リキテンブルグ・エッティンゲー(Bracha Lichtenberg Ettinger)の提唱する”Matrixial Mode” の参照を通じて《ネット・ペインティング》の読解を行いたい。エッティンゲーの「マトリックス」は、家父長的に生産/理解される近代文化の象徴的法則に対し、”Mother”を中心とした象徴言語を創出しようと試みる芸術理論であるが、抽象表現主義絵画の多くがマスキュリンな自己の獲得の物語として解釈されていることを鑑みれば、女性のあるいは「女性的」な抽象絵画の分析に有用であると思われる。本発表を通じて、草間彌生の《ネット・ペインティング》解釈に新たな道筋をみつけることができればと考える。

*中嶋泉
本報告は、2003年リーズ大学大学院美術美術史文化学研究科(School of Fine Art, History of Art and Cultural Studies, University of Leeds)に提出した修士論文”Yayoi Kusama’s Net Painting―A Reading”を基にしている。


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第75回例会 2004年10月3日 於:世田谷男女共同参画センターらぷらす 研修室3、4

 「コリアン・ディアスポラ/アート」

研究報告1:「ディアスポラ/アートを語ることは可能か?――コリアン・ディアスポラ・アーティス ト ミヒ=ナタリー・ルモワーヌと3つの“間(inter)”――」
   報告者:李孝徳(東京外国語大学教員、表象文化論・ポスト・コロニアル批評)
   コメンテーター:香川檀(武蔵大学教員、表象文化論・ドイツ20世紀美術研究)

【報告概要】

 いま、世界には、在日朝鮮人を含め、約530万人のコリアン・ディスポラがいると言われている。そのうちの20万人が、韓国政府が1960年代以降に取った養子縁組政策の結果、海外に送り出された韓国出身の養子である。ミヒ=ナタリー・ルモワンヌもその一人であり、1970年、戸籍上の年齢で5歳(実年齢は3歳だった)のとき、フランス語を母語とするベルギーの養親のもとに送られた。ベルギーの白人社会で生きる彼女の問題は、アジア系ヨーロッパ人のアイデンティティの揺らぎといったものだけではなく、複数の国家と複数の文化に関わる重層的なレイシズムのなかで生きることに他ならなかった。白人のアジア人に対するレイシズム、アジア人の間では日本人の朝鮮人に対するレイシズム、朝鮮人の間では韓国人のアジア系ヨーロッパ人に対するレイシズム、1993年に韓国に渡ってからは、韓国社会の海外養子に対するレイシズムを経験したわけである。
 こうした経験に基づく、彼女のアーティストとしての創作活動はきわめて「社会的」であり「政治的」である。韓国における海外養子のステイタスを改定させるため、海外養子による作品展を開いてメディアに訴えたり(実際に移住とヴィザに関する法改正が行われた)、韓国人社会の海外養子の既成概念に異議申し立てするべく、様々な展覧会を企画・開催しているし、アートを通して、世界に広がる韓国人の海外養子のネットワークを作るための活動も展開している。そして彼女の作品自体が、彼女が生きてきたインターナショナル、インターレイシャル、インターカルチュラルな空間の性格と特徴の表現となっているのである。
 今回の報告では、こうした彼女の創作活動や作品を通じて、アートに関わる言説や批評が、ナショナルな枠組みを超えるとはどういうことなのかを考えてみたい。たとえば彼女の作品は、韓国美術や朝鮮美術あるいはヨーロッパ美術やベルギー美術といった同一性の仮構された共同体文化に帰属させることも、系譜付けることもできない。あるいは彼女の作品には、漢字やハングルをはじめとする様々な朝鮮の「伝統」が美的に<利用>されているが、それはヨーロッパ人によるオリエンタリズムではありえないし、といって海外在住韓国人による伝統文化の「発見」とも見なすことはできない。さらには作品の「質」といったものを問題にするときにも、往々にして美術史的な文脈や系譜、近代主義的な発展史観(それもきわめてナショナルな枠組み)に基づいて、今までにない「差異」を読み取ることが批評とされてきたことがあるわけだが、彼女の作品の「質」はそのような価値・評価で判断することもできない。だとしたら、こうしたインターナショナル、インターレイシャル、インターカルチュラルな空間で創作する彼女のようなディアスポラの作品は、どのように批評され、評価されるべきなのか。答えが単純に出るような問題ではないので、あくまでも問題提起行うことで、議論ができればと考えている。

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研究報告2:「‘分断’がもたらすディアスポラ―韓国の民衆美術から北朝鮮の美術へ」
   報告者:古川美佳(韓国美術・文化研究)
   コメンテーター:池田忍(千葉大学教員、日本美術史・視覚文化研究)

【報告概要】

イメージ&ジェンダー及びディアスポラ研究会それぞれがもつ観点を考慮しつつ、韓国美術のなかで80年代民主化運動に呼応して生まれた‘民衆美術’を中心に、さらにはそこから示唆される朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮、以下同様)の美術に触れる。

まず、民衆美術運動の中で生まれた‘女性美術研究会’の活動をとりあげる。現在、力強い活動を展開している韓国のフェミニズム・アート。その出発を促す役割を果たしたともいえる‘女性美術研究会’は、女性解放を意識した運動体として、いまだからこそ、その先駆性が評価されているが、これまでフェミニズムという観点からは見えにくい存在であった。そこにはジェンダーの問題意識が希薄だったというだけではなく、その活動を見えにくくさせていた外的要因も介在していたからであろう。こうした民衆美術内での女性たちの活動と功績、限界点を整理しつつ、今日私たちが出会うことになった韓国のFAN(フェミニスト・アーティスト・ネットワーク)等へ至る道筋を簡単に確認しておきたい。

民衆美術は韓国社会の民主化と自立、統一をめざす変革運動を美術の問題として引き入れ、政治と芸術の統合を志向した美術「運動」であった。その担い手たちはときに弾圧、投獄、拷問などを受けながら、肉体だけではなく精神的な苦痛をも味わった。70年代以降、民主化を希求した韓国の知識人や文化人に加えられた弾圧―抑圧と暴力は、監獄に彼らを隔離させ、その肉体・精神に傷を負わせ、社会との亀裂を生じさせるという、一種の分裂症状「ディアスポラ」的ともいえる状態の人間を量産することになった。朝鮮戦争以降、韓国の国是となった「反共」政策の徹底化は、一つの民族の意識までをも南北に分断させ、朝鮮半島に安住すること自体を不安定にさせるような、精神的な離散―「ディアスポラ」的状態を韓国人の暮らしに強いたのである(それはまた、在日朝鮮人の生をも引き裂いた)。この「分断」がもたらした韓国社会の諸矛盾を、美術の問題として意識してきたのが民衆美術であったといえよう。その表現活動から、「ディアスポラ」的状態が生成されてきた様相を改めて類推し、さらに韓国の民衆美術が究極的に出会うほかない、北朝鮮の美術にも若干触れてみる。南北の政治体制や思想、文化的差異のみならず、昨今顕著な日本人の北朝鮮に対するいびつな情動を野放しにしたまま、今後、北朝鮮という国の文化―美術をいかに受け止めていくか。「分断がもたらすディアスポラ」の溝をうめ、互いの理解を育てていく手だてを、表現に関わる者たち自身の問いとして考えてみたい。

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第74回例会 2004年7月4日 於:港区男女平等参画センター「リーブラ」4階 集会室2・3

 シンポジウム「戦争・ジェンダー・表象」の研究史と今後の展望

□開催主旨
  イメージ&ジェンダー研究会は昨年(2003年「戦争と記憶」)に引き続き、「戦争」をテーマにシンポジウムを開催する。今回は、近現代日本を中心に、ジェンダーの視点から戦争・表象をめぐる研究史の状況と課題を明確にし、今後の展望を議論する。そのため、戦争画の美術史研究や映画、写真研究などの視覚分野のみならず、女性史、歴史学、文学研究などと領域横断的に研究史をふり返り検討する。
  2001年9月11日以降、アフガニスタンからイラクへと戦争が拡大し、日本が自衛隊派遣を継続するなかで、シンボリックなナショナルな図像や、ジェンダーの政治学を利用した「戦争」と「平和」のイメージが次々と生み出される様を私たちは目撃している。「戦争」をめぐる人々の意識と記憶はメディアと結びつき、表象され語られ直すことによって集合的記憶を形成し「歴史」を創る。そして、表象はメディアを通して、「敵」への憎悪感情を発動し、あるいは「われわれ」の被害感情を刺激し、人びとの愛国心を昂ぶらせ戦争へと駆り立てる。すなわち、表象なしに戦争遂行はあり得ず、戦争は同時に「表象の戦争」なのである。本シンポジウムが現在の状況に対する批判的かつ真摯な理解に結びつくことを期待したい。

 
□千葉慶「戦争・表象・ジェンダー:研究史の流れ」

  仮に、ここでいう「戦争」をアジア・太平洋戦争に限定するとすれば、その「研究史」とは小熊英二のいう意味での「戦後思想」に相当することになる。つまり、小熊によれば「戦後思想とは、戦争体験の思想化」ということであり、「「『日本人』にとって戦争の記憶とは何であったか」を語ることと、ほとんど同義」なのである。したがって、「戦争・表象・ジェンダーの研究史」とは、「戦後思想史」と切り離せないというばかりではなく、しばしば「戦後思想史」そのものですらある。
  本発表では、成田龍一が提起した、戦争の語りに見られる「三つの語り」(第一期は、「被害者」という主体からの語り、第二期は、「加害者」という主体からの語り、女性・子どもからの語り、第三期は、戦争を語る「主体」そのものへの問いを含んだ語り)をライトモチーフとして、年表をもとに「戦後日本」における「戦争・表象・ジェンダーの研究史」の流れについて述べていこうと思う。

参考文献:
川村湊・成田龍一ほか『戦争はどのように語られてきたか』朝日新聞社、1999
小熊英二『〈民主と愛国〉──戦後日本のナショナリズムと公共性』新曜社、2002

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 □池川玲子「『映像と戦争』についての研究史」

  「映像の世紀」とも「戦争の世紀」とも称された20世紀‐その世紀の終わりから『映像と戦争』の関係を問う多彩な研究が現れはじめた。それらの研究の多くは、映画史の枠内に留まらず、歴史学、文化学、あるいは女性学と、様々な領域横断的なアプローチを取りつつ、戦時下映像文化の実態に、そして、その遂行のために強く映像を要求した戦争という存在そのものに迫ろうとしている。
  本発表では、下記の3つの観点から、15年戦争から今日までの『映像と戦争』についての研究の流れを辿る。
1)研究の基礎となるフィルムそれ自体を巡る状況
2)戦時下映像を巡る言説
3)映像を学問上の材料として用いることについての方法論
  戦時下映像を巡る言説については、研究者による映画批評や映画史内での記述に限らず、女性史や個人の回顧録も含めて時系列で追ってみたい。
  以上の整理の後に、近年の主だった研究成果を紹介する。その上で、ジェンダー史的な立場から、『映像と戦争』について今後いかなる展開が可能か検討してみたい。

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 □釣谷真由「欧米における戦争と近現代美術の研究状況」

  欧米における近現代美術と戦争・ナショナリズムとの関係についての研究を紹介します。この発表でとりあげる文献は、わたしが太平洋戦争期に日本の軍部の要請を受けて日本人画家が描いた戦争記録画を研究するにあたり参考としたものを中心としています。たとえば、戦争とフランス前衛美術キュビズム、ナチスドイツの国家主義と美術政策、アメリカの抽象表現主義などのテーマをとりあげ、戦時イデオロギーによる美術の政治化、戦争によって引き起こされる美術の表象の変容について考えます。最後に、これらの研究に学ぶ戦争と美術を論じる際の問題点を視野にいれながら、発芽期あるアメリカにおける近代日本の戦争美術の研究とわたし自身の戦争記録画研究にもふれたいと思います。

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 □吉良智子「『戦争と表象』に関する研究動向」

  アジア・太平洋戦争期に生み出された表象文化に関する研究史を取り上げる。
  女性史、歴史学に比して、美術史における戦争をめぐる研究の流れは、ごく近年の動きと言ってよいと思われる。本発表では、いわゆる「美術作品」だけではなく、印刷媒体におけるイメージ研究、美術館での企画展など、敗戦から現在までの「戦争と表象」に関する研究動向を追いつつ、「戦争画」そのものをめぐる状況や作り手の「責任」に関する問題、「戦争と表象」の語り方の問題などを考えてみたい。その上で、ジェンダー的視点からのアプローチの可能性を探ろうと思う。

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 □加納実紀代「『写真週報』にみるジェンダーとエスニシティ」

  『写真週報』は、日中全面戦争の長期化があきらかになった1938年2月、大衆的な戦争プロパガンダ・メディアとして内閣情報部により創刊された。誌名のとおり週刊のグラフ雑誌で、45年7月の廃刊までに計370冊が刊行されている。
  うち290冊は表紙に人物写真が使われているが、そこには歴然たるジェンダーがある。また、日本人だけでなく、植民地・占領地の男女の写真も使われている。誌面においても同様である。つまり『写真週報』には、戦争プロパガンダにおけるジェンダーとエスニシティ表象が集積されているといえる。それはどのように操作され、また戦争の拡大につれて、どのように変化するだろうか。
  この報告では、数量データや写真を使いながらこれらについて検討し、あわせて「大日本帝国」の<支配のまなざし>におけるオリエンタリズムについて考えてみたい。

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 □若桑みどり「女性史、歴史学による戦争研究史とその問題点」

  戦争・ジェンダー・表象という複合的なテーマを設定するとき、既存の研究分野とそれに基礎をおいた学会、研究会の分立の無意味さと欠陥があらわになる。女性史は主として戦時下における非戦闘員としての女性の戦争協力と、戦争被害体験に集中してきた。従軍慰安婦研究史もその例にもれない。これらの基礎研究は断じて無意味ではないが、その意義はきわめて限定される。研究とはなにか?過去を問題化することによって未来を変えることではないのか?
  戦争そのものを、その本質においてジェンダー的問題として把握することが求められている。それは女性の体験や記憶の語りではなく、男女がジェンダー的に構築してきたこの社会/国家こそ戦争という集団的暴力を生み出してきたという見地からなされる研究である。この到達点は当然、家父長制国家の脱構築という根本的なパラダイムチェンジを要請する。
  また、自らの生命を国家に捧げるという心性なしに戦争は遂行不可能である以上、その心性を生み出す表象の力を戦争研究の核心においた研究がなければならない。これは以前よりも増加しているが、その傑出した研究はいずれも欧米のものである。ジェンダーと表象の視点にたって戦争研究を行い得る研究団体は、日本ではいまのところイメージ&ジェンダーしかないと考える。

参考文献:
べティ・リアドン『性差別と戦争システム』勁草書房
サム・キーン『敵の顔‐憎悪と戦争の心理学』柏書房
エドワード・サイード『戦争とプロパガンダ』みすず書房

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発表者(敬称略)
千葉慶(ちば けい):千葉大学大学院博士課程 社会文化科学研究科在学中 日本近代美術史専攻
池川玲子(いけがわ れいこ):川村学園女子大学博士後期課程在学中
釣谷真由(つるや まゆ):ペンシルヴェニア州立ピッツバーグ大学 美術・建築史学部 日本近代美術専攻
吉良智子(きら ともこ):千葉大学大学院社会文化科学研究科在学中 日本近代美術史専攻
加納実紀代(かのう みきよ):敬和学園大学教員 日本近現代女性史
若桑みどり(わかくわ みどり):千葉大学名誉教授 川村学園女子大学教授。西洋美術史、ジェンダー文化史

司会
サラ・ティズリー(Sarah Teasley):鶴見大学非常勤講師 日本近代デザイン史専攻
藤木直実(ふじき なおみ):埼玉大学・山梨大学非常勤講師 日本近代文学専攻
山崎明子(やまさき あきこ):日本近代美術史 ジェンダー論
北原恵(きたはら めぐみ):甲南大学教員 表象文化論・美術史・ジェンダー論

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第73回例会 2004年6月6日 於:お茶の水女子大学 文教育学部一号館307教室

研究報告1:「日本におけるベルト・モリゾ受容――明治時代から現在まで――」
   報告者:林有維(お茶の水女子大学大学院博士後期課程)
   コメンテーター:小勝禮子(栃木県立美術館学芸員)

【報告概要】

2004年現在巡回中の、マルモッタン美術館展でのルアールコレクションによるベルト・モリゾ(1841-1895) 作品の紹介は、日本においてモリゾの名をアピールする大きな機会となったと同時にこれまでの浸透度の浅さを物語っているものである。明治時代以来、印象派は作者の人生そのものが倫理的モデルとして評価され、その後も造形的側面など様々な要因において受容され根付き現在に至っている。しかしモリゾは印象派において主要なメンバーの一人であったにもかかわらず、日本の一般的なレベルにおいて知名度は高いとは言えない。本報告ではその要因を、明治時代からのモリゾの受容に関する言説調査結果と作品の受容状況から、日本におけるモリゾ受容の特質を探る。言説の調査対象は、美術全集、美術辞典/事典、主要な著書、定期刊行物、美術展カタログである。
「父権的イデオロギーに立つ芸術において女の陣営に期待される役割は、芸術のための対象物、つまりモデルか、アーティストとロマンティックな関係をもつ彼のミューズかである。 」とグリゼルダ・ポロックが既に述べているように、モリゾに限らず、女性芸術家は男性芸術家の副次的な要素として位置づけられる傾向にある。日本においても明治時代から西欧文化を受容する過程で、その文脈も同時に受容し、枕詞となる偉大な男性芸術家に附属する存在としての「女性芸術家」のイメージを創り出す言説が繰り返し強調されてきた。本報告ではベルト・モリゾを例に、日本において「女性芸術家」における「女らしさ」のイメージとイデオロギーがどのように受容・形成・抽出・変換され、現在でも機能し続けているかを明らかにしてゆくことを目的とし、以下の3点のポイントに絞って分析を試みる。
・ マネに付随する存在として語られるモリゾ。「弟子」言説形成。
・ マネのモデルとしてのモリゾ。「美的オブジェ」としての受容。
・ モリゾ作品の受容と付随する言説。
なおこの報告の目的は、単なる誤りや脱落を指摘することではなく、美術史学という権力のフィールドの中で、知の体系がどのように権力との関係の中で歴史性を帯びて形成されるかということを明らかにすることを目指している。 近年、日本国内においても、「女性芸術家」に関する記述量は増加する傾向にある。しかし副次的な要素として女性芸術家を位置づける言説は、ジェンダーのイデオロギーを再構築・強化する危険性をはらんでいる。本報告において、現代においても引継がれている「女性芸術家」の構築され、浸透したイメージ形成の一例を提示したい。

Griselda Pollock, Vision and Difference- Femininity and the Histories of Art, London/New York, Routledge, 1988.(邦訳 グリゼルダ・ポロック、荻原弘子訳『視線と差異』、新水社、1998年、pp.156-157.)

本報告は、2003年度日本女子大学人間文化研究科相関文化論修士課程における修士論文、「モリゾ、カサット等フランスの女性芸術家を巡る言説が形成するイメージ――明治から現在までの日本における言説上の受容を中心に――」の一部である。

【報告者経歴】
林(宇塚)有維〔はやし(うづか) ゆい〕
平成14年度日本女子大学大学院修士課程修了。現在、お茶の水女子大学大学院 人間文化研究科比較社会文化学専攻 博士後期課程在籍。関心領域は19世紀フランスの女性画家の活動と日本における受容など。


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研究報告2:「メアリー・カサットと「アメリカ」―作品に対する批評からの一考察―」
   報告者:石川香織(東北大学大学院博士後期課程)
   コメンテーター:田中厚子(アクセス住環境研究所)

【報告概要】

 メアリ―・カサット( Mary Cassatt 1844-1926 )は、ベルト・モリゾ( Berthe Morisot 1841-95 )と共にフランス印象派グループで活躍し、「母と子」を主題とした作品で人気を博したアメリカ人女性画家である。彼女は、21才で渡欧した後は、生涯パリを活動の拠点としたが、実業界に幅広い人脈を持つ家系であることを生かして、富裕層を中心にアメリカへ積極的に印象派の紹介を行い、母国との関係を持ち続けた。
カサットは、現在、本国アメリカではアメリカ近代絵画史上の代表的な画家として位置付けられている。1998年から99年にかけて、シカゴ美術館、ボストン美術館、ワシントンのナショナルギャラリーで開催された大規模な展覧会「Mary Cassatt : Modern Woman」は、彼女の多くの作品を一堂に集めて展示しており、そのカタログには、綿密な資料と彼女を「Modern Woman」と位置付ける、アメリカにおけるカサット研究の動向が集約されている。彼女が作品を発表した当時からの批評を遡っていくと、そうした評価に至るまでめまぐるしい変遷があり、その経緯には、「女性」と「アメリカ」という軸が深く関わっていることに気がつく。彼女の作品に対する批評は、女性画家をめぐる状況の変化はもちろん、アメリカという国にヨーロッパの美術界がどのようなイメ−ジを抱いていたのか、またアメリカがヨーロッパに対して示そうとした自負はどのようなものであったのか、そしてこれらと作品の受容との関連はどのようなものであったのかを探る資料として読むことが可能なのである。
カサットが活躍した時代は、職業画家として活躍する画家は少数であり、またフランスに多くのアメリカ人留学生はいたものの、実際に印象派展に出展したのは彼女唯一人であった。それゆえ、カサット活躍当時、彼女の作品に対する批評は、「女性」、「アメリカ」という言葉を用いた形容が多く見受けられる。カサット作品の批評では、「女性」らしさは、まず「男性」との対比として用いられ、さらに彼女が「母と子」の主題に傾注していくことも影響して深く読み込まれていく。一方、新興国アメリカへの関心を背景に、フランス人女性画家モリゾとの対比によって、カサット作品の「アメリカ」らしさというものが、批評言説の中で形成されていく。本発表では、カサットが活躍した当時の彼女の作品に対するフランスとアメリカの批評を分析し、「女性」と「アメリカ」の狭間で、彼女の作品の評価がどのように展開されていったのかを提示していきたいと考えている。 本発表は、2002年度東北大学大学院国際文化研究科に提出した修士論文「カサット作品をめぐる『女性』・『アメリカ』・『ジャポニスム』―批評の言説とその背景を中心に」の一部を基にしている。

*石川香織
東北大学大学院国際文化研究科博士課程後期に在学中。後期課程では、明治から昭和にかけて来日したアメリカ人女性画家について調査を進める予定。


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第72回例会 2004年4月4日 於:明治学院大学白金キャンパス

研究報告1:「女性による21世紀の女性像−新著『アートと女性と映像 グローカル・ウーマン』(彩樹社)をめぐって−」
   報告者:岡部あおみ(武蔵野美術大学教員)
   コメンテーター:今西彩子(武蔵野美術大学大学院)

【報告概要】

携帯電話でムービーまで写すことができる時代になり、デジタル化とともに映像は若者のライフスタイルに溶け込み、世界各国の若手アーティストもかつて以上に映像制作に向かうようになった。
今回の発表では、2003年9月に彩樹社から出版した『アートと女性と映像 グローカル・ウーマン』をもとに、世界各地で開催されている現代美術の大規模な国際展などで活躍する若手の女性アーティストの映像を使った作品を中心に、女性による女性像の表現を、各国のアーティストとのインタヴューなども含めて考察していきたい。
1995年以降のヴェネツィア・ビエンナーレに、映像を巧みに使いこなす若手アーティストたちが輩出し、現代美術の分野における映像インスタレーションの重要性が大きくクローズアップされ、力量ある女性の作家たちも脚光を浴びた。
国際展は光州、台北、上海、横浜など、東アジアでも行われるようになり、ヴェネツィア・ビエンナーレやドクメンタをはじめとする欧米の国際展のみならず、遠隔地であるブラジルのサンパウロ・ビエンナーレやオーストラリアのシドニー・ビエンナーレなどにも、海外から多くの美術関係者が訪れ、世界各地に急増した美術館やアートスペースなどで新人や若手作家の活動の場が一挙に広がっている。
国際展に関するグローバリズムとアートとその受容に関する問題は、平成14年度から3年間にわたる科学研究費補助金基盤研究(B)(I)「観者、展示、鑑賞 − 受容の美術史」において調査研究を実施しているため、来年度の科研報告書などでまとめて発表する予定になっている。
本書で取り上げたのは17人(15人の女性と2組)。活動している場所は現代アートの教育・市場・情報メディア環境・制作支援・美術館など、アートのインフラが整備されたカナダ、アメリカ、フィンランド、フランス、イギリス、スイス、オーストリア、日本など、欧米先進諸国が中心となっており、アジアなどではまだ女性で映像を手がける作家は数が少なく、アフリカに関しては調査が及ばなかったが、出自は韓国、イラン、レバノン、旧チェコスロヴァキアなどにわたっている。
女性像を表現している、エイヤ=リーサ・アハティラ(ヘルシンキ)、ソフィ・カル(パリ)、ピピロッティ・リスト(チューリッヒ)、シリン・ネシャット(ニューヨーク)、モナ・ハトゥーム(イギリス)、やなぎみわ(京都)、森万里子(ニューヨーク)を中心に考察する予定である。女性の作家を特集した、美術手帖2004年3月号にエッセイ「アイデンティティー・フリーと未来への開放へ」(pp.57-63)を掲載しているので、ご参照ください。

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研究報告2:「李香蘭―魅惑の他者と日本人観客」
  報告者:吉岡愛子(上智大学非常勤講師)
  コメンテーター:池川玲子(川村学園女子大学大学院)

【報告概要】
山口淑子は日中戦争期の1938年、満州映画協会から李香蘭という中国名 でデビューした。日本語、中国語に堪能な「中国系満州人」女優という触れ込 みで、東宝のスター長谷川一夫と『大陸三部作』と呼ばれる『白蘭の歌』(1939年、渡辺邦男監督)、『支那の夜』(1940年、伏水修監督)、『熱砂の誓い』(1940年、渡辺邦男監督)に共演、一躍日本映画界のスターとなった。山口の20年のキャリアのうち、この鮮烈な李香蘭のデビューとその華やかでエキゾチックな中国スタイルは、日本人の記憶に刻み込まれ、忘れ去られることはない。今なお戦中、戦後の山口淑子を知る映画観客は、真っ先に中国スタイルの李香蘭を思い浮かべ懐かしむ人が多い。このほとんど伝説化された李香蘭のスター・アイデンティティの原点に立ち戻り、エキゾチックな他者として人気を集めた「中国人」スターを映画テクスト、日本人観客の受容、歴史的コンテクストを通して考察していく。李香蘭のスターイメージを確立した初期の代表作、大陸三部作のほか、松竹製作の『蘇州の夜』(1941年、野村浩将監督)を中心に、なぜ李香蘭の他者像がかくも大きな印象を与ええたのかという原因を探求していきたい。
魅惑の他者としての李香蘭をホミ・バーバーの「コロニアル・ステレオタイ プとアンビバレンス」の概念をもとに、民族という視点のみならず、さらにジ ェンダー、階級などの違いを加味して考えることにより、オリエンタリストや 本質主義的なフェミニストの民族やジェンダーの二項対立を超える他者の可能 性を探る。また、観客の受容、映画のジャンル、演技、映画的enunciation(語りかけ)[登場人物のまなざし]、歴史的背景、イデオロギーを含む、多様なディスコースを考察することにより、スター李香蘭の他者としての表象の多様な読みの可能性を明らかにしていく。

この研究発表は博士論文Cross-Cultural Encounters: Multiple Star Identities of Yamaguchi Yoshiko(2003年)の第1章The Beginning of the Legendary Ri Koran: The Power of the Exotic (1938-1941)に基づいている。

*吉岡愛子:University of Adelaideで修士(Women's Studies)、論文はAnalyzing Representations of the Comfort Women Issue: Gender, Race, Nation, and Subjectivities、La Trobe University(Cinema Studies)で2003年博士論文を完成、学位認定され2004年4月30日に卒業予定。4月より、上智大学で非常勤講師として勤務。

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第71回例会 2004年2月1日 於:世田谷男女共同参画センターらぷらす

研究報告「絵本における女性作家 伊勢英子の『いのち』のイメージについて」
   報告者:神林淳子(美術史・絵本研究)
   コメンテーター:小勝禮子(栃木県立美術館)

【報告概要】

近年、日本美術の領域において、女性作家たちの仕事の検証がすすんでいる。 グリゼルダ・ポロックとロジカ・パーカーが、「女性のアーティストというものが存在したのだ、と主張することから始める必要はもうないのだ。証拠はあふれるほどある。」(『女・アート・イデオロギー』)と宣言したことを受けて、具体的に女性たちが何をどのように表現してきたのかを明らかにして、それを次世代に語り継ぐ作業がはじまった。
そこで現在、私は、とりわけ多くの女性作家が活動している子どもの本、すなわち児童文学や絵本に注目している。いうまでもなく、子どもの本の領域で女性作家が活躍している背景には、成年男性を主体として中心に位置付ける家父長制において、女性と子どもは他者であり周縁の存在としてひとくくりにされてきた文化の歴史がある。しかし、ここでも研究や評論の対象となる作家はまだまだ男性が優勢な傾向があり、その批評におけるジェンダー・バイアスは避けられない状況にある。この領域に関しても、意識的かつ継続的に女性作家についての批評を積み重ねてゆくことが必要であろう。
従って本発表では、現代の日本の代表的な絵本作家の一人である伊勢英子(1949年、北海道生まれ)を取り上げる。伊勢は、1971年に東京芸術大学美術学部デザイン科を卒業。卒業制作はアンデルセンの『雪の女王』をアクリルで描いた25点の原画で絵本化した作品であった。大学院在学中にフランスに一年間余り遊学、帰国後、1970年代半ばからアクリルやコラージュなどの技法によるタブロー作品などを個展や展覧会で発表しながら、精力的に子どもの本のイラストレーションや絵本を制作し続けている。2003年には、絵本美術館&コテージ森のおうち、イルフ童画館において伊勢単独の絵本原画展が開催された。その一方で、伊勢はエッセイ『カザルスの旅』や『雲のひきだし』をはじめ、愛犬との生活をイラストとエッセイで綴った『グレイがまってるから』などの「グレイ」シリーズ、あるいはノンフィクション作家柳田邦男との共著『見えないものを見る 絵描きの眼 作家の眼』『はじまりの記憶』を記すなど、文筆家としても活動している。そして、これらの文章には、伊勢が絵本を制作する時の思いや、取材方法なども記されており、伊勢の絵本を読み解く重要な手がかりになるとともに、自らのアイデンティティを確固として「絵描き」と自認している伊勢の、描くという主体的行為体であること、その表現する身体が浮かび上がっている。本発表では、こうした点を確認しつつ、伊勢の絵本の中から、「いのち」をテーマとしている作品に注目し、宮沢賢治の童話を絵本化した『よだかの星』(1986年)と『水仙月の四日』(1995年)、立松和平が文章を書いた『山のいのち』(1990年)と『海のいのち』(1992年)、そして文と絵を伊勢が手がけた、阪神淡路大震災復興支援コンサートをめぐる『1000の風 1000のチェロ』(2000年)の5作品を中心に考察する。
なぜ絵本と「いのち」なのか。「いのち」とは?「生命学」を提唱している森岡正博は、「生命学は、『生命』に注目する。人間の生命だけではなく、動物や植物の生命、それらすべて包み込む生命のシステムと歴史に注目する。『生命』とは、あるものが生まれ、育ち、生活し、老いて、死んでゆき、あるものが他のものを育て、他のものを殺し、他のものを食べ、それらの営みが世界のあちらこちらで絶えず繰り返されてゆく、その出来事のひとつひとつおよびその総体のことである。このような出来事に注目して眺めとられたときの世界のことを、生命世界と呼ぶ。」(『生命学に何ができるか 脳死・フェミニズム・優生思想』)と述べている。このように考えた時、赤ちゃんの誕生から、子どもの成長、生きる喜びと苦しみや悲しみ、病い、老い、死と死別、自然界との関わりなどをテーマとする絵本作品が繰り返し制作されていることにあらためて気づかされる。絵本は「生命世界」についてそれぞれの作家たちが何を考え、それをどのように表現したのか−、いわば「いのち」のイメージの宝庫なのである。「生命」と「いのち」という言葉について、森岡は両者を使い分けているが、本発表で私は、「いのち」という言葉を、個体に還元される生物学的な「生命」への限定を回避するためのみならず、私たちの社会をまなざし、その過去と未来、他者との関係を模索するより豊かで、広がりをもったキー・ワードとして用いたい。こうした視点や考え方も、私は伊勢の作品を通じて学んだ(感じとった)。その際には、人権擁護団体であるアムネスティ・インターナショナルがその活動を子どもたちに伝えるために、谷川俊太郎とともに制作した絵本『かさをささないシランさん』(1991年)や、西野瑠美子の丹念な取材に基づく『従軍慰安婦のはなし 十代のあなたへのメッセージ』(1993年)、柳田邦男の終末医療についてのノンフィクション『「死の医学」への日記』(1994〜95年)などといった、「いのち」へと切り結ばれた作品における、伊勢のイラストレーションの存在も欠かせなかった。児童文学家・松居直は「絵本と読者論、あるいは絵本の人間学といった考察が、近年はますます関心をあつめています。」(『絵本のよろこび』)と指摘している。「いのち」というテーマが、絵本の人間学を深める方法の一つとなることを提示できればと思っている。

*神林淳子(かんばやし じゅんこ)
学習院大学人文科学研究科哲学専攻博士前期課程終了。目黒雅叙園美術館、講談社野間記念館・資料室勤務を経て、現在は講談社資料センターのスタッフ。今年でその契約が終了するので、その後はフリーランス。修士論文は小林古径研究、その他の論文に「鏑木清方作品の再評価―《築地明石町をめぐって》」『国文学年次別論文集 平成10年度版』朋文出版がある。「絵」と「言葉」の表象分析に関心を持ち、現在は絵本研究をすすめている。


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第70回例会 2003年12月7日 於:明治学院大学白金キャンパス 本館4階 1455教室

研究報告1:「1893年シカゴ万国博覧会『女性館』への日本の出品について」
  報告者:味岡京子(日本女子大学大学院研究生)
  コメンテーター:山崎明子(千葉大学大学院)

【報告概要】
1893年、コロンブスの新大陸発見四百年を記念して、アメリカのシカゴで大規模な「世界コロンビア博覧会」が開催された。この博覧会には、計画の段階から運営まで完全に女性によってオーガナイズされた「女性館」と呼ばれる展示館が設けられていた。その展示の内容は多岐にわたるものであったが、「芸術」の分野に多くのスペースが割かれており、とりわけ装飾芸術(応用芸術、手工芸)と女性との関係が強調される結果となっていた。また、建物の設計、全ての彫刻装飾、壁画装飾、室内装飾が公的な依頼として女性に割り当てられた点も、ほとんど初めての試みとして注目すべきことであった。計画当初から賛否の議論を巻き起こした女性館であったとはいえ、このような大規模なパヴィリオンが実現したのは、議会によって正式に任命された女性委員会が女性館設置のイニシアティヴをとったからであった。博覧会において政府の資金によって支えられ政府の認可のもとで女性が活動するということは前例のないことであった。議会の承認を得るということは女性の努力に合法性と妥当性を与えるものであるとして、アメリカ側は他国に対しても同様に政府によって認可された女性委員会の設立を呼びかけ、女性館へのオフィシャルな参加を求めたのだった。こうした呼びかけに対し、日本は表向きはオフィシャルな参加国として応え、英国やフランスを始めとする西欧先進諸国に準ずる十分な展示スペースをパヴィリオン内に確保し、絵画や工芸品(その他にも養蚕に関する展示や皇后・皇太后による作品など)の出品を果たしている。しかし実はこの日本の参加は、政府ではなく皇后から資金が調達されて実現したものであった。出品者の選考に関しては、政府直轄の臨時博覧会事務局ではなく、華族の女性たちがそのメンバーの大半を占める米国大博覧会日本婦人委員会が担当したとされている。そのためでもあるのか、政府による十分な資料が残っておらず、現在女性館への出品に関して詳細を明確にすることが困難な状況にある。例えば絵画に関しては、当時活躍していた女性画家が出品していたにもかかわらず、オリジナルを確認できる作品は数点しかないという状況である。一方で、同博覧会のアート・ギャラリーに出品された「日本美術」に関しては詳細な情報が残っており、それをもとにした展覧会が数年前に開催されている。また、当時アメリカで発行された数多くのガイドブックの中で、日本の出品として「高貴な婦人の私室」が好奇心を掻きたてるものとして紹介されていたことも発表者としては見逃せない点であった(そこには、二部屋にわたって、厳格に整えられた大名の婚礼道具が飾り付けられていた)が、これに関しても記録がほとんど残っていない。日本政府は、貿易の振興と日本美術の紹介を第一の目的として、膨大な費用をかけてこのシカゴ万博に参加した。また、日清戦争を翌年に控え、植民地主義的志向に目覚めていた日本が、それを正当化する方便として、アジアの中で唯一近代化を果たした国家であるという優位性をアピールしたいという意図もそこにはあったであろう。少なくとも「女性館」への出品に関して政府は無関心ではなかったはずである。議会による承認を得た女性委員会設立へのアメリカ側からの呼びかけに表向きは応え、ある程度の成功を収めながらも、実際にはオフィシャルな記録がほとんど残っていないという状況には、まさに日本の近代化において占めていた女性の立場が集約されていたといえるのではないだろうか。良くも悪くもおおいに関係していたにもかかわらず、あたかも政治とは無関係の存在であったかのように見なされてきた、そうした視点を変えることは重要であろう。

以上のことを踏まえ、本発表ではシカゴ万博「女性館」への日本の出品について取り上げ、日本がどのような経緯で参加したのか、政府は何を期待したのか、華族の女性たちはどのような役割を担ったのか、当時日本において「女性の芸術」とはどのような位置づけだったのか、また西洋の文脈においてどのように評価されたかといった点を検討してみたい。具体的には、米国大博覧会日本婦人委員会の設立と華族の女性たちの役割について論じた後、絵画、工芸、「高貴な婦人の私室」の展示について個々に言及する予定である。なお、「女性館」に関する先行研究としては、社会学的に分析した論文、広く全貌を紹介した著書、メアリー・カサットによる壁画に関する論文等がアメリカで公刊されているが、それらの中では日本の出品に関してはほとんど触れられていないばかりか、時に間違った情報を見出すこともできる。困難ではあるが、可能な範囲で情報を収集し伝えていくことは必要なことではないだろうか。

*味岡京子(あじおかきょうこ)
平成14年日本女子大学大学院修士課程修了。現在日本女子大学大学院研究生。修士論文「1893年シカゴ万国博覧会「女性館」〜芸術と女性の領域」。主要な関心領域は19世紀末フランスにおける女性芸術家の広範囲にわたる活動状況であるが、制度面においては英国・アメリカ・日本の状況にも研究対象を広げている。


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研究報告2:「20世紀初頭のアメリカ雑誌にみる日本住宅のイメージ」
  報告者:田中厚子(アクセス住環境研究所)
  コメンテーター:馬渕明子(日本女子大学)

【報告概要】
本発表は、19世紀末から20世紀初頭のアメリカの建築雑誌に掲載された日本建築に関する記事をとりあげ、日本の住宅がどのように評価されていたかをみようとするものである。1876年のフィラデルフィア博覧会、1893年のシカゴの博覧会が日本建築への興味を引き起こしたことは知られている。建築雑誌の記事もまた、日本建築、特に住宅と生活への関心を端的に表している。日本は自然で繊細な文化をもった国と美化され賛美する記述が多くみられるが、そこには当然西洋から東洋へのまなざしがあり、自国の事情に利用するという側面があった。西欧の新興国として自国のアイデンティティを探すアメリカが、木造住宅という共通項をもつ日本建築に期待したものは、実用性と同時に芸術性・精神性だった。「美術・工芸が生活の一部となっている芸術の国」「美と用を日常生活で統合した」「アメリカを含め西欧のこれからの建築が、装飾のない正直(honest)でシンプルな工法に回帰するにあたり、木造建築として完璧な日本建築の原則に学ぶべき」等の記述は、折衷を多用する装飾的なビクトリア様式を脱し新しい様式を模索する時代状況を映している。公衆衛生運動を通して「健康」への関心が高まったこと、アーツ&クラフツ運動の影響から、大芸術と小芸術という枠組みが変化したことも、日本住宅への関心を高める要素となった。そして、日露戦争を境に日本が近代国家として世界に認められることは、芸術と生活が一体となった美しい東洋の国が消えていくことを意味した。「消えていく文化として日本の伝統芸術を憂う」といった記述のように、そこには失われるものへの強者の視点がある。そして近代化した日本は次第に興味の対象ではなくなり、1910年代には雑誌記事数も減少する。再び日本建築への関心が高まるのは、モダニズム建築家によって日本建築が「再発見」される1930年代であった。このようななかで、日本の住宅の特質である自然との一体性は、カリフォルニアのバンガロー住宅に吸収され、素材のシンプルさ、開放性、空間のフレキシビリティなどはモダニズムへと繋がっていった。

この研究は、1998年度住宅総合研究財団の助成を受けた共同研究「近代アメリカでの日本建築ならびにその従事者への認識の変遷と構造」に基づいている。そのときに調査した雑誌5誌(The American Architect and Building News 、The Architectural Record 、Carpentry and Building 、The Craftsman 、House and Garden)のなかから2誌(The Architectural Record、 The Craftsman)を選び、その住宅関連記事に見られる日本の住宅のイメージを探ることを試みる。
1.建築関連記事の概要、2.記事の分析 3.バンガローとモダニズムへの応用 という構成で発表する予定である。

研究対象とする記事

建築雑誌The Architectural Recordより
 Japanese Architecture (1896)
 The Period of Daikan (1906)
 Japanese Houses (1906)
芸術雑誌The Craftsman より
 Japanese Architecture and its Relation to the Coming American Style (1906)
 Simple Life in Japan - Achieved by Contentment of Spirit and a True Knowledge of Art (1906)
 The Trail Japanese influence in our Modern Domestic Architecture (1907)
 A California Bungalow Treated in Japanese Style (1910)
 An Artist’s Home in Japan: How Helen Hyde has Modified an Eastern Needs in its Own Way (1908)

*田中厚子:東京藝術大学美術学部建築科大学院終了、Southern California Institute of Architecture, M.Arch.
主な著書・論文『ビッグ・リトル・ノブ、ライトの弟子―女性建築家土浦信子』(ドメス出版、共著)、『アメリカ木造住宅の旅』(丸善、共著)、「南カリフォルニアにおける日本建築の影響と引き戸の導入」(『建築史の回り舞台』彰国社 所収)


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第69回例会 2003年10月18日(明治学院大学芸術学科との共催) 於:明治学院大学白金キャンパス

  シンポジウム「戦争と記憶」(歴史・イメージ・ジェンダー)

 2003年現在、「戦争」が地球全体を覆う問題であることを否定できる者はいないであろう。2001年9月11日の同時多発テロや2003年春のイラク戦争を含むあらゆる「戦争」は、勃発すると同時に「記憶」となる。巨額の資金を投入したプロパガンダ報道の映像も、状況に鋭敏に反応した制作家の作品も、さまざまなかたちを取った「記憶」である。さらに「戦争」は報道されないことによって、また作品化する者の不在によって、「反記憶」=忘却の対象ともなる。
 「戦争」と「記憶」をめぐるこうした問題を、遠い過去や近い過去の視覚表象の分析を通じて考察するというのがこのシンポジウムの目的である。「戦争と記憶」の構造的なありようは、ここではあくまでも個別的な歴史・政治・社会的状況と視覚表象の関わりとを通じて、さまざまな角度から検証されるであろう。

【スケジュール】

午前(司会:池田忍 コメンテーター:馬渕明子)
 10:00 趣旨説明 鈴木杜幾子
 10:10 亀井若菜「物語・戦争・女性表象─狩野元信筆「酒伝童子絵巻」をめぐって」
 10:50 保井亜弓「版画にみる80年戦争のイメージ─「ベルギカ」の表現を中心にして」
 11:30 大原まゆみ「ゲルマーニアとミヒェル―二つのナショナル・シンボル―と戦争イメージ」

12:10〜13:10 昼食

午後(司会:斉藤綾子 コメンテーター:小勝禮子)
 13:10 児島薫「見えない戦争―日本画に表された「時局」」
 13:50 香川檀「アーカイヴ・アートにみる「ナチズムと女性」の表象─S.ジグルドソン《静寂の前に》」
 14:30 笠原美智子「戦争写真の歴史的変遷と現代戦争表象
              ─スーザン・ソンタグ『他者の苦痛へのまなざし』を題材として」

15:10〜15:30 休憩

 15:30 馬渕コメント
 15:50 小勝コメント

 16:10〜16:20 ディスカッション準備

 16:20〜18:00 ディスカッション(司会:鈴木)

  お問合せ:明治学院大学芸術学科 Tel 03-5421-5380

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第68回例会 2003年10月4日 於:豊島区男女平等推進センター(エポック10)
研究報告1:「下田歌子の社会構想と手芸−近代日本の女性統御システムの構築」
  報告者:山崎明子(千葉大学大学院)
  コメンテーター:森 理恵(京都府立大学)

【報告概要】
 本発表では、下田歌子という明治期のイデオローグに焦点を当て、下田の経歴と著作の考察を通じて、近代国家における女性統御システムの一つのパターンを提示したい。彼女の「功績」とは、まさに、近代国家が女性をいかなる形で支配し得るかという命題に対して、極めて具体的かつ実践的な構想を提示し、実際に活動をし、そして広範な人脈と知識とによって近代国家が必要とする女性のあり方を示した点にある。
 下田の活動の中でも特に重視すべき点は、イギリス国費留学から帰国した後に女性を広く組織した、帝国婦人協会の活動である。この組織化は下田が作り上げた上流階級の人脈に支えられており、それを基盤として教育機関の設置など、大規模な社会構想を進展していった。下田は女性の階層構造の頂点に皇后を位置づけ、皇后をすべての女性の模範とした。さらに皇后の下に社会の中核を担う中産階級の女性たちを置き、皇后の感化によって彼女たちを国家における女性役割を遂行する者へと導くことを意図した。
 また、下田が下婢養成所において、下婢となる女性たちに対して行なおうとした教育は、中産階級もしくはそれ以上の階層の家庭に寄与する労働者の育成を目的としている。下婢雇用のシステムは下層の女性に低廉な労働力を提供させると同時に文化的な啓蒙の役割も果たしていた。また、慈善女学校においては、慈善の対象となる下層の女性たちの文化的な底上げを図るとともに、中層以上の女性たちが「慈善」という行為を通じて「感化」のシステムの実行者となっていくことが目論まれている。つまり、両者は基本的に下層の女性たちを教育するという立場に立ちながらも、一方で中層以上の女性たちが社会にいかに貢献していくのか、また下層の女性労働力をいかに使っていくのかという点が、重視されているのである。
 下田が「感化」のシステムにおいて、中心に位置付けた中産階級の女性は、皇后を模範とし「感化」される存在であると同時に、下層の女性たちに対しては自らが施し啓蒙していくことで皇后の模範的行為を再現する役割をになう。この女性の「感化」のシステムは、上から下へ影響力を伝播させ、たしかに下層の女性たちの文化的な底上げを図るものである。しかし底上げを図ることは決して階層構造の解消を意味しない。なぜなら、「感化」のシステムを実行する行為そのものが、自らを「上」の階層におくことによってのみ可能な行為であり、自らの属する社会階層の意思の表明でもあったためである。
 この婦人会組織を通じて下田は常に「実利実益主義」を唱え、その中核に手芸論を置いた。下田の手芸論を構成する「伝統」「婦工」「徳」「態度」「実益」という5つのキーワードは、女性と手芸を強く結びつけ、手芸から逃れられない構造を作り出す。「手芸」を行なうことによって、女性身体を「手芸」をし続ける身体へと矯正し、女性領域の遵守と女性性の表明がなされた。こうした身体的矯正と精神の陶冶は、明治期を通じて女性たちを「手芸」行為へと収斂させる効率的なシステムとなっていた。
 下田が中産階級の女性を対象とした女子工芸学校において目指した、高度な技術の習得や、手芸テキストのディスクールにみるように、中層以上の女性たちは、常に貨幣化されえない生産活動をすることが求められてきた。
 近代日本において、女性は専ら再生産に従事してきたと考えられてきた。しかし生産行為をまったくおこなわなかったわけではない。女性の生産活動は、社会とは切り離された家庭という場で行なわれ、あたかも家事労働の一環であるかのごとく位置づけられてきた。再生産の合間に女性たちが行なった貨幣化されない無償の「生産」は、まさに賃金が支払われないがゆえに、実行にあたって多くの理由付けを必要とした。それこそが、下田の5つのディスクールであった。これらの言説は、女性の「生産」行為をあたかも「再生産」として提示し、奨励するためのレトリックとなり、日本近代を通じて女性が手芸を行なうことを美化し続けてきた。

 本発表の中心となるのは下田が著した二冊の手芸テキスト『女子手芸要訣』と『女子の技芸』についてであるが、明治期を通じて出版された膨大な手芸テキストについて概観しながら、下田の手芸テキストを位置づけるとともに、明治期において「手芸」というものが女性の国民化において果たしてきた役割について論究する予定である。

*山崎明子(やまさきあきこ)
 本年9月、千葉大学大学院後期博士課程修了。学位論文「近代日本の「手芸」とジェンダー−女性の階層構造と「婦徳」の伝播−」では、近代日本の女性の国民化の一つの回路として国家規模で行なわれた「手芸」奨励システムを取り上げ、論じた。関心領域は、近代日本ジェンダー論と美術制度史。


研究報告2:「国家と女性イメージの生成―『皇后裏物語』としての菅野須賀子と平塚らいてう」
  報告者:北田幸恵(城西国際大学)
  コメンテーター:岩見照代(麗沢大学)

【報告概要】
 明治天皇の后美子皇后は、洋服化や日露戦争への決断のように、時には皇后が先導することも含めて天皇の役割を補完し、第一の臣として天皇を至近の距離で支えるという近代天皇制国家の重要な役割を完遂した存在であったことが、近年の若桑みどり、片野真佐子らの研究によって明らかにされてきている。男性である天皇だけでは果たしえない、国民の半分を占める女性国民の結合、及び「生物学的・文化的・象徴的な意味においてネイションを再生産」(ニラ・ユーヴァル・デイヴィス『ジェンダーとネイション』)する女性としての力を発揮した面から考えるとき、皇后を単に近代女性から隔絶した超絶な存在としてとらえるのではなく、より近代の女性の問題を象徴した存在としてとらえる視点が必要になってこよう。皇后は、家父長的近代家族というアンビバレントな使命を具体化する人物であり、そのことは多かれ少なかれ日本近代の女性の抱える問題を中核に担っていたといわざるをえない。
 一方、一九一〇(明治43)年に発覚し翌年に十二名が死刑になった「大逆罪事件」の唯一の女性被告管野須賀子は、美子皇后とは鋭い緊張をもった対極的存在であった。美子皇后が一八四九年から一九一四年までの六十五歳の生涯であるのに対し、須賀子は一八八一年から一九一一年までの二十九歳の生涯を死刑囚として閉じた。美子が京都の没落士族の娘として生まれ、「天子は……思想上には迷信の根本」として天皇制の虚構を暴くことに一生を捧げた。美子と須賀子はまさに近代の両極の女性像であり、近代日本にとって果たしたその役割はみごとな対照をなす。
 また美子は女官を管理し、天皇の多妻制を支えたのに対し、須賀子は新聞記者として激烈に男性の売買春や性的放縦、一夫多妻制度を批判した女権家であった。皇后美子に対し、須賀子は同じく「大逆罪事件」の主犯として死刑となった社会主義者・無政府主義者の幸徳秋水の妻であった。美子は日清、日露戦争では愛国婦人団体の支持によって戦争推進の支柱となり、須賀子は女性の戦争批判文学の先駆である『絶交』『日本魂』を著している。かくも鮮烈なコントラストをなす二人の女性であり、その立場も両極であるが、国家や天皇制の問題にもっとも肉迫した存在であったことは一致している。管野須賀子を美子皇后の「裏物語」を形成する主人公としてとらえることも可能であろう。  このような構図の中で見てくると、『青鞜』の主宰者平塚らいてうはどのような位置を占めるだろうか。須賀子が「管野幽月」と号したのに対し、らいてうは「大逆罪事件」で須賀子が処刑されたその年、『青鞜』創刊号で「元始女性は太陽であった」とのろしをあげ、自らを元始の太陽にたとえた。「私どもは日出ずる国の東の水晶の山の上に目映ゆる黄金の大円宮殿を営もうとするものだ」と、女性ひとりひとりが真に主体たる性差を脱した真我の国の住人を構想する。らいてうもまた須賀子後に、国家からジェンダーを超越させようと試み、新たな物語を作ろうとした女性であった。須賀子とらいてうの「月」と「太陽」のメタファには、近代女性たちの解放の夢が託されているはずである。
 本報告は、美子皇后の「裏物語」として須賀子、らいてうをとらえ、近代女性のイメージの生成を考察することで、国家とジェンダーの関係の一端を照射しようとするものである。

*北田幸恵(きたださちえ)
 一九四七年北海道生まれ。北海道大学大学院博士課程修了。城西国際大学教授。日本文学、女性学専攻分野を担当。現在、近代出発期の女性文学の刊行準備中。主な著書論文に、共編著『フェミニズム批評への招待』(學藝書林)『山姥たちの物語』(同)『樋口一葉事典』(おうふう)、共著『樋口一葉を読みなおす』(學藝書林)『『青鞜』を読む』(同)『売買春と日本文学』(東京堂出版)などがある。


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第67回例会 2003年8月5日(火) 於:東急Bunkamuraザ・ミュージアム
研究報告:「マリア・イスキエルドの民衆芸術とメキシコ性」
  報告者:大橋敏江(名古屋造形芸術大学非常勤講師)

【報告概要】
1.壁画家ダビド・アルファロ・シケイロスによる民衆芸術の定義:
  民衆芸術は多くの技術や経験を積み重ねたものではあるが、実際にはそれはある人種すなわち何世紀もの間奴隷状態にあり、それ故彼らが輝かしかった時代に自分たち自身を記念碑的な用語で表現していたように表現する可能性を失った人々の表明

2.マリア・イスキエルドの民衆芸術
 ・美術評論家マルガリータ・ミチェレーナによる論評抜粋:
  「彼女は質素で日常的なものを描き、物に彼女の芸術で新しい概念を与えた。決してブルジョア的なものを描かなかった。…彼女はメテペック人形といったふつうのメキシコの手工芸品をパワフルで同時に非常に女性的である彼女の絵に合体させるために受けとめた」
 ・詩人オクタビオ・パスによる論評抜粋:
  「マリア・イスキエルドと民衆芸術を取り結んでいる分野は宗教や信仰の付帯状況である魔術に求められる」

3.馬のエピソード
 ・フランスの詩人アントナン・アルトーによる論評抜粋:
  「マリア・イスキエルドの馬は征服の時に古いメキシコの精神に強い印象を与えたすべての馬を直ちに思い起こさせるからである。マリア・イスキエルドの絵にはいくらかのトーテミズムがある。その野生の馬は大地の悪い霊魂に驚くかもしれない」
 ・詩人オクタビオ・パスによる論評抜粋:
  「マリア・イスキエルドの絵画は夢によって変容しているけれど、ときに前世紀の民衆ジャンルの絵を思い出させる。現実が幻となり、幻が不安な夢を見る夜のうちに、力強い、憂鬱なセクシュアリティの馬に化身する」
 ・詩人アンドレス・エネストロサによる論評抜粋:
  「メキシコには征服以前には馬は存在しなかったことを知りながら、マリア・イスキエルドの絵はあまりにもメキシコ的なので彼女が描いた馬さえメキシコの雌馬の子孫であるように見える。…私が言いたかったことはマリア・イスキエルドはエルナン・コルテスがメキシコに到着したときにメキシコの原住民が見たのと同じびっくり仰天した目で馬を見るということです」

4.マリア・イスキエルドのメキシコ性
 ・フランスの詩人アントナン・アルトーによる論評抜粋:
  「メキシコの現代画家の中でマリア・イスキエルドは、難なくからかいながら簡単にライオンを飼い馴らすような、始原のメキシコ魂から奪い取った、激しく渦巻いているような面を感じたただ一人の人である。マリア・イスキエルドの絵は我々を神話の時に連れ戻す」
 ・マリア・イスキエルド自身の言:
  「私はいつも他のメキシコ人画家とは違った技術や様式を見つけようとしてきた。作品が私が感じ愛する真のメキシコを反映しているように努力している」
 ・美術評論家ラケル・チボルによる論評抜粋:
  「マリア・イスキエルドの本領は、リベラたちのような大作にも叙事詩的な主題にもなく、変態への境を横切るための日常的なもの、貧しい人達の宗教と呼ぶことができるものの分野にある。…彼女のたくさんある作品のメキシコの国とのアイデンティフィケーションは決定的で、天真爛漫である」
 ・美術評論家リンダ・ノックリンの「メキシコの女性」展評論抜粋:
  「メキシコ性とでも定義できるような特質と彼女たちとの関係は様々である。作品の重要性においてメキシコ的環境とジェンダーが果たす役割が非常に大切な画家からほとんどそうでない画家までいる」

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第66回例会 2003年7月19日(土) 於:千葉市美術館講堂
研究講演:「How do you wear your body? イ・ブルの身体拵え」
  報告者:姜太姫(カン・テヒ、韓国国立芸術総合学校教授、千葉大学外国人研究者)
  通訳:金惠信(キム・ヘシン、学習院大学・千葉大学、日韓近現代美術)

【報告概要】
「「身体はすべての社会、歴史、文明および文化に関する発信にもっとも適した対象である」と信じるイ・ブルは、当初からテクノロジーに順応したポスト・ヒューマンではなく、怪物のように奇形化した身体、つまり、一種の有機的「擬似ヒューマン」や「怪ヒューマン」を提示し、その後モンスターとサイボーグを使って身体の位相について、積極的にメッセージを発信しつづけてきた。彼女の全作品を貫くテーマは、身体の物質性とその限界についての省察である。彼女が手でこしらえてきた身体たちの多くは、美しく飾られているが、必然的に腐敗し滅びていく生命現象の棲み処として提示され、そこで人間の身体に刻印された死という要素は、機械化したサイボーグにおいても欠かせないモチーフとして機能しながら最近の作品に至っている。女性の身体を差別の現場や抑圧の根源として告発した初期から、根本的変化の危機にさらされた今日の身体を探索する現在に至るまで、彼女が身体の社会・文化的記号を読み解く方式は、もっと綿密に検証される価値があると思われる。」[姜太姫 <世界の舞台>展図録掲載論文「イ・ブルのTheartrum Orbis Terrarum」から抜粋。金惠信訳]

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第63回例会 2003年4月5日
研究報告:「1920年代の婦人雑誌における住宅室内の表象とジェンダー」
  報告者:サラ・ティズリー(東京大学大学院博士後期課程)
  コメンテーター:田中厚子(近代建築史研究者、アクセス住環境研究所)

【報告概要】
 本報告は、1920年代の婦人雑誌における身体の表象と読者のアイデンティティ形成を分析する。この具体例から議論を更に広げ、欲望・視覚表象・同一化の過程・活字による近代国家の形成といった問題について新しい見方が提案できることを望んでいる。『主婦之友』や『婦人世界』など近代日本を代表する「中流向け」婦人雑誌に、住まいに関する記事が掲載載され始めたのは1910年代の生活改善運動の頃であるが、「衣食住」の「住」が独立したテーマとして定期的に扱われるのは、1923年の関東大震災後のことであった。これは、当時の社会・経済状況も反映して、住居への関心がいっとき消費者のあいだで高まったからである。建築家やデザイナーによる専門記事が連載され始めてからでも、住居に関する情報が通常提供されていたのは、連載小説・教訓的なフォトエッセー・商品の広告においてであった。そこでは、住居空間とその設備である家具は、雑誌の宣伝していた「近代的な」日常生活を実現するための装置として扱われる。とりわけ、図像や文章のなかにしばしば仕組まれた「居住者の身体」の存在あるいは不在は、「近代的家庭」という仮想空間の「利用方法」を提案することによって、読者の同一化と欲望を両義的なかたちで誘うレトリックであり、ジェンダー・階層・身分・セクシュアリティが固定している主体性を与える効果をもっていた。

*サラ・ティズリー(東京大学大学院博士後期課程)
 カナダ、バンクーバー出身。専攻は日本近代デザイン史。プリンストン大学で建築史とジェンダー理論を学ぶ。武蔵野美術大学修士課程を修了後、現在、東京大学の表象文化論コース博士後期課程に在籍。元東京学芸大学非常勤講師。現在は博士論文「近代デザインの<日本> 室内装飾と国民性の構造」を執筆中。


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第62回例会 2003年2月2日(日)
研究報告:「書くこと・傷つくこと・孕むこと─森しげ〈妊娠小説〉をめぐる抑圧の構図─」
  報告者:藤木直実(日本女子大学博士課程単位取得退学、現在、同研究生)
  コメンテーター:漆田和代(日大文理学部非常勤講師〈ジェンダー論〉。スペースじょあん代表。日本近代文学、社会言語学などに関心を持ち、エッセイを執筆)

【報告趣旨】
明治末期に執筆活動をし、『青鞜』の賛助員でもあった作家・森しげについて報告します。今日では、作家としての業績は忘却され、鴎外の2度目の妻、それも「悪妻」としてのみ名高い彼女ですが、私見では、その作品は月経・初夜・避妊・妊娠・流産・出産といった女性のセクシュアリティの諸相を描いて独自性があります。『スバル』『女子文壇』『青鞜』『三越』などに盛んに寄稿し、管見ではレズビアニズムを主題にした作品を最後に筆を断っています。このたびの発表では、女性表現者をめぐる状況の問題、たとえばメディアでの取り上げられかたや男性評者による評価の問題──しげの場合、テクスチュアル・ハラスメントの典型と見なしうる状況です──を発端として、「女性の自伝」「女性が書くこと」について、「妊娠」や「出産」は「誰」のものかということについて、また明治末期の「文学」のジェンダー編成、時間がゆるせば、「消費」(あるいはグローバリゼーション)と「文学」とジェンダー/セクシュアリティの関係性についても言及したいと思います。

【参考文献】
・『明治文学全集82 明治女流文学集(二)』(筑摩書房 1965.12)
・らいてう研究会編『『青鞜』人物事典』(大修館書店 2001.5)
・森まゆみ『鴎外の坂』(新潮社 1997.10)
・漆田和代「『半日』(森鴎外)の磁場」(『男性作家を読む フェミニズム批評の成熟へ』新曜社 1994.9)

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