清和院家42代目に当たる、私清和院宮宗仁が、第二次世界大戦と、東日本大震災で焼失した清和院宮家に関する事項を、40代爵仁の覚書と41代安仁・宗仁の記憶を基に記しております


清和院宮家
清和院宮(せいわいんのみや)は、五十六代天皇(清和天皇惟仁陛下)の第六皇子(貞純親王)の皇子(六孫王)が号した宮号。
 現在は、その子孫が私号として号としており、現在の皇統に属する皇族(宮家)や戦後臣籍降下した旧皇族(旧宮家)との関りは明確ではない。


成立から現在まで
 六孫王が粟田山荘で号したとされる。
 臣籍降下し、源經基と名乗った後も清和院や清和院宮などと号した(六宮の号は、賜源姓以降は号されていない)
 六孫王以降、代々が私号として号するも6代目源為義の代には、清和院宮の号の権威や威光は途絶え、廃号となった。後に鎌倉将軍となった、源頼朝・源頼家・源実朝や、惟康親王らが一時的に号した。
 最後に号した惟康親王が薨去した後、350年間号されていなかったが、源家康(徳川家康)が、武家の棟梁たる源氏嫡流として号し、家康以前の累代に追号した。また、家督を継がせることのできなかった嫡男、松平信康に徳川姓と清和院宮号を諡号したとされる。その後、宮号は、家康の遺命により、徳川信康の嫡子松平家長(萬千代)に継がれた。松平家長の宮号継承は、徳川秀忠・徳川家光親子により非難されたが、家康の遺命により継承に至った。しかし、源氏長者と清和院宮当主と清和源氏本流の号が2分する形となってしまった。この裁断と、家長の父が切腹していることにより、清和院宮家は秀忠・家光の代まで冷遇されたのである。
 延宝4年8月29日、徳川家綱の代に徳川一門への復姓が叶い、三つ葉葵の家紋と、徳川姓・松平姓を賜り、家長の嫡男が徳川宗康を名乗るも、一代限りで公称を返姓し、その後代々、松平姓と、信康の母である築山殿の姓である関口姓を名乗り、江戸城雉橋門内の屋敷に在し、将軍の護衛を勤める旗本に列した。旗本の身分であったが、松平姓を名乗り、葵紋を使用しており、正四位下左近衛権中将を与えられ、その実際の石高も2〜3万石近くあったとされている。