上城君から、楽しい計画を耳にしました。それを聞いて若さというのはなんと素晴らしいのだろう、と私は年甲斐もなくうきうきとしてしまいました。おまけに私も加えてくださるというので、本当に冥利につきます。内心ではこんな役に立たない老骨が混じったところで、邪魔になるだけだとの思いもありましたが、上城君の横で早川さんも笑顔で誘ってくださると、ここは甘えさせていただき参加させていただくことにしました。
 とはいえ、本業の方をおろそかにするわけにはいきませんので、講義の準備物を抱えて少し離れた大講堂へと向かっている途中、北沢君に会いました。目の下に隈があり、なぜかちょっと疲れているようでした。挨拶もそこそこに私は
「なにか課題でも抱えているのですか?」
「はい」
 北沢君は渋い顔で頷き
「しかし、どうにも糸口が掴めずに、いえ、完成させたものがとても完成物とは言えずに、恥ずかしい話ですが先生。本当にあんなものは紙くず同然です」
 北沢君は本当に何事にもまじめなので、こういうことも珍しくありませんが、ここまで弱音を吐くことは珍しいです。けれどはて、私は北沢君の動向を全部把握しているわけではありませんが、一応担当をしている研究生なので研究内容の進み具合などは多少はわかっています。そんな中で最近、そこまで頭を使わねばならない課題など心当たりがないのですが。もちろん、北沢君が別の講座をいくつかとっていることは知っていますが。
「それは進学に響くものですか?」
「いえ、学院内に関しては」
「では、今回は諦めなさい。また、寝ていないでしょう。大切な時期なのにそんなに疲れていてはいけません。優先をつけて一番に大事にするものはまず自分の身体です」
 私は今まで、北沢君にたいしてここまで強引なことを言ったことはありません。学者など研究が窮まってくると、寝食を忘れて取り組むなど日常茶飯事なものですし、無理はしないように、と忠告はしたとしても諦めろ、などとの暴論は普通口にしません。
 けれど今の北沢君はひどい行き詰まりにぶつかって、しかも盲目的にもなっているようでした。なにしろ北沢君です。直進直進直進、では解けないものもあるのです。いったん離れることもよいだろう、と思った点もありますし、やはり後ろで控えているものを考えていると、北沢君が不調ではお話にならないという点もありました。
 北沢君は思いつめた顔で少し考えていましたが、やがて躊躇いがちにはい、と頷いてくれました。
 それにしても、何にこれほど悩んでいたのか、それはだいぶ後の方になって私は知るところになります。



 夫婦というものは、シーソーのようなもので、一方の調子が下がりまたあがると、今度はもう一方の調子まで下がるものなのでしょうか。
 北沢君と廊下で出会ってから二、三日後、もう彼女との出来事を頭の端に追いやりかけた時期に、私の研究室にどこか思いつめたような顔で仲井君が一人でやってきました。
 彼は何も言わずにソファに座り込んで、しばらくずっと黙っていました。私がそっと煎茶を出して、どうしましたか、と尋ねました。すると仲井君はとても暗い口調で呟きました。
「佳代さんと喧嘩しました……」
 私は特に驚きはしませんでした。予想していたかと言えば違うと思いますが、とにかく軽く納得したに留まりました。うつむく仲井君に
「原因はなんでしょうか?」
 すると仲井君はとてもバツが悪そうな、それでいて腹が立ったような、眉をよせてとても難しい顔をしました。あわせた両手の指は話しにくいようにたえず動いていました。やがて仲井君はたっぷり三分はたったか、というところで
「前からちょっと空気があまりよくなかったんですけど、今回のことは恥ずかしながら……その、先生のことで」
「私ですか?」
 これには私は少し目を見張りました。最近ではこの悪い癖を抑えていたと思ったのですが、なにかしてしまったのかといささか慌てて思い返す前に、私の返しに仲井君は、はい、と陰鬱そうに答えて頷き、
「……僕が先生に嫉妬しました」
 と言いました。そして私はその言葉で全てがわかったような気がしました。
 それまで大人しかった仲井君は突然、すっくと背を伸ばし、腹にすえかねる、というように拳を握って爆発しました。
「だって佳代さんは先生のことばかり! 口を開いても尊敬する人は先生! 目指す人は先生! 人格者は先生! 二人でいるときだって先生の素晴らしさや恩義について延々と語ってとまらないし」
 もはや全ての外界を気にせずに怒鳴る仲井君に、私は廊下に聞こえないだろうかと、不安になってドアを見やり、それから仲井君に視線を戻すと、仲井君は怒りと激情で赤くなってこう叫びました。
「子どもが生まれたらその名前だって絶対先生の名前をとって雄二郎にするってきかないし!」
 一瞬、もう第三者には何もいえなくなるような惚気を口にした仲井君ですが、興奮しているのか気付いていないようです。これも若さだと思います。
 そうして、仲井君は急に失速しました。伸ばした背を再び丸めて、うつむきます。前の煎茶は全く目に入っていないようです。やがてぽつりと
「分かって、いるんです……いつも僕ばっかり右往左往していつでも佳代さんはどっしり落ち着いている」
 そういう仲井君はとても悲しげに見えました。
「僕は、今まで何人かとつきあったことはあります」
 そこでやはり悲しげに、首を少し傾げる動作をしました。
「でもどうしてかな、こんな気持ちになるのは初めてで。おろおろしてばかりで。なに考えても不安になって自分が嫌になって」
「誰だとてそうですよ。北沢君だって、最初はそんな風にひどく動揺していましたよ」
「どこがですか」
 これには仲井君は睨むような目をして私を見ました。到底信じられないといったような瞳の奥に鋭さがあります。それを見つめて私は、少し考えました。そして、立ち上がって、自分の机に戻ると引き出しを開いて、その奥からあの北沢君がソファで眠っていたとき、慎重に引き出しの奥底へとしまった写真立てを取り出しました。わずかな間だけそれを眺めると、戻っていってソファに腰掛け仲井君に差し出しました。
 仲井君は不審そうに受け取り、眺めて眉をひそめました。
「これは?」
「それは北沢柏志教授です。私の大先輩であり」
 ここで私は少し言葉を切りました。仲井君は、聡い学生なのですぐに気づいたようです。彼に向かってそう、と頷き
「そして北沢君の、お父さんです」



「本名が「はくし」というのにもあやかって、周りの人に彼はもっぱら博士と呼ばれていました。実際、いくつかの博士号を持っておられて、立派な学者でした。博学多彩、質実剛健、洞察力に満ちて、何事にも挑戦するバイタリティーと鋭気に満ちた方でした。君とは違うタイプの方ですね」
「……」
 仲井君の顔がむっとしたような、けれど反論の手立てがないような悔しそうな顔になりました。私はお茶をすすり、湯のみの陰で顔を少し隠しながら、騒ぐ胃にお茶を流して黙らせ
「彼は私が通っていた大学の後輩でした」
 仲井君の顔が思わぬことをきいたようなきょとんとしたものになります。それを眺めながら私の中に色あせることのない風景が急速に広がっていきました。まるで人の中が宇宙であるように、莫大なそれは一気に広がりました。
 私の大学時代は決して華やかなものでも、人が見て羨むようなものでもなかったでしょう。でもそれは多分、北沢博士に会うまでの話です。
「私がなんとか大学に残らせてもらって長年研究を続け、ある考古学のチームに恩師とのつきあいで参加した場で北沢博士と知り合いました。私はそのときまで、彼の存在を知りはしりませんでした。ずいぶん、年も離れていましたし……。けれど気づいてしまうとどうして今までこの存在を知りえなかったのだと驚くような、目立つ方でしたよ。若手の中でも頭角を現していて、常に先陣をきってどこまでもいってしまうように精力的で、薄暗い研究室の中で生まれる神秘ばかりに長年魅せられていた私には――…正直な話、巨人のような強烈な人でした。絵の具のパレット――いや、カラーテレビ、でしょうか」
「カラーテレビ?」
「君たちの年代には当たり前のことでしょうが。ずっと白黒の画面ばかり見ていた者にとって、初めてカラーテレビを見たときに受けた衝撃というのは、すごいものでしたよ。そんな衝撃が、研究にもあります。ふと、世界の広さを知る、いやずっとその先にも世界の広さがあること、今見えた地平線こそが世界の果てだ限界だと思っても、その先にもまた地平線があること。そういうものを目にした時は、私たちは本当に自らが何もしらなくて何も目にしていないと思わせて、そして空を飛べる」
「空?」
「研究とはね、その果てに空を飛べるんですよ。いくつもの壁にぶつかって、何度もそこが世界の限界だと思って。でもふっと空が見えて壁がなくなって世界を目にしたら、あまりに無力であまりに自由だと知って、飛べるのですよ」
 その時のわくわくする気持ちは、いつでも色褪せないのです、と言うと仲井君はやはり少し不思議そうな顔をしました。
「北沢博士は、いつも飛んでいる方――いや、飛ぶときのあの気持ちを、大空に挑む時の高揚を、思い出させてくれる人でした。あの人のそばにいるだけで風の温度や熱気が伝染してしまうような。」話をしているだけで当時の興奮がよみがえってきそうで、私はまたお茶を飲みました。胃の奥に熱い塊がうずいています。
「北沢博士はその研究チームに小さなお子さんを同行させていました。残念なことに早く奥様を亡くされていたので、彼一人で育てていたようです。髪が短くてのぞいたひざ小僧に絆創膏をいくつも張っていて、野球帽までかぶっていたので、私は初め男の子だと思ってしまいましたよ」
「それが佳代さん?」
「意外ですか?」
「はい」
 毒気を抜かれたような仲井くんに私はひとつ踏み込んで
「君は北沢君はどういう子どもだったと思いますか?」
「えっと……なんだろう。本をよく読んでいる子だったかなあ、と」
「君はどういう子ども時代を?」
 これはおせっかいでした。不意に仲井君の顔が歪み、両膝をつかんで腹立たしそうに
「……年の離れた二人の姉におもちゃにされてました。中学卒業時にやっと両方嫁に行ってくれたんですが、それまでずっと…!」
 苦悩が滲み出してくるような声音で、仲井君は言いました。私は正直な話、その家庭環境に納得していましたが。仲井君は忌々しそうな表情からちょっと我に返ったように
「僕の話はどうでもいいので、……その、佳代さんを」
「どうでもよいわけではないのですがね。君と北沢君二人の問題ですから。まあ、北沢君はその風体から予想させるほど、活発というタイプではなかったですね。怪我をしていたのは、歩いていたら電柱にぶつかったり、つまづいてこけたりしていたからだそうです。発掘現場でも発掘穴に一度ならず二度も落ちて研究メンバー総出の救出劇、なんてこともありましたよ。無数の横穴があいている穴の中のひとつに入り込んだ時は、穴のどこからか小さくすすり泣きが聞こえてくるのですが、場所が特定できずに困っていたら最後に北沢博士がもぐりこんで穴に向かって「佳代、大声で泣け!」と呼ぶとわっと声が大きくなってやっと居場所を見つけられたり。やんちゃ、ではないです。ひどく不注意だったんです」
「はあ……」
「なぜかというと、あることに気をとられると、ずっとそれひとつを考え込んでしまって、それでいっぱいになってしまって他が入る余地がまるっきりなくなってしまうんですね。だから、ハッと気づくと電柱に頭をぶつけたり穴に落ちてしまっていたんです。北沢博士の子供の頃とそっくり同じだったそうですが。仲井君、君は北沢君が少々、人とは変わっていると思いますか?」
「……ええ、まあ」
「彼女も、空を飛べる人なんですよ。博士と同じく。二人は、非常に仲の良い親子でした。私は、ずいぶん年下でしたが年の差など感じさせない北沢博士にすっかり心酔していましたし、どうしてか向こうも気に入ってくださったようで、その後も親しい交際を続けさせていただきましたが。知れば知るほどに素晴らしい人でした。それに、北沢君もこの世でただ一人の家族である博士をとても慕っていました。でも、彼はある発掘事故で若くして亡くなってしまいました。北沢君が中学生の時です」
 仲井君が少し息を呑みました。私はそれを眺めながら痛む部分にお茶を流し込みました。
「彼が生きていれば北沢君は彼から様々な薫陶を受け、人生を歩むために有意義な贈り物をもらえたでしょう。でも、彼は亡くなりました。彼は何もできません。だから、わずかばかりの進学資金の援助をしただけにすぎない私を北沢君はあんなに慕ってくださる。私はどうあがいても彼のかわりにはなれませんし、彼がしたであろうこともできません。でも北沢君は慕ってくれる」
 仲井君の視線に気づいたので、私は片目をつぶってみせました。おそらく資金うんぬんの話は初耳なのでしょう。
「秘密ですよ」
 まあ別に知られてもまずいというほどのこともないわけですが。
「親類も見渡す限りいない状況で、北沢君は高校を博士の残してくれたお金をやりくりしてなんとか出ようとしていました。出て、すぐ働こうと。私は必死にとめて、高校の間の生活費と学費をなんとか受け取ってもらおうと……あのとおりきっちりとしてかたくななところがある性分ですから、最後は半ば脅迫と懇願でしたね。足長おじさんなんて、柄ではないのですから仕方ありませんが」
「そんなに……その、博士に恩を?」
「それもありましたけれど。でも、北沢君のことですから、北沢君のことが第一です。仲井君、北沢君はですね、本人は気づいていないかもしれませんが、とても勉強が――いえ、真理の探究といっていいでしょうか。それが好きなんですよ。この道の端にいるものとして、世界の一流の学者と呼ばれた人々の中に北沢君と同じ光や情熱を見ました。彼女は生まれながらの探求者です。もちろん、いくら私が惜しんだところでその道に入るも入らないもの本人の自由です。選び取った末に捨てるなら、それでもいい。でも可能性を閉ざして欲しくはなかった。どの道を選んでも――いや、選べるようにいて欲しかった。一回きりの人生なのですから。……私のわがままですよ、結局。でも、飛んでいる時の北沢博士はとても生き生きとしていましたから、翼があるなら畳むことはあっても折って欲しくはないと思いますね」
「どうして、そんなに考えられるんですか」つと仲井君の声が高まりました。「尊敬している人の子どもだからって、そこまでできないでしょう。どうして、そんな風に考えたり、したりできるんですか」
 仲井君を見やると責めるような焦るような、そんな顔つきで私を食い入るように見ていました。私は彼を見返しました。
「それしか、私にできることはなかったからです」
「……」
「逆にそんなことしか、私はできなかったんですよ、仲井君。たった一人の肉親をなくした少女にたいして。とても、無力に感じました。そのことで私は長らく北沢君に負い目を感じていたんです。でも老いて時間がたってようやくそんなことはしなくていいとわかってきました。私は博士ではありません。だから、私ができることを精一杯やるだけなんです。君も、そうだと思います。誰かになる必要はないんです。君は足りない飛べないと嘆いているようですが、もっと今あるものの価値を考えるべきです。今君が持っている温かさの得難さを。かけがえのなさを。北沢君はその尊さをわかっています。振り向いて、自分を見てください。北沢君の答えが君の中に見つかると思います」少し疲れて私はお茶をもう一口含んで付け足しました。
「君は、とてもいい選択をしたと思いますよ。北沢君ほど君を想っている人は他にいません」
「……とてもそうは思えないのですが」
 仲井君が陰気につぶやきました。私はもう一度、写真を手に取りました。そしてそれをそっと置いて、以前採点をしたレポートの束を引き寄せ、その一番上にのっている北沢君の分厚いそれを取り寄せました。
「君にもたれかかって、あの時、北沢君は寝ていました。とても健やかに、安らいで」
 あのときのことを思い出したのか、仲井の顔が少し染まりうつむきました。
「君は寝ている北沢君を見て綺麗だといいました。確かに彼女は綺麗です。でもその綺麗さは君が横にいたからあるものだと思います。博士が死んでから私はあんな北沢君を見たのは久しぶりです」
「だけど……」
 うめくような声を出した仲井君に私はレポートを一、二度振ってみせ
「これは北沢君の私の講義のレポートです。とても良いできです。緻密でそれでいてわかりやすく、確かな根拠に基づいて作成している。読む人のことをとてもよく考えて苦心して書かれています。これが北沢君です。君が、そばにいてあげてください。君が、感じてあげてください。彼女は伝える努力を怠る人ではないのですから」
 我知らず語尾が強くなっていたことに気がついたときは、もう言い終えた後でした。そうして仲井君はゆっくりと顔をあげてこちらを見ました。



 薄い青空が広がる、よく晴れた日でした。都心から車を飛ばして一時間ほどのバンガローに、幾人かの学生たちと幾人かの教授が集まっています。下の土手を利用した駐車場には、砂利道をやってきた車が乗りつけては、中から出てきた新たな学生たちがお酒や食べ物を次々に運び出して、バンガローの大きなテラスに置かれたテーブルを埋めていきます。
 あちこちで談笑も聞こえてきます。和やかな空気があたりの鮮やかな木々に溶け込むよう、この場を満たしています。そんな中、こざっぱりとしたシャツとしゃれた黒のジャケットを着た、正装ではありませんがしゃんとした格好の仲井君が、他の学生たちにからかわれたりこづかれたりしながら、私の立っている隅の方に近寄ってきました。少し緊張した面持ちで仲井君が先生、と呼びかけてくれました。
「おめでとうございます、仲井君」
「あ、はい」
 照れたように仲井君は言いました。以前、研究室で見た時よりも心なしか晴れ晴れとした顔をして、肩の力が少し抜けているように感じます。
「北沢君は、まだですか?」
 尋ねると、仲井君の顔がちょっと曇りました。
「昴のやつと一緒なんです。あいつかり返すぜとか餞別だとか言って佳代さんと遅れてくるからって。佳代さんも佳代さんでほいほいついていくし。なんで佳代さんは昴を妙に信頼……」
 そこまで早口で言って、仲井君がこちらに気づいたようにとまりました。さすがに、人が短時間でいきなり180度変わるわけではありませんが。穏やかでさっぱりした内面を想像させるような容貌をしていますが、内心、仲井君は結構な情熱家なのかもしれません。
「ま、まあ、夏樹ちゃんがついてくれるので大丈夫でしょうけど」
「早川さんも明るくなられましたね。昴君のおかげでしょうか」
「あれは好きな子苛めですよ。夏樹ちゃんみたいに真面目で純情な子に昴はあわないと思いますけど」
 少々、恨みがこもっているせいか、辛辣な口調になっていましたが、私は笑い
「でも昴君はそれで諦めるような人ではないでしょう」
 だからいっそう夏樹ちゃんが可哀想です、と仲井君は憮然と言いました。すると背後からおーい、ケンイチお前のコンヤクシャどうしたんだよー、早々に逃げられたか? とひとつのテーブルに集まっていた数人の学生たちの中から野次が飛び、仲井君はくるりとそちらを向いて、やはり少々若者らしい乱暴な言葉遣いで応対しました。
 おやおや、と思っていると、ふとテラスの手すり越しに、木々が落とす影の中から狭い道を黒のスズキのエスクードがあがってきて、広いところに出ると少々手荒な運転で一直線にこちらに向かって私の見下ろす手すりのすぐ下に止まりました。
 音もなく車の窓がさがっていき、昴君が顔を見せました。ばちりと視線があってしまった私に昴君は陽気に
「センセー。もう連中、そろってますか?」
 と尋ねると私が答える前に、その声を聞きつけたのでしょう、仲井君が手すりに一直線に突進してきて飛びつきました。
「昴! お前どこに行ってたんだっ! 佳代さんをどうした!」
「わめくな。連れてきてるって。お前、俺に感謝しろよ」
「だからなんで毎度お前に迷惑こうむって感謝しなきゃならないんだ!」
 言い合いが大きくなってきたので、他の方々も気づきもなんだなんだとテラスに近寄ってきてのぞきこみました。
 そんな中、黒のエスクードの後部座席がぱたんと開き、早川さんが出てきました。ジーンズとシャツという軽装です。早川さんは集まる視線などものともせずにすばやく車の後ろに回りこみ、逆の後部座席のドアを開き、中に何事か囁きました。あそこに北沢君が座っているのでしょう、気をとられた先、ドアからヒールを履いた足が出て、鮮やかな青が目に翻りました。
 ドアから出てきたのは、とても綺麗なブルーベリー色の、少々短めのひらひらした裾をもつドレスを着た一人の女性です。北沢君かな、とは思うのですが、なぜかウェディングドレスのものでしょうか、レースの花を散らした透明なベールをかぶっていて顔が霞がかかったように見えず、はっきりとはわかりません。上半身も雪のようにふわりとベールの裾が覆っています。
 ベールを被った女性は歩き出し、そして三歩目でよろめきました。どうもヒールに慣れていないようです。それにベールまで被っていれば仕方ないでしょう。相手もそのことがわかったのかさっさと手をあげてベールをとろうとしました。けれどそれを早川さんがとどめて相手の手をとってテラスの階段下に誘います。
 歩き方はおぼつきませんが、それでも姿勢が良いのですっきりとしたその格好によく似合います。ドレスの色の華やかさも引き立てます。やはり北沢君です。いつもの白衣と比べてずいぶん雰囲気が違うので、ちょっと驚いてしまいましたが、きっとこの日のためにおめかししたのでしょう。
 私がそんなことを思っているうちに、仲井君が階段をかけおり「佳代さん」と呼びかけました。するとベールに包まれた頭があがり、手が顔の部分に重なった薄い布をかきわけて、北沢君が白い顔を見せて「健一君か」とごく普通に言いました。
 ……
 ああ。びっくりしました。一瞬、あれ、と首を傾げていました。ベールから現れた北沢君は白い首筋がたっぷり見えるように綺麗に髪を結い上げています。顔も薄化粧をしているようで、瑞々しく張った真っ白な頬と柔らかな唇に薄紅をさして、普段は少々鋭い印象を人に与える目元も眼鏡をはずして心なしか柔らかです。黒髪は結い上げられてくるくると可愛らしく後ろでまかれていました。白い額の綺麗な生え際に前髪が数本落ちて、青白い影を揺らしています。そのさまは風雅というか風流というかええっと……梨の花が匂いたつようです。
 北沢君は普段着が白衣といった風体でわかりにくいのですが、顔立ち自体はそう地味ではないのです。それが今そうされているとよくわかりました。
 そう、別人、ではないのです。そこにいるのは確かに北沢君です。彼女のとても綺麗なことをくっきりと現し、それに演出を添えて効果をあおっているような、まあ、その、はい。とても綺麗です。ブルーベリーのドレスもアップした艶やかな黒髪にあっていて大変綺麗です。正直、このようなことの表現力に乏しい私などが言うより、間近で唖然としてみている仲井君や、さすがに驚いたようにざわめく学生たちの顔が十分に語ってくれます。
「どーだ。二時間かかった大作だぜ」
 昴君が言う横で早川さんが、お前連れてっただけだろ、とぼやきました。けれど昴君は上機嫌でほら、手ぇつないでいったいった、と北沢君の手をとってまだぼんやりとした仲井君の腕にからめさせ、それでもまだ動こうとしない仲井君の背をばんっと叩きました。
 見たところ手痛そうですが、仲井君が動き出し、他のみなが待つテラスにあがっていて、そこでまた先ほどとはちょっと違った騒ぎになりました。私は昴君たちのところへ降りていき
「ご苦労さまです」
 するとなはは、と昴君が笑って「健一のあのツラ見ましたか。やったかいありですよね」
「てめえも最初見た時は固まってたくせに」
 ぼそっと早川さんが言いました。昴君は笑うのをやめて彼女を見やります。私はいささかあわてて
「あの、ベールはどうしたのですか? 貸衣装とか」
 すると早川さんが大きな目を向けて
「俺の死んだ母親のウェディングドレスです。ベールだけですけど、結構いけるかなあ、って」
「とても綺麗でしたよ。次は早川さん自身が被るんでしょうか?」
 早川さんはちょっと恥ずかしそうに笑って「さあ?」と言いました。すると隣の昴君が
「お前も人並みに式あげたいとか考えてんのか?」
「うるせえよ」
 早川さんはこっちを向いては笑ってくれますが、昴君にたいしてはなかなか手厳しいです。すると昴君は思わぬ壁に突き当たったように
「あれ、馬鹿高いんだぜ。ウン百万単位」
「それがどーした」
「まあやりたいってんならしゃあねえけど。……じゃあお前、もう少し待てよ」
 早川さんの顔に疑問符が広がっています。……ふと気づいたら、当日、結婚式会場に連れ込まれていた、というようなことがなければいいのですが。
 まあこの二人は二人でうまく均衡を保っているのでしょう。現に早川さんの顔に影は見当たりません。
 そうこうしている内に、テラスの上ではもう宴会が始まっているようでした。テーブルごとに何人かのグループを作って、みなさんはよく食べよく飲みよく騒いでいます。
 その中でちまちまとお相伴をし、他の教官方のお話に混じらせていただいていると、北沢君が先生と呼びかけて寄ってきました。私は話をしていた教官に断り、振り向いて北沢君を見ました。間近で見るとさらに綺麗に見えます。
「とても綺麗ですよ、北沢君」
「ありがとうございます、先生。けれど学生の身分でこのような集まりを開いていただけて、それに返せるものが」
「みなさんの、好意ですよ。受け取っておきましょう。若さというなら今はそれを受けて、年をとった後にまた返していけばいいのですから」
 北沢君は少し考え込みましたが
「はい」
 といいました。私はあらためて北沢君を見ました。北沢博士の横にいた短い黒髪のお嬢さんがすらりと伸びた娘さんになって私の前にいます。柄にもなく感傷的な気分になりそうで、意味もなく数度咳をしました。
 北沢君を前にして言葉に詰まるというのも久々です。……博士の訃報を聞いて駆けつけた先で、大人たちから離れて寂しげに座っていた短い髪の北沢君を見つけたとき、あの時も、私は一言もいえませんでしたか。
 あの時の辛い気持ちと今の嬉しい気持ちが混ぜあって、複雑な感情に私が絡められていると、助け舟のように後ろから仲井君がやってきました。仲井君は景気づけに少しお酒を飲んできたのでしょうか。頬に紅がさして心なしか吐き出す息にも酒気が漂っているような気がします。第三者の私が一歩後ろに引く前で仲井君は北沢君の手をつかみ
「佳代さん、こういう席でこういうことを言うのは凄くいまさらな気がするんだけど、どうしてもいいたくて」
「どうした、健一君」
 北沢君がそう言ったのも無理はないほど、仲井君は少々唐突でした。
「僕、身体に気をつけて、長生きする。ずっと元気で佳代さんとずっと一緒にいる。一生そうやって生きてくよ」
 多少酔ってはいるようですが、お酒の効果も、頬に紅色さすのと目が潤んでいるので、真摯に見えます。大変、感動的な言葉です。しかし。
「なにを言っているんだ? 健一君。君が君のために長生きしたいというなら、大変結構なことだが、私のためなどそういう気配りはまったく不要だ」
 北沢君の言葉に私は盛大に焦りました。いえ、私が焦ってどうなることでもないでしょうが。直視しにくいほど、仲井君は傷ついて見えました。苦しげに
「佳代さんは、僕と一緒にいたくないの?」
「いられる。結婚するなら多少は」
「た、多少?」
「健一君、君が私に誠意ある態度をとってくれることは嬉しく、また立派なことでもある。けれど制約になるのは忍びない。君は君の思うように生きればいい。君の一回きりの人生だ」
 そっと握った手が離れていき、健一の顔に微妙なゆがみが走りました。けれどそれはすぐ消えて悲しげになりました。それを見て、ようやく私もわかったような気がします。仲井君のあの焦燥が。私はいい気になって北沢君のことを語っていましたが、仲井君のことは考えが足りなかったのかもしれません。仲井君は静かで少しこもった声で
「佳代さん、そういう風に言うからいつも、僕は君に好かれてることに自信がもてない。結婚だってしたいと思っているのかもわからない。求められていなくて自分の価値がわからない。佳代さんに何もしてあげられない、自分が嫌になるんだ」
 北沢君は不思議そうに仲井君を見つめました。一瞬、私の頭に割ってはいるべきか、という考えが掠めました。でも最後の何かが私のおせっかいを食い止めました。
 北沢君は仲井君をたっぷり見つめた後、突然、仲井君の手を強く握り返し、少々鎮痛な顔で
「すまない、すべて私のせいだ。健一君、君がしてくれることが、君が君であることが、どのような要素として絡み私に影響を及ぼしているかを、普段の私が薄学で愚鈍なため正確に伝えることがほとんどできていないと推定し、実際に君もわからないとことあるごとに指摘するためこういう場に出席する前にそれを統計し結論としてまとめた正式なものを君に改めて提出することが筋だろうと思い、レポートや統計表作成にとりかかってみたのだが……とても人には見せられるものではない、無様なものに仕上がってしまった」
 ……ああ、やはり北沢君は生まれながらの学者肌です、と私が思わずそんなことを考えている前で、仲井君も毒気も怒気も全部根こそぎ一気に引き抜かれたような顔をしていました。人の目が漫画的表現で点目になるなら、まさにこういうときなのかもしれません。
 そして仲井君はちら、と私に一瞬非難めいた目を向けました。前に私が北沢君が提出したレポートを見せながら言ったことを思い出しているに違いありません。違います。そんなそのままの意味で言ったわけではないです、と私が思わず目で反論すると仲井君はまた北沢君の方をむきやり
「れ、レポート、作ったの……?」
「ああ。してその無残な結果に己の力量のなさ、薄学さを痛感した。君にも申し訳ないことをした。提出期限も守れずにこうしてのこのこと顔を出してしまい」
 も、もしかして最近あまり会ってくれなかったのそれ? と情けなさそうな声を仲井君はあげました。私も思わず遠い目で、そうでしたか、会ってないのではそれは不安になっていたのかもしれませんね、と思いました。
「あ、あのね、佳代さん、普通はそういうもので表さないんだよ、そういうのは」
「ならば明確な根拠が見出せず証明にならないだろう」
「できないものなんだよ、そういうのはレポートとか統計で表すのは」
「いや心理学の面からアプローチすれば探索は無限の可能性を秘めている。放り投げてはいけない。真理が初めからないわけではない。私の努力の足りなさと無知さがもたらしたものが結果だ」
 佳代さん、と呼んだ後、まだ手を繋いだまま頼りない声ですがるように健一君が言いました。
「好きだよ」
 北沢君がちょっととまりました。私は仲井君が女性に人気がある理由の一端がわかったような気がしました。
「その気持ちの大きさを表そうとして、僕は一生って言ったんだよ。一生一緒にいて、ずっと元気で君のそばに僕もいたいし、いてあげたいって。そういうのでいいと思うんだ」
 北沢君はちょっと身じろぎして(おそらく少々焦っているのでしょう)
「一生という言葉は不確定で不特定だ。具体性に欠ける」
「僕が死ぬまでずっとで、それを伸ばすために元気でいるように気をつけるって」
「それでも、やはり不確定だ。……そういう風に表すのか? では、せめて具体的な数値を出すべきだろう……」北沢君はぶつぶつと口元で言った後、なにかしらの結論を出せたのかうむ、と頷き
「一週間だ。私は君と一緒にいられるなら、一週間でかまわない」
「いっ、一週間!?」
 仲井君が悲鳴のような声をあげました。まだまだこれからの膨大な時間がある若者にとってその時間は短すぎます。この老骨にも少々短いです。先ほどから妙に人事のように思っているのですが、正直、私はこの場を離れたほうがいいのやらいたほうがいいのやら。
 でもふと、そのとき、私は北沢君を見ました。一生を誓う仲井君にたいして、一週間でいいと言う北沢君はしっかりと頷き
「そうだ、一週間でいい。一週間後に君が私の前からいなくなっても、私は後悔しない。婚約したことも、君に出会ったことも。その一週間があるなら、君の喪失も何もかも上回ると思う。一週間だけでいい。健一君、君といたい」
 私の考えも仲井君の想像も飛び越えた場所で、北沢君は北沢君だからこそ、そう言いました。私は北沢君を眺めてそれから仲井君を見ました。それから老骨からの最後の「大きなお世話」に若人の肩を少しだけ叩いて言いました。「人生の中でこれ以上のこと言われることはそうありませんよ」
 そうして私は退場の意味も込めて、数歩後ろへとさがりました。やがて仲井君は北沢君の手を再びとりました。口にする言葉はわかっていました。仲井君が言います。
「でも、僕はずっと一生――……」
 北沢君が望む幸福な一週間は積み重なり、続いていき、やがて仲井君が望む幸福な一生となるでしょう。スケールが違っていても、重ねることで異なる思考も近づいていけます。異なる人間同士も近づいていけます。
 薄い空を見上げました。博士はまだ、空を飛んでいるでしょうか。彼に向かって胸中で報告をしておきました。豪快な笑い声を思い出して、それが間近で聞こえたような気がしました。
 さて、博士への報告も終わったところで、若くて、眩しくて、微笑ましい、仲井君と北沢君の内輪の婚約パーティーの内情を語ることはもうあまりないのですが。
 宴もたけなわ二人が並んで、酔いと騒ぎがまわった招待客に、正式に婚約した旨を発表しました。
 手に取ったビールのビンだのグラスだのが空に突き出され、どっと心地よい歓声と次々に悪意のない野次も飛びます。並んで立った仲井君も照れてはいても堂々としていて、北沢君も北沢君なりにとても幸せそうでした。
 二人を囲む列の最前で、急に昴君がキースキースキースと手を叩いて、大声で囃し立てました。酔いも回っていたせいでしょう、それにのって他の学生たちも、なんと教官の中の数人も手を叩き始める騒ぎになりました。
 おやおや。
 仲井君が彼らに反論している隙、少し離れた斜め横にいた私には、つと白い手が伸びて、その腕にかかるのが見えました。ので、私はくるりと背を向けました。あの時、告白を聞いてしまったので、それを見るのは結婚式にとっておきましょう。私がきびすを返した後ろで、一瞬の虚をつかれたような静寂。そしておおっ!と歓声。
 思わず、頬が緩みます。日の光がさんさんと差し込んで、学生たちの活気あふれるはやしたてが場を満たしています。振り向くことが大きな楽しみで、そして振り向かなくてもそこにつむがれている光景が目に浮かんできます。
 突然のことに真っ赤になった仲井君、彼女なりに幸せそうな北沢君、囲んで囃し立てる昴君、純粋に祝う早川さん、様々な輝きを放つ若人たち。
 だから、私は大学というものを、とても深く愛しているのです。





 <彼女の幸福な一週間>完











 これにて「僕の理知的な彼女」から始まった諸々のシリーズは完結です。長らくお付き合いいただき、本当にありがとうございました。 



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