空の青さをみつめていると
 私に帰るところがあるような気がする

                谷川俊太郎「空の青さをみつめていると」

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 全てはほんの一瞬だった。一瞬でがくりと、俺の足は踏むべきところをなくした。なくした足は身体を支えきれなかった。支えをなくして身体は落ちた。一瞬だ。
 吸い込まれるようなあの背筋がぞっとする落下の感覚を存分に味わって、それからぷっつり意識をなくして、気付いたら全身が針金いれたみたいにぎすぎすの痛いなんてもんじゃない状態になっていた。そんで上向いて丸い小さな光を見て、自分がどうなったかってやっと思い当たって俺が最初に抱いた感想。
 外でセミがじんじんと染み入るようにないて、ここでは筒のような空洞にくわんくわんそれが何重にも響く。やかましくはない。遠い遠いところで鳴いているみたいに、胸に引っかかるほどのかすかな響きがいつまでも続いている。
 夏特有のあの目に痛い鮮烈な光が差し込んでいるのが見えるっていうのに、ここはひんやりした水っぽい空気があって。俺一人だけすべてのものから置いてけぼりにされたような、なんか何もかもから遠ざかって俺が最初に思ったこと。
 丸い丸い淵型に切り取られた光りを見上げて、世界の果てみたいな遠くからのセミの声聞きながら
 ああ、俺って本当に馬鹿だったんだなあ……
 と俺、新里一樹は情けなくもしみじみと考えた。


 世の中には、愛嬌とかこづきあいとか、乱暴な親愛の情で「ばか」なんてよく口に出される。関西なら「アホ」だ。地方ならハンカクサイとかほんじなしとかなんとか、まあ、ともかくそういう言葉は色々あるわけで、そんでもって結構気軽に口に出される。今まで一度だってこの手の言葉は使ったことがない奴なんていたら、お目にかかってみたい。
 だけれど、この気軽な言葉も「本当」の場合だったら、そりゃ結構な打撃になると思う。
 当たり前だ。
 馬鹿や阿呆、ハンカクサイでもなんでも、本当に自分がそうだった場合は洒落にもこづきあいにも乱暴な親愛の情にもならない。言った方だってそりゃただの暴力だ。
 「本当」ってのはいろんな意味で痛いもんなんだ。そんで自分が馬鹿だ、ってのが本当だった場合、少なくとも俺は痛かった。自分でじんわりとそれを悟るなんざ、惨めなんてものじゃない。
 俺がいる場所は薄暗い。井戸の中だ。幸い、とっくの昔に枯れてしまったようだが、まだ尻をつけている地面はじめじめしていた。詰まれた石と石の間には枯れた雑草と、変な虫がさっきささっと逃げていった。
 状況を簡潔に説明するなら、つまりは俺、新里一樹は井戸の中に落ちたと言うどっかの一昔前の笑い話みたいな事態に、現代人として被害にあったわけだ。
 さすがに俺の馬鹿は確定という感じだろ? 分かってんだ、もう、言わないでくれ。
 そしてまあ、井戸に落ちたという特殊な人間がする一般的なことは一通り終えた。
 叫んだ。そりゃ叫んださ。発見されればもうかっこ悪いなんてものじゃないだろうけど、発見されなきゃ俺の人生は井戸の中に落ちて終わりだ。叫びつくして声が枯れた。
 登ろうとしなかった? したさ、おかげで爪がはがれたよ。
 指先はじんじんと痛い。何メートルあるのかは分からないが、ともかくどうやらロッククライマーでもなしに素人が登れるようなものじゃない、ってのが無駄な努力の唯一の収穫だった。
 文明の利器、携帯を家に置いてきたのは痛恨だった。まあ、どうせもし持ってたとしてもあそこから落ちて無事だったかどうかは怪しかっただろうけどさ。
 それで俺は枯れ井戸の中に座り込んでいる。膝の上の猫はぐったりしていて、手持ち無沙汰に撫でてもあまり反応しなくなった。
 こんな状況に陥るまでの経過? 聞くほどそうたいしたことがあったわけじゃないんだよ。かなりないんだよ。


 セミの声を聞けば分かると思うが、今は夏だ。そんで俺はこーこーせいなわけだから、学生という苦行の中の最大の光明、夏休みの真っ最中だ。
 うだるような、ってかほんとにうだる熱気に、なんでそんなに元気なんだよとぼやきの一つもでる太陽が照らす中、俺はコンビニからの帰りだった。
 その日、俺は休みの間の学生として正しい態度を崩さず、昼間にむくりと起きだした。
 目覚めて、カーテン越しに抑えきれない淡い光が漏れているのが分かったから、俺はなんでこんな早くに置きだしちまったんだとちょっとむっとした。
 うん? どこが早いだって? そりゃ世間一般さまの尺度によるなら昼間は起きるには遅すぎる時間だ。
 が、しかし俺は夏休みの間は昼はクーラーつけた部屋で寝て、夜の涼しくなった辺りに起き出して外に出かけて飯食ったり遊んでたりの完全昼夜逆転の生活を送っていたわけだから、人には深夜に相当する真昼に目覚めるなんて早すぎる。
 なんて不健康だっていわれるかもしんないけど、俺はそれには断固反対するね。俺のこの生活は、むしろ俺の健康や体調を保つために絶対必須なものなんだ。
 ちょっと自己紹介すると俺は北海道生まれの北海道育ち。
 本土には中学の修学旅行に京都に行ったのが最初に出た、なんて筋金入りの北海道民だ。それがまあ訳ありで高校は東京まで出てきた、この街では全くの新参者ってわけ。
 生活? 最初はそりゃ困ったさ、まったく東京なんて街はきったなくて狭くてそのくせ人の数は北海道の何倍、んで他人には無関心、夜中でもぎらぎら電気がついててやかましくて。
 ともかく広い(住んでたときは別に特に意識してそう思っていたわけじゃないが)人が少ない道路はすいすい、という狭い日本にしては奇特な土地から出てきた俺にとってはこの日本最大の都会は全くの正反対だった。
 最初の数ヶ月はかなり嫌だったけど、そこは俺も若いから、この退屈だけはしない刺激的な街に魅せられてそのうち順応した。人間関係の方も地方出はギャップが出そうなものだけど、元々北海道は方言とかなまりなんてものがないから、日常生活で他の奴とあまり際立つところがない。
 ここの奴らも東北とか四国だとかだとなんだか今ひとつな反応なんだが、北海道はレジャー地みたいなイメージがあるらしく(なんでかね?)、俺が背景とした土地を馬鹿にする奴もいず俺はありがたくもすんなり輪の中に溶け込むことができた。
 だけど北海道民と東京人は当たり前だが決定的に違う所がある。そう違う。なんだと思う? 何が一番違うと思う? 気候への耐性だよ。
 正直なところ、ずっと夏休みと冬休みがほぼ同じ長さの場所に住んでいた俺にとって夏は27、8度あれば十分に真夏日。少なくともなんて暑くて暑くてたまらない日だって思ってた。
 けどな、こっちに来てからこいつらの台詞、30度を越さなければ夏だとは認められない、って聞いた時は俺は北海道と東京の遠さを感じ入ったね。
 そう、こっちでは30度で真夏日。35度以上が酷暑日なんだと。35度!
 想像も出来ない。人が平穏に生きていける温度じゃないだろう。下手したら38度にあがったときもある、と聞いたときは俺は想像の温度だけで眩暈がした。
 そしてそんな環境で生まれてからずっと生活していたため、こいつらは強かった。暑い暑いまいったまいったといいながら、それでも元気に駆け回っている。
 俺は断固として怒鳴るぞ。本当に参ってるならそんなこと出来ねえだろ!
 白い無菌室で育てられた生き物は外に出れば生きてはいけない。暑さへの免疫というものを一切持たない俺は当然のごとくダウンして、30度の酷暑日(俺にとっては断固として酷暑だ!)の日が一週間ほど続くと体重はなんと五キロも落ちていた。
 そこで俺は恐ろしい数値を出した体重計に乗っかって、暑さでとけかかった脳みそを絞り早急になんらかの対策を練らなければならなかった。
 だって癌にかかってもなかなか一週間で五キロってないぜ。マジでやべえよ。
 で、ここまで言えばもう分かるだろうけどそれで出した苦肉の策が、夏休みのこの生活ってこと。にしても休みが四十日もあるなんてすげえな、ほんとに本土の学生はそんな長い間、なにしてんだろうな。
 しかし、そんな規則正しい生活を心がけて実行に移していたとしても、空海って字が神様みたいに上手い爺さんだって字を書き仕損じることはあるように、完璧を心がける俺の身体のリズムも崩れるときはある。
 だから今日、ふとしたことで俺は昼間に目覚めてしまった。普通の人間の基準で言うならちょうど真夜中に目覚めてしまったようなもんだ。
 もう一度眠ろうとしたが、身を起こした俺の状態は腹が減って喉が渇いて寝てるときなら耐えられたろうが、意識があるときに耐えられる状態じゃなかった。そして黙殺して再び寝ることができる状態でもない。
 昨日についつい食べつくしてしまった冷蔵庫に何もなかったら、いくらそんな完全夜型人間でも外へ出てコンビニに向かわなくちゃいけない。この下宿は家賃は安いが、一番近くのコンビニまでは少しばかり歩く。
 そうしてよれよれと外に出た俺に東京の夏の日差しは全くなんの容赦も手心もなく照らし出して、情けないほど痩せて青白い肩になんか人体には有害な光線でも浴びせられているような(実際紫外線は害があるが)錯覚を起こして精神的にも参っていた俺はますます気が遠くなり、コンビニになんとかたどり着いてクーラーの人工的な涼しい空気を浴びるまであまり記憶がない。
 ともかく冷えた店内でようやく息を吹き返し、多少の体力と気力を取り戻すとそれから千mlのアクエリアスと晩飯の牛丼と非常食のカップラーメンを買って袋を提げてまた新たな試練へと漕ぎ出した。
 新大陸を目指した誇大妄想主のコロンブス君につき合わされた船の乗組員はこんな気持ちだったに違いない。
 荷物が増えたけれど、帰りは少し楽だった。コンクリートは傾斜していて、そう苦難を感じさせない。
 先ほど味わったおかげで少しは耐性が着いたのか、日差しもきついことに変わりはないが記憶を飛ばすほどではなかった。
 それでもしきりにぱたぱたと持参したうちわで顔を仰ぎながら坂を下ると、壊れかけた柵にせばまれた雑木林の前に来た。行き道はこっちは上り坂なんで避けているが、帰りは必ずここを通る。
 東京なんて都会じゃ緑を見る機会はあまりない。せいぜい、皇居ぐらいか。だから北海道では燃やすほどあったこんな雑木林も貴重に思えて俺はこの道を好んで通る。
 ぎんぎんとセミはうるさかったけど、雑木林の前に横たわって脇に生えた木々が枝をせり出した坂はなかなか涼しく感じた。
 連なった豊かな葉が、ぎらぎら熱したコンクリートに大きく影を落とす様を見ているうちに俺はどっと疲れが襲ってきて、ただでさえひょいと軽くまたげる高さでしかも今は半分壊れてるもんだから、もはや全く柵として意味をなさない白いペンキが剥がれかけた柵をすり抜けて、木陰の下に腰を下ろした。
 木々が深緑の影を落とすこの場所は枝がひんやりした空気を紡いでいて森の匂いは心地良く、たまに入り口付近に暇なヤンキーがたむろっているんだが、人影も全くなかった。
 ふと木の匂いに故郷の北海道を少し思い出しちまって、切ないような居たたまれないような気分に襲われ目を伏せた俺の耳にあるものが聞こえてきた。
 ―――猫の声、だった。かすかだったけれど、三度続けて聞いたから暑さに頭がオカシクなっての幻聴というわけじゃなさそうだった。
 それはかすかで、かすかに聞こえるせいでかと思ったけれど、弱々しい声だった。時に掠れる辺りはまるで哀願するようにも聞こえた。
 白状しよう。井戸の中でいい人ぶっても仕方ない。別に俺の中にその時、屋根にあがって下りれなくなった猫を救出するレスキュー隊員の心が宿ったわけじゃない。
 軽い好奇心だった。通りかかると騒ぎが聞こえたので、ちょっと足を止めてひょいと首を突っ込むような気持ちで俺は奥に足を踏み入れた。
 辺りの地面に猫の姿を捜していたため頭上不注意で低く垂れた枝が額を引っかいて、思わず足を止めた。すると猫の声が今までで一番大きくなった気がした。
 しばし耳に神経を集中させ、そしてそれがどこから聞こえてくるのかふと方向性が分かって
 ―――下から?
 その瞬間、踏み出した足が踏み込む場所を見出せずに、俺は枯れ草やらなんやらに覆われて隠れていた井戸に落ちた。
 つまり俺は猫の呼び声に好奇心をそそられて鬱蒼とした雑木林の井戸にはまったんだ。もはやもう何も言えない・・・・。
 不幸中の幸いとも言うべきに、井戸へと落ちた俺の身体は先の小さな住人を押し潰しはしなかった。猫にとっても良かったが、俺にとっても良かった。薄暗い井戸の中、自分が押し潰して殺した猫と留まるなんてぞっとしない。
 その猫は今、俺の膝の上でぐったりとしている。人間の俺が落ちてもとりあえず深刻な故障をしていないというのに猫の癖に情けないが、前足を折っているらしく触ると悲鳴にも似た鳴き声をあげた。
 情けなくはあったが、光がほとんどないので手探りでおぼろげに悟っただけだけどどうやらこれはまだ目が開いているのかも怪しいほんの子猫みたいで、あまり猫としての身体能力を問うのも可哀想だ。
 だけど俺には人間としての常識能力や最低限の注意力を問われるのはもっともかもしれない。
 左手につけた時計を見た。暗闇でも光る奴だが、別にライトをつけているわけではないのでぼんやりと時計の文字がようやく見えるほどで、とても他のものを照らし出すほどの光量はない。
 デジタルな文字は今が三時十五分を示していた。つまりは井戸に落ちてもう二時間がたったというわけだ。そろそろ俺が疲れて諦めモードに陥っても仕方ない。
 ある程度適当な大きさの丸石をぎっしりと積み重ねて形成されたこの井戸の表面はいびつで、時たまひ弱な雑草がひょろりと横に飛び出して揺れている陰が見える。滑らかではない線が人を不安に揺さぶる。首を動かすと、まるで歩きにくい道みたいにだーっと前に伸びていく、その先には青空。井戸の形をした小さな青空。
 世界が横になってくれないか。そうすれば俺は膝をついてここを抜け出せるのに。
 とうに枯れた井戸なのにここはまだ冷たい水の匂いがして、その静かさと冷たさが逆にざわざわって心を煽る。心細さを感じさせるには充分すぎる材料がそろっていた。子猫がいてくれるのだけが救いだ。
 何年も何年も広い北海道に存在して、その次は狭いが何万もの人が住む東京にあった俺の世界は、今やこの石畳と、湿った土と、暗闇と、そして井戸から覗くわずかな空だけだ。
 俺は精も根も尽き果てて、最後にすることに神様に祈った。
 ああ、神様すまないけど俺をこっから出してください。死んだ人が蘇ったり海が割れたりする大掛かりな力でもいいし、誰かが俺に気付くようにこの雑木林に入ってきてくれるよう仕向けるくらいのせこい力でも全然かまいません。
 この祈るってのはなかなかいい。苦境からの脱出の試みとしては一番簡単だ。力も体力もなにもいらない。疲れていても余裕で出来る。だから昔から人は飽きもせずにずっと祈り続けるわけか。
 俺は多くの日本人の典型として精神的には無神論者だがこの状況から抜け出させてくれるなら、何教の神を拝めてもいいと本当に思った。イスラム教はちょっと面倒くさいが。
 そうして祈り続けて、そんで祈りが簡単なのは事態解決へのいろんな無数の試みの中、それを実行してもなんとかなるって可能性がもっとも低いからだよな、とかの結論に終わった。
 だけど神様は、いたのかもしれない。諦めてかけた俺の耳に井戸の奥からやかましく鳴き続けるセミの声に混じってかさり、と音が聞こえた。
 俺はその瞬間、びくりと震えて全身系を耳に寄せた。音。音。足を交互に交差させて踏んでいく光景が目に見えるような、確かに人の足音!
 その瞬間、俺はかすれきった喉でそれでも大声で叫んでいた。
 声を出すだけでひりひりと喉が裂けそうだったけど、かまっちゃいられない。少しでも声を近くさせようと立ち上がると、とりあえずは片手に抱き変えた猫が痛そうに小さな声をあげた。お前も鳴いてくれ、頼むから!
 足音が何かに気付いたように止まる。そして歩みだす。近くなる! 神様ありがとう! 見返りが欲しいなら何教の神か言ってくれ。今なら俺は新興宗教の神でも入っていいぞ!
「ここだっ、ここに井戸があるんだっ、おいっ、ここだっ、ここだっ!」
 不意に光の中に一つの丸いものが飛び出てきた。俺は震えた。人の頭だった。誰かがこの井戸を覗き込んでいる! 叫ぶ叫ぶ。
「ここだっ、おいっ、ここだっ、井戸の中だ! 落ちたんだっ、助けてくれ!」
「・・・・・・・・新里?」
 振ってきた訝しげな呟きに不意に俺はびっくりして、口を噤んだ。なんだって? なんで俺の名前を知ってるんだ?
「新里か・・・? だよな、その声・・・・」
 呟くと、筒状の井戸はだからくわんくわんと反響する。
 分かりにくかったが、俺には分かった。
 相手が俺の声で俺を確定したように、俺にもその声は聞き覚えがあったんだ。ちょっと低めでだけど通りのいい特徴的なその声・・・・・
「た、高島か」
 そう、声の主の記憶は俺のクラスメイトだったんだよ。なんてこったろうな。まあ、井戸に落ちただけでももうギャグなんだろうけど、ほんとになあ。
「高島っ、すまんっ、俺、井戸に落ちたんだ。」
 ば、馬鹿だなあ・・・・・こう改めて言うと。自分の言葉に自分で多少傷ついてから
「悪いけど、人呼んできてくんないか。いや、警察かなんかに言った方がいいか・・・・」
「お前、ほんとにそこにいるのか?」
 不意に冷めた声でそういわれて、俺はびっくりした。そこにいるって、いるって、いるからお前なんかにそんなこと頼んでんだろ。
「声、聞けば分かるだろっ」
「声がしたからってそうとは限らない。たとえばトランシーバーを電源をいれたまま井戸に壊れないように包んで放り投げて、それで中継しておく。で、誰かが通りかかったのを聞いて井戸の中にいるふりをして人を呼ばせて、その相手に恥をかかせる、なんてこともありえなくはないんじゃないか」
 俺は絶句した。せ、せいかくわるー、こいつ。
 なにがって、なんでそんなひねくれた考え方できんだ? ああ、やっぱり友人でなく知人の領域、ただのクラスメイトにしといて良かったよ、本当。
 多分、外からじゃ暗くて井戸の底の様子なんて見えないんだろう。俺は声を張り上げて
「いるに決まってんだろっ、俺はそんなことするほど暇じゃない」
「井戸にはまっている暇はあるのに?」
 こ、こいつっ・・・・。俺はぐっと我慢した。すると、ひゅっと音がして
「あいたっ」
 後頭部に感じた痛みに思わず俺は声をあげた。な、なんかが降って来た。
「ほんとにいるんだな」
 高島が意外そうに呟く。どうやら石を落として確かめたらしい。しかし、小さな石でもこんな高さから落とされると結構いてえんだよ、こん畜生。
「本当に井戸に落ちたのか」
 平然と呟いて、次の瞬間高島は見えてないけど、おそらく完璧に絶対に腹を抱えてその馬鹿笑いが井戸の中にもくわんくわん響くほどに爆笑した。
 てっ、てめえなんかでえきらいだっ! 神様っ、せこい力で人を呼んできてくれてありがとう。でもあんた、人選能力ないだろうっ!!


 ひーひー言ってた高島が笑い終えるまで、俺にはずいぶん長く感じられた。それまで猫を抱く手には気を使っていた。なんでって? あの馬鹿高島の声を聞いてると、我知らずに手元に殺意がよぎるからさ。やがて気軽に奴が顔を出してきた。
「で、なんでそんなとこに落ちたんだ」
「猫を助けようとしたんだよ」
 俺は仏頂面で答える。正確には真実ではないが、こんな奴に嘘ついても別に良心は痛まない。
「猫がいるのか?」
 高島の声の調子が変わった。俺がいる時の態度と違いすぎるだろうが・・・しかしまあ、猫を助けて井戸に落ちた、ってことに笑わなかっただけまだましか。
「前足を折ったみたいでな、まだほんの子猫だ」
「ちょっと待ってろ。」
 高島がなんだかごそごそと取り出して、やがてするすると手提げカバンをくくりつけたロープが降りてくる。・・・・なんでこいつ、ロープなんか持ってるんだ?
「猫を入れろ。これなら多分、落とさない」
「ああ・・・・」
 なるべく痛くないように・・・とは言っても、こんな乱暴な上げ方だ。痛いだろうな。頑張れよ、と頭を撫でてなるべくそっと猫を入れた。重みが伝わったのかするするとあがっていく。けど、ところどころで突き出た岩なんかに当たって揺れて、猫のか細い悲鳴が漏れた。う、うう・・・・。
 俺にとってもびくびくする時間を経て、ようやく手提げカバンはのぼりきった。俺は見えない分不安で高島に声をかける。
「どうだ?」
「ああ・・・。確かに怪我してるが、前足以外は大丈夫みたいだ。なんとかなる」
「そうか・・・」
 ちょっとほっとした。実際、俺の井戸落ちも子猫を助けられたんなら、少しは報われる。
 ずっと抱いてたわけだけど、鳴き声の後は井戸の中の暗闇だったんで、実はその猫がどんな種類とかどんな毛色なのかとかは俺はいまだに知らない。
 下宿の婆ちゃんは動物好きだし、同じ井戸に落ちた同士、俺がしばらく面倒見てやってもいいかな、と思っていると
「とりあえず、獣医に見せてくる」
 確かに小さな猫だ。衰弱死なんてこともあるかもしれない。獣医に見せておいたほうが安心できるだろうけど、俺はこんな状態だから高島に任せたほうがいい。
「ああ、悪ぃな。頼むよ」
 俺は暗い井戸の中一人で頷いて、高島が去っていく音を聞いて・・・・・
 ・・・・・・・
 ・・・・・・・
 ・・・・・・・
「・・・・・・・ってちょっと待てーーーっ!!!」
 猫を獣医に連れて行くためその場を去った高島に、置いていかれた俺の心からの叫びは、あいにくと届かなかったようだ。俺は呆然として、それからやっと我に返って胸中で怒鳴った。
 神様っ、神様っ、人選ミスってのはかなりどでかい罪なんだと俺は断固として思うんですけどっ!!


 夜はとっぷりと暮れて、丸い入り口の夜空にちょうどいい具合に月が浮かんだ。夜型の俺にっては月を見るの日常的で今日が満月だってしっかりと分かってた。
 音がする。落ち葉を踏み分ける音。別人って可能性もあるかもしれないけど、はっきり言ってこんな雑木林の奥に入り込んでくる変人は滅多にいない。悔しいが、俺はそれを待っていたんだ。
「新里。生きてるか」
 軽やかな掛け声に爽やかぶりが目に見えるようだった。いつも仏頂面の男がやけに愛想がいいもんだな、と俺は思う。
「猫は無事だった。今は入院してるけど、大丈夫だって。衰弱も休ませればすぐ治るだってさ」
 ・・・・・それ聞いてちょっとほっとした自分に腹が立つ。
「どした? もういないのか?」
「・・・・・高島」
 唸るような俺の声は、今日一日は叫びすぎで掠れている。
「もう何も言わんから、助けを呼んでくれ」
 怒るのも怒鳴るのもまずはここを出てからだ。実際のところ、俺はここから這い出ても高島に殴りかかるだけの元気もなかっただろう。高島が覗き込んでいる。月の明るい光を背景に、その影が見える。
 俺は、錯覚だろうけど、その時、影の口元が赤い三日月となってにやりと笑ったようなのを見た気がした。
「いやだ、と言ったら?」
 俺はため息を吐いた。
「まじで、俺、困ってるんだよ。なあ、頼むよ。同じクラスメイトの誼だろ。」
 ってか全然赤の他人でも、いやその方がはっきり言ってちゃんと助けてくれたと思うだろうけれど。高島の楽しげな笑い声。
「気分いいな」
 最悪だよ。
「絶対的優位って位置は」
 最悪な性格だな。
「俺さ、お前になんか嫌われるようなことしたか? それか、怒らせるようなことしたか?」
 そうは聞いたが実際のところ、俺にはそんな心当たりはなかった。俺と高島は嫌いあうほどに話をしたこともなかった。まあ、それは特別仲が悪いというよりかは、高島自身があまり他の奴としゃべらないだけだ。
 だが、気に食わない、というのはあったのかもしれない。俺は浅く広くの付き合いをモットーにしていつも騒ぎにいたから多少はクラスでも目立った。けど高島はあっさりと
「別にない」
「じゃあなんでそんなに意地悪ぃんだよっ!」
 その叫びに高島は少し考え込んだようだ。黙っている奴を俺は目を吊り上げて見上げていたが、ふと思いついたように顔をさげた高島の次の言葉に絶句した。
「本当言うと、俺、お前が好きなんだ」
 俺は冗談でも気持ちが悪くて固まっていた。かまわず高島は陽気に続ける。
「ほら、好きな子をいじめる心理ってあるだろ?」
 俺はもはや言葉もなかった。な、なんて野郎だ、なんて野郎だ。こんな奴と平然とクラスメイトでいた自分が恐ろしい。これがそんな可愛らしいもんか? 井戸に落ちて心底参ってる相手をいたぶるのが。
「俺がなにしたってんだよっ!」
「俺に好かれたじゃないか」
 平然と言う、高島。
 俺は聖人ではない。善人でももしかしたらないかもしれない。だけど、そう世間一般様から見てやばい人、ってレッテルを張られる人間ではないと思っていた。たとえば少年犯罪おこすような奴とか。
 でもな、俺はこのとき、心底本気でこいつを殺してやりたいと思った。
 瞼にナイフをこいつに突き立てる自分が浮かぶ。理性という糸がぷっつりと切れてしまって燃え上がったのは目がくらむような怒りだ。
「ふざけんなよっ、てめえっ!!」
 もうそれからはぐちゃぐちゃだった。俺は喚く。金切り声で、あらん限りの罵詈雑言吐き続ける。
 高島は平然と最後まで聞いていた。井戸をのぞきこんで、肘で頬杖をついて。時に発する笑い声が、こいつは心底楽しんでるって分かった。
 なんてことだ・・・・。
 俺は信じられなかった。本当に、こいつという存在が信じられなかった。追い詰められた人間が半狂乱になっている様を笑ってみているんだ。
 わめく元気もなくなった頃に何かが降って来た。ペットボトルと、落下で入ったビニールの中に中身がぶちまけられた弁当。
「それ差し入れ。じゃな、楽しかった。明日もまた来る」
 平然と言って高島が去って行く足音が聞こえた。月明かりで落としたペットボトルの淵が光っている。
 神様・・・神様・・・、あんまりだ。あんた、この世に悪魔を作ったな。それで俺のところに来させたな。
 あんまりだ。あんまりじゃないか。悔しくて、怒りで震えて、俺の目に少し涙が滲む。あんまりだ。あんまりじゃないか、こんなのって! あんまりだっ!!


 東京に夜なんてないと俺は思ってた。
 別にほら、どこぞの眠らない町、なんてフレーズのためじゃない。太陽はビルの合間に身を沈めて、一応は闇が街に覆いかぶさっても途端にここに潜む獣の物騒な目がぎらぎら輝き始めて、落ち着ける静かな深い夜なんてここにはどこにもないと思ってた。
 だけど夜はあった。こんなに身近に。
 俺は息を吸う。昼間の熱はまだこの闇の中を彷徨って、気だるい生温かさが空気に溶け込んで俺の閉じ込められた空間は緩んでいた。
 半袖一枚にジーンズといういでたちだけど、全く寒さを感じない。まあ、それは何も俺が北国出身というわけじゃなくて、ここが夜になっても暑いんだ。
 それは今までの習慣で分かってたことだし、井戸の中でもそう変わらないなら、どうやらすぐさま風邪を引くわけじゃなさそうだ。頭上に星は霞んで今ひとつだったけれど、染み込むような綺麗な闇だった。
 ふと接触が欲しくなって伸ばした足をたたんで膝で包んだ。自分の腕は知らない感触で乾いている。それでずいぶんと静まった頭で考える。
 俺は基本的に物事を根には持たないタイプだ。
 さっぱりしているというより、その日起こったことはその日で決着をつけてしまう体質で、怒りを持続させることが難しくどんなに腹立たしいことが起こっても一晩眠ればなんだかどうでもよくなってしまう。次の日に持ち越すなんてことは滅多にない。
 なんだか三歩歩めばすぐ忘れるイメージ的にあっぱらぱーって感じで、それが良いことなのか悪いことなのか分からないけど、俺はそれでいいと思ってた。怒りも憤りもそれは決して抱いていて気がよくなるものじゃない。
 どろどろとしてて飲み込めなくていつまでも抱えていると、こっちの身体が溶けるような気分になるし、なによりそれに煽られたら自分を見失ってしまいそうで怖くて俺には似合わないんだ。
 実際のところ、高島の件も今こうして井戸の中に忍び込む夜の中にいると、殺してやりたい、なんて乱暴な衝動は失せていた。
 それで俺は冷めたことで正常に動くようになった頭でじっくり考える。馬鹿だってことは証明されたので、そりゃ間違わないようにじっくりとな。
 どう考えても、奴は尋常じゃない。そりゃさっき俺が想像したみたいなことが世の中には現実として蔓延っているわけだから、これくらいの真似をする奴はいるかもしれない。
 けど、出られない井戸の中に人一人がいるのを知っていて、それでも誰も知らずに放って置くなんて真似、底意地の悪い気持ちだけじゃ到底できたものじゃない。
 そういうのを見つけても、助けようとも誰かに伝えようともしないことが、犯罪になるかどうかまではよく分からないが、世間に知られればかなりの人でなし扱いされるのは間違いない。
 まず小心者にもできないことだ。高島が小心者だとは思わないが、それにしたって結構覚悟がいる所業である。
 そこで俺は行き詰る。そんなリスクを犯すほどそこまで俺は高島に嫌われた(あるいは憎まれた)理由がどうしても分からない。高島が俺をよく思っていないことは、本当に確かだが、果たして人はそこまで、ほとんど口を効いてもいない人間を憎めるものか。
 俺は無理だな。だからかもしれない。だから、高島への怒りも冷めてきたのかもしれない。ある程度知り合わなきゃ、俺は好意も悪意も抱きようがないんだ。
 多分、明日ぐらいには助けが来るか、高島が来るかするだろう。俺の怒りが段々冷めてきた理由もそれだ。いくらなんでも高島がこのまま放って置けば、他の誰かに運良く発見されない限り俺は死ぬ。
 でもな、自分が井戸でじわじわ死んでいくなんて考えただけでもやだけど、自分が黙っていたことで誰かが井戸でじわじわ死んでいっていることが分かってるほうだって、相当にこれはプレッシャーだろ。俺だったら気が狂ってるよ。
 そこいらは、だから確信として俺の胸のうちにしっかりと根をはり、少し楽になったのと別のことに思考を向けるだけの余裕が生まれると、今度は高島のことがどうにも気にかかって仕方なかった。
 しかしまあ、でも原因を探るほどには俺は高島のことなんて知らないんだよ、さっぱりだ。
 高島優
 名前からあからさまに優しげな風を想像するかもしれないが、現実のあいつは明らかに名前負けしている、いつも動かない平静の鬼だ。かと言ってじゃあ硬派なのかというとそれもはてさて。
 どこぞのアンパンで出来たヒーローが愛と勇気だけが友達と言い切るなら、あいつは本と活字だけが友達の、漫画愛好家の俺から見ると多少人生が虚しそうな活字中毒者だ。それも重度の。
 学校が始まった朝から、下校のチャイムがなる夕方まで、休み時間だ空き時間だとちょいと暇があれば、カバーをかけた文庫本を広げて豆粒みたいな字を目で追っている。
 でもだからと言って、勉強命のもやし君でもない。背がすっくと伸びて肩幅も広いわけじゃないけどしっかりしていて、あまり細いという感じは見受けられない。そして異性にとっては重要なポイントだが、なかなか顔がいい。
 誰とも喋ろうとはしないで、本だけをずっと読んでいる奴なんて、学校では浮いていると思うんだけど、その浮き具合がくっきりと周りの空間からきり取られて様になっているので、女子には人気が高い。本人は気付いているかどうかはともかく。
 まあ、ここまで聞くと、いかにも同性には苛められそうな奴だと思うよな。
 しかし俺のクラスの連中はなんだか皆、そりゃ若いから馬鹿騒ぎや卑猥話とかもよくするけど、根本的には気のいいのが多くて今更いじめだとかシカトだとかするには少々土台がもろい。
 それに高島自身、別に癇にさわるほどお高くとまってる風でもない。学校行事には案外きちんと参加するし掃除も手伝いもこなして、話しかけられれば本を置いて受け答えする。
 口だけで小さく笑うこともあるし、人付き合いを円滑にするための笑顔ぐらいは持ってる。近寄りがたいってほどでもなく、皆も奴の態度に悪い印象は受けないようだ。
 ――俺も悪い奴だなんて思ってたわけじゃないよ。みんなとあまり付き合わないで、ちょっと変わった奴だが、それはそれでいいと思ってたさ。
 クラスにあんなの一人ぐらいいたっていいだろ、別に。誰に迷惑かけるわけでもあるまいし、女子は花を花瓶に飾ったみたいな感じで喜んでいるんだから。
 なのにその物静かな読書君が、なんだ? なんだ? あの変貌振りは・・・・・。
 あの時は必死だったしそんなこと考えてる余裕もなかったけど、いきなりの馬鹿笑いもあのにやにやした態度もいつもの奴からは考えられないほどのものだった。
 学校を出ると、人格が変わるのか? 本を手放すとああいう人格なのか?
 まあ、普通に考えれば猫被ってたんだろうさ、それであっちが本性なんだろう。だってなあ、人とたいして付き合ってないなら、自分を誤解させるのも簡単なもんだろうしな。
 俺はちょっと身をすくめてため息を吐き出した。別に寒かったわけじゃない。
 この刺激的で少し空虚な街に出てきて半年、俺は小さな秋を見つけるみたいにようやくわずかな夜を見つけた。この街の人は寂しいから、夜を追放したのだと思っていた。けれど夜は隠れてた。こんな近くにひっそりと。
 この街の夜を見つけたのと同時に、俺は自分のクラスメイトの中に潜む夜も、偶然に見つけ出してしまったのかもしれない。




戻る        二へ