研究ノート07
 長江文明の伝播と水田稲作を拒否した縄文人

           参考文献 : 

書籍名

古代日本のルーツ
長江文明の謎

出版社 

青春出版社

著者

安田喜憲

初版年月 

2003.06



  
  
河姆渡遺跡発見の衝撃

 1973年の夏長江下流の上海の南、いわゆる江南の地、浙江省余姚(よよう)県の河姆渡(かぼと)村で、水路の改修工事現場から一片の土器のかけらが見つかった。河姆渡遺跡発見の瞬間である。
 考古学者が発掘を進めたところ、数メートルの地下から夥しい量の遺物が出土したが、とりわけ注目されたのは、数十センチの厚さに堆積した籾(もみ)であった。
 それも、日本の鳥浜貝塚の場合と同様、さっき埋められたのではないかと見紛うばかりばかりに、鮮やかな籾色をして出土した。
   
     さらに一つ下の層から、建物の一部と思われる木片と共に、大量の遺物が出土した。
 左の写真は、高床式建造物群が出土したところを埋め戻し、その上に、高床式建物の柱群を再現したものである。
 大量の柱群は、河姆渡遺跡の規模の大きさを測るに充分である。
 
 C14法による年代測定が行われた結果、この河姆渡遺跡が7,000年前の遺跡だということが分かった。すなわち、世界最古の本格的稲作遺跡が発見されたことになり、たちまち、世界の注目するところとなった。

 河姆渡遺跡の発見が契機となって、長江の中・下流域では右の図のように、遺跡の発見・発掘が相次いだ。
 その結果、まず稲作の起源が次表のように大幅に繰り上がることになった。
 
 また、城塞都市ともいえる、城壁と祭壇を持った都市遺跡が出土した。 
   

 従来、文明といえば、四大文明-メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明、黄河文明-を指し、城壁、祭壇のほかに、文字や金属器を持っていたこと、“麦畑作”の農耕技術を持っていたことが条件とされていた。
 ところが長江流域に現れた都市集落は、“稲作”農耕文化を基盤としていた。しかも文字も金属器も持たなかった。しかし、その構造物は、城壁や稲作儀礼を行ったであろう祭壇を備えるなど、長江文明と呼ばざるをえない規模を有していた。
 要するに、河姆渡遺跡を発端とする長江流域の遺跡群は、従来からの文明の概念を、すなわち西欧が築いてきた文明体系とは相容れなくとも、多様で豊かな文明が世界には存在したことを知らしめたのである。
 そればかりではない。渡部忠世が精緻に積み上げてきた「アッサム-雲南起源説」という、稲作の起源に関する当時の常識すらもすっかり覆してしまった。

  
長江文明と縄文文化との交わり

 筆者は、本論の第1部10節「日本人の心のふるさと−照葉樹林文化−」で、“東亜半月弧”乃至は“東亜稲作半月弧”から照葉樹林文化を携えた人々が、この列島に渡来して来た可能性を鳥浜貝塚遺跡を例に述べた。
 しかし、それが何処からなのか、ピンポイントの地点を示したわけではなかった。ところがこの河姆渡遺跡の出土品と鳥浜貝塚や三内丸山の遺物には、いろんな共通性が見出されるのである。
 安田喜憲は「長江文明の謎」(p75)の中で、漆の使用、ヒョウタン・マメ類の栽培に加え、鹿角斧(ろっかくふ)が、驚くほど似ていると指摘している。
 
 確かに、このような比較表を作ってみると、鳥浜村の遺物には、“河姆渡村からの、直接の文化の伝播があった”ことを強く感じさせる。
 間違いなく、河姆渡村を含む中国江南地方から、長江文明(照葉樹林文化を含む)が、セットとなってこの列島に流入したと考えてよいであろう。
 そしてその時期は、鳥浜貝塚の遺物からみて、縄文前期(6,000年前)以前であったことも間違いないであろう。

  三内丸山の高床倉庫群

  筆者はこれまで、なぜ本土最北の三内丸山の地に、照葉樹林文化まがいの、高床倉庫や漆の技術、南方原産のヒョウタンなどが既にあったのか、少々消化不良気味であった。
 しかし、このように長江文明がセットで流入し、たとえば【鳥浜→姫川(ヒスイの供給地)→三内丸山】という経路、すなわち既に常設的なヒスイの
   
交易路となっていた、“日本海航路”(右上の地図のピンクの矢印部分)によって、その文化情報が伝わり、高床倉庫−アジアモンスーンの湿潤な気候に対応した貯蔵庫−の技術と考え方が取り入れられたとするならば、三内丸山に、南方の照葉樹林文化特有の、高床倉庫群が建ち並んでいたとしても、何ら不思議ではない、十分理解出来ることである。
               

  
水田稲作を拒否した縄文人

 長江文明がセットで、縄文前期の日本列島に伝わっていたとするなら、長江文明の基盤であった水田稲作農耕を、縄文人は何故取り入れずに拒否したのか? これは誰もが抱く疑問であろう。
 安田喜憲は、この疑問に対し、次の四点を理由に挙げている。
1.長江流域からやって来た人の数が少なかった。そのために、稲作が広く普及することがなか
 った。
2.稲作農耕を営まなくても、縄文人は狩猟・漁撈・採集生活で豊かな暮らしを実現していた。
 したがって、手間のかかる稲作農耕を行う必要がなかった。
3.縄文社会は墓の副葬品に顕著な違いがないことから、貧富の差のない社会であったと思われ
 る。それに対し、稲作という初期農耕社会は生産性が低く収量も不安定で、したがって、全
 ての人々に豊かで平等な生活を保障するものではなかった。
4.イネを栽培するには、灌漑や水田開発など、多人数での共同作業が必要であり、必然的にリ
 −ダー層と被支配者層という階層分化を生む。さらに大きく天候に左右されるため、豊穣儀
 礼とそれに伴う生贄というような犠牲を伴う。
  循環と再生を基本とする、穏やかな社会で暮らす縄文人には、それらを受け入れる素地が
 なかった。

 以上が安田が挙げる、稲作が広まらなかった理由であるが、筆者も大略賛成である。
 ただ、縄文人は水田稲作こそ受け入れなかったが、水陸未分化の粗放稲作(低湿地に種籾を撒くだけの稲作)や焼畑を含む畑稲作は取り入れていたことが、最近のプラントオパール分析などで明らかとなっている。
 筆者はこれらの事実から、安田の挙げた理由の2.に類するが、より積極的な意味で春・夏・秋の3シーズンに及ぶ稲作の農作業が、縄文カレンダーと噛み合わなかったことが、大きな理由であったと考える。
 
 上の二つの縄文人のカレンダーを見ると、縄文人は男も女も季節ごとに、しっかりしたそれぞれの目標を持って生業活動をしていたことが分かる。
 例えば“木の実採り”は女の仕事であったが、9〜10月の短期間に、木の実の稔り具合に細心の注意を払いながら、年間必要量を採集しなければならなかった。このとき稲刈りなどの農作業が入ったならば、木の実は小動物の餌になったり、虫の穴が開いたり、腐ったりして、収穫の機会を逸する可能性が大であったろう。
 したがって、3月から10月まで88(米−八十八)もの手順を持つという、極めて煩わしい作業と管理 
   
と、さらに多人数の共同作業を必要とする水田稲作を導入するということは、これまでの生業カレンダーを捨て去らねばならぬことと同義であったと考えてよい。
 とすれば、縄文人が、当時豊かな生活を保障してくれていた、先祖からの知恵のいっぱい詰まった、これまでの伝統的な生業−採集・狩猟・漁撈活動−を、捨てるような危険を犯すはずがなかったことは当然であったろう。

 だからこそ、縄文人は、美味な米という穀物を主食として取り入れるのではなく、せいぜい嗜好品程度の扱いで、おそらく長江文明セットの付録のような、“片手間で出来る粗放な農作業の稲作”を導入するに止めたのではなかったか。

 そして、気候が冷涼化し、伝統的な縄文カレンダーに頼っていては生存が脅かされるようになった、縄文晩期に至ってはじめて、縄文人は本格的水田稲作の導入に踏み切ったのではなかったか、筆者はそう考えるのである。