研究ノート06
 縄文時代の渡来文化の痕跡

書籍名

縄文時代の渡来文化
−刻文付有孔石斧とその周辺

出版社 

雄山閣 

著者・編者 

浅川利一・安孫子昭二編

初版年月 

2002.10


  
 大陸との交流の痕跡の数々

 本論の第1部11節で「大陸文化の縦断路−日本海文化圏−」を纏めた。その過程で、ケツ状耳飾以外に、大陸との交流の痕跡を残す遺物がないか、随分探した。その参考文献の一つが次の「縄文時代の渡来文化−刻文付有孔石斧とその周辺」(浅川利一・安孫子昭二編、雄山閣)である。
 残念ながら、この本に収録されている遺物が、出羽地方で出土したということ以外、普遍性に欠けるので本論では言及を避けた。

 この本の内容を纏めると、
1.刻文付有孔石斧
  山形県羽黒町中川代遺跡から、縄文中期の土器と共に右のような磨製石斧が出土している。これが大陸から渡来した玉鉞(えつ)の一種なのかどうか、未だ結論は出ていない。
  いろいろな見解があるが、その一つ、中国・山東
大学教授の蔡鳳書の所見は、「大汶口文化(黄河文 
 
   
    明の一つ)の所産と思う。山東省で作られたものが対岸の遼寧省に渡り、韓国北部から渤海方面に行き、海を南下した可能性もある。(下の中国行政地図参照)
 文字は甲骨文ではないが、鉞形は王の意味で、上の
孔は白、つまり記号も皇を表わしていて、腰に佩用したもの。孔の開け方は中国風に両面から開けている」 
とのこと、と浅川利一は記述している。
 すなわち、蔡鳳書は山東省辺りの王貴族が、戦いに敗れるか、土地を追われて出羽の国にたどり着いた人の所有物ではなかったかとしている。
 少なくともこの玉鉞が、大陸からの渡来物であることは、ほぼ間違いないであろう。なお、大陸に文字ないし記号入りの玉鉞は、いままで見出されていない。

2.三崎山の青銅刀
 この青銅刀は山形県北部、庄内地方の鳥海山西麓、日本海に臨む
 
地点から、縄文後期の土器と共に出土した。大陸で既に出土している同種の青銅刀と形状比較すると、中国の殷(3,700〜3,100年前)の時代盛期のもの、それも河南省に殷の遺跡があるが、そこ
   
     の物によく似ているという。もしそうだとすると、この青銅刀は出来上がって程なく、旧満州やその北方を経由して鳥海山の麓、三崎山辺りに到着した可能性が在る。それを見た後期縄文人は、まだ金属器というものを知らなかったので、さぞや驚いたことであろう。その後、当時の人は青銅刀の形を真似て、石で類似品を作った。いわゆる内反りの石刀であるが、これが東北地方から北海道にかけて、60点 
 
ほど出土している。

3.漆塗り彩文土器
 山形県の南部、福島との県境に程近いところに押出(おんだし)遺跡がある。この遺跡も鳥浜貝塚と同様湿地帯にあるため、木材や漆製品がきわめて良好な保存状態で、縄文前期の土器と共に出土した。
 下図は押出遺跡から出土した漆塗り彩文土器の数々と、中国黄河地域の仰韶文化期の彩陶である。
 
   
 
 押出遺跡の漆塗り彩文土器の見事さ、技術レベルの高さは、3,000年後の亀ヶ岡文化に匹敵するといってよい。これが、この地区で独自に発生したものかどうか未だ結論が出ていない。
 もしかすると、西はエジプトからイラン、黄河地域、東は中国北東部へと広がる彩陶文化の一部が、日本海を渡って東北日本に伝播したのではないかとも推測されている。

 今、山形県、いわゆる出羽の国の三遺跡について調べてきたが、日本海を渡ってやってきた可能性のある文化は、これだけではない。

4.“鬲”に似た三足土器 
 縄文文化の宝庫・青森県の今津遺跡、虚空蔵(こくうぞう)遺跡では、中国古代の「鬲(れき)」に似た三足土器が出土している。
 これらはいずれも、当地で作製された物で、いわゆる「亀ヶ岡文化」の所産である。 
   
     すなわち、中国から直接もたらされた遺物ではなく、例えば左の写真のような原型が渡来し、その形を模倣して作られたものと考えられる。
 今津、虚空蔵のいずれにもベ
ンガラで朱彩されており、特別に呪術的なもの、あるいは祭りなどに用いられたと推測されるが、当時の人々が、大陸からの珍しい三つ足の土器に、大いなる神秘を感じ取っていたであろうことは間違いあるまい。

 以上、「縄文時代の渡来文化−刻文付有孔石斧とその周辺」から主な事例を抜粋して来たが、これらが大陸との交流を裏付けるものであることは、疑いがない。しかしこれらが、集団の渡来を意味するとか、集団間の遺伝子の交流を想定させるまでには残念ながら至らない。
 なぜなら、これらの遺物がケツ状耳飾りのような全国的流行を生むとか、スポット的ではなく地域的広がりをもつなどの、文化への影響力があまり感じられないからである。

  東北地方と大陸をむすぶ航路

 一方で、何故このように東北地方に、大陸との交流を示す痕跡が多いのか、疑問が湧く。
 これについては、同書の中に元山形大学教授、柏倉亮吉の適切な考察がある。
 柏倉(かしわくら)は、日本海の海流に注目する。日本海を流れる暖流や寒流が、船の航路にどのように影響するか、渤海使節(西暦727年〜922年の間に35回)の着岸地から推測している。
 史書によると、727年、最初の渤海使節の船団は、漂流して庄内浜に着いたので、出羽國司が奈良の都まで送り届けたという。その後朝廷は、渤海の船団が遠隔の辺境に着岸されても困るので、外交事務を担当する役所のある“大宰府”に来るよう通達している。
 渤海側も、その後の使節については、そのつもりで船出したようだが、結果は次図のように航海術に甚だ疑問を感じさせる。
            
 これをみると、南海府→大宰府航路が、東鮮海流や対馬海流の影響を強く受けて、越前海岸や出羽海岸に流されていたことがよくわかる。特に出羽海岸が最多である。
 8世紀の渤海と、縄文時代の中国東北部、沿海州の人々の航海術が比較できるか疑問があるが、縄文時代も大陸からこの列島を目指した舟が、出羽地方に着岸することが多かったということは間違いないであろう。
 そういうことから、山形や青森の縄文遺跡から、大陸に繋がる遺物が出土しても、決して不思議ではない。