研究ノート05
青森地方の稲作伝統について


 日本人の源流という切り口で歴史をみていると本論では冗舌になるので省かざるを得ないが、興味ある事象に出会うことが多い。表記の青森地方の稲作伝統もそのひとつである。
 筆者は文字という記録媒体のない時代のことを考えている。そういう時代、過去の経験則や知識、技能などは所謂口承で伝えられた。アイヌ民族の叙事詩「ユーカラ」は有名であるが、それほど整った形でなくても昔話や伝説のような説話として語り継がれたことだろう。
そしてそういうことを大切にした社会であり時代であったろう。
 筆者はこの小論でその事を重視する視点から古代の出来事を見てきたつもりである。
 その意味で青森地方の稲作は特に興味をそそられるものである。

 青森県八戸市に風張遺跡という大規模集落遺跡がある。右の写真の合掌土偶が出たことで有名だ。また国の史跡是川遺跡とは新井田川を挟んで対岸にある。縄文後期の竪穴住居址184棟・掘立柱建物址19棟・土壙墓127基などが出土している。
 平成元年の発掘調査で竪穴住居址から7粒の炭化米が出土した。これを放射性炭素年代測定を行った結果、2粒が縄文後期末葉のモノと断定されたと云う。またプラントパールも検出されている。(参照)                      
   
 しかしこの風張遺跡でその当時イネが栽培されていたかどうかは分らない。風張遺跡の指導者が米に興味を持って取り寄せたのか、或いは西日本の誰かが交易のついでにもたらしたのかもしれない。

 確かなことは“コメ”という新来の栽培食物が青森地方の縄文人の間で大きな話題になったということだろう。いや青森だけでなく東北地方全体に伝わったようである。しかもこれは昔語りとして千年近く伝えられてきた形跡がある。
 弥生前期初めから遠賀川式土器を伴う水田農耕文化が北部九州から急速に東進して愛知県西部に達し、そこで伝播は一息ついた。(このことは既に述べてきた。)
 その後水田稲作の亀ヶ岡文化圏への浸透は弥生中期から徐々に始まったと信じられていた。森の恵みに基盤を置いた旧来型の亀ヶ岡文化圏での抵抗があったからである。

 ところが1982年、青森県南津軽郡田舎館村で垂柳遺跡から弥生中期の立派な水田址が発見され、さらに1987年には弘前市の砂沢遺跡から遠賀川系土器を伴う水田遺構が発掘され、弥生時代前期の段階ですでに本州北端の地域まで水田稲作が到達していたのである。
                             

この青森の水田農耕技術は周辺の東北地方に広まった。したがって水田稲作は日本列島で関東を飛び越えて本州北辺に広まることになった。前掲の分布図をもう一度見てみよう。
  
 青森やその周辺の人々が水田農耕技術の渡来に敏感に反応し、西日本地区に遅れることなくほぼ同時期に導入を果たしたことは注目すべき事実である。ただ東北の稲作は西日本のように地域を蓋ってしまうような面的広がりをしたわけではない。あくまで点として分布していた。しかも気候が冷涼化する弥生後期には逆に衰微する傾向さえ見られる。おそらく水田稲作を導入したもののその土地に適応する品種の開発など考えていたほど簡単なものではなかったであろう。

 以上見てきた「青森地方の稲作伝統」といえる事象が何ゆえ起こったのか。とても自然な流れとしての伝播ではなく、青森地方の人々の意志として亀ヶ岡文化の中心地でありながら新しい文化を取り入れたのか。
 筆者はそこに縄文後期「風張」を起点とする伝承・言い伝えが千年の時を経て、弥生前期の人々の気持ちを動かし早期の水田稲作の導入につながったと考えるのである。
 くりかえすが、それが・・祖先からの大切な言い伝えが・・記録する文字を持たなかった時代の歴史を作る源泉となっていたのである。
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 以上のように纏めた後、NHKの日本人はるかな旅に収録された考古学の小林青樹(せいじ)の論文を見いだした。それによると
 東日本地区の縄文人は筆者が想像した以上に積極的であったようだ。東日本縄文人は板付に集落が成立したとき、水田稲作が伝来して西日本に広がり始めたとき、すばやくその情報を聞きつけ、ただちに偵察隊を派遣したらしい。それは東日本の縄文土器が当時、突如として西日本各地に展開されることからわかるそうである。

      
 しかも西方への展開の最初期のもののほとんどは、亀ヶ岡系の土器ばかりであるところから、東北と北陸の集団が中心だというのである。さらにその中には青森から福岡への移動を物語る例もあったそうである。
 小林に言わせれば、この東日本の縄文人の想像を超える行動の根源は「新しいものに対する飽くなき好奇心と先取の精神と新たな人々とうまくやれるかどうかを見きわめたいという強い気持ちであったのではないか」としている。

 筆者は結論に関しては少し違うのではないかと思う。先取の精神があったのなら何故水田稲作がスムーズに東日本に展開されなかったのかという疑問が残る。
 筆者はむしろ新しい文化、異文化に対する強い警戒心がその根源にあったのではないかと推測する。だからこそ“祖先からの大切な言い伝え”があった青森地区だけに、はやく水田稲作が現れ、東日本に行き渡るのが遅れたという歴史的事実が説明できると考える。

     
     
         
         
         

                                                        

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