日本人の源流を探して

            第5部  神々の故郷と子孫

05.神々の子孫たち-アイヌ民族-

日本人の源流を探す旅も、いよいよ最終章に近づきつつある。当初から目標としてきた、“あらゆる分野から日本人の起源にアプローチする”というテーゼも、かなりの程度、達成出来たのではないかと思う。
        
 そして、何よりも重視したのは、あらゆる分野から導かれる結果から、「整合性」を持ちうる結論を得ることであった。以前にも整合性を重視したつもりの、日本人の成立モデル(暫定版)を示したが、その詳細版を提示したい。

 しかし、まだやり残していることがある。円で囲んだアイヌ民族と琉球人の成立に関する問題である。

  亀ヶ岡文化を担った人々

 上の日本人成立モデルに見るように、筆者の成立モデルの一つの柱は、「縄文人2系統論」である。そして、縄文文化というのは1万年に亘る長期文化であったが、その間、ほとんどが“東日本縄文人集団の文化”であった、と言って過言ではないことである。
 
 しかし、さしもの東日本の縄文文化も、4000年前ごろに始まる気候の寒冷化により、急激な人口の減少を見せはじめ、晩期には人口は最盛期の1/4まで激減する。このことは、既に述べてきた。
 その人口の激減した東日本地区で唯一、繁栄を続けていたのが東北地区である。その東北地区の北部から北海道西南部を中心として、3000年前、最後の極めて高度に成熟した縄文文化・亀ヶ岡文化が出現した。
       
 これらは八戸市是川遺跡の出土品であるが、世界にも例をみない高度な、特に漆の、技術には驚嘆させられる。
 この文化の担い手こそ、東日本縄文人が小進化し続けた、即ち原アイヌ人であったろうというのが、筆者の考えである。
 この亀ヶ岡文化は6,7百年続いた後、紀元前3,4百年ごろ衰退する。アンデス文明のマヤやインカもそうだが、一度潰えた文化が再起、発展するすることはない。北海道の文化を見て
 
も、その後も長い間、縄文文化の残照が残り、近世アイヌでも鉄器文化こそ利用したが、
サケ・マスの漁撈と狩猟採集の文化を守り続けた。近代化が興ることはなかった。
 
   東日本縄文人(原アイヌ人)の選択

 今一度、弥生時代に戻り、第3部で詳しく調べてきた、遠賀川式土器と遠賀川系土器の分布を見てみよう。
  
 東日本地区(上図、黄色の地域)が亀ヶ岡文化圏にあったころ、西日本地区には突帯文土器文化圏(赤線より西の地域)が広がっていた。突帯文土器文化の時代は、西北九州では既に初期水田稲作段階(菜畑・曲り田段階)にあり、その他の地域でも水田址こそ認められないが、プラントオパールや農具などが出土していた時代である。
 水田稲作文化は、この突帯文土器文化圏を覆うように進出して来る(上図、緑色の地域)。そして、東日本地域、亀ヶ岡文化圏にも当然、その文化が波及する。
 
 このとき、東日本縄文人はどのような選択をしたであろうか。考えられることは三つある。
 一つは、当時の最新技術であった水田稲作農耕技術を導入するという選択である。この水田稲作文化には、一種の統治思想と階級社会を包含していたから、その覚悟も必要であったに違いない。したがって、個々人や集落単位によって選択の可否はかなり分かれたようである。すなわち、東日本地区では西日本地区と違って、稲作文化は面的広がりをみせず、点として分布することになった。(上図の赤い点の分布参照)
 二つ目は、豊かな狩猟採集民という伝統的な生活スタイルを変えることは拒否するが、水田稲作文化と地域的に共存していく道を選択した人もいたと推測される。
 
 水田稲作文化が低地を好んだのに対し、こ

の二つ目の選択をした人は山地などで、狩

猟・採集などに従事したことであろう。たと

えば、マタギと呼ばれる専門狩猟集団も、こ

うして発生したのかもしれない。

 なお、農業経済学の、アイヌ文化史にも詳

しい高倉新一郎は、北海道アイヌも狩をする
   
ことを、「マタギする」というふうに使っていると云っている。
 しかし、「マタギ」という語がアイヌの原語なのか、あるいは本土からの移入語かは判然としないらしい(太田雄治著「マタギ」より)。
 推測を逞しくすれば、アイヌとマタギとは、新しい文化との共存を拒否した原アイヌ集団(=次に説明する三つ目の選択をした、東日本縄文人)か、共存を許容した原アイヌ集団かの違いなのであって、「マタギ」などの語彙も祖語を共有するのかもしれない。
 三つ目は、従来からの伝統的生活スタイルを固守することは勿論、新しい文化スタイルやそれを先導する新しい集団との共存をも拒否した人びとである。
 
 彼らは稲作農耕に適しない、冷涼な地域、

すなわち東北や北海道に次第に後退していっ

た。

 筆者は、この三つ目の選択をした東日本縄

文人が、のちに「蝦夷(えみし)」と呼ばれ

た人々であり、
彼らのうちの一部は擦文時代

を経て、オホーツク文化とも融合し、独特な

アイヌ文化、アイヌ民族が成立したと考えて

いる。

 右の図のように、東北北部にはアイヌ語の

地名が数多く残っている。

 「内(ナイ)」はアイヌ語の“nay”で

小さい川とか沢を意味し、「別(ベツ)」は
   
アイヌ語の“pet”で大きい川を意味する。三内丸山(大字三内字丸山)の三内もアイヌ語地名の一つではないかと言う説もある。
 この地名に残るアイヌの痕跡は、歴史のうねりのなかで次第に北海道に退いていった、東日本縄文人の無念の記憶なのかもしれない。

  アイヌ民族こそ東日本縄文人の末裔だ!

 アイヌ民族が東日本縄文人の末裔だというには、勿論、根拠がなければならない。
ひとつは、松本秀雄が調べたGm遺伝子である。
  
 松本が調べたアイヌ民族のGm遺伝子頻度は、赤で示した、非常に低い頻度の南方型のafb1b3遺伝子と、非常に高い頻度の北方型のag遺伝子が特徴である。これに近い数値を示すのが佐渡の人々のGm遺伝子である。
 西日本地区から東日本地区へ、遠賀川式土器系の水田稲作文化が流入したとき、本土の東日本地区までは影響が及んでも、離島までは及ばなかった可能性が強い。したがって、離島の人びとには東日本縄文人の血液型が、縄文時代のまま残っている可能性がある。
 山形県の飛島のGm遺伝子頻度は、すでに本土日本人と大きな差異はない。しかし、新潟県の佐渡の人びとのGm遺伝子では、アイヌ民族のGm遺伝子頻度との繋がりを示唆する数値を示す、すなわち、極めて低いafb1b3遺伝子の頻度を示すのである。アイヌ民族の源流が東日本縄文人にあった、という微かな証ではないだろうか。
 なお、マタギは、アイヌのように新しい文化や集団に対して拒否するのではなく、既に説明したように共存を図っていた。したがって、Gm遺伝子の頻度は現在では、本土日本人と同じ数値になっている。


 第4部08項で取り上げたHLA遺伝子の頻度にも、その痕跡が残されている。次の表は徳永勝士らのグループが調べたデータである。
     
 この表は日本列島を中心とする集団で見出された、HLA遺伝子セットを掲げたものである。
 まずNo.1〜4の遺伝子セットを持つのは、遠賀川式弥生人が東進し、東日本縄文人とも遺伝子の交流をした人びとで、現在、日本人として最も多数派である。
 No.5はアイヌ人や沖縄人が全く関与しない遺伝子セットであり、列島在来系の人とは混交しなかった純粋の渡来人と考えられる。
 No.6〜9は西日本縄文人で、渡来人とも長い歴史の間には通婚し、在地に留まった人びとであろう。
 No.10は混血しなかった純粋な西日本縄文人系であろう。そして、
 No.11〜12こそ、アイヌ民族が東日本縄文人の末裔であることを証明する遺伝子セットと考える。なぜなら、この遺伝子セットは、西日本縄文人が少なくとも関与した沖縄人の痕跡も、渡来人の痕跡も、全く認められない現代日本人で、しかも、アイヌとのみ遺伝子的繋がりがある人びとだからである。こういう人は、東日本縄文人以外、考えられない。

 こうした遺伝子からの推測に加え、筆者はアイヌの民族衣装などに、縄文人の意匠に通じるものがあると感じるのである。
       
 右の絵は土偶の模様から復元された縄文人の衣装であるが、アイヌの民族衣装と根元で繋がっていると感じるのは、筆者だけであろうか。
 
 また一時はコーカソイド(白人種)ではないかと言われた、アイヌ民族の風貌も東日本
縄文人(=古バイカル人)と同源ではないかと感覚的に思わせる理由である。
 右の写真を見比べてほしい。
 奥深い眼窩、秀麗な鼻梁、豊かな口髭、どれをとってもコーカソイドに見劣りしないばかりでなく、よく似ているといって過言ではない。
 これはおそらく、アイヌ民族が、ホモ・サ
ピエンスがコーカソイドとモンゴロイドに分
化した直後の古形を保っている、すなわちア
   
ジア化がまだ進んでいないタイプの人びとの子孫であり、それは筆者の持論であるアイヌ民族=東日本縄文人=古バイカル人という図式の証明でもあると考えるのである。

 
   

         
         
         

1