日本人の源流を探して

            第5部 神々の故郷と子孫たち

01.日本神話の源流 -南洋の島々

この列島はアジア大陸の東端に花綵(はなづな)のような形で位置している。従って、大陸の北や南から、あるいは半島や島嶼部から様々な集団が渡来し、子孫を残すことになった。渡来した集団には彼らの故郷から携えて来た、それぞれの伝承や説話があったに違いない。
 それは一族の言い伝えであったり、集団の共有の説話として、あるいは広範囲に流布して地方の伝承となり、語り継がれてきた。筆者がこれまで何度も指摘してきたように、文字のない時代、すなわち“記録”という共有知識が存在しなかった時代、先祖から受け継がれてきた伝承は、“記憶の集大成”として神々の言の葉のように大切にされていたに違いない。
 それらを日本神話と呼ぶことにする。この日本神話のルーツを探ることは、とりもなおさず日本民族を構成する集団の、故郷を明らかにすることに繋がるはずである。

  
『記紀』の由来と日本神話

 第4部-07項で述べたように、663年、白村江で大敗したヤマト王権は、唐軍の侵攻を防ぐため急遽、水城の大堤やその
北に大野城南には基肄(きい)城という朝鮮式の山城を築き、防衛力を強化した。
 しかし、国力のすべてを投入して戦ったといえる白村江の戦以後、列島内では想像以上の民衆の疲弊、豪族の不平不満など反発が高まっていた。当時の王権としては、国内の人心安定や体制の整備こそ喫緊の課題であったはずである。
 だから、
壬申の乱に勝利した大海人皇子・天武天皇は、強力なリーダーシップのもと、より中央集権的な律令国家の建設を急ぐのである。中央官僚機構の創設、広域行政単位としての“国”の設置と国司という中央行政官の派遣、そして自らをはじめて、大王に替えて“天皇”と称すなど、改革を一挙に進める。
 こういう状況の下、統治者として、自らの天皇としての正当性と、日本国“民”のアイデンティティーを確立することを考えるのは当然であったろう。その思いから天武天皇は太安万侶に命じ、稗田阿礼が暗誦していた『帝紀』(天皇の系譜)や『旧辞』(古い伝承)をもとに編纂させたのが、712年(元明天皇)に完成した『古事記』である。

 また、中国を盟主とする冊封体制から離脱し、朝鮮半島における権益も失った、小独立国家・日本として、東アジアの国際社会での存在感を示す必要にも少なからず迫られていたはずである。中国の正史、『史記』や『漢書』にも劣らない日本の正史として、舎人(とねり)親王らの撰で、720年(元正天皇)に完成したのが『日本書紀』である。
 したがって、日本書紀は当時の東アジアの共通語であった漢文・編年体で書かれた。
一方、古事記は国内の、それも地方豪族などに広く伝えるためであろう、それほど漢文の素養がなくても理解できる、変体漢文(日本化した語彙・語法・語序・用字法をもった漢文)で書かれた。
 筆者はさほど違わない時期に、同じような内容で、編纂された『記紀』の役割を、それぞれ以上のように理解している。

 さらに古事記が献じられた翌年、713年、元明天皇は諸国に官撰の地誌の編纂も命じた。これがいわゆる風土記と呼ばれるものである。完全に現存するものはないが、出雲国風土記がほぼ完本で残り、播磨国風土記、肥前国風土記、常陸国風土記、豊後国風土記が一部欠損して残っている。

 日本神話は、基本的には今述べて来た『古事記』上・中・下巻のうちの上つ巻(序・神話)と『日本書紀』全30巻、系図1巻のうちの巻一・二すなわち神代上・下に記述されている説話のことを指すが、これに更に、風土記の記述や全国各地に残る民話などを含むと考えてよいであろう。

  
ルーツを同じくする南洋の神話

 これから比較神話学の吉田敦彦『日本神話の源流』『日本神話のなりたち』などをテキストとして日本人の起源に迫りたい。
 比較神話学というのは、諸民族の神話を比較して、その発生・機能・伝播などを研究する学問であり、その第一歩は似通った神話を世界各地から採集することから始まる。
 それら採集された神話がどれほど似ているのか、どういう基本構成をもって似ているとするのか、海幸彦・山幸彦の話(失われた釣り針神話)を例に調べてみよう。

 南洋の島々に点在している神話が日本神話ともこれだけ似ているということは、大もとの神話がどこかに在ったことを強く示唆している。
 
 日本神話と南洋の島々

 かって日本神話の学問的研究が始まったころ、その源流が南洋の島々にあると信じられていた。事実、日本神話と話の基本構成を同じくするものが、南洋の島々から多数採集された。その様子を以下にまとめてみた。

 上の地図は古事記に出てくる神話と同根の神話が採集された地点を示したものである。
一目瞭然、太平洋の珊瑚礁の小島にまで日本神話に通ずる神話が残されていることがわかる。
 こういう神話学の分野と、柳田国男の“海上の道”など民俗学と、“港川人”などの人類学とが重なり合い結びついて、日本人の起源は南方にあるという常識が成立し、今もって多くの日本人が、そのように信じているのである。

  ハイヌウェレ型神話と犠牲の習俗

 何とも発音のし辛いハイヌウェレ(ココヤシの枝という意味)というのは、ドイツの人類学者アドルフ・イェンゼン(1899ー1965)が、インドネシアのセラム島の原住民ウェマーレ族から採集した神話の主人公の女神の名である。この話のあらすじは、

 こういう話である。これは上の表、古事記の中の神話のFのスサノオとオオゲツヒメの話に細部までよく似ていることが明らかであろう。またこれと同様の話が『日本書紀』ではウケモチやワクムスヒなどを主人公として語られている。
 日本神話だけではない。これらと殆どそっくりと言ってよいほどよく似た、いわゆる農作物起源神話は、インドネシアからメラネシア、ポリネシアにかけて太平洋を蓋い尽くし、且つ南アメリカから北アメリカの一部にまでまたがる、広大な地域に見出されるのである。
 イェンゼンは、このハイヌウェレについての説話の構成要素を“ハイヌウェレ神話素”としてとらえ、それが芋などの作物を原始的な方法で栽培してきた、熱帯地方の原住民、イエンゼン言うところの「古栽培民」の文化を母胎にして生まれたものだ、とした。
 その理由は、「古栽培民」の間にある、我々から見ると一見“奇異で不可解ともいえる習俗”のほとんど全てが、この「神話素」に照らしてみると、意味がよく分かるようになるから、という。
 吉田敦彦は次のように記述している。
---特にあるところでは人間を、別のところでは猪や豚などの動物を犠牲にして、その死体を切り刻み、一部を食べ、外は畑に撒いたり埋めたり、血を果樹の幹に塗ったりする、古栽培民の文化に特徴的な凄惨な殺害の儀礼は、イエンゼンが指摘したとおり明らかに、神話の語るハイヌウェレ的神格の殺害の事件を繰り返す意味を持つと思われる。---

 筆者には神話といわれるものの中に、汚らわしく且つ曲々しい話が多いのか、よく理解できない。しかし、おそらく、死とか病とか飢餓が、“生”と隣り合わせに在った原始の時代、排泄(生の原点)とかセックス(再生、豊穣)を美化せずに直視し、自然現象という荒ぶる神に恐れおののきながら生きていた、従って荒ぶる神を鎮めるためには凄惨な儀式も厭わなかった、神話とはそういう時代の人々が“言い伝え”たものなのであろう。

  土偶とハイヌウェレ神話素
 
 吉田敦彦は縄文中期以後、この列島で盛んに作られた土偶の形態や扱われ方などが、ハイヌウェレ神話素に結びつくと指摘する。
    1)まず土偶はすべてが女性像で、生殖器を強調した
  
 り、妊娠した姿であったり、赤子を抱いていたり、

 母神像であった可能性が強い。

2)しかも殆ど全ての土偶が壊された状態で出土して
 
 いる。すなわち“殺され”“断片に切り刻まれた”

 状態で出土するのである。

3)且つ、その破片を甕に入れたり、住居内に埋めた

 り、檀の上に安置したりして、丁重に葬られたと見

 られることがある。また同じ場所で出た破片を集め

 ても、完形に復元できることは滅多にない。すなわ
 
 ち“一つ一つ、別の場所に分けて埋められていた”

 (あるいは撒き散らされていた)のである。

  このように吉田は土偶とハイヌウェレ神話素とが

 ピッタリと一致しているというのである。
 同様のことは縄文農耕論で有名な藤森栄

一や精神世界の考古学的研究に尽くした水

野正好らも主張している。すなわち、土偶

を破壊することによって豊穣女神的な地母

神を殺し、その死体から作物などを生じさ

せる儀礼を実施していた、いわゆる“死と

再生”の観念を儀礼的に再現したものとい

える、と。
   
幸い縄文時代のこの列島で、ヒトを儀礼の犠牲にした痕跡は認められていない。出土した縄文時代の人骨から生贄にされたような傷跡はない。これは偏に土偶の存在のお陰かも知れない。
 しかし、この列島でも成年式や成女式などに、通過儀礼(子供がいったん死んで大人として生まれかわる)として、抜歯などの過酷な身体的苦痛をあたえることは盛行していたのである。
 
 このハイヌウェレ型の神話は『記紀』の伝承だけではなく、東北・北陸・山陰をはじめ日本全国に伝わる瓜子織姫の昔話や、山姥(やまんば)を主人公とする恐ろしい昔話や伝説として、現代でもこの列島の奥底に浸透しており、そういう神話を持った民族集団が流入し、神話の第一層、基層の部分を形成したということは確かであろう。

   水田稲作文化に随伴した神話

 雑穀や芋など縄文農耕に伴って流入したハイヌウェレ型神話が、インドネシアやメラネシアなど南洋の島嶼部を源流として考えられているのに対し、日本神話の多くの説話が中国南部からインドシナ、そしてインド東部のアッサム地方の伝説や民話に源を発している可能性が、大林太良をはじめ松本信廣や伊藤清司などから強く示唆されている。

 大林太良は、日本に近い江蘇省雲石山の三官廟の起源伝説を、日本神話の国生み神話と対比して次のように紹介する。

  大林は二つの話の共通性に加え更に重要な指摘をする。
 すなわち両方の内容の至るところに、水界との密接な関係が見られるというのである。江蘇省、浙江省という長江の両岸の地域から、イザナキ、イザナミ神話を携えて来た人々が、漁労民であった可能性が想定できると主張している。すなわち、
1)まず夫婦が最初に暮したのも、海に囲まれた島(オノゴロ島)においてであった。
2)二人の間に生まれた子(ヒルコ)を水上に流した。
3)夫は水中に入ること(イザナキの禊ぎ)を契機として三子を得る。
4)分治される三界のなかには水界(海原)が入っている。
5)三官伝説の場合、夫婦が離別するのも水上であり、日本の場合、分治領域に不満なスサノウは
  海原を割り当てられた神であった。
これほど水界を中心として話が展開するのは、日本でも浙江でも海人あるいは内陸の水人が担い手だったのではないか、と指摘しているのである。
 これは第3部-04項(初稿) で検討した、江南の稲作文化をもたらした人たちが「呉・越の民」とよばれ、水稲農耕を営むと共に、漁撈を盛んに営む人々であった、としていたことと一致する。

 そのほか日本神話の主要な部分と共通した話は次のような地域からそれぞれ採集されている。

 なかでもヤマタノオロチ退治の神話は、実は東は日本から西はスカンジナヴィアや西アフリカにまで及ぶ広大な地域に分布する、ペルセウスとアンドロメダ型と呼ばれる神話のタイプである。
 だが
大林太良は、広大なこの分布圏の中でも日本の神話はやはり、中国東南部から直接にか、朝鮮半島の南部を経由して、鉄器文化と結びついて伝播したものであろうと推定している。それは上図で示したように、浙江省の民間伝承にヤマタノオロチ神話とよく似た話があるからである。しかも妖怪の蛇がもっている魔法の武器が鋼の剣だったことになっており、これはヤマタノオロチが尾の中にクサナギの剣を隠し持っていたことと、明らかに符合する。

 以上の大林太良の指摘、それから上図の神話の分布が第4部-09項の
イネと稲作文化の伝播の図と酷似していることなどから、日本の神話の第2層が長江下流域からの、江南の水田稲作農耕文化を列島に持ち込んだ集団が、高床倉庫や鉄器技術などと共に持ち込んだものだと考えられる。
 そして同様に南部中国を起源とする伝説などが太平洋の島々にも伝播し、あたかも日本神話が南洋の島々に源流があったかのような、印象を我々に与えていたものと考える。

     

         
         
         

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