日本人の源流を探して      (敬称は全て省略しています) 


           第4部  邪馬台国から大和朝廷へ
 
     08-2.Y染色体から日本人の故郷を探る

     目次 (少し長くなりましたので目次を用意しました。) 

  1.  Y染色体の特性

  2.  mtDNAとY染色体がつくるヒトの系統樹

  3.  日本人のY染色体亜型の系統は?

 (以下について内容を更新 2011.02.04)

  4.  日本列島三民族のY染色体亜型の分布

  5.  日本列島に流入した多様な文化とY染色体集団の関連

   5-1.  (細石刃文化の流入経路と日本列島内の分布)

   5-2.  (O系統の拡散と水稲農耕の日本列島への流入)

  6.  Y染色体集団と言語集団の関係


 ・・・人類史を詳細に推論する上で貴重なツールであることが、最近実証された一片のDNAがある。人類の祖先がその流浪の旅路で辿った道のりを、これまでにないほどはっきりと見せてくれたのである。
 このDNAは父から息子にのみ伝えられるという意味で、父系のミトコンドリアDNAに相当する。ミトコンドリアDNAの研究で 明かされた母系統に対応する存在として、父系独自の血筋を規定しているのである。・・・(このDNAはY染色体と呼ばれる)
 これは「アダムの旅(スペンサー・ウェルズ)p77」の一節である。


 このサイトでもこれまで、Gm遺伝子やミトコンドリアDNA、HLA遺伝子などのいろいろな遺伝子分野から、 日本人の先祖の故郷を調べてきたが、ここでは、さらに「父系遺伝をするY染色体」から、日本人の祖先の旅路 に迫りたい。

  
Y染色体の特性

 上記のように、 スペンサー・ウェルズが「人類の祖先がその流浪の旅路で辿った道のりを、これまでにないほどはっきりと見せてくれた」というY染色体とは、どういう染色体なのか。
 染色体に、22種の常染色体とX,Yの性染色体があるのは、周知のことである。
 今世紀の初め大きな話題になったヒトゲノムプロジェクトは、この全ての染色体のDNA(デオオキシボリ核酸)を構成する“A,C,G,T”という文字(塩基)--全部で30億対(計60億文字)といわれるが--を読みとることであった。
 そのことによって、ヒトのもつすべての遺伝子情報、すなわちヒトの体をつくる設計図の全体像を明らかにしようという壮大な試みであった。そして、2003年4月、我々人類の全遺伝子情報が解読され公開された。
 京都大学大学院生命科学研究科・生命文化学研究室制作の「ヒトゲノムマップ」より次の項目を抜粋した。


  この表から判るように、これから調べるY染色体は、かなりこじんまりした染色体で遺伝子の数も少ない。(上表とは別に、篠田謙一の説では、遺伝子数は70ほどしかなく、また他の説では機能している遺伝子は21個でしかないともいわれる。)
 
     いうまでもなく、Y染色体の意義は、SRYと呼ばれる性決定遺伝子の存在であり、このSRYのみが“男性”を決定し得る。一方、遺伝子砂漠といわれるような、無意味な「がらくた文字配列(JUNk)」もY染色体のほぼ半分に認められる。Y染色体とはそういう染色体である。

 このY染色体が、現生人類の分化と辿った経路を、mtDNAや各種の蛋白質の多様性の分析よりも、これまでにないほど明確に示してくれるというのは、単純な理由による。
 それは、mtDNAの3,000倍(5,100万/16,500)もの文字配列を持っているからである。
したがって、Y染色体には過去に突然変異が起きたかもしれない場所が、mtDNAとは比較にならないほど多数存在するはずであり、それがDNAの変異や多型(多種類)などの形で蓄積されていることは、 
 (A)非常に安定していて長期的追跡が可能な変異
   a.文字(塩基)一ヶ所の突然変異 SNP(single nucleotide polymorphism)といわれる。
      b.(文字の)挿入
      c.(文字の)欠失
 (B)比較的早い変化を示す変異
   ・特定文字(塩基)の繰り返し配列 (STR:short tandem repeat あるいは microsatellite)の
    数の違い
 このような二つの時間的に異なる変異が蓄積され、それらを適切に使い分けることによってより詳細な分析が出来ることが、Y染色体分析の大きな利点ということが出来る、という。

  mtDNAとY染色体がつくるヒトの系統樹

 ミトコンドリアとY染色体が、それぞれのDNAを持っているという一点では共通しているものの、前者は核外の小器官のそれであり、後者は紛れもない核内の染色体の一つである。
 それらの全く出自の違うDNAに刻まれた痕跡が、現生人類の進化の軌跡や各地の民族集団への分岐、そしてアフリカ東部から南米大陸の最南端フエゴ島までの苦難の長旅を、仲睦ましい夫婦のように、イブとアダムが手を取り合って、同じ系統樹として示してくれるのだろうか。

 次の図は、mtDNAの解析から作成された系統図と、Y染色体のDNAから作成された系統図を並列して表示したものである。
 
    (注)mtDNAとY染色体の両系統樹の各グループに、アルファベットの記号が付られていて紛らわ
      しいが、互いには全く関係のないネ−ミングである。


1.mtDNA(母系遺伝)からも、Y染色体(父系遺伝)からも、全く相似の系統樹が得られることが、上
 図で確認される。
 これは、現生人類の歴史が一つしかないのであるから至極当然のことともいえるが、二つの異な
 るDNAからのアプローチの結果が、形は勿論、内容についても以下説明するようにほぼ一致して
 いることは驚くべきことである。

2.両系統樹とも、一番根元の集団はアフリカの集団であり、現生人類が間違いなくアフリカで起源し たことを、すなわち現生人類の「アフリカ単一起源説」を両方の系統樹が立証している。

3.mtDNAでは、L3から派生したMとNの系統が、Y染色体ではCRから派生したC,DE,FRの3系統
 が出アフリカを果したグループである。
 どちらの系統樹を見ても、一部の“男女”の小集団がアフリカを出て、長い旅路の結果、全世界に 拡散していったことを示している。

4.我々は、ユーラシア大陸や南北アメリカ大陸、オーストラリア大陸には、国や地域が多数存在し そこには、顔も体形も皮膚の色も様々な民族や人々が住んでいることを知っている。
 一方、遠く離れたアフリカの民族や集団のことを詳しく知らない我々は、彼らのことをネグロイドと して一括的に捉えがちである。
 
 
  しかし事実は、アフリカ大陸だけで、その他の大陸全てを包含したほど多様なヒトビトが居住して いることが、上の写真からも推察できる。
  また次の図は尾本恵一が、Y染色体とはまったく無関係の23個の(タンパク質)遺伝子データか ら遺伝距離を求め、分岐図に纏めたものである。
 アフリカが、暗赤色で広く囲まれ、ブッシュマンとピグミーとの遺伝距離は、実に“ヨーロッパ人と東 南アジア人以上の違い”に相当することが、この図から読み取れるのである。
     

 
  
日本人のY染色体亜型の系統は?

 上のY染色体の系統樹から、日本列島に分布する亜型を、解りやすく表示すると次のようになる。
 
 日本列島には、D系統を筆頭に、O系統、C系統と少量ののN系統、それに散発的にQやIが分布するが、これらはそれぞれ、出アフリカ3大グループに属している。
 このように出アフリカ3大グループから派生した、三つの系統が一つの地域に(すなわち日本列島に)ある程度の量的まとまりを持って分布するというようなことは、全世界的に見て非常に珍しいことだという。
 
 たとえば、ヨーロッパ地域は、極めてDNAの多様性の高い地域であるが、それでも出アフリカ3大グループのうち、二系統しか見られない。
 アメリカ先住民やシベリアはもちろん、大人口を持つ中国、現生人類拡散の重要な中継地であったインドなどでも、二系統しか見られないという。

 このY染色体のDNAからみても、mtDNAの場合と同様、日本人は単一民族などではなく、世界に冠たる多様性に富む集団であることが証明される。

 また、特にD2およびC1は全世界でほとんど日本列島にのみ存続している貴重な亜型であり、さらにNとOの共通祖型であるNO*が複数例まとまってみられるという、旧石器時代の極めて古い亜型が残存しているのも日本列島の特徴である。(次表を参照)
    

 他地域では維持できなかった高いDNAの多様性や旧石器時代の古い型のY染色体を、この日本列島が何故保持出来たのか。
 崎谷満は、次のように説明する。
1.ユーラシア大陸東部では、民族の存亡を賭けた凄まじい戦争の歴史が、DNA地図を大幅に塗り
 替えたが、日本列島ではそのような事態は現出しなかった。
2.日本列島の温暖で湿潤な気候が、豊かな植物相を提供し、大量の堅果類を栄養源として列島に
 居住する集団に供給した。
3.列島を囲む暖流や寒流の混交が、豊かな海を提供し、安定的なタンパク源としての海産資源を供
 給した。
 この2.や3.が、豊かな生活環境を提供し、この列島に住む人たちの系統を絶やすことがなかった。
4.大陸の混乱で難民化した人々が、日本列島に渡来したことでDNAの多様化が進む一方、渡来人
 も先住の人々も共に平和共存の道を選んだため、多様なDNA集団が列島に残ることになった。

 すなわち我々が住むこの日本列島は、本来食料資源が豊かで、住んでいる人々も平和を愛する、世界に誇り得る地域であり、そこには古い系統の多様な人々が現在も隆々と息づいていることを再認識したいと思う。

 
日本列島三民族のY染色体亜型の分布

 日本列島には、本土日本人と並んで、アイヌ民族と琉球民族が居住している。それらの民族集団は、それぞれどういう頻度でY染色体亜型を保持し、それは如何なる故郷からの旅路を示しているのだろうか。
 (筆者は改定前のこの項で、崎谷満の「DNAが解き明かす日本人の系譜(2005.08)」や「DNAでたどる日本人10万年の旅(2008.01)」の所論をかなり厳しく批判してきた。その後も、崎谷は精力的に論文をまとめ、「DNA・考古・言語の学際研究が示す-新・日本列島史-日本人集団・日本語の成立史(2009.08)」と題する、長い表題の大著をまとめて、世に問うている。これより以下の論考は、その本に沿って纏めたものである。)

 
次のグラフは、崎谷がHammer等のデータを引用して新たに提示した数値をグラフ化したものである。
  
(注:表記上の世界的取り決めとして、NO*という星印*は「NOの祖型のみが含まれ、既知の下位亜型は含まない。」ことを意味する。ただし、その他の様々な未知の亜型を含んでいる可能性が高いと考えられる。)

 このグラフから
1.日本列島に現在居住する各ヒト集団のY染色体亜型は、C系統、D系統、O系統の3大グループでほとんどを占める。さらにこれは、下位グループ、C1,C3系統、D2系統、O2b、O3系統の主要5系統によって構成されている。

2.アイヌは極めてシンプルなY染色体亜型で構成されている。北方系のC3とD2だけで構成されて
いるのである。
 これはアイヌ民族が、金属器時代以前の、すなわち旧石器時代から新石器時代(縄文時代)に形
成され、その後はあまり他集団と交わることがなかったことを示している。
 またこの亜型C3とD2の構成は、通説のように、アイヌ民族の祖先が本土日本人の基層と共通の集団であったとする説と矛盾しない。
 なお、現代アイヌのmtDNAに見られるY亜型のような、後世において大きな影響を受けた形跡は、このY染色体分析では見出せない。
 母系遺伝のmtDNAには大きく現れ、父系遺伝のY染色体には現出しないという現象は、これは全く筆者の憶測の域を出るものではないが、アイヌの男性がオホーツク文化圏の女性を娶るという形での、一方向的交流があったことを意味するのかもしれない。

3.青森、静岡、徳島、福岡のY染色体亜型は、いわゆる本土日本人のY染色体亜型と考えてよいだろう。その中で、先住系と考えられるヒト集団(D2系統およびC3系統)の比率が、現在でもほぼ4割を占める。一方、漢民族などの渡来系と考えられるO系統は約6割である。
 これは在地系4・渡来系6という形質人類学や考古学からの知見、日本人形成の混血説の常識に
によく一致している。
 しかし、C3系統、D2系統共北方系の染色体であり、埴原の縄文人=南方島嶼部人という説とは相容れない。
 また、金属器時代以降に流入したと想定される、渡来人系のO2b亜型やO3亜型は、いずれも華北をホームランドとして華中や長江流域に広がり、あるいはその華北の地で勢力を増したY染色体である。
 したがって、本土日本人のY染色体の解析からは、南方系起源のヒト集団の影を見出すことは殆どできないと言っていい。

4.琉球の集団は、Y染色体亜型からみると、日本列島中央部やアイヌ民族とはやや異なっている。
すなわち、北部琉球の集団は、インド集団から直接分岐し、北ルートをとって九州に流入したと推測されるC1系統が若干認められる一方、アイヌなどが持つシベリア起源のC3系統をまったく欠いている。
 アイヌ民族にとってC3系統は、割合はそれほど高くないが、旧石器時代から細石刃文化を伴って流入し、保持してきた主要なY染色体亜型集団である。
 したがって、琉球の集団とアイヌ民族とが、従来説(下図)のように同系ということであるならば、           
C3系統が琉球の集団から消滅した理由を明らかにする必要がある。
 たとえば、琉球の亜熱帯気候の中で、北方系のC3亜型グループは不幸にして子孫を残せなかったということかもしれない。
 一方、アイヌと琉球の集団とは元々同系ではなかったかもしれないという推論も、このY染色体の
解析からは充分あり得るであろう(筆者は此の説である)。

 さらに、次のグラフのように、南部琉球のY染色体亜型の構成は、ブルーのO2b系統が67%と突
出する一方、緑色のD系統はわずか4%しか認められず、アイヌや日本列島中央部は勿論、北部
琉球とも大きく異なっている。
   
 また、近距離にある台湾の先住民はO1亜型の世界最大の集積地であるが、南部琉球ではこのY染色体は全く認められない。すなわちY染色体の解析からは、南部琉球と台湾先住民の間には、何らの近縁性も認められない。

 この南部琉球の民に関するY染色体からの結果は、Gm遺伝子解析の結果と対照的である。
  1)アイヌ民族と南部琉球民が、異質であるというY染色体からの結果は、Gm遺伝子からの結果
   −すなわち、アイヌと南部琉球民とは同系−とは明らかに相違する。
  2)南部琉球民と台湾先住民との間に、Y染色体亜型の共通性が全く認められないという結果は
   Gm遺伝子において“断崖絶壁”のような隔絶があるという結果と非常に良く符合する。
   
 Y染色体の解析からもGm遺伝子の解析からも、旧石器時代極寒期において東アジア大陸の一部となっていた台湾地域から、琉球弧列島に沿って北上したヒトは少なくとも現存していないという結論が導きだされる。

 日本列島に流入した多様な文化とY染色体集団の関連

 崎谷満は、従来からY染色体亜型の研究と日本列島に流入した文化(考古学の知見)や諸言語との、学際的研究に意欲的である。
 筆者はこれまで、彼の意欲や考え方は壮とするものの、内容において特に考古学の知識が極めて不十分であることを指摘してきた。
 それがこの「新・日本列島史」では、かなり修正されている。
 たとえば、崎谷が従来提示していた、「D2亜型が12,000年前華北から流入し縄文文化をもたらした」というような荒唐無稽の論考は姿を消した。

 次の表は今回崎谷が新たに提示した、Y染色体集団とそれらがもたらした文化との関係である。
  

1)Y染色体D系統は、出アフリカ後ユーラシア南部から中央アジアを経てシベリア南部に達する北ルートを採った。それは今でもアルタイ・サヤン地域にD系統の祖型であるD*(除くD1,D2,D3)が観察されることから確かである。
 
 他の系統がさらに北および東へ進んだのに対し、D系統はここからはむしろ南下し、チベットに達し、さらに東南アジアへ至る。
 しかしその一部は日本列島に達して、現在でも日本列島の主要な集団(D2)を構成している。

 筆者の推測では、このD系統はO系統が勢力を伸ばすまでは、チベットはもとより東アジア全体に広範に分布していたのではないかと考える。
 そして華北辺りでD2が発祥し、朝鮮半島を経て日本列島に達し、現在まで脈々として大集団を形成しているのではないかと思われる。
 その後大陸では、O系統が中国大陸の大半を占有するようになって、D系統はその圧迫を受け、チベットや中国南部・東南アジアなど周辺部に押し出され、分布するようになったと考えられる。
 大陸や朝鮮半島に残っていたはずのD2亜型も、いまや朝鮮半島に散見されるだけで、日本列島に本格的に残った以外は消滅してしまったらしい。
  

 このD2亜型の動きに相応する文化は、加藤晋平によれば華北型の石刃石器文化であり、日本列島への伝播は35,000年前頃である。一方、D2亜型の分岐推定時期は、先に掲げた表にあるように37,700±2,200年前であるから、時期的にも矛盾はない。
 石刃技法は、現生人類がアフリカで発明し、出アフリカ以後全世界に伝播したもので、旧来の原石そのものから石器を作るか、原石から石片を一つ二つ打ち欠き、その剥片を加工して石器(剥片石器)を作るのに較べ、はるかに生産性の高い石器作成技術であった。
   
 その技術を持ってD2亜型集団は、「最初の日本人」になったと思われる。
  加藤晋平の模式図によれば、次の「赤枠で囲んだ文化」である。
 

2)その後日本列島では、石刃の鋭い縁辺を刃とし、他の辺に刃つぶしを施したナイフ形石器と呼ばれる石器文化が細石刃文化が到来するまで長期に亘って続く。
 小田静夫は、20,000年前までをナイフ形石器文化期T、それ以後を文化期U(参考)と区分しているが、20,000年前ごろのこの日本列島は、大きく二つの文化圏(より詳しくは五つのブロック)に分かれていた。
  
 現代に続く日本列島の東西の文化の併立は、既にこの旧石器時代に発祥していたと考えねばなるまい。
3) D2亜型に続いて到来した、Q亜型、C1亜型やNO*亜型が、こうした地域別文化の発生やナイフ形石器の発展に、どう関わったかは必ずしも明らかでない。
 .
 したがって推測の域をでないが、Q系統は、シベリア南部からシベリア東部に達し、将来ベーリング陸橋を渡ってアメリカの先住民となるY染色体亜型のグループであり、その行程の間にその内の一部の小グループが南下して日本列島に到達した可能性は十分考えられる。
 とすれば彼らは、シベリア型の石刃技法を持ち込んだものと思われ、それが九州・四国から本州全体に広がっていた華北型の石刃技法に影響を与え、地域別に異なった技法が生じたかもしれないという推測は許されるであろう。

 C1亜型は、インド集団に今も認められる祖型C*から、SNP(文字一ヶ所の突然変異)マーカーM8でもって直接分岐した下位亜型である。
 崎谷満は、C1はC3と共に北ルートを採って中央アジアに達し、そこから華北経由で九州に達した可能性が高いと主張する。しかし現在では、このC1亜型は日本列島でしか認められていないため、移動ルートや彼らの文化は不明というより他ない。

 NO系統は、34,600±4,700年前ごろ華北で発祥し、N系統とO系統の共通祖型となったと推定される。そのうちNO*,N1*などN系統が旧石器時代に日本列島に到達していたと考えられる。九州や西日本ではNO*という古い亜型が、世界的に見ても相対的に高い頻度で見られるからである。
 このNO*の集団が、D2より後の華北文化と関連する石刃技法ないしは細石刃技法を日本列島に持ち込んだ可能性は十分考えられよう。
 
 いずれにせよこれら多様な集団の、あるいは幾波にも亘った流入と、日本列島内でのおそらく絶えまない改善の積み重ねによって、石刃技法は高度な域に達し、日本独特のナイフ形石器文化時代を築いたのであろう。

4)ここで問題なのは北海道地区である。上の分布図でも点線で別扱いとなっている。
 それは、この北海道地区に現生人類が住んでいなかったわけではなく、日本列島独特のナイフ形石器が欠如しているという意味で、これまで別扱いされてきたのである。
 この考古学の知見が正しいとすれば、北海道と本州以南の地域には別々の異なる集団が流入した可能性が強いことになり、アイヌ集団が現在でも高い割合で保持しているD2亜型が何処から来たものか、どのルートで流入したものか説明がつかない。
 しかし最近北海道でも、ナイフ形石器を伴う遺跡の発掘が増加しているという。今後の発掘がその辺りの事情を明らかにしてくれるであろう。

  (細石刃文化の流入経路と日本列島内の分布)
  2万3000年〜2万年前頃、バイカル南部で新たに細石刃技法と呼ばれる画期的石器製造技術が開発されたが、その栄誉を手にしたのはシベリア南部のアルタイ・サヤン地域で発祥したY染色体C3亜型の集団であったと考えられる。
  
 この細石刃技法伝播の流れの一つは、バイカル地域からアムール川流域へ、さらにサハリンを経て2万年前頃、シベリア系の楔形細石刃核いわゆる湧別技法の細石刃文化が北海道に至った(青色→)。
 この細石刃文化が、13,000年前頃(較正年代では15,000年前ころ?)になるとドッと本州へなだれ込んで来るのである。そして東日本には荒屋型彫器を伴う楔形細石刃核の文化が展開する。
  もう一つの流れは、アムール川流域から中国東北部を経て華北へ至る流れである(緑色→)。
その伝播の影響によるものか或いは独自に開発されたか解らないが、華北においては先行する石刃文化の後、半円錐状・角錐状細石刃核による細石刃技法(野岳・休場型細石刃核)が出現する。 
 
 九州・西日本には、この半円錐状・角錐状細石刃核による細石刃文化が先行して流入し(緑色→)、遅れてアムール川流域から中国東北部・朝鮮半島を経て、直接九州へ荒屋型彫器を伴わない楔形細石刃核による西海技法・福井技法の細石刃文化が伝わった(赤色→)。
 北海道へ向かった流れと同じ流れの一派であるが、シベリアに隣接し地続きになっていた北海道よりもかなり遅れて九州に到達したことになる。

 細石刃文化を担ったと考えられるY染色体C3亜型が、アイヌでは13%、九州では8%と全国平均の2%にくらべ比較的高い頻度を示すのは、以上のような考古学上の知見を裏付けているのかもしれない。
 これは、松本秀雄が説く、“Gm遺伝子ab3stがバイカル湖を起点として日本列島へ流れており、
バイカル湖が日本人の原郷である”という説とも合致する。

 この北方からの細石刃文化の影響は、考古学の知見では大変強かったことが知られている。それは、それまでの長期に亘る東日本のナイフ型石器文化を短期間に駆逐してしまうほどであった。
  ただ、これだけ急激な文化的影響を与えておきながら、この細石刃文化は、土器が発明される縄文時代に入ると、掻き消すように日本列島から消滅する。(沿海州など大陸では、土器発明後もしばらくの間、細石刃文化が残ったが。)
 それは現在の、このY染色体のC3亜型の頻度が示すように、バイカル湖からアムール川流域を経て、北海道に細石刃文化を持ち込んだ集団の規模が、考古学的、文化的影響から感じられるほどには、大きくなかった結果なのかもしれない。

   (O系統の拡散と水稲農耕の日本列島への流入)
  土器の出現後、すなわち新石器時代に入って、しばらくは野生種の採集というステージが続いたが、東アジアにおいては比較的早い時期に、華北では雑穀(ミレット)農耕(約7,000年前・・・新楽文化)が、華中・長江流域では水稲農耕(約9,000年前・・・彭頭山文化)が始まった。

 崎谷によれば、華北の雑穀農耕を担ったヒト集団は、その後漢民族として拡大していく集団、すなわちY染色体O3亜型、特にO3a3cと関連する集団であるという。
 また華中・長江流域の水稲農耕は、多様な集団すなわちモン・ミエン系(O3c3bと関連)やタイ・カダイ系(O1aおよびO2a)が当初担っていたと考えられる。
 しかし彼らは、北方から漢民族の侵略を受け、中国南部や更に南の山岳地帯、雲南省や台湾方面に追いやられる。
(下図は漢民族の圧迫をうけ中国大陸南部の山岳地帯に追いやられた諸語族の現在の分布状況である)
  
 
 またその一部は、山東半島を経由して朝鮮半島南部(O2b)から九州(O2b)に、或いは長江流域から直接九州(O2b)に波及した。
 弥生時代、九州や西日本に水稲農耕技術を伝えたのは、このO2b亜型集団であったことはまず間違いないであろう。
 
 以上、Y染色体と文化の関係について纏めたが、崎谷自身も指摘しているように、縄文前期に確かに伝播していたと思われる照葉樹林文化については、その担い手がどういうY染色体集団であったか明らかではない。
 要するに、日本の重要な基層文化を担ったY染色体集団が未だ解らないのである。
 (筆者には、福岡や徳島、静岡各地で低頻度ながら検出されているO2a(およびO1a)が、照葉樹林文化の担い手ではなかったかと想像しているが、これは単なる推測でしかない。)

  Y染色体集団と言語集団との関係

 崎谷は、Y染色体集団と言語集団との関係についても意欲的に取り組んでいる。
次の表は崎谷がまとめて提示しているものである。
(現在の主な分布に、日本列島だけか乃至は日本列島が含まれる場合は、Y染色体亜型は薄緑で、そうでない場合は薄黄で色分けしてみた。)
  
  このように分類してみると、薄緑のY染色体亜型の集団は、NO*,N以外どんな言語を使っていたのか推定出来ていない。
 また、薄黄に分類されたY染色体の言語についても、 崎谷は、日本列島におけるY染色体亜型の頻度が低いことから、日本語の形成に関与したとは考えられないとする。

 たとえば、日本語の語彙が母音で終わるという特徴から、オーストロネシア系言語の影響を受けたとする一般的な考えに対し、O1a亜型の頻度が0〜3.4%と僅かであることから、オーストロネシア系言語が日本語の成立に関わった可能性は極めて低いと論じる。
 また、一般に日本語文法のベースになったのではないかといわれるトゥングース系言語についても、北海道に入ってきたC3亜型がプロト(原)アイヌ語と関連する可能性が高いとか、朝鮮半島経由九州に入ってきたC3亜型が朝鮮語の成立に重要な役割を果たしたという一方、九州に入ってきたC3集団の言語は全く不明であると、論理矛盾したことを記述している。

 また、日本列島中間部で31.9〜33.2%を占めるO2b亜型集団が、長江流域から直接九州へ或いは朝鮮半島を経由して九州に水稲農耕文化をもたらした。
 
 崎谷は、これは2,800年前〜3,000年前の出来事であり、言語学的に十分に信頼できる比較言語学的資料が入手できる範囲であるという。
 すなわちO2b集団が、朝鮮半島や日本列島の言語に影響を与えていたとすれば、朝鮮語と日本語を比較言語学的手法で関連性を証明できるはずだと言っているのである。

 ところが言語学的にみて朝鮮語と日本語が同系であるとは言えない、というのが言語学の常識である。(かって、万葉集が韓国語で読解できるという本が出たことがあるが)
 これは日本列島においても朝鮮半島においても、O2b亜型が高い頻度を示しているにもかかわらず、すなわちO2b亜型が影響力の大きな集団であったにもかかわらず、日本語や朝鮮語の形成には関与していないことを示唆している。
 崎谷はこれについて、渡来してきた彼らが日本や朝鮮の地で、自分たちの固有言語を喪失した蓋然性が高いとしている。

 こうなると必然的に、プロト日本語をもたらしたY染色体集団は、D2亜型集団をおいて他にないことになる。
 崎谷はそうした判断から、上表のようにD2亜型集団は“九州語”なるものを使っていたはずだ、そしてそこから琉球語や日本語が派生したとしたのであろう。
 もしこの想定が正しいとすると、日本語のルーツは35,000〜36,000年前から九州で使われていた言語ということになる。大変雄大で楽しい結論ということになろうか。
 
 筆者は、崎谷満のY染色体と言語を結びつけようとする努力は多とするが、上表のごとく不明な点や論理矛盾が多過ぎ、「日本語の成立史」を論ずるのは、まだまだ無理があると言わざるをえないと考える。