日本人の源流を探して         (敬称は全て省略しています) 

            第3部 弥生文化と渡来人の登場

04.長江中・下流域からの直接の渡来

水田稲作農耕が朝鮮南部から渡来伝播したと、特に考古学の分野から強く主張された。
それは長江中・下流域で起源した稲作農耕が、山東半島から西朝鮮を経て南部朝鮮、北部九州に伝播するという、いわば回り道をしたコースであった。
 しかし長江中・下流域と西日本とは、照葉樹林文化を共有し、6,000年前には縄文稲作が直接に伝播した、という先史を持っていたはずである。

 日本のイネの中に朝鮮半島にない遺伝子があった

 水田稲作農耕の長江中・下流域からの直接伝播の可能性を指摘したのは、イネの遺伝子に詳しい農学者佐藤洋一郎である。
 佐藤が、大阪の池上曽根遺跡や奈良の唐古・鍵遺跡から出土した、2,200年以上前の弥生米のDNA分析を行なったところ、朝鮮半島には存在しない中国固有の水稲の品種が混ざっていることが分ったという。
  佐藤によると、イネのDNAの文字(塩基)列が有用な遺伝子を意味せず、無意味に繰り返す領域、いわゆるSSR(Simple Sequence Repeat)領域のうち、RM1という場所にa〜hの8種類(多型)があるという。
 日本の在来種105品種には、この種類が少なくa,bとわずかの c の3種類があるのみである。
  これが中国では90品種の中に、すべて8種類
   
が存在し、朝鮮半島では55品種の中に、bを除く7種類があるという。
 すなわち、日本で一般的な、b遺伝子をもつイネは、朝鮮半島には存在せず、中国大陸の品種に存在する。
 したがって、日本のb遺伝子をもつイネの品種は、直接中国から渡来した品種に違いないというのである。
 考古学が“短粒米”という米の単純な形状の一致をもって、南部朝鮮からの渡来の一つの重要な根拠としてきたが、遺伝子レベルで詳しく調べると、実は朝鮮半島にはない品種が日本に在った、という鋭い指摘を受けた形なのである。

 こういう知見を得た上で、中国大陸からの水田稲作農耕伝播の痕跡を調べてゆこう。

  環壕・ 環濠集落は何処から伝播してきたか

 この弥生時代研究のベーステキストとさせて頂いている「日本の歴史02 王権誕生」の寺沢薫は、この環壕・環濠集落の研究に並々ならぬ意欲を示している。寺沢の記述を地図化したのが次の図である。(勿論、作図の責任は筆者にある
    
 寺沢は、環壕(土偏のほり)と環濠(水偏のほり)を峻別して考えるべきだとする。
@環壕集落のルーツは、内蒙古自治区赤峰市の興隆窪遺跡だという。
 ここから環壕集落の文化は、南下して黄河流域の半坡遺跡に伝わり洗練された。外壕にはコ
 の字状の突出部(ここに物見櫓があった)を持ち、また中心部に内堀が存在し、中には長方
 形の大型建物があるという。まさに吉野ヶ里遺跡を初めとする、弥生の環壕集落のコンセプ
 トがすでに6,500年前のこの遺跡に見出せるという。
  この環壕文化は山東半島や北部朝鮮を経由して、北部九州に伝播する。 
  寺沢は、内蒙古をルーツとし、黄河流域を各地への伝播の出発点として、北部九州に到る
 このルートを、東方ルート(上図 青→)と呼んでいる。

A次に寺沢は、内蒙古から黒龍江省や吉林省など中国東北部を経て、沿海州を経由、北海道か
 ら東北地方に到るルート、北方ルート(上図 黒→)が存在したとする。
 しかし、東北地方の地蔵田B遺跡などの木柵で囲う環壕集落は、松菊里遺跡でも大きな木柵
 跡が発見され、北部九州から伝播したという説もあり、ここでは深く立ち入らないこと
 としたい。日本人の起源に顕著な影響があったとは考えられないからである。

B第3のルートは、長江流域からの南方ルートである。 このルートの“かんごう”は「水濠
 の環濠」である。
 濠に水をたたえる環濠集落という、集落設計や築造上の思想が、弥生前期の後半になって有
 明海沿岸になだれ込んできたと、寺沢は言う。南部朝鮮からの土偏の環壕集落より、やや遅
 れて水偏の環濠集落が北部九州に伝播したというのである。
 それは上の地図(赤丸)で示したように西日本の平野部に一挙に広がった。  
 右の写真は、代表的な多重環濠集落、平塚川添遺跡の景色である。
 河川に接して低地に集落を営み、広大な水濠で集落を囲むという「環濠集落」の様子が 
   
がよく分かる。
 環濠集落のルーツは、長江中流域の稲作地帯にある。その一つ、城頭山遺跡の環濠は径325
    mの正方形で四方に門跡があり、中央には建物の基壇まである。環濠の幅は35mに及ぶという。5,000年前という遺跡の、その規模の雄大さに驚く。
(上の写真は、弥生時代に平行して存在した中国・長江下流域の環濠集落の例)
 
 寺沢薫は、ここで弥生文化について重要な規定を試みている。原文を引用しよう。
・・・私は弥生時代の水稲農耕文化の構成を、落葉樹林型と照葉樹林型の二つの重なりにあると思っている。前者は、環壕集落や雑穀畑作と共存した水田稲作をはぐくみ、朝鮮半島南部から玄界灘沿岸に伝わり、弥生文化の骨子となった。後者は照葉樹林帯を貫いて一歩遅れて伝播した水稲主体の文化で、親水性の強い環濠集落をともない、弥生文化の肉になったといってもよい。(「王権誕生」p65)・・・  
 筆者もこの考えに賛意を表したい。と同時に、水田稲作文化をこのように捉えられるとすると、朝鮮南部や山東半島からの渡来ルートとは別の、長江中・下流域、江南ルートの渡来が推測されるのである。

  石包丁の系譜

 以上の寺沢薫の環壕・環濠集落の見解に対し、九州大学の西谷正は、「環濠集落の源流を探る」(福岡からアジアへ3 文明のクロスロード・ふくおか 地域文化フォーラム実行委員会編)のなかで、注目すべき指摘をしている。(p64)
・・・日本における低地性環濠集落は、現在のところ、弥生時代前期から出現している。ただし、それは北部九州ではなく、近畿地方の奈良県磯城郡田原本町の唐古・鍵遺跡で、この遺跡は、奈良盆地の中央部に位置し、初瀬川と寺川に挟まれた沖積地に立地する。

 弥生時代前期初頭〜中葉には、北・西・南三地区の微高地上でそれぞれ集落形成がはじまっている。この時期に北地区の居住区北辺を区画する大溝は検出されているが、三つの集落がそれぞれ環濠で囲まれていたかどうかはっきりしていない。ところが、前期末になると、北・西・南の三地区のそれぞれに環濠が一ないし二条めぐらされるようである。・・・
 こう指摘した西谷は、唐古・鍵遺跡が、旧甘木市の平塚川添遺跡や福岡市の雀居遺跡などの、北部九州の環濠遺跡に先行している、と言っているのである。
 すなわち、長江中・下流域から北部九州を飛び越えて、環濠文化が直接近畿地方に伝播した可能性を指摘していると考えられる。
 これを裏付けるデータが、皮肉にも寺沢が提示している、石包丁の形式別分布にある。
  
 北部九州には、明らかに南部朝鮮の形式の石包丁が伝播している。しかし長江からの大型の石包丁は、近畿で見出されるが、北部九州にはない。(上図赤線は、筆者が加筆したものである。)
 これは西谷正が指摘する、唐古・鍵遺跡が、長江から環濠文化が伝播した遺跡であることを裏付ける資料かもしれない。
(なお、次の記事から、大型石包丁が近畿、北陸地方で出土していることが読み取れる。)


  貯蔵穴から高床式倉庫への移行

 水田稲作が伝わり、コメが収穫されるようになると、当然それを貯蔵し保存しておかねばならない。板付遺跡の例からみて、弥生初期には、水はけのよい土地を選んで、口が狭く底の広い穴倉(袋状貯蔵穴)を使っていた。壺に入れた食物を、梯子で上がり下りして底や棚に収蔵
していたとみられる。
 
 
 もともとこの列島では、ドングリやクリ、クルミなど堅果類を貯蔵する方法として穴倉を使
っていた。右の写真は三内丸山遺跡の縄文中期の貯蔵穴である。左右に柱穴があるところを見ると、板付遺跡のそれと同様、何らかの覆いがあったのであろう。
 しかし考古学者によれば、弥生時代の貯蔵穴は縄文以来のものではなく、寒く乾いた中国華北地方の貯蔵法が南部朝鮮を経て、それが稲作文化の一環として伝わったものという。
   
しかし、湿気の多い日本列島では、縄文時代においても貯蔵穴が最善の方法だったかは疑問である。事実、三内丸山では貯蔵穴のほかに、掘立柱建物が数多く見つかっており、これも倉庫の役割を担っていたと考えられる。おそらく、貯蔵対象物によって、使い分けていたのであろう。
     弥生時代中期以降、イネの貯蔵施設は貯蔵穴に代わって、高床の穀倉(高倉)が主流となる。
 この高床倉庫は、江南地方から雲南にかけてひろく分布し、しかも朝鮮半島ではその遺構がまだ発見されていない。
 したがって、高床倉庫は長江中・下流域方面から直接、水田稲作技術とともに日本列島に伝来したと考えられるのである。
 最近盛んに出土する縄文時代の掘立柱建物
  
との関連が、これまでのところ明らかではないが、稲穂の貯蔵に関しては一度貯蔵穴に移行したという経緯があり、高床倉庫は江南の稲作文化として、新たに直接渡来したと考えるほうが妥当であろう。
  
 最古の大型建物・弥生宮殿

   
高床式の建物は、高床倉庫だけではない。
 吉武高木遺跡(吉武遺跡群)は、早良平野を貫流する室見川中流左岸の扇状地にある。
 1984年度の調査で弥生時代前期末〜中期初頭の金海式甕棺墓・木棺墓等11基より銅剣、銅戈、銅矛の武器(11口)、多鈕細文鏡(1面)、玉類多数(464点)が出土した。
 これらの墓地の周辺には同時期の集落が広がり、吉武高木遺跡の東50mからは12×9.6mの身舎(もや…家
   
屋の主体をなす部分)に回廊をめぐらした掘立柱建物の柱穴が発見され、「高殿」の可能性が指摘されている。
     左の写真は、建築家・若林弘子が出土した柱穴の配置から復元したものである。
 若林は「福岡からアジアへ1 弥生文化の源流を探る」のなかで、稲作と高床式住居と題し、次のように述べている。
 日本人の住まいには「床」
がある。つまり高床式住居で暮らし、し
かも床の上で履物をぬいで起居している。住まいは、ひたすら洋風化したが、この習慣は牢固として変わらない。
 もともとこの列島は、縄文時代は竪穴住居という土間式住居であった。それが弥生時代、稲作に伴って「高床式住居」が持ち込まれ、二系統の住居が並存した。そして、今現在、住まいに限ってみれば、ほとんどが「高床式」である。
 東アジアや東南アジアの住文化を「床」という概念で捉えると、
   @揚子江=稲作=高床式住居 と A黄河=畑作民族=土間式住居
という、太い二筋の流れがある。そして、@筋の流れが、稲作農耕文化と共に日本列島に入ってきたということである。と若林は説明する。

 一方、同書のなかで、朝鮮の歴史や文化に詳しい西谷 正は、朝鮮半島の西南部、全羅南道の無文土器時代中期の長川里遺跡から、新しい発見として松菊里型住居跡と共に、掘立柱建物跡が発見されたことを紹介している。
 そして、「ひとくちで弥生時代の大型建物といっても、朝鮮半島の無文土器時代における掘立柱建物と、楽浪郡の楼閣建築の二者を念頭において考える視点が必要である」と指摘している。
 すなわち、西谷は、弥生時代の掘立柱建物は朝鮮半島から伝えられたというのである。

 
   
筆者はこの西谷の考えに反対である。長江の稲作文化が朝鮮半島にも伝わり、その中に掘立柱建物が、含まれていたとしても不思議ではない。
 しかし、それがさらに日本列島に伝わったとすることは、稲作文化の伝播をあまりにも朝鮮半島に限定し過ぎているのではないかと思う。
 筆者は、若林弘子が言うように、揚子江=稲作=高床式住居という一塊りの文化が、長江中・下流域から日本列島に伝わり、その過程で一部は半島のほうにも届いたと考えるほうが、はるかに自然だと考えるからである。


    甕棺墓の源流は長江中流域か

 筆者はかねがね、弥生時代、北部九州でのみ盛行した甕棺墓に関心を抱いてきた。
 そして、北部九州自生説 に対し、長江中流域に源流があるのではないか、稲作文化とともに伝播したものの、他地域まで広がらなかった棺(ひつぎ)の形式ではないかと考えてきた。
 これから
歴博の藤尾慎一郎の論文と文明のクロス

ロード・ふくおか 地域文化フォーラム実行委員会

編「福岡からアジアへ2 かめ棺の源流を探る」か

ら、学んで行きたい。
   
次表や地図は、藤尾がweb上で提示しているものである。
    

 藤尾は、甕棺の発生時期を刻目突帯文という、早い時期に設定しているが、一般的には伯玄
社式乃至金海式土器の時代からといわれている。 
 そして、甕棺墓の文化は、北部九州の極めて限られた地域で、弥生前期後葉から弥生後期初頭までの限られた期間、盛行した文化であることが分
 
   
かる。
 この甕棺墓は、朝鮮南部から弥生早期に水田稲作文化が伝播してから、やや遅れて発生したことが明らかである。これは水偏の環濠集落が北部九州に伝わった時期に符合する。まさに長江流域から直接、RM1-b遺伝子を持つ種籾などと共に、甕棺の風習が伝わった可能性が想定されるのである。

 次表は長江流域や黄河流域、すなわち中国の古代文明地域における“ひつぎ”の変遷の様
子を纏めたものである。
 いずれの地域でも、土器棺すなわち日常の土器を棺に転用した形態が見られる。
 古代中国の文化に詳しい小南一郎によれば、幼いまま生命を失った子供は、祖霊の世界に帰ることが出来ず、住居近くの土器棺に納められて、ふたたび母親の胎内にもどって生まれかわるという観念に基づく、という。
 縄文時代の日本列島でも、幼児の遺体を土器棺にいれて、竪穴住居の出入り口などに埋めることによって、死ん
   
だ子供の魂をいつも身近に感じて、次の新たな生命の再生を願ったり、新たな生命を母親の胎内に戻すというような観念、埋甕(うめがめ)の風習があった。
 人間の、あるいは親というものの、子供に対する思いには、中国においても日本列島においても、共通した観念があったのであろう。さらに推量を逞しくすれば、大陸とこの列島の交流の過程で、同じ思想やそれの具体的埋葬方法が出来上がっていたのかもしれない。
 
 中国でかめ棺が見られるのは、上表の黄色部分、すなわち長江中流域の屈家嶺文化から石家河文化期である。
       
 石家河遺跡では、70基あまりの土器棺が発掘され、その3分の2が成人を埋葬したものであった。しかも多くの墓に精巧な彫刻の玉器が副葬されていた。
 その中の最大の土器棺・6号棺は、大型のかめ形土器二つを半分に切って、下半分を二つ、合わせ口にしたものであり、片方の高さが約50センチ、口径が約60センチ、棺内から56点もの玉器が出土したという。
 大きさは北部九州の城ノ越期の甕棺の器高に匹敵し、且つ大人の屈葬であった。
  これは土器棺というより、まさに甕棺であり、日本の研究者は、大人の一次葬用の可能性を指摘する。
 しかし、中国側の研究者によると、この土器棺には指などの小骨が欠落していることか
   
ら、二次葬と考えているという。

 文明のクロスロード・ふくおか 地域文化フォーラム実行委員会のパネルディスカッション
「墓制の変容から見た国家の発生」の中で、金関 恕は、結論を次のように纏めている。
・・・中国で揚子江の中流域に発生し……歩みを重ねた墓制の一つにかめ棺墓があって、そのかめ棺墓の、かめ棺の造り方、利用のしかた、終わり方、それが広がっていく地域の広さ、そういう発生、発展を見ても副葬品を見ても、北部九州のそれと大変似ている。時代はずいぶん隔たっています。地域も隔たっている。しかし文化段階といいますか、歴史の歩みからいえば、ほぼ同じ段階にそうしたものが発生し、一方は新石器時代ですが、同じような歩みが九州にもう一度繰り返されている。・・・と。

 しかし筆者は甕棺墓が、造り方や利用の仕方などの具体的なセットとして、長江方面からの稲作文化の中に含まれて伝播したと考えることは、時代の隔たりや形状の違いから推測して、はなはだ難しいと思う。
 むしろ、祖先崇拝の思想やそれを具体化した墓制が、概念として稲作文化の中に含まれていて、北部九州にもたらされたということではなかろうか。それは十分あり得ることと考える。
 そう考えることによって、甕棺が縄文土器から弥生土器の系譜の中から、自生的に生まれてきたという研究結果とも、矛盾することなく説明できると思うのである。

 ここでは寺沢薫のいう“弥生文化の肉”となった、中国それも長江中・下流域からの水田稲作文化の伝播の痕跡を
  ・イネの遺伝子
  ・水偏の環濠集落
  ・石包丁
  ・高床式倉庫
  ・高床式大型建物
  ・甕棺墓
と、多岐にわたり調べた。
 そして、筆者はかなりの確信を持って、水田稲作文化が、朝鮮半島からの到来だけの一本道ではなく、長江中・下流域からの伝播もあったと言い切れると思う。
 縄文時代の照葉樹林文化の伝播に加え、水田稲作文化の到来という二重の影響が、魏志倭人伝が記す北部九州や広く西日本地区の習俗が、中国江南地方の習俗を髣髴とさせること、現代日本語にもオーストロネシア語をはじめビルマ語など南方の影響が無視できないこと、モチをはじめ、(麹)酒、味噌、(ナレ)寿司や高床家屋、履物を脱ぐ習慣、鵜飼の伝統など日常的な生活文化に現在も残る深い影響を与えたと考えられる。
 それはとりもなおさず、この地域から、多くの渡来人がやって来たに違いないことを、信じさせるに十分である。

 
 

     

         
         
         


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