日本人の源流を探して-3     

 

 

   03.水田稲作時代の始まりと渡来人    

 

 

     

 

 

        
 

 4000年前と3000年前に襲った寒冷化が世界の歴史、東アジアの歴史に大きな影響を与え、日本列島でも縄文文化の崩壊を招いたことを述べてきた。
 そして弥生時代の萌芽は南朝鮮からの水田農耕稲作の導入という形で始まった。
 ここで第2部-4節で示した図「畑作牧畜民の南下と稲作漁労民の逃亡 」を少し変更し、新しい年代観を交えながら検討しておきたい。

長江中・下流域で発生した稲作は4000年前には山東半島まで北上した。亜熱帯で発生した稲作が低温地域に適応を果たし北上するのに数千年を要したということであろう。
(このことは第2部-02節の「中国の考古学データに基づく稲作の起源」を参照頂きたい)

 4000年前中国では殷(商)王朝が興り、さらに厳しい寒冷化が襲った3000年前には周王朝が殷王朝にとって代わった。このころ水田稲作技術は南朝鮮まで達し、ほどなく西北九州に伝播した。
 中国ではこの後周王朝の力が衰え、いわゆる春秋戦国時代(BC770〜)の激動期を迎える。難民が各地に発生し、その一部は上図の如く日本列島にも達したことだろう。

 突帯文土器段階の水田稲作

 こういう大陸の方の時代の動きを感じつつ日本列島の稲作を観てゆこう。
菜畑ムラや曲り田ムラで始まった水田稲作は弥生早期(突帯文土器段階)の200年間に、列島にどのように展開したのだろうか。

 この図からわかるように水田址が認められる遺跡は殆どが西北九州に集中し、水田農耕文化の広がりが遅々としたものであったことが窺われる。
 以前に検討した江南地方との繋がりのあった地区--有明海沿岸や瀬戸内海沿岸地方--ではわずかに岡山の津島江道遺跡が認められるだけである。
 一方大阪付近では緑で示した遺跡と青で示した遺跡が集中している。その理由はよくわからないが筆者の推測では、雑穀栽培の一部として小規模の水田稲作や水陸未分化の稲作などが共存していたのではないかと思われる。

 いずれにしろこの時期、縄文的な文化伝統の枠内で原初的な水田稲作が部分的に取り入れられたに過ぎず、弥生早期人(縄文末期人)の水稲農耕導入の意欲はそれほど強くなく、大陸では周王朝が最盛期にあり、朝鮮半島や中国大陸からの渡来圧力も強いものではなかったと言っていいだろう。

  本格的水田稲作時代の始まり

 菜畑・曲り田段階の次の画期はこの3部の最初に取り上げた板付遺跡段階であろう。ここに至って水田稲作農耕に生活基盤をおいた典型的な弥生文化が日本列島の西半分をおおうことになってくるのである。
 そして次に整理した理由から渡来したのはやはり南朝鮮の技術や人々、それに新しい考え方であった。

1.まず水田は菜畑の30uばかりの小規模な“湿

 田”(水はけが悪く、一年中水の抜けない田)では

 なく、板付は1区画が400uもある堂々とした

 “乾田”である。乾田とは水を注いだ時はまさ

 に水田であり、水を抜いたときは乾いた田圃にな

 るという現代と全く同じ高度な水田技術である。

 給排水等の利水技術など格段に向上した技術が
 
伝播したのである。
2.つぎにムラの形成に環壕集落という新しい概念が持ち込まれた。板付遺跡ではまず弥生早
 期(夜臼式期)の段階で台地全体(370m×170m)を囲む外壕が造られた。つぎに弥生前期
(板付T式期)に内壕(110m×81m)が掘られた。
  板付遺跡・・内壕部分が良く判る)
寺沢薫は環壕の目的を防御機能におくのではなく、ムラの団結力の維持・強化にあったのではないかとしている。すなわち外壕は居住区域と水田区域を分けるという意味だけでなく、“身内”を認識し「うち」と「そと」の世界を明確にしようという意図があったと考えている。また内壕は首長などの特定の人々と一般のヒト、あるいは聖なるものと俗なるものを分ける境界の意味があったといている。すなわち階層差が発生し始めたのである。
(環壕が戦いのバリケードの役割をもつのはもう少し後の時期になる)

 1990年、慶尚南道蔚山(いざん)市で韓国無文土器時代中期の検丹里遺跡が発掘された。この遺跡で環壕集落が見つかり、板付遺跡のような環壕集落が水稲農耕とともに朝鮮半島南部から伝来したことが確実視されている。

3.生活用具にも大きな変化が現れた。縄文土器に代わって焼成温度が高く、文様の少ない素
 焼きの所謂“弥生土器”が誕生する。弥生土器は朝鮮南部の無文土器から形や製作技術を
 取り入れて造られた。
 (右の写真は弥生土器の最初期の板付T式

 のセットである。弥生土器の最大の特徴

 である“壺”も無文土器時代中期(松菊里

 式)の影響を受けている。---福岡市埋蔵

 化財センター提供
)
 

4.板付遺跡の北東約8kmのところに江辻遺跡(福岡県粕屋町江辻)という板付と同時期の環
 壕集落がある。この遺跡からは多くの縄文系遺物が出土しているが、住居の一角に11軒の
 「松菊里型住居」が集まっていたことが判明した。
  このことから環壕の中に朝鮮半島南部からの渡来人が独立した形で同居していたこと
 が推察されるのである。
  寺沢薫は述べている---これ以降、この松菊里型住居は中期前半まで西日本各地の弥生
 集落にその痕跡をとどめている。渡来人の数世代後の子孫が東へと移住しながらも、かた
 くなにその住居構造を守っていったのであろう。和歌山県御坊市の堅田遺跡は、渡来人た
 ちが前期前半には早くも近畿地方にまで及んだことを示している。松菊里型住居だけでな
 く、三重の環壕もしっかりとめぐらされ、中期初めには青銅器生産も行っていた---
 次図は松菊里型竪穴住居の分布図である。渡来人が北九州から西日本全域に分布していった状況が良く判る。


 
  弥生 初期の渡来人とは?

 今、筆者は新しい年代観を踏まえつつ、初期の“渡来人”がどういう人々であったかを調べてきた。
 前節でも触れたように彼等は3000年前、朝鮮半島南部にいた人々であった。
縄文時代から長く北部九州の漁労民と繋がりのあった南部朝鮮の漁労民が、渡海の手助けをしたり、自らも水稲の技術を身につけ渡来してきた。
 また彼等は松菊里型竪穴住居で石器製作など行った専門的技術をもった人々もいたようだ。松菊里型竪穴住居では次の絵のような作業が行われていたらしい。
   (松菊里型住居は「ものづくり工
 房ではなかったかと想像されて
 いる。
 また日本列島においては中央の
 炉や両端の柱穴が採暖や調理に
 適合した炉ではなかったかと考
 えられている。・・愛知県埋蔵
 文化財センターの説明より)



 (
埋蔵文化財愛知no.55より引用)
彼等は技術者として水稲農耕技術をも習得し、縄文人に請われたり、あるいは自ら北部九州に新天地を求めて“渡来”してきた人々であった。
 もちろんそういう特定集団ではなく、水稲技術をもって大陸の混乱から逃れ、山東半島から直接あるいは南朝鮮経由で北部九州に渡来した人々も多かったに違いない。
  そういう人々がおそらく何波にもわたって、何世代にもわたって、北部九州から西日本に渡来してきた。弥生初期の渡来人とはそういう人達ではなかったかと考えるのである。

  遠賀川式土器の拡散

 従来、北部九州に伝播した水田稲作は2〜3世代、ほぼ半世紀で西日本一帯に広がった、すなわち驚異的な速さで西日本一帯を縄文世界から弥生世界に変えたというのがこれまでの一般的考えであった。当然いわゆる渡来人も恐ろしいほどの勢いで列島の西半分を席巻した、という歴史観が支配していた。
 しかし菜畑・曲り田段階の水田稲作が確認され、日本列島への伝播時期が2〜300年遡るとその歴史観は少々緩和された。そして今回の歴博の500年におよぶ年代見直しである。
 いまや日本列島に伝播した水田稲作は徐々に、あるときは急速に、あるときは息をつきながら列島各地に広がっていったと言い直さなければならないだろう。
 これまで検討してきた水田稲作伝来の年代を簡明に纏めると次のようになる。

 この年代観の変更にもかかわらず遠賀川式土器の拡散はかなり早かったようである。
 1931年、福岡県中央部を南から北に流れ響灘に注ぐ遠賀川の川底(水巻町立屋敷遺跡)から紋様豊かな弥生土器が発見されて注目された。それまで北部九州では紋様を持つ弥生土器はほとんど知られていなかったからである。
 この立屋敷の土器と共通する土器が中国・四国から

近畿地方にいたる各地の遺跡に存在することが注目さ

れ「遠賀川式」と命名された。そしてこの遠賀川式土

器が弥生土器の中でも古い位置を占めることが明らか

となり、その時期を「前期」と呼び、遠賀川式土器は

前期弥生土器の別称となった。

 しかも遠賀川式土器が出土するムラこそその地の最初

の水田農耕のムラであって、米そのものだけでなく農

具類なども出土する。

 そしてこの遠賀川式土器は下図分布地域内で較べると

   
驚くほど似ているのである。
 土器は時間的・空間的に変化しやすい性格を持っている。にもかかわらず遠賀川式土器が変化せずに北部九州から愛知県西部まで分布していることは、すくなくとも2,3世代、約半世紀ほどの短期間に拡散したことを物語る。

 またこのことは遠賀川式土器を作り使った人々と現地の縄文人が大きな文化的摩擦を惹き起こすことなく新しい農耕とその文化を受け入れたと考えられるのである。
 
 遠賀川式土器を作り使った人々とは渡来系弥生人であり、あるいは新規に渡来してきた人々であったろう。すなわちこの時期、大陸では周王朝が衰え春秋(東周)の覇権争奪の時代に入っており、朝鮮半島や中国大陸からの渡来圧力がかなり強かったと思われる。したがってかなり多数の渡来人が日本列島にやってきたと考えられるであろう。
 それが人口急増時代にあった北部九州からの東進集団との間に耕作地獲得競争を生み、急速に遠賀川式土器の拡散をもたらしたと考えられるのである。
 
 一方新しい農耕文化を摩擦なく受け入れられた背景には、先に調べた突帯文土器段階の原初的水田稲作の知識がすでにこの地域に広がっていたことも大きかったに違いない。上図を見れば明らかなように突帯文土器の分布圏と遠賀川式土器の分布圏がピッタリと一致することが何よりの証拠であろう。
 
 

         
         
         

 

 
    
 

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